●孝閔王、護の殺害を図る
 北周の孝閔王は剛毅な性格で、晋公護の専権をひどく憎んでいた。
 司会[1]李植柱国大将軍の李遠の子)は宇文泰の存命時より相府司録参軍[2]⑵として朝政を司り、軍司馬[3]孫恒も久しく権要の地位を占めていた。しかし、護が実権を握ると、植・恒は今の地位を保てるか不安に感じ、宮伯[4]乙弗鳳・張光洛・賀抜提・元進らと共に天王に護の悪口を吹き込んだ。植・恒はこう言った。
乙弗貴趙貴を誅殺して以来、護の威権は日に日に強盛となり、文武百官は競って護に付き従い、国政は大小となく、みな護によって決められる有り様となっております。臣らが観察しますに、護は臣節を守るような忠臣ではなく、王位を狙う逆臣であります。手がつけられなくなる前に、早く始末するべきであります!」
 天王が嘆息してこれに答えないでいると(南北史演義)、鳳らがこう言った。
「聡明な先王(宇文泰)さまでも、朝政を回すのに植・恒の力を借りていたのです。この優秀なる二人の力を借りれば、護の排除は成功間違い無しであります! それに、晋公(宇文護)はいつも我らに『輔佐のやり方は、周公に倣いたい』と言っているのです。周公(姫旦)は七年に渡って摂政をし、それから王(成王)に政権を返したとか。試みに問いますが、陛下は護が周公のような美徳を備えていると思われますか? また、仮に七年のあいだ護が王位を狙わなかったとしても(南北史演義)、陛下はそのあいだ彼の専権に耐えることができるのですか? 躊躇ってはなりません!」
 天王はここに至って遂に決意を固め、武士をしばしば後園に集めては訓練を行ない、護を捕らえる準備を進めた。
 少保・中領軍(近衛兵を司る)の蔡祐は同じ中領軍の尉遅綱と共に禁兵を司り、交代で朝廷に宿直していた。王が李植らを信任して護の殺害を図ると、祐は何度も泣きながら諫めたが、聞き入れられなかった。
 張光洛大権が護に在り、王が孤立しているのを見て、はかりごとが必ず失敗すると感じ(北史演義)遂に陰謀の一切を護に密告したすると護は言った。
「陛下に何ができよう? これを廃するのは簡単だが、人心を騒がすのはよくない。まず一味を傍から離すのがいいだろう。」(北史演義)
 かくて植を梁州(漢中)刺史に、恒を潼州(巴西。成都の東北)刺史にし、陰謀を未然に防ごうとした。のち、天王が植らを呼び戻そうとすると、護は泣いてこう言った。
「天下で最も信頼できるのは兄弟であります。その兄弟ですら信じられないのなら、誰も信じることはできなくなりますぞ! そもそも、太祖さま(宇文泰)は陛下が春秋に富まれるのを以て(若年であることを以て)、臣に後見を託されたのです。臣は兄として、或いは臣下として、陛下に真心を尽くす所存です。もし陛下が今すぐにでも自ら政治を執ってきちんと天下を治めていくことができますのなら、臣はいま処刑されても心残りはございません。ただ、問題は、臣が死んだのち、姦人が息を吹き返して、陛下の身だけでなく国家も滅ぼすような事になる可能性があるということなのです。そうなりましたら、臣はどんな顔をしてあの世で太祖さまに会えばいいのでしょうか。臣が陛下の不興を買ってまで政治に勤しむのは、ただただ、太祖さまの期待に応え、国家を護りたいという一心からなのです。それなのに、陛下は愚臣のこの真心を察されることなく、俄に疑いの目を向けられました。しかし、天子の兄であり、宰相でもある臣が、これ以上何を求めましょうか! どうか陛下、臣の心をよくよくお察しください。小人の讒言に惑わされて、大事な肉親を殺したりなさいませぬよう。」
 王はそこで植らを呼び戻すことを止めたが、護に対する猜疑心は依然として抱いたままだった。

