┃宇文泰の死
 恭帝三年(556)の9月、〔太師・柱国・大冢宰・安定公の宇文泰が北方の巡視より帰還し、牽屯山(天水の東北)に到った。間もなく、泰は突然病に倒れ、病状は日に日に悪化の一途を辿ったそこで泰は早馬を使い、大将軍・小司空・中山公の宇文護時に44歳)を急いで呼びつけた。護が涇州(安定)に到って泰に会った時、泰は既に危篤状態だった。泰は護にこう言った。
「わしの病状は見ての通りだ。もう助からないだろう。我が子たちはみな幼く、賊党はまだ平定されていない。天下の事は全てお前に任せた。どうか頑張って我が宿願を果たしてくれ。」
 護は涙を流して命を受けた。
 泰は間もなく雲陽宮(もと甘泉宮。長安の西北)に到った。
 護と〔大将軍・小司馬の〕賀蘭祥、〔大将軍・中領軍・兵部中大夫の〕蔡祐らが看病に当たった。
 10月乙亥(4日)宇文泰が雲陽宮にて薨去した(享年50)。
 護は泰の死を秘密にし、長安に到った所で初めて公表した

○周文帝紀
 九月,太祖有疾,還至雲陽,命中山公護受遺輔嗣子。冬十月乙亥,崩於雲陽宮,還長安發喪。時年五十二。
○周11晋蕩公護伝
 太祖西巡至牽屯山,遇疾,馳驛召護。護至涇州見太祖,而太祖疾已綿篤。謂護曰:「吾形容若此,必是不濟。諸子幼小,寇賊未寧,天下之事,屬之於汝,宜勉力以成吾志。」護涕泣奉命。行至雲陽而太祖崩。護祕之,至長安乃發喪。
○周27蔡祐伝
 太祖不豫,祐與晉公護、賀蘭祥等侍疾。

 ⑴賀蘭祥…字は盛楽。515~562。宇文泰の姉の子。宇文護の幼少時からの親友。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。特に宇文泰に可愛がられた。宇文泰が入関すると宇文護と共に晋陽に残り、のち、一緒に関中に赴いた。548年に荊州刺史とされると善政を布き、553年には行華州事、554年には同州刺史となった。六官の制が施行されると小司馬とされ、大司馬の宇文護と共に兵権を握って泰死後の護の政権樹立に大きく貢献した。北周が建国されると柱国・大司馬とされた。559年、吐谷渾を討伐した。のち涼国公とされた。
 ⑵蔡祐…字は承先。大利稽氏の姓を賜った。宇文泰に我が子のように遇された。河橋の戦いの際に敵に包囲されたが奮戦して脱出し、泰に膝枕をして安心させた。邙山の戦いでは明光の鎧を着て奮戦し、『鉄の猛獣』と恐れられた。恭帝二年(555)に中領軍とされ、六官の制が施行されると兵部中大夫とされた。泰が病気になると看病をし、泰が亡くなると悲しみのあまり病気になった。北周が建国されると少保とされ、尉遅綱と共に近衛兵を統轄した。明帝が即位すると小司馬とされた。帝とは公子時代から仲が良かったため、非常に礼遇された。

