[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]

●南伐再開
 9月、己酉(21日)、太白(金星)が南斗の領域に入った。

 乙卯(27日)、北周が酆王貞を大冢宰とした。
 貞は字を乾雅といい、〔明帝北周二代皇帝)の第二子で、畢王賢の弟である〕。初め酆国公とされ、建徳三年(574)に爵位を王に進められた。

 また、上柱国・〔徐州総管・〕鄖国公の宇文孝寛韋孝寛を行軍元帥とし、杞公亮・郕国公の梁士彦を行軍総管として陳討伐に赴かせた。
 また、御正中大夫の杜杲と儀同・礼部の薛舒西魏の中書侍郎の薛憕の子)を陳への使者とした(目的不明)。

○周宣帝紀
 九月己酉,太白入南斗。乙卯,以酆王貞為大冢宰。上柱國、鄖國公韋孝寬為行軍元帥,率行軍總管𣏌國公亮、郕國公梁士彥以伐陳。遣御正杜杲、禮部薛舒使於陳。
○周13酆王貞伝
〔明帝三男。徐妃生畢剌王賢,後宮生酆王貞〕酆王貞,字乾雅。初封酆國公。建德三年,進爵為王。大象初,為大冢宰。
○周31韋孝寛伝
 又為行軍元帥,狥地淮南。
○周39杜杲伝
 後四年,遷溫州刺史,賜爵義興縣伯。大象元年,徵拜御正中大夫,復使於陳。
○周38薛舒伝
〔薛憕〕子舒嗣,官至禮部下大夫、儀同大將軍、聘陳使副。

 ⑴畢王賢…字は乾陽。生年559、時に21歳。北周二代皇帝の明帝(武帝の兄)の長子。母は徐妃。564年に畢国公とされ、574年に王に進められた。のち華州刺史とされた。575年、荊州総管とされた。578年、大司空とされた。579年、上柱国・雍州牧→太師とされた。579年(2)参照。
 ⑵宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に71歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年、北斉が滅ぶと長安に帰って大司空とされ、のち延州総管・上柱国とされた。579年、徐州総管とされた。579年(2)参照。
 ⑶杞公亮…字は乾徳。晋公護の兄の宇文導の次子。同じ宇文顥系の子孫であることから護から重用を受け、護の子どもたちと共に贅沢をほしいままにした。563年~568年頃に梁州総管を務め、のち宗師中大夫とされた。571~574年、秦州総管とされ、亡兄の豳公広の部下を全て配されたが、全く政績を挙げることができなかった。のち、柱国とされた。護が誅殺されると不安を覚え、酒に溺れた。576年の東伐の際、右二軍総管とされた。晋陽を陥とすと上柱国とされた。577年、大司徒とされた。579年、安州総管とされた。578年(3)参照。
 ⑷梁士彦…字は相如。生年515、時に65歳。安定烏氏の人。若い頃は不良で州郡に仕えず、剛毅果断な性格で悪人を懲らしめる事を好んだ。また、読書家で、特に兵法書を好んだ。武帝に勇猛果断さを評価されて九曲(洛陽の西南)鎮将・上開府・建威県公とされ、のち熊州刺史とされた。帝が北斉の晋州を陥とすと晋絳二州諸軍事・晋州刺史とされ、晋州の防衛を託された。間もなく北斉の後主自らが攻撃を仕掛けてきたが、武帝の救援軍が来るまで見事に耐え切った。北斉が滅ぶと柱国・郕國公・雍州主簿とされた。のち東南道行台・徐州総管・三十二州諸軍事・徐州刺史とされた。間もなく陳が攻めてくると野戦を挑んで敗れ、籠城戦に切り替えた。間もなく援軍の王軌と共に陳軍を大破した。578年(3)参照。
 ⑸杜杲…字は子暉。関中の名家の出。学問に造詣が深く、国政に当たることのできる才略を有し、族父の杜瓚に「我が家の千里の駒」と評された。修城郡守となった時、叛徒の包囲を受けたが、住民に非常に信頼されていたため一人も内応者を出さなかった。561年、使者として陳に赴き、和平交渉をよくまとめた。562年にも安成王頊(宣帝)に付き添って陳に赴いた。566年にも陳に赴いた。571年頃にも陳に赴き、和平交渉をよくまとめた。572年にも陳に赴き、北斉討伐の約束を取り付けた。のち温州刺史とされ、今年御正中大夫とされた。572年(4)参照。

●雑技公演
 冬、10月、壬戌(4日)、歲星(木星)が軒轅大星(レグルス)を侵した。

 この日、北周の天元帝が道会苑に赴き、大醮(夜中に星辰の下に酒や乾し肉などの供物を並べて神を祭り、祈願の内容を書いた文章を焼いて天に奏上するもの)を行なった。この時、同時に高祖武帝(天元の父)も祀った。大醮が終わると、仮の宮殿にて議論を行なった。
 この年、帝は〔父が破壊していた〕仏像と天尊像(道教の尊像)を修復しており、ここに至って二像と共に南面して座り、雑技団に大規模な公演を行なわせ、長安の士民たちに自由に見物させた。
 
 甲戌(16日)、陳が安前将軍(三品相当)・祠部尚書の晋安王伯恭の将軍号を進めて()軍師将軍(四品相当)・尚書右僕射とし、尚書僕射の陸繕を尚書左僕射・領揚州大中正とした。
 また、別に勅を下し、陸繕や〔丹陽尹?の〕徐陵ら七人を政事に参与させた。

 乙酉(27日)、熒惑と鎮星(土星)が虚宿(みずがめ座β・こうま座α)にて合わさった。

○周宣帝紀
 冬十月壬戌,歲星犯軒轅大星。是日,帝幸道會苑大醮,以高祖武皇帝配。醮訖,論議於行殿。是歲,初復佛像及天尊像。至是,帝與二像俱南面而坐,大陳雜戲,令京城士民縱觀。乙酉,熒惑、鎮星合於虛。
○陳宣帝紀
 冬十月甲戌,以安前將軍、祠部尚書晉安王伯恭為軍師將軍,尚書僕射陸繕為尚書左僕射。
○陳23陸繕伝
 重授左僕射,領揚州大中正,別勑令與徐陵等七人參議政事。
○陳28晋安王伯恭伝
 九年,入為安前將軍、祠部尚書。十一年,進號軍師將軍、尚書右僕射。

