[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]


●凱旋
 夏、4月、乙巳(3日)、北周の武帝が東伐より帰還し、長安に到った。高緯を行列の前に置き、その後ろに北斉のもと王公たち、戦利品の車輿・旗幟・器物を続かせた。帝は六軍を引き連れ、凱歌が奏でられる中、緯らを連れて太廟に入り、祖先に勝利を報告した。観衆はみな万歳を叫んだ。
 戊申(6日)、緯を温国公に封じた。北斉の諸王三十余人もみな封爵を受けた。
 庚戌(8日)、群臣および諸外国の使者を露寝(正殿)に集め、大宴会を開いた。帝は高緯に舞を舞わせた。高延宗はこれを見て悲しみに耐えられなくなり、何度も毒を仰いで死のうとしたが、そのつど侍女に諌められて思いとどまった。
 乙卯(13日)、蒲・陝・涇・寧四州の総管を廃止した。


 己巳(27日)、詔を下して言った。
「東夏(東中国)は既に平定され、初めて王道の政治に浴することになったが、斉氏の悪政の影響が強く、その名残が未だに残った状態にある。朕は天下の政治を執るに当たり、人民の生活を安定させることを目標にしてきた。しかし、この一途な思いが、まだ天下に形となって現れておらず、民が〔これまでの悪政の恐怖から〕苦しみを朕に伝えられずにいるのではないかと思うと、夜も眠ることができない。そこで今、巡撫の使者を派遣し、人民の暮らしぶりを観察させると共に、朕の治政方針を広く伝えさせ〔て、恐怖心を取り除かせ〕ることとする。担当官は法律を遵守し、民に利益が出るように努めよ。」

 5月、丁丑(5日)、柱国の譙王倹を大冢宰(六府の長である天官府の長官。過去に晋公護や斉王憲が就いた)とした。
 庚辰(8日)、上柱国の杞公亮を大司徒とし、鄭国公の達奚震を大宗伯とし、梁国公の侯莫陳芮を大司馬とし、柱国で応国公の独孤永業を大司寇とし、鄖国公の宇文孝寛韋孝寛を大司空とした。



 平斉ののち、帝は東伐に付き従った者たちだけに大いに褒賞を行ない、長安の留守を預かった者たちには行なわなかった。そこで鄭県(華州の治所。長安と弘農の中間)令の柳彧が上表して言った。
「現在、天下はようやく泰平となったばかりであり、論功行賞は何よりもまず筋が通っていなくてはなりませぬ。敵城を陥とす事ができたのも敵軍を破る事ができたのも、全ては陛下のご神算の賜物でありますが、実際に武器を執り鎧を身につけ、戦場にて敵の大軍と戦う事や、官軍の遠征中に国に留まってその鎮護に努める事は、どちらも陛下お一人の力では成し得なかった事であります。そう考えれば、留守も従軍も重要性は同じで、功労は等しいはずです。皇太子殿下を始め、多くの者たちがまことに国家を守る功績を挙げました。昔、蕭何は関中の留守を預かって、〔戦陣に在って七十創の傷を受けた〕平陽侯(曹参)よりも先に封土を与えられ、劉穆之は建康の留守を預かって、死してもなお〔劉裕から〕優遇を受けたものです。以上、不見識ではありますが、上表して意見を申し上げました。」
〔帝はこれを聞き入れた。〕ここにおいて留守を務めた者たち全員にも昇級が行なわれた。
 柳彧は字を幼文といい、河東郡解県の人で、〔梁の雍州刺史の〕柳仲礼の子である。柳家は七世祖の柳卓の代に東晋に従って南遷し、襄陽に仮住まいするようになったが、仲礼が西魏に敗れて降ると、再び故郷に居住するようになった。
 彧は若年の頃から学問を好み、非常に多くの書物を読み漁った。北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされ、暫くののち地方に出向となって寧州総管掾とされた。武帝が護を誅殺して親政を始めると、宮門まで出向き、自分を任用して才能を試してほしいと申し出た。帝は変わったやつだと思って気に入り、司武(宿衛の官)中士とした。のち鄭県令とされた。
 
 帝は長安の留守を取り仕切った開府・内史下大夫の安化公孝伯(11)にこう言った。
「留守の功績は、戦場の功績に劣らぬ。」
 かくて孝伯を大将軍・広陵郡公(邑三千戸)とし、金銭・布帛・妓女などを与えた。

 辛巳(9日)、正武殿にて大醮夜中に星辰の下に酒や乾し肉などの供物を並べて神を祭り、祈願の内容を書いた文章を奏上するもの。東伐に赴く前にも成功祈願として行なっていた)を行ない、天の加護に報いた

 己丑(17日)、詔を下して言った。
「朕は皇統を受け継いでより、常に天子という重任に恐れ慎み、粗衣粗食を貫き、倹約を貴ぶ生活を送ってきた。建物は、これに住むものが驕らぬよう、これを作るものが疲れぬよう、広壮にして嗜欲をほしいままにしてはならぬものである。昔、大臣(晋公護)が朝政を牛耳っていた時、〔宮殿の〕制度は朕の意志とは異なり、正殿も別宮も壮麗さを極めた。宮殿を壮大華麗にする事は先王が深く戒めたものであるばかりか、宗廟の大きさを超えるという不敬極まる行為でもある。規則に外れた物をそのままにしていては、後世の者に示しがつかない。また、東夏は平定されたばかりで、その住民は未だ徳のある政治というものを見たことが無い。そこで今、朕が手本を示すのが当然である。露寝・会義・崇信・含仁・雲和・思斉の諸宮殿を、農閑期にことごとく破却する。彫刻類はみな貧民に与える。以後、建てるものは何であろうと質素を旨とする。」

 癸巳(21日)、雲陽宮(12)に赴いた。
 戊戌(26日)、詔を下して言った。
「京師(長安)の宮殿は既に破却し終えたが、并・鄴の二ヶ所にある宮殿も朕の建てたものではなく、派手過ぎで、到底そのままにしておいてよいものではない。よって、その建築群の中で壮麗な物はみな破却し、建築資材などは窮民に分け与えよ。農閑期に別に宮殿を段々と建てさせるが、そのつくりはただ雨風を凌げればよい程度にとどめ、規模もできる限り狭小にするように努めよ。」
 
