[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]


●漢魏の衣冠

 春、正月、癸巳(1日)、北周の宣帝が〔宮殿の正門の〕露門にて文武百官の拝賀を受けた。この時、帝は通天冠(皇帝のかぶる帽子の一つ)と絳紗袍(赤い薄絹の上着)を身に着け、群臣は漢・魏の衣冠を身に着けた[1]


○通天冠と絳紗袍


 また、大赦を行ない、〔宣政から〕大成と改元した

 また、初めて四輔官(西周置く)を置き、上柱国で大冢宰の越王盛を大前疑とし、相州総管・蜀国公の尉遅迥を大右弼とし、〔并州総管・〕申国公の拓抜穆李穆を大左輔とし、大司馬・隨国公の普六茹堅楊堅を大後丞とした。

 拓抜穆の総管はそのままとされた。



○周宣帝紀

 大象元年春正月癸巳,受朝於露門,帝服通天冠、絳紗袍,羣臣皆服漢魏衣冠。大赦,改元大成。初置四輔官,以上柱國大冢宰越王盛為大前疑,相州總管蜀國公尉遲迥為大右弼,申國公李穆為大左輔,大司馬隨國公楊堅為大後丞。

○周30・隋37李穆伝

 大象元年,〔加邑至九千戶,〕遷大左輔,總管如舊。


 ⑴北周の宣帝…宇文贇。字は乾伯。生年559、時に21歳。武帝の長子で、北周の四代皇帝。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。叱奴太后が亡くなって帝が喪に服すと、五十日に亘って政治を代行した。その後も帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて鞭打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。578年、帝が死ぬと跡を継いで宣帝となり、叔父で武名の聞こえある斉王憲を誅殺した。578年(3)参照。
 [1]北周の君臣はこれまで胡服を身に着けていたのであろう。
 ⑵越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。宣帝の叔父。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際、後一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際には右一軍総管とされ、斉王憲の指揮のもと晋州の救援に赴いた。のち上柱国とされた。577年正月、相州総管とされた。578年、大冢宰とされ、稽胡が叛乱を起こすと行軍元帥とされ、これを討平した。578年(3)参照。
 ⑶尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に64歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。578年、相州総管とされた。576年(3)参照。
 ⑷拓抜穆(李穆)…字は顕慶。生年510、時に70歳。武帝の養父の李賢の弟。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年に宜陽の攻略に赴き、570年には汾北の救援に赴いた。572年、太保とされた。一年あまりののち原州総管とされた。575年の東伐の際には軹関・柏崖および河北の諸県の攻略に赴いた。577年、上柱国・并州総管とされた。577年(4)参照。
 ⑸普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に39歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。578年(3)参照。

●暗君
 これより前、〔宣帝の父の〕武帝は《刑書要制》という刑法を施行したが(577年〈4〉参照)、その内容は〔豪族層に〕非常に厳しいものだった。宣帝は〔法律の用い方が厳しくては〕平定したばかりの人心が懐かないのを危惧し、そこで詔を下して言った。
「高祖(武帝)が作った《刑書要制》は法の用い方が非常に厳重であるゆえ、今より一切廃止することとする。」
 更に何度も大赦を行なった。
 この時、京兆郡丞の楽運が上疏して言った。
「臣が謹んで調べますに、《尚書》の周官篇には『国君之過市、刑人赦』とありますが、これは市場(刑場を兼ねる)が商いをする場所で、国君が理由無く見物しに行く所では無く、国君が見物をする時は、〔恩赦という〕恩恵を施して人民を喜ばせる時だけという事を言っているのです。
 また、《尚書》の舜典篇には『眚災肆赦』とありますが、これは犯した罪が大きかったとしても、それが故意でなかったのなら、寛大に処理してやるべきだということを言っているのです。
 また、《書経》呂刑篇には『五刑之疑、有赦』とありますが、これは五刑(死刑・去勢・足切り・鼻そぎ・入墨)の判決が下された者であっても、確たる証拠が無ければ罰金刑にし、罰金刑の範疇でも疑わしい者がいれば赦免するように言っているのです。
 また、《論語》子路篇には『赦小過、挙賢才』(才能がある者ならば、小さな過失には目をつぶって推挙せよ)とあります。
 謹んで経典を調べますに、『罪の軽重に関わらず、天下の罪人全てを一律赦免する(大赦)』といった文言は一切ございませんでした。現在はこの道が廃れ、大赦が行なわれるようになってしまいましたが、大赦は統治に利益が無いので、この弊風に則ってはいけないと考えます。
 だからこそ、管仲は《管子》法法篇で『〔恩赦というのは利益が小さくて損害が大きい物であるため、長期的に見れば人民への災禍となる。一方、恩赦をしないのは、損害が小さくて利益が大きい物で、長期的に見れば人民への幸福となる。〕恩赦をするのは奔馬に轡を委ねるようなもので、恩赦をしないのは砥石で悪性の腫れ物を磨くようなものだ』と言い、更に『恩赦は民を害する仇敵のようなもので、法律は民を守る父母のようなものである』と言っているのです。
 また、呉漢(後漢の名将)は〔光武帝への〕遺言にて『恩赦をしないように願います』と言い、王符(後漢の思想家)は《潜夫論》にて『恩赦は治まった世でやるべき事では無い』と言っております。
 なのに、陛下はどうして何度も大赦を行なって、悪人どもを世にのさばらせるのですか!」
 帝はこれを聞き入れなかった。
 帝が法律を緩くし、更に何度も大赦を行なった結果、悪人たちはみな軽々しく罪を犯すようになり、政治は無秩序な状態となって、人々は政府の命令に従わなくなった。帝はそこで《刑書要制》を更に厳しくした《刑経聖制》を作り、正武殿にて大醮(夜中に星辰の下に酒や乾し肉などの供物を並べて神を祭り、祈願の内容を書いた文章を焼いて天に奏上するもの)を行ない、天に報告してから施行した[1]
 
 帝は父の武帝が亡くなってから歳もまたがぬ内に音楽に溺れ、天下の女性を選び抜いて後宮を満たした。また、見栄っ張りで、上辺を繕って諫言を防ごうとした。また、後宮にて酒浸りの生活を送り、酷い時には十日も出てこない事があった。高官や近臣が決裁を仰いでくると、全て宦官に転奏させた。宮殿には贅を尽くし、帷帳は全て金玉珠宝で装飾され、その輝きは目を眩ますほどだった。常に自分の前で散楽(物真似や軽業・曲芸・奇術・幻術など)・雑技・魚龍(雑技の一。珍しい動物の模型が様々に変化していくのを楽しむもの)・爛漫(物珍しい遊戯と柔弱・頽廃的な音楽)を行なわせ、長安の少年たちに女性の格好をさせて宮殿に入れ、歌や踊りをさせ、後宮の女官たちと共に見物するのを楽しみとした。
 また、〔父の〕近臣たちの多くを嫌悪し、排斥した。また、非常なケチで、殆ど下賜をしなかった。また、諫言によって自分の行動を束縛されるのを嫌がり、密かに近臣たちに臣下たちの言動を記録させ、少しでも過ちがあればすぐに処罰し、〔その恐怖によって諫言を防ごうとした〕。
 宿衛の者が一日でも出勤を怠れば官籍を剥奪し、逃亡した者がいれば一律死罪とし、家族は官奴とした。上書した字に誤りがあれば有罪とした。