 ⑴天元帝…宇文贇。もと北周の四代皇帝の宣帝。字は乾伯。生年559、時に21歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。のち、帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて杖で打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。578年、帝が死ぬと跡を継いで宣帝となり、斉王憲や烏丸軌ら功臣を次々と誅殺した。579年、7歳の幼子に譲位して天元帝を名乗り、一人称を『天』とした。579年(2)参照。
 ⑵晋安王伯恭…字は肅之。文帝の第六子。母は厳淑媛。565年に晋安王に封ぜられた。のち呉郡太守とされると、十余歳の身ながら職務に精励して役所をよく治めた。569年に中護軍・安南将軍とされ、のち中領軍→中衛将軍・揚州刺史とされたが、事件に連座して免官となった。572年、復帰して安左将軍→鎮右将軍・特進とされた。574年、安南将軍・南豫州刺史とされた。577年、安前将軍・祠部尚書とされた。574年(1)参照。
 ⑶陸繕…字は士繻。生年518、時に62歳。名門呉郡陸氏の出身。承聖年間(552~555)に中書侍郎・掌東宮管記とされ、江陵が西魏に陷とされると建康に逃亡した。のち給事黄門侍郎や侍中、新安太守とされ、陳の文帝が即位すると太子中庶子・掌東宮管記とされた。容姿端麗で立ち居振る舞いにも品があったので、帝の子どもたちの手本とされた。陳宝応を滅ぼすと(564年)、建安太守とされた。のち御史中丞とされ、太建の初め(569)に度支尚書・侍中・太子詹事・行東宮事・領揚州大中正とされた。575年に尚書右僕射、576年に左僕射とされた。578年、尚書僕射とされた。578年(1)参照。
 ⑷徐陵…字は孝穆。名文家の徐摛の子。生年507、時に73歳。もと梁の臣。文才があり、庾信と並び称された。また、弁舌にも長けた。548年に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発すると抑留され、555年に帰国を許された。565年に御史中丞とされると、権勢を誇っていた安成王(宣帝)の部下を容赦なく弾劾した。566年、吏部尚書とされると公平な任用を行ない、曹魏の毛玠に比せられた。569年に右僕射、570年に尚書僕射、572年に左僕射とされた。陳が北伐を行なうと、呉明徹を元帥に推薦した。575年、仕事上のいざこざにより、侍中・僕射を解任された。間もなく領軍将軍→太子詹事とされた。578年、再び領軍将軍とされた。間もなく丹陽尹とされた。578年(1)参照。

●段徳挙ら誅殺
 この月、北周の相州(もと北斉の司州)の鄴にて段徳挙高元海らが叛乱を企てたという理由で誅殺された。
 徳挙は段韶の第三子で、北斉の武平(570~576)の末に儀同三司とされた。

 11月、辛卯(4日)、陳が大赦を行なった。

○周宣帝紀
 是月,相州人段德舉謀反,伏誅。
○陳宣帝紀
 十一月辛卯,詔曰:「…可大赦天下。」
○北斉14高元海伝
 周建德七年,於鄴城謀逆,伏誅。
○北斉16段徳挙伝
 韶第三子德舉,武平末,儀同三司。周建德七年,在鄴城與高元海等謀逆,誅。

 ⑴高元海…高歓の甥の子。かつて林慮山に引きこもり、二年に渡って仏典の研究に打ち込んだが、結局諦めて俗界に復帰した。知恵者を自認し、酒を飲まず肉も食べず、北斉の文宣帝や後主に生贄や造酒を禁止させた。武芸に通じておらず軟弱者と言われていたが、柔然征伐の際に文宣帝が奇襲を受けると、奮戦して危機から救った。560年、孝昭帝のクーデターに協力し、鄴の留守を任された。帝が死ぬと武成帝の即位に貢献し、宰相とされた。のち、平秦王帰彦の追放に貢献した。563年、和士開と対立し、兗州刺史に左遷された。のち并州吏部尚書とされ、後妻の姪の陸令萱が出世すると中央に呼び戻され、572年、尚書右僕射とされたが、やがて祖珽との政争に敗れて鄭州に飛ばされた。576年、鄴陥落前に中央に呼び戻されて尚書令とされた。576年(5)参照。
 ⑵段韶…字は孝先。?~571。北斉の婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色でケチな所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。571年、病の床に就きながらも北周の汾州を陥とした。間もなく死去した。

●寿陽包囲

 これより前、陳討伐に赴いていた北周の行軍元帥の宇文孝寛韋孝寛)は、行軍総管の杞公亮に安陸より黄城(陳の南司州)に、同じく行軍総管の梁士彦に広陵(陳の南兗州)にそれぞれ向かわせ、自らは寿陽(陳の豫州)に向かっていた。
 甲午(7日)、士彦が肥口(寿陽の北)に到った。
 この時、上開府・郢州(竟陵)刺史の万紐于顗は水軍総管とされて淮南攻略に参加していた。顗は開府の拓跋紹貴元紹貴)、上儀同の毛猛らと共に水軍を率いて潁口より淮水に入った。
〔柱国・豫州総管・〕化政公の宇文忻は〔上開府・鄴県公〕の宇文弘度崔弘度)、〔儀同・小〕司水の賀婁子幹と共に肥口に到り、陳の防主の潘琛或いは潘深)が率いる数千の兵と淮水を隔てて対陣した。忻が弘度を派して抵抗の無意味さを説かせると、琛は夕べ頃に砦を放棄して撤退した。

 乙未(8日)、北周の天元帝が〔長安の東の〕温湯に赴いた。
 戊戌(11日)、同州(長安の東北二百八十里)に赴いた。

 初め宇文孝寛が淮南に到着した時、淮南の人々は次々と内通の使者を送ってきたが、孝寛は〔これに安心して油断することなく、〕こう考えた。
「陳軍が五門堰を決壊させてくると、我が軍の進路が断たれてしまう。」
 かくて直ちに兵を派遣してこれを占拠させた。間もなく、果たして陳の豫州刺史の呉文立或いは文育)が堰を決壊させに兵を派遣してきたが、既に防備が固められていたためどうすることもできなかった。
 この日、孝寛軍が寿陽を包囲した。

○周宣帝紀
 十一月乙未,幸溫湯。戊戌,行幸同州。
○陳宣帝紀
 甲午,周遣柱國梁士彥率眾至肥口。戊戌,周軍進圍壽陽。
○周31韋孝寛伝
 又為行軍元帥,狥地淮南。乃分遣杞公宇文亮攻黃城,郕公梁士彥攻廣陵,孝寬率眾攻壽陽,竝拔之。初孝寬到淮南,所在皆密送誠款。然彼五門,尤為險要,陳人若開塘放水,即津濟路絕。孝寬遽令分兵據守之。陳刺史吳文育果遣決堰,已無及。於是陳人退走,江北悉平。
○隋74崔弘度伝
 宣帝嗣位,從鄖國公韋孝寬經略淮南。弘度與化政公宇文忻、司水賀婁子幹至肥口,陳將潘琛率兵數千來拒戰,隔水而陣。忻遣弘度諭以禍福,琛至夕而遁。

 ⑴宇文忻…字は仲楽。生年523、時に57歳。大司馬・許国公の宇文貴の子。幼い頃から利発で、左右どちらからでも騎射する事ができ、「韓信・白起らは大したことがない。自分の方が上手くやれる」と大言壮語した。542年、韋孝寛が玉壁の鎮守を任されると、そこで数多くの戦功を立てて開府・化政郡公とされた。576年、東伐中にたびたび退却しようとする武帝を何度も諌めた。北斉を滅ぼすと大将軍とされた。陳が徐州に侵攻してくると精鋭の騎兵を率いて蕭摩訶と戦った。間もなく王軌と共に陳軍を大破し、柱国・豫州総管とされた。578年(1)参照。
 ⑵温湯…《読史方輿紀要》曰く、『華清宮は長安の東七十里→臨潼県の東南にある。《志》曰く、驪山の西北に温泉がある。これは今の臨潼県の南百五十步にある。秦始皇の初めに宮殿が建てられ、前漢の武帝が更に装飾を加えた。《十道志》曰く、温泉は三ヶ所あり、天和四年(569)に宇文護がその内の一ヶ所に宮殿と石井(石で囲まれた温泉)を造った。』
 ⑶五門堰…《読史方輿紀要》曰く、『芍陂にはむかし五門堰があった。芍陂は寿州(寿陽)の西南六十里→安豊城の南百步にある。』