 司馬光曰く…武帝は勝利に良く対処したと言える! 普通の者は勝利するとますます贅沢に走るものだが、高祖は勝利したのちいよいよ倹約に努めた。

 庚子(28日)、陳の使者が北周に到着した。
 この月、青城門(長安の東南の門。覇城門。青かったために青城門とも呼ばれた)がわけもなく自然に崩壊した。

○資治通鑑
 戊申,封高緯為溫公,齊之諸王三十餘人,皆受封爵。…臣光曰:周高祖可謂善處勝矣!他人勝則益奢,高祖勝而愈儉。
○周武帝紀
 夏四月乙巳,至自東伐。列齊主於前,其王公等並從,車轝旗幟及器物以次陳於其後。大駕布六軍,備凱樂,獻俘於太廟。京邑觀者皆稱萬歲。戊申,封齊主為溫國公。庚戌,大會羣臣及諸蕃客於露寢。乙卯,廢蒲、陝、涇、寧四州總管。己巳,…詔曰:「東夏既平,王道初被,齊氏弊政,餘風未殄。朕劬勞萬機,念存康濟。恐清淨之志,未形四海,下民疾苦,不能上達,寢興軫慮,用切於懷。宜分遣使人,巡方撫慰,觀風省俗,宣揚治道。有司明立條科,務在弘益。」五月丁丑,以柱國、譙王儉為大冢宰。庚辰,以上柱國杞國公亮為大司徒,鄭國公達奚震為大宗伯,梁國公侯莫陳芮為大司馬,柱國應國公獨孤永業為大司寇,鄖國公韋孝寬為大司空。辛巳,大醮於正武殿,以報功也。己丑,…詔曰:「朕欽承丕緒,寢興寅畏,惡衣菲食,貴昭儉約。上棟下宇,土階茅屋,猶恐居之者逸,作之者勞,詎可廣廈高堂,肆其嗜欲。往者,冢臣專任,制度有違,正殿別寢,事窮壯麗。非直雕牆峻宇,深戒前王,而締構弘敞,有踰清廟。不軌不物,何以示後。兼東夏初平,民未見德,率先海內,宜自朕始。其露寢、會義、崇信、含仁、雲和、思齊諸殿等,農隙之時,悉可毀撤。雕斵之物,並賜貧民。繕造之宜,務從卑朴。」癸巳,行幸雲陽宮。戊戌,詔曰:「京師宮殿,已從撤毀。并、鄴二所,華侈過度,誠復作之非我,豈容因而弗革。諸堂殿壯麗,並宜除蕩,甍宇雜物,分賜窮民。三農之隙,別漸營構,止蔽風雨,務在卑狹。」庚子,陳遣使來聘。是月,青城門無故自崩。
○周40宇文孝伯伝
 軍還,帝曰:「居守之重,無忝戰功。」於是加授大將軍,進爵廣陵郡公,邑三千戶,并賜金帛及女妓等。
○北斉11安徳王延宗伝
 及至長安,周武與齊君臣飲酒,令後主起舞,延宗悲不自持。屢欲仰藥自裁,傅婢苦執諫而止。
○隋62柳彧伝
 柳彧字幼文,河東解人也。七世祖卓,隨晉南遷,寓居襄陽。父仲禮,為梁將,敗歸周,復家本土。彧少好學,頗涉經史。周大冢宰宇文護引為中外府記室,久而出為寧州總管掾。武帝親總萬機,彧詣闕求試。帝異之,以為司武中士。轉鄭令。平齊之後,帝大賞從官,留京者不預。彧上表曰:「今太平告始,信賞宜明,酬勳報勞,務先有本。屠城破邑,出自聖規,斬將搴旗,必由神略。若負戈擐甲,征扞劬勞,至於鎮撫國家,宿衛為重。俱禀成算,非專己能,留從事同,功勞須等。皇太子以下,實有守宗廟之功。昔蕭何留守,茅土先於平陽,穆之居中,沒後猶蒙優策。不勝管見,奉表以聞。」於是留守並加汎級。

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に35歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年、再び親征して晋州を陥とし、後主率いる援軍も大破し、晋陽を陥とした。今年、鄴も陥とし、青州にて後主を捕らえて北斉を滅ぼした。577年(2)参照。
 ⑵高緯…もと北斉の五代皇帝の後主。在位565~577。生年556、時に22歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年、北周の武帝が親政してくると自ら兵を率いて迎撃したが、すぐに臆病風に吹かれて遁走し、大敗のきっかけを作った。そののち晋陽でも敵前逃亡し、鄴に着くと幼子に帝位を譲って上皇となった。周軍が来ると再び逃亡し、間もなく青州にて捕らえられた。577年(2)参照。
 ⑶高延宗…生年544、時に34歳。高澄(高歓の長子)の第五子。後主の従兄。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝(上皇)に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになったが、兄の孝琬が上皇に誅殺されると憤激し、上皇に擬した藁人形を作ってこれに矢を射、上皇の怒りを買って半殺しにされた。572年、司徒とされた。573年、太尉とされた。北周の武帝が親征してくると後主と共に迎撃に赴き、右軍を率いて戦い、緒戦で北周の開府の宗挺を捕らえた。決戦の際には麾下の兵を率いて突入し、次々と周軍を撃破したが、後主が逃亡したため敗北した。のち後主に晋陽の防衛を任されると徹底抗戦派の推戴を受けて皇帝となり、周軍と戦い、武帝をあと一歩の所まで追い詰めたが、結局力尽きて敗れ、捕らえられた。576年(5)参照。
 ⑷譙王倹…字は侯幼突。生年551(《譙忠孝王墓誌》)、時に27歳。宇文泰の第八子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に譙国公に封ぜられた。567年、柱国とされた。568年、于謹の葬儀の監護を任された。570~575年、益州総管とされた。574年、王とされた。576年の東伐の際、左一軍総管とされた。576年(2)参照。
 ⑸杞公亮…字は乾徳。晋公護の兄の宇文導の次子。同じ宇文顥系の子孫であることから護から重用を受け、護の子どもたちと共に贅沢をほしいままにした。563年~568年頃に梁州総管を務め、のち宗師中大夫とされた。571~574年、秦州総管とされ、亡兄の豳公広の部下を全て配されたが、全く政績を挙げることができなかった。のち、柱国とされた。護が誅殺されると不安を覚え、酒に溺れた。576年の東伐の際、右二軍総管とされた。晋陽を陥とすと上柱国とされた。576年(5)参照。
 ⑹達奚震…字は猛略。故・太傅の達奚武の子。馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を有し、巻狩りの際、宇文泰の前で兎を一矢で仕留めた。559年、華州(華山。長安の東)刺史とされると善政を行なった。564年、洛陽の戦いの際では父と共に殿軍を務め、被害を出さずに帰還に成功した。566年に大将軍とされ、稽胡を討伐した。571年に柱国、573年に金州総管とされた。去年の北斉討伐の際には前三軍総管とされた。今年、統軍川方面を守備し、義寧・烏蘇を攻略した。晋陽を陥とすと上柱国とされた。576年(5)参照。
 ⑺侯莫陳芮…故・柱国の侯莫陳崇の子。梁国公を継ぎ、571年に柱国とされた。575年の東伐の際には一万の兵を与えられ、太行道の守備を命ぜられた。576年、斉王憲の指揮のもと北斉の援軍と戦った。晋陽を陥とすと上柱国とされた。576年(5)参照。
 ⑻独孤永業…字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長けた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。564年に北周が洛陽に攻めてくると防衛の指揮を執り、北斉軍の到着まで良く守り抜いた。のち、斛律光と対立し、565年に都に呼び戻されて太僕卿とされた。572年、北道行台僕射・幽州刺史とされ、前任の斛律羨の逮捕に赴いた。間もなく領軍将軍とされた。のち再び河陽道行台僕射・洛州刺史とされ、575年に北周が洛陽に攻めてくるとまたも援軍の到着まで良く守り抜き、開府・臨川王とされた。晋陽が陥落すると北周に降り、上柱国・応国公とされた。577年(1)参照。
 ⑼宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に69歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。577年(2)参照。
 ⑽柳仲礼…身長八尺の猛将。名門河東柳氏の出身。非常に自尊心が高く傲慢な性格だった。梁に仕え、533年に北魏の将軍の賀抜勝が襄陽北部に侵攻してくると、穀城に籠って良く守り抜いた。のち司州刺史とされ、侯景の乱が起きると救援軍の総督となって建康に赴き、青塘にて侯景の軍を大破したが、その際重傷を負うと弱気になり、以後景と戦うことに消極的になった。建康が陥落すると景に降伏し、間もなく西方に帰ることを許された。その後は江陵に拠る湘東王繹(のちの元帝)に仕えて雍州刺史とされ、襄陽の岳陽王詧(のちの後梁の宣帝)と戦ったが、550年、詧の救援にやってきた西魏軍に敗れると降伏し、礼遇を受けた。
 (11)宇文孝伯…字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に35歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。のち東宮左宮正とされ、太子贇の匡正を任された。576年に太子が吐谷渾討伐に赴くとお目付け役としてこれに従い、太子が数々の非行を行なうと帝に報告して太子の逆恨みを受けた。武帝が北斉討伐に赴くと内史下大夫とされ、留守の朝廷の政治を取り仕切った。576年(2)参照。
 (12)雲陽宮…もと甘泉宮。長安の西北にある。宇文泰が亡くなった場所。武帝は去年の6月10日から8月2日まで雲陽宮に滞在していた。

