[513~572]



┃定州の難


 宇文護は字を薩保といい、〔北辺の武川鎮の出身で、〕宇文泰の兄の宇文顥の末子で、蛇年の時(癸巳、513)に産まれた。母は閻氏幼い時から品行方正で器量があったため、祖父の宇文肱に諸兄を差し置いて一番に可愛がられた。
 11歳の時に〔六鎮の乱が起こって〕父が戦死した(523年)。のち博陵郡(定州の東南)に一家で移住した(北魏は525年に六鎮の乱を平定させると、降伏者たち冀・定・瀛の三州に移住させていた。宇文一家の移住もこの一環か?)。
〔間もなく〕鮮于修礼左人城(定州の西北。唐城の西北四十里。修礼の蜂起した地)にて挙兵すると(525年〜526年1月)、〔これと合流するために〕左人城に向かおうとしたが、その途中、唐河(定州に流れる川。唐城の西三十里に流れる)の北に到った所で定州の官軍に敗れ、祖父の宇文肱と第二叔の宇文連が戦死した。
 護は母の閻氏と、連の妻の賀抜氏とその子の宇文元宝、第三叔の宇文洛生の妻の紇干氏とその子の宇文菩提の五人と共に捕らえられて定州城(中山)に連行された。間もなく、護は母の閻氏と共に元宝掌元麗)のもとに送られ、賀抜氏親子・紇干氏親子もそれぞれ違う者の所に送られた。宝掌は護を見てこう言った。
私はお前のおじいさんを知っているのだが、お前はおじいさんとよく似ている。
 宝掌は三日間唐城(定州の北六十里)に駐屯したのち、護たちを含めた男女六・七十人を洛陽に送った。護たちが定州城の南に到った時、同郷の姫庫根の家に泊まった。この時、宇文家の柔然の奴隷が鮮于修礼軍の篝火を遠くに見つけ、閻氏にこう言った。
今から本陣に伝えに行ってまいります!
 奴隷はその言葉通りに見事に修礼軍の本陣に辿り着き、護たちの所在を修礼軍に伝えた。すると、翌日の早朝、護の叔父(宇文洛生宇文泰)が兵を率いて奇襲をかけ、護たちを救出した。このとき護は十二(三〜四の誤り?)歳だったため、母の閻氏と一緒に馬に乗って軍に付き従った。

○周11晋蕩公護伝
 晉蕩公護字薩保,太祖之兄邵惠公顥之少子也。幼方正有志度,特為德皇帝所愛,異於諸兄。年十一,惠公薨
 …昔在武川鎮生汝兄弟,大者屬鼠,次者(第二)屬兔,汝身屬蛇。鮮于修禮起日,吾之闔家(合家)大小,先在博陵郡住。相將欲向左人城,行至唐河之北,被定州官軍打敗。汝祖及〔第〕二叔,時俱戰亡。汝(《北史》無し)叔母賀拔及兒元寶,汝叔母紇干及兒菩提,并吾與汝六人,同被擒捉入定州城。未幾間,將吾及汝送與元寶掌。賀拔、紇干,各別分散。寶掌見汝云:「我識其祖翁,形狀相似。」時寶掌〔軍〕營在唐城內。經停三日,寶掌所掠得男夫、婦女,可六七十(千)人,悉送向京。吾時與汝同被送限。至定州城南,夜宿同鄉人姬庫根家。茹茹奴望見鮮于修禮營火,語吾云:「我今走向本軍。」既至營,遂告吾輩在此。明旦日出,汝叔將兵邀截,吾及汝等,還得向營。汝時年十二,共吾並乘馬隨軍,可不記此事緣由也?