●勇者崔弘度
 宇文弘度崔弘度)は字を摩訶衍といい、北周の敷州刺史の宇文説崔説の子である。人並み外れた筋力と逞しい体躯を持ち、髭や容貌は非常に立派だった。また、非常に厳しい性格をしていた。十七歳の時に北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて親信とされ、間もなく都督とされ、更に大都督とされた。
 護の子の中山公訓が蒲州刺史とされると(566年?)、その従者とされた。ある時、訓と一緒に望楼に登った。その最上階は地面から四、五丈(10~12m)の高さがあった。訓は下を眺めてこう言った。
「恐るべき高さだ。」
 すると弘度は言った。
「これくらいの高さ、恐れるに足りません!」
 かくて突然地上に飛び降りたが、傷一つ負わなかった。訓はその勇気と身軽さを大いに褒め称えた。
 のち、戦功を立てて儀同とされた。のち北斉討伐に参加して上開府・鄴県公とされ、三千段の反物と三千石の穀物、百人の奴隷、四桁に上る家畜を与えられた。間もなく汝南公神挙と共に范陽の盧昌期の乱(578年)を平定した。

 万紐于顗は字を元武といい、〔柱国・燕国公の〕万紐于寔于寔の子である。八尺の長身で、髭と眉毛が美しかった。北周の大冢宰の宇文護に高く評価され、その末娘を娶った。間もなく父の勲功によって新野郡公(邑三千戸)とされた。のち大都督とされ、更に車騎大将軍・儀同三司とされた。その後、たびたび戦功を立てて上開府とされ、左右宮伯・郢州刺史を歴任した。

 賀婁子幹生年534、時に46歳)は字を万寿といい、鮮卑人である。先祖は北魏の洛陽遷都ののち関中に居住するようになった。祖父の賀婁道成は西魏で侍中・太子太傅、父の賀婁景賢は北周で右衛大将軍を務めた。
 子幹は若年の頃より勇敢さを以て名を知られた。北周の武帝の時(560~578)に出仕して司水上士とされると、能吏の評判を得た。のち昇進して小司水とされると、これまでの勤務態度を評価されて思安県子とされた。間もなく使持節・儀同大将軍とされ、今年、軍器監を兼任した。

○隋53賀婁子幹伝
 賀婁子幹字萬壽,本代人也。隨魏氏南遷,世居關右。祖道成,魏侍中、太子太傅。父景賢,右衞大將軍。子幹少以驍武知名。周武帝時,釋褐司水上士,稱為強濟。累遷小司水,以勤勞,封思安縣子。俄授使持節、儀同大將軍。大象初,領軍器監。
○隋60于顗伝
〔于仲文兄〕顗字元武,身長八尺,美鬚眉。周大冢宰宇文護見而器之,妻以季女。尋以父勳,賜爵新野郡公,邑三千戶。授大都督,遷車騎大將軍、儀同三司。其後累以軍功,授上開府。歷左、右宮伯,郢州刺史。
○隋74崔弘度伝
 崔弘度字摩訶衍,博陵安平人也。祖楷,魏司空。父說,周敷州刺史。弘度膂力絕人,儀貌魁岸,鬚面甚偉。性嚴酷。年十七,周大冢宰宇文護引為親信。尋授都督,累轉大都督。時護子中山公訓為蒲州刺史,令弘度從焉。嘗與訓登樓,至上層,去地四五丈,俯臨之,訓曰:「可畏也。」弘度曰:「此何足畏!」歘然擲下,至地無損傷。訓以其拳捷,大奇之。後以戰勳,授儀同。從武帝滅齊,進位上開府,鄴縣公,賜物三千段,粟麥三千石,奴婢百口,雜畜千計。尋從汝南公宇文神舉破盧昌期於范陽。

 ⑴宇文説(崔説)…本名は士約。512~575。北周の荊州総管の崔謙の弟。剛直な性格で膂力に優れ、騎射を得意とした。賀抜勝が南道大行台・荊州刺史とされた時(533年頃)に防城都督とされ、勝が梁に亡命すると兄と共にこれに付き従い、のち共に西魏に帰国した。のち都督とされ、恒農・沙苑の戦いに活躍した。のち帥都督→大都督→儀同三司・都官尚書・定州大中正とされ、宇文氏の姓と説の名を与えられた。のち開府儀同三司・万年県公→隴州刺史→涼州総管とされた。斉公憲が北斉と戦う際(569~570年)、行軍長史とされた。軍が帰る際、崇徳防主・大将軍・安平県公とされた。575年、死去した。575年(3)参照。
 ⑵万紐于寔(于寔)…字は賓実。柱国・太傅の万紐于謹の子。温和な性格。開府儀同三司・渭州刺史を務め、555年に羌族の東念姐らの乱を平定した。北周建国後に大将軍・勲州刺史→小司寇とされ、567年に延州の郝三郎らの叛乱を平定し、延州刺史とされた。570年、父の爵位の燕国公を継ぎ、柱国とされた。571年、涼州総管とされた。575年、免官に遭った。のち復官して涼州総管とされた。575年(1)参照。

●陳の迎撃
 辛丑(14日)、陳が車騎将軍・開府儀同三司・南兗州刺史の淳于量を上流水軍都督とし、中領軍の樊毅を安北将軍・都督北討諸軍事とし、散騎常侍・左衛将軍の任忠を平北将軍・都督北討前軍事(北討軍の前軍を司る)とした。
 また、前豊州(今の福建省東部)刺史の皐文奏に三千の兵を与えて陽平郡に赴かせた。

 壬寅(15日)、北周の天元帝が長安に帰った。

 癸卯(16日)、陳が任忠に七千の兵を与えて秦郡に赴かせた。
 丙午(19日)、新除仁威将軍・右衛将軍の魯広達に兵を与えて淮水に入らせた。また、樊毅に二万の水軍を与えて東関より焦湖(巣湖)に入らせた。また、武毅将軍の蕭摩訶に歴陽に赴かせた。

○周宣帝紀
 壬寅,還宮。
○陳宣帝紀
 辛丑,以車騎將軍、開府儀同三司、南兖州刺史淳于量為上流水軍都督;中領軍樊毅都督北討諸軍事,加安北將軍;散騎常侍、左衞將軍任忠都督北討前軍事,加平北將軍;前豐州刺史皐文奏率步騎三千趣陽平郡。癸卯,任忠率步騎七千趣秦郡。景午,新除仁威將軍、右衞將軍魯廣達率眾入淮。是日,樊毅領水軍二萬自東關入焦湖,武毅將軍蕭摩訶率步騎趣歷陽。

