[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]
●朕豈に能く鄴に至らんや
●冀州平定
これより前、北斉の太宰の広寧王孝珩⑴は北周迎撃の指揮権を求めたが、危険視されて拒否され、滄州(饒安)刺史に飛ばされていた。
孝珩は滄州に到ると五千の兵を集め、〔もと瀛州(河間)刺史で〕大丞相の任城王湝⑵と信都にて合流し[1]、国家の再興を図って更に四万余もの兵を集めた。
北周の武帝は上柱国の斉王憲⑶と柱国・隨国公の普六茹堅(楊堅)⑷に討伐させた。また、高緯(北斉のもと上皇)に投降を勧める手紙を書かせて湝と孝珩に送った。その内容はこうだった。
「朝廷(北周)は私を非常に手厚くもてなしてくださっています。諸王もみな息災です。叔父も投降すれば、きっと厚遇を受けることでありましょう。」
また、罪を赦す詔も送ったが、湝はどちらの書状も井戸に沈めて拒絶した。湝は金や絹などの賞品を掲げて大いに募兵を行ない、僧侶にも誘いをかけて更に数千の兵を得た。
憲軍が趙州(広阿)に到ると、湝は二人の間諜に偵察をさせたが、間諜は北周の斥候の騎兵に捕らえられた。騎兵がこの事を憲に告げると、憲はもと北斉の将軍たちを集めて〔その無事な姿を〕間諜に見せ、こう言った。
「私の争う相手はもっと大きな者で、お前たちではない。今、お前たちを釈放して帰し、我が使者の任に充てる。」
かくて二人に湝の書を渡して送り届けさせた。内容はこうだった。
『私は軍事の才能が欠如している身でありながら、討伐軍の総指揮官とされ、地方の鎮定を任され、幽・冀の地に赴くことになったが、〔それでも私の進むところ〕降らない都市は無かった。これも全ては、偽斉の圧政に苦しんでいる民たちが、徳政の評判名高い我が朝の解放を期待したからである。足下は高氏の王族の中でも賢王として知られ、英名は早くから聞こえ、古今の成功失敗の教訓を知悉しているのだから、一木の大廈(大きい建物。ここでは北斉)の崩るるを支うる能わざることや、三たび諫めて聴かざれば身を逃ること(《礼記》)を知らないはずは無かろう。昔、殷の王子の微子は〔父の紂王に諫言したが、聞き入れられないと知ると、〕商(殷)から立ち去り、殷が滅ぶと周に降伏して宋公に封ぜられた。また、項伯は〔項羽の叔父だったが、〕楚〔が劣勢になると楚〕に背いて漢朝に降り、漢(劉氏)の姓を賜った。このような教訓を気に留めず、命を落とし家も滅ぼす結果になれば、足下は天下の笑いものとなるだろう。そもそも、足下は我が斥候の騎兵によって捕らえられた間諜から、私が軍の精強さが伝えられているはずである。足下は自軍の弱兵ぶりや装備の劣悪ぶりを知りながら、堂堂の師(強大な軍)に対抗しようとするのか。足下は〔信都が〕守るに難い城と知りながら、これに籠って僅かな命を保とうとするのか。決戦をする事は上計でないことは、占わずとも分かることである。籠城する事も下策であり、我らが許さぬ所である。私は既に諸軍を率いて進発し、軍を分けて諸道より並進させており、足下と戦場にて相まみえるのも時間の問題である。易経には「君子は予兆だけですぐさま行動を起こして対応する」とある。どうか即座に決断し、最後の機会を逃されぬよう。』
憲が信都に到ると、湝は城南に布陣した。憲は張耳(漢初期の趙王)冢に登ってその様子を観察した。間もなく、湝の領軍の尉相願⑸[2]が偵察をすると言って兵を率いて出かけ、そのまま兵と共に周に降った。相願は湝の腹心であったため、湝の軍心は非常に動揺した。湝は激怒して相願の妻子を殺害した。
孝珩は自軍が弱体で憲軍に敵わないことを悟るや、怒ってこう言った。
「高阿那肱⑹の馬鹿のせいで、我が命運は尽きた!」
翌日、憲は湝軍と再戦してこれを大破し、三万もの首級・捕虜を得た。
この時、孝珩はもと北斉の臣の乞伏令和⑺に矟で突かれて落馬した。奴隷の白沢が身を挺して孝珩を庇ったものの、孝珩はそれでも数箇所に傷を負い、捕らえられた。
湝も捕虜となった。憲は湝にこう言った。
「任城王よ、どうしてわざわざこのような目に遭いに行ったのか?」
湝は憲に拝礼せずに弟と呼び、こう答えて言った。
「〔弟よ、分からないか。〕下官は神武帝(高歓。北斉初代文宣帝の父)の子であり、十五人の兄弟の中で幸いにも一人ここまで生きながらえることができた者である。その下官が国家の顛覆に遭った際、採るべき行動は一つだろう。〔負けると知りながら今日戦ったのは、〕ここで死ぬことができれば泉下で帝に顔向けができると思ったからだ。」
憲はその気節に感じ入り、妻子を返し、更に多くの金品を与えた。
憲は更に孝珩に北斉が滅亡した理由を尋ねた。孝珩は北斉がどのような災難に遭ってきたかを述べたが、悲しみのあまり涙が流れるなど、その立ち居振る舞いには気節があった。憲はこれを見て居住まいを正し、以後、自ら孝珩の傷口を洗って薬を塗るなど、丁重な待遇でもてなすようになった。
これより前、北魏の冀州司馬で天文や預言書に造詣の深かった李公緒(字は穆叔)は、北斉が建国されたのちに子弟にこう言った。
「〔宇宙の〕斉の分野を観るに、斉が生まれ持った幸福の量は多くない。斉の命運は四七にて尽きるであろう。」
果たして、北斉が滅んだのは建国された天保元年(550)から、〔四と七を掛けた〕二十八年後の事だった。