┃宰相となる
〔安定公世子の宇文覚が泰の跡を継いで太師・柱国・大冢宰・安定公となり、同州(もと華州。長安の東北二百八十里にある)の鎮守に赴いた。〕
 この時、覚はまだ幼く(15歳)、〔摂政が必要だった。は泰から後事を託されたとはいえ、名声・地位ともに諸公より劣っていた。そのため、諸公は護に従わず、争って自分が政治を取り仕切ろうとした。護がそこで柱国・大司寇・常山郡公の万紐于謹于謹に密かに助けを求めると、謹はこう言った。
「私は早くから丞相(宇文泰)に目をかけられ、家族に等しい恩義を受けてきました。〔その御恩返しをするのは今です。どうぞこの謹にお任せあれ。〕命を賭して事態を収拾してみせましょう。もし諸公が政策を決定してきても、絶対に譲歩してはなりませんぞ。」
 翌日、諸公が会議を開いた。〔太保・柱国・大宗伯・南陽郡公の〕乙弗貴趙貴が言った。
「丞相亡き今、代わりの宰相を決めねばならぬ。 個人的には、自分が適任だと思っているのだが。」
 人々が口を噤んだ時(北史演義)、謹がこう言った。
「昔、我が朝(北魏・西魏)は高歓に圧迫され、危機に瀕しておりました。しかし、丞相が救国の大志を抱き、自ら身をなげうって戦われたため、中興を得ることができたのです。人民が安寧を得たのも、また丞相のおかげでありました。しかし、今、上天が災いを降し、丞相を突然を我らから奪ってしまいました。残された跡継ぎは幼く、誰かの輔佐が必須であります。中山公は丞相の兄の子であり、しかも丞相の遺託を受けています。国家の大事は、道理から言って、中山公に託すのが当然でしょう。」
 その声音・顔色は激しく、一座の者はみな竦み上がった。すると護が言った。
「これはそもそも宇文家の問題だ。私は愚昧の身だが、辞退する気は毛頭無い。」
 元来、謹は宇文泰と〔建前上〕同輩の身分であったため、護は常に謹に丁重な礼を執っていた。しかしここにいたり、逆に謹が護に小走りの礼を執って前に進み出、こう言った。
「公が国家を統御なされるなら、謹らは直ちに命に服します。」
 そして再拝の礼を執った。諸公も謹に押される形で護に再拝の礼を執った。ここにおいて護の権威は定まった。
 当時、西魏の人々は、強敵が存在している中で幼い覚が跡を継いだ事に不安を覚えていた。しかし、護が後見人となり、文武百官を安撫すると、人心は落ち着きを取り戻した。
 これより前、泰はよくこう言っていた。
「わしには胡人の加護がある。」
 その時は何の事を言っているのか分からなかったが、ここに至って、人々はそれが護の字を指していたことに気付いた。護は間もなく柱国大将軍の位に就いた。

○周11晋蕩公護伝
 時嗣子冲弱,彊寇在近,人情不安。護綱紀內外,撫循文武,於是眾心乃定。先是,太祖常云「我得胡力」。當時莫曉其旨,至是,人以護字當之。尋拜柱國。
○周15于謹伝
 及太祖崩,孝閔帝尚幼,中山公護雖受顧命,而名位素下,羣公各圖執政,莫相率服。護深憂之,密訪於謹。謹曰:「夙蒙丞相殊睠,情深骨肉。今日之事,必以死爭之。若對眾定策,公必不得辭讓。」明日,羣公會議。謹曰:「昔帝室傾危,人圖問鼎。丞相志在匡救,投袂荷戈,故得國祚中興,羣生遂性。今上天降禍,奄棄庶寮。嗣子雖幼,而中山公親則猶子,兼受顧託,軍國之事,理須歸之。」辭色抗厲,眾皆悚動。護曰:「此是家事,素雖庸昧,何敢有辭。」謹既太祖等夷,護每申禮敬。至是,謹乃趨而言曰:「公若統理軍國,謹等便有所依。」遂再拜。羣公迫於謹,亦再拜,因是眾議始定。
○北史演義
 次日,群公會議。太傅趙貴對眾曰:「丞相亡,誰主天下事?蓋陰以自命也。」眾莫發言。

 ⑴宇文覚…字は陁羅尼。宇文泰の第三子。母は拓跋氏(元氏)。542~557。剛毅な性格。有名な人相見に「この上なく貴い相を備えているが、寿命が短い。」と評された。556年3月に宇文泰の後継者に指名された。
 ⑵護の字は薩保。薩保は胡人(西方人)の管理者、或いはゾロアスター教の司祭の意。

┃北周の建国
 宇文覚は幼かったため、人心が安定しなかった。はそこで覚を早く帝位に即けることで動揺を鎮めようとした
 12月甲申(14日)泰の埋葬が終わると、は天命が既に宇文氏に帰した事を以て、恭帝拓跋廓)のもとに人を派し、覚に禅譲するよう示唆した
 庚子(30日)、帝が詔を下し、帝位を覚に譲った。
 閔帝元年(557)、正月、辛丑(1日)が天王の位に即いた。これが北周の孝閔王である北周の建国
 天王は、〔柱国大将軍で、太傅・〕大司徒・趙郡公の徒河弼李弼を太師とし、〔太保・〕大宗伯・南陽公の乙弗貴趙貴を太傅・大冢宰とし、大司馬・河内公の独孤信を太保・大宗伯とし、〔小司空・中山公の〕を大司馬とした。


 乙卯(15日)、天王が詔を下して言った。
「国家創始の際は、藩国を建てて安定を図るのが常である。ゆえに今、大いに藩国を建て、周の藩屏とすることにする。」
 かくて太師の徒河弼李弼)を趙国公とし、太傅の乙弗貴趙貴)を楚国公とし、太保の独孤信を衛国公とし、大司寇の万紐于謹于謹を燕国公とし、大司空の侯莫陳崇を梁国公とし、大司馬のを晋国公とした。
 