 ⑴淳于量…字は思明。生年511、時に69歳。幼い頃から如才なく、姿形が立派で、才略に優れ、弓馬の扱いに秀でていた。梁の元帝の王時代からの部下で、王僧弁と共に巴陵を守備し、侯景を撃退した。元帝が即位すると桂州刺史とされ、以後そこに割拠し、陳と梁どちらにも使者を通じた。564年、陳に中撫軍大将軍とされて徴召を受けたが、逡巡してなかなか行こうとせず、566年にようやく建康に到着した。567年5月、西道大都督とされて華皎討伐に赴き、平定に成功した。568年、中軍大将軍→南徐州刺史とされた。571年、梁の陵墓の樹を買った事を咎められ、侍中の職を解かれた。のち復帰し、573年、中権大将軍とされた。574年、郢州刺史とされ、575年、中軍大将軍・護軍将軍とされた。578年に呉明徹が大敗を喫すると総水陸諸軍事とされ、更に車騎将軍・南兗州刺史とされた。578年(1)参照。
 ⑵樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。清口に城を築いて北周と戦ったが撃退された。のち中領軍とされた。578年(3)参照。
 ⑶任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。今年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。579年(2)参照。
 ⑷魯広達…字は遍覧。群雄の魯悉達の弟。生年約531、時に約49歳。王僧弁の侯景討伐に従軍した。562年、周迪討伐に参加し、一番の武功を立てて呉州刺史とされた。567年、南豫州刺史とされた。華皎との決戦の際には先陣を切って奮戦し、戦後に巴州刺史とされた。570年、青泥にある後梁・北周の船を焼き払った。巴州では善政を行ない、官民の請願によって任期が二年延長された。北伐では大峴城にて北斉軍を大破し、西楚州を陥として北徐州刺史とされた。のち右衛将軍とされ、576年に北兗州刺史とされ、のち晋州刺史とされた。578年、合州刺史とされた。578年(3)参照。
 ⑸蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に48歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。578年(1)参照。

●江北陥落
 戊申(21日)呉文立が北周に降り、豫州(寿陽)が陥落した。このとき宇文弘度が最も功を挙げた。

 北周の上開府の万紐于顗は〔上儀同の〕李子雄に軽騎数百を率いて硤石に到らせた。子雄が説得すると十余城が降った。硤石の守将の許約も周軍の武威を恐れて降伏した。
 また、〔上開府・治東楚州事の〕楊素が盱眙・鍾離(陳の北徐州)を陥とした(詳細な時期は不明)。

 己酉(22日)、枡ほどの大きさの流星が張宿(うみへび座)より現れて東南に流れた。その光は地を照らした。

 辛亥(24日)、陳の霍州が陥落した。
 癸丑(26日)、陳が新除中衛大将軍・揚州刺史の始興王叔陵を大都督とし、水陸諸軍の総指揮をさせた。

 この月杞公亮が黄城を陥とし、梁士彦が広陵を陥とした。
 この時、亮は長江沿岸の村々を荒らして住民を拉致し、将兵に与えた。
 また、宇文忻宇文擒虎韓擒虎が合州(合肥)を陥とした。

 これより前、北周は保定元年(561)七月に布泉銭を発行し、価値は永安五銖銭五枚相当とし、永安五銖銭と併用させていた。
 のち、盗鋳が相次いで布泉銭の価値が下落し、人々が使用しなくなると、建徳五年(576)に廃止した。この時、盗鋳の主犯者を絞首刑にし、従犯者を遠方に流罪にして雑戸(官有の賎民)とした(576年〈1〉参照)。
 北斉が滅びた後、山東の人々(もと北斉の人々)は依然として北斉の貨幣(常平五銖銭)を使用した。
 丁巳(30日)、北周が永通万国銭を発行した。価値は五行大布銭十枚と同等とし、永安五銖銭・五行大布銭と共に通行させた。


 縁江(淮?)都督・〔北?〕兗州刺史の宜黄侯慧紀が敗残兵を集め、海路を通って建康に退却した。

 12月、乙丑(8日)、陳の南兗(広陵)・北兗(淮陰)・晋三州および盱眙・山陽・陽平・馬頭(寿州の西北二十里)・秦・歴陽・沛・北譙・南梁ら九郡の兵が建康に逃げ帰った。譙・北徐州も陥落した。かくて、淮南の地はことごとく北周の手に落ちた。
 魯広達蕭摩訶ら陳の諸将は何もできずに引き返し、広達は免官に遭った。

 伐陳軍はこの戦いで数十もの城を攻め陥としたが、その成功は〔小内史・当亭県公の〕賀若弼の計謀に依る所が大きかった。弼はこの功により揚州(寿陽)刺史とされ、襄邑県公に改められた。

 陳の宣帝は諸侯であったとき大きな度量と才能を示したので、帝位に即いた際、人々は大いに期待を寄せた。これより前、梁が乱れた時、淮南の地はみな北斉に占領されており、帝は即位するとこの旧領の奪還を志した。のち神のごとき知略をめぐらし、機を見て兵を差し向けると、到る所で勝利を収め、遂に占領された土地を奪還する事に成功した。その功業はまことに偉大な物があった。しかし、北周が北斉を滅ぼした勢いに乗じて淮南の地に侵略してくると、再び長江沿岸にまで追いやられてしまったのだった。帝は大いに恐れ、すぐ建康の城壁の修築を行ない、防備を固めた。この時、ある銘文が発見された。それはこう書いてあった。
「二百年後、愚か者が我が城を直し、破壊するであろう。」
 人々はその意味を理解できなかった。