○資治通鑑
 護泣諫曰:「...但恐除臣之後,姦回得志,非唯不利陛下,亦將傾覆社稷,使臣無面目見太祖於九泉。且臣既為天子之兄,位至宰相,尚復何求!願陛下勿信讒臣之言,疏棄骨肉。」王乃止不召,而心猶疑之。
○周孝閔紀
 帝性剛果,見晉公護執政,深忌之。司會李植、軍司馬孫恆以先朝佐命,入侍左右,亦疾護之專,乃與宮伯乙弗鳳、賀拔提等潛謀,請帝誅護。帝然之。又引宮伯張光洛同謀。光洛密白護,護乃出植為梁州刺史,恆為潼州刺史。
○周11晋蕩公護伝
 時司會李植、軍司馬孫恆等,在太祖之朝,久居權要。見護執政,恐不見容。乃密要宮伯乙弗鳳、張光洛、賀拔提、元進等為腹心,說帝曰:「護誅趙貴以來,威權日盛,謀臣宿將,爭往附之,大小政事,皆決於護。以臣觀之,將不守臣節,恐其滋蔓,願早圖之。」帝然其言。鳳等又曰:「以先王之聖明,猶委植、恆以朝政,今若左提右挈,何向不成。且晉公常云我今夾輔陛下,欲行周公之事。臣聞周公攝政七年,然後復子明辟,陛下今日,豈能七年若此乎。深願不疑。」帝愈信之。數將武士於後園講習,為執縛之勢。護微知之,乃出植為梁州刺史,恆為潼州刺史,欲遏其謀。後帝思植等,每欲召之。護諫曰:「天下至親,不過兄弟。若兄弟自搆嫌隙,他人何易可親。太祖以陛下富於春秋,顧命託臣以後事。臣既情兼家國,寔願竭其股肱。若使陛下親覽萬機,威加四海,臣死之日,猶生之年。但恐除臣之後,姦回得逞其欲,非唯不利陛下,亦恐社稷危亡。臣所以勤勤懇懇,干觸天威者,但不負太祖之顧託,保安國家之鼎祚耳。不意陛下不照愚臣款誠,忽生疑阻。且臣既為天子兄,復為國家宰輔,知更何求而懷冀望。伏願陛下有以明臣,無惑讒人之口。」因泣涕,久之乃止。帝猶猜之。
○周25李遠伝
 遠子植,在太祖時已為相府司錄參軍,掌朝政。及晉公護執權,恐不被任用,乃密欲誅護。語在孝閔帝紀。謀頗漏泄,護知之,乃出植為梁州刺史。
○周27蔡祐伝
 孝閔帝踐阼,拜少保。祐與尉遲綱俱掌禁兵,遞直殿省。時帝信任司會李植等,謀害晉公護,祐每泣諫,帝不聽。尋而帝廢。
○北史演義
 閔帝性剛果,本惡護之專權,及聞貴與信死,大怒曰:「晉公不遵朝命,擅殺大臣,直目中無我也,我何帝為!」有一朝臣姓李名植,乃陽平郡公李遠之子。植自太祖時為相府司錄,參掌朝政。又有司馬孫恒,亦久居權要。日在帝側,二人見護殺戮大臣,亦恐不容於護,思欲除之,乃與宮伯乙弗鳳、賀拔提共譖於帝曰:...植等又約宮伯張光洛同謀。光洛以大權在護,帝孤立於上,事必無成,乃陽許植,而陰以告護。護曰:「上何能為?廢之恐駭物聽,不如先離其黨。」
○南北史演義
 植與恆先入白道:「護擅戮朝貴,威權日甚,謀臣宿將,爭往依附,事無大小,絕不啟聞,臣料護包藏禍心,未肯終守臣節,還望陛下早日圖謀,無待噬臍!」周主覺唏噓不答。鳳與提從旁插嘴道:「...周公攝政七年,然後還政,試問護能如周公的賢聖麼?就使七年以內,護無異圖,恐陛下事事受制,亦怎能忍待七年?」周主覺頗以為然,因屢引武士至後園,演習技藝,為除奸計。宮伯張光洛,系護心腹,他卻佯言嫉護,交歡植等。植等未識真假,引與同謀,光洛即背地告護。

 [1]司会...周礼曰く、『司会は会計(財政)を司る。』北周の官制には司会中大夫があり、大冢宰に属し、五命の格がある。
 ⑴李遠...字は万歳。507~557。十二大将軍の一人。李賢の弟。宇文泰が侯莫陳悦を討伐した際、兄と共に原州にて内応し、泰に非常に気に入られ、腹心とされた。のち東方の要地の守備を任された。東魏の北豫州刺史の高仲密が西魏に寝返った際、率先して迎えに行くことを主張した。のち、孝閔帝が宇文泰の後継者となるのに大きく貢献した。
 [2]司録...柱国大将軍府には長史・司馬・司録が置かれた。格は正七命。
 ⑵司録...《周礼注》曰く、俸禄を司った(『天官。司会:中大夫二人,下大夫四人,上士八人,中士十有六人』)。《通典》曰く、唐・宋代に司録(録事)参軍あり。府の文書・帳簿を総録(統べる)し、善悪を挙弾した。
 [3]《唐六典》曰く、周礼曰く、大司馬の下に軍司馬下大夫がある(『夏官。大司馬,卿一人。小司馬,中大夫二人。軍司馬,下大夫四人。』)。恐らく兵部郎中と同じような任を帯びていたのであろう。北周は軍司馬中大夫(五命)を置いた(軍司馬が中大夫となっている理由は不明)。
 [4]《隋礼儀志》曰く、『左右宮伯は、近衛兵(皇宮の兵)を司る。』中領軍は中央軍を司る。
 ⑶《南北史演義》では『宮伯の張光洛は護の腹心であり、護を憎んでいると嘘をついて植らに近づいた。植らは真贋を見極めることができず、仲間に引き入れてしまった』とする。