○周孝閔紀
 十二月…庚子,禪位於帝。…元年春正月辛丑,即天王位。…以大司徒、趙郡公李弼為太師,大宗伯、南陽公趙貴為太傅、大冢宰,大司馬、河內公獨孤信為太保、大宗伯,柱國、中山公護為大司馬。…乙卯,詔曰:「惟天地草昧,建邦以寧。今可大啟諸國,為周藩屏。」於是封太師李弼為趙國公,太傅趙貴為楚國公,太保獨孤信為衞國公,大司寇于謹為燕國公,大司空侯莫陳崇為梁國公,大司馬、中山公護為晉國公,邑各萬戶。
○周11晋蕩公護伝
 太祖山陵畢,護以天命有歸,遣人諷魏帝,遂行禪代之事。孝閔帝踐阼,拜大司馬。
○資治通鑑
 魏宇文護以周公幼弱,欲早使正位以定人心。

 ⑴徒河弼(李弼)…字は景和。494~557。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされ、552年に徒河氏の姓を賜った。宇文泰が西方の巡視に赴くと留守を任された。556年、太傅・大司徒とされた。北周が建国されると太師・趙国公とされた。
 ⑵独孤信…字は期弥頭。もとの名は如願。503~557。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。武川出身で、宇文泰の幼馴染み。爾朱氏に仕え、韓婁討伐の際、漁陽王の袁肆周を一騎打ちで倒して捕らえた。530年、
荊州の新野鎮将・新野郡守とされ、間もなく荊州防城大都督・南郷守とされると、その両方において政績を挙げ、淅陽郡守の韋孝寛と共に『連璧』と並び称された。賀抜勝が南道大行台・荊州刺史とされると大都督とされた。間もなく孝武帝の信任を受け、帝が関中に逃れるとこれに付き従って入関し、宇文泰の配下となった。のち荊州攻略を任されたが、東魏の反撃に遭って梁への亡命を余儀なくされた。3年後の537年、西魏に帰還した。540年、隴右十一州大都督・秦州刺史とされ、以後長く西魏の西境を守った。557年、宇文護との政争に敗れ、自殺に追い込まれた。
 ⑶侯莫陳崇…字は尚楽。514~563。八柱国の一人。武川鎮出身。寡黙で、騎射に優れた。爾朱栄に仕え、北魏末の群雄・万俟醜奴を単騎で捕らえた。のち賀抜岳に仕え、岳が侯莫陳悦に殺されると宇文泰を主君とした。悦討伐の際、原州を攻略した。のち、河橋の戦いで随一の功を立てた。559年、大司徒とされた。563年、宇文護に殺された。

┃趙貴誅殺
 北周の太傅・大冢宰・楚国公の乙弗貴趙貴と太保・大宗伯・衛国公の独孤信は国家の元勲であり、西魏時代に宇文泰と〔建前上〕同等の身分(柱国大将軍)にあったが、孝閔王が即位すると、〔自分たちよりも低い身分(大将軍)にあった〕の下風に立つようになった。これに大きな不満を抱いた二人は、やがて護の殺害を企てた。約束の日、貴が事を起こそうとすると、信はこう言った。
「やはり護を殺すのはいかん。護が摂政となったのは先王のご意志であるし、しかも護は先王の近親である。我らがこれを殺すのは良くないだろう。」
 貴はそこで決行を取り止めた《北史演義》開府儀同三司〔・塩州(もと西安州。黄河屈曲部にある)刺史・漁陽県公〕の宇文盛が長安に到って護に陰謀を密告すると、護はこう言った。
「先手を打たねば、必ず後悔することになろう!」
 丁亥(18日)壮士を宮殿内に潜ませ《北史演義》、貴が参内してきた所を捕らえて殺した。
 天王は詔を下して言った。
『朕の父・文王(宇文泰)は、昔、諸公および文武百官と協力して天下を統治した。二十三年の間(534~556年)、諸公たちは何の不満も持たずに代わるがわる父を補佐し、遂には余を天王の位に即けるまでに至った。朕は不徳の身であるが、この経緯は重々承知している。ゆえに、朕は諸公に対し、同姓の者なら兄弟と思い、異姓の者なら舅甥と思い、いずれ天下を平定したら、子々孫々に至るまで共に富貴を享受しようと考えていた。しかし朕は不明ゆえ、国家をよくまとめることができなかった。楚公貴はそんな朕に不満を感じ、万俟幾通叱奴興王龍仁・長孫僧衍らに密かに不正な授官を行なって〔仲間に引き入れ、〕国家の転覆を図った。しかし、彼らは事を起こす前に、開府の宇文盛らの告発を受けた。そこで彼らに詳しく問い質してみた所、みな素直に罪を認めた。ここに至り、朕は深く同情の念を覚えた。ただ、法は天下の法であり、朕はそれを執行する立場にある。その朕が、どうして私情を挟んで法を蔑ろにする事ができようか。ただ、書に「善を褒める場合は子孫にまで及ぼし、悪を罰する場合は犯人一人だけに留めるべき」とあるゆえ、貴・通・興・龍仁の罪は一家に、僧衍は一房(妻妾)のみに留め、他は不問とすることとする。文武百官は、朕の心中をよくよく理解せよ。』
 ただ、独孤信は国内に非常な影響力があったため、殺すことはせず、免官のみに留めた[1]。また、信の第二子で河州(天水の西)刺史の独孤善も免官とした(長子の羅は北斉に抑留中)。
 