○周宣帝紀
 己酉,有星大如斗,出張,東南流,光明燭地。丁巳,初鑄永通萬國錢,以一當十,與五行大布竝行。是月,韋孝寬拔壽陽,𣏌國公亮拔黃城,梁士彥拔廣陵。陳人退走。於是江北盡平。
○陳宣帝紀
 戊申,豫州陷。辛亥,霍州又陷。癸丑,以新除中衞大將軍、揚州刺史始興王叔陵為大都督,總督水步眾軍。十二月乙丑,南北兖、晉三州,及盱眙、山陽、陽平、馬頭、秦、歷陽、沛、北譙、南梁等九郡,並自拔還京師。譙、北徐州又陷。自是淮南之地盡沒于周矣。…高宗在田之日,有大度幹略(本有恢弘之度),及乎登庸,寔允天人之望。梁室喪亂(于時國步初弭,創痍未復),淮南地並入齊,高宗太建初,志復舊境,乃運神略,授律出師,至於戰勝攻取,獻捷相繼,遂獲反侵地,功實懋焉(帝志復舊境,意反侵地,強弱之形,理則縣絕,犯斯不韙,適足為禽)。及周〔兵〕滅齊,乘勝〔而舉,〕略地還達江際矣。〔自此懼矣。既而修飾都城,為扞禦之備,獲銘云:「二百年後,當有癡人修破吾城者。」時莫測所從云。〕
○隋食貨志後周
 五年正月,以布泉漸賤而人不用,遂廢之。初令私鑄者絞,從者遠配為戶。齊平已後,山東之人,猶雜用齊氏舊錢。至宣帝大象元年十一月,又鑄永通萬國錢。以一當十,與五行大布及五銖,凡三品並用。
○周10杞公亮伝
 亮自安陸道攻拔黃城,輒破江側民村,掠其生口,以賜士卒。
○隋48楊素伝
 尋從韋孝寬徇淮南,素別下盱眙、鍾離。
○隋52韓擒虎伝
 又從宇文忻平合州。
○隋52賀若弼伝
 尋與韋孝寬伐陳,攻拔數十城,弼計居多。拜壽州刺史,改封襄邑縣公。
○隋54李徹伝
 宣帝即位,從韋孝寬略定淮南 ,每為先鋒。及淮南平,即授淮州刺史,安集初附,甚得其歡心。
○隋56宇文㢸伝
 其年,㢸又率兵從梁士彥攻拔壽陽,尋改封安樂縣公,增邑六百戶,賜物六百段,加以口馬。
○隋60于顗伝
 大象中,以水軍總管從韋孝寬經略淮南。顗率開府元紹貴、上儀同毛猛等,以舟師自潁口入淮。陳防主潘深棄柵而走,進與孝寬攻拔壽陽。復引師圍硤石,守將許約懼而降,顗乃拜東廣州刺史。
○隋74崔弘度伝
 進攻壽陽,降陳守將吳文立,弘度功最。以前後勳,進位上大將軍,襲父爵安平縣公。
○陳15陳慧紀伝
 周軍乘勝據有淮南,江外騷擾,慧紀收集士卒,自海道還都。
○陳31蕭摩訶伝
 十一年,周兵寇壽陽,摩訶與樊毅等眾軍赴援,無功而還。
○陳31任忠伝
 十一年,加北討前軍事,進號平北將軍,率眾步騎趣秦郡。
○陳31樊毅伝
 十一年,周將梁士彥將兵圍壽陽,詔以毅為都督北討前軍事,率水軍入焦湖。
○陳31魯広達伝
 十年,授使持節、都督合霍二州諸軍事,進號仁威將軍、合州刺史。十一年,周將梁士彥將兵圍壽春,詔遣中領軍樊毅、左衞將軍任忠等分部趣陽平、秦郡,廣達率眾入淮,為掎角以擊之。周軍攻陷豫、霍二州,南、北兖、晉等各自拔,諸將竝無功,盡失淮南之地,廣達因免官,以侯還第。

 ⑴硤石…《読史方輿紀要》曰く、『硤石には北硤石と南硤石があり、北硤石は寿州(寿陽)の西北二十五里にある。南硤石は廬江県の西南九十里→桐城県の北六十里あるいは四十七里にあり、石亭付近にある。』万紐于顗は水軍総管であるため、ここは淮水沿いの北硤石の事であろう。
 ⑵楊素…字は処道。生年544、時に36歳。故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。のち礼曹参軍とされ、大都督を加えられた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。578年、烏丸軌(王軌)に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。のち陳の清口城を陥とした。578年(2)参照。
 ⑶始興王叔陵…字は子嵩。生年554、時に25歳。宣帝の第二子。母は彭貴人。父が帰国したのちも人質として北周国内に抑留されたが、562年に帰国し、康楽侯とされた。幼少の頃から口が達者で、功名心が強く、腕白で負けず嫌いだった。568年、江州刺史とされると恐怖政治を行ない、逆らう者は罪に陥れたり死に追い込んだりした。569年、始興王とされた。572年に都督湘桂武三州諸軍事・湘州刺史とされると、ここでも暴政を行なった。574年、鎮南将軍とされた。のち、中衛将軍とされた。577年、都督揚徐東揚南豫四州諸軍事・揚州刺史とされた。578年(3)参照。
 ⑷宇文擒虎(韓擒虎)…字は子通。生年538、時に42歳。開府・中州刺史の宇文雄(韓雄)の子。あらゆる書物の大要に通じ、宇文泰に才能を認められてその子どもたちの遊び相手とされた。のち儀同・新安太守とされ、父と同じように河南の地で北斉と戦った。伐斉の際、父の宿敵だった独孤永業を説得して降伏させた。のち范陽の平定に参加し、上儀同・永州刺史とされた。578年頃に陳が光州に迫ると行軍総管とされ、これを撃退した。579年(3)参照。
 ⑸賀若弼…字は輔伯。生年544、時に36歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。烏丸軌と一緒に太子贇(天元帝)の悪行を告発した時、途中で態度を変えて軌に詰られた。576年(2)参照。
 ⑹宜黄侯慧紀…陳慧紀。字は元方。武帝(陳覇先)の従孫。読書家で、自分の才能に自信を持っていた。陳覇先の侯景討伐に従軍し、間もなく一部隊の指揮を任された。覇先が即位すると宜黄県侯・黄門侍郎とされ、文帝が即位すると安吉県令とされた。のち、海路から陳宝応を攻めた。567年、宣遠将軍・豊州刺史とされた。570年、水軍都督とされて青泥にある北周と後梁の艦船を焼き払った。578年、呉明徹が敗れると縁江都督・兗州刺史とされた。578年(1)参照。
 ⑺南史には『〔陳と北斉の〕強弱は明らかだったので、〔北朝を犯すという〕間違いを犯しても運良く容易に奪還することができた』とある。
 ⑻200年前付近には有名な淝水の戦い(383年)がある。東晋が前秦の侵攻に対抗するために城壁を修築した際、書かれたものなのかもしれない。

●文武両道
 李子雄は字を毗盧といい、名門の趙郡の李氏の出である。祖父の李榼コウ)は北魏に仕えて太中大夫となり、父の李徽伯)は東魏に仕えて陝州(弘農)刺史となり、のち西魏の攻撃に遭って捕らえられると、子雄も長安に連行された。
 子雄は若年の頃から気概があり、大志を抱いていた。李家は代々学問で身を立てていたが、子雄のみ騎射を習得した。すると兄の李子旦が責めて言った。
「文を棄てて武を尊ぶのは、士大夫のやる事では無いぞ。」
 子雄は答えて言った。
「歴史の偉人たちを見るに、文武両道で無い者が功業を成した例は少のうございます。私は馬鹿ですが、ちゃんと書物は読み漁っております。ただ、原文だけを読んで注釈を読んでいないから勉強していないように見えるだけであります。既に文武両道であるなら、兄上が心配する必要は無いでしょう!」
 子旦は言い返すことができなかった。
 宇文泰の時に出仕して輔国将軍とされ、達奚武の漢中平定・興州叛氐平定・汾州叛胡討伐に功を立てて驃騎大将軍・儀同三司とされた。北周が建国されると(557年)公とされ、小賓部とされた。のち、達奚武の指揮のもと北斉と邙山に戦い(564年)、北周軍が大敗を喫する中、一人損害を出さずに撤退する事に成功した。北周の武帝の時に陳王純と共に突厥に后を迎えに行き(565~8年)、爵位を進められて奚伯とされ()、硤州(夷陵)刺史とされた。数年後、本府中大夫とされた。間もなく涼州総管府長史とされた。のち滕王逌の指揮のもと青海にて吐谷渾を破り(576年)、功によって上儀同とされた。