孝珩は一人嘆息してこう言った。
「李穆叔は斉氏〔は幸いが無く〕二十八年で滅ぶと言ったが、今果たしてその通りとなった。神武皇帝以外、私のおじ兄弟(おじと兄弟?)の中で一人も四十歳に至る者がいなかった⑻のは、まさしくそういう運命だったのであろう。皇帝となった者には物事を見通す聡明さが無く、宰相となった者には国家の大黒柱となれるような賢明さが無かった。心残りなのは、自分が兵権を握って軍の総指揮官となり、思う存分力を振るえなかった事だけだ。」
李公緒は李渾(北斉の海州刺史)の族兄の李藉之(北魏の太中大夫)の子である。聡明で、大の読書家だった。北魏末に冀州司馬とされたが、たまたま病気となると辞職し、贊皇山(趙州の西九十里、または井陘県の南百六十里→賛皇県の西南二十里)に籠って世間との交流を断った。のち、北斉の天保元年(550)に侍御史とされたが、官に就かずに亡くなった。
公緒は隠遁志向の持ち主だったため、仕事に就こうとしなかった。天文を最も得意とし、また、陰陽や預言書に通じた。悠々自適に隠遁生活を送り、著作活動を趣味とし、《典言》十巻・《礼〔記?〕質疑》五卷・《喪服章句》一巻・《古今略記》二十巻・《玄子》五巻・《趙記》八巻・《趙語》十三(《北史》では二)巻を著した。これらの書物はみな世に広まった。公緒は陰陽術に通じ、これに関する書物を持っていたが、これを子孫に伝えることを好まず、臨終の際に火に投げ込んで燃やしてしまった。
斉王憲は元来智謀に優れ、多くの策略を有した。また、兵を統率するのが非常に上手く、人物を良く見抜いてその才能を上手く使う事に長け、戦いの際には陣頭に立って指揮したので、将兵たちは感激してみな力を尽くした。北斉の人々は早くからその威名を耳にし、皆その武勇と知略に恐れをなした。并州での勝利ののち、長駆北斉の領内奥深くに侵攻したが、その間一切略奪を行なうことが無かった。
高湝(任城王湝)は鄴城に到着しようとした時、馬上にて号泣し、地に身を投げ伏して〔額を打ち付け、〕顔中に血をしたたらせた。
〔開府の〕宇文神慶⑼は平陽の決戦・高壁・并州・信都の戦い・高湝の撃破に全て一番の武功を挙げた。武帝は詔を下して言った。
「慶(神慶)は早くから赫々たる武勳を挙げ、その名声は遠方にまで響き渡り、朝廷内外で挙げた功績は朕の眼鏡にかなうものであった。今回の征伐の一連の戦いにも全て参加し、東夏の平定に誠に貢献した。高位・重礼を受けるべきである。」
かくて大将軍・汝南郡公(千六百戸)とした。
○資治通鑑
斉王憲善用兵,多謀略,得將士心。齊人憚;其威聲,多望風沮潰。芻牧不擾,軍無私焉。
○周武帝紀
高湝在冀州擁兵未下,遣上柱國、齊王憲與柱國、隨公楊堅率軍討平之。
○周12斉煬王憲伝
齊任城王湝、廣寧王孝珩等據守信都,有眾數萬。高祖復詔憲討之。仍令齊主手書與湝曰:「朝廷遇緯甚厚,諸王無恙。叔若釋甲,則無不優待。」湝不納,乃大開賞募,多出金帛,沙門求為戰士者,亦數千人。憲軍過趙州,湝令間諜二人覘窺形勢,候騎執以白憲。憲乃集齊之舊將,遍示之。又謂之曰:「吾所爭者大,不在汝等。今放汝還,可即充我使。」乃與湝書曰:
…吾以不武,任總元戎,受命安邊,路指幽、冀。列邑名藩,莫不屈膝,宣風導禮,皆荷來蘇。足下高氏令王,英風夙著,古今成敗,備諸懷抱,豈不知一木不維大廈,三諫可以逃身哉!且殷微去商,侯服周代;項伯背楚,賜姓漢朝。去此弗圖,苟狥亡轍,家破身殞,為天下笑。又足下諜者為候騎所拘,軍中情實,具諸執事。知以弱卒瑣甲,欲抗堂堂之師;縈帶污城,冀保區區之命。戰非上計,無待卜疑;守乃下策,或未相許。已勒諸軍,分道並進,相望非遠,憑軾有期。兵交命使,古今通典,不俟終日,所望知幾也。
憲至信都,湝陣於城南,憲登張耳冢以望之。俄而湝所署領軍尉相願偽出略陣,遂以眾降。相願,湝心腹也,眾甚駭懼。湝大怒,殺其妻子。明日復戰,遂破之,俘斬三萬人,擒湝及孝珩等。憲謂湝曰:「任城王何苦至此?」湝曰:「下官神武帝子,兄弟十五人,幸而獨存。逢宗社顛覆,今日得死,無愧墳陵。」憲壯之,命歸其妻子,厚加資給。又問孝珩。孝珩布陳國難,辭淚俱下,俯仰有節,憲亦為之改容。憲素善謀,多算略,尤長於撫御,達於任使,摧鋒陷陣,為士卒先,羣下感悅,咸為之用。齊人夙聞威聲,無不憚其勇略。及幷州之捷,長驅敵境,蒭牧不擾,軍無私焉。
○隋50宇文慶伝
及破高緯,拔高壁,克并州,下信都,禽高湝,功並居最。周武帝詔曰:「慶勳庸早著,英望華遠,出內之績,簡在朕心。戎車自西,俱總行陣,東夏蕩定,實有茂功。高位縟禮,宜崇榮冊。」於是進位大將軍,封汝南郡公,邑千六百戶。
○北斉10任城王湝伝
湝與廣寧王孝珩於冀州召募得四萬餘人,拒周軍。周齊王憲來伐,先遣送書並赦詔,湝並沉諸井。戰敗,湝、孝珩俱被擒。憲曰:「任城王何苦至此?」湝曰:「下官神武帝子,兄弟十五人,幸而獨存,逢宗社顛覆,今日得死,無愧墳陵。」憲壯之,歸其妻子。將至鄴城,湝馬上大哭,自投于地,流血滿面。
○北斉11広寧王孝珩伝・通鑑
至州,以五千人會任城王於信都,共為匡復計。周齊王憲來伐,兵弱不能敵。怒曰:「由高阿那肱小人,吾道窮矣!」齊叛臣乞扶令和以矟刺孝珩墜馬,奴白澤以身扞之,孝珩猶傷數處,遂見虜。齊王憲問孝珩齊亡所由,孝珩自陳國難,辭淚俱下,俯仰有節。憲為之改容,親為洗創傅藥,禮遇甚厚。孝珩獨歎曰:「李穆叔言齊氏二十八年,今果然矣。自神武皇帝以外,吾諸父兄弟無一人得至四十者,命也。嗣君無獨見之明,宰相非柱石之寄,恨不得握兵符,受廟算(斧鉞),展我心力耳。」
