[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]

●反省の詔
 夏、4月庚戌(13日)、陳の宣帝が詔を下して言った。
「近年、我が国は征伐を行ない、賊軍を撃破して淮・泗の地を平定した。その間、征伐に従事した文武官は風雨や寒暑をものともせず、身を粉にして朕に尽くしてくれた。その功労を、朕は食事を摂る束の間の間でさえも忘れずにいる。そこで今、朕は多くの賞賜を分け与えて、その労に酬いようと思う。よって今、軍に在籍している者全員の爵位を一律二等級昇級させる。また、勲功の大小に応じて別途賞賜を行なう。」
 また、詔を下して言った。
「朕は天下に君臨して以来十年に亘り、寝食を忘れて政務に励み、国民の生活をより良くしようと努力し、天下の富や労力を己のために用いることは無かった。しかし、梁末の戦乱の影響によって、〔南朝代々の〕宮殿のうち有名なものはみな灰燼に帰していたため、その再建に際し、元々のような高大で華美な物にしないよう心がけても、再建する対象が多いために、結局人民に多くの労力を費やさせてしまった。これに加えて、戦争を度々行なってしまったため、国庫の蓄えは日に日に減損し、〔その補填をするために行なわれた〕度重なる徴税によって人民は窮乏してしまった。人民が不足している時に、君主がどうして満足することができようか? よって、今、礼楽・儀服・軍器に関するもの以外は全て製造を中止することとする。また、王侯妃主に対する諸々の手当を全て削減することとする。」

 壬子(15日)、北周が初めて、両親の死に遭った者に三年の喪に服することを許した。

 丁巳(20日)、陳が新除鎮右将軍の新安王伯固を護軍将軍とした。

○周武帝紀
 夏四月壬子,初令遭父母喪者,聽終制。
○陳宣帝紀
 夏四月庚戌,詔曰:「…近歲薄伐,廓清淮、泗,摧鋒致果,文武畢力,櫛風沐雨,寒暑亟離,念功在茲,無忘終食。宜班榮賞,用酬厥勞。應在軍者可竝賜爵二級,幷加賚卹,付選即便量處。」又詔曰:「…朕君臨宇宙,十變年籥,旰日勿休,乙夜忘寢,跂予思治,若濟巨川,念茲在茲,懍同馭朽。非貪四海之富,非念黃屋之尊,導仁壽以寘羣生,寧勞役以奉諸己。但承梁季,亂離斯瘼,宮室禾黍,有名亡處,雖輪奐未覩,頗事經營,去泰去甚,猶為勞費。加以戎車屢出,千金日損,府帑未充,民疲征賦。百姓不足,君孰與足?…應御府堂署所營造禮樂儀服軍器之外,其餘悉皆停息;掖庭常供、王侯妃主諸有俸卹,竝各量減。」
 丁巳,以新除鎮右將軍新安王伯固為護軍將軍。

 ⑴宣帝…陳頊(キョク)。陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に49歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。その後もたびたび北伐を行なったが、今年、北周に大敗を喫し、精鋭を全て喪失した。578年(1)参照。
 ⑵新安王伯固…字は牢之。生年555、時に24歳。文帝(宣帝の兄)の第五子。母は潘容華。生まれつき亀胸(鳩胸)で、目が白く(先天性白内障?)、体つきも小さかったが、口は達者で議論を得意とした。アル中で給料は全て酒に使い、よく人を鞭打った。565年、新安王とされた。575年、都督南徐南豫南北兗四州諸軍事・鎮北将軍・南徐州刺史とされた。刺史となったのちも好きな狩猟に明け暮れて政治を顧みなかった。今年の正月、中央に召されて侍中・鎮右将軍とされた。578年(1)参照。

●清口の戦い

 戊午(21日)、〔陳の大都督・朱沛、清口上至荊山縁淮諸軍事・平北将軍の〕樊毅が淮河の北に渡り、北周の清口城に向かい合うように城を築いた。
 庚申(23日)、建康にて多くの雹(ひょう)が降った。
 北周の〔上開府・治東楚州事の〕楊素が陳の清口城を攻めた。
 壬戌(25日)、陳の清口城の城壁が長雨によって崩壊した。樊毅はそこで撤退を決断し、無事軍を全うして帰還した。素は陳の清口城を陥とした。

○陳宣帝紀
 戊午,樊毅遣軍度淮北對清口築城。庚申,大雨雹。壬戌,清口城不守。
○隋48楊素伝
 陳將樊毅築城於泗口,素擊走之,夷毅所築。
○陳31樊毅伝
 率眾渡淮,對清口築城,與周人相抗,霖雨城壞,毅全軍自拔。尋遷中領軍。

 ⑴樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴いたが捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に梁の武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。また、広陵の楚子城を陥とし、寿陽の救援に来た援軍も撃破した。また、済陰城を陥とした。575年、潼州・下邳・高柵など六城を陥とした。578年、朱沛清口上至荊山縁淮諸軍事とされ、淮東の地の軍事を任された。578年(1)参照。
 ⑵楊素…字は処道。生年544、時に35歳。故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。のち礼曹参軍とされ、大都督を加えられた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。576年に斉王憲が殿軍を務めた際、奮戦した。今年、烏丸軌(王軌)に従って呉明徹を大破し、治東楚州事とされた。578年(1)参照。

●突厥、幽州を襲う

 これより前、北斉が滅亡した時(577年)、北斉の定州刺史・范陽王の高紹義は馬邑から突厥に亡命し、保護された。突厥の他鉢可汗は紹義を北斉の皇帝に擁立すると共に、配下を召集してこう言った。
「斉帝に代わって復讐の軍を興す。」
 庚申(23日)、他鉢が北周の幽州()を襲い、殺人や拉致・略奪を行なった。北周の柱国・幽州総管・趙郡公の宇文雄劉雄が迎撃したが、却って突厥軍に包囲され、戦死した。
 北周は雄に亳州(もと南兗州)総管・七州諸軍事・亳州刺史を追贈した。

 北周の武帝はこの報を聞くと軍議を開き、突厥を討伐することに決定した。

○周武帝紀
 庚申,突厥入寇幽州,殺掠吏民。議將討之。
○周29劉雄伝
 其年,從齊王憲總北討稽胡。軍還,出鎮幽州。宣政元年四月,突厥寇幽州,擁略居民。雄出戰,為突厥所圍,臨陣戰歿。贈亳州總管、七州諸軍事、亳州刺史。
○周50突厥伝
 及齊滅,齊定州刺史、范陽王高紹義自馬邑奔之。他鉢立紹義為齊帝,召集所部,云為之復讐。宣政元年四月,他鉢遂入寇幽州,殺畧居民。柱國劉雄率兵拒戰,兵敗,死之。