 そこで運は棺と共に朝堂に到り、帝の八つの過失を述べた文章を上奏した。
『一、大尊(陛下)は輔弼の任にある内史や御正たちと協議して天下を治めていくべきでありますのに、最近は小も大もみな独断で決定しておられます。堯舜たち至聖ですらなお輔弼の者たちの助けを借りたというのに、まだ聖主たりえていない大尊がどうして自分一人で天下を切り回すことができましょうか。おおよそ、刑罰や恩賞という物は、国家の重大事でありますゆえ、〔これだけは〕大臣たちと協議して決定なされますよう。
 二、荒淫は古人が重く戒めたものでありますのに、大尊は即位したばかりでまだ恩徳を天下に行き渡らせておられないのに、天下の美女を探し集めて後宮を満たすことを優先し、更に儀同以上の者の娘に嫁ぐことを禁じておられます。これでは全国民から怨みを買ってしまいます。どうか側室たちの内、寵愛されておられない者は実家にお返しになってください。嫁ぎに行くことも禁止なさいませぬよう。
 三、天子という者は、寝食を忘れて政務に取り組んでも完遂することが難しい劇職であります。しかし、大尊は近頃ひとたび後宮に入られると、数日も出てこられず、上奏文の決裁の大半は宦官に任せておられます。人づてに報告を聞くのでは真実を見失い、判断を誤る恐れがあります。また、政治を宦官に委ねるのは亡国の兆しであります。どうか高祖(武帝)に倣い、外朝にて政務を執られますよう。
 四、朝令暮改は政治を行なう上で大いに忌避されるものであり、厳罰主義も統治の賢明な方策ではございません。もし法律が滅茶苦茶だと天下の人々は恐れを抱き、政策が滅茶苦茶だと人民は身の寄り所を失ってしまいます。なのに、大尊はどうして厳刑をやめる詔を出してから半年も経たずに前よりも厳しい法律に改めてしまわれたのでしょうか? 朝令暮改とは、まさにこの事を指すのです。今、宿衛の官の者は一夜でも勤務を怠れば官籍を剥奪され、逃亡した者は〔自身は処刑され、〕家族は官奴とされます。これは、十杖の罪(逃亡の罪)と大逆の罪が同等の物となったことを意味します。このように法律を厳しくしていかれますと、人心が離れてしまうのではないかと心配します。一人の心なら、或いはまだ離れるのを止めることができるかもしれませんが、天下の人々の心が離れてしまったら、もはやどうすることもできなくなります。秦は法律が厳しかったために滅び、漢は法律が緩かったために長く続きました。どうか寛大な法律を国家の法律とされますよう。さすれば、万民は安心して統治に服す事でありましょう。
 五、高祖は華美の気風を忌避して、質朴な気風を尊び、これを万世の大原則として後世に伝えていこうとなされました。大尊は朝夕高祖からこの精神を叩き込まれたはず。なのに、どうして崩御なされてから年もまたがぬ内に贅を尽くされたのですか。父親の志を受け継いで完成させるのが、道理から言って当然でしょう。どうか造営の際は節倹を原則とし、華美な物は一切お作りなされませぬよう。
 六、都圏の住民は徭役や賦税が他地域と比べてやや重うございますが、その目的が国家のために必須なことであれば、人々は我慢して受け入れます。しかし、その目的がただ魚龍や演劇や相撲を盛大にして楽しむためであったとしたら、たまったものではありません。このまま徭役や賦税が重くなっていけば、人民の財産も体力も共に尽き果て、生活の手立てを失ってしまいます。ゆえに、どうかこのような無益の事柄は全ておやめになられますよう。
 七、近頃の詔命に、上書の字に誤りがあれば処罰を下すというものがありました。これでは、忠直なる人物が政治に意見しようとしても、文字が不得意であれば書き損じてしまって厳罰を下されることになってしまいます。彼らは正直に仕えなければ身を滅ぼすという道理を遵守しておりますゆえ、代筆も頼めないのであります。君主の逆鱗に触れることは容易では無く、直言を咎めないという詔を下されたとしても、なお身の危険を感ずるほどでありますのに、このうえ更に誤字による刑戮が加わってしまうと、人々はなおさら口を噤んでしまうでしょう!大尊は非難を聞き入れる事ができなかったとしても、直言の道を塞ぐことだけはしてはなりません。どうかこの詔命を取り下げられますよう。さすれば、天下の人々は非常に幸せに感ずることでありましょう。
 八、昔、殷の宮殿の前庭に桑と穀物が生えた(不吉)時、王(太戊)は〔これに恐れを抱いて徳を修めた結果、災いが消滅して却って〕国を盛んにすることができました。今、不吉な天象が現れているのは、これと同じで、〔殷王と同じことをすれば災いを転じて福と為し、〕周を興隆させる吉祥となるのです。現在、大尊は食事の量を減らし、楽器を撤去されておられますが、それくらいではまだ不祥を打ち消すには至りません。どうか、善言を聴き入れて徳政を布き、万民の怨みを解いて天下の罪を自分の責任となされますよう。さすれば、凶兆は除かれ、国家は堅固な物となるでしょう。
 大尊がもしこの八事について改めることが無ければ、臣は周の滅亡を見ることになると思います。』
 帝は激怒し、運を処刑しようとした。朝臣たちはみな恐懼し、誰も運を救おうとする者はいなかった。この時、内史中大夫の拓跋巖元巖)が人にこう言った。
臧洪〔と陳容が〕同日に死んだことですら、人の尊ぶ所となっている。比干と共に死ぬのなら、尚更のことだ! もし楽運殿が死を免ぜられなければ、私は彼と一緒に死ぬ覚悟だ!」
 かくて皇宮に到ると帝にこう嘘をついて言った。
「 楽運が必ず処刑されるのを知りながら上奏したのは、後世に〔命を賭して天子を諌めたという〕美名を残したかったからに違いありません。陛下がもし運を処刑されますと、彼の術中にはまって名を成さしめる結果になってしまいます。ゆえにここは、運を寛大に赦し、陛下の度量を示す方が良いと思います。」
 帝はこれをもっともだと思い、かくて運の死を免じた。翌日、帝は運を呼んでこう言った。
「朕は昨夜、卿の上奏文の内容に思いを巡らした結果、卿が真の忠臣であることに気づいた。先皇(武帝)は英明であられたが、なお卿にしばしば諫められた。朕は暗愚なのであるから、尚更のことだ。これからも今回のようにどんどん諌めてほしい。」
 かくて皇帝用の食事を与えて褒美とした。
 これより前、大臣たちは帝が激怒したのを見て誰もが運の身を案じたが、今こうして赦されたのを知ると、「幸い虎口を免れた」と喜びあった。

 拓跋巖は字を君山といい、河南洛陽の人である。父の拓跋禎元禎)は〔西〕魏の敷州(北魏の東秦州→北華州)刺史。読書を好み、章句にこだわらず、大意を重視した。剛直な性格で器量があり、義人を自認し、若年の頃から渤海の独孤熲高熲・太原の王韶ら志を同じくする者たちと親交を結んだ。北周に仕えて宣威将軍・虎賁給事とされ、のち大冢宰の宇文護に才能を認められて中外府記室とされた。のち次第に昇進して内史中大夫・昌国県伯とされた。