○北斉29李公緒伝
〔李〕公緒,字穆叔,渾族兄藉之子。性聰敏,博通經傳。魏末〔為〕冀州司馬,屬疾去官。〔絕迹贊皇山。〕後(齊天保初)以侍御史徵,不至(就),卒。公緒沉冥樂道,〔又〕不關世(時)務,故誓心不仕。尤〔明天文,〕善陰陽圖緯之學。嘗語(謂)人(子弟)云(曰):「吾每觀齊之分野,福德不多,國家世祚,終於四七。」及齊亡之歲,上距天保之元二十八年矣。公緒潛居自待,雅好著書,撰典言十卷,又撰〔禮〕質疑五卷,喪服章句一卷,古今略記二十卷,玄子五卷,〔趙記八卷、〕趙語十三(二)卷,並行於世。〔公緒既善陰陽之術,有祕記,傳之子孫而不好焉,臨終取以投火。〕
○三国典略
湝被擒,見憲不拜,呼之為弟。(卷三二六)
⑴広寧王孝珩…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。のち大司馬とされた。後主が晋陽から鄴に逃亡する際、これに随行した。今年太宰とされた。高阿那肱の殺害を図ったが空振りに終わった。後主に危険視され、北周迎撃軍の指揮権を求めても拒否され、滄州刺史に左遷された。577年(1)参照。
⑵任城王湝…高歓の第十子で後主(武成帝)の叔父。母は小爾朱氏。聡明で、孝昭帝・武成帝が晋陽から鄴に赴く時、常にその留守を任された。566年に太保・并州刺史とされると、婦人の靴を盗んだ犯人を当てるなど明察ぶりを発揮した。568年に太師・司州牧とされ、のち冀州刺史を務め、570年に再び太師とされた。571年に太宰、572年に右丞相とされた。573年頃に都督・青州刺史とされた。清廉では無かったものの、寛大であったため、官民から人気を博した。のち左丞相とされ、瀛州刺史とされた。去年、大丞相とされた。のち幼主から帝位を禅譲されたが知らせが届かなかった。577年(1)参照。
[1]任城王湝は〔瀛州(河間)刺史だったが、〕河間から信都まで兵を進めていたのであろう。
⑶斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に34歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。武帝が一時撤退する際、殿軍を務めた。再征時にも常に先鋒を任された。576年(5)参照。
⑷普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に37歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。576年(4)参照。
⑸尉相願…故司徒・海昌王の尉摽(尉遅摽)の子。能吏で、度胸と知略に優れていた。蘭陵王長恭が大いに賄賂を受け取った時、朝廷の警戒の念を解くため、わざとこんな低俗なことをして少人物のように見せかけているのだと見抜き、 そんな事をするよりも病気と称して家に引きこもった方がいいと助言した。のち開府儀同三司・領軍大将軍とされた。晋州にて後主が敗北するとこれに見切りをつけ、その腹心の高阿那肱を殺害して広寧王孝珩の擁立を図ったが、失敗に終わった。577年(1)参照。
[2]恐らく相願は鄴城が陥落した際に湝のいる瀛州に逃亡し、そこで領軍とされたのだろう。
⑹高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年に北周が洛陽に攻めてくると救援に赴いた。576年に北周が晋州に攻めてくると救援軍の先鋒を任された。決戦の際には一旦退いて守りを固めるよう進言したが聞き入れられなかった。のち大丞相とされた。晋州での敗北以降無気力になり、後主が青州に逃亡する際前線の済州の守備を任されるとすぐ北周に降った。577年(1)参照。
⑺乞伏令和…本名は慧。令和は字。乞伏貴和の弟。弓馬を匠に扱い、鷹や犬を好んだ。高澄の時に行台左丞とされ、のち右衞将軍・太僕卿とされ、永寧県公から宜民郡王に昇った。北周が晋陽に侵攻すると投降し、開府儀同大将軍とされた。576年(4)参照。
⑻高歓の長子で東魏二代丞相の高澄は29で殺され、次子で北斉初代皇帝の文宣帝は34で死に、文宣帝の子の二代廃帝は17で殺され、歓の六子で三代皇帝の孝昭帝は27で死に、九子の四代武成帝は32で死んだ。また、歓の第三子の永安王浚と四子の平陽王淹は生年不詳だが早くに殺され、五子の彭城王浟は32で殺され、七子の上党王渙は26で殺され、八子の襄城王淯は16で死に、十一子の高陽王湜は23で殺され、十二子の博陵王済は生年不詳だが早くに殺され、十三子の華山王凝は年齢不詳だが早くに死に、十四子の馮翊王潤は34で死に、十五子の漢陽王洽は13で死んだ。澄の長子の河南王孝瑜は27で殺され、次子の河間王孝琬は26で殺され、四子の蘭陵王長恭は33で殺された。