●孝閔王の廃位
 乙弗鳳らはこの事情を知ると身の危険を覚え、天王にこう言った。
「もはや事態は切迫いたしました。陛下が護を殺さなければ、臣らは殺されます。臣らが殺されれば、陛下の死も目前に迫るのですぞ。」
 天王がこれに頷くと、鳳らは計画を早め、翌日にある(北史演義)諸公との酒宴を利用し、その席上で護を捕らえて殺そうと考えた。張光洛がこれを護に密告すると、護は柱国〔・大司馬〕の賀蘭祥と中領軍・小司馬の尉遅綱らと対策を講じた。祥らは護に廃立を勧めてこう言った。
「死を避けるためには、王を廃して別に賢明な君主を立てるしかありません。」
 護は言った。
「俄に廃立を行なえば、反発は大きいだろう。どうしたらよいものだろうか?」
 祥は言った。
「主君が輔佐に値するなら輔佐し、値しないなら廃するべきです。昔、先王(宇文泰)が魏の幼主(廃帝)を廃したのも、この理屈でした。事は前事を手本とし、速やかに為すのが宜しいでしょう。それに、そもそも、公の今日の位望を以てすれば、昏主を廃して明主を立てるのに、反発など起きないでしょう!」
 護はこれに頷いた(北史演義)この時、綱は禁兵(近衛軍)の指揮権を持っていた。綱は皇宮に入ると、話したいことがあると言って鳳らを誘い、やって来た所を捕らえて護の屋敷に送った。それから、宿衛の兵を解散して退去させた。
 この時、宮中にいた天王は陰謀がまだ漏れていないと思っており、成功疑いなしと見て、周囲にこう言っていた。
「護を誅殺した後は、賢明なる彼の者を宰相とし、優秀なる彼の者を行台(臨時軍政官)としよう。護の一味は皆殺しだ。」
 周囲は口々に追従の言を述べた。しかし、間もなく宿衛の兵が退去させられたことを聞くと、天王は大いに驚いて言った。
「きっと変事があったに違いない。守りを固めなくてはならぬ!」
 かくて急いで数十人の(北史演義)宮女を集め、武器を持たせて護衛させた。
 護は賀蘭祥を天王のもとに遣わし、退位を迫らせた。祥は抜き身の刀を持った武士二百人を引き連れて階上に上がり、天王に謁えた。祥は声を励ましてこう言った。
「陛下は小人を近づけ、非行に走り、君主の器が全くありませぬ。賀抜提らは晋公を殺して国家を危うくしようとしたため、既に捕らえました。公卿大臣は陛下が太祖の大業を守っていくことができないと考えております。臣は全臣民に代わって陛下に申し上げます。どうか王位を退き、略陽旧府(天王はむかし略陽公とされた)にお戻りなされますよう。臣らは別に新しい君主を立て、そのお方に万民を治めていただくことにいたします。」
 それから天王の左右にいる宮女を退けて言った。
「お前らを殺すことなど造作も無いのだ! とっとと退がれ!」
 宮女は驚懼して逃げ去った。天王は平伏して言った。
「慎重を期さなかったばかりに、こんなことになってしまった!」
 祥は天王に宮殿より退出するように命じ、一台の車に乗せて(北史演義)旧邸に送ると、その周囲を兵士で囲み、厳重な監視体制に置いた(北史演義)
 護は高官たちを集めて会議を開くと、涙を流しながらこう言った。
「先王は布衣(平民の身分)より身を起こし、自ら戦陣に立って三十余年に渡って国家のために力を尽くされた。しかし、賊徒を討平する前に、突如としてお隠れになってしまわれた。私は先王の甥であることを以て、先王から親しく遺命を受け、先王の嫡子の略陽公(孝閔王)を公らと共に盟主に立て、次いで魏を革めて周を興し、天下の主君とした。しかし、略陽公は即位して以来、酒色に溺れ、小人を近づけ、肉親を排斥し、挙げ句の果てには大臣大将をみな誅戮せんとした。もしこの企みが行なわれれば、国家の転覆は間違いなかったであろう。これでは、死んだのち泉下で先王に合わせる顔が無い。ゆえに、今日、私は略陽公を廃し、別に新王を立てることにした。この行ないは、略陽公に背くことにはなろうが、国家に背くことにはならないであろう。寧都公(宇文毓)は年齢・徳行ともに略陽公より優れ、天下の仰慕する所となっている。いま昏主を廃して、この明主を立てようと思うが、公らはどう思うか?」
 すると高官たちは口を揃えてこう言った。
「これは公の家庭内の問題であり、異論はございません!」
 そこで護は鳳らを宮門外にて斬首した。更に、潼州刺史の孫恒も〔中央に呼び戻して〕斬った。