 ⑴高紹義…武平帝。北斉の文宣帝(初代皇帝)の第三子。初め広陽王とされたが、のちに范陽王に改められた。侍中・清都尹を歴任した。素行に問題があり、武成帝(北斉四代皇帝。高緯の父)や文宣帝の正室の昭信皇后(李祖娥)に杖で打たれた。後主が北周に敗れて晋陽から鄴に逃亡した際、定州刺史とされた。間もなく前北朔州長史の趙穆らに招かれて北朔州に赴き、北斉の旧臣を糾合して晋陽を奪取しようとしたが、周軍の逆襲に遭い、やむなく突厥に亡命した。間もなく皇帝に即位した。577年(4)参照。
 ⑵他鉢可汗…タトバル。姓は阿史那。突厥の三代可汗の木杆(ムカン)可汗の弟。572年に兄が死ぬと跡を継いで可汗となった。突厥の勢威を恐れてまめまめしく貢ぎ物を送ってくる北周と北斉の事を「二人の孝行息子」と呼んだ。北斉が滅ぶと亡命してきた高紹義を匿った。577年(2)参照。
 ⑶宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮子城の人。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、宇文氏の姓を与えられた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。569年に兼斉公憲府掾とされ、北斉が盟約を破って宜陽に攻めてくるとその軍中に使者として赴き、約を違えたことを堂々と責め立てた。のち兼中外府掾・開府儀同三司とされた。570年、稽胡を綏州にて撃破した。汾北の戦いでは軍が総崩れする中、塹壕に留まって奮戦した。572年に納言、573年に内史・候正とされ、のち出身の河州の刺史とされた。575年、李穆の指揮のもと軹関などを陥とした。576年、吐谷渾討伐の際、二十の兵で七百余を破るなど多大な戦功を挙げ、上開府とされた。北斉討伐の際には斉王憲の指揮のもと洪洞・永安を陥とした。晋陽を平定すると上大将軍・趙郡公とされ、鄴を平定すると柱国とされた。576年(3)参照。

●武帝の死
 5月、己丑(23日)、北周の武帝が諸軍を率いて突厥討伐に赴いた。帝は柱国・原国公の姫願、〔司武上大夫(大司武。宿衛の兵を司る。左右存在する)の〕東平公神挙らに五道より突厥領内に進入させた。また、関中にいる官民の驢馬全てを従軍させた。

 これより前、〔上柱国の〕斉王憲は自分の武名が日に日に重いものとなっていることから〔粛清の危険を感じ、〕密かに隠遁を志すようになっていた。
 現在、帝が突厥討伐を行なうと、憲は病気を理由に参加を辞退した。すると帝はサッと顔色を変えてこう言った。
「お前ほどの者が突厥と戦うのを怖がるなら、誰が私のために戦ってくれるのか?」
 憲は恐懼して言った。
「陛下に付いていきたいのはやまやまなのですが、病気のため指揮する事ができないのです。」
 帝は〔やむなく〕これを許した。

 癸巳(27日)、帝が発病し、雲陽宮(もと甘泉宮。長安の西北にある。宇文泰が亡くなった場所。避暑地)に留まった。
 丙申(30日)、一切の軍事行動を停止した。

 帝は〔名医の〕姚僧垣を雲陽宮に呼んだ。この時、内史中大夫の宇文昂柳昂が密かに僧垣に尋ねて言った。
「至尊(陛下)の食が細くなって久しいのですが、脈を診てどう思われましたか?」
 僧垣は答えて言った。
「天子は上は天の御心に適われたお方でありますから、愚かな私の頭では良くなるのか悪くなるのか皆目見当がつきません。ただ、普通、このような脈であったら、万に一つも助かる見込みはありません。」

 帝は長安に早馬を出して宗師中大夫の広陵公孝伯を雲陽宮に呼び、その手を取ってこう言った。
「私はもう駄目だ。後の事は全て君に任せたぞ。」
 また、宇文昂にも太子贇インの輔佐を任せた。
 この日の夜、帝は孝伯を司衛上大夫(左右がある)として宿衛の兵の指揮権を与え、急いで長安に帰らせて変事に備えさせた。

 帝は太子贇にこう言った。
拓王誼王誼は国家の柱石たる人物であるから、近くに置いて機密を任せよ。遠方の任務には就かせるな。」

 6月(陳の閏5月)、丁酉(1日)、帝は危篤に陥り、長安へ帰ろうとした。この日の夜、帝は車駕の中で逝去した(享年36)。帝は遺詔にてこう言った。
『人の容姿・性格・寿命は天命によってあらかじめ決まっているものだ。朕は君主となって以来十九年(560~578)の間、いつまで経っても人民の生活を安楽にすることも、治安を良好にすることもできなかった。そのため、〔朕は責任を痛感し、常に〕朝早くに起床し、夜更けまで眠ること無く〔政務に没頭し続け、人民の暮らしをより良くしようと努めてきた〕。昔、魏室(北魏)が衰微し、天下がばらばらになった時、太祖(宇文泰。武帝の父)は滅びかかった国を良く立て直し、王業(北周建国)のもといを開かれたが、燕・趙の地は未だに〔平定なさることができず、〕その結果、長きに亘って賊に皇帝の僭称を許すことになってしまった。朕は上は先帝の志を受け継ぎ、下は人民の心に従って、王公将帥と共に〔討伐に赴き、〕遂に東夏(東中国。北斉)を平定することに成功した。しかし、賊徒を平定したとはいえ、人民の疲弊は未だに取り除くことはできておらず、いつもこの事を考えると、薄氷を踏むような思い(非常に心配になって落ち着かなくなる)になる。朕は〔突厥や陳を討ち、〕天下を統一して〔民の苦しみを除こう〕と考えていたが、今、大病を患い、気力は次第に衰え、志を遂げることができなくなってしまった。この事については、ただただ嘆息するばかりである。
 天下に関する事は重大であり、帝王の政務は容易なものではない。王公以下、一般の官吏に至るまで、みな太子を守り立てて朕の遺志に沿い、上は太祖の御恩に背かず、下は臣下としての道を失わぬようにせよ。さすれば、朕は死んでも心残りは無い。
 朕は平生より質素倹約を信条としてきた。これは、ただ子孫を訓戒するためだけでなく、もともと朕がそれを好んでいたためであった。よって、葬儀の費用は節約して礼制に合うようにし、墓は高く盛り上げず、古からの典範に通ずるようにせよ。適当な日があれば即座に葬儀を行ない、葬儀が終われば喪を解け。人民はおのおの三日間だけ哭礼をせよ。妃嬪以下の者で子を産んでいない者は、みな実家に帰せ。』