○周宣帝紀
 初,高祖作刑書要制 ,用法嚴重。及帝即位,以海內初平,恐物情未附,乃除之。至是〔,為刑經聖制,其法深刻,〕大醮於正武殿,告天而行焉。…纔及踰年,便恣聲樂,采擇天下子女,以充後宮。好自矜夸,飾非拒諫。禪位之後,彌復驕奢,躭酗於後宮,或旬日不出。公卿近臣請事者,皆附奄官奏之。所居宮殿,帷帳皆飾以金玉珠寶,光華炫燿,極麗窮奢。…散樂雜戲魚龍爛漫之伎,常在目前。好令京城少年為婦人服飾,入殿歌舞,與後宮觀之,以為喜樂。擯斥近臣,多所猜忌。又吝於財,略無賜與。恐羣臣規諫,不得行己之志,常遣左右密伺察之,動止所為,莫不鈔錄,小有乘違,輒加其罪。
○隋刑法志
 大象元年,又下詔曰:「高祖所立刑書要制,用法深重,其一切除之。」然帝荒淫日甚,惡聞其過,誅殺無度,疎斥大臣。又數行肆赦,為姦者皆輕犯刑法,政令不一,下無適從。於是又廣刑書要制,而更峻其法,謂之刑經聖制。宿衞之官,一日不直,罪至削除。逃亡者皆死,而家口籍沒。上書字誤者,科其罪。
○周40楽運伝
 自是德政不修,數行赦宥。運又上疏曰:「臣謹案周官曰:『國君之過市,刑人赦。』此謂市者交利之所,君子無故不遊觀焉。若遊觀,則施惠以悅之也。尚書曰:『眚災肆赦。』此謂過誤為害,罪雖大,當緩赦之。呂刑云:『五刑之疑,有赦。』此謂刑疑從罰,罰疑從免。論語曰:『赦小過,舉賢才。』謹尋經典,未有罪無輕重,溥天大赦之文。逮茲末葉,不師古始,無益於治,未可則之。故管仲曰:『有赦者,奔馬之委轡。不赦者,痤疽之礪石。』又曰:『惠者,民之仇讐。法者,民之父母。』吳漢遺言,猶云『唯願無赦』。王符著論,亦云『赦者非明世之所宜』。豈可數施非常之惠,以肆姦宄之惡乎。」帝亦不納,而昏暴滋甚。
 運乃輿櫬詣朝堂,陳帝八失。
 一曰:內史御正,職在弼諧,皆須參議,共治天下。大尊比來小大之事,多獨斷之。堯舜至聖,尚資輔弼,比大尊未為聖主,而可專恣己心?凡諸刑罰爵賞,爰及軍國大事,請參諸宰輔,與眾共之。
 二曰:內作色荒,古人重誡。大尊初臨四海,德惠未洽,先搜天下美女,用實後宮;又詔儀同以上女,不許輒嫁。貴賤同怨,聲溢朝野。請姬媵非幸御者,放還本族。欲嫁之女,勿更禁之。
 三曰:天子未明求衣,日旰忘食,猶恐萬機不理,天下擁滯。大尊比來一入後宮,數日不出。所須聞奏,多附內豎。傳言失實,是非可懼。事由宦者,亡國之徵。請准高祖,居外聽政。
 四曰:變故易常,乃為政之大忌;嚴刑酷罰,非致治之弘規。若罰無定刑,則天下皆懼;政無常法,則民無適從。豈有削嚴刑之詔未及半祀,便即追改,更嚴前制?政令不定,乃至於是。今宿衞之官,有一人夜不直者,罪至削除;因而逃亡者,遂便籍沒。此則大逆之罪,與十杖同科。雖為法愈嚴,恐人情愈散。一人心散,尚或可止,若天下皆散,將如之何。秦網密而國亡,漢章疏而祚永。請遵輕典,竝依大律。則億兆之民,手足有所措矣。
 五曰:高祖斵雕為朴,本欲傳之萬世。大尊朝夕趣庭,親承聖旨。豈有崩未逾年,而遽窮奢麗,成父之志,義豈然乎。請興造之制,務從卑儉。雕文刻鏤,一切勿營。
 六曰:都下之民,徭賦稍重。必是軍國之要,不敢憚勞。豈容朝夕徵求,唯供魚龍爛漫,士民從役,祇為俳優角觝。紛紛不已,財力俱竭,業業相顧,無復聊生。凡此無益之事,請竝停罷。
 七曰:近見有詔,上書字誤者,即治其罪。假有忠讜之人,欲陳時事,尺有所短,文字非工,不密失身,義無假手,脫有舛謬,便陷嚴科。嬰徑尺之鱗,其事非易,下不諱之詔,猶懼未來,更加刑戮,能無鉗口!大尊縱不能採誹謗之言,無宜杜獻書之路。請停此詔,則天下幸甚。
 八曰:昔桑穀生朝,殷王因之獲福。今玄象垂誡,此亦興周之祥。大尊雖減膳撤懸,未盡銷譴之理。誠願諮諏善道,修布德政,解兆民之慍,引萬方之罪,則天變可除,鼎業方固。大尊若不革茲 八事,臣見周廟不血食矣。
 帝大怒,將戮之。內史元巖紿帝曰:「 樂運知書奏必死,所以不顧身命者,欲取後世之名。陛下若殺之,乃成其名也。」帝然之,因而獲免。翌日,帝頗感悟。召運謂之曰:「朕昨夜思卿所奏,寔是忠臣。先皇明聖,卿數有規諫。朕既昏暗,卿復能如此。」乃賜御食以賞之。朝之公卿,初見帝盛怒,莫不為運寒心。後見獲宥,皆相賀以為幸免虎口。
○隋62元巖伝
 元巖字君山,河南洛陽人也。父禎,魏敷州刺史。巖好讀書,不治章句,剛鯁有器局,以名節自許,少與渤海高熲、太原王韶同志友善。仕周,釋褐宣威將軍、武賁給事。大冢宰宇文護見而器之,以為中外記室。累遷內史中大夫,昌國縣伯。宣帝嗣位,為政昏暴,京兆郡丞樂運乃輿櫬詣朝堂,陳帝八失,言甚切至。帝大怒,將戮之。朝臣皆恐懼,莫有救者。巖謂人曰:「臧洪同日,尚可俱死,其況比干乎!若樂運不免,吾將與之俱斃。」詣閣請見,言於帝曰:「樂運知書奏必死,所以不顧身命者,欲取後世之名。階下若殺之,乃成其名,落其術內耳。不如勞而遣之,以廣聖度。」運因獲免。