●天上人
 これより前、帝はもと北斉の中書侍郎の李徳林を長安に連れて帰り、内史(中書)上士としていた。以後、帝は徳林に詔勅や規則の作成および山東(北斉)の人物の登用を一任した。
 帝は雲陽宮にて鮮卑語で群臣にこう言った。
「私は常日頃から李徳林の評判だけは耳にしていたが、いざ斉朝で作った詔書や檄文を目にすると、天上の人ではないかと思うようになった。そのような人物を、どうして今日、自分のもとで働かせ、自分のために文書を作らせる事ができるようになると予想しようか。全く不思議なこともあるものだ。」
 柱国・神武公の紇豆陵毅竇毅が答えて言った。
「臣は『明王聖主が騏驎や鳳凰の瑞祥を得るのは、騏驎や鳳凰がその聖徳に感じ入ったからで、人の力でどうこうできるものではない』と聞いております。ただ、瑞祥の動物がやってきたとしても、働かせることはできません。李徳林が陛下のもとで働くようになったのは、騏驎や鳳凰と同じく陛下の聖徳に感じ入ったからでありますが、彼が才能を思う存分発揮し、どのような分野でも上手に処理することができるなら、それは騏驎や鳳凰が遠方よりやってくる事よりも上の瑞事と申せましょう。」
 帝は大いに笑って言った。
「まことに公の言う通りだ。」

○隋42李徳林伝
 仍遣從駕至長安,授內史上士。自此以後,詔誥格式,及用山東人物,一以委之。武帝嘗於雲陽宮作鮮卑語謂羣臣云:「我常日唯聞李德林名,及見其與齊朝作詔書移檄,我正謂其是天上人。豈言今日得其驅使,復為我作文書,極為大異。」神武公紇豆陵毅答曰:「臣聞明王聖主,得騏驎鳳凰為瑞,是聖德所感,非力能致之。瑞物雖來,不堪使用。如李德林來受驅策,亦陛下聖德感致,有大才用,無所不堪,勝於騏驎鳳凰遠矣。」武帝大笑曰:「誠如公言。」

 ⑴李徳林…字は公輔。生年532、時に46歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作成にも携わるようになった。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎とされた。北斉が滅びると北周に仕え、武帝から斉朝の風俗習慣や政治や教育の制度、人物の良し悪しを尋ねられ、これに答えた。577年(1)参照。
 ⑵紇豆陵毅(竇毅)…字は天武。生年519、時に59歳。柱国・鄧国公の紇豆陵熾(竇熾)の兄の子。温和・控えめで度量があり、孝行者だった。宇文泰の第五女の襄陽公主(武帝の姉。李世民の母を産む)を娶り、重用を受けた。554年に豳州刺史とされ、北周が建国されると神武公とされた。562年、左宮伯とされ、のち小宗伯・大将軍とされた。565年、可汗の娘を迎えるために突厥に赴いたが、抑留されると臆することなく背信行為を責めた。571年、柱国とされた。572年(5)参照。

●長安に連行された北斉の文人たち
 北周の武帝は北斉を滅ぼして長安に帰る際、徳林の他、尚書右僕射・兼中書監・燕郡王の陽休之、吏部尚書の袁聿修、衛尉卿の李祖欽、度支尚書の元修伯、大理卿の司馬幼之、司農卿の崔達拏、秘書監の源文宗、散騎常侍・兼中書侍郎の李若、散騎常侍・給事黄門侍郎の李孝貞、給事黄門侍郎の盧思道顔之推(11)、通直散騎常侍・兼中書舍人の陸乂(12)、中書侍郎の薛道衡(13)、中書舍人の高行恭(14)辛徳源(15)王劭(16)陸開明(17)ら十八人を連れて行った。
 思道は著作にて帝と同行した者はただ休之・孝貞・思道だけだったとしているが、それはただ他の者たちを貶める目的で書いたもので、作り事である。
 この時、十八人の多くが輜重(荷馬車)を伴って行ったが、数千巻もの書物を載せて行ったのは開明だけだった。

 この時、休之は開府儀同大将軍とされ、納言中大夫・太子少保を歴任した。
 聿修は儀同大将軍・吏部下大夫とされた。
 修伯は儀同大将軍・載師(人口・土地・畜産・賦税を担当)大夫とされた。
 文宗は儀同大将軍・司成(教育を担当)下大夫とされた。
 孝貞は儀同大将軍・少典祀下大夫とされた。
 思道は儀同大将軍とされた。
 行恭は次第に昇進して司勲(論功行賞を担当)下大夫とされた。
 徳源・開明は宣納上士とされた。
 道衡は御史二命士とされた。

○隋57李孝貞伝
 周武帝平齊,授儀同三司、少典祀下大夫。
○隋57薛道衡伝
 及齊亡,周武引為御史二命士。
○隋58陸爽伝
 及齊滅,周武帝聞其名,與陽休之、袁叔德等十餘人俱徵入關。諸人多將輜重,爽獨載書數千卷。至長安,授宣納上士。
○隋58辛徳源伝
 及齊滅,仕周為宣納上士。
○隋69王劭伝
 齊滅,入周,不得調。
○北斉42陽休之伝
 周武平齊,與吏部尚書袁聿修、衞尉卿李祖欽、度支尚書元脩伯、大理卿司馬幼之、司農卿崔達拏、祕書監源文宗、散騎常侍兼中書侍郎李若、散騎常侍給事黃門侍郎李孝貞、給事黃門侍郎盧思道、給事黃門侍郎顏之推、通直散騎常侍兼中書侍郎李德林、通直散騎常侍兼中書舍人陸乂、中書侍郎薛道衡、中書舍人高行恭、辛德源、王劭、陸開明十八人同徵,令隨駕後赴長安。盧思道有所撰錄,止云休之與孝貞、思道同被召者是其誣罔焉。尋除開府儀同,〔依例封臨澤縣男。〕歷納言中大夫、太子少保。
○北斉38高行恭伝
 行恭美姿貌,有父風,兼俊才,位中書舍人,待詔文林館。齊亡,陽休之等十八人同入關,稍遷司勳下大夫。
○北斉42袁聿修伝
 齊亡入周,授儀同大將軍、吏部下大夫。
○北斉43源彪伝
 武平七年,周武平齊,與陽休之、袁聿修等十八人同勑入京,授儀同大將軍、司成下大夫。
○北斉43元修伯伝
 周朝授儀同大將軍、載師大夫。