 帝は冷静で決断力があり、智謀に優れていた。初め、晋公護が専権を振るっていた時は常に才能を隠し、人にその深浅を測らせなかった。護を誅殺してから親政を始めると、己を律して政務に努め励み、怠ることが無かった。法律を厳格に適用し、多くの者を処刑した。命令は細かい所にまで行き届き、その心はただただ政治をより良くしようという固い意志で満たされていた。臣下は畏服し、襟を正さぬ者はいなかった。真実を見抜く力があり、〔惑わされて〕恩恵を施すことは少なかった。おおよそ、その信念と立ち居振る舞いは、古人のそれをもう少しで越える所にあった。
 帝は常に布製の服と布団を用い、金や宝石の飾りを身に着けなかった。諸宮殿のうち、きらびやかな物は全て解体して質素な物に改め、入り口の階段は土で作り、しかも数尺の高さに制限し、軒先には櫨栱を施さなかった。また、宮殿に模様の彫刻や刺繍を施した織物を用いることを一切禁じた。また、後宮に女官を十余人以上置かなかった。
 帝は人民に思いを寄せ、献身的であり、天下が平定されておらず、人民の暮らしが落ち着かないことを見るや、統一に向けて兵の訓練に力を注ぎ、演習の際には人が苦とするような山野を進んで歩き回った。平斉の役の間は、裸足で歩いている兵士を見かけると、自分の靴を脱いでこれに与えた。また、将兵と宴会をする際にはいつも決まって自ら杯を持って酒を勧めて回ったり、手ずから賞賜を与えたりした。また、戦いの際には戦場に身を置いて兵を指揮した。また、果断な性格で、良く大事を決断することができた。そのため、兵士たちは帝のために死力を尽くした。弱を以て強を制する事ができたのはこのためだった。
 北斉を滅ぼしたのち、戦いを続けていけば、きっと一・二年の内に突厥と江南()を平定し、天下統一を成し遂げていたであろう。これこそが帝の目指したものだった。

 令狐徳棻曰く…魏が東西に分かれて以降、二国は日々戦争を繰り返したが、実力が伯仲していて、一進一退の攻防が続いた。高祖(武帝)は帝位を継いだ時、〔晋公護の専権によって〕まだ親政する事ができなかったが、〔暴発することなく〕慎重に誅殺計画を立て、自らの賢さを隠して研鑽に励んだ。そして一旦事が行なわれると朝政は刷新され、内難を除いた事によって外征に力を注ぐ事ができるようになった。そこで帝は苦心惨憺・克己精励して、〔演習では〕士卒の先頭に立って働き、〔日常生活では〕貧民と同じような生活を行ない、富国強兵に邁進し、正道を以て、乱れて滅びようとしている仇敵を討とうとした。その結果、祖宗の宿憤と、東夏の自滅という助けがあったとはいえ、たった五年という短期間の内に見事な成功を果たした。もし病気に遭わず、天下統一の目標に向かって邁進する事ができたなら、『戦争を行ない過ぎた』と史家から批判は受けただろうが、その雄大な計画と遠大な策略は、過去の名だたる帝王たちと比肩するに足るものとなったに違いない。

 これより前、帝が宣政に改元した時(今年の3月25日)、後梁の明帝(11)はその字が離合すると『宇文亡日』(12)になると言った。

 帝の死は秘密にされ、柱国・司武上大夫・盧国公の尉遅運(13)が侍衛の兵を率い、〔帝の棺と共に〕長安に帰った。

○周武帝紀
 五月己丑,帝總戎北伐。遣柱國原公姬願、東平公宇文神舉等率軍,五道俱入。發關中公私驢馬,悉從軍。癸巳,帝不豫,止于雲陽宮。丙申,詔停諸軍事。六月丁酉,帝疾甚,還京。其夜,崩於乘輿。時年三十六。遺詔曰:
『人肖形天地,稟質五常,脩短之期,莫非命也。朕君臨宇縣,十有九年,未能使百姓安樂,刑措罔用,所以昧旦求衣,分宵忘寢。昔魏室將季,海內分崩,太祖扶危翼傾,肇開王業。燕趙榛蕪,久竊名號。朕上述先志,下順民心,遂與王公將帥,共平東夏。雖復妖氛蕩定,而民勞未康。每一念此,如臨冰谷。將欲包舉六合,混同文軌。今遘疾大漸,氣力稍微,有志不申,以此歎息。
 天下事重,萬機不易。王公以下,爰及庶僚,宜輔導太子,副朕遺意。令上不負太祖,下無失為臣。朕雖瞑目九泉,無所復恨。
 朕平生居處,每存菲薄,非直以訓子孫,亦乃本心所好。喪事資用,須使儉而合禮,墓而不墳,自古通典。隨吉即葬,葬訖公除。四方士庶,各三日哭。妃嬪以下無子者,悉放還家。
 諡曰武皇帝,廟稱高祖。己未,葬於孝陵。
 帝沉毅有智謀。初以晉公護專權,常自晦迹,人莫測其深淺。及誅護之後,始親萬機。克己勵精,聽覽不怠。用法嚴整,多所罪殺。號令懇惻,唯屬意於政。羣下畏服,莫不肅然。性既明察,少於恩惠。凡布懷立行,皆欲踰越古人。身衣布袍,寢布被,無金寶之飾,諸宮殿華綺者,皆撤毀之,改為土階數尺,不施櫨栱。其雕文刻鏤,錦繡纂組,一皆禁斷。後宮嬪御,不過十餘人。勞謙接下,自彊不息。以海內未康,銳情教習。至於校兵閱武,步行山谷,履涉勤苦,皆人所不堪。平齊之役,見軍士有跣行者,帝親脫靴以賜之。每宴會將士,必自執杯勸酒,或手付賜物。至於征伐之處,躬在行陣。性又果決,能斷大事。故能得士卒死力,以弱制強。破齊之後,遂欲窮兵極武,平突厥,定江南,一二年間,必使天下一統,此其志也。
 史臣曰:自東西否隔,二國爭彊,戎馬生郊,干戈日用,兵連禍結,力敵勢均,疆埸之事,一彼一此。高祖纘業,未親萬機,慮遠謀深,以蒙養正。及英威電發,朝政惟新,內難既除,外畧方始。乃苦心焦思,克己勵精,勞役為士卒之先,居處同匹夫之儉。脩富民之政,務彊兵之術,乘讐人之有釁,順大道而推亡。五年之間,大勳斯集。攄祖宗之宿憤,拯東夏之阽危,盛矣哉,其有成功者也。若使翌日之瘳無爽,經營之志獲申,黷武窮兵,雖見譏於良史,雄圖遠畧,足方駕於前王者歟。
○隋五行志言咎
 周武帝改元為宣政,梁主蕭巋離合其字為「宇文亡日」。其年六月,帝崩。
○周12斉煬王憲伝
 憲自以威名日重,潛思屏退。及高祖欲親征北蕃,乃辭以疾。高祖變色曰:「汝若憚行,誰為吾使?」憲懼曰:「臣陪奉鑾輿,誠為本願,但身嬰疹疾,不堪領兵。」帝許之。
○周32柳昂伝
 武帝崩,受遺輔政。
○周40尉遅運伝
 高祖崩於雲陽宮,祕未發喪,運總侍衞兵還京師。
○周40東平公神挙伝
 宣政元年,轉司武上大夫。高祖親戎北伐,令神舉與原國公姬願等率兵五道俱入。高祖至雲陽,疾甚,乃班師。
○周40宇文孝伯伝
 六年,復為宗師。每車駕巡幸,常令居守。其後高祖北討,至雲陽宮,遂寢疾。驛召孝伯赴行在所。帝執其手曰:「吾自量必無濟理,以後事付君。」是夜,授司衞上大夫,總宿衞兵馬事。又令馳驛入京鎮守,以備非常。
○周47姚僧垣伝
 宣政元年,表請致仕,優詔許之。是歲,高祖行幸雲陽,遂寢疾。乃詔僧垣赴行在所。內史柳昂私問曰:「至尊貶膳日久,脉候何如?」對曰:「天子上應天心,或當非愚所及。若凡庶如此,萬無一全。」尋而帝崩。
○周50突厥伝
 高祖親總六軍,將北伐,會帝崩,乃班師。
○隋40王誼伝
 帝臨崩,謂皇太子曰:「王誼社稷臣,宜處以機密,不須遠任也。」