○隋46李雄伝
 李雄字毗盧,趙郡高邑人也。祖榼,魏太中大夫。父徽伯,齊陝州刺史,陷于周,雄因隨軍入長安。雄少慷慨,有大志。家世並以學業自通,雄獨習騎射。其兄子旦讓之曰:「棄文尚武,非士大夫之素業。」雄答曰:「竊覽自古誠臣貴仕,文武不備而能濟其功業者鮮矣。雄雖不敏,頗觀前志,但不守章句耳。既文且武,兄何病焉!」子旦無以應之。周太祖時,釋褐輔國將軍。從達奚武平漢中,定興州,又討汾州叛胡,錄前後功,拜驃騎大將軍、儀同三司。閔帝受禪,進爵為公,遷小賓部。其後復從達奚武與齊人戰於芒山,諸軍大敗,雄所領獨全。武帝時,從陳王純迎后於突厥,進爵奚伯,拜硤州刺史。數歲,徵為本府中大夫。尋出為涼州總管長史。從滕王逌破吐谷渾於青海,以功加上儀同。宣帝嗣位,從行軍總管韋孝寬略定淮南 。雄以輕騎數百至硤石,說下十餘城,拜豪州刺史。

 ⑴李子雄…李徽伯の子は隋書では『李雄』とあり、北史では『李子雄』とある。また、李棠(李桃枝)の子は隋書では『李子雄』とあり、北史では『李雄』とある。李徽伯の長子の名は『李子旦』なので、恐らく徽伯の子の名が李子雄で、李棠の子の名が李雄なのが正しいだろう。

●束の間の慎み
 戊午(1日)、災異がしばしば発生したのを以て、天元帝は路寝(正殿)に赴き、百官と会って、詔を下して言った。
『上天は明察であり、人の行ないを見て吉凶を起こし、無闇に起こすことは無い。朕は徳が薄く、君主となったものの、善政を布く事ができなかった。小さな善行は行なったものの、それでは民の幸いにはならなかった。かくて、秋から冬にかけて凶兆が頻繁に現れ、深く戒めを為した。
 金星が南斗に侵入し(9月21日)、木星が軒轅を侵犯し(10月4日)、熒惑(火星)が房宿を干犯し、更に土星と合わさり(27日)、流星が夜を照らして東南に流れた(11月22日)。南斗は爵禄を司り、軒轅は後宮を司り、房宿は明堂を司り、天子が政治を行なう所に当たる(《晋書》天文志曰く、『房四星,為明堂,天子布政之宮也』)。火・土は災害の前兆で、流星は戦禍の前触れである。人事が公平でなく、女謁(後宮の女性が寵愛を利用して頼み事をする)が行なわれ、政治が当を得ていないのに、災いが訪れないわけがない。今回ほど戒めが明らかな例は無く、朕は天や民の怒りの強さを感じて、まことに身の縮む思いがする。
 そこで、朕は今より正殿を避けて別殿に忌み籠りし、煩悩を断ち切って、粗末な衣服を着、食事の量を減らし、装飾や楽器を取り去り、直言の道を開き、忌憚なき意見を受けることとする。また、刑罰や恩賞はみだりに行なわず、登用は才能を第一とし、後宮での行ないも慎むこととする。今、この意志を全国に伝え、官人らの強い輔佐を得て、民心を和合し、天罰を消し去りたいと思う。』
 かくて、近衛兵を連れずに天興宮に赴いた。のち、百官が上表して宮殿と食事の量を元に戻すよう求めると、これを聞き入れた。
 甲子(7日)、長安宮に帰った。正武殿に赴き、百官および内命婦(五品以上の女官)と外命婦(五品以上の官人の妻)を集め、妓女たちに大演奏会を行なわせた。また、胡人たちに『乞寒』(厳寒に行なう水かけ祭り)の胡戯を行なわせ、水をかけ合わせる様を見て楽しんだ。
 乙丑(8日)、洛陽に赴いた。帝は自ら駅馬に乗り、一日に三百里(長安から弘農まで四百五十里、弘農から洛陽まで三百里)を進んだ。四皇后と文武官・侍衛数百人も驛馬に乗って付き従った。帝は四后の馬車を横一列に並べて進ませ、前になったり後ろになったりするものがあれば、御者に叱責を加えた。このため人馬共に疲労し、路上で倒れるものが相次いだ。
 己卯(22日)、長安に帰った。

○周宣帝紀
 十二月戊午,以災異屢見,帝御路寢,見百官。詔曰:
 穹昊在上,聰明自下,吉凶由人,妖不自作。朕以寡德,君臨區㝢(宇),大道未行,小信非福。始於秋季,及此玄冬,幽顯殷勤,屢貽深戒。至有金入南斗,木犯軒轅,熒惑干房,又與土合,流星照夜,東南而下。然則南斗主於爵祿,軒轅為於後宮,房曰明堂,布政所也,火土則憂孽之兆,流星乃兵凶之驗。豈其官人失序,女謁尚行,政事乘(乖)方,憂患將至?何其昭著,若斯之甚。上瞻俯察,朕實懼焉。將避正寢,齋居克念,惡衣減膳,去飾撤懸,披不諱之誠,開直言之路。欲使刑不濫及,賞弗踰等,選舉以才,宮闈修德。宜宣諸內外,庶盡弼諧,允叶民心,用消天譴。
 於是舍仗衛,往天興宮。百官上表勸復寢膳,許之。甲子,還宮。御正武殿,集百官及宮人內外命婦,大列妓樂,又縱胡人乞寒,用水澆沃為戲樂。乙丑,行幸洛陽。帝親御驛馬,日行三百里。四皇后及文武侍衛數百人,竝乘驛以從。仍令四后方駕齊驅,或有先後,便加譴責,人馬頓仆相屬。己卯,還宮。

●宇文訳専権
 北周の内史上大夫・沛国公の宇文訳鄭訳は頗る専権を振るい、天元帝が東京(洛陽)に赴いている間、勝手に官有の木材を自分の邸宅の造営に使った。のちこの事が露見して官爵を剥奪され、庶民とされた。しかし、〔小御正の〕劉昉が帝に訳を復帰させるよう何度も説得すると、帝は再び訳を呼び寄せて元のように寵用し、領内史事とした。

○隋38鄭訳伝
 譯頗專權,時帝幸東京,譯擅取官材,自營私第,坐是復除名為民。劉昉數言於帝,帝復召之,顧待如初。詔領內史事。

 ⑴宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に40歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。贇が即位して宣帝となると開府・内史中大夫・帰昌県公とされ、朝政を委ねられた。579年、内史上大夫・沛国公とされた。579年(2)参照。
 ⑵劉昉…西魏の東梁州刺史の劉孟良の子。軽はずみでずる賢く、悪知恵が働いた。武帝の時に功臣の子を以て太子贇の傍に仕え、非常に気に入られた。贇が即位すると小御正とされた。578年(1)参照。