⑼宇文神慶…本名は慶といい、神慶は字。宇文顕和の子で、北周の武帝の側近の東平公神挙の弟。冷静沈着で器量があり、若年の頃から聡明なことで名を知られた。また、壮志があって武芸の腕前が人並み外れ、弓を得意とした。また、度胸があり、虎と格闘することを好んだ。事務仕事を嫌って槍働きを志願し、文州の住民が叛乱を起こすと(560年?)その討伐に参加し、奇襲して撃破した。その功により都督とされた。衛公直が山南を治めるようになると(565年)、その側近とされた。のち次第に昇進して儀同三司・柱国府掾とされ、武帝が晋公護を誅殺する際、その計画に関与した。成功すると開府とされた。伐斉の際に斉王憲と共に殿軍を務め、汾橋にて斉兵を次々と射斃した。576年(2)参照。
●北朔州の平定
これより前、武帝は晋陽を陥とした際(576年12月)、北斉の降将の封輔相⑴を北朔州(馬邑)総管としていた。北朔州は北斉の重要軍事拠点であり[1]、勇猛な兵士が多数集められていた。前北朔州長史の趙穆と北朔州司馬の王当万らは計画を練って輔相を捕らえることに成功し、続いて瀛州にいる任城王湝を迎え入れようとしたが、これは上手く行かなかったので、代わりに定州刺史の范陽王紹義を北朔州に迎え入れた。
紹義は文宣帝(北斉初代皇帝)の第三子で、初め広陽王とされたが、のちに范陽王に改められた。侍中・清都尹を歴任した。つまらぬ者たちと一緒に酒を飲むことを好み、勝手に宦官を置いたり、博士の任方栄を打ち殺したりした。ある時、紹義は武成帝(北斉四代皇帝。高緯の父)に二百回杖で打たれたのち、〔文宣帝の正室の〕昭信皇后(李祖娥)のもとに送られ、更に皇后に百回杖で打たれた。後主が鄴に逃亡した時、尚書令・定州刺史とされた。
紹義が馬邑(北朔州)に到ると、輔相の配下の韓阿各奴らもと北斉の臣数十人が、肆州(秀容)以北の城戍二百八十余と共にこれに寝返った。紹義は霊州⑵刺史の袁洪猛と共に兵を率いて南下し、并州(晋陽)を奪取しようとしたが、新興郡⑶に到った所で、肆州が既に北周軍の守る所となっている事が分かると、先鋒の儀同二人が配下の兵と共に北周に降った。周軍は顕州⑷を攻めて刺史の陸瓊を捕らえ、更に諸城を陥として紹義に迫った。すると紹義は退却して北朔州に立て籠った。北周の〔上開府・并州刺史の〕清河公神挙⑸が馬邑(北朔州)に迫ると、紹義は杜明達を派して迎撃させたが、明達は大敗を喫した。紹義は言った。
「私には死しか選択肢は無い! 人に降ることなどできぬ!」
かくて突厥に亡命した。この時、紹義にはなお三千の兵が付き従っていた。紹義は彼らにこう言った。
「中国に帰りたい者は好きにせよ。」
すると大半の者が泣いて別れを告げた。
突厥の他鉢可汗⑹は紹義の父の文宣帝を『英雄天子』と呼んで尊敬しており⑺、紹義は帝の特徴である二つのくるぶし(普通は内側と外側に一つずつしかない)を受け継いでいたため、紹義を非常に可愛がって大切にし、突厥にいる北斉出身の者をみな紹義に隷属させた。
○周武帝紀
齊定州刺史、范陽王高紹義叛入突厥。
○周40宇文神挙伝
及高祖東伐,詔神舉從軍。幷州平,即授幷州刺史,加上開府儀同大將軍。州既齊氏別都,控帶要重。平定甫爾,民俗澆訛,豪右之家,多為姦猾。神舉勵精為治,示以威恩,旬月之間,遠邇悅服。尋加上大將軍,改封武德郡公,增邑二千戶。俄進柱國大將軍,改封東平郡公,增邑通前六千九百戶。所部東壽陽縣土人,相聚為盜,率其黨五千人,來襲州城。神舉以州兵討平之。
○北斉12范陽王紹義伝
范陽王紹義,文宣第三子也。初封廣陽,後封范陽。歷位侍中、清都尹。好與羣小同飲,擅置(致)內參,打殺博士任方榮。武成嘗杖之二百,送付昭信后,后又杖一百。及後主奔鄴,以紹義為尚書令、定州刺史。周武帝克并州,以封輔相為北朔州總管。此地齊之重鎮,諸勇士多聚焉。前長史趙穆、司馬王當萬等謀執輔相,迎任城王於瀛州。事不果,便迎紹義。紹義至馬邑。輔相及其屬韓阿各奴等數十人皆齊叛臣,自肆州以北城戍二百八十餘,盡從輔相,及紹義至,皆反焉。紹義與靈州刺史袁洪猛引兵南出,欲取并州,至新興而肆州已為周守。前隊二儀同以所部降周。周兵擊顯州,執刺史陸瓊,又攻陷諸城。紹義還保北朔。周將宇文神舉軍逼馬邑,紹義遣杜明達拒之,兵大敗。紹義曰:「有死而已,不能降人。」遂奔突厥。眾三千家,令之曰:「欲還者任意。」於是哭拜別者太半。突厥他鉢可汗謂文宣為英雄天子,以紹義重踝似之,甚見愛重,凡齊人在北者,悉隸紹義。
⑴封輔相…鮮卑人でもと是賁氏? 高歓からの譜代の臣で、軍功を挙げて領軍とされた。572年、北周に使者として派遣された。573年、陳が淮南に侵攻してくると派兵を主張し、五万の兵を率いて和州の救援に赴いたが、小峴山にて大敗を喫した。のち武衛大将軍とされた。576年、晋陽の戦いが起こる前に後主に見切りをつけて北周に投降した。576年(4)参照。
[1]北朔州は突厥の侵攻に備えるため、北朔州を重要軍事拠点としたのである。
⑵霊州…《隋書地理志》曰く、『東魏は繁畤郡城内に武州および吐京・斉・新安三郡の暫定の役所を置き、北斉は武州を北霊州に改めた。』《読史方輿紀要》曰く、『繁畤郡は太原府(晋陽)の東北三百五十里→代州の東北七十里にある。』
⑶新興…《隋書地理志》曰く、『秀容(肆州)に隋は新興郡と銅川県を置いた。』
⑷顕州…《隋書地理志》曰く、『雁門郡崞県に北魏は石城県を置き、東魏は廓州を置き、北斉はこれを北顕州に改めた。』《読史方輿紀要》曰く、『崞県は代州の西南六十里にある。また、忻州の東北百四十里にある。』