 天王は宇文盛を大将軍・忠城郡公・涇州都督とし、鎧一領と奴婢二百人、馬五百頭を下賜し、牛・羊・田地・食器類などもこれに比例する形で下賜した。
 また、盛の弟で大都督・臨邑県子の宇文丘も、密告に関係したことで車騎大将軍・儀同三司・安義県侯とされた。

 長孫僧衍は荊州総管・荊襄等五十二州諸軍事・行荊州刺史の長孫倹の長子である。
 護は倹を朝廷に呼び戻し、小冢宰とした。

○周孝閔紀
 丁亥,楚國公趙貴謀反,伏誅。詔曰:
 朕文考昔與羣公洎列將眾官,同心戮力,共治天下。自始及終,二十三載,迭相匡弼,上下無怨。是以羣公等用升余於大位。朕雖不德,豈不識此。是以朕於羣公,同姓者如弟兄,異姓者如甥舅。冀此一心,平定宇內,各令子孫,享祀百世。而朕不明,不能輯睦,致使楚公貴不悅于朕,與万俟幾通、叱奴興、王龍仁、長孫僧衍等陰相假署,圖危社稷。事不克行,為開府宇文盛等所告。及其推究,咸伏厥辜。興言及此,心焉如痗。但法者天下之法,朕既為天下守法,安敢以私情廢之。書曰「善善及後世,惡惡止其身」,其貴、通、興、龍仁罪止一家,僧衍止一房,餘皆不問。惟爾文武,咸知時事。
 太保獨孤信有罪免。
○周11晋蕩公護伝
 趙貴、獨孤信等謀襲護,護因貴入朝,遂執之,黨與皆伏誅。
○周16趙貴伝
 初,貴與獨孤信等皆與太祖等夷,及孝閔帝即位,晉公護攝政,貴自以元勳佐命,每懷怏怏,有不平之色,乃與信謀殺護。及期,貴欲發,信止之。尋為開府宇文盛所告,被誅。
○周16独孤信伝
 趙貴誅後,信以同謀坐免。
○周16独孤善伝
 善字伏陁,幼聰慧,善騎射,以父勳,封魏寧縣公。魏廢帝元年,又以父勳,授驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵長安郡公。孝閔帝踐阼,除河州刺史。以父負舋,久廢於家。
○周29宇文盛伝
 驃騎大將軍、開府儀同三司、鹽州刺史。及楚公趙貴謀為亂,盛密赴京告之。貴誅,授大將軍,進爵忠城郡公,除涇州都督,賜甲一領、奴婢二百口、馬五百疋,牛羊及莊田、什物等稱是。
○周29宇文丘伝
 盛弟丘。丘字胡奴,起家襄威將軍、奉朝請、都督,賜爵臨邑縣子。稍遷輔國將軍、大都督。預告趙貴謀,拜車騎大將軍、儀同三司,進爵安義縣侯,邑一千戶。
○北22長孫倹伝
 後移鎮荊州,總管荊襄等五十二州諸軍事、行荊州刺史。及周閔帝初,趙貴等將圖晉公護,儉長子僧衍預其謀,坐死。護乃徵儉,拜小冢宰。
○北史演義
 有楚公趙貴、衛公獨孤信,二人功勞勛望,群臣莫及,太祖嘗倚為腹心。及護專政,威福自由,二人怏怏不服。貴謀殺護,信止之曰:「不可。此乃先王之意,又其至親,吾等殺之不祥。」貴乃止。其時二人密語室中,有帝幼弟宇文盛自窗外聞之,遂以告護。護曰:「事不先發,必貽後悔。」乃伏壯士於殿內,貴入朝,擒而殺之。免獨孤信官。

