[北周:建徳六年 北斉:承光元年 陳:太建九年 後梁:天保十五年]



●幼主の即位と孝珩の追放
 春、正月、乙亥朔(1日)、北斉の太子恒が皇帝の位に即いた。〔これが北斉の幼主である。〕この時帝はまだ八歳だった。帝は年号を隆化から承光に改め、大赦を行なった。また、〔父の〕後主を尊んで太上皇帝とし、〔祖母の〕胡皇太后を太皇太后とし、〔母の〕穆皇后を太上皇后とした。
 また、〔従伯父の〕広寧王孝珩を太宰とした。

 孝珩は呼延族・司徒の莫多婁敬顕・領軍大将軍の尉相願と共に政変を計画し、正月五日に自らが千秋門にて大丞相の高阿那肱を斬り、相願が皇宮内から近衛兵を率いて、族と敬顕が遊豫園から兵を率いてこれに呼応する手筈を整えた。しかし、当日、阿那肱が別宅から一番近い門を通って皇宮に入ったため、空振りに終わった。孝珩は次いで北周軍の迎撃を志願し、阿那肱・韓長鸞・陳徳信らにこう言った。
「朝廷が私に賊討伐の軍を与えてくださらないのは、私の叛乱を恐れているからでしょう。しかし、たとえ私が宇文邕北周の武帝(11))を破り、長安に到ってから叛乱を起こしたとしても、国家の大事には繋がらないはずです。そもそもこの危急存亡の秋に〔結束せず、却って味方を〕疑ったりなどしていいものでしょうか。」
 しかし、阿那肱と長鸞は変事を恐れ、〔結局〕孝珩〔に軍を与えず、〕滄州(饒安)刺史とした。
 これより前、開府儀同三司・領軍大将軍の尉相願は、平陽(晋州)から并州、并州から鄴に到るまでの間、常に、阿那肱を殺害して後主を廃し、孝珩を立てようと画策していたが、結局実行できずに終わった。現在、孝珩が滄州に飛ばされたことを知ると、佩刀を抜いて柱を斬りつけ、こう嘆息して言った。
「大勢は去った! もう何も言うまい!」

○周武帝紀
 六年春正月乙亥,齊主傳位於其太子恆,改年承光,自號為太上皇。
○北斉幼主紀
 隆化二年春正月乙亥,即皇帝位,時八歲,改元為承光元年,大赦,尊皇太后為太皇太后,帝為太上皇帝,后為太上皇后。
○北斉11広寧王孝珩伝
 承光即位,以孝珩為太宰。與呼延族、莫多婁敬顯、尉相願同謀,期正月五日,孝珩於千秋門斬高阿那肱,相願在內以禁兵應之,族與敬顯自遊豫園勒兵出。既而阿那肱從別宅取便路入宮,事不果。乃求出拒西軍,謂阿那肱、韓長鸞、陳德信等云:「朝廷不賜遣擊賊,豈不畏孝珩反耶?孝珩破宇文邕,遂至長安,反時何與國家事。以今日之急,猶作如此猜疑。」高、韓恐其變,出孝珩為滄州刺史。
○北斉19・北53尉相願伝
〔相貴〕弟相願,強幹有膽略。武平末,〔開府儀同三司、〕領軍大將軍。自平陽至幷州,及到鄴,每立計將殺高阿那肱,廢後主,立廣寧王,事竟不果。及廣寧被出, 相願拔佩刀斫柱而歎曰:「大事去矣,知復何言!」

 ⑴太子恒…生年570、時に8歳。後主の長子で、母は穆后。570年、太子とされた。576年(5)参照。
 ⑵後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に22歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年、北周の武帝が親政してくると自ら兵を率いて迎撃したが、すぐに臆病風に吹かれて遁走し、大敗のきっかけを作った。576年(5)参照。
 ⑶胡皇太后…もと上后。魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に後主の父の武成帝(上皇)に嫁いだ。淫乱で、和士開などと関係を持った。571年、北宮に幽閉された。576年(5)参照。
 ⑷穆皇后…名は邪利、のち舍利に改めた。幼名は黄花。母は宋欽道の下女。父は不明で、一説には欽道という。欽道が誅殺されると官婢となって斛律后の侍女とされたが、後主の寵愛を受けたことで女侍中の陸令萱の養女とされ、その後押しを受けて弘徳夫人となった。570年6月に高恒を産んだ。のち鮮卑の大姓の穆氏(丘穆陵)の姓を与えられた。572年、右皇后とされ、573年、唯一の皇后とされた。576年(2)参照。
 ⑸広寧王孝珩…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。のち大司馬とされた。後主が晋陽から鄴に逃亡する際、これに随行した。576年(5)参照。
 ⑹莫多婁敬顕…東魏の儀同の莫多婁貸文の子。剛直・精勤で、若年の頃から剛力なことで名を知られた。斛律光の征討に常に付き従い、いつも先鋒を任され、敵前に到ると将兵の差配を任された。のち昇進して領軍将軍となると、常に点検・警戒を担当した。武平年間(570~576)に後主が晋陽に赴く際、常に鄴の留守の軍隊を任され、治安維持に当たった。のち昇進して開府儀同三司とされた。南安王思好が叛乱を起こすと先遣隊として晋陽に急派された。576年、安徳王延宗に皇帝になるよう勧め、晋陽にて北周軍と戦った。敗れると降伏を選ばず、鄴に逃亡して司空とされた。576年(5)参照。
 ⑺尉相願…故司徒・海昌王の尉摽(尉遅摽)の子。能吏で、度胸と知略に優れていた。蘭陵王長恭が大いに賄賂を受け取った時、朝廷の警戒の念を解くため、わざとこんな低俗なことをして少人物のように見せかけているのだと見抜き、 そんな事をするよりも病気と称して家に引きこもった方がいいと助言した。571年(2)参照。
 ⑻高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年に北周が洛陽に攻めてくると救援に赴いた。576年に北周が晋州に攻めてくると救援軍の先鋒を任された。決戦の際には一旦退いて守りを固めるよう進言したが聞き入れられなかった。のち大丞相とされた。576年(5)参照。
 ⑼韓長鸞…本名は鳳。長鸞は字。步大汗氏の出で、祖父は東魏の洛州刺史の韓賢、父は北斉の開府・青州刺史・高密郡公の韓永興。若年の頃から頭脳明晰で、膂力にも優れて騎射を得意とした。次第に昇進して烏賀真・大賢真正都督とされた。後主の太子時代(562~565年)に侍衛の任に充てられると、一目で気に入られてしばしば遊び相手となった。後主が即位すると高密郡公の爵位を継ぎ、開府儀同三司とされた。琅邪王儼の乱後、侍中・領軍・昌黎郡王とされた。知識人や漢人を酷く嫌悪し、暇があればその讒言ばかり行ない、崔季舒や張雕虎らを誅殺に追い込んだ。574年、南陽王綽を讒言して死に追い込んだ。575年(1)参照。
 ⑽陳徳信…宦官。後主に気に入られ、開府・侍中・光禄大夫・王とされた。
 (11)武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に35歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年、再び親征して晋州を陥とし、後主率いる援軍も大破し、晋陽を陥とした。576年(5)参照。