 ⑴陽休之…字は子烈。生年509、時に69歳。北平陽氏の出で、名文家の陽固の子。博学で、典雅純正な文章を書いた。賀抜勝と共に梁に亡命したが、のち袂を分かって東魏に属した。石にあった『六王三川』の字の解釈を高歓に行なった。武定七年(549)に給事黄門侍郎とされたが、文宣帝が東魏に禅譲を迫る際、生来のおしゃべりを発揮して計画を鄴中に漏らしてしまったことで一時左遷された。政治の才能に優れ、中山太守や西兗州刺史を務めると住民に慕われ、孝昭帝が即位すると才能を買われて相談役となった。天統元年(565)に光禄卿・監国史とされ、間もなく吏部尚書とされた。570年、中書監→兼尚書右僕射とされた。571年、兼中書監とされた。574年、正中書監とされた。575年、右僕射とされ、また兼中書監とされた。575年(1)参照。
 ⑵袁聿修…字は叔徳。生年511、時に67歳。名門の陳郡袁氏の出身。北魏の中書令の袁翻の子で、叔父で太傅の袁躍の養子となった。鑑識眼があり、清廉だった。北斉に仕えて兼御史中丞とされたが、司徒録事参軍の盧思道の汚職を弾劾できず、免官に遭った。天統年間(565~569)に故郷の信州の刺史とされると善政を行なった。のち兼吏部尚書→正式な吏部尚書とされ、十年に亘って人事を司った。清廉で賄賂を取らなかったが、権力者に逆らうことはできなかった。
 ⑶李祖欽…名門趙郡李氏の出身。李希宗(文宣帝の皇后の李祖娥の父)の子。娘が後主の左娥英(側室の一)と琅邪王儼の正妃とされた。自らも竟陵王・光禄卿とされた。
 ⑷元修伯…北魏の四代文成帝の後裔。清廉で欲が少なく、政治の要点を知悉していた。若くして要職を歴任し、尚書郎・治書侍御史・司徒左長史・数郡の太守・光州(青州の東)刺史とされると、その全ての職場において非常な政績を挙げた。度支尚書とされると、乱脈を極めて窮迫の一途を辿る北斉の財政の良化に努め、多くの改革を行なって国家に非常に貢献した。575年(3)参照。
 ⑸司馬幼之…司馬子如(四貴の一人)の兄の子。清廉で品行が良く、若い頃から要職を歴任した。567年、散騎常侍とされて陳に使いした。567年(1)参照。
 ⑹崔達拏…北斉の右僕射の崔暹の子。穏やか・控えめな性格で、清廉で識見があった。若くして要職を歴任し、儀同三司・司農卿とされた。
 ⑺源文宗…本名は彪。文宗は字。もとの姓は禿髪。生年521、時に57歳。東魏の魏尹の源子恭の子。聡明・博識で、若年の頃から名声があった。涇州・秦州(ともに建康の北)刺史とされると、不安定な国境地帯を良く治め、陳に一目置かれた。573年、秘書監とされた。淮南が陳の侵攻を受けると、王琳に防衛の全権を委ねるよう意見したが、聞き入れられなかった。573年(2)参照。
 ⑻李若…李崇(北魏の名臣)の従弟の李平の孫で、李諧の子。聡明で家学をよく継承し、風采の良さや受け答えの上手さによって名声を博した。武成帝に非常に気に入られ、しばしば帝に命じられて詩を吟じたり、世間の面白いことを話したりした。その寵愛ぶりを韓長鸞らに憎まれ、讒言を受けて免官に遭ったが、間もなく復職を許された。567年(2)参照。
 ⑼李孝貞…字は元操。名門趙郡の李氏の出身。父は信州刺史の李希礼。幼い頃から勉強が好きで、文才があった。さっぱりとして物静かな性格で、みだりに人と付き合わなかった。黄門侍郎の高乾和からの通婚の誘いを断ったことで左遷された。568年、副使として陳に赴いた。帰還すると給事黄門侍郎とされた。568年(2)参照。
 ⑽盧思道…字は子行。生年535、時に43歳。名門の范陽盧氏の出。の人文才・弁才に優れていたが品行が良くなく、公金を横領したり、人を侮辱したりした。魏書が作られるとその内容を非難して鞭打たれた。文宣帝が亡くなると八首もの挽歌(哀悼の歌)が採用され、『八採盧郎』と称賛された。のち権力者の馮子琮の娘婿となり、給事黄門侍郎とされるなど破格の抜擢を受けた。577年(1)参照。
 (11)顔之推…字は介。名門琅邪顔氏の出身で名文家。生年531、時に47歳。祖父の代に没落し、父が亡くなると更に苦境に立った。早くに梁の湘東王繹(元帝)に仕え、文才を以て名を知られた。侯景の乱が起こると郢州において捕らえられたが、間もなく建康にて救出された。元帝が即位すると中書舎人とされたが、554年、西魏の江陵攻略に遭遇し、関中に拉致された。間もなく北斉に亡命し、文宣帝に重用された。のち後主や祖珽の重用を受け、文林館の設立に関わり、知館事・判署文書とされた。文林党粛清の際には上手く災禍を逃れた。575年、多くの新税を提案して聞き入れられた。577年、北周軍が鄴に迫ると平原太守とされ、黄河の渡し場の守備を任された。577年(1)参照。
 (12)陸乂…字は旦。鮮卑人で、北斉の吏部郎中の陸卬の子。聡明・博学で文才があった。569年、孝昭帝の娘を娶った。通直散騎侍郎・待詔文林館とされ、のち兼散騎侍郎とされて陳の使者の接待を任された。のち兼中書舍人・通直散騎常侍とされた。五経に通暁し、文林館の人々から『石経』と称され、「五経について分からないことがあったら陸乂に聞け」と評された。
 (13)薛道衡…字は玄卿。生年535、時に43歳。薛孝通(爾朱天光や北魏の節閔帝に重用された)の子。六歲の時(540年)に父を亡くしたが、めげることなく学問に打ち込んだ。十代前半で《国僑賛》を作り、その出来栄えがあまりに良かったため、人々から一目置かれるようになった。武成帝の代に兼散騎常侍とされ、周・陳二国の使者の接待を任された。のち待詔文林館とされ、盧思道や李徳林と名声を等しくし、親しく交際した。のち中書侍郎とされ、太子の侍読(教師)を兼任した。太子が即位して後主となると次第に親任されるようになったが、頗る追従の譏りを受けた。のち、侍中の斛律孝卿と共に政治に参与すると、北周に対抗する策を事細かに述べたが、孝卿に聞き入れられなかった。577年(1)参照。
 (14)高行恭…北斉の侍中の高文遥(元文遥)の子。美男で父の面影があり、才能も優れていた。尚書郎→中書舍人・待詔文林館とされた。
 (15)辛徳源…字は孝基。名門の隴西辛氏の出。落ち着きがあって学問を好み、文才があった。梁や陳への使者とされた。のち待詔文林館・中書舍人とされた。
 (16)王劭…字は君懋。名門の太原王氏の出。北斉の兼御史中丞の王松年(孝昭帝の死を嘆き悲しんだ)の子。寡黙で読書を好んだ。太子舍人・待詔文林館とされた。祖孝徴(珽)・魏収・陽休之らが古事について論じてどうしても思い出せなかった事があった時、内容と出典を詳しく述べてその博識さを絶賛された。のち中書舍人とされた。
 (17)陸開明…本名は爽。開明は字。鮮卑人で、司農卿・霍州刺史の陸概之の子。聡明で非常な読書家だった。北斉の尚書僕射の楊遵彦(愔)に「陸氏は代々人材を輩出する」と評された。北斉に仕えて中書侍郎とされた。