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に36歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年、再び親征して晋州を陥とし、後主率いる援軍も大破し、晋陽を陥とした。去年、鄴も陥とし、青州にて後主を捕らえて北斉を滅ぼした。578年(1)参照。
 ⑵姫願…もと神水公。576年に原国公とされた。576年(5)参照。
 ⑶東平公神挙…宇文神挙。生年532、時に47歳。儀同三司の宇文顕和の子。554年に父を喪うと族兄の安化公深に養育され、成人すると、才気煥発・眉目秀麗・堂々たる体躯の立派な青年となった。詩文を趣味としていたことで明帝と意気投合し、いつも一緒に外出した。564年、開府儀同三司とされ、566年に右宮伯中大夫・清河郡公とされた。572年、武帝から護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。のち、京兆尹とされた。574年、熊州刺史とされた。576年、陸渾など五城を陥とした。并州を平定すると、上開府・并州刺史とされた。577年、北朔州にて高紹義が乱を起こすとこれを討平した。のち柱国・東平郡公とされ、劉叔仁の乱を平定した。のち司武上大夫とされた。577年(4)参照。
 ⑷斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に35歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。武帝が一時撤退する際、殿軍を務めた。再征時にも常に先鋒を任された。のち任城王湝と広寧王孝珩の乱を平定した。のち、稽胡を討伐した。577年(4)参照。
 ⑸姚僧垣…字は法衛。生年499、時に80歳。南人。父の跡を継いで医者となり、梁に仕えて太医正とされた。侯景が建康を陥とすとその部下の侯子鑑に仕え、梁の湘東王繹(元帝)が建康を回復すると荊州に召されて晋安王諮議参軍とされた。繹が病気になるとこれを治した。西魏が江陵を陥とすと関中に入り、伊婁穆らの病気を治療した。566年に儀同、571年に遂伯中大夫とされた。叱奴太后が病気になると、ひとり容態が危険である事を武帝に伝えた。のち開府儀同三司とされた。575年、武帝の病気を治し、帝から非常な礼遇を受けた。575年(3)参照。
 ⑹宇文昂(柳昂)…字は千里。大将軍の宇文敏(柳敏)の子。幼い頃から利発で器量と見識があり、並外れた事務処理能力を持っていた。武帝の時に内史中大夫・開府儀同三司・文城郡公とされて政務を取り仕切り、百官はみなその指示に従った。仕事に全力で、しかも謙虚で偉ぶることが全く無かったため、人々から高い評価を受けた。577年(1)参照。
 ⑺広陵公孝伯…字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に36歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。のち東宮左宮正とされ、太子贇の匡正を任された。576年に太子が吐谷渾討伐に赴くとお目付け役としてこれに従い、太子が数々の非行を行なうと帝に報告して太子の逆恨みを受けた。武帝が北斉討伐に赴くと内史下大夫とされ、留守の朝廷の政治を取り仕切った。その功により大将軍・広陵郡公とされた。間もなく宗師中大夫とされ、その後も留守を任された。577年(3)参照。
 ⑻太子贇…字は乾伯。生年559、時に20歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、酒を好み、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。叱奴太后が亡くなって帝が喪に服すと、五十日に亘って政治を代行した。その後も帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。576年、吐谷渾の討伐に赴いたが、その間多くの問題行動を起こし、烏丸軌(王軌)と安化公孝伯にこの事を武帝に報告されて鞭打たれた。以後帝の威厳を恐れはばかり、うわべを繕うことに努めるようになった。577年(4)参照。
 ⑼拓王誼(王誼)…字は宜君。生年540、時に39歳。父は北周の大将軍・鳳州刺史の拓王顕(王顕)、従祖父は開府・太傅の拓王盟(王盟。宇文泰の母の兄)。 若年の頃から文武に優れた。北周の孝閔帝の時に左中侍上士とされ、大冢宰の晋公護が実権を握っている時でも帝を尊重した。のち、御正大夫とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細った。のち雍州別駕(次官)とされた。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫・楊国公とされた。575年の北斉討伐の際には事前に帝に計画を相談された。576年の北斉討伐の際には六軍の監督を任され、晋州城を攻めた。のち斉王憲と共に殿軍を務めた。晋陽の戦いでは危機に陥った武帝を救う大功を挙げた。北斉を滅ぼすと相州刺史とされ、間もなくまた中央に呼ばれて内史とされた。577年(4)参照。
 ⑽晋公護…宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。513~572。至孝・寛容の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。572年、誅殺された。572年(1)参照。
 (11)明帝…蕭巋(キ)。後梁の二代皇帝。生年542、時に36歳。在位562~。初代宣帝の第三子。口が達者で、文才に優れた。思いやりがあり、臣下の心を良く掴んだ。568年、陳が江陵に侵攻してくると紀南城に逃れた。570年にも陳が侵攻してきたが、この時は江陵に留まり、北周の助力によって守り抜くことに成功した。領土を陳に奪われ財政が逼迫したため、572年に北周に土地の貸与を求め、三州を譲られた。北周の武帝が北斉を平定すると祝賀のため鄴に赴き、帝に非常に気に入られた。577年(2)参照。
 (12)宣政が宇文亡日…恐らく『』の上下と『政』の正の部分の縦棒で宇、『政』のの部分で文、『政』の正の部分の残りで亡、『宣』の真ん中で日になるのだろう。
 (13)尉遅運…生年539、時に40歳。故・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。571年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。斛律光が汾北に侵攻してくるとこれを迎撃し、伏龍城を陥とした。572年に右侍伯とされ、のち右司衛とされた。のち忠良・剛直な点を評価され、右宮正とされて太子贇の匡弼を任された。衛王直の乱が起きると、宮城を守り切る大功を立て、大将軍とされた。のち、武帝から伐斉計画を事前に伝えられた。576年、柱国・盧国公とされた。今年、司武上大夫とされ、宿衛の兵を司った。576年(5)参照。