●またも逃亡
 上皇もと後主)は長楽王の尉世弁に千余騎を与え、鄴に迫る周軍の偵察に赴かせた。世弁は滏口に到ると、小高い丘に登って西方を眺望した。すると遠くで烏の群れが一斉に飛び立つのが見えた。世弁はこれを周軍の旗幟だと早合点し(周軍の旗幟は黒色)、一目散に鄴へ逃げ帰った。その恐懼ぶりは、紫陌橋(鄴の西北五里)に辿りつくまで一度も後ろを振り返らなかったほどだった。世弁は〔尉景の孫で、太傅の〕尉粲の子である。
 黄門侍郎の顔之推・中書侍郎の薛道衡・侍中の陳德信・鄧長顒らが上皇に対し、呉士(南朝出身の知識人)千余人を集めて手許に置き、青州・徐州を通って、彼らを手土産に陳に亡命するように勧めた。上皇はその意見に非常に惹かれ、大丞相の高阿那肱らにこの事を伝えた。すると阿那肱は陳に行くことを嫌がり、こう言った。
「呉士(南朝出身の知識人)は信用し難いため、招募して手許に置くべきではありません。それより、珍宝や御子息らを青州に送り、三斉の地(山東半島一帯)を守る方が良いと思います。もし保持する事ができなかったなら、おもむろに船に乗って陳に行けばいいのです。」
 上皇はこれに従った。
 上皇は之推の献策には従わなかったものの、これを平原(明の済南府の西北百五十里)太守とし、黄河の渡し場を守らせた。

 これより前、後主は弟たちを警戒して厳しい監視をつけ、幼い楽平王約字は仁邕。武成帝の第九子・潁川王仁倹・安楽王仁雅・丹陽王統字は仁直・東海王仁謙らは北宮に監禁していた。仁邕らは武平の末年(576)にようやく外に出ることを許されたが、生きるのに最低限の物しか支給されなかった。
 しかし、現在、事態が切迫すると、帝は斉安王廓武成帝の第四子)を光州(青州の東北)刺史、北平王貞武成帝の第五子)を青州刺史、高平王仁英武成帝の第六子)を冀州刺史、仁倹を膠州(青州の東南)刺史、仁直を済州刺史とした(詳細な時期は不明)。

 丁丑(3日)胡太皇太后穆上后が先に済州に赴いた。
 周軍が次第に鄴に迫った。
 癸未(9日)幼主も東方に逃走した。

 薛道衡生年535、時に43歳)は薛孝通の子で、字を玄卿という。六歲の時(540年)に父を亡くした〔が、めげることなく〕学問に打ち込んだ。十三歳の時(547年。《北史》では十歳)に《春秋左氏伝》を読んだ際、子産が良く鄭の宰相を務めた記事に〔感動し、〕《国僑賛》(子産は字で本名は国僑)を作ったが、その出来があまりに良かったため、これを見た者はみな道衡に一目置くようになった。その後も道衡の才能の評判はますます高くなり、やがて北斉の司州牧の彭城王浟の招きを受けて兵曹従事とされた。
 尚書左僕射で弘農の人の楊遵彦楊愔)は一代の偉人だったが、道衡に会うと感嘆して褒め称えた。のち奉朝請とされた。吏部尚書で隴西の人の辛術も道衡と話すと、感嘆してこう言った。
「鄭公業(鄭泰)はまだ死んでいないぞ。」(華歆や荀攸が鄭泰の子の鄭袤を褒めた言葉。薛孝通はまだ死んでいないぞと言いたかったのであろう
 河東の人の裴讞も道衡に会うとこう言った。
「鼎(帝都)が河朔(鄴?)に遷って以来、関西の孔子(大学者)に会うことは稀になったが、今こうしてまた薛君に会うことができた。」
 武成帝が〔右〕丞相だった時(560年)、招かれて記室とされた。帝が即位すると次第に昇進して太尉府主簿となった。一年あまりののち、兼散騎常侍とされ、周・陳二国の使者の接待を任された。武平の初め(570年)に儒者たちと共に五礼の修定を行ない、尚書左外兵郎とされた。陳の使者の傅縡(11)が北斉にやってきた時、道衡は兼主客郎とされてその接待をした。縡が五十韻の詩を作って贈ると、道衡は和詩(返歌)を贈った。南北の人々は両者の出来栄えを褒め称えたが、魏収(12)はこう言った。
傅縡は、いわゆる『ミミズを以て魚を釣』った(小さな餌で大物を得るという意味。稚拙な詩を以て素晴らしい返歌を得た)だけだ。」
 のち待詔文林館とされ、范陽の人の盧思道(13)と安平の人の李徳林(14)と名声を等しくし、親しく交際した。のち本官のまま中書省に宿直し、間もなく中書侍郎とされ、太子の侍読(教師)を兼任した。後主が即位すると次第に親任されるようになったが、頗る追従の譏りを受けた。のち、侍中の斛律孝卿(15)と共に政治に参与すると、北周に対抗する策を事細かに述べたが、孝卿はこれを採用することができなかった。