●亡国の音
 帝は雲陽宮にてもと北斉の君臣と宴会を行なった。この時、帝は自ら胡琵琶を弾き、北斉のもと広寧王の高孝珩に笛を吹かせた(孝珩は多くの技芸に優れていた)。孝珩は断って言った。
「亡国の音(滅亡した国の音楽)は陛下が聴くに値しません。」
 帝が聞き入れずに再度吹くよう命じると、孝珩は笛を口まで持っていったが、そこで涙を流し嗚咽したため、帝は吹くのを止めさせた。

 6月、丁未(6日)、雲陽宮から長安に帰った。
 辛亥(10日)、正武殿に赴いて囚人の罪状の審理を行なった(572年にも行なったことがある)。
 癸亥(22日)、河州の鶏鳴防に旭州を置き、甘松防に芳州を置き、広州防に弘州を置いた。

○周武帝紀
 六月丁未,至自雲陽宮。辛亥,御正武殿錄囚徒。癸亥,於河州鷄鳴防置旭州,甘松防置芳州,廣州防置弘州。
○北斉11広寧王孝珩伝
 後周武帝在雲陽,宴齊君臣,自彈胡琵琶,命孝珩吹笛。辭曰:「亡國之音,不足聽也。」固命之,舉笛裁至口,淚下嗚咽,武帝乃止。

 ⑴高孝珩(コウ)…広寧王孝珩。高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。のち大司馬とされた。後主が晋陽から鄴に逃亡する際、これに随行した。今年太宰とされた。高阿那肱の殺害を図ったが空振りに終わった。後主に危険視され、北周迎撃軍の指揮権を求めても拒否され、滄州刺史に左遷された。鄴が陥落すると任城王湝と共に奪還を図ったが、斉王憲に大敗を喫し、重傷を負って捕らえられた。577年(2)参照。
 ⑵河州…抱罕。《読史方輿紀要》曰く、『隴州の西六百六十里→鞏昌府の西二百里→臨洮府の西百八十里にある。』
 ⑶旭州…《隋書地理志》曰く、『臨洮郡(北周の洮州洮陽郡)洮源県に北周は金城県と旭州と通義郡を置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『河州の南三百十里→洮州衛の南にある。』
 ⑷芳州…《隋書地理志》曰く、『扶州同昌郡(北周の鄧州)封徳県に後魏(西魏)は芳州を置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『宋白曰く、北周は武成三(元?)年(559)に吐谷渾を駆逐したのち、三交に城を築き、甘松防と三川県を置き、常香郡に所属させた。建徳三年(574)、三川県を常芬県に改め、芳州を置いた。その地に芳草(香草)が多く自生していたためそう名付けられたのである。封徳城は洮州衛の境内にある。西魏が置き、更に芳州と深泉郡の治治を置いた。』
 ⑸弘州…《隋書地理志》曰く、『臨洮郡帰政県に北周は弘州と開遠・河浜二郡を置いた。』

●東巡
 甲子(23日)武帝が東方の巡視に赴いた。
 丁卯(26日)、詔を下して言った。
「同姓の者と百代経っても婚姻をしてはならないのは、周が人倫を重んじ、淫乱な行為や禽獣のような行為を防ごうと決めたからである(《礼記》大伝)。母親と同姓の者と結婚するのは、たとえ両者が同じ祖先では無かったとしても、人倫の混乱を招く元となる。よって、今より以後、母親と同姓の者を妻妾としてはならない。〔今、母と同姓の者と〕婚約はしているがまだ結婚していない者は、すぐに婚約を破棄し、別の者と結婚せよ。」

 秋、7月、乙亥(4日)、陳が軽車将軍(五品)・丹陽尹の江夏王伯義を宣毅将軍(四品)・持節・散騎常侍・都督合霍二州諸軍事・合州(合肥)刺史とした。

 己卯(8日)、北周が斉王憲の第四子の広都公貢字は乾禎)を莒国公とし、莒荘公洛生の跡を継がせた。

 百済が陳に特産品を献上した。
 庚辰(9日)、建康にて大雨が降り、万安陵の華表(墓の前に立てる目印の柱)に雷が落ちた。

 癸未(12日)、北周の応州(江夏の西北)が芝草(シソウ。霊芝、万年茸。瑞草とされる)を献じた。
 丙戌(15日)、洛州(洛陽)に赴いた。
 己丑(18日)、詔を下して言った。
「山東の諸州は才能のある者を、上県は六人、中県は五人、下県は四人推挙し、行在所に赴かせよ。政治の良し悪しについて議論したい。」

 陳の恵日寺の剎(旗柱)と瓦官寺の重門に雷が落ち、門下にて女子一人が死んだ。

 戊戌(27日)、〔上柱国・庸国公の可頻謙王謙を益州総管とした(前任は代王達)。
 8月、壬寅(2日)、新しい度量衡を制定し、天下に頒布した。この新しい規格以外の度量衡は全て廃止した。
 これより前、北魏〔の太武帝〕は北涼(沮渠氏。涼州に割拠)を滅ぼした際(439年)、その住民〔三万余家を平城に強制移住させ、〕平民の身分を剥奪して隷戸に入れた。北魏の孝武帝が〔高歓に逐われて〕関中に逃れたのち(534年)、彼らはみな東魏に属し、北斉も隷戸の制度を踏襲して彼らを奴隷のように使役した。
 現在、帝は詔を下して言った。
「厳刑によって犯罪を抑止するという考え方は、時に軽んじられ時に重んじられたが、『罪を子どもに及ぼさない』(《書経》大禹謨)という掟だけは不変であり続けた。しかし、雑役の徒(隷戸)はこの不変の掟に外れ、一度罪に遭って配属されると、百代に亘って免れる事ができなかった。処罰に限度が無ければ、法律は節度を失ってしまう。法の道には踏襲されるものがあれば変革されるものがあるが、今は新国家の草創の時に当たるゆえ、法律を寛大に行なうべきである(《周礼》秋官司寇。よって今、諸雑戸をみな解放して平民とする。今より以後、雑戸の罰則は永久に削除する。」
 甲子(24日)、鄭州(潁川長社)から九尾の狐が献上された。ただ、狐は既に死んでおり、皮や肉は全て無くなって、骨組みだけが全て揃った形で送られてきた。帝は言った。
「瑞祥は必ず有徳者の前に現れるものである。もし、家庭の五つの秩序(父・母・兄・弟・子の関係)が正しく機能し、天下が平穏になり、父が子を慈しみ、子が父に孝を尽くし、人々が礼儀と謙譲を知ったなら、瑞祥を招来させる事ができるであろう。〔だが、〕今はその時では無い。これは恐らく本物の瑞祥では無いだろう。」
 かくてこれを焼き払わせた。
 9月、壬申(8日)、柱国・鄧国公の紇豆陵熾竇熾と申国公の拓抜穆李穆を上柱国とした。
 戊寅(14日)、平民以上の身分の者は衣綢・綿綢・絲布・円綾・紗・絹・綃・葛・布の九種の素材でできた衣類のみ身に着ける事を許し、他は全て禁止した。ただ、朝会・祭祀で着る衣服については例外とした。
 甲申(20日)、絳州(晋州平陽の南百五十里)が白雀を献上した。
 壬辰(28日)、詔を下して言った。
「東土(もと北斉領)の諸州の儒者のうち、経典に一種類でも明るい者がいれば、州郡はみな推挙して丁重に送れ。」
 癸卯(巳なら29日、卯なら10月4日)、上大将軍・上黄公の烏丸軌王軌を郯国公(邑三千戸)とした。
 また、吐谷渾が特産品を献上してきた。
 冬、10月、戊申(9日)、鄴宮に赴いた。
 帝は紇豆陵熾を呼んで相州の宮殿(鄴宮)を見物させた。熾は祝いの言葉を述べて言った。
「陛下はまこと、先帝(宇文泰?)の期待に背かれませんでしたな。」
 帝は上機嫌になり、熾に奴隷三十人と諸種の絹織物千疋を与えた。