⑸清河公神挙…生年532、時に46歳。儀同三司の宇文顕和の子。554年に父を喪うと族兄の安化公深に養育され、成人すると、才気煥発・眉目秀麗・堂々たる体躯の立派な青年となった。詩文を趣味としていたことで明帝と意気投合し、いつも一緒に外出した。564年、開府儀同三司とされ、566年に右宮伯中大夫・清河郡公とされた。572年、武帝から護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。のち、京兆尹とされた。574年、熊州刺史とされた。576年、陸渾など五城を陥とした。并州を平定すると、上開府・并州刺史とされた。576年(1)参照。
⑹他鉢可汗…タトバル。姓は阿史那。突厥の三代可汗の木杆(ムカン)可汗の弟。572年に兄が死ぬと跡を継いで可汗となった。突厥の勢威を恐れてまめまめしく貢ぎ物を送ってくる北周と北斉の事を「二人の孝行息子」と呼んだ。572年(5)参照。
⑺英雄天子…文宣帝は552年に庫莫奚を、553年に契丹と突厥を、554年に山胡と柔然を、555年に再び柔然を大破していた。この強さが尊敬に繋がったのであろう。
●関東の平定成る
ここにおいて、北斉の行台・州・鎮は殆ど北周に降伏した。
これより前、北斉の幽州道行台右僕射・幽州刺史・河東王の潘子晃は、北周が鄴に進軍していた時に、幽州の突騎(精鋭の騎馬部隊)数万を率いて救援に赴いた。しかし、博陵⑴に到った所で鄴が陥落した事を知ると、冀州に赴いて北周に降伏し、上開府とされた。
子晃は北斉の瀛州刺史・河東王の潘楽⑵の子である。諸将の子弟の殆どは尊大でわがままだったが、子晃は大人しく謙虚・生真面目であり、行ないが清く正しかった。公主を娶って駙馬都尉とされた。武平(570~576)の末に幽州道行台右僕射・幽州刺史とされた。
北斉の太宰・豫州(汝南)道行台尚書令の武興王普⑶も、周軍の侵攻を受けると降伏した。
これより前、北斉が晋州で敗北した時、北斉の臣の雷顕和は建州⑷道行台左僕射とされた。北周は顕和の子を使者にして投降を促したが、顕和は子を監禁して拒否した。しかし、鄴城が陥落したことを聞くと降伏した。
北斉の徐州行台左僕射・徐州刺史・済北王の段深も降伏し(降伏時期は不明)、大将軍・郡公とされた。
深は字を徳深といい、〔北斉の左丞相・平原王の〕段韶⑸の第二子である。美男で、寛大で慎み深い所は父の面影があった。天保年間(550~559)に父の封爵である姑臧県公を受けた。大寧(561)の初めに通直散騎侍郎とされた。二年(562)に永昌公主を娶ったが、結婚する前に公主は亡くなってしまった。河清三年(564)、代わりに東安公主を娶った。父の勲功大なるを以て侍中・将軍(?)・源州大中正・食趙郡幹とされた。韶が危篤となると、朝廷はその心を慰めるために深を済北王とした。武平(570~576)の末に徐州行台左僕射・徐州刺史とされた。
晋州での敗北ののち、北斉の将兵で忠節を全うした者は稀だったが、北斉の儀同・南兗州(陳留郡譙城)刺史の叱干苟生は、鄴が陥落したのち、北周から大赦の詔書が届いても降伏を選ばず、首を吊って死を選んだ。
かくて関東は平定され、五十五の州[1]、百六十二の郡、三百八十五の県、三百三十万二千五百二十八の戸(家)、二千万六千八百八十六の口(人口)が北周の手に帰した。
北周は〔要地の〕河陽・幽・青・南兗・豫・徐・北朔・定・相・并州に総管府を置き、〔北斉の都であった〕相・并州には宮殿と六府の官庁を置いた(北斉の并省のように、首都以外にもそれに準ずる政府を置いたのである)。
これより前、後主は并州(晋陽)を失った際、開府の紇奚永安を突厥に派し、他鉢略可汗(他鉢可汗)に救援を求めた。〔しかし、到着した頃には、北斉は既に滅んでいた。〕可汗は北斉の滅亡を聞くと、永安の席次を吐谷渾の使者よりも下に置いた。すると永安は抗議してこう言った。
「本国が既に滅び去った今、私は命など惜しくなく、憤死して死のうかと思いましたが、〔それでは自然死のようにも見え、〕大斉には死んで節義を守る臣がいないのかと天下に思われるかもしれないのが気がかりで果たせませんでした。どうか今、私に一振りの刀を私にお与えください。私はそれで天下に知らしめようと思います。」
可汗はその壮烈さを気に入り、七十頭の馬を与えて中国に帰らせた。
○資治通鑑
於是齊之行台、州、鎮,唯東雍州行台傅伏、營州刺史高寶寧不下,其餘皆入於周。
○周武帝紀
齊諸行臺州鎮悉降,關東平。合州五十五,郡一百六十二,縣三百八十五,戶三百三十萬二千五百二十八,口二千萬六千八百八十六。乃於河陽、幽、青、南兗、豫、徐、北朔、定並置總管府,相、并二總管各置宮及六府官。
○隋書地理志序
後齊承魏末喪亂,與周人抗衡,雖開拓淮南,而郡縣僻小。天保之末,總加併省,洎乎國滅,州九十有七,郡一百六十,縣三百六十五,戶三百三萬。
子子晃嗣。諸將子弟,率多驕縱,子晃沉密謹愨,以清淨自居。尚公主,拜駙馬都尉。武平末,為幽州道行臺右僕射、幽州刺史。周師將入鄴,子晃率突騎數萬赴援。至博陵,知鄴城不守,詣冀州降。周授上開府。
○北斉16段深伝
〔段〕韶第二子深,字德深。美容貌,寬謹有父風。天保中,受父封姑臧縣公。大寧初,拜通直散騎侍郎。二年,詔尚永昌公主,未婚,主卒。河清三年,又詔尚東安公主。以父頻著大勳,累遷侍中、將軍、源州大中正,食趙郡幹。韶病篤,詔封深濟北王,以慰其意。武平末,徐州行臺左僕射、徐州刺史。入周,拜大將軍,郡公。