○北斉幼主紀
 於是黃門侍郎顏之推、中書侍郎薛道衡、侍中陳德信等勸太上皇帝往河外募兵,更為經略,若不濟,南投陳國,從之。丁丑,太皇太后、太上皇后自鄴先趣濟州。周師漸逼,癸未,幼主又自鄴東走。
○北斉12武成十二王伝
 次西河王仁幾,生而無骨,不自支持;次樂平王仁邕;次潁川王仁儉;次安樂王仁雅,從小有瘖疾;次丹陽王仁直;次東海王仁謙。皆養於北宮。琅邪王死後,諸王守禁彌切。武平末年,仁邕已下始得出外,供給儉薄,取充而已。尋後主窮蹙,以廓為光州,貞為青州,仁英為冀州,仁儉為膠州,仁直為濟州刺史。
○北斉15尉世弁伝
〔尉景…子粲…〕子世辯嗣。周師將入鄴,令〔世〕辯出千餘騎覘候,出滏口,登高阜西望,遙見羣烏飛起,謂是西軍旗幟,即馳還,比至紫陌橋,不敢回顧。
○北斉45顔之推伝
 及周兵陷晉陽,帝輕騎還鄴,窘急計無所從,之推因宦者侍中鄧長顒進奔陳之策,仍勸募吳士千餘人以為左右,取青、徐路共投陳國。帝甚納之,以告丞相高阿那肱等。阿那肱不願入陳,乃云吳士難信,不須募之。勸帝送珍寶累重向青州,且守三齊之地,若不可保,徐浮海南渡。雖不從之推計策,然猶以為平原太守,令守河津。
○隋57薛道衡伝
 薛道衡字玄卿,河東汾陰人也。祖聰,魏齊州刺史。父孝通,常山太守。道衡六歲而孤,專精好學。年十三,講左氏傳,見子產相鄭之功,作國僑贊,頗有詞致,見者奇之。其後才名益著,齊司州牧、彭城王浟引為兵曹從事。尚書左僕射弘農楊遵彥,一代偉人,見而嗟賞。授奉朝請。吏部尚書隴西辛術與語,歎曰:「鄭公業不亡矣。」河東裴讞目之曰:「自鼎遷河朔,吾謂關西孔子罕值其人,今復遇薛君矣。」武成作相,召為記室,及即位,累遷太尉府主簿。歲餘,兼散騎常侍,接對周、陳二使。武平初,詔與諸儒修定五禮,除尚書左外兵郎。陳使傅縡聘齊,以道衡兼主客郎接對之。縡贈詩五十韻,道衡和之,南北稱美,魏收曰:「傅縡所謂以蚓投魚耳。」待詔文林館,與范陽盧思道、安平李德林齊名友善。復以本官直中書省,尋拜中書侍郎,仍參太子侍讀。後主之時,漸見親用,于時頗有附會之譏。後與侍中斛律孝卿參預政事,道衡具陳備周之策,孝卿不能用。