 ⑴武帝…宇文邕。543~578(在位560~578)。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年、再び親征して晋州を陥とし、後主率いる援軍も大破し、晋陽を陥とした。577年、鄴も陥とし、青州にて後主を捕らえて北斉を滅ぼした。578年、突厥親征を目前にして死去した。578年(2)参照。
 ⑵楽運…字は承業。生年540、時に40歳。父は梁の義陽郡守。若年の頃から学問を好み、書物を読み漁った。また、孝行かつ義理堅かった。また、品行方正で、一度たりとも人に媚を売らなかった。西魏が梁の都の江陵を陥とすと(554年)、長安に連行された。のち露門学士とされると、何度も北周の武帝に諫言を行ない、その多くが聞き入れられた。573年、万年(長安城東部)県丞とされると、豪族の勝手を許さず、剛直の評判を得た。この事で帝に気に入られ、特別に皇宮への出入りを許され、問題があればどんな些細なことでも直接意見することを許された。太子贇の評価を求められると『中人(周囲の人物次第で善行も悪行も行なう者)』と評し、その正直さを褒められて京兆(雍州)郡丞とされた。贇が即位して宣帝となり、喪服を早く脱ごうとするとこれを諌めた。578年(2)参照。
 [1]考異曰く、『周宣帝紀は《刑経聖制》の施行を8月の事とする。隋書の元巖伝には「楽運が帝に上奏して諫言を行なう→巖が帝を説得して運を死から免れさせる→王軌の誅殺の際、巖が帝に諫言する→帝の怒りを買い、官籍を剥奪される」の流れで書かれている。運の上奏文に「どうして厳刑をやめる詔を出してから、半年も経たずに前よりも厳しい法律に改めてしまわれたのでしょうか」という言葉がある事から、《刑経聖制》の施行は王軌の死(2月)より前に行なわれた事が分かる。』
 ⑶臧洪…後漢の東郡太守。張超→袁紹に仕え、超が曹操に攻められると救援を志願したが聞き入れられず、超が自害に追い込まれると紹に兵を挙げたが、敗北して処刑された。
 ⑷陳容…臧洪の部下。洪が処刑される時、袁紹を罵り、洪と共に処刑された。
 ⑸比干…殷の紂王の叔父で、紂王を諌めて殺された。今、楽運を比干に譬えたのである。
 ⑹独孤熲(高熲)…字は昭玄。生年541、時に39歳。またの名を敏という。父は北周の開府儀同三司・治襄州総管府司録の独孤賓(高賓)。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。578年(3)参照。
 ⑺王韶…字は子相。幼い頃から生真面目で、他人に真似のできぬような行ないを非常に好み、有識者から一目置かれた。北周に仕えて数多くの軍功を立て、車騎大将軍・儀同三司とされ、のち軍正とされた。伐斉の際、武帝の撤退を諌めた。北斉が滅ぶと開府・晋陽県公とされ、のち内史中大夫とされた。宣帝が即位すると豊州刺史・昌楽県公とされた。576年(3)参照。

●誹謗之木・敢諌之鼓
 この時、〔開府の〕万紐于義于義)も上疏して帝を諌めた。帝の寵臣の宇文訳鄭訳劉昉は義が自分たちにとって良くないことを書いていると考え、上表文を見せる前に帝に義の悪口を吹き込んで印象を悪くしておいた。帝は上表文を見ると顔色を変え、侍臣にこう言った。
万紐于義が朝廷を謗りおった!」
 この時、御正大夫の顔之儀が進み出て言った。
「いにしえの賢君(堯・舜)は、立て札を立てて人民に諫言を書かせ(誹謗之木)、宮門の前に太鼓を置いて諫言したい者に打ち鳴らさせました(敢諌之鼓)が、それでもまだ自分の過失が聞こえてこないのを心配したものです。万紐于義の言葉は、処罰すべきものではありません。」
 帝は怒りを解いた。

 義(生年534、時に45歳)は字を慈恭といい、北周の柱国・太傅・燕国公の万紐于謹于謹の子である。若年の頃から慎み深くおごそかで、品行方正で、熱心に学問に励んだ。大統の末年(551)に父の功を以て平昌県伯(邑五百戸)とされた。出仕して直閤将軍とされた。のち広都県公に改められた。北周が建国されると六百戸の加増を受けた。のち次第に昇進して安武(安定の南)太守とされた。義は人民を導く方法として刑罰による威圧より道徳による感化を選んだ。この時、郡民の張善安王叔児という者が財産を巡って互いに訴えを起こしていた。すると義はこう言った。
「これも全ては太守である自分の徳が薄く、任に堪えなかったために起きたものだ。どちらの罪でも無い。」
 かくて自分の家財から二人の訴えていた財産の倍の量を出して二人に分け与え、訓諭したのち帰らせた。善安らは恥ずかしさの余りいたたまれなくなり、他州に引っ越した。ここにおいて郡民は大いに行ないを慎むようになった。義の徳を以て人を善に導くことは万事このようだった。のち建平郡公とされ、明帝・武帝の代(557~578)に西兗・瓜・邵三州の刺史を歴任した。また、数々の戦功を立てて開府とされた。

○隋39于義伝
 于義字慈恭,河南洛陽人也。父謹,從魏武帝入關,仕周,官至太師,因家京兆。義少矜嚴,有操尚,篤志好學。大統末,以父功,賜爵平昌縣伯,邑五百戶。起家直閤將軍。其後改封廣都縣公。周閔帝受禪,增邑六百戶。累遷安武太守,專崇德教,不尚威刑。有郡民張善安、王叔兒爭財相訟,義曰:「太守德薄不勝任之所致,非其罪也。」於是取家財,倍與二人,諭而遣去。善安等各懷恥愧,移貫他州。於是風教大洽。其以德化人,皆此類也。進封建平郡公。明、武世,歷西兗、瓜、邵三州刺史。數從征伐,進位開府。
 宣帝嗣位,政刑日亂,義上疏諫。時鄭譯、劉昉以恩倖當權,謂義不利於己,先惡之於帝。帝覽表色動,謂侍臣曰:「于義謗訕朝廷也。」御正大夫顏之儀進曰:「古先哲王立誹謗之木,置敢諫之鼓,猶懼不聞過。于義之言,不可罪也。」帝乃解。

 ⑴宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に40歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。贇が即位して宣帝となると開府・内史中大夫・帰昌県公とされ、朝政を委ねられた。578年(2)参照。
 ⑵劉昉…西魏の東梁州刺史の劉孟良の子。軽はずみでずる賢く、悪知恵が働いた。武帝の時に功臣の子を以て太子贇の傍に仕え、非常に気に入られた。贇が即位すると小御正とされた。578年(1)参照。
 ⑶顔之儀…字は子升。顔之推の弟。読書家で、詞賦作りを好んだ。梁の元帝に仕え、西魏が江陵を陥とすと兄と共に長安に連行された。北周の明帝の時(557~560)に麟趾学士とされ、のち司書上士とされた。武帝が宇文贇を太子を立てると(572年)侍読とされた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴き、贇が軍中にてたびたび問題行動を起こすと一人諫言を行ない、武帝に気に入られて小宮尹とされた。贇が即位して宣帝となると上儀同・御正中大夫・平陽県公とされ、信任を受けた。578年(2)参照。
 ⑷万紐于謹(于謹)…字は思敬。493~568。八柱国の一人で、北周の元勲。冷静沈着の名将。西魏の代に姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げ、太傅・燕国公とされた。568年(1)参照。

●東方巡行と斛斯徴の失脚
 癸卯(11日)、北周の宣帝が長子の宇文衍のちに名を闡に改めるを魯王とした(武帝は魯国公から皇帝となり、宣帝は魯国公から皇太子→皇帝となった)。
 甲辰(12日)、東方の巡行に出かけた。


 丙午(14日)、太陽の背後に日暈が現れた。
 また、柱国・〔豫州総管・〕常山公の万紐于翼于翼を中央に呼び戻し、大司徒とした。

 宣帝は即位すると好き勝手に振る舞い、日に日に暗愚・暴虐の度を深めていった。〔上大将軍・大宗伯・岐国公の〕斛斯徴はむかし武帝から大恩を受け、宣帝の師傅に任ぜられた事(徴は568年に宣帝兄弟の教師とされ、571年に司宗中大夫・行内史・兼楽部・岐国公とされ、間もなく小宗伯・太子太傅とされた)を以て、帝を矯正できなければ死んだ時に泉下の武帝に合わせる顔が無いと考え、上疏して極諌し、帝の過失を指摘し、行状を改めるように言ったが、帝は聞き入れなかった。〔徴と不仲だった〕宇文訳鄭訳)がこの機に乗じて讒言すると、徴は〔官爵を剥奪されて〕牢屋に入れられた。徴が死刑を免れられないのを恐れていると、獄卒の張元平は同情し、佩刀を以て牢屋の壁に穴を穿ち、脱出させた。元平はその後百以上も鞭で打たれたが、最後まで口を割らなかった。徴は民家に匿われ、やがて赦免されたが、官爵は剥奪されたままだった。