○周孝閔紀
 鳳等遂不自安,更奏帝,將召羣公入,因此誅護。光洛又白之。時小司馬尉遲綱總統宿衞兵,護乃召綱共謀廢立。令綱入殿中,詐呼鳳等論事。既至,以次執送護第,並誅之。綱仍罷散禁兵,帝方悟,無左右,獨在內殿,令宮人持兵自守。護又遣大司馬賀蘭祥逼帝遜位。遂幽於舊邸。
○周11晋蕩公護伝
 鳳等益懼,密謀滋甚。遂克日將召羣公入醼,執護誅之。光洛具以其前後謀告護,護乃召柱國賀蘭祥、小司馬尉遲綱等,以鳳謀告之。祥等竝勸護廢帝。時綱總領禁兵,護乃遣綱入宮,召鳳等議事,及出,以次執送護第。因罷散宿衞兵,遣祥逼帝,幽於舊邸。於是召諸公卿畢集,護流涕謂曰:「先王起自布衣,躬親行陣,勤勞王業,三十餘年。寇賊未平,奄棄萬國。寡人地則猶子,親受顧命。以略陽公既居正嫡,與公等立而奉之,革魏興周,為四海主。自即位以來,荒淫無度,昵近羣小,疏忌骨肉,大臣重將,咸欲誅夷。若此謀遂行,社稷必致傾覆。寡人若死,將何面目以見先王。今日寧負略陽,不負社稷爾。寧都公年德兼茂,仁孝聖慈,四海歸心,萬方注意。今欲廢昏立明,公等以為如何?」羣臣咸曰:「此公之家事,敢不惟命是聽。」於是斬鳳等於門外,并誅植、恆等。
○北史演義
 乙弗鳳大懼,謂帝曰:「事不速斷,反受其亂。陛下不殺護,不唯臣等不免,弒逆之禍,即在目前。」帝又信之。於是密謀滋甚,定計於次日,召群臣入宴,因執護誅之。護寄腹心於光洛,朝夕伺帝,纖悉必報,聞帝有密謀,乃召柱國賀蘭祥、領軍尉遲綱,訴以朝廷見害之意。二人勸護廢之,曰:「公欲自全,不若另立賢明。」護曰:「主少國疑,遽行廢立,人心不服,奈何?」賀蘭祥曰:「嗣子可輔則輔之,不可輔則廢之。昔先王廢魏少主亦然。機在速為,前事可師也。以公今日位望,廢昏立明,誰敢不服!」護從其言。時尉遲綱總領禁兵,護使以兵入宮,先收其黨。綱至外殿,召乙弗鳳、賀拔提議事,二人不知事露,同來見綱。綱即執之,送入護第。因罷散殿前宿衛兵。時帝在宮中,尚以機事甚密,功成在即,謂左右曰:「誅護之後,某也賢,為宰相;某也才,為行台。凡屬護黨,盡行誅之。」眾皆稱善。及聞宿衛皆散,大驚曰:「此必有變,須防兵入。」忙集宮人數十,環衛左右,執兵自守。俄而,賀蘭祥奉護命,入宮見帝。甲士從者二百人,皆露刃上階。祥厲聲奏曰:「陛下昵近小人,不行正道,無人君之度。賀拔提等欲殺晉公以危社稷,今已收訖。公卿大臣恐陛下不能守太祖之業,有負臣民之望,請陛下歸略陽舊府。另立新主,管理萬民。」因斥左右宮人曰:「爾等死在目前,尚何為者!」宮人皆驚走。帝自投於地曰:「為事不密,害至於此。」祥乃逼帝出宮,以車一乘,送入舊第,使兵士圍守之。