○周武帝紀
 甲子,帝東巡。丁卯,詔曰:「同姓百世,婚姻不通,蓋惟重別,周道然也。而娶妻買妾,有納母氏之族,雖曰異宗,猶為混雜。自今以後,悉不得娶母同姓,以為〔妻〕妾。其已定未成者,即令改聘。」秋七月己卯,封齊王憲第四子廣都公負(貢)為莒國公,紹莒莊公洛生後。癸未,應州獻芝草。丙戌,行幸洛州。己丑,詔山東諸州舉有才者,上縣六人,中縣五人,下縣四人,赴行在所,共論治政得失。戊戌,以上柱國、庸公王謙為益州總管。八月壬寅,議定權衡度量,頒於天下。其不依新式者,悉追停。詔曰:「以刑止刑,世輕世重。罪不及嗣,皆有定科。雜役之徒,獨異常憲,一從罪配,百世不免。罰既無窮,刑何以措。道有沿革,宜從寬典。凡諸雜戶,悉放為民。配雜之科,因之永削。」甲子,鄭州獻九尾狐,皮肉銷盡,骨體猶具。帝曰:「瑞應之來,必昭有德。若使五品時敘,四海和平,家識孝慈,人知禮讓,乃能致此。今無其時,恐非實錄。」乃命焚之。九月壬申,以柱國鄧國公竇熾、申國公李穆並為上柱國。戊寅,初令民庶已上,唯聽衣綢、綿綢、絲布、圓綾、紗、絹、綃、葛、布等九種,餘悉停斷。朝祭之服,不拘此例。甲申,絳州獻白雀。壬辰,詔東土諸州儒生,明一經已上,並舉送,州郡以禮發遣。癸卯,封上大將軍、上黃公王軌為郯國公。吐谷渾遣使獻方物。冬十月戊申,行幸鄴宮。
○陳宣帝紀
 秋七月乙亥,以輕車將軍、丹陽尹江夏王伯義為合州刺史。己卯,百濟國遣使獻方物。庚辰,大雨,震萬安陵華表。己丑,震慧日寺剎及瓦官寺重門,一女子於門下震死。
○隋刑法志周
 魏虜西涼之人,沒入名為隸戶。魏武入關,隸戶皆在東魏,後齊因之,仍供厮役。建德六年,齊平後,帝欲施輕典於新國,乃詔凡諸雜戶,悉放為百姓。自是無復雜戶。
○周30竇熾伝
 齊平之後,帝乃召熾歷觀相州宮殿。熾拜賀曰:「陛下真不負先帝矣。」帝大悅,賜奴婢三十人,及雜繒帛千疋,進位上柱國。
○陳28江夏王伯義伝
 尋為宣毅將軍、持節、散騎常侍、都督合霍二州諸軍事、合州刺史。

 ⑴北魏の孝文帝も483年に禁止令を出している。
 ⑵江夏王伯義…陳伯義。字は堅之。文帝(宣帝の兄)の第九子。母は張修容。565年に江夏王とされた。565年(2)参照。
 ⑶斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に34歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。武帝が一時撤退する際、殿軍を務めた。再征時にも常に先鋒を任された。のち任城王湝と広寧王孝珩の乱を平定した。577年(2)参照。
 ⑷莒荘公洛生…宇文泰の兄。北魏末の群雄の葛栄に仕え、漁陽王とされ、大いに武功を立てた。葛栄が爾朱栄に滅ぼされると爾朱栄に仕えたが、警戒を受けて殺された。561年に莒国公とされ、荘と諡された。
 ⑸可頻謙(王謙)…字は勅万。柱国の可頻(叱?)雄(王雄)の子。控え目で礼儀正しい性格をしていた。それ以外これといった取り柄は無かったが、父の七光によって安楽県伯に封ぜられ、開府儀同三司とされた。557年、治右小武伯とされた。562年に父が庸国公に封ぜられると、代わりに武威郡公に封ぜられた。のち父が邙山にて戦死すると、565年、代わりに柱国大将軍・庸国公とされた。576年、吐谷渾討伐に参加した。のち上柱国とされた。576年(5)参照。
 ⑹代王達…字は度斤突。宇文泰の第十一子。母は不明。果断な性格で、騎射を得意とし、倹約を好んだ。柱国の李遠に養育された。559年に代国公とされ、566年に大将軍・右宮伯とされ、のち左宗衛とされた。572年、荊州総管とされると善政を行なった。575年、益州総管とされた。575年(3)参照。
 ⑺《周礼》秋官司寇曰く、『新しく始まったばかりの国には寛刑を行ない、治まっている国には寛厳の釣り合いの取れた刑罰を行ない、乱れた国には厳刑を行なう。』
 ⑻紇豆陵熾(竇熾)…字は光成。生年507、時に71歳。知勇兼備の名将。北魏の高官を務める名家の出。武帝の姉婿の紇豆陵毅(竇毅)の叔父。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、その関中亡命に付き従い、河橋・邙山の戦いで活躍した。552年、原州刺史とされ、善政を行なった。554年、柔然軍を撃破した。560年、柱国大将軍とされ、561年に鄧国公、564年に大宗伯とされた。のち、洛陽攻めに加わった。晋公護に嫌われ、570年、宜州刺史に左遷された。護が誅殺されると太傅とされた。東伐に志願したが、高齢のため許されなかった。576年(2)参照。
 ⑼拓抜穆(李穆)…字は顕慶。生年510、時に68歳。武帝の養父の李賢の弟。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年に宜陽の攻略に赴き、570年には汾北の救援に赴いた。572年、太保とされた。一年あまりののち原州総管とされた。575年の東伐の際には軹関・柏崖および河北の諸県の攻略に赴いた。575年(2)参照。
 ⑽烏丸軌(王軌)…祖先は代々州郡の冠族の出で、北魏に仕えると烏丸氏の姓を賜り。のち北鎮に移って四代に亘って居住したという。父は北周の開府儀同三司・上黄郡公の烏丸光(王光)。真面目で正義感が強く、沈着冷静で見識があった。武帝に早くから仕え、帝が即位すると非常な厚遇を受け、腹心とされた。のち、晋公護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。護が誅殺されると内史中大夫(中書令?)・開府儀同三司とされ、国政にみな参与した。575年、太子贇が吐谷渾の討伐に赴くとそのお目付け役とされ、帰還すると贇の悪行を報告して贇の逆恨みを受けた。576年の東伐の際には晋州城を陥とし、上大将軍とされた。576年(3)参照。