 ⑴宇文盛…字は保興。本姓は破野頭。代々沃野鎮軍主を務めた家の出。宇文述の父で、宇文化及の祖父。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。570年に大宗伯、573年に少師とされた。武帝の北斉討伐の際には汾水関を守備した。宣帝が即位すると上柱国とされた。
 ⑵叱奴興...開府儀同三司。伐蜀に参加し、蜀で起きた叛乱の鎮定にも活躍した。554年(4)参照。
 ⑶《春秋公羊伝》昭公二十年に曰く、『悪悪止其身,善善及子孫。』
 [1]これはいわゆる『国君年少にして国人安んぜず、大臣懐かざる』(《史記》呉起伝)時である。趙貴を殺したことで、護の威権は確立したのである。
 ⑷宇文丘…字は胡奴。513~572。宇文盛の弟。兄と共に趙貴の陰謀を宇文護に密告し、その功によって儀同三司・安義県侯とされた。のち延綏丹三州三防諸軍事・延州刺史→轉涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史・柱国大将軍とされた。
 ⑸長孫倹…491~568。もとの名は慶明。北魏の名族の出。容貌魁偉で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、その飛躍に大きく貢献した。のち、540~546年、549年以降の長期に亘って荊州を統治し、江陵攻略を進言した。557年、長子が宇文護暗殺を図ったことが問題視され、中央に呼び戻されて小冢宰とされた。562年に浦州刺史、564年に柱国大将軍・襄州刺史、566年に陝州刺史とされた。

┃宿将動揺
 これより前、護が宰相となった時、侯伏侯龍恩は〔邙山で護を救った経緯から〕信任を受けた。
 現在、乙弗貴趙貴が誅殺されると、宿将たちの多くが身に不安を覚えた。この時、龍恩の従弟で開府〔・司倉下大夫〕の賀屯植侯植)が龍恩にこう言った。
「今、主上は幼く、国家の安危は諸公の団結如何にかかっていますが、〔外敵は強敵でありますので、〕団結がいくら強固なものであってもなお不安が残ります。まして、関係が薄弱で、殺し合っているようなら尚更です! 私は今回のことで人心がばらばらになってしまわないか心配しています。兄上は晋公に信任されているのに、どうしてこの事を忠告しないのですか。」
 しかし、龍恩はとうとう忠告することができなかった。
 植はまた、機を見て護にこう言った。
「主上と明公の関係は父子の関係に等しく、終生、運命を共にする間柄であります。その上、宰相の重任を受けておりますゆえ、国家の命運は実に明公の手にかかっております。どうか、明公は伊尹・周公のように主上に忠誠を尽くし、国家を泰山のように不動のものとなされますよう。さすれば、明公の子孫は永く富み栄え、国民もみな幸せとなるでしょう。」
 護は答えて言った。
「私は太祖(宇文泰)の甥で、大恩も蒙っている身ゆえ、はなから国に身を捧げる覚悟はできている。賢兄(龍恩?)も私のこの心を当然知っている。〔それなのに、〕どうして卿は私に二心があるかのような物言いをするのか。」
 護は先に龍恩から植の言葉を聞いていたのもあり、以降、植を遠ざけるようになった。

○周29侯植伝
 六官建,拜司倉下大夫。孝閔帝踐阼,進爵郡公,增邑通前二千戶。
 時帝幼冲,晉公護執政,植從兄龍恩為護所親任。及護誅趙貴,而諸宿將等多不自安。植謂龍恩曰:「今主上春秋既富,安危繫於數公。共為唇齒,尚憂不濟,況以纖介之間,自相夷滅!植恐天下之人,因此解體。兄既受人任使,安得知而不言。」龍恩竟不能用。植又乘間言於護曰:「君臣之分,情均父子,理須同其休戚,期之始終。明公以骨肉之親,當社稷之寄,與存與亡,在於茲日。願公推誠王室,擬迹伊、周,使國有泰山之安,家傳世祿之盛,則率土之濱,莫不幸甚。」護曰:「我蒙太祖厚恩,且屬當猶子,誓將以身報國,賢兄應見此心。卿今有是言,豈謂吾有他志耶。」又聞其先與龍恩言,乃陰忌之。