 ⑴年齢...宇文毓は24歳、孝閔王は16歳。
 ⑵徳行...毓は優れた人格を有し、岐州では善政を行なっていた。

●李遠の死
 また、梁州刺史の李植をその父の李遠と共に長安に呼び戻した。
 この時、遠は東境の要地の弘農(恒農)を鎮守していた。召還の命を受けると遠は何か変事があったのではないかと疑い、命を受けることを躊躇ったが、やがてこう言った。
「大丈夫たる者、忠義を尽くして死ぬことはあっても、叛乱を起こして死ぬことだけはせぬ!」
 かくて召還に応じ、長安に到った。護は功名の高い遠の死を免じようと考えており、引見するとこう言った。
「公の子は異謀を企み、私を殺すだけに飽き足らず、国家も転覆させようとした。叛臣・賊子は共に憎むべき存在である。公よ、速やかに処分せよ。」
  かくて植を遠のもとに送った。口の達者な植が無実を主張すると、遠はもともと植を溺愛していたこともあり、遂に手を下さなかった。翌朝、遠は〔植の弁護をするために、〕植を連れて護の屋敷に赴いた。護は植が既に死んでいると思っていたため、遠がやってきた意味が分からず、左右にこう尋ねた。
「陽平公(李遠)はなぜ〔使者を送らず、〕自らやってきたのか?」
 左右は言った。
「植も門外におります。」
 これを聞くと、護は〔全てを察し、〕激怒して言った。
「陽平公、我を信ぜず!」
 かくて遠を屋敷の中に呼び入れると、遠に一緒に座るように命じ、それからもと天王の略陽公覚と植を前に引っ立てて尋問を行なった。植は返答に詰まると、覚にこう言った。
「こたびの計画は、ただ、国家を安んじ、陛下を助ける一心から出たもの! 今日ここに至っては、もはや何も言う事はありません!」
 遠はこれを聞くと、椅子から跳ね下りて護に平伏し、こう言った。
「これが真であるなら、誠に万死に値します!」
 かくて護は植を殺し、次いで遠に迫って自殺させた(10月29日。李遠、享年51)。植の弟の李叔詣・李叔謙・李叔讓も殺されたが、他の息子たちは年少を以て死を免じられた。
 これより前、遠の弟で大将軍・雍州刺史・小冢宰の李穆は植がいつか家を滅ぼすと見抜いており、事あるごとに遠に始末するよう勧めていたが、聞き入れられなかった。遠は死ぬ前、泣いて穆にこう言った。
「顕慶(李穆の字)、お前の言うことを聞かなかったばかりに、こんなことになった! いったいどうしたらいいのだ!」
 穆はこの一件を以て死を免じられ、平民に落とされるに留まった。穆の子弟も免官に遭った。
 植の弟で開府儀同三司・淅州(襄陽の西北)刺史の李基は当然死ぬ運命にあった。穆は何度も護のもとを訪れ、子の李惇李怡の命と引き換えに死を免ずるよう求めた。その言葉は哀切を極め、聞いた者の心を感動させずにはおかなかった。これに心を打たれた護は、基が宇文泰の娘の義帰公主を娶っていたことも考慮し、遂に基の死を免じ、惇らの命を奪うこともしなかった。
 遠・穆の兄で開府儀同三司・原州(天水の北)刺史の李賢も平民に落とされた。

 この事件の一ヶ月余りののち、護は略陽公覚を殺害した(享年16)。もと王后の元氏は出家して尼となった。

○周孝閔紀
 遂幽於舊邸,月餘日,以弒崩,時年十六。植、恆等亦遇害。
○周9孝閔元后伝
 帝被廢,后出俗為尼。
○周11晋蕩公護伝
 尋亦弒帝。
○周25李賢伝
 後以弟子植被誅,賢坐除名。
○周25李遠伝
 尋而廢帝,召遠及植還朝。遠恐有變,沉吟久之,乃曰:「大丈夫寧為忠鬼,安能作叛臣乎!」遂就徵。既至京師,護以遠功名素重,猶欲全宥之。乃引與相見,謂之曰:「公兒遂有異謀,非止屠戮護身,乃是傾危宗社。叛臣賊子,理宜同疾,公可早為之所。」乃以植付遠。遠素鍾愛於植,植又口辯,乃云初無此謀。遠謂為信然。詰朝,將植謁護,護謂植已死,乃曰:「陽平公何意乃自來也?」左右云:「植亦在門外。」護大怒曰:「陽平公不信我矣!」乃召入,仍命遠同坐,令帝與植相質於遠前。植辭窮,謂帝曰:「本為此謀,欲安社稷,利至尊耳。今日至此,何事云云。」遠聞之,自投於牀曰:「若爾,誠合萬死。」於是護乃害植,并逼遠令自殺。時年五十一。植弟叔諧、叔謙、叔讓亦死。餘並以年幼得免。
○周25李基伝
 尋以兄植被收,例合坐死。既以主貴,又為季父穆所請,得免。
○周30李穆伝
 及遠子植謀害晉公護,植誅死,穆亦坐除名。時植弟基任淅州刺史,例合從坐。穆頻詣護,請以子惇、怡等代基死,辭理酸切,聞者莫不動容。護矜之,遂特免基死。
○隋37李穆伝
 宇文護執政,穆兄遠及其子植俱被誅,穆當從坐。先是,穆知植非保家之主,每勸遠除之,遠不能用。及遠臨刑,泣謂穆曰:「顯慶,吾不用汝言,以至於此,將復奈何!」穆以此獲免,除名為民,及其子弟亦免官。植弟淅州刺史基,當坐戮,穆請以二子代基之命,護義而兩釋焉。