 ⑴尉景…字は士真。もと尉遅氏。高歓の姉の夫。歓が幼くして母を喪うと引き取って養育した。歓が爾朱氏に対して兵を挙げるとこれに従い、鄴の留守を任されるなどした。親族であることから重用されたが、金に汚かったためよく叱責された。太保→太傅を歴任したが、罪人を匿った罪で高澄の勘気を蒙り、開府に官位を落とされた。青州刺史とされると操行を改めて善政を行なった。のち大司馬とされたが、鄴に行く前に州で死去した。
 ⑵尉粲…?~566。勲貴の尉景と高歓の姉の子。北斉が建国されると長楽王とされ、561年、大尉→太保とされた。565年、瀛州刺史→太傅とされた。566年(2)参照。
 ⑶顔之推…字は介。名門琅邪顔氏の出身で名文家。生年531、時に45歳。祖父の代に没落し、父が亡くなると更に苦境に立った。早くに梁の湘東王繹(元帝)に仕え、文才を以て名を知られた。侯景の乱が起こると郢州において捕らえられたが、間もなく建康にて救出された。元帝が即位すると中書舎人とされたが、554年、西魏の江陵攻略に遭遇し、関中に拉致された。間もなく北斉に亡命し、文宣帝に重用された。のち後主や祖珽の重用を受け、文林館の設立に関わり、知館事・判署文書とされた。文林党粛清の際には上手く災禍を逃れた。575年、多くの新税を提案して聞き入れられた。575年(3)参照。
 ⑷鄧長顒…後主お気に入りの宦官。開府。命を受けて胡太后を幽閉した。のち、顔之推と共に文林館の設立を進言した。之推が各種の新税を提案すると、これに賛同した。575年(3)参照。
 ⑸薛孝通…字は士達。?~540。北魏の斉州刺史の薛聡の子。先見の明があり、蕭宝寅や元顥に従わなかった。爾朱天光に重用され、その関中討伐に貢献した。531年、爾朱氏に広陵王恭(節閔帝)の擁立を勧め、聞き入れられた。節閔帝に重用を受け、政治の重要事項に関与した。高歓が挙兵して天光が討伐に向かうと、帝に賀抜岳を関西大行台とするよう薦めて聞き入れられ、自分はその右丞となった。岳に非常に礼遇され、左丞の宇文泰とも義兄弟の関係となった。532年、洛陽に使者として赴いたが帰ることを許されず、中書侍郎→常山太守とされた。宇文泰が高歓と対立すると逮捕されて晋陽に連行されたが、恐れの色を見せず堂々と歓に対したため、気に入られて赦された。その後は閑職に就き、540年に亡くなった。
 ⑹彭城王浟…字は子深。533~564。高歓の第五子。武成帝の異母兄。母は大爾朱氏。いっとき高歓の後継者に指名されそうになったことがある。政治に明るく、決断力があり、滄州・定州・司州の長官とされると善政を行なった。武成帝が即位すると太師・録尚書事とされ、帝が巡幸に出かける際、常に鄴の留守を任された。564年、盗賊に殺害された。564年(1)参照。
 ⑺楊愔…字は遵彦。511~560。超名門の弘農楊氏の出。高歓の娘婿。北斉の政治を取り仕切った。清廉・謙虚で記憶力が抜群だったが、とても太っており、文宣帝に『楊大肚』と呼ばれた。帝の臨終の際、太子の輔佐を託されたが、間もなく常山王演(孝昭帝)のクーデターに遭って殺害された。560年(2)参照。
 ⑻辛術…字は懐哲。500~559。名門の隴西辛氏の出。清河太守とされると善政を行なった。侯景が叛乱を起こすと東南道行台尚書とされ、高岳らと共に景を討伐した。のち、東徐州刺史・淮南経略使とされて侯景に当たり、552年、景が滅ぶと淮南を平定した。のち吏部尚書とされると公正な人事を行なって好評を得た。559年(6)参照。
 ⑼裴讞之…字は士平。名門の河東裴氏の出。歴代の故事・儀礼に通じ、司徒主簿や儀曹郎、永(あるいは許)昌太守などを歴任した。570年、陳への使者とされた。570年(1)参照。
 ⑽武成帝…高湛。北斉の四代皇帝。後主の父。幼主の祖父。537~568。在位561~565。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。565年、太子に位を譲って上皇となった。567年(2)参照。
 (11)傅縡…字は宜事。学問を好み、優れた文章を書いた。また、仏教を篤く信仰した。王琳に仕えて記室となり、琳が敗れると陳に降った。のち驃騎安成王(のちの宣帝)中記室とされ、間もなく北斉への使者とされた。のち太子(のちの後主)庶子・兼東宮管記とされた。非常に速筆だったため、重用された。
 (12)魏収…字は伯起。506~572。温子昇や邢子才に並ぶ名文家。鉅鹿魏氏の出で、驃騎大将軍の魏子建の子。頭脳明晰で非常に優れた文章を書いたが、人格に問題があった。551~554年に亘って魏書を編纂したが、記述に問題があり『穢史』と糾弾された。572年(5)参照。
 (13)盧思道…字は子行。生年535、時に43歳。名門の范陽盧氏の出。文才・弁才に優れていたが品行が良くなく、公金を横領したり、人を侮辱したりした。魏書が作られるとその内容を非難して鞭打たれた。文宣帝が亡くなると八首もの挽歌(哀悼の歌)が採用され、『八採盧郎』と称賛された。のち権力者の馮子琮の娘婿となり、給事黄門侍郎とされるなど破格の抜擢を受けた。576年(5)参照。
 (14)李徳林…字は公輔。生年532、時に45歳。博陵安平の人。祖父は湖州戸曹従事、父は太学博士。美男。幼い頃から聡明で書物を読み漁り、文才に優れた。高隆之から「天下の偉器」、魏収から「文才はいつか温子昇に次ぐようになる」と評され、いつか宰相になるということで収から公輔の字を授けられた。話術にも長けた。560年頃から次第に中央の機密に関わるようになり、565年には詔の作製にも携わるようになった。母が亡くなると悲しみの余り熱病に罹り、全身にできものができたが、すぐに平癒した。のち中書侍郎→同判文林館事とされた。576年(5)参照。
 (15)斛律孝卿…東魏の東夏州刺史の斛律羌挙の子。若年の頃から聡明で、物腰に気品があり、高官を歴任した。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・義寧王に昇り、門下省の事務と外兵・騎兵の機密に携わった。南安王思好の乱が平定されると、叱奴世安を出し抜いて先に後主に報告し、賞された。576年(5)参照。

●鄴の陥落
 己丑(15日)、周軍が紫陌橋に到った。
 壬辰(18日)武帝が鄴城下に到った。この時、斉軍は前もって城外に堀や柵をめぐらしていた。
 癸巳(19日)上皇は右衛将軍・燕郡公の慕容三蔵に鄴宮を守らせ、自らは百余騎を連れて東方に逃走した。
 周軍が鄴を包囲した。斉軍は迎撃したが、大敗を喫した。周軍が城の西門を焼いて城内に突入すると、北斉の朝臣は王公以下ことごとく北周に降った。三蔵はなおも抗戦を続けたが、刀折れ矢尽きて降伏した。武帝はこれと会って手厚くもてなし、こう言った。
「三蔵父子(三蔵の父は慕容紹宗)は共に忠義で名高い。栄誉と官位を与えるべきである。」
 かくて三蔵を開府儀同大将軍とした。

 鄴の戦いの前、武帝はメノウ製の酒盃を北斉の領軍大将軍・義陽王の鮮于世栄に贈ったが、世栄は即座にこれを突き壊していた。周軍が鄴に侵入すると、世栄は城西にある三台の前で軍鼓を打ち鳴らして兵を鼓舞し続け、捕らえられると降伏を拒絶して処刑された。
 世栄は武人で学が無かったが、朝政が乱れているのを見るといつも密かにこれを嘆き、後主が民に重税をかけ、お気に入りの家臣には過度の下賜をするのを見ると、嘆きの言葉を口にした。

 これより前、北斉の太傅の襄城王亮は啓夏門(南門?)を守備していたが、他の諸軍が戦わずして敗れ、周軍が啓夏門以外の全ての城門から突入すると、亮の軍も潰走して万事休した。すると亮は太廟の行馬(人馬通行止めの柵)内に入り、慟哭して祖先に暇乞いをしたのち、周軍に捕らえられた。
 亮は字を彦道といい、孝昭帝北斉三代皇帝)の第二子である。子が無いまま早逝した襄城王淯高歓の第八子)の跡を継いで襄城王となった。孝行者で、容姿美しく、文学を愛好した。徐州刺史を務めた時、商人の財物を強奪した廉で免官とされた。後主が鄴に逃走した時これに付き従い、兼太尉や太傅とされた。

 帝は司徒・斉昌王の莫多婁敬顕を捕らえると、こう責めたてて言った。
「お前には死に当たる罪が三つある! 一つ目は、并州(晋陽)から鄴に逃げた時、攜妾は連れていったものの母は連れていかなかったことだ。これは不孝である! 二つ目は、表向きは偽主(後主)に力を尽くしているように見せかけつつ、裏では朕に書簡を送って内通していた事だ。これは不忠である! 三つ目は、帰順の意を示したのちもなおどっちつかずの態度を取ったことだ。これは不信である! このような心根の持ち主は、死刑以外処遇の方法があるまい!」
 かくて敬顕を閶闔門(宮城正門)外にて斬刑に処した(20日)。