●太子贇の即位

 戊戌(2日)太子贇が即位した。〔これが北周の宣帝である(時に20歳)。〕
 帝は阿史那皇后を皇太后とした。
 これより前、帝は皇太子時代、多くの非行を行ない、そのたびに父の武帝に鞭打たれていた。即位すると、帝は父の死を全く悲しまず、自分の体に残る鞭の痕にさすってこう罵った。
「死ぬのが遅いわ!」
 帝はこれまで押さえつけられていた欲望を早速解放し、贅沢な生活を行なうようになった。また、父の妃たちに関係を迫った。
 また、〔お気に入りで〕吏部下大夫の宇文訳鄭訳を飛び級昇進させて開府儀同大将軍・内史中大夫(中書令に相当)・帰昌県公(邑千戸)とし、朝政を委ねた。
 また、〔同じくお気に入りで儀同の〕劉昉を小御正(御正下大夫。中書舎人に相当)とし、小宮尹の顔之儀を上儀同大将軍・御正中大夫・平陽県公(邑千二百戸)とし、共に信任した。特に、昉は後宮にも出入りを許すほど寵用した。
 また、広陵公孝伯を小冢宰とした。
 武帝に宣帝の輔佐を託されていた内史中大夫の宇文昂は次第に遠ざけられるようになったが、職を解かれる事は無かった。

 帝は武帝の亡骸を速やかに埋葬しようとし、朝臣に可否を諮った。小宗伯(祭祀・礼儀担当)の斛斯徴と内史の広陵公孝伯らは礼制に従って七ヶ月後にすべきだと強く主張したが、帝は聞き入れなかった。
 己未(23日)武帝を孝陵に埋葬し、武皇帝と諡し、廟号を高祖とした。
 葬儀が終わると、詔を下し、天下の人々に対し喪を解くように言った。また、臣下にこう諮って言った。
「朕と后たちは今より喪服を脱いで常服に着替えようと思うが、どうか。」
 この時、京兆郡丞の楽運が上疏して言った。
「三年の喪というのは、先王の定めた礼制であり、天子から庶人に至るまで守るべき規範であります。その規範にどうして違背していいものでしょうか。また、礼制には『天子の埋葬は、亡くなってより七ヶ月後に、天下の人々が弔問に訪れるのを待ってから行なう』とあります。今、埋葬の期日は非常に早く、埋葬が終わると直ちに喪服を脱ごうとされておりますが、このような短時日では、国中の者たちや外国の使者たちの弔問を終えることができません。今からもし喪服を以て弔問に対応すれば、既に常服に着替えたのにまた喪服に着替えることとなり、礼に違背します。もし常服を以て使者に対応したりすれば、どの礼制にも無い前代未聞のこととなります。いま喪服を脱ぐのは進退極まる事になります。よって、愚臣はこれを不適当と考えます。」
 帝はこれを聞き入れなかった。

 帝は武帝の山陵から帰ると、音楽を演奏しようとし、その可否を諮った。斛斯徴が言った。
「《孝経》には『楽を聞くも楽しまず』とあります。聞く事ですら楽しむ事ができないのですから、演奏するのは尚更でしょう。」
 宇文訳鄭訳)が言った。
「『楽を聞くも』という事は、喪中でも音楽を聴いていないわけではない事は明らかです。楽しみさえしなければ、演奏をしても別にいいのではないでしょうか。」
 帝は訳の意見を採用した。徴と訳は以後仲違いするようになった。

○周宣帝紀
 戊戌,皇太子即皇帝位,尊皇后為皇太后。…嗣位之初,方逞其欲。大行在殯,曾無戚容,即閱視先帝宮人,逼為淫亂。
○隋五行志言咎
 宣帝在東宮時,不修法度,武帝數撻之。及嗣位,摸其痕而大罵曰:「死晚也。」
○周26斛斯徵伝
 時高祖初崩,梓宮在殯,帝意欲速葬,令朝臣議之。徵與內史宇文孝伯等固請依禮七月,帝竟不許。…及高祖山陵還,帝欲作樂,復令議其可不。徵曰:「孝經云『聞樂不樂』。聞尚不樂,其況作乎。」鄭譯曰:「既云聞樂,明即非無。止可不樂,何容不奏。」帝遂依譯議。譯因此銜之。
○周32柳昂伝
 稍被宣帝疏,然不離本職。
○周40宇文孝伯伝
 宣帝即位,授小冢宰。
○周40顔之儀伝
 即拜小宮尹,封平陽縣男,邑二百戶。宣帝即位,遷上儀同大將軍、御正中大夫,進爵為公,增邑一千戶。
○周40楽運伝
 及高祖崩,宣帝嗣位。葬訖,詔天下公除。帝及六宮,便議即吉。運上疏曰:「三年之喪,自天子達于庶人。先王制禮,安可誣之。禮,天子七月而葬,以俟天下畢至。今葬期既促,事訖便除,文軌之內,奔赴未盡;隣境遠聞,使猶未至。若以喪服受弔,不可既吉更凶;如以玄冠對使,未知此出何禮。進退無據,愚臣竊所未安。」書奏,帝不納。
○隋38劉昉伝
 及宣帝嗣位,以技佞見狎,出入宮掖,寵冠一時。授大都督,遷小御正,與御正中大夫顏之儀並見親信。
○隋38・北35鄭訳伝
 及帝崩,太子嗣位,是為宣帝。超拜開府〔儀同大將軍〕、內史下(中)大夫、封歸昌縣公,邑一千戶,委以朝政。