●宇文毓の即位
 尉遅綱の子で北周の儀同三司の尉遅運が岐州(長安の西)に赴き、寧都公毓を迎えた。
 癸亥(9月27日)、毓が長安に到り、旧寧都公邸に宿泊した。
 甲子(28日)、群臣が毓に上表し、天王の位に即くよう勧め、法駕(天子の車)を引いて迎えに赴いた。毓は固辞したが、群臣が折れないのを見ると、遂に天王の位に即いた。〔これが北周の明王である(時に24歳)。〕王は天下に大赦を行なった。

○周明帝紀
 及孝閔帝廢,晉公護遣使迎帝於岐州。秋九月癸亥,至京師,止於舊邸。甲子,羣臣上表勸進,備法駕奉迎。帝固讓,羣臣固請,是日,即天王位,大赦天下。
○周11晋蕩公護伝
 迎世宗於岐州而立之。
○周25李遠伝
 時太祖嫡嗣未建,明帝居長,已有成德。
○周40尉遅運伝
 尉遲運,大司空、吳國公綱之子也。少彊濟,志在立功。魏大統十六年,以父勳封安喜縣侯,邑一千戶。孝閔帝踐阼,授使持節、車騎大將軍、儀同三司。俄而帝廢,朝議欲尊立世宗,乃令運奉迎於岐州。

●叱羅協
 護は〔軍司馬の〕孫恒・〔司会の〕李植を誅殺したのち、司会(会計を司る)の柳慶と司憲(司法を司る。御史中丞)の令狐整を腹心にしようとした。しかし、慶・整は任に堪えないとして辞退し、〔開府儀同三司・行潼州事?の〕叱羅協を推薦した。護は自分の意に背いた二人を憎み、以後疎んじるようになったが、二人の言う通り協を長安に呼んだ。
 協がやってくると、護は協と寝所を共にし、腹心となるよう求めた。協は喜んでこれに従い、身命を賭して護に尽くすことを誓った。護は大いに喜び、協を得るのが遅かったことを悔やんだ。かくて即座に軍司馬とし、軍事を任せた。間もなく治御正とし、更に自分の府長史とし、公に爵位を進め、千戸を加増した。協はいつも護のそばに付き従い、献策をするとその大半が採用された。
 明王は協の才能が平凡で見識が浅いと見ており、協の昇進を拒否し、協によくこう言った。
「お前が何を知っているのか!」
 ただ、護に親任されている協を退けるのは難しかったので、〔朝廷にいることは〕やむなく容認していた。
 協は背が低く、貧相で、言動はこせこせとしていた。護の側近となると傲慢になり、朝士が意見を求めてくると、いつもこう言った。
「お前は分かっていないな。私が今から教えてやる。」
 しかし、その助言の多くが的外れなものだったので、人々から笑いものにされた。

 のちの北周の武帝の赦罪の詔曰く…「協は王業の草創期から小吏として仕え、我が国が建国された際には詔書の作製に携わり、遂に位は三階(三孤? 少傅)に、爵位は九等(九命。郡公)に列し、宰相(晋公護)の政治を良く輔佐し、軍民の生活を向上させた。」

○周11叱羅協伝
 晉公護既殺孫恆、李植等,欲委腹心於司會柳慶、司憲令狐整等。慶、整並辭不堪,俱薦協。語在慶、整傳。護遂徵協入朝。既至,護引與同宿,深寄託之。協欣然承奉,誓以軀命自効。護大悅,以為得協之晚。即授軍司馬,委以兵事。尋轉治御正,又授護府長史,進爵為公,增邑一千戶。常在護側,陳說時事,多被納用。世宗知其材識庸淺,每折(按抑)之。數謂之曰:「汝何知也!」猶以護所親任,難即屏黜,每含容之。...協形貌瘦小,舉措褊急。既以得志,每自矜高。朝士有來請事者,輒云「汝不解,吾今教汝」,及其所言,多乖事衷。當時莫不笑之。
○大周驃騎大将軍開府儀同三司大都督南陽郡開国公墓誌
 爰發明詔:「昔王業初開,已參刀筆。暨帝圖既構,復預絲綸,遂位列三階,爵標九等,翼兹宰輔,贊預軍民。