 この戦いで、開府・中州(新安。洛陽の近西)刺史の李端が戦死した。
 端は字を永貴といい、故・大将軍の李賢武帝の養育を任された)の長子である。上大将軍を追贈、襄陽公を追封され、果と諡された。

 また、この時、開府の拓跋偉元偉が救出された。帝は長らく囚われていた事を以て偉を上開府とした。

 帝は大将軍の尉遅勤に二千騎を与え、上皇を追撃させた。
 勤は柱国・陝州刺史・呉国公の尉遅綱の第二子で、柱国・同州刺史・盧国公の尉遅運の弟である。

 この日、〔長安の〕西方にて雷のような音が一つ鳴った。

○周武帝紀
 壬辰,帝至鄴。齊主先於城外掘壍豎柵。癸巳,帝率諸軍圍之,齊人拒守,諸軍奮擊,大破之,遂平鄴。齊主先送其母并妻子於青州,及城陷,乃率數十騎走青州。遣大將軍尉遲勤率二千騎追之。是戰也,於陣獲其齊昌王莫多婁敬顯。帝責之曰:「汝有死罪者三:前從并走鄴,攜妾棄母,是不孝;外為偽主戮力,內實通啟於朕,是不忠;送款之後,猶持兩端,是不信。如此用懷,不死何待。」遂斬之。是日,西方有聲如雷者一。
○北斉幼主紀
 己丑,周師至紫陌橋。癸巳,燒城西門。太上皇將百餘騎東走。
○周20尉遅勤伝
〔尉遲綱…第三子安,以嫡嗣。…安兄運…〕運弟勤,少歷顯位。
○周25李端伝
〔李賢…子端嗣。〕端字永貴,歷位開府儀同三司、司會中大夫、中州刺史。從高祖平齊,於鄴城戰歿,贈上大將軍,追封襄陽公,諡曰果。
○周38元偉伝
 六年,齊平,偉方見釋。高祖以其久被幽縶,加授上開府。
○北斉10襄城王亮伝
〔襄城景王淯…無子,詔以常山王演第二子亮嗣。亮字彥道,性恭孝,美風儀,好文學。為徐州刺史,坐奪商人財物免官。後主敗奔鄴,亮從焉,遷兼太尉、太傅。周師入鄴,亮於啟夏門拒守。諸軍皆不戰而敗,周軍於諸城門皆入,亮軍方退走。亮入太廟行馬內,慟哭拜辭,然後為周軍所執。
○北斉19莫多婁敬顕伝
 周武帝平鄴城之明日,執敬顯斬於閶闔門外,責其不留晉陽也。
○北斉41鮮于世栄伝
 後主圍平陽,除世榮領軍將軍。〔及周武帝入代,送馬腦酒鍾與之,得便撞破。〕周師將入鄴,除領軍大將軍、太子太傅。〔周兵入鄴,諸將皆降,世榮在〕於城西(三臺之前)拒戰,〔獨鳴鼓不輟。〕敗被擒〔不屈〕,為周武所殺。世榮雖武人無文藝,以朝危政亂,每竊歎之。見徵稅無厭,賜與過度,發言歎惜。
○隋65慕容三蔵伝
 又破陳師於壽陽,轉武衞將軍。又敗周師於河陽,授武衞大將軍。又轉右衞將軍,別封范陽縣公,食邑千戶。周師入鄴也,齊後主失守東遁,委三藏等留守鄴宮。齊之王公以下皆降,三藏猶率麾下抗拒周師。及齊平,武帝引見,恩禮甚厚,詔曰:「三藏父子誠節著聞,宜加榮秩。」授開府儀同大將軍。

 ⑴慕容三蔵…《北斉書》では建中。東魏の開府・南道行台・燕郡公の慕容紹宗の子。幼い頃から利発で、武略に長じ、頗る父の面影があった。武平の初め(570年)に燕郡公の爵位を継いだ。その年、周軍を孝水(穀水。洛陽の周囲を流れる)にて撃破した。のち陳軍を寿陽にて撃破し、武衛将軍とされた。のち周軍を河陽にて撃破し、武衛大将軍→右衛将軍とされた。570年(1)参照。
 ⑵慕容紹宗…501~549。前燕の末裔。母のいとこの子が爾朱栄。爾朱栄→爾朱兆→高歓に仕え、高澄の代に東南道行台とされて侯景を大破した。のち西魏の王思政を潁川に包囲したが、その途中で戦死した。
 ⑶鮮于世栄…漁陽の人。父は懐朔鎮将の鮮于宝業。沈着聡明で才幹があった。興和二年(540)に高歓の親信副都督となり、のち文宣帝の柔然・稽胡討伐や清河王岳の郢州平定に参加し、河州刺史とされた。皇建年間(560~561)に儀同三司・武衛将軍とされ、天統二年(566)に開府とされ、鄭州刺史とされた。のち南兗州刺史とされ、信州の乱を平定した。のち領軍将軍とされた。574年、南安王思好の乱の平定に活躍し、義陽王とされた。574年(1)参照。
 ⑷三台…後漢の曹操が鄴に作った三つの高殿を、北斉の文宣帝が建て直したもの。この時、名称も銅雀・金虎・冰井から金鳳・聖応・崇光に改められた。
 ⑸莫多婁敬顕…東魏の儀同の莫多婁貸文の子。剛直・精勤で、若年の頃から剛力なことで名を知られた。斛律光の征討に常に付き従い、いつも先鋒を任され、敵前に到ると将兵の差配を任された。のち昇進して領軍将軍となると、常に点検・警戒を担当した。武平年間(570~576)に後主が晋陽に赴く際、常に鄴の留守の軍隊を任され、治安維持に当たった。のち昇進して開府儀同三司とされた。南安王思好が叛乱を起こすと先遣隊として晋陽に急派された。576年に安徳王延宗が即位して、晋陽にて北周軍を迎撃するとこれに従い、敗れると鄴に逃亡して司徒とされた。576年(5)参照。
 ⑹拓跋偉(元偉)…字は猷道(または子猷)。拓跋什翼犍(昭成帝)の子孫。元順の子。もと淮南王。穏やかで上品な人柄で、学問を好んだ。伐蜀の際、尉遅迥の軍府の司録となり、軍府の出す文書の全てを一人で作成した。北周が建国されると晋公護の司録とされ、明帝が即位すると師氏中大夫とされた。のち開府儀同三司とされ、外では隴右總管府長史・成州刺史、内では匠師中大夫・司宗中大夫・司宗・司会中大夫・民部中大夫・小司寇を歴任した。575年、北斉の内情を探るために正使として派遣されたが、高遵の裏切りにあって捕らえられた。575年(2)参照。
 ⑺尉遅綱…字は婆羅。517~569。字は婆羅。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。557年に小司馬・柱国大将軍とされ、559年に呉国公とされ、561年に少傅→大司空とされた。562年、陝州総管とされた。564年、北周が東伐を行なうと、長安の留守を任された。568年、突厥可汗の娘の阿史那氏を迎えに国境まで出向いた。569年(2)参照。
 ⑻尉遅運…生年539、時に39歳。故・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。571年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。斛律光が汾北に侵攻してくるとこれを迎撃し、伏龍城を陥とした。572年に右侍伯とされ、のち右司衛とされた。のち忠良・剛直な点を評価され、右宮正とされて太子贇の匡弼を任された。衛王直の乱が起きると、宮城を守り切る大功を立て、大将軍とされた。のち、武帝から伐斉計画を事前に伝えられた。576年、盧国公とされた。576年(5)参照。