 ⑴阿史那皇后…生年551、時に28歳。突厥の木扞可汗の娘。美人で立ち居振る舞いにも品があった。568年、武帝に嫁いだ。572年(5)参照。
 ⑵宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に39歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。  輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。その間、贇の問題行動を止めることが無かったため、武帝の怒りを買って鞭打たれ、官爵を剥奪された。のち復職して吏部下大夫とされた。576年(2)参照。
 ⑶劉昉…西魏の東梁州刺史の劉孟良の子。軽はずみでずる賢く、悪知恵が働いた。武帝の時に功臣の子を以て太子贇の傍に仕え、非常に気に入られた。573年(1)参照。
 ⑷顔之儀…字は子升。北斉の黄門侍郎の顔之推の弟。読書家で、詞賦作りを好んだ。梁の元帝に仕え、西魏が江陵を陥とすと兄と共に長安に連行された。北周の明帝の時(557~560)に麟趾学士とされ、のち司書上士とされた。武帝が宇文贇を太子を立てると(572年)侍読とされた。577年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴き、贇が軍中にてたびたび問題行動を起こすと一人諫言を行ない、武帝に気に入られて小宮尹とされた。576年(2)参照。
 ⑸斛斯徴…字は士亮。生年529、時に50歳。西魏の太傅の斛斯椿の子。幼い頃から聡明で、五歲の時に孝経・周易を諳んじ、識者を驚かせた。大の読書家で三礼を最も得意とし、音律も解した。非常に親思いで、父が亡くなると朝夕少しの米しか口にしなかった。大統(535~551)の末に出仕して太常少卿にまで昇った。雅楽の復興に努め、西魏が蜀を平定した際に運ばれてきた物を錞于という楽器だと見抜いた。556年に司楽下大夫とされ、のち司楽中大夫→内史下大夫とされた。568年、武帝の息子たち(宣帝兄弟)の教師とされた。571年、司宗中大夫・行内史・兼楽部・岐国公とされ、間もなく小宗伯・太子太傅とされた。北斉が滅ぶともと任城王湝の妃の盧氏を与えられたが、心を開いてくれなかったため解放した。577年(4)参照。
 ⑹楽運…字は承業。生年540、時に39歳。父は梁の義陽郡守。若年の頃から学問を好み、書物を読み漁った。また、孝行かつ義理堅かった。また、品行方正で、一度たりとも人に媚を売らなかった。西魏が梁の都の江陵を陥とすと(554年)、長安に連行された。のち露門学士とされると、何度も北周の武帝に諫言を行ない、その多くが聞き入れられた。573年、万年(長安城東部)県丞とされると、豪族の勝手を許さず、剛直の評判を得た。この事で帝に気に入られ、特別に皇宮への出入りを許され、問題があればどんな些細なことでも直接意見することを許された。太子贇の評価を求められると『中人(周囲の人物次第で善行も悪行も行なう者)』と評し、その正直さを褒められて京兆(雍州)郡丞とされた。はこの評価を聞くと非常に不機嫌になった。573年(3)参照。
 ⑺《孝経》喪親曰く、『子曰、孝子之喪親也、…聞樂不樂、食旨不甘。此哀慼之情也。』

●姚僧垣寵遇
 宣帝は東宮時代、いつも心痛(胸の痛み)に苦しんでいたが、〔名医の〕姚僧垣に治療してもらうとすぐに治って非常に喜んでいた。そのため、即位すると僧垣を非常に礼遇した。ある時、ふと僧垣にこう言った。
「先帝は貴公の事を姚公と呼んでいたと耳にしたが、本当なのか?」
 僧垣は答えて言った。
「臣は先帝に特別な寵遇をいただいておりましたので、まことに陛下のお言葉の通りでございます。」
 帝は言った。
「その『公』は老人を敬う敬称であって、顕貴な爵位の称号の方の『公』ではない。朕は貴公を本当の公として土地を与え、子孫に永久に継がせていこうと思う。」
 かくて長寿県公(邑千戸)とした。また、冊命(封爵)の日、更に金帯や衣服などを下賜した。

○周47姚僧垣伝
 宣帝初在東宮,常苦心痛。乃令僧垣治之,其疾即愈。帝甚悅。及即位,恩禮彌隆。常從容謂僧垣曰:「常(嘗)聞先帝呼公為姚公,有之乎?」對曰:「臣曲荷殊私,實如聖旨。」帝曰:「此是尚齒之辭,非為貴爵之號。朕當為公建國開家,為子孫永業。」乃封長壽縣公,邑一千戶。冊命之日,又賜以金帶及衣服等。

●斉王憲の死
 北周の宣帝斉王憲が皇族の中で尊い位置にあり、名望も重いのを以て、その存在を非常に憎み憚り、遂に排除しようと考えるに至った。帝はそこで小冢宰の広陵公孝伯にこう言った。
「公が斉王を排除してくれるなら、斉王の官位をそっくりそのまま公にやろう。」
 孝伯は床に頭を打ちつけて言った。
「先帝は遺詔にて、骨肉をみだりに誅することを禁じられました。斉王は陛下の叔父であり続柄が近く、勲功も高い国家の重臣であり、柱石として頼りにすべき人物であります。陛下が今もし王に無闇に刑戮を加えるなら、微臣は心を曲げて命に従います。〔しかし、それでは〕臣は不忠の臣となり、陛下は不孝の子となってしまうでしょう。」
 帝はこれを聞くと不機嫌になり、以後段々と孝伯を遠ざけるようになった。
 帝は〔憲の誅殺を諦めず、〕万紐于智于智・王端・宇文訳鄭訳)らと共に計画を練った。
 万紐于智万紐于謹于謹の第五子である。

 武帝の埋葬が行なわれる前、諸王は宮殿内に在って喪に服していた。当時、宿衛の兵を総管し、政治を輔佐していた司衛の長孫覧は、諸王が異志を抱いているのではないかと危惧し、上奏して帝の許可を得たのち開府の万紐于智に諸王の動静を窺わせた。武帝が孝陵に埋葬されると、諸王はそれぞれの屋敷に帰った。帝は智に憲の屋敷を調査させ、その結果、智は憲に異謀があると報告した。
 甲子(28日)、帝はそこで広陵公孝伯を憲のもとに派してこう言わせた。
「三公の位は、親族の賢能な者に任せるべきである。そこで今、叔父を太師とし、九叔(陳王純)を太傅とし、十一叔(代王達)を太保としようと思うのだが、叔父はどう思うか?」
 憲は答えて言った。
「臣は才能が低いのに高い地位を任され、いつ災いがやってくるか恐懼している身でありますゆえ、三師の重任は妥当ではありません。そもそも〔昔、〕太祖(宇文泰)は〔太師とされましたが、それは〕功臣であったため受けて当然だったのです。今もし〔功の無い〕臣たち兄弟が三師の任を独占したりなどすれば、物議を醸す恐れがあるでしょう。」
 孝伯がこの言葉を帝に報告しに帰ったが、間もなくまた憲のもとにやってきてこう言った。
「今晚諸王と共に殿門に来るようにとのご命令です。」
 憲が命に従って諸王と共に殿門に到ると、一人だけ帝のもとに呼ばれ、そこで突然別室から躍り出てきた壮士たちに取り押さえられた。憲が屈することなく自分の潔白を主張すると、帝は万紐于智に証拠を示させた。すると憲は眼光を鋭く光らせ反論した。その時、ある者が憲にこう言った。
「王よ、この状況でなぜ多言なされるのか!?〔悪あがきせず覚悟なされよ!〕」
 憲は答えて言った。
「生死は天命によって決められているゆえ、今更生き延びようとは思わぬ。ただ、老母を残して逝くのが心残りなだけだ!」
 かくて笏を地に投げ、〔従容と〕縊り殺された(享年35)。
 帝は万紐于智の功を賞し、柱国・斉国公とした。

 憲の生母の達步干氏は柔然人で、建徳三年(574)に憲が斉王とされると斉国太妃とされた。憲は立派な品性の持ち主で、母に良く孝行を尽くした。太妃はむかし風熱(風邪?)に罹った事があり、以降たびたびぶり返した。その時、憲は着替えもせずに熱心に看病した。憲は戦いに出かけているとき、何か胸騒ぎを覚えると、常に母が病気に罹っているのではないかと思い、使者を派遣して様子を見に行かせた。すると、果たして心配した通り病気になっていた。