●倹約令
 己巳(12日)、陳の宣帝が詔を下して言った。
「戦争はいまだやまず、労役と賦税が共に民を苦しめ続けているのにも関わらず、官吏は欲望の赴くままに勝手に労役や賦税の規定を改めて人民を搾取している。また、旅館や市場での徴税が非常に重く、商人を圧迫しているが、官吏はそれを国家に提供するのではなく、ただ私腹を肥やすことに使っている。このような不正を改め、王道を広めていかなければ、民を苦しみから救うことはできない。よって今、〔朕自ら模範を示し、〕主衣・尚方(天子の剣や器物などの製造・修理をつかさどる)などの諸堂署において、国家運営に必要なもの以外は全て修理や製造をすることを禁止する事とする。後宮の女官も暇を持て余している者があれば、求めに応じて外に出す。大予楽の雑技や楽府の演目も、礼節に合わないものであれば、共に削除・改正する。估税(商品税)や津税は、国の法律に則って査定し直し、公平妥当な額になるようにせよ。建康郊外にある離宮のうち、頻繁に饗宴をする所でないものは修理をせずともよい。朝廷内外の文武官の馬車や住宅は質素にし、派手にしてはならない。これらに背く者がいれば刑罰を加える。担当官はこれらに関する詳細な条例を制定して掲示し、朕のこの心を了解させるようにせよ。」

 癸酉(16日)、陳が平北将軍〔・仮節・監南兗州〕の沈恪を散騎常侍・翊右将軍・監南徐州とし、長江沿岸の防衛を担当させた。また、電威将軍の裴子烈に五百頭の馬を与えてその補助をさせた。
 また、開遠将軍の徐道奴に柵江口(濡須口)を、前信州刺史の楊宝安に白下(石頭城の東北)をそれぞれ守備させた。
 戊寅(21日)、〔安北将軍・都督北討諸軍事とされて焦湖に向かっていたが引き返すことになった〕中領軍の樊毅を鎮西将軍・都督荊郢巴武四州水陸諸軍事(西方防衛指揮官)とした。

○陳宣帝紀
 己巳,詔曰:「…爟烽未息,役賦兼勞,文吏姦貪,妄動科格。重以旗亭關市,稅斂繁多,不廣都內之錢,非供水衡之費,逼遏商賈,營謀私蓄。靖懷眾弊,宜事改張。弗弘王道,安拯民蠹?今可宣勒主衣、尚方諸堂署等,自非軍國資須,不得繕造眾物。後宮僚列,若有游長,掖庭啟奏,即皆量遣。大予祕戲,非會禮經,樂府倡優,不合雅正,竝可刪改。市估津稅,軍令國章,更須詳定,唯務平允。別觀離宮,郊閒野外,非恆饗宴,勿復脩治。幷勒內外文武車馬宅舍,皆循儉約,勿尚奢華。違我嚴規,抑有刑憲。所由具為條格,標榜宣示,令喻朕心焉。」癸酉,遣平北將軍沈恪、電威將軍裴子烈鎮南徐州,開遠將軍徐道奴鎮柵口,前信州刺史楊寶安鎮白下。戊寅,以中領軍樊毅為鎮西將軍、都督荊郢巴武四州水陸諸軍事。
○陳12沈恪伝
 十一年,起為散騎常侍、衞尉卿。其年授平北將軍、假節,監南兖州。十二年,改授散騎常侍、翊右將軍,監南徐州。又遣電威將軍裴子烈領馬五百匹,助恪緣江防戍。
○陳31樊毅伝
 尋授鎮西將軍、都督荊郢巴武四州水陸諸軍事。

 ⑴陳の宣帝…陳頊(キョク)。陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に50歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。その後もたびたび北伐を行なったが、578年、北周に大敗を喫し、精鋭を全て喪失した。579年(2)参照。
 ⑵沈恪…字は子恭。生年509、時に71歳。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。陳覇先(武帝)と同郡の生まれで非常に仲が良く、王僧弁襲撃の際には事前に計画を知らされた。558年、周迪の救援に赴いた。559年、東南部の軍事を任された。561年、中央に召されて左衛将軍とされた。のち、郢州刺史とされた。565年に中護軍、566年に護軍将軍とされた。567年、荊州刺史とされたが赴任することなく、568年、護軍将軍とされた。569年、広州刺史とされたが、前刺史の欧陽紇が乱を起こしたため赴任できなかった。乱が平定されると広州に入り、善政を行なった。570年、鎮南将軍とされた。572年、領軍将軍とされて中央に呼び戻されたが、遅刻して免官とされた。今年、復帰を許されて散騎常侍・衞尉卿とされ、のち平北将軍・仮節・監南兗州とされた。572年(5)参照。
 ⑶裴子烈…字は大士。名門の河東裴氏の出で、梁の員外散騎常侍の裴猗の子。若年の頃に父を喪ったが、挫けることが無かった。梁末の混乱に遭うと武芸を習い、勇猛な事で名を知られるようになった。明徹の征討に加わると、常に先鋒を務めて敵陣を陥とした。のち北譙太守とされ、明徹の徐州攻めの際には馬軍主とされた。撤退の際には馬を船に乗せて逃がすより、兵を乗せて騎馬隊にし、陸路より包囲を突破させた方が良いと進言した。578年(1)参照。

●周法尚の亡命
 これより前(576年)、陳の平北将軍・定州(蒙籠。郢州の東北)刺史の周炅が死ぬと、陳はその子の周法尚字は徳邁。生年556、時に24歳)を監定州事とし、炅の兵を率いさせた。
 法尚は若年の頃から勇猛果敢で、風格があり、兵法書を愛読した。十八歳の時に始興王中兵参軍とされ、間もなく伏波将軍とされた。
 監定州事とされたのち数々の戦功を立て、使持節・貞毅将軍・散騎常侍・領斉昌郡事・山陰県侯(邑五千戸)とされた。間もなく、兄で武昌県公の周法僧と定州刺史を代わった。
 長沙王叔堅は法尚と仲が悪く、遂に宣帝にこう讒言した。
「法尚は叛乱を企てています!」
 帝はこれを信じ、法僧を捕らえたのち法尚に兵を向けた。法尚の部下はみな北周に亡命するよう勧めたが、法尚は決断できなかった。この時、長史の殷文則が言った。
楽毅が燕を辞去したのは、まことにやむを得ない理由があったからです。今の将軍の事勢もこの時と変わりありません。どうか早く決断なされますよう。」
 法尚はそこで北周に亡命した。北周の宣帝天元帝)は非常に手厚くもてなし、開府・順州刺史・帰義県公(邑千戸)とし、良馬五頭・妓女五人(北史では六人)・綾絹五百段・金帯を与えた(詳細な時期は不明。今回の南伐以前の事か)。
 陳将の樊猛が長江を渡って攻めてくると、法尚は部曲督の韓明北史では韓朗)に偽って投降させ、猛にこう嘘をつかせた。
「法尚の兵は北方に降ることを願っておらず、みな帰還することを望んでいます。もし官軍がやって来たら、必ずや戦わずに寝返ることでしょう。」
 猛はこれを信じ、急いで法尚を攻めた。法尚は恐れているように見せかけ、江曲に立て籠った。猛はこれにまんまと引っかかって法尚を攻めた。この時、法尚はあらかじめ浦中に軽舸部隊を、古村の北に精鋭をそれぞれ隠しておき、自らは旗や幟を立てて、川を遡って猛軍を迎え撃った。数度戦ったのち、法尚は偽退して陸に上がり、古村に向かった。猛が船を捨ててこれを追うと、法尚は数里の距離を急行軍し、村北の軍と合流して猛と戦った。猛は〔驚いて〕船に逃げたが、その時には既に浦中の軽舸部隊がその舟の楫を奪い、船の周りに法尚軍の旗や幟を立てていた。ここにおいて猛は大敗を喫し、身一つで逃れる羽目になった。法尚は八千の兵を捕虜とした。