 ⑴宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。507~556。匈奴(鮮卑化)宇文部の出。北魏末に爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍した。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを迎え入れて西魏を建国し、丞相とされた。間もなく帝を殺害して文帝を立て、華北の大半を掌握した歓と小関・沙苑にて戦い、寡にして良く衆を破ったが、続く河橋・邙山の戦いでは善戦するも敗北を喫した。548年、太師とされた。梁が侯景の乱によって乱れると南方に目を向け、漢中・成都・襄陽・江陵の地を攻略し、領土を大きく広げることに成功した。556年、六官の制を採用して大冢宰に就いた。
 ⑵宇文顥...宇文泰の兄。孝行息子。523年に六鎮の乱が起きた際、武川の南河にて賊徒と戦い、落馬した父の宇文肱に自分の馬を譲り、戦死した。
 ⑶宇文肱...宇文泰の父。武川鎮出身。六鎮の乱が起きた際、賊将の衛可孤を襲殺した。のち鮮于修礼の配下となり、526年頃に北魏軍に敗れて戦死した。
 ⑷鮮于修礼…六鎮の出身。525~6年に強制移住先の左人城にて挙兵して魯興と改元し、討伐に来た河間王琛・長孫稚らの軍を破った。のち、部将の元洪業に殺された。
 ⑸宇文連…宇文泰の次兄。控えめで温厚な性格だったが、戦場に出ると勇敢に戦った。鮮于修礼に仕えて定州を攻めたが、敗れて戦死した。
 ⑹宇文洛生...宇文泰の三兄。鮮于修礼が殺されると葛栄に仕え、漁陽王に封ぜられて人々に洛生王と呼ばれた。武勇に優れ器が大きく、兵をよく統率して葛栄軍中随一の功を挙げた。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕えたが、優れた才能を警戒されて殺された。
 ⑺元麗…字は宝掌。景穆太子の孫。秦州の呂苟児・涇州の陳瞻が叛乱を起こすと、その討伐を命じられ、良く平定した。のち雍州刺史→冀州刺史→尚書左僕射とされた。良民を勝手に奴隷にしたり、道人を殺したりするなど、問題行動が目立った。

┃この児の志度、我に類す

〔間もなく鮮于修礼が部下に殺されると(526年8月)、〕叔父たちに従って葛栄に付いた。〔この時、第三叔の宇文洛生は漁陽王とされ、第四叔の宇文泰は将軍とされた。〕のち、葛栄が〔山西の群雄の〕爾朱栄に敗れると(528年)、〔爾朱栄の本拠地の〕晋陽(并州)に移住させられた。
〔この時、洛生は栄に危険視され殺害された。〕
 閻氏と共に寿陽(晋陽の東百六十里)に暮らした。この時、宇文元宝・宇文菩提と伯母(建安長公主。宇文泰の姉)の子の賀蘭祥の四人で一緒に勉強した。博士(先生)のに非常に厳しく当たられると、四人は博士に危害を加えようとしたが、その前に計画を事前に知った母親たちに叱られてぶたれた。この時、母がいなかった祥だけ(祥は11歳の時に孤児となった)ぶたれなかった。
 宇文泰が〔関中征討に従軍して〕入関した時(〜530年)、〔次兄の宇文導はこれに付いていったが、長兄の宇文什肥は母の閻氏のいる晋陽に残り、〕護もまだ幼かった(16~18歳)ため付いて行かなかった(人質か)。
〔護の伯母(昌楽長公主)の子の尉遅迥尉遅も母と共に晋陽に留まった。
 のち栄は華北を統一したが永安三年(530)に誅殺され、その後は爾朱氏一門が各地に拠って天下を支配した。
 この年、関西にいた賀抜岳が晋陽に人を遣って家族たちを呼び寄せた。この時、宇文泰も奴隷の来富を派して護と祥を呼び寄せた。
 普泰の初年(531年)、19歳となると、晋陽より〔賀抜岳の本拠地の〕平涼(天水の東北)に赴いた。この時、護は赤色の綾絹製の袍(上着)と銀で装飾された帯を身に着け、祥は紫織成纈(織成の手法で織られた、表は絞り染めの紫色で、裏地は黄色の綾絹製)の通身袍(長袍)を着て、騾馬に乗っていた。護と祥は閻氏のことを『阿摩敦(お母さん)』と呼んだ。
〔このとき尉遅迥尉遅も平涼に赴いた?

〔平涼に着くと、〕宇文泰はまだ幼い子どもたちので代わりに護に家の事を任せた。すると護は特に厳しいこともせずに家をよく治めてみせた。泰は感嘆して言った。
「この子の器量(才能)は私に似ている。」
〔のち爾朱氏一門は東道大行台の高歓に滅ぼされ(532年)、華北東部は歓のものとなった。〕
 賀抜岳は〔関中に拠って歓と対立し、侵攻に備えるために〕泰を夏州(統万。長安の遠北)刺史とした(533年)。泰はを岳のもとに残して夏州に赴いた。