 憲は六人の子どもがいて、それぞれ宇文貴・宇文質・宇文賨ソウ・宇文貢・宇文乾禧・宇文乾洽といった。貴は聡明だったが建徳五年(576年)に早世した。質は字を乾祐といい、初め安城公とされ、建徳五年に河間郡王とされた。賨は字を乾礼といい、建徳五年に大将軍・中垻(ハイ)公とされた。貢は字を乾禎といい、莒荘公(宇文洛生。宇文泰の三兄)の跡を継いだ。乾禧は安城公とされ、乾洽は龍涸公とされた。帝は彼らも皆殺しにした。

 令狐徳棻曰く…両漢から魏・晋に至るまで、帝の弟や帝の子は数多いが、文の面で美名を残したのは楚元(劉交。劉邦の異母弟。儒者を重用した)・河間(劉徳。前漢の景帝の第二子。書物を収集し、文化の保護に貢献した)・東平(劉蒼。後漢の二代明帝の同母弟。帝に重用され、政治を輔佐した)・陳思王(曹植。詩聖)らだけで、武の面で名声を馳せたのも任城(曹彰。烏桓討伐に活躍した)・琅邪王(司馬伷? 司馬懿の第四子。孫呉討伐に活躍した)らだけだった。何故であろうか? それは、極めて尊い身分に生まれ、後宮という何不自由ない場所で育って、娯楽に溺れて堕落してしまうため、優れた才能や品行を備えた、天下の士となる者が少ないのである。〔その中で、〕斉王は彼らを凌駕する傑出した才能を備えていた。彼は皇帝の弟という地位を以て大将の重任を負い、天下に冠する智勇を以て神の如き戦いぶりを示し、敵国の存亡も自国の命運も彼が左右するほどの大きな影響力を持った。この影響力の大きさは、王族ではない異姓の者、例えば方叔西周宣王の代の大功臣。北方・南方の意民族を討伐した・召虎西周宣王の代の大功臣。召の穆公。周の定公と共に幼い宣王を輔佐し、淮夷を討伐した・韓信前漢の名将。劉邦の天下統一の立役者・白起秦の名将。趙軍を殲滅した)ら名将たちと比べても超える者はいないだろう。ただ、このように君主を恐れさせる威力を抱いてしまった結果、〔小人の道がはびこり〕君子の道が消え去った日、誅戮に遭う事となった。ここを以て、君子たちは周の命脈が永くない事を知ったのである。昔、張耳前漢の趙王)と陳余楚漢戦争時の趙の宰相および代王)の賓客や使用人だった者たちは、みな才能のある者たちばかりで、のち、居住した国でそれぞれ高官となった。斉王の部下たちもみな才能のある者たちばかりで、文官武官を問わず多くの者がのちに高官の地位に就いた。時代は異なっても状況は同じ結果となった。〔張耳と陳余と同じく、斉王も〕賢者と言うべきである。

 帝は憲を誅殺する前、憲の部下たちを呼び出して憲の罪を白状させようとした。しかし、参軍で渤海郡蓨県の人の李綱は命を賭して抵抗し、何も言わなかった。憲が殺され、屍が露車(大八車)に載せられて宮殿から出てくると憲のもと部下たちはみな息を潜めたが、綱のみ棺を撫でて号泣し、自らの手で遺体を埋葬し、痛哭・拝礼して去った。
 綱(生年547、時に32歳)は字を文紀という。祖父の李元則は北魏の清河太守、父の李制は北周の車騎大将軍。綱は若年の頃から気概があって信念があり、常に忠義の行ないでは誰にも負けないと自負していた。初名を瑗、字を子玉といったが、《後漢書》の張綱伝を読んだのち、その行ないを慕って張綱と同じ名と字に改めた。のち、斉王憲に登用されて参軍とされた。

 帝は更に上大将軍・安邑公の王興、上開府儀同大将軍の独孤熊、開府儀同大将軍の豆盧紹ら憲と親しくしていた者たちを処刑した。これは、帝が憲の謀反の罪を補強するために、憲が興らと結託して叛乱を企んだという筋書きをでっち上げて起こしたものだった。しかし、人々は彼らの無実を知っており、口々に憲のついでに殺されたのだと言い合った。

○周宣帝紀
 甲子,誅上柱國、齊王憲。封開府于智為齊國公。
○周12斉煬王憲伝
 尋而高祖崩,宣帝嗣位,以憲屬尊望重,深忌憚之。時高祖未葬,諸王在內治(居)服。司衞長孫覽總兵輔政,而(恐)諸王有異志,奏令開府于智察其動靜。及高祖山陵還,諸王歸第。帝又命智就宅候憲,因是告憲有謀。帝乃遣小冢宰宇文孝伯謂憲曰:「三公之位,宜屬親賢,今欲以叔為太師,九叔為太傅,十一叔為太保,叔以為何如?」憲曰:「臣才輕位重,滿盈是懼。三師之任,非所敢當。且太祖勳臣,宜膺此舉。若專用臣兄弟,恐乖物議。」孝伯反命,尋而復來曰:「詔王晚共諸王俱至殿門。」憲獨被引進,帝先伏壯士於別室,至即執之。憲辭色不撓,固自陳說。帝使于智對憲。憲目光如炬,與智相質。或謂憲曰:「以王今日事勢,何用多言?」憲曰:「我位重屬尊,一旦至此,死生有命,寧復圖存。但以老母在堂,恐留茲恨耳。」因擲笏於地。乃縊之。時年三十五。以于智為柱國,封齊國公。又殺上大將軍安邑公王興、上開府獨孤熊、開府豆盧紹等,皆以昵於憲也。帝既誅憲,無以為辭,故託興等與憲結謀,遂加其戮。時人知其冤酷,咸云伴憲死也。
 憲所生母達步干氏,茹茹人也。建德三年,冊為齊國太妃。憲有至性,事母以孝聞。太妃舊患風熱,屢經發動,憲衣不解帶,扶侍左右。憲或東西從役,每心驚,其母必有疾,乃馳使參問,果如所慮。憲六子,貴、質、賨、貢、乾禧、乾洽。質字乾祐,初封安城公。後以憲勳,進封河間郡王。賨字乾禮,大將軍、中垻公。貢出後莒莊公。乾禧,安城公。乾洽,龍涸公。並與憲俱被誅。
 史臣曰:自兩漢逮乎魏、晉,其帝弟帝子眾矣,唯楚元、河間、東平、陳思之徒以文儒播美,任城、琅邪以武功馳譽。何則?體自尊極,長於宮闈,佚樂侈其心,驕貴蕩其志,故使奇才高行,終鮮於天下之士焉。齊王奇姿傑出,獨(足可)牢籠(寵)於前載。以介弟(周公)之地,居上將之重,智勇冠世(俗),攻戰如神,敵國繫以存亡,鼎命由其輕重。比之異姓,則方、召、韓、白,何以加茲。挾震主之威,屬道消之日,斯人而嬰斯戮,君子是以知周()祚之不永也。昔張耳、陳餘賓客厮役,所居皆取卿相。而齊〔王〕之文武僚吏,其後亦多至台牧。異世同符,可謂賢矣。
○周15于智伝
〔于〕翼弟義,…義弟禮,…禮弟智,初為開府,以受宣帝旨,告齊王憲反,遂封齊國公。
○周40宇文孝伯伝
 帝忌齊王憲,意欲除之。謂孝伯曰:「公能為朕圖齊王,當以其官位相授。」孝伯叩頭曰:「先帝遺詔,不許濫誅骨肉。齊王,陛下之叔父,戚近功高,社稷重臣,棟梁所寄。陛下若妄加刑戮,微臣又順旨曲從,則臣為不忠之臣,陛下為不孝之子也。」帝不懌,因漸疏之。乃與于智、王端、鄭譯等密圖其事。後令智告憲謀逆,遣孝伯召憲入,遂誅之。
○旧唐62・新唐99李綱伝
 李綱字文紀,觀州蓨人也。祖元則,後魏清河太守。父制,周車騎大將軍。綱少慷慨有志節,每以忠義自許。初名瑗,字子玉,讀後漢書張綱傳,慕而改之。周齊王憲引為參軍。宣帝將害憲,召僚屬證成其罪(誣左其罪),綱誓之以死,終無撓辭。及憲遇害,露車載屍而出,故吏皆散(奔匿),唯綱撫棺號慟,躬自埋瘞,哭拜而去。