 辛亥(19日)、柱国・許国公の宇文善を大宗伯とした。

○周宣帝紀

 癸卯,封皇子衍為魯王。甲辰,東巡狩。丙午,日有背。以柱國、常山公于翼為大司徒。辛亥,以柱國、許國公宇文善為大宗伯。

○周静帝紀

 靜皇帝諱衍,後改為闡,宣帝長子也。母曰朱皇后。建德二年六月,生於東宮。大象元年正月癸卯,封魯王。

○周26・北49斛斯徵伝
 帝後肆行非度,昬虐日甚。徵以荷高祖重恩,嘗備位師傅,若生不能諫,死何以見高祖。乃上疏極諫,指陳帝失,帝不納。譯因譖之,遂下徵獄。〔徵懼不免,〕獄卒張元〔平〕哀之,乃以佩刀穿獄牆,遂〔送〕出之。元卒(平)被〔捶〕拷〔百數〕而終無所言。徵〔既出,匿於人家,〕遇赦得免〔,然猶坐除名〕。隋文踐極,例復官〔爵〕,除太子太傅,〔仍〕詔修撰樂書。

○周30于翼伝

 大象初,徵拜大司徒。


 ⑴宇文衍…宣帝の長子。573年6月18日に東宮にて生まれた。母は朱満月(南方出身)。573年(3)参照。
 ⑵万紐于翼(于翼)…字は文若。柱国・燕国公の于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。のち開府儀同三司・渭州刺史とされ、吐谷渾と戦った。明帝が亡くなると晋公護と共に遺詔を受け、武帝を立てた。また、常山公とされた。人を見る目があったため、帝の弟や子どもの幕僚の選任を任された。のち大将軍・総中外宿衛兵事とされた。571年、柱国とされた。武帝が東討を図って国境の軍備を増強すると、それでは警戒を呼んでしまうとして反対し、国交を結んで油断させることを提言して許可された。573年、安州総管とされ、575年の東伐の際には事前に計画を相談され、荊・楚方面の兵を率いて北斉領を攻めた。576年、陜州総管とされ、武帝が再び東伐を行なうと洛陽を攻め陥とした。のち河陽総管→豫州総管とされた。578年(1)参照。
 ⑶斛斯徴…字は士亮。生年529、時に51歳。西魏の太傅の斛斯椿の子。幼い頃から聡明で、五歲の時に孝経・周易を諳んじ、識者を驚かせた。大の読書家で三礼を最も得意とし、音律も解した。非常に親思いで、父が亡くなると朝夕少しの米しか口にしなかった。大統(535~551)の末に出仕して太常少卿にまで昇った。雅楽の復興に努め、西魏が蜀を平定した際に運ばれてきた物を錞于という楽器だと見抜いた。556年に司楽下大夫とされ、のち司楽中大夫→内史下大夫とされた。568年、武帝の息子たち(宣帝兄弟)の教師とされた。571年、司宗中大夫・行内史・兼楽部・岐国公とされ、間もなく小宗伯・太子太傅とされた。北斉が滅ぶともと任城王湝の妃の盧氏を与えられたが、心を開いてくれなかったため解放した。宣帝が即位すると上大将軍・大宗伯とされた。578年(3)参照。
 ⑷宇文善…北周の柱国・太保の宇文貴の子。571年に柱国とされた。また、洛州刺史とされた。574年、罪を犯して免官に遭ったが、間もなく元の官爵に戻された。574年(1)参照。

●立太子と洛陽宮の造営
 癸丑(21日)、再び太陽の背後に日暈が現れた。
 戊午(26日)、洛陽に到った。
 また、魯王衍を皇太子とした。
 2月、癸亥(2日)、洛陽を東京とし、山東諸州(もと北斉領)の兵を徴発し、一ヶ月交代の勤務を一ヶ月半に延長して(561年3月に一ヶ月半から一ヶ月に短縮していた)、洛陽宮を造営した。この時、〔上柱国・鄧国公〕紇豆陵熾竇熾を京洛営作大監とし、〔上開府・汴州(大梁)刺史で〕発想力のある樊叔略を営構監とした。宮苑の規模や様式は、みな熾と叔略によって決められた。
 工事には常に四万人の人員が駆り出され、その状態は帝が死ぬまで続いた。洛陽宮は未完成に終わったが、それでもその壮麗さは漢・魏の宮殿を超えるものだった。

 叔略は陳留の人である。父の樊歓は東魏に仕えて南兗州刺史・阿陽侯とされた。歓は高氏の専権を憎み、これを除こうとして失敗して殺された。
 叔略は父が殺された時まだ幼かったので殺されず、腐刑(宮刑。生殖能力を奪う)に処されて官奴とされた。成長すると九尺の長身の、並外れた精神を備えた青年となり、高氏から警戒を受けた。叔略は身の危険を感じ、遂に西魏に亡命した。宇文泰は一目見てその才能を見抜き、手許に置いた。間もなく都督とされ、爵位を継いだ。
 大冢宰の宇文護が実権を握ると中尉(軍を掌る)とされた。叔略は智謀に優れ、実務能力があったため、次第に護に信任され、督中外府の中尉も兼任するようになった。のち次第に昇進して驃騎大将軍・開府儀同三司とされた。
 護が誅殺されたのちは斉王憲の園苑監とされた。憲は平素から北斉を滅ぼす志を抱いており、叔略がそこで機を見てたびたび軍事について意見すると、憲から高い評価を受けた。建徳五年(576)に武帝の伐斉に従った際、精鋭を任され、常に兵の先頭に立って戦った。戦功により上開府・清鄉縣公(邑千四百戸)とされた。汴州刺史とされると、事理に通じ決断力があるという評価を受けた。

 また、相州の六府を洛陽に移転して東京六府と呼称し、〔開府・楽部大夫の〕長孫平を東京小司寇とし、趙芬非常な能吏。580年〈4〉参照)を東京小宗伯とし、六府を分掌させた。

○周宣帝紀

 癸丑,日又背。戊午,行幸洛陽。立魯王衍為皇太子。

 二月癸亥,詔曰:…於是發山東諸州兵,增一月功為四十五日役,起洛陽宮。常役四萬人,以迄于晏駕。并移相州六府於洛陽,稱東京六府。

 …及營洛陽宮,雖未成畢,其規摹壯麗,踰於漢、魏遠矣。

○周静帝紀

 戊午,立為皇太子。

○周30竇熾伝
 宣政元年,兼雍州牧。及宣帝營建東京,以熾為京洛營作大監。宮苑制度,皆取決焉。

○隋46長孫平伝

 宣帝即位,置東京官屬,以平為小司寇,與小宗伯趙芬分掌六府。

○隋73樊叔略伝
 樊叔略,陳留人也。父歡,仕魏為南兗州刺史、阿陽侯。屬高氏專權,將謀興復之計,為高氏所誅。叔略時在髫齓,遂被腐刑,給使殿省。身長九尺,志氣不凡,頗為高氏所忌。內不自安,遂奔關西。周太祖見而器之,引置左右。尋授都督,襲爵為侯。大冢宰宇文護執政,引為中尉。叔略多計數,曉習時事,護漸委信之,兼督內外。累遷驃騎大將軍、開府儀同三司。護誅後,齊王憲引為園苑監。時憲素有吞關東之志,叔略因事數進兵謀,憲甚奇之。建德五年,從武帝伐齊,叔略部率精銳,每戰身先士卒。以功加上開府,進封清鄉縣公,邑千四百戶。拜汴州刺史,號為明決。宣帝時,於洛陽營建東京,以叔略有巧思,拜營構監,宮室制度皆叔略所定。