●新体制
 甲午(25日)、柱国大将軍で、大司寇・燕国公の万紐于謹于謹)を太傅(もと趙貴の官)・大宗伯(もと独孤信の官)とし、大司空・梁国公の侯莫陳崇を太保(もと独孤信の官)とし、大司馬の護を大冢宰(もと趙貴の官)とし、〔親友で〕小司馬・博陵公の賀蘭祥を大司馬とし、高陽公の達奚武を大司寇とし、大将軍で化政公の宇文貴を柱国大将軍とし、中領軍の尉遅綱を小司馬とした。


 護は、親戚で、しかも幼少の頃に親しい仲だった賀蘭祥を〔非常に信頼し、〕大事はみな祥と相談して決めた。乙弗貴趙貴を誅殺できたのは、祥の力が大きく関わっていた。
 これより前、宇文泰は丞相となると(534年)、左右十二軍を組織して丞相府に隷属させた。泰の死後、十二軍はみな護の命に従い、護の命令書が無ければ動こうとしなかった。また、護は自分の屋敷に衛兵を置いたが、その規模は皇宮のそれよりも大きかった。護は大小となく、国家のことは全て徒河弼李弼万紐于謹于謹・侯莫陳崇らと相談しつつ自分で決め、それから天王に報告をして追認を得た。

○周孝閔紀
 甲午,以大司空、梁國公侯莫陳崇為太保,大司馬、晉國公護為大冢宰,柱國、博陵公賀蘭祥為大司馬,高陽公達奚武為大司寇,大將軍、化政公宇文貴為柱國。
○周11晋蕩公護伝
 拜大冢宰。…自太祖為丞相,立左右十二軍,總屬相府。太祖崩後,皆受護處分,凡所徵發,非護書不行。護第屯兵禁衞,盛於宮闕。事無巨細,皆先斷後聞。
○周15于謹伝
 遷太傅、大宗伯,與李弼、侯莫陳崇等參議朝政。
周20賀蘭祥伝
 孝閔帝踐祚,進位柱國,遷大司馬。時晉公護執政,祥與護中表,少相親愛,軍國之事,護皆與祥參謀。及誅趙貴,廢孝閔帝,祥有力焉。
○周20尉遅綱伝
 孝閔帝踐阼,綱以親戚掌禁兵,除小司馬。

 ⑴達奚武…字は成興。504~570。北周の名将。非常な浪費家で、派手に着飾ることを好んだ。騎射に優れ、沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。552年、漢中を陥とす大功を立てた。553年、玉壁の鎮守を任された。558年、司馬消難を迎え入れる役目を任された。563~4年に南道より晋陽攻略に向かったが、中途にて迎撃に遭い、引き返した。564年、同州刺史とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られると、なおも継戦を主張する斉公憲を説得して撤退させた。568年、太傅とされた。高官の地位に就いても外出の際にはいつも単騎で出かけ、従者は一人か二人を連れて行くだけだった。また、外門には戟を持った衛士を置かず、白昼はただ扉で覆うだけだった。
 ⑵宇文貴…字は永貴。?~567。宇文泰に一族に準ずる扱いを受けた。537年の潁川の戦いにて東魏の大軍を大破した。のち、宕昌の乱・楊辟邪の乱を平定した。554から557年まで益州刺史を務め、武断政治を行なった。559年、吐谷渾の討伐に赴いた。564年、大司徒とされた。565年、可汗の娘を迎えるために突厥に赴いたが、抑留された。567年、帰国中に死去した。
 ⑶尉遅綱…字は婆羅。517~569。字は婆羅。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。557年に小司馬・柱国大将軍とされ、559年に呉国公とされ、561年に少傅→大司空とされた。562年、陝州総管とされた。564年、北周が東伐を行なうと、長安の留守を任された。568年、突厥可汗の娘の阿史那氏を迎えに国境まで出向いた。

┃独孤信の死
 護は独孤信を殺したかったが、その高い名声を憚り、公開処刑という形を取ることはできなかった。
 3月、己酉(10日)、信を自宅にて自殺させた(享年55)。
 
○周孝閔紀
 三月…己酉,柱國、衞國公獨孤信賜死。
○周16独孤信伝
 居無幾,晉公護又欲殺之,以其名望素重,不欲顯其罪,逼令自盡於家。時年五十五。


 宇文護伝(3)に続く