 ⑴叱羅協…本名は邕。字は慶和。499~574。低い家柄の出の恭謹な能吏。北魏→葛栄を経て爾朱兆→竇泰に仕え、後者の二人から重用を受けた。竇泰が敗れると西魏に降り、宇文泰にも重用を受けた。家族は東魏のもとにあったが、河橋で西魏が敗れても東魏に奔らなかった。南岐州刺史とされると東益州の乱を平定した。のち、尉遅迥の長史として伐蜀に参加し、行潼州事とされると新・潼・始三州の乱を平定した。のち、宇文氏の姓を与えられた。晋公護が実権を握るとその腹心となって軍司馬→治御正→府長史→少保→少傅とされた。のち、帝室と婚姻を結ぶために元の叱羅氏に戻してくれるよう求め、許された。571年、柱国とされた。572年に護が誅殺されると官爵を剥奪された。574年、罪を赦され、武帝としばしば昔の事について議論を交わした。

●馮遷
 また、護は北周が建国されたのち、もと南安王の拓跋偉元偉を司録(書記)としていたが、明王が即位すると偉を師氏中大夫とし、代わりに府掾の馮遷を司録とした。

 遷(生年501、時に57歳)は字を羽化といい、弘農の人である。父の馮漳は〔北魏の代に陝〕州(弘農)の従事となった。遷は若年の頃より慎み深く、才能があった。〔陝〕州から召し出されて従事とされ、北魏の神亀年間(518~520)に刺史の楊鈞から引き立てを受けて中兵参軍事とされ、のち定襄令や并州水曹参軍とされた。どの職でも真面目な職務態度を評価された。
 孝武帝が関中に亡命すると(534年)官を棄てて直閤将軍の馮霊と共に入関し、潼関の奪取や回洛城の平定に貢献し、給事中とされた。のち、小関・弘農・沙苑の戦いにも功を挙げ、都督・龍驤将軍・羽林監・独顕県伯(邑六百戸)とされた。洛陽の戦い(河橋?邙山?)では先陣を切って敵陣に突入し、瀕死の重傷を負った。功により輔国将軍・軍師都督・独顕県侯とされた。
 暫くして広漢(成都の東北百二十里)郡守とされた。この時(553~554年?)、蜀はまだ平定されたばかりだったため、人心が不安定だったが、分かりやすく優しい政治を行なうと、広漢郡の人心は落ち着きを取り戻した。恭帝二年(555)に車騎将軍・大都督・通直散騎常侍とされ、樊城を鎮守した。間もなく漢東(のちの隨州。襄陽の東)郡守とされた。
 北周が建国されると晋公護府掾とされ、車騎大将軍・儀同三司・臨高県公とされた。間もなく護の府司録とされ、驃騎大将軍・開府儀同三司とされた。遷は実直な性格で慎み深く、要職に就いても権勢を笠に着ることは無かった。また、政治に熟達し、良い判断を下すことができた。また、朝から夕方まで文書や帳簿に熱心に目を通し、飽きることを知らなかった。そのため、護に頗る信任された。
 のち、朝廷に長く仕えてきたことを以て故郷の陝州の刺史とされた。また、隆山郡公(二千戸)とされた。遷は低い家柄の出身だったため、陝州の人々はその赴任を喜ばなかったが、遷が謙虚な態度でいたため怨む者は現れなかった。