○周11晋蕩公護伝
 隨諸父在葛榮軍中。榮敗,遷晉陽。太祖之入關也,護以年小不從。普泰初,自晉陽至平涼,時年十七。太祖諸子並幼,遂委護以家務,內外不嚴而肅。太祖嘗歎曰:「此兒志度類我。」
 及出臨夏州,留護事賀拔岳。
 …於後,吾共汝在受(壽)陽住。時元寶、菩提及汝姑兒賀蘭盛洛,并汝身四人同學。博士姓成,為人嚴惡,淩(汝)等四人謀欲加害。吾共汝叔母等聞之,各捉其兒打之。唯盛洛無母,獨不被打。其後爾朱天柱亡歲,賀拔阿斗泥在關西,遣人迎家累。時汝叔亦遣奴來富迎汝及盛洛等。汝時著(着)緋綾袍、銀裝帶,盛洛著紫織成纈通身袍、黃綾裏,竝乘騾同去。盛洛小於汝,汝等三人竝呼吾作「阿摩敦」。如此之事,當分明記之耳。今又寄汝小時所著錦袍表一領,至宜檢看,知吾含悲戚多歷年祀。

 ⑴葛栄...北魏末の群雄の一人。鮮于修礼の跡を継いで河北の大半を支配下に置いたが、528年、山西の群雄の爾朱栄に敗れて殺された。
 ⑵爾朱栄...字は天宝。山西の群雄で、北魏末に起きた叛乱を瞬く間に平定したが、野蛮で帝室を圧迫したため、孝荘帝に誅殺された。
 ⑶賀蘭祥...字は盛楽。515~562。宇文泰の姉の子で、宇文護の幼少時からの友。小司馬として大司馬の宇文護と共に兵権を握り、泰死後の護の政権樹立に大きく貢献した。559年、吐谷渾を討伐した。562年(2)参照。
 ⑷宇文導…字は菩薩。511~554。宇文顥の次子。宇文護の兄。十二大将軍の一人。宇文泰に信頼され、よく留守を任された。晩年には隴右の統治を任された。554年(4)参照。
 ⑸宇文什肥…宇文顥の長子。孝行者で、宇文泰に呼ばれても関中に行かず、母のいる晋陽に残った。のち、高歓に殺された。
 ⑹賀抜岳…字は阿斗泥。?~534。武川鎮出身。爾朱栄に仕え、その一門の爾朱天光の関中征討に左大都督として参加し、大いに活躍して雍州刺史とされた。栄や天光が死ぬと関中に自立し、孝武帝が即位すると関中大行台とされ、丞相の高歓と対立した。534年、岳の離間の計に遭って盟友の侯莫陳悦に殺された。
 ⑺尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。516~580。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。578年、相州総管とされた。579年、大右弼→大前疑とされた。580年、普六茹堅が朝廷の実権を握ると挙兵したが、賛同者を得られず、わずか68日で敗死した。
 ⑻尉遅綱…字は婆羅。517~569。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。557年に小司馬・柱国大将軍とされ、559年に呉国公とされ、561年に少傅→大司空とされた。562年、陝州総管とされた。564年、北周が東伐を行なうと、長安の留守を任された。568年、突厥可汗の娘の阿史那氏を迎えに国境まで出向いた。
 ⑼まだ幼い子どもたち…泰の長子の宇文毓(のちの北周の明帝)は534年生まれ。
 ⑽高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。北魏末に群雄の爾朱栄に仕えて晋州刺史とされ、栄が殺されると次第に頭角を現し、531年、信都にて挙兵して爾朱氏を撃ち破り、532年に華北東半部を制した。534年、擁立した孝武帝が宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。

┃邙山の恥
 岳が〔秦州刺史の〕侯莫陳悦に殺されると(534年)、泰は平涼に到ってその遺衆を収め、護を都督とした。護は悦討伐に参加した。のち北魏の孝武帝を迎え入れた(西魏の始まり)功により水池県伯(邑五百戸)とされた。
 大統の初年(535)、通直散騎常侍・征虜将軍を加えられた。のち、雅楽の復興(中心人物は斛斯徴)に関与した功を以て公に爵位を進められ、加増を受け、封邑は総じて千戸となった。のち小関・弘農・沙苑・河橋の戦い(537~8年に起こった東西魏の激突)に参加し、その全てにおいて功を挙げ、鎮東将軍・大都督とされた。八年(542)、車騎大将軍・儀同三司とされた。
 邙山の戦いが起こると(543年先鋒を務めたが、東魏兵に包囲された。しかし、都督の侯伏侯龍恩が身を挺して守ってくれたため、なんとか逃れることができた護は開府の趙貴と共に大敗のきっかけを作ってしまい、免官となった。しかし、間もなく赦され、元の官位に復帰した。