┃北伐

 これより前(今年の正月〜北斉の滅亡まで)、陳の〔都督南北兗南北青譙五州諸軍事・南兗州刺史・司空・南平公の〕呉明徹が呂梁(彭城の東南六十里)に進攻し、北斉軍と会戦を行なった。陳の明毅将軍・晋熙(晋州。柴桑と合肥の中間)太守の蕭摩訶が七騎を率いて真っ先に敵陣に突っこみ、手ずからその大将旗を奪うと、斉軍は総崩れとなった。この功により譙州(新昌。建康の西北二百六十里)刺史とされた。

 のち、北斉が滅亡すると、陳の宣帝は徐・兗(河南東部)の地への侵攻を考えるようになった。帝は五兵尚書の毛喜に諮って言った。
「彭・汴の地(河南東部)に出兵したいと思うのだが、卿はどう思うか?」
 喜は答えて言った。
「臣は非才の身で未来のことを予測する事はできませんが、ただ、
 ①淮東一帯は新しく平定したばかりの土地で、その人心はまだ定まっていないこと、
 ②周氏は斉国を併呑したばかりで〔威勢が良く〕、難敵であること、
 ③我が軍は大遠征(573~575年)をしたばかりで疲弊しているのに、更に深入りするのはどうかということ、
 ④呉人は水上戦を得意とし、騎兵戦を不得手とするのに、大河から離れて騎兵が闊歩する大平原に出兵するのは危ういのではないかということ
 は分かります。臣の愚見では、暫く戦わず、民や兵をしっかりと休息させ、それから広く才能のある者を集め、機を見て動く方が良いと思います。これこそが国家長久の方策であります。」
 帝は聞き入れなかった。
 現在、帝は〔都督南北兗南北青譙五州諸軍事・〕南兗州刺史・司空〔・南平公〕の呉明徹に北伐を命じ、その世子で戎昭将軍・員外散騎侍郎の呉恵覚を摂行〔南兗〕州事(刺史代理)とした。また、軍師将軍・譙州刺史(就任前)の裴忌を都督とし、明徹の軍と並進させた。
 明徹が呂梁に進軍すると、北周の柱国・東南道行台・使持節・徐州総管・三十二州諸軍事・徐州刺史・郕国公の梁士彦は数万の兵を率いて迎撃した。
 戊午(19日)、明徹が周軍を大破し、万を数える首級・捕虜を得た。
 士彦は徐州城(彭城)に逃げ帰り、以後二度と出撃する事は無かった。明徹は彭城を包囲すると清水(泗水)を堰き止めて水攻めにし、艦船を輪状に連ねて城壁の下に到り、猛攻を加えた。

 この一連の戦いの間、蕭摩訶は北周の大将軍の宇文忻と龍晦()にて戦った。このとき忻は数千の精鋭騎兵を率いていたが、摩訶はたった十二騎を引き連れて周軍の奥深くに突入し、縦横無尽に暴れ回って非常に多くの首級や捕虜を得た。
 この時、摩訶は落馬して周兵に幾重にも取り囲まれてしまったが、開遠将軍の周羅睺が危険をものともせずにこれを救い出し、軍中随一の武勇を示した。

 宣帝は勝利の報を聞くと歓喜し、〔徐州だけでなく〕河南全域すらも一挙に平定できると考えるようになった。この時、太子左衛率・中書通事舍人の蔡景歴が諌めて言った。
「兵は疲れているのに、将は驕っています。斯様な時に度を過ぎた遠征を行なうのは宜しくありません。」
 帝は気勢をそぐ発言に激怒し〔厳罰に処そうとし〕たが、景歴が朝廷の旧臣であることや、罪がそこまで深くないことを以て、地方に左遷して宣遠将軍・豫章内史とするにとどめた。その出発前、にわかに弾劾文が朝廷に届けられた。それは景歴が中書省にいる間にいかに不正行為を起こしたかが書かれたものだった。帝が担当官に尋問させると、景歴はその内容の半分だけを事実だと認めた。ここに至って御史中丞の宗元饒が上奏して言った。
「臣はこう聞いております。『仕官し禄を受けている者は、忠の精神を以て主上に仕え、廉の精神を以て己を律するのが当然であり、もしこの道に違う者がいれば処罰を受け、赦される事は無い』と。謹んで調べましたところ、宣遠将軍・豫章内史・新豊県開国侯の蔡景歴は昔〔高祖武帝。陳覇先)の〕抜擢を受け、建国に非常に貢献いたしましたが、天嘉の世(560~566。文帝の治世)になると汚職を働き、官爵を剥奪されました。しかし、陛下は更生を期待して景歴を再び登用し、官爵を元にお戻しになられました。しかるに、景歴は改心する事ができず、恩を仇で返してほしいままに汚職を行ないました。これは天下の周知する所となっております。一度だけでも酷いというのに、果たして二度も行なっていいものでしょうか? まさに刑法を正しく執行すべき時であります。臣らが協議した結果、景歴の罪が確実となった今、官爵を剥奪するのが妥当という結論に至りました。謹んで弾劾文を奉呈いたします。」
 帝はこれを聞き入れて景歴の官爵を剥奪し、会稽に強制移住させた。

○周武帝紀
 陳將吳明徹侵呂梁,徐州總管梁士彥出軍與戰,不利,退守徐州。
○陳宣帝紀
 冬十月戊午,司空吳明徹破周將梁士彥眾數萬于呂梁。
○周40王軌伝
 及陳將吳明徹入寇呂梁,徐州總管梁士彥頻與戰不利,乃退保州城,不敢復出。明徹遂堰清水以灌之,列船艦於城下,以圖攻取。
○陳9呉明徹伝
 會周氏滅齊,高宗將事徐、兖,九年,詔明徹進軍北伐,令其世子戎昭將軍、員外散騎侍郎惠覺攝行州事。明徹軍至呂梁,周徐州總管梁士彥率眾拒戰,明徹頻破之,因退兵守城,不復敢出。明徹仍迮清水以灌其城,環列舟艦於城下,攻之甚急。
○陳10程文季伝
 八年,為持節、都督譙州諸軍事、安遠將軍、譙州刺史。其年,又督北徐仁州諸軍事、北徐州刺史,餘竝如故。九年,又隨明徹北討,於呂梁作堰,事見明徹傳。
○陳16蔡景歴伝
 太建五年,都督吳明徹北伐,所向克捷,與周將梁士彥戰於呂梁,大破之,斬獲萬計,方欲進圖彭城。是時高宗銳意河南,以為指麾可定,景歷諫稱師老將驕,不宜過窮遠略。高宗惡其沮眾,大怒,猶以朝廷舊臣,不深罪責,出為宣遠將軍、豫章內史。未行,為飛章所劾,以在省之日,贓汙狼藉,帝令有司按問,景歷但承其半。於是御史中丞宗元饒奏曰:「臣聞士之行己,忠以事上,廉以持身,苟違斯道,刑茲罔赦。謹按宣遠將軍、豫章內史新豐縣開國侯景歷,因藉多幸,豫奉興王,皇運權輿,頗參締構。天嘉之世,贓賄狼藉,聖恩錄用,許以更鳴,裂壤崇階,不遠斯復。不能改節自勵,以報曲成,遂乃專擅貪汙,彰於遠近,一則已甚,其可再乎?宜寘刑書,以明秋憲。臣等參議,以見事免景歷所居官,下鴻臚削爵土。謹奉白簡以聞。」詔曰「可」。於是徙居會稽。
○陳19裴忌伝
 改授使持節、都督譙州諸軍事、譙州刺史。未及之官,會明徹受詔進討彭、汴,以忌為都督,與明徹掎角俱進。
○陳29毛喜伝
 及眾軍北伐,得淮南地,喜陳安邊之術,高宗納之,即日施行。又問喜曰:「我欲進兵彭、汴,於卿意如何?」喜對曰:「臣實才非智者,安敢預兆未然。竊以淮左新平,邊氓未乂(邊人未輯),周氏始吞齊國,難與爭鋒,豈以弊卒疲兵,復加深入。且棄舟檝之工,踐車騎之地,去長就短,非吳人所便。臣愚以為不若安民保境,寢兵復約,然後廣募英奇,順時而動,斯久長之術也。」高宗不從。
○陳31蕭摩訶伝
 九年,明徹進軍呂梁,與齊大戰,摩訶率七騎先入,手奪齊軍大旗,齊眾大潰。以功授譙州刺史。及周武帝滅齊,遣其將宇文忻率眾爭呂梁,戰於龍晦。時忻有精騎數千,摩訶領十二騎深入周軍,縱橫奮擊,斬馘甚眾。
○隋40梁士彦伝
 宣帝即位,除東南道行臺、使持節、徐州總管、三十二州諸軍事、徐州刺史。
○隋65周羅睺伝
 進師徐州,與周將梁士彥戰於彭城,摩訶臨陣墮馬,羅睺進救,拔摩訶於重圍之內,勇冠三軍。