○北斉41傅伏伝
齊軍晉州敗後,兵將罕有全節者。其殺身成仁者,有儀同叱干苟生,鎮南兗州,周帝破鄴,赦書至,苟生自縊死。…又有雷顯和,晉州敗後,為建州道行臺左僕射。周帝使其子招焉,顯和禁其子而不受。聞鄴城敗乃降。後主失并州,使開府紇奚永安告急於突厥他鉢略可汗。及聞齊滅,他鉢處永安於吐谷渾使下。永安抗言曰:「本國既敗,永安豈惜賤命,欲閉氣自絕,恐天下不知大齊有死節臣,唯乞一刀,以顯示遠近。」他鉢嘉其壯烈,贈馬七十匹而歸。
⑴博陵…《読史方輿紀要》曰く、『趙州の東北百十里→晋州(巨鹿)の東北九十里にある安平県に北魏は博陵郡を置き、北斉もこれを踏襲した。』
⑵潘楽…字は相貴。?~555。高歓のもとで河東や河陽の防衛に活躍し、北斉が建国されると河東王とされた。のち南道大都督とされて侯景討伐に赴き、淮水・漢水一帯を攻略した。
⑶武興王普…字は徳広。平秦王帰彦(高歓の族弟)の兄の高帰義の子。温和で心が広かった。九歲の時に帰彦と共に河州より入洛し、武成帝兄弟と生活を共にした。天保の初年(550)に武興郡王に封ぜられた。564年に〔兼?〕尚書左僕射とされ、北周が洛陽に攻めてくると迎撃のため河陽まで赴いた。566~567年に尚書令とされた。571年に司空とされ、573年に司徒とされた。575年、豫州道行台尚書令とされた。後主が鄴に逃亡すると太宰とされた。575年(3)参照。
⑷建州…《読史方輿紀要》曰く、『528年に北魏は高都城に建州を置いた。高都城は河南府(洛陽)の東北二百八十里、平陽府の東南四百十里、懷慶府の北百二十里→建州の東三十里にある。』
⑸段韶…字は孝先。?~571。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色でケチな所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。571年、病の床に就きながらも北周の汾州を陥とした。間もなく死去した。
[1]北斉は司・冀・趙・義・懐・黎・建・東雍・〔南〕汾・西汾・晋・〔汾・蔚・戎・顕・西夏・寧・豊・〕朔・并・肆・〔恒・〕霊・〔北〕顕・〔北〕恒・〔武・北〕朔・定・瀛・〔滄・〕幽・東燕・北燕・営・南営・安・〔平・〕青・済・光・膠・徐・仁・睢・兗・北徐・南青・洛・〔北豫・〕鄭・〔広・和・〕陽・宋・梁・南兗・〔潁・譙・信・〕西兗・北荊・襄・豫・〔永・郢・東豫・南郢・南光・沙・〕海・東楚・潼・東徐・〔淮・〕東広・秦・〔涇・南譙・〕西楚・揚・〔汴・〕南潁・北建・〔南建・南朔・〕羅・〔蔡・巴・〕合・〔湘・霍・〕江・〔北江・南定・衡・南司・南〕和の六十州があったが、東広(海州)以下十州は既に陳の領土となっていたため、五十州と書いたのである。考異曰く、『隋書地理志には「州九十七,郡一百六十,縣一百六十五」とある。今は周書の記述に従った。』
●後梁主来賀
癸丑(10日)、詔を下して言った。
「偽武平三年(572)以降で、偽斉によって奴隷とされた河南諸州の民は、官奴・私奴を問わず、みな解放せよ。淮南(もと北斉領。現在は陳領)に住んでいた者は淮南に帰ることを許す。淮北に住むことを願う者がいれば、都合の良い地を選んで安住させよ。病身で身寄りの無い老人や、食事を与えられず痩せ衰えている者など自活できない者がいれば、刺史守令および親民長司がその親族の有無を調査し、いないのであれば衣食を支給して救済に努めよ。」
後梁の明帝⑴が祝賀のため鄴に赴いた。武帝は礼遇したものの、形だけで心は籠っていなかった。明帝はこれを知ると、のちに催された宴会の時に機を見て、父の宣帝がどれだけ宇文泰(武帝の父)に助けられたか、両国がいかに苦難を共にしてきたかなどをつらつらと語った。その話の筋道の内容は整然としていて、話しぶりは流暢で(明帝は弁才があった)、しかも涙を流しながらだったため、武帝は心を動かされて啜り泣きした。以後、明帝はその才能を大いに認められ、日増しに手厚い礼遇を受けるようになった。のち、武帝はまた明帝を呼んで酒宴を催した。この時、もと北斉の侍中・開府儀同三司・新寧王の叱列長叉⑵も参加していた。武帝は長叉を指差して明帝にこう言った。
「こやつは城壁の上から朕を罵った者だ。」
明帝は答えて言った。
「長叉は桀(暴君。後主)を助けることもできなかったどころか、事もあろうに堯(名君。武帝)に吠えてしまったのですな。」⑶
武帝は大笑した。宴も酣になってきた所で、武帝は人に琵琶を持ってこさせ、明帝にこう言った。
「梁主(明帝)に思う存分楽しんでもらわなければならぬ。」
かくて自らの手で琵琶を弾き始めた。すると明帝は席を立って舞を舞うことを申し出た。武帝は言った。
「梁主が朕のために舞を舞ってくれるというのか?」
明帝は言った。
「陛下が自ら五絃の琴を弾いてくださるのに、臣が百獣の役を務めないわけにはいかないでしょう。」⑷
武帝は〔舜になぞらえられたことで〕上機嫌になり、明帝に諸種の絹織物一万段・良馬数十頭・高緯の妓妾と、自分の愛馬の五百里を走る駿馬を与えた。
乙卯(12日)、武帝が鄴を発ち、長安に向かった。
丙辰(13日)、柱国・隨国公の普六茹堅(楊堅)を定州(中山)総管とした。