○周11晋蕩公護伝
 岳之被害,太祖至平涼,以護為都督。從征侯莫陳悅,破之。後以迎魏帝功,封水池縣伯,邑五百戶。大統初,加通直散騎常侍、征虜將軍。以預定樂勳,進爵為公,增邑通前一千戶。從太祖擒竇泰,復弘農,破沙苑,戰河橋,並有功。遷鎮東將軍、大都督。八年,進車騎大將軍、儀同三司。邙山之役,護率眾先鋒,為敵人所圍,都督侯伏侯龍恩挺身扞禦,方得免。是時,趙貴等軍亦退,太祖遂班師。護坐免官,尋復本位。

 ⑴侯莫陳悦…?~534。爾朱栄に仕え、爾朱天光の関中征討の際には右大都督として参加し、左大都督の賀抜岳に次ぐ功を挙げた。のち都督隴右諸軍事・秦州刺史とされた。岳が丞相の高歓と対立すると、密かに歓に付いて岳を殺したが、間もなく岳の部下の宇文泰に討たれた。
 ⑵孝武帝…元修。510~534。在位532~534。高歓が爾朱氏を倒した際に擁立されて皇帝となった。のち歓と対立し、攻撃を受けると関中の群雄の宇文泰を頼ったが、間もなく泰に殺された。
 ⑶斛斯徴…字は士亮。529~584。西魏の太傅の斛斯椿の子。幼い頃から聡明で、五歲の時に孝経・周易を諳んじ、識者を驚かせた。大の読書家で三礼を最も得意とし、音律も解した。非常に親思いで、父が亡くなると朝夕少しの米しか口にしなかった。雅楽の復興に努め、西魏が蜀を平定した際に運ばれてきた物を錞于という楽器だと見抜いた。
 ⑷趙貴…字は元貴(宝)。?~557。武川鎮出身。爾朱栄→爾朱天光→賀抜岳に仕え、岳が殺されると、遺衆に対し宇文泰を後継に迎えるよう主張し、泰の雄飛のきっかけを作った。政治の才能があり、泰の右腕として働いたが、河橋・邙山の戦いでは共に敗北のきっかけを作った。しかし泰の信頼は失わなかった。のち乙弗の姓を与えられた。北周が建国されると太傅・大冢宰・楚国公とされた。間もなく大司馬の宇文護と対立し、殺された。

┃東西輔佐
 十二年(546)、驃騎大将軍・開府儀同三司・中山公とされ、四百戸の加増を受けた。十五年(547)、河東()を鎮守し、大将軍とされた。
 この時、泰の諸子はみな幼く、兄(宇文顥)の子の少保・大将軍・章武公の宇文導秦州刺史、は泰州刺史となって東西の要地を押さえ、泰を輔佐した

○周11晋蕩公護伝
 十二年,加驃騎大將軍、開府儀同三司,進封中山公,增邑四百戶。十五年,出鎮河東,遷大將軍。
○周25李基伝
 時太祖諸子,年皆幼冲,章武公導、中山公護復東西作鎮。

 ⑴宇文導…字は菩薩。511~554。宇文泰の兄の子。宇文護の兄。十二大将軍の一人。寛大清明な性格で、人の心を掴むのが上手く、職務を遂行する時は、常に自分では力不足だと思い、一生懸命心を尽くして当たった。そのため、泰に信頼され、よく留守を任された。547年に隴右大都督・秦州刺史とされて西方の鎮守に当たった。

┃江陵電撃戦

〔十四年(548)、梁(華南全域を支配する大国)の南豫州牧の侯景が叛乱を起こして建康を攻め、十五年(549)に陥とした。梁はこれによって未曾有の混乱に陥ったが、廃帝二年(553年)、江陵に割拠する元帝の手によって一応平和を取り戻した。〕
 恭帝元年(554)、護は柱国の万紐于謹于謹の指揮のもと、梁の都の江陵征伐に赴いた。
 11月癸未(1日)漢水(襄陽の北を流れる川)を渡河すると、護と普六茹忠楊忠らに精騎を与えて先鋒とし、敵の退路である江津(江陵の東南二十里の占拠を命じた護は昼夜兼行の強行軍を行なった。
 甲申(2日)、〔国境近くにある〕武寧を陥とし、〔梁の武寧太守の宗均を捕らえた。また、副将を派して国境付近にある梁の城を全て陥とした。また、同時に梁の斥候の騎兵を余さず捕らえ、〔情報が江陵に伝わるのを阻止した。〕
 丁亥(5日)、柵の近くにまで到達した。〔斥候からの情報が無かった〕城内は突然の西魏軍の出現に驚き、茫然自失の状態となった。
 護は二千の騎兵を派して江津を占拠し、そこにあった艦船を奪取したのち本隊の到着を待った。
 丙申(14日)率いる本隊が江陵に到着した
 己亥(17日)江陵の周囲に長囲を築いた。
 辛亥(29日)、江陵に総攻撃を仕掛け、その日の内に外城を陥とした。翌日、梁は降伏した。
 泰は護の功を以て、護の子の宇文会を江陵公とした。
〔泰は襄陽に割拠して西魏に従属していた梁王の蕭詧を江陵に移し、梁の皇帝とした。これが後梁の宣帝である。
 これより前、襄陽の蛮帥の向天保らは一万余の集落を統治し、要害を恃みに独立を保持していた。護は帰還の際、これを討伐・平定した。六官の制が施行されると(556年)、小司空とされた。