 ⑴紇豆陵熾(竇熾)…字は光成。生年507、時に73歳。知勇兼備の名将。北魏の高官を務める名家の出。武帝の姉婿の紇豆陵毅(竇毅)の叔父。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、その関中亡命に付き従い、河橋・邙山の戦いで活躍した。552年、原州刺史とされ、善政を行なった。554年、柔然軍を撃破した。560年、柱国大将軍とされ、561年に鄧国公、564年に大宗伯とされた。のち、洛陽攻めに加わった。晋公護に嫌われ、570年、宜州刺史に左遷された。護が誅殺されると太傅とされた。東伐に志願したが、高齢のため許されなかった。577年、上柱国とされた。578年、兼雍州牧とされた。577年(3)参照。
 ⑵相州六府…北周の武帝が577年に中央の政治機関を真似て設けたもの。格式が高い。六府は他に并州に置かれたが、これはその年の12月に廃された。
 ⑶長孫平…字は処均。柱国の長孫倹の子である。美男で、才幹を有し、非常な読書家だった。北周に仕え、衛公直の侍読とされた。のち、直が武帝に宇文護誅殺を勧める際に使者とされた。護が誅殺されると開府・楽部大夫とされた。572年(2)参照。
 
●烏丸軌誅殺
 これより前、宣帝は皇太子時代に西征に赴いた際、軍中にて数々の問題行動を起こし、それを広陵公孝伯烏丸軌王軌に報告され、武帝に酷く杖で打たれた事があった。また、帝の側近の宇文訳鄭訳)もこのとき宣帝の問題行動に同調して制止しなかったのを咎められ、鞭打たれて官爵を剥奪されていた。のち、訳は官界に復帰し、宣帝に再び寵用を受けた。
 ある時、帝は杖で打たれた恨みを思い出し、訳にこう尋ねて言った。
「我が足に杖の痕がついたのは、誰のせいか?」
 訳は答えて言った。
宇文孝伯烏丸軌のせいであります。」
 訳は更に軌が宴会の時に、武帝の顎髭を撫でながら「愛すべき陛下よ、後嗣ぎが頼りない事だけが玉に瑕です」と言ったことを告げ口した[1]。帝はそこで軌を誅殺することを決めた。
 柱国・徐州総管・郯国公の烏丸軌は、自分に恨みを持っている訳が宣帝の側近となっている事から、必ず自分の身に災いが降りかかってくる事を予見していた。軌は親しい者にこう言った。
「私は先帝の在世時、自分の将来を顧みず、国の将来だけを考えて直言した。故に、今日の事態になるのは分かりきっていた。徐州は淮南に近く、陳と接しているゆえ、〔これに寝返りさえすれば、〕身を保つのは掌を返すように簡単だ。だが、忠義という大節に背くわけにはいかない。まして、私は先帝に厚恩を受け、いつも命を賭してこれに報いようと考えていた身であるゆえ、尚更である。その私が、どうして嗣主から恨みを買ったという理由だけで、先帝の厚恩に背けようか! もはや、ただ死を待つだけである。義から言って他に図ることはせぬ。私のこの心を、後世の者が理解してくれることを願う。」
 帝が軌を誅殺しようとした時、内史中大夫の拓跋巖元巖)は詔書を書くことを拒んだ。御正中大夫の顔之儀は帝に会って強く諌めた。帝は怒って之儀も処罰しようとしたが、その正直・誠実・無私さに免じて不問に付した。之儀はこれまでにも何度も面と向かって帝を諌めていたため、帝に酷く嫌われていたが、昔からのよしみ(宣帝が太子の時に侍読・小宮尹とされていた)に免じてそのつど容赦されていた。
 巖は之儀に続いて部屋に入ると、頭巾を脱ぎ、叩頭して進む事を三度繰り返した。帝は言った。
「お前は烏丸軌を庇いたいのか!?」
 巖は答えて言った。
「臣は軌を庇いたいわけではございません! ただ、陛下が無闇に誅殺を行なって衆望を失うことを恐れているだけであります!」
 帝は怒って宦官に巖の顔を殴らせ、官爵を剥奪した。
 帝は内史の杜虔信通鑑では杜慶信)を徐州に派遣し、軌を殺させた。
 軌は国家に忠実に仕え、しかも〔陳軍を大破するという〕大功も立てていたのに、突然何の罪も無く誅戮された。天下の人々は、面識の有る無しに関わらずみなその死を痛惜した。

○資治通鑑
 豈可以獲罪嗣主,遽忘之邪!…宇文孝伯因言軌捋須事。…遠近知與不知,皆為軌流涕。
○周宣帝紀

 殺柱國、徐州總管、郯國公王軌。

○周40王軌伝

 及宣帝即位,追鄭譯等復為近侍。軌自知必及於禍,謂所親曰:「吾昔在先朝,寔申社稷至計。今日之事,斷可知矣。此州控帶淮南,隣接彊寇,欲為身計,易同反掌。但忠義之節,不可虧違。況荷先帝厚恩,每思以死自効,豈以獲罪於嗣主,便欲背德於先朝。止可於此待死,義不為他計。冀千載之後,知吾此心。」

 大象元年,帝令內史杜虔信就徐州殺軌。御正中大夫顏之儀切諫,帝不納,遂誅之。軌立朝忠恕,兼有大功,忽以無罪被戮,天下知與不知,無不傷惜。

○周40宇文孝伯伝

 帝之西征也,在軍有過行,鄭譯時亦預焉。軍還,孝伯及王軌盡以白,高祖怒,撻帝數十,仍除譯名。至是,譯又被帝親昵。帝既追憾被杖,乃問譯曰:「我脚上杖痕,誰所為也?」譯答曰:「事由宇文孝伯及王軌。」譯又因說王軌捋鬚事。帝乃誅軌。

○周40顔之儀伝

 宣帝即位,遷上儀同大將軍、御正中大夫,進爵為公,增邑一千戶。帝後刑政乖僻,昏縱日甚,之儀犯顏驟諫,雖不見納,終亦不止。深為帝所忌。然以恩舊,每優容之。及帝殺王軌,之儀固諫。帝怒,欲并致之於法。後以其諒直無私,乃舍之。

○隋62元巖伝
 後帝將誅烏丸軌,巖不肯署詔。御正顏之儀切諫不入,巖進繼之,脫巾頓顙,三拜三進。帝曰:「汝欲黨烏丸軌邪?」巖曰:「臣非黨軌,正恐濫誅失天下之望。」帝怒,使閹豎搏其面,遂廢于家。