 ⑴皇族の中で尊い位置…斉王憲は宣帝の叔父。また、憲は武帝が亡くなったのち、太祖宇文泰の息子たちの内で最も最年長となっていた。
 ⑵万紐于謹(于謹)…字は思敬。493~568。八柱国の一人で、北周の元勲。冷静沈着の名将。西魏の代に姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げ、太傅・燕国公とされた。568年(1)参照。
 ⑶長孫覧…字は休因。本名は善。西魏の太師の長孫稚の孫で、北周の小宗伯の長孫紹遠の子。上品で穏やかな性格で識見・度量に優れ、多くの書物を読み漁り、特に音律に通暁した。質朴温和な性格を買われて魯公邕(武帝)の世話係とされ、帝が即位すると重用を受けて覧の名を与えられ、上奏文を先に閲読する権利を与えられた。また、弁才があり、語勢が勇壮だったため、詔の読み上げ係も任された。のち右宮伯とされ、571年、薛国公とされた。574年、帝が雲陽宮に赴いた時に留守を任されたが、衛王直が乱を起こすと帝のもとに逃走した。のち小司空とされ、北斉を滅ぼすと柱国とされた。574年(2)参照。
 ⑷陳王純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州(天水)総管とされた。570年、陝州(弘農)総管とされ、田弘と共に宜陽の攻略に向かった。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際には前一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際にも前軍とされ、二万の兵を率いて千里径を守備した。晋陽を攻略すると上柱国・并州総管(576年12月~577年12月)とされた。578年、雍州牧とされた。578年(1)参照。
 ⑸代王達…字は度斤突。宇文泰の第十一子。母は不明。果断な性格で、騎射を得意とし、倹約を好んだ。柱国の李遠に養育された。559年に代国公とされ、566年に大将軍・右宮伯とされ、のち左宗衛とされた。572年、荊州総管とされると善政を行なった。575~577年、益州総管とされた。北斉を滅ぼすと緯の妃の馮小憐を妃とした。577年(4)参照。
 ⑹宇文貴…字は乾福。560~576。幼少の頃から賢く、本を読み漁った。また、馬と弓の扱いに非常に長けた。569年に安定郡公とされ、573年に斉国世子とされた。575年に儀同三司とされ、間もなく豳州刺史とされた。政務に熱心に取り組み、その記憶力と明察ぶりで人々を感服させた。17歳という若さで夭逝し、武帝にその死を非常に惜しまれた。576年(1)参照。
 ⑺張綱…字は文紀。98~143。張良の子孫。後漢の広陵太守。死を恐れずに宦官や外戚の悪事を皇帝に告発した。

●新体制
 閏6月(陳の6月)、丁卯(2日)、陳にて大雨が降り、大皇寺の仏塔、荘厳寺の露盤(塔の上の九輪の下部にある四角な台)、重陽閣の東楼(東の高殿)、千秋門内の槐樹、鴻臚府の門が震動した。

 乙亥(10日)、北周が、山東の流民のうち新しく生業に復した者と、突厥の侵略に遭って一家離散し、生計が立てられなくなった者の税を一年間免除した。
 また、普六茹妃楊妃を皇后とした。
 辛巳(16日)、上柱国の趙王招を太師とし、陳王純を太傅とし、柱国の代王達・滕王逌・盧国公の尉遅運・薛国公の長孫覧を上柱国とした。柱国・平陽郡公の拓王誼王誼)を揚(楊?)国公とした



○周宣帝紀
 閏月乙亥,詔山東流民新復業者,及突厥侵掠家口破亡不能存濟者,竝給復一年。立妃楊氏為皇后。辛巳,以上柱國趙王招為太師,陳王純為太傅,柱國代王達﹑滕王逌、盧國公尉遲運、薛國公長孫覽竝為上柱國。進封柱國、平陽郡公王誼為揚國公。
○陳宣帝紀
 六月丁卯,大雨,震大皇寺剎、莊嚴寺露盤、重陽閣東樓、千秋門內槐樹、鴻臚府門。
○周9宣帝楊皇后伝
 宣政元年閏六月,立為皇后。

 ⑴普六茹妃(楊妃)…名は麗華。生年561、時に18歳。北周の柱国・隨国公の普六茹堅(楊堅)の長女。573年に太子贇の妃とされた。573年(3)参照。
 ⑵趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年、北斉の汾州の諸城を攻め、上柱国とされた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐し、皇帝の劉没鐸を捕らえた。577年(4)参照。
 ⑶滕王逌…字は爾固突。宇文泰の十三子で武帝の異母弟。幼い頃から読書を好み、詩文を理解した。571年に大将軍、572年に柱国、574年に王とされた。576年、吐谷渾の討伐に赴いた。577年、行軍総管とされて稽胡を討伐した。577年(4)参照。
 ⑷揚(楊?)国公とした…周20王誼伝には『宣帝即位,進封揚國公』とあるが、隋40王誼伝には『封楊國公。從帝伐齊…』とあり、北斉討伐前の事となっている。また、周宣帝紀・周20王誼伝は『揚國公』、周静帝紀・隋40王誼伝には『楊國公』とある。史記正義には楊国の存在が見える。恐らく『揚國公』が正しく、隋の皇室の楊氏の姓を避けて揚に改めたのだろう。


 578年(3)に続く