○周文帝紀
 十一月癸未,師濟於漢。中山公護與楊忠率銳騎先屯其城下,據江津以備其逸。丙申,謹至江陵,列營圍守。辛亥,進攻城,其日克之。
○梁元帝紀
 丁亥,魏軍至柵下 。
○周11晋蕩公護伝
 與于謹征江陵,護率輕騎為先鋒,晝夜兼行,乃遣裨將攻梁臨邊城鎮,並拔之。並擒其候騎,進兵徑至江陵城下。城中不意兵至,惶窘失圖。護又遣騎二千斷江津,收舟艦以待。大軍之至,圍而克之。以功封子會為江陵公。初,襄陽蠻帥向天保等萬有餘落,恃險作梗。及師還,護率軍討平之。初行六官,拜小司空。
○周15于謹伝
 旬有六日,外城遂陷。梁主退保子城。翌日,率其太子以下,面縛出降,尋殺之。
○資治通鑑
 癸亥,武寧太守宗均告魏兵且至。…甲申,護克武寧,執宗均。

 ⑴侯景…字は万景。503~552。東魏の臣。高歓の死後亡命した梁にて叛乱を起こし、都の建康を陥として漢を建国したが、552年、王僧弁・陳覇先の連合軍に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。
 ⑵元帝…蕭繹。字は世誠。幼名は七符。508~554。梁の武帝の第七子。生まれつき片目に異常があり、のち失明した。頭の回転が非常に速く博学多才だったが、残忍で疑い深く利己的な性格で、侯景の乱が起こると皇帝になりたいがために武帝と太子を見殺しにし、更に他の兄弟や甥たちも殺害した。552年に侯景を滅ぼし、皇帝に即位して江陵に都したが、554年、西魏の侵攻を受けて捕らえられ、殺された。
 ⑶万紐于謹(于謹)…幼名は巨彌。字は思敬。493~568。八柱国の一人で、西魏・北周の元勲。冷静沈着の名将。諸国の言葉を解した。六鎮の乱が起こるとその平定に大いに貢献し、のち爾朱天光に仕え、天光が高歓に敗れると入関し、賀抜岳に仕えた。宇文泰が夏州刺史となるとその長史となり、泰が関中の群雄となった後も右腕となって活躍した。のち、姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げた。泰が死ぬと率先して宇文護が指導者となるのを支持し、北周が建国されると太傅・太宗伯・燕国公とされた。563年、三老に任ぜられた。564年、宇文護が北斉討伐に赴くと、その相談役となった。567年(2)参照。
 ⑷普六茹忠(楊忠)…字は揜于。507~568。武川出身。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏の姓を賜った。梁に二度身を置いたことがある。のち西魏に帰国すると、梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。北斉にて司馬消難が乱を起こすと、その保護に大きく貢献した。563年、突厥と共に晋陽を攻めた。のち、涇州総管とされた。564年、再度北方より侵入を図った。
 ⑸江津…《読史方輿紀要》曰く、『荊州府(江陵)の東南二十里にある。対岸に馬頭岸がある。
 ⑹武寧…《読史方輿紀要》曰く、『武寧郡は楽鄕県に置かれた。楽鄉城は荊州府の北百八十里(或いは襄陽府の南二百七十里)→荊門州の北八十里にある。
 ⑺宇文会…字は乾仁。晋公護の子。宇文顥(宇文護の父)の跡を継いで邵国公となった。幼少の頃より聡明で、学問を好んだ。562年、蒲州総管とされた。570年、譚国公に改められた。571年、柱国とされた。
 ⑻通鑑は12月2日のこととする。
 ⑼蕭詧…字は理孫。後梁の初代皇帝。519~562。在位555~562。梁の武帝の長子・蕭統の第二子。侯景の乱が起こったとき雍州刺史で、荊州刺史の湘東王繹(元帝)と対決して敗れ、西魏に従属した。のち、その傀儡政権である後梁の皇帝となった。


 宇文護伝(2)に続く