 ⑴広陵公孝伯…字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に37歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。のち東宮左宮正とされ、太子贇の匡正を任された。576年に太子が吐谷渾討伐に赴くとお目付け役としてこれに従い、太子が数々の非行を行なうと帝に報告して太子の逆恨みを受けた。武帝が北斉討伐に赴くと内史下大夫とされ、留守の朝廷の政治を取り仕切った。その功により大将軍・広陵郡公とされた。間もなく宗師中大夫とされ、その後も留守を任された。帝の臨終の際には司衛上大夫とされ、後事を託された。宣帝が即位すると小冢宰とされ、斉王憲の排除を依頼されたが拒否した。のち、稽胡を討伐した。578年(3)参照。
 ⑵烏丸軌(王軌)…祖先は代々州郡の冠族の出で、北魏に仕えると烏丸氏の姓を賜り。のち北鎮に移って四代に亘って居住したという。父は北周の開府儀同三司・上黄郡公の烏丸光(王光)。真面目で正義感が強く、沈着冷静で見識があった。武帝に早くから仕え、帝が即位すると非常な厚遇を受け、腹心とされた。のち、晋公護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。護が誅殺されると内史中大夫(中書令?)・開府儀同三司とされ、国政にみな参与した。575年、太子贇が吐谷渾の討伐に赴くとそのお目付け役とされ、帰還すると贇の悪行を報告して贇の逆恨みを受けた。576年の東伐の際には晋州城を陥とし、上大将軍・郯国公とされた。陳が徐州を攻めると救援に赴き、578年にこれを大破し、主力を全て喪失させた。577年(4)参照。
 [1]〔資治通鑑では何故か広陵公孝伯が言ったことになっている。そして胡三省はこれを真に受けてこう批判している。〕宇文孝伯はどうしてこのような言葉を言ったのか! こう言うことで、死から免れようとしたのだろうか? しかし、結局死から免れることはできなかったのである。

●尉遅運・広陵公孝伯・東平公神挙の死
 これより前、北周の上柱国・盧国公の尉遅運は、右宮正だった時にしばしば宣帝当時は太子)を諌めたが、聞き入れられず、却って遠ざけられるに至っていた。のち、帝は運が自分が杖打たれた事件に関与していたのではないかと疑い、ますます運を憎むようになっていた。軌が誅殺されると、運は身の危険を感じ、保身の策を広陵公孝伯に尋ねて言った。
「我らはきっと災いから免れられないだろう。一体どうしたらよいか?」
 孝伯は答えて言った。
「今、この世には老母がおり、あの世には高祖がおられます。我らはこの大恩のある二者に、臣として子として、背いて逃げることはできないのです。そもそも、人に仕えたなら、名誉と節義に殉じて行動すべきであり、諌めて聞き入れられなかったなら、潔く死に就くべきなのです。足下がもし保身を図られるなら、ここから遠くに行かれるといいでしょう。」
 ここにおいて、二人はそれぞれの道を歩んだ。
 運は間もなく秦州(天水)総管・秦渭等六州諸軍事・秦州刺史とされたが、州に到ったのちも不安は消えなかった。
 この月、憂いが高じて死去した(享年41)。大後丞・秦渭河鄯成洮文等七州諸軍事・秦州刺史を追贈され、中と諡された。

 孝伯は朝廷に残って帝を諌め続け、ますます帝に憎まれた。帝は孝伯を誅殺しようとする時、斉王憲の一件を持ち出してこう責めて言った。
「公は斉王が叛乱を計画していたことを知っていたのに、どうして報告しなかったのか?」
 孝伯は答えて言った。
「臣が知っていたのは、斉王が忠臣であったのに、小人どもの讒言に遭って誅殺されたという事だけです。臣がこの事を言わなかったのは、言わずとも分かる明々白々な事だったからであります。ただ、臣は昔、先帝から陛下の輔導を命ぜられましたが、なかなか上手く諫言する事ができず、誠にご期待に背く結果となってしまいました。これを理由に処刑すると仰られるのなら、臣は甘んじてお受けいたします。」
 帝は大いに恥じ入り、うつむき黙り込んで会話を打ち切り、孝伯を皇宮から出して屋敷にて自殺させた(享年36)。

 柱国・北朔州(馬邑)総管の東平公神挙も、烏丸軌らと共に宣帝の短所を武帝に告げていた一人だった。また、神挙は高紹義の乱を平定した事で非常に高い軍事的名声を得ていた。宣帝はこの二点から神挙を嫌悪し、神挙も帝が即位してから不安を覚えていた。
 ここに至り、帝は遂に神挙に毒酒を送って自殺させた(享年48)。
 神挙は立派な容姿をしていて、弁舌が巧みだった。大の読書家で、文学を愛すると同時に、騎射を非常に得意とし、戦場に出れば勇敢に戦って計略も上手に操り、地方長官となれば常に成果を上げた。神挙はいつも施しを好み有能な者を愛し、快男児であろうとした。そのため、文武どちらの職でも成果を上げる事ができたのである。百官の中で彼の立派な立ち居振る舞いを慕わぬ者は無く、現在(唐代)になっても、彼の事を称賛し続けている。

 蔡東藩曰く…北周の武帝は軍事の才能に秀でた君主で、北斉を平定した後も更に陳軍を大破する事に成功した。実際に軍を指揮して陳軍を大破した者は王軌であるとはいえ、軌を用いた者は武帝なのであるから、その論理から言えば、帝が英明である事は間違いないだろう。ただ、武帝は人の才能は見抜いていたのに、我が子の品行や才能は見抜くことができなかった。太子贇宣帝)は愚昧であったのに、どうして皇帝の任に堪えられると判断したのであろうか? 他の子どもたちが幼く、帝位を継がせるのは不安だというなら、なぜ殷の例に倣って弟に継がせなかったのであろうか! まして、帝は兄の明帝から帝位を継いだ身だったのであるから、尚更その後塵を追って、国家のために弟に継がせるべきだったのに、どうして無闇に愚昧の子に継がせてしまったのであろうか? 果たして贇が帝位を継ぐと、勲功のある親族や臣下を殺し、道徳に背いた行ないを数多く働いた。後世の史書はみな、このような災いが起きたのは武帝が国家の行く末についてきちんと考えていなかったためだと言っている。ただ、問題は帝だけではなく、斉王憲らが伊尹・霍光のような行ない(国家のために不肖の天子を廃する)をせず、いたずらに手をこまねいて誅殺された事にもある。忠臣という者は愚者と紙一重で、せっかくの忠義も思考停止した盲目的なものであると、自身も国家も共に滅ぼすことに繋がる。国家の行く末に配慮した忠義を行なえるのが、聖人の聖人たる所以なのである!