●熊安生と李徳林

 甲午(20日)武帝が鄴城に入った。
 北斉の国子博士の熊安生このとき八十余歳はこれを聞くと、突然家人に門の辺りを掃き清めさせた。家人がそのわけを尋ねると、安生はこう言った。
「周の皇帝は道理を重んじ、学者を尊ぶお方であるから、きっと私の所にお見えになるだろう。」
 果たして、間もなく帝は安生の屋敷にやってきた。帝は安生に拝礼をする事を許さず、自ら安生の手をとって自分と同じ席に座らせ、こう言った。
「朕は未だに兵を去ることができていない。なんとも恥ずかしい限りだ。」
 安生はこう言った。
「黄帝(神話上の帝王)ですら阪泉の戦い(炎帝を破った戦い)を起こしました。まして、陛下は天意に従って斉氏に罰を加えなければならなかったのですから、尚更です。」
 帝はまたこう言った。
「斉氏は人民に重い賦税や徭役をかけたため、人民は蓄えも力も尽き果ててしまった。朕はその旧弊を改めて民草を救いたいと思う。そこで、鄴の府庫や三台にある品々を出して人民に分け与えたいと思うのだが、公はどう思うか?」
 安生は答えて言った。
「昔、周の武王は商()を滅ぼした時、鹿台(紂王が築いた高殿)の財宝や鉅橋(紂王の倉)の穀物を人民に分け与えました。陛下がそのお考えを実行なさるのであれば、それは時間は違えども立派さは同じものとなるでしょう。」
 帝はまた言った。
「朕は武王と比べてどうか?」
 安生は言った。
「武王は紂を伐った時、紂の首を白旗の先に掛けて人々に示すなど〔多くの血を流しましたが〕、陛下は斉を平定する際、〔ほとんど〕兵の刃に血をつけさせませんでした。ここから愚考いたしますに、陛下の知略は武王より優れております。」
 帝は大いに喜び、安生に絹三百匹・米三百石・宅地一区ならびに象笏・九環金帯を下賜し、そのほかの日用品などもこれらに相当する量を下賜した。また、四頭立ての安車(座れるように作った老人や婦人用の馬車)を与え、自分が長安に帰るのに随行させた。また、求める物があればその都度支給した。

 また、小司馬の唐道和唐邕。武帝の本名の邕の字を避けた?)を北斉の中書侍郎の李徳林の屋敷に派遣し、このような宥め諭す言葉を伝えさせた。
「斉を平定して得られる利益は、ただそなたが手に入るという事だけだった。朕は前々からそなたが斉主と共に東方に逃げることを恐れていたが、今、まだ鄴に留まっていることを聞いて大いに安心している。即刻朕に会いに来るように。」
 道和が徳林を連れて鄴宮に入ると、帝は内史の宇文昂柳昂)を徳林のもとに遣わし、斉朝の風俗習慣や政治や教育の制度、人物の良し悪しを尋ねさせた。徳林は内省(門下省)に三泊したのち、ようやく屋敷に帰る事を許された。

 宇文昂は字を千里といい、大将軍の宇文敏柳敏の子である。幼い頃から利発で器量と見識があり、並外れた事務処理能力を持っていた。武帝の時に内史中大夫・開府儀同三司・文城郡公とされて政務を取り仕切り、百官はみなその指示に従った。昂は帝の補佐に全身全霊を傾け、更に謙虚で偉ぶることが全く無かったため、人々から高い評価を受けた。