○隋65・北76周法尚伝
 周法尚字德邁,汝南安成人也。祖靈起,梁直閤將軍、義陽太守、廬、桂二州刺史。父炅,定州刺史、平北將軍。法尚少果勁,有風概,好讀兵書。年十八,為陳始興王中兵參軍,尋加伏波將軍。其父卒後,監定州事,督父本兵。數有戰功,遷使持節、貞毅將軍、散騎常侍,領齊昌郡事,封山陰縣侯,邑五千戶。〔既而〕以其兄武昌縣公法僧代為定州刺史。法尚與長沙王叔堅不相能,叔堅言其將反。陳宣帝執禁法僧,發兵欲取法尚。其下將吏皆勸之歸北,法尚猶豫未決。長史殷文則曰:「樂毅所以辭燕,良由不獲已。事勢如此,請早裁之。」法尚遂歸于周。宣帝甚優寵之,拜開府、順州刺史,封歸義縣公,邑千戶。賜良馬五匹,女妓五(六)人,綵物五百段,加以金帶。陳將樊猛濟江討之,法尚遣部曲督韓明(郎)詐為背己奔于陳,偽告猛曰:「法尚部兵不願降北,人皆竊議,盡欲叛還。若得軍來,必無鬬者,自當於陣倒戈耳。」猛以為然,引師急進。法尚乃陽為畏懼,自保於江曲。猛陳兵挑戰,法尚先伏輕舸於浦中,又伏精銳於古村之北,自張旗幟,迎流拒之。戰數合,偽退登岸,投古村。猛捨舟逐之,法尚又疾走,行數里,與村北軍合,復前擊猛。猛退走赴船,既而浦中伏舸取其舟楫,建周旗幟。猛於是大敗,僅以身免,虜八千人。

 ⑴周炅…字は文昭。?~576。汝南安成の人。梁代に朱衣直閤→弋陽太守とされた。侯景の乱が起こると湘東王繹(元帝)に付き、西陽太守・高州刺史とされると武昌・西陽二郡にて精兵を集め、侯景軍の侵攻を何度も撃退した。552年、都督江定二州諸軍事・江州刺史とされた。のち王琳に付いたが、陳に敗れると降伏し、文帝の代に赦されて定州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。573年、西道都督・安蘄江衡司定六州諸軍事・安州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。北伐が行なわれると北斉領に侵攻し、一月の内に十二城を抜き、北斉の援軍を大破した。のち後任の定州刺史の田龍升が北斉に付くと、江北道大都督とされてこれを討伐し、ここにおいて江北の地は再び陳の手に戻った。定州刺史とされた。573年(5)参照。
 ⑵長沙王叔堅…字は子成。宣帝の第四子。母は酒家の下女の何淑儀。幼少の頃から悪賢く、乱暴で非常に酒癖が悪かったので兄弟たちから距離を置かれた。占いごとや風占い・お祓いなど神秘的なものを好み、金や玉の加工の技を極めた。天嘉年間(560~566)に豊城侯とされ、569年、長沙王・呉郡太守とされた。572年、宣毅将軍・江州刺史とされた。575年、雲麾将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。576年、平北将軍・合州刺史→平西将軍・郢州刺史とされた。今年、翊左將軍・丹陽尹とされた。576年(3)参照。
 ⑶順州…《読史方輿紀要》曰く、『西魏が順義に順州を置いた。順義城は安陸の東北四百六十里(または襄陽の東三百五十里)→隨州の北八十里にある。』
 ⑷樊猛…字は智武。樊毅の弟。騎射を得意とした。侯景の乱が起こると建康の救援に赴き、青溪の戦いで大いに奮戦した。建康が陥ちると兄と共に江陵の湘東王繹(のちの元帝)に仕え、湘州司馬とされた。成都の武陵王紀が攻めてくるとこれを迎撃し、自ら紀父子三人を捕らえて斬った。のち司州刺史とされた。元帝が西魏に殺されると王琳に仕えたが、琳が陳に敗れると陳に仕えた。のち永陽太守→安成王府司馬→廬陵内史→始興平南府長史・領長沙内史とされ、章昭達の江陵攻めの際には峽口を襲い、周軍の艦船を焼き払った。のち都督荊信二州諸軍事・宣遠将軍・荊州刺史とされ、のち。左衛将軍とされた。
 ⑸順州は長江から離れた地にあり、国境からもやや遠い。

●新暦の施行
 この年、北周の太史上士の馬顕が丙寅元暦を上程すると、北周は即座にこれを施行した。
 
○隋律暦志
 大象之初,太史上士馬顯,又上丙寅元曆,便即行用。…大象元年,太史上士馬顯等,又上丙寅元曆。

●不良息子と親馬鹿
 この年、陳の使持節・都督揚徐東揚南豫四州諸軍事・揚州刺史の始興王叔陵が生母の彭貴人の喪に服し、辞職した。間もなく復帰して中衛〔大〕将軍とされた。使持節・都督・刺史はそのままとされた。
〔東〕晋の王公貴人たちの多くは梅嶺に埋葬された。母が亡くなった時、叔陵は梅嶺に埋葬する事を求め、〔聞き入れられると〕故・太傅の謝安淝水の戦いの総指揮官)の墓をあばいて安の柩を外に捨て、空いた所に母の柩を入れた。喪に入ると、初めは悲しんでいるふりをして痩せ細り、自分の血で書いたと称する《涅槃経》を作った。しかし、十日(《南史》では『十旬(百日)』)も経たない内に〔タガが外れ〕、料理人に新鮮な肉を提供させ、美食に興じるようになった。また、密かに側近たちの妻を呼んで姦通した。叔陵の行ないは常軌を逸していた。
 これらが次第に宣帝に伝わると、帝は御史中丞の王政に摘発して報告しなかった事を責め、免官にした。更に、叔陵の典籤(監督係)・親事(御用係)を罷免し、鞭打ちを加えた。帝は元来叔陵を可愛がっていたので、法で裁く事はせず、ただ叱るだけに留めた。喪が終わると侍中・中軍大将軍とした。

○陳36・南65始興王叔陵伝
 十一年,丁所生母彭氏憂去職。頃之,起為中衛將軍,使持節、都督、刺史如故。晉世王公貴人,多葬梅嶺,及彭〔氏〕卒,叔陵啟求於梅嶺葬之,乃發故太傅謝安舊墓,棄去安柩,以葬其母。初喪之日,偽為哀毀,自稱刺血寫涅槃經,未及十日(旬),乃令庖廚擊鮮,日進甘膳。又私召左右妻女,與之姦合,所作尤不軌,侵淫上聞。高宗譴責御史中丞王政,以不舉奏免政官,又黜其典籤、親事,仍加鞭捶。高宗素愛叔陵,不繩之以法,但責讓而已。服闋,又為侍中、中軍大將軍。


 580年(1)に続く