 令狐徳棻曰く…宇文泰は国家の防衛に手一杯だった事や、人臣の身分で生を終えた事もあり、藩屏を作る暇が無かった。晋公護は宰相となって権力を得ると、宇文氏の一族を長幼と無くみな高官の位に就け、兵権を握らせたので、天下を統一することはできなかったものの、国家を盤石な物とすることに成功した。武帝は護を誅殺して親政を始めると、一族の専横に懲りてこれに権力を与えることを危険視し、表面上は高官の位に就けて尊重したものの、実際は猜疑して実権を与えなかった。これ以後、盤石だった国家の基礎は密かに朽ちて腐土となっていった。宣帝が帝位を継ぐと、凶暴さを思う存分に見せつけ、宗室の重鎮を誅殺し、公族をみな左遷していった。このため、権臣・謀士につけいる隙を与えてしまい、〔帝が死ぬと〕禅譲は非常に容易に速やかに行なわれ、一門は瞬く間に皆殺しにされてしまった。長い歴史の中でも、これほどまで酷いものは聞いたことが無い。枯れ朽ちた木に力を振るいやすいのは当然のことである。

 北周が南伐を停止した(去年の12月27日に開始していた)。

○周宣帝紀

 停南討諸軍。以趙王招女為千金公主,嫁於突厥。戊辰,以上柱國、鄖國公韋孝寬為徐州總管。乙亥,行幸鄴。丙子,初令授總管刺史及行兵者,加持節,餘悉罷之。

○周13史臣曰

 太祖之定關右,日不暇給,既以人臣禮終,未遑藩屏之事。晉蕩輔政,爰樹其黨,宗室長幼,竝據勢位,握兵權,雖海內謝隆平之風,而國家有盤石之固矣。高祖克翦芒刺,思弘政術,懲專朝之為患,忘維城之遠圖,外崇寵位,內結猜阻。自是配天之基,潛有朽壤之墟矣。宣皇嗣位,凶暴是聞,芟刈先其本枝,削黜遍於公族。…是以權臣乘其機,謀士因其隙,遷龜鼎速於俯拾,殲王侯烈於燎原。悠悠邃古,未聞斯酷。豈非摧枯振朽,易為力乎。

○周40尉遅運伝
 宣帝即位,授上柱國。運之為宮正也,數進諫於帝。帝不能納,反疏忌之。時運又與王軌、宇文孝伯等皆為高祖所親待,軌屢言帝失於高祖。帝謂運預其事,愈更銜之。及軌被誅,運懼及於禍,問計於宇文孝伯。語在孝伯傳。尋而得出為秦州總管,秦渭等六州諸軍事、秦州刺史。然運至州,猶懼不免。大象元年二月,遂以憂薨於州,時年四十一。贈大後丞、秦渭河鄯成洮文等七州諸軍事、秦州刺史。諡曰中。

○周40宇文神挙伝

 初,神舉見待於高祖,遂處心腹之任。王軌、宇文孝伯等屢言皇太子之短,神舉亦頗與焉。及宣帝即位,荒淫無度,神舉懼及於禍,懷不自安。初定范陽之後,威聲甚振。帝亦忌其名望,兼以宿憾,遂使人齎鴆酒賜之,薨於馬邑。時年四十八。
 神舉偉風儀,善辭令,博涉經史,性愛篇章,尤工騎射。臨戎對寇,勇而有謀。莅職當官,每著聲績。兼好施愛士,以雄豪自居。故得任兼文武,聲彰中外。百僚無不仰其風則,先輩舊齒至于今而稱之。

○周40宇文孝伯伝

 尉遲運懼,私謂孝伯曰:「吾徒必不免禍,為之奈何?」孝伯對曰:「今堂上有老母,地下有武帝,為臣為子,知欲何之。且委質事人,本狥名義,諫而不入,將焉逃死。足下若為身計,宜且遠之。」於是各行其志。運尋出為秦州總管。然帝荒淫日甚,誅戮無度,朝章㢮紊,無復綱紀。孝伯又頻切諫,皆不見從。由是益疏斥之。後稽胡反,令孝伯為行軍總管,從越王盛討平之。及軍還,帝將殺之,乃託以齊王之事,誚之曰:「公知齊王謀反,何以不言?」孝伯對曰:「臣知齊王忠於社稷,為羣小媒孽,加之以罪。臣以言必不用,所以不言。且先帝付囑微臣,唯令輔導陛下,今諫而不從,寔負顧託。以此為罪,是所甘心。」帝大慙,俛首不語。乃命將出,賜死于家。時年三十六。

○南北史演義
 周主邕為一英武主,平齊以後,又復敗陳,雖由陳將吳明徹之昏耄失算,以致兵敗受擒,然非周將王軌之鎖斷下流,亦不至挫失如此。敗陳者王軌,用軌者周主邕,推原立論,寧非由周主之英明乎?獨周主邕號稱知人,而不能自知其子,昏庸如贇,安得以大統相屬?就令諸子尚幼,不堪承嗣,何妨援兄終弟及之例,傳位同胞!況世宗毓已為前導,邕正可步厥後塵,奈何徒為子嗣計,不思為社稷計乎?及贇嗣位後,戮勛戚,殺功臣,種種失德,史不絕書,皆周主之貽謀不臧,有以致之。然當時如齊王憲輩,不能為伊霍之行,徒拱手而受戮,忠而近愚,亦不足取,身亡而國俱亡,此任聖之所以夐絕古今也!

 ⑴尉遅運…生年539、時に41歳。故・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。571年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。斛律光が汾北に侵攻してくるとこれを迎撃し、伏龍城を陥とした。572年に右侍伯とされ、のち右司衛とされた。のち忠良・剛直な点を評価され、右宮正とされて太子贇の匡弼を任された。衛王直の乱が起きると、宮城を守り切る大功を立て、大将軍とされた。のち、武帝から伐斉計画を事前に伝えられた。576年、柱国・盧国公とされた。578年、司武上大夫とされ、宿衛の兵を司った。帝が死ぬと侍衛の兵を率い、帝の棺と共に長安に帰った。宣帝が即位すると上柱国とされた。578年(2)参照。
 ⑵斉王憲…字は毗賀突。544~578。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。武帝が一時撤退する際、殿軍を務めた。再征時にも常に先鋒を任された。のち任城王湝と広寧王孝珩の乱を平定した。のち、稽胡を討伐した。武帝が死に宣帝が即位すると危険視され、誅殺された。578年(2)参照。
 ⑶東平公神挙…宇文神挙。生年532、時に48歳。儀同三司の宇文顕和の子。554年に父を喪うと族兄の安化公深に養育され、成人すると、才気煥発・眉目秀麗・堂々たる体躯の立派な青年となった。詩文を趣味としていたことで明帝と意気投合し、いつも一緒に外出した。564年、開府儀同三司とされ、566年に右宮伯中大夫・清河郡公とされた。572年、武帝から護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。のち、京兆尹とされた。574年、熊州刺史とされた。576年、陸渾など五城を陥とした。并州を平定すると、上開府・并州刺史とされた。577年、北朔州にて高紹義が乱を起こすとこれを討平した。のち柱国・東平郡公とされ、劉叔仁の乱を平定した。のち司武上大夫とされた。578年、突厥討伐に赴いたが、直前になって武帝が死去したため引き返した。間もなく盧昌期の乱・稽胡の乱を平定し、并州(北朔州?)総管とされた。578年(3)参照。
 ⑷高紹義…武平帝。北斉の文宣帝(初代皇帝)の第三子。初め広陽王とされたが、のちに范陽王に改められた。侍中・清都尹を歴任した。素行に問題があり、武成帝(北斉四代皇帝。高緯の父)や文宣帝の正室の昭信皇后(李祖娥)に杖で打たれた。後主が北周に敗れて晋陽から鄴に逃亡した際、定州刺史とされた。間もなく前北朔州長史の趙穆らに招かれて北朔州に赴き、北斉の旧臣を糾合して晋陽を奪取しようとしたが、周軍の逆襲に遭い、やむなく突厥に亡命した。間もなく皇帝に即位した。北周の幽州范陽にて盧昌期が叛乱を起こすと援軍に赴き、宇文恩の軍を大破したが、間もなく昌期が捕らえられた事を知ると撤退した。578年(3)参照。


 579年(2)に続く