○周11馮遷伝
 弘農馮遷…字羽化。父漳,州從事。及遷官達,追贈儀同三司、陝州刺史。遷少修謹,有幹能,州辟從事。魏神龜中,刺史楊鈞引為中兵參軍事,轉定襄令,尋為幷州水曹參軍。所歷之職,咸以勤恪著稱。
 及魏孝武西遷,乃棄官,與直閤將軍馮靈豫入關。即從魏孝武復潼關,定回洛,除給事中。後從太祖擒竇泰,復弘農,戰沙苑,皆有功。授都督、龍驤將軍、羽林監,封獨顯縣伯,邑六百戶。及洛陽之戰,遷先登陷陣,遂中重瘡,僅得不死。以功加輔國將軍、軍師都督,進爵為侯。久之,出為廣漢郡守。時蜀土初平,人情擾動,遷政存簡恕,夷俗頗安之。魏恭帝二年,就加車騎將軍、大都督、通直散騎常侍,鎮樊城。尋拜漢東郡守。
 孝閔帝踐阼,入為晉公護府掾,加車騎大將軍、儀同三司,進爵臨高縣公。尋遷護府司錄,進授驃騎大將軍、開府儀同三司。遷性質直,小心畏慎,雖居樞要,不以勢位加人。兼明練時事,善於斷決。每校閱文簿,孜孜不倦,從辰逮夕,未嘗休止。以此甚為護所委任。後以其朝之舊齒,欲以衣錦榮之,乃授陝州刺史,進爵隆山郡公,增邑并前二千戶。遷本寒微,不為時輩所重,一旦刺舉本州,唯以謙恭接待鄉邑,人無怨者。
○周38元偉伝
 孝閔帝踐祚,除晉公護府司錄。世宗初,拜師氏中大夫。

 ⑴拓跋偉(元偉)…字は猷道(または子猷)。拓跋什翼犍(昭成帝)の子孫。元順の子。もと淮南王。穏やかで上品な人柄で、学問を好んだ。伐蜀の際、尉遅迥の軍府の司録となり、軍府の出す文書の全てを一人で作成した。北周が建国されると晋公護の司録とされ、明帝が即位すると師氏中大夫とされた。のち開府儀同三司とされ、外では隴右總管府長史・成州刺史、内では匠師中大夫・司宗中大夫・司宗・司会中大夫・民部中大夫・小司寇を歴任した。575年、北斉の内情を探るために正使として派遣されたが、高遵の裏切りにあって捕らえられた。577年、武帝が鄴を陥とすと救出された。

●元孝矩
 護は拓跋矩元矩)の妹を妻としていた縁から、孝矩と非常に親密な関係を築いていた。護が宰相となると、孝矩はますます寵遇を受けた。

○隋50元孝矩伝
 其後周太祖為兄子晉公護娶孝矩妹為妻,情好甚密。及閔帝受禪,護總百揆,孝矩之寵益隆。

 ⑴拓跋矩(元矩)…字は孝矩。北魏の雍州刺史の元修義の孫、西魏の安昌王の元均の子。祖父の爵位の始平県公を継ぎ、南豊州刺史とされた。元氏の窮状を見て事を起こそうとしたが、兄に制止された。

●宇文護、太師となる
 10月、癸酉(8日)、北周の太師・趙国公の李弼が亡くなった(享年64)。

〔江陵の陥落ののち、梁は建康に都を戻し、王僧弁が梁帝を輔佐したが、間もなく部下の陳覇先が下剋上を行なって建康一帯の君主となり(555年)、北斉の侵攻を撃退して(556年)江南東部・南部の支配者となった。
 乙亥(10日)、梁の相国・陳王の覇先が梁帝から禅譲を受けて皇帝の位に即いた。これが陳の武帝である。〕

 明帝二年(558)、春、正月、乙未(1日)、大冢宰・柱国大将軍の護を太師とし、輅車(天子の車)・冕服(天子の冠と服)を下賜した。また、子の宇文至字は乾附)を崇業郡公に封じた。

 3月、 甲午(1日)、北斉の北豫州(虎牢)刺史の司馬消難が北周に寝返った。北周は柱国大将軍の達奚武と大将軍の普六茹忠楊忠)らに五千騎を与え、消難の援軍に赴かせた。〔武らは北豫州城に入ることに成功したが、北斉の鎮城(防城大都督)の伏敬遠が抵抗したため撤退した。〕
 北周が雍州刺史を雍州牧に、京兆郡守を京兆尹に改めた。
 夏、4月、己巳(7日)、護を雍州牧とした。また、銅鍾・石磬の楽器を下賜した。
 5月、乙未(3日)、大司空・梁国公の侯莫陳崇を大宗伯とした。

○周明帝紀
 冬十月癸酉,太師、趙國公李弼薨。…二年春正月乙未,以大冢宰、晉公護為太師。…三月甲午,齊北豫州刺史司馬消難舉州來附,遣柱國、高陽公達奚武與大將軍楊忠率眾迎之。改雍州刺史為雍州牧 ,京兆郡守為京兆尹。…五月乙未,以大司空、梁國公侯莫陳崇為大宗伯。
○周11晋蕩公護伝
 二年,拜太師,賜輅車冕服。封子至為崇業郡公。初改雍州刺史為牧,以護為之,并賜金石之樂。


 宇文護伝(4)に続く