○周武帝紀
 甲午,帝入鄴城。
○周32柳昂伝
〔柳敏…賜姓宇文氏…少子昂。〕昂字千里,幼聰穎有器識,幹局過人。武帝時,為內史中大夫(大内史)、開府儀同三司,賜爵文城郡公。當途用事,百寮皆出其下。昂竭誠獻替,知無不為,謙虛自處,未嘗驕物。時論以此重之。
○周45熊安生伝
 及高祖入鄴,安生遽令掃門。家人怪而問之,安生曰:「周帝重道尊儒,必將見我矣。」俄而高祖幸其第,詔不聽拜,親執其手,引與同坐。謂之曰:「朕未能去兵,以此為愧。」安生曰:「黃帝尚有阪泉之戰,况陛下龔行天罰乎。」高祖又曰:「齊氏賦役繁興,竭民財力。朕救焚拯溺,思革其弊。欲以府庫及三臺雜物散之百姓,公以為何如?」安生曰:「昔武王克商,散鹿臺之財,發鉅橋之粟。陛下此詔,異代同美。」高祖又曰:「朕何如武王?」安生曰:「武王伐紂,縣首白旗;陛下平齊,兵不血刃。愚謂聖畧為優。」高祖大悅,賜帛三百匹、米三百石、宅一區,并賜象笏及九環金帶,自餘什物稱是。又詔所司給安車駟馬,隨駕入朝,并敕所在供給。
○隋42李徳林伝
 及周武帝克齊,入鄴之日,勑小司馬唐道和就宅宣旨慰喻,云:「平齊之利,唯在於爾。朕本畏爾逐齊王東走,今聞猶在,大以慰懷,宜即入相見。」道和引之入內,遣內史宇文昂訪問齊朝風俗政教、人物善惡,即留內省,三宿乃歸。

 ⑴熊安生…字は植之。長楽の人。若年の頃より学問を好み、飽きることを知らなかった。春秋三伝と周礼の大義に通じた。更に《礼記》を学び、《五経》に通じるようになり、やがて千余人の弟子を持つにいたった。予言書の造詣にも通じた。北斉の河清年間(562~565)に陽休之から特別に推薦を受けて国子博士とされた。568年に北斉と北周が国交を通じると、北周の人々が分かっていなかった《周礼》の記事数十箇所について納得の行く説明を行ない、これを伝え聞いた北周の武帝から非常な尊敬を受けるようになった。568年(2)参照。
 ⑵兵を去る…《論語》顔淵篇曰く、『子貢政を問う。子曰く、食を足らわし、兵を足らわし、民これ(政府)を信ずることかな。子貢曰く、必ずやむを得ず去ることあれば、この三者においていずれを先にせん。曰く、兵を去る。』
 ⑶唐邕…字は道和。太原の人。記憶力抜群の能吏。東魏・北斉に仕え、中央以外の歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。563~4年に北周軍が晋陽に迫ると、臨機応変に対応して瞬時に兵馬を集結させた。568年、右僕射とされたが、569年12月頃に人を冤罪に陥れた罪で除名された。のち復帰を許され、570年に右僕射、571年に左僕射、572年に尚書令とされ、晋昌王とされた。574年に南安王思好の乱が起こるとその討伐軍の統率・監督を任された。平定後、録尚書事とされた。575年、高阿那肱の讒言を受けて遠ざけられるようになった。去年、阿那肱がいる後主と袂を分かち、安徳王延宗を主と仰いで北周軍と晋陽に戦ったが、敗れると降伏して上開府とされた。576年(5)参照。
 ⑷宇文敏(柳敏)…字は白沢。名門・河東柳氏の出身。九歲の時に父を亡くし、母に孝行を尽くした。読書家で、故事のほか陰陽卜筮の術にも通暁した。また品行方正で職務態度が真面目だった。537年に宇文泰が河東を陥とした時、「河東を得たことよりもそなたを得たことの方が嬉しい」と言われ、丞相府参軍事→戸曹参軍・兼記室とされた。四方からの賓客の接待や冠婚葬祭の儀式の監督を任された。また、蘇綽らと共に朝廷の政典の編纂を行なった。母が亡くなると悲しみのあまり白髪混じりの髪になった。伐蜀の際に行軍司馬とされ、軍略を一任された。益州を平定すると開府とされ、宇文氏の姓を与えられた。郢州刺史とされると善政を行なった。のち国史や律令の監修を任された。

●禅譲
 乙未(21日)、北斉の上皇が黄河を渡って済州に到った。
 上皇は侍中・義寧王の斛律孝卿を尚書令とし、中書侍郎の薛道衡を侍中・北海王とした。孝卿ら二人は上皇に幼主の帝位を大丞相の任城王湝に譲らせるよう勧めた。
 この日、幼主が帝位を湝に禅譲した。また、湝に代わって詔を作り、上皇を無上皇とし、幼主を守国天王⑵[1]とする事とした。天王は侍中の斛律孝卿に禅譲文と伝国の璽を〔湝のいる〕瀛州(《周書》では冀州)に送り届けさせたが、孝卿はこれを手土産に北周に投降した

 この日、武帝が詔を下して言った。
「去年に大赦が及ばなかった場所も、今その範囲に含める。」[2]

○周武帝紀
 齊任城王湝先在冀州,齊主至河,遣其侍中斛律孝卿送傳國璽禪位於湝。孝卿未達,被執送鄴。詔去年大赦班宣未及之處,皆從赦例。
○北斉幼主紀
 乙亥,渡河入濟州。其日,幼主禪位於大丞相、任城王湝,令侍中斛律孝卿送禪文及璽紱於瀛州,孝卿乃以之歸周。又為任城王詔,尊太上皇為無上皇,幼主為守國天王。
○北斉20斛律孝卿伝
 後主至齊州,以孝卿為尚書令。又以中書侍郎薛道衡為侍中,封北海王。二人勸後主作承光主詔,禪位任城王,令孝卿齎詔策及傳國璽往瀛州。孝卿便詣鄴城,歸於周武帝。

 ⑴任城王湝…高歓の第十子で後主(武成帝)の叔父。母は小爾朱氏。聡明で、孝昭帝・武成帝が晋陽から鄴に赴く時、常にその留守を任された。566年に太保・并州刺史とされると、婦人の靴を盗んだ犯人を当てるなど明察ぶりを発揮した。568年に太師・司州牧とされ、のち冀州刺史を務め、570年に再び太師とされた。571年に太宰、572年に右丞相とされた。573年頃に都督・青州刺史とされた。清廉では無かったものの、寛大であったため、官民から人気を博した。のち左丞相とされ、瀛州刺史とされた。去年、大丞相とされた。576年(5)参照。
 ⑵守国天王…《通鑑》では『國天王』とある。
 [1]北斉が危機に瀕している時に国号を宋に改めるものだろうか。「宋国」は「宗国」とすべきである。〔上皇は河南の天子、任城王湝は河北の天子と国を分けた可能性もある。〕
 ⑶《周書》では湝のいる場所は瀛州ではなく冀州とする。また、孝卿は進んで投降したのではなく、途中で捕らえられたとする。
 [2]去年、北周は晋陽を陥とした直後に大赦を行なったが、そのとき山東・河南・河北の地はまだ北斉の領土だった。