これより前、定州城の西門は長らく開かずの門となっていた。北斉の文宣帝の時、ある者が交通の便を良くするためにこの門を開けることを求めた。帝はこれを拒否してこう言った。
「聖人がやって来たらきっと開くだろう。」
堅が定州城にやってくると、門はひとりでに開いた。人々はみな一様に驚き不思議がった。
3月、壬午(9日)、北周が詔を下して言った。
「山東の諸州はおのおの『明経』の者(儒教の書物に明るい者)と『幹治』の者(政治に熟達している者)一名ずつを推挙せよ。ただ、図抜けた才能や技芸の持ち主がいるならば、いくら推挙しても構わない。」
○周武帝紀
癸丑,詔曰:「…自偽武平三年以來,河南諸州之民,偽齊被掠為奴婢者,不問官私,並宜放免。其住在淮南者,亦即聽還,願住淮北者,可隨便安置。其有癃殘孤老,饑餒絕食,不能自存者,仰刺史守令及親民長司,躬自檢校。無親屬者,所在給其衣食,務使存濟。」
乙卯,帝自鄴還京。丙辰,以柱國、隨公楊堅為定州總管。三月壬午,詔山東諸州,各舉明經幹治者二人。若奇才異術,卓爾不羣者,弗拘多少。
○隋文帝紀
除定州總管。先是,定州城西門久閉不行。齊文宣帝時,或請開之,以便行路。帝不許,曰:「當有聖人來啟之。」及高祖至而開焉,莫不驚異。
○周48・北93蕭巋伝
及高祖平齊,巋朝於鄴。高祖雖以禮接之,然未之重也。巋知之,後因宴承間,乃陳其父荷太祖拯救之恩,并敘二國艱虞,唇齒掎角之事。詞理辯暢,因涕泗交流。高祖亦為之歔欷。自是大加賞異,禮遇日隆。後高祖復與之宴,齊氏故臣吒列長义亦預焉。高祖指謂巋曰:「是登陴罵朕者也。」巋曰:「長义未能輔桀,飜敢吠堯。」高祖大笑。及酒酣,高祖又命琵琶自彈之。仍謂巋曰:「當為梁主盡歡。」巋乃起,請舞。高祖曰:「梁主乃能為朕舞乎?」巋曰:「陛下既親撫五絃,臣何敢不同百獸。」高祖大悅,賜雜繒萬段、良馬數十匹,并賜齊後主妓妾,及〔帝〕常所乘五百里駿馬以遺之。
○隋79蕭巋伝
周武帝平齊之後,巋來賀,帝享之甚歡。親彈琵琶,令巋起舞,巋曰:「陛下親御五絃,臣敢不同百獸!」
⑴明帝…蕭巋(キ)。後梁の二代皇帝。生年542、時に36歳。在位562~。初代宣帝の第三子。口が達者で、文才に優れた。思いやりがあり、臣下の心を良く掴んだ。568年、陳が江陵に侵攻してくると紀南城に逃れた。570年にも陳が侵攻してきたが、この時は江陵に留まり、北周の助力によって守り抜くことに成功した。領土を陳に奪われ財政が逼迫したため、572年に北周に土地の貸与を求め、三州を譲られた。572年(5)参照。
⑵叱列長叉…北斉の開府儀同三司・兗州刺史の叱列平の子。文学の素養は無かったが、清廉で仕事ぶりが良かった。569年に北周に使者として派遣された。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・新寧王とされた。569年(1)参照。
⑶堯に吠える…《史記》鄒陽伝曰く、「今、人主がまことに驕りの心を捨てて、功績のある者に報いることに思いを致し、心を開いて本心をさらけ出し、肝胆を破って厚い恩徳を施し、最後まで苦楽を共にし、褒賞を惜しまないなら、桀の犬であっても堯に吠えさせることができ、盗跖の刺客であっても許由を刺殺させることができるでしょう。」
⑷陛下が自ら五絃の琴を〜…《礼記》楽記曰く、『舜、五弦の琴を作りて以て南風を歌う。』《史記》帝舜紀曰く、『夔を以て典楽(音楽官)と為す。…夔曰く、「ああ!予、石を撃ち石を拊(たた)けば、百獣率(うちつ)れて舞うようにせん。」』
●羊肋
これより前、北周は晋州を陥として晋州道行台尚書僕射・晋州刺史・海昌王の尉相貴を捕らえると、彼を使って北斉の東雍州刺史の傅伏⑴に投降するように言ったが、拒否された。のち、後主が晋州の奪還にやってきた際、伏は行台右僕射とされた。伏はその後も北周の攻撃を退けた。
武帝は并州を陥とすと、〔伏の子の傅世寛(三国典略では仁寛)を捕らえ、〕彼を柱国・勲州(玉壁)刺史の宇文孝寛(韋孝寛)⑵を介して伏のもとに送り、こう説得した。
「并州は既に平定された。だから、こうして公の子に報告させる事ができたのである。速やかに降伏せよ。」
また、上大将軍・武郷郡開国公の告身(辞令書)と金製とメノウ製の酒盃一つずつを与えて身の安全の担保とした。しかし伏は受け取らず、孝寛にこう言った。
「臣たる者は死んでも裏切らないものだ。この子は臣としては忠を尽くす事ができず、子としては孝を尽くす事ができなかった天下の極悪人である。早く斬刑に処して、天下の人々の戒めとされるがよかろう。」
武帝は鄴から帰還して晋州に到ると、〔もと北斉の臣の〕高阿那肱ら百余人を伏のもとに送り、汾水の対岸から説得させた。伏は軍を率いて城を出、汾水を挟んでこう尋ねて言った。
「至尊(高緯)は今どこにおられるのか。」
阿那肱は言った。
「既に捕虜となり、別路から関中に入った。」
すると伏は天を仰いで号泣し、兵を連れて城に引き返すと、州庁の前で北の方を向いて暫くの間泣き叫んだのち、遂に投降した。帝は伏に会うとこう言った。
「何故早く降らなかったのか?」
伏は泣きながらこう答えて言った。
「臣は三代に亘って斉家に衣食の恩を蒙り、この通り分不相応の抜擢を蒙った身でもありますのに、斉家の天命が革まった(滅んだ)のちこれに殉じて死ぬ事ができませんでした。天地に合わせる顔がございません。」
帝は自らその手を取ってこう言った。