 ⑴呉明徹…字は通炤。生年512、時に66歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊(宣帝)がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。572年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。573年、北討大都督とされて北伐の総指揮官とされ、北斉の秦州や揚州を陥とした。のち東楚州(宿豫)を陥とし、呂梁にて北斉軍を大破した。576年、司空・都督南北兗南北青譙五州諸軍事・南兗州(広陵)刺史とされた。576年(2)参照。
 ⑵蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に46歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。573年(4)参照。
 ⑶宣帝…陳頊(キョク)。陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に48歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。576年(2)参照。
 ⑷毛喜…字は伯武。生年516、時に62歳。幼い頃から学問を好み、達筆だった。梁の中衛西昌侯記室参軍。陳の武帝に才能を評価され、江陵に行く安成王頊(のちの宣帝)の世話役とされた。江陵が陥落すると関中に拉致された。561年に陳に返されると、文帝に北周と和を結ぶよう進言した。562年、帰国した頊の出迎えを任された。その後は頊の府諮議参軍・中記室とされ、文書の作成を一任された。文帝が死に廃帝が継ぎ、反頊派の到仲挙らが頊を宮廷から追い出そうとすると、その危険性を察知して頊に宮廷から出ないよう諌めた。また、反頊派の韓子高に精良な兵馬や鉄炭を送って油断させるよう勧めた。頊が即位して宣帝となると給事黄門侍郎・兼中書舍人とされ、国家の機密事項を司った。のち御史中丞や五兵尚書(のちの兵部尚書)を歴任した。567年(1)参照。
 ⑸裴忌…字は無畏。生年521、時に57歳。名将裴邃の兄の孫。幼い頃より聡明で度量があり、史書に通暁していた。陳覇先に仕え、555年に覇先がクーデターを起こして王僧弁を殺害し、僧弁の弟の王僧智が呉郡に挙兵すると、これを奇襲して陥とし、呉郡太守とされた。陳が建国されると左衛将軍とされ、文帝が即位すると南康内史とされた。のち張紹賓の乱を平定し、司徒左長史→衛尉卿とされた。567年に華皎が反乱を起こすと総知中外城防諸軍事とされ、建康の防衛を任された。北伐の際には呉明徹の監軍とされた。のち豫州刺史とされ、善政を行なった。のち譙州刺史とされた。573年(1)参照。
 ⑹梁士彦…字は相如。生年515、時に63歳。安定烏氏の人。若い頃は不良で州郡に仕えず、剛毅果断な性格で悪人を懲らしめる事を好んだ。また、読書家で、特に兵法書を好んだ。武帝に勇猛果断さを評価されて九曲(洛陽の西南)鎮将・上開府・建威県公とされ、のち熊州刺史とされた。帝が北斉の晋州を陥とすと晋絳二州諸軍事・晋州刺史とされ、晋州の防衛を託された。間もなく北斉の後主自らが攻撃を仕掛けてきたが、武帝の救援軍が来るまで見事に耐え切った。北斉が滅ぶと柱国・郕國公・雍州主簿とされた。のち東南道行台・徐州総管・三十二州諸軍事・徐州刺史とされた。576年(4)参照。
 ⑺宇文忻…字は仲楽。生年523、時に55歳。大司馬・許国公の宇文貴の子。幼い頃から利発で、左右どちらからでも騎射する事ができ、「韓信・白起らは大したことがない。自分の方が上手くやれる」と大言壮語した。542年、韋孝寛が玉壁の鎮守を任されると、そこで数多くの戦功を立てて開府・化政郡公とされた。576年、東伐中にたびたび退却しようとする武帝を何度も諌めた。北斉を滅ぼすと大将軍とされた。576年(5)参照。
 ⑻周羅睺…字は公布。生年542、時に36歳。九江尋陽の人。父は梁の南康内史。騎・射を得意とし、狩猟を好み、義侠心があって気ままに振る舞い、逃亡者を集めて私兵とし、密かに兵法を勉強した。従祖父に戒められても品行を改めなかった。陳の宣帝の時に軍功を挙げて開遠将軍・句容令とされた。のち北伐に参加し、広陵戦で流れ矢によって左目を失った。575年、北斉軍が明徹を宿預に包囲した時、敵陣に突進して斉兵を次々と蹴散らし、蕭摩訶に武勇を認められて副将とされた。575年(1)参照。
 ⑼蔡景歴…字は茂世。生年519、時に59歳。寒門出身の能吏。侯景の乱が起こって梁の簡文帝が景に幽閉されると、南康王会理と共に帝を連れて逃げることを謀ったが失敗した。のち、陳覇先(武帝)に招かれて文書の作成を任された。陳が建国されると秘書監・中書通事舍人とされた。武帝が死ぬと文帝の即位に貢献した。のち、侯安都の誅殺に貢献した。565年、妻の兄が景歴の威を借りて不法行為を繰り返した罪に連座し、免官処分となった。廃帝が即位すると赦され、華皎が反乱を起こすと呉明徹の軍司とされたが、明徹の不法行為を匡正できずまた免官に遭った。のち再び中書通事舍人に復帰し、詔書の作成に携わった。567年(3)参照。
 ⑽宗元饒…生年518、時に60歳。江陵の人。幼少の頃から学問を好み、故事や政治の根本に通暁した。また、孝行で名を知られた。梁に仕えて司徒の王僧弁の主簿とされた。陳が建国されると次第に昇進して廷尉卿・兼尚書左丞とされ、宣帝から巨細無く全ての事を相談された。のち御史中丞とされると公平に法律を執行し、官吏に法律を犯したり、人民に不都合な政治をしていたり、儒教の教えに背くような行為をしている者がいれば随時糾弾してこれを正した。574年(3)参照。


 577年(4)に続く