「斉国を平定した際に、臣としてあるべき姿を見せたのは、公一人だけだ。」
かくて自分が食べた羊の肋肉の骨を伏に与えてこう言った。
「骨は〔叩きでもしない限り〕固く結びついているが、肉は簡単にばらばらになってしまうものだ。ゆえに、今この骨を与え〔、公の忠義を顕彰す〕る。」
かくて別の肋肉を持ってこさせて一緒に食し、侍伯(近衛軍の士官)という名義で自分の護衛をさせた。また、上儀同とし、こう言った。
「公に高官の地位を与えた場合、進んで帰順した者の立つ瀬が無くなる。富貴の身分にされなかったことに不満を持たず、良い行ないをしていくよう。」
また、以前、伏が河陰を守り抜いた際(575年)、何の官職を得たか尋ねた。すると伏はこう言った。
「勲一転(勲官の等級を転という)を蒙り、特進・永昌郡開国公とされました。」
帝は高緯にこう言った。
「朕は三年の間兵馬の訓練に励み、遂に意を決して河陰を攻めたのに、傅伏の守備宜しきのために撤退を余儀なくされた。〔傅伏の勲功は計り知れぬ。〕なのにどうして公はこれっぽっちしか褒賞を与えなかったのだ。」
かくて代わりに伏に金製の酒盃を与えた。伏はのちに岷州(天水の西、吐谷渾の国境付近)刺史とされ、間もなく亡くなった。
武帝は長安への凱旋の途中、再び玉壁に立ち寄り(行きの際にも立ち寄っていた)、おもむろに孝寛にこう言った。
「世間は『老人は知恵に優れ、戦争において策謀を巡らすのを得意としている』と言っているが、朕は〔老人の力に頼らず、〕若人たちだけで一挙に賊を平定してしまったぞ。公はこれについてどう思うか?」
孝寛は答えて言った。
「臣は今老いさらばえ(69歳)、ただ真心のみが残るだけとなっておりますが、昔の若い時は、先朝(北魏・西魏)のために力を尽くし、関右(関西)を平定したものです。」
帝は大笑して言った。
「まことに公の言う通りだ。」
かくて孝寛を連れて長安に帰った⑶。
帝は平斉の役の間、裸足で歩いている兵士を見かけると、自分の靴を脱いでこれに与えた。また、将兵と宴会をする際にはいつも決まって自ら杯を持って酒を勧めて回ったり、手ずから賞賜を与えたりした。また、戦いの際には戦場に身を置いて兵を指揮した。また、果断な性格で、良く大事を決断することができた。そのため、兵士たちは帝のために死力を尽くした。弱を以て強を制する事ができたのはこのためだった。
○周武帝紀
平齊之役,見軍士有跣行者,帝親脫靴以賜之。每宴會將士,必自執杯勸酒,或手付賜物。至於征伐之處,躬在行陣。性又果決,能斷大事。故能得士卒死力,以弱制強。
○周31韋孝寛伝
及帝凱還,復幸玉壁。從容謂孝寬曰:「世稱老人多智,善為軍謀。然朕唯共少年,一舉平賊。公以為何如?」孝寬對曰:「臣今衰耄,唯有誠心而已。然昔在少壯,亦曾輸力先朝,以定關右。」帝大笑曰:「實如公言。」乃詔孝寬隨駕還京。
○北斉41・北53傅伏伝
周剋晉州,執獲行臺尉相貴,以之招伏,伏不從。後主親救晉州,以伏為行臺右僕射。周軍來掠,伏擊走之。周克并州,遣韋孝寬與(以)其(伏)子世寬來招伏曰:「并州已平,故遣公兒來報,便宜急下。」授上大將軍、武鄉郡開國公,即給告身,以金馬碯二酒鍾為信。伏不受,謂孝寬曰:「事君有死無貳,此兒為臣不能竭忠,為子不能盡孝,人所讐疾,願即斬之,以號令天下。」周帝自鄴還至晉州,遣高阿那肱等百餘人臨汾召伏。伏出軍隔水相見,問至尊今在何處。阿那肱曰:「已被捉獲,別路入關。」伏仰天大哭,率眾入城,於廳事前北面哀號良久,然後降。周帝見之曰:「何不早下?」伏流涕而對曰:「臣三世蒙齊家衣食,被任如此,革命不能自死,羞見天地。」周帝親執其手曰:「為臣當若此,朕平齊國,唯見公一人。」乃自食一羊肋,以骨賜伏,曰:「骨親肉疏,所以相付。」遂別引之與同食,令於侍伯邑(色)宿衞,授上儀同,勑之曰:「若即與公高官,恐歸投者心動,努力好行,無慮不富貴。」又問前救河陰得何官職。伏曰:「蒙一轉,授特進,永昌郡開國公。」周帝謂後主曰:「朕前三年教習兵馬,決意往取河陰,正為傅伏能守,城不可動,是以收軍而退。公當時賞授何其薄也。」賜伏金酒巵。後以為岷州刺史,尋卒。
○三国典略152
齊平,東雍州刺史傅伏堅守不降。帝遣韋孝寬將伏子仁寬招伏曰:「並州已平,故遣公兒來報。今授上大將軍武鄉郡公,又金馬腦二酒鐘為信。公宜急下。」
⑴傅伏…太安(五原付近)の人で、父は北蔚州刺史の傅元興。若年の頃から戦場に出、戦功を立てて開府・永橋領民大都督にまで出世した。575年、北周が河陰に侵攻してくると中潬城を二十日に亘って守り抜き、北斉に勝利をもたらした。間もなく東雍州刺史とされると、北周の侵攻を再び退けた。576年に晋州が北周に陥とされた後も降伏勧告を拒否して徹底抗戦の構えを示した。後主が晋州の救援にやってくると行台右僕射とされた。のち更に北周の侵攻を撃退した。576年(3)参照。
⑵宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に69歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。576年(2)参照。
⑶武帝は今回の東征で孝寛の子(総)を戦死させてしまっている。これでこのような事を本当に言ったのなら、もの凄い精神の持ち主と言わざるを得ない。
577年(3)に続く