●河南の降伏
 これより前、北斉の開府・洛州(洛陽)刺史・臨川王の独孤永業は北斉が晋州が陥落した(去年の10月27日)報を聞いたとき、北進して周軍を討つ許可を朝廷に求めたが、いつまでも返事が来なかったため憤慨していた。のち并州(晋陽)が陥落し(去年の12月17日)、北周の柱国・陜州総管・常山公の万紐于翼于翼の攻撃を受けると、子の独孤須達を派して河南九州三十鎮と共に北周に投降した。
 この日、北周は永業を上柱国・応国公とした。
 これより前(575年)、翼は北斉の広州(襄城。長社の西南九十里)に侵攻した際、将兵に村々に立ち入る事を禁じ、住民から慕われていた。今、広州が北周のものとなり、翼がやってくると、人々は再び翼に会えたことを喜び、手に手に飲食物を持ってこれを歓迎した。あまりに多くの人々が集まったため、道が塞がってしまうほどだった。
 北周は開府・治熊州刺史の賀若誼を洛州刺史とした。

 北斉の開府・梁州(大梁)刺史・白水王の侯莫陳晋貴も、并州が陥落した事を知ると北周に使者を派遣して降伏した。北周は晋貴を上大将軍・信安県公とした。
 晋貴は北斉の太宰・朔州刺史の侯莫陳相の次子である。厳格な性格で、文武に才能を示した。白水王の爵位を継ぎ、武衛将軍・開府儀同三司・梁州刺史とされた。

 また、開府・斉郡公の権武が北斉の邵州を陥とし、更に別に六城を陥とした。
 武は字を武挵(《北史》では弄)といい、晋陽の戦い(564年)で戦死した開府の権襲慶の子である。忠臣の子ということで初めから開府とされ、斉郡公(邑千二百戸)の爵位を継いだ。武は若年の頃から勇敢で、力は人並み外れ、重い二枚重ねの鎧を着ても馬にひょいと跨ることができた。また、ある時、井戸の中に真っ逆さまに落ちたが、底に着く前に体勢を立て直し、跳躍して地上に出ることができた。その筋力と敏捷さはこんなふうだった。可頻謙王謙に従って北斉の伏龍など五城を陥とし(571年)、八百戸を加増された。

 北周は鄴を得ると、州名を司州から相州に戻していた。
 丙申(22日)、上柱国の越王盛を相州総管とした。

○周武帝紀
 封齊開府、洛州刺史獨孤永業為應國公。丙申,以上柱國、越王盛為相州總管。
○周30于翼伝
 齊洛州刺史獨孤永業開門出降,河南九州三十鎮,一時俱下。襄城民庶等喜復見翼,竝壺漿塞道。
○北斉14武興王普伝
 六年,為豫州道行臺、尚書令。後主奔鄴,就加太宰。周師逼,乃降。
○北斉19・北53侯莫陳晋貴伝
〔侯莫陳相〕次子晉貴,〔嚴重有文武幹略,襲爵白水王,〕武衛將軍、〔開府儀同三司、〕梁州刺史。隆化時,并州失守,晉貴遣使降周,授上大將軍,封信安縣公。
○北斉41・北53独孤永業伝
 又聞并州亦陷,為周將常山公所逼,乃使其子須達告降於周。周武授永業上柱國〔、應公〕。
○隋39賀若誼伝
 武帝親總萬機,召誼治熊州刺史。平齊之役,誼率兵出函谷,先據洛陽,即拜洛州刺史,進封建威縣侯。
○隋65権武伝
 權武字武挵(弄),…武以忠臣子,起家拜開府,襲爵齊郡公,邑千二百戶。武少果勁,勇力絕人,能重甲上馬。嘗倒投於井,未及泉,復躍而出,其拳捷如此。從王謙破齊服龍等五城,增邑八百戶。平齊之役,攻陷卲州,別下六城,以功增邑三百戶。

 ⑴独孤永業…字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長けた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。564年に北周が洛陽に攻めてくると防衛の指揮を執り、北斉軍の到着まで良く守り抜いた。のち、斛律光と対立し、565年に都に呼び戻されて太僕卿とされた。572年、北道行台僕射・幽州刺史とされ、前任の斛律羨の逮捕に赴いた。間もなく領軍将軍とされた。のち再び河陽道行台僕射・洛州刺史とされ、575年に北周が洛陽に攻めてくるとまたも援軍の到着まで良く守り抜き、開府・臨川王とされた。576年(5)参照。
 ⑵万紐于翼(于翼)…字は文若。柱国・燕国公の于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。のち開府儀同三司・渭州刺史とされ、吐谷渾と戦った。明帝が亡くなると晋公護と共に遺詔を受け、武帝を立てた。また、常山公とされた。人を見る目があったため、帝の弟や子どもの幕僚の選任を任された。のち大将軍・総中外宿衛兵事とされた。護はその重用ぶりを快く思わなかった。571年、柱国とされた。武帝が東討を図って国境の軍備を増強すると、それでは警戒を呼んでしまうとして反対し、国交を結んで油断させることを提言して許可された。573年、安州総管とされ、575年の東伐の際には事前に計画を相談され、荊・楚方面の兵を率いて北斉領を攻めた。576年、陜州総管とされ、武帝が再び東伐を行なうと洛陽を攻めた。576年(5)参照。
 ⑶賀若誼…字は道機。開府・中州刺史の故・賀若敦の弟。宇文泰の左右に侍り、柔然への使者とされ、同盟の締結に成功した。儀同三司とされた。北周が建国されると開府とされ、霊・邵二州の刺史や原・信二州の総管を務め、好評を得た。兄の敦が誅殺されると連座して免職となった。武帝が親政を始めると復帰して治熊州刺史とされた。576年、帝が北斉を攻めると洛陽を攻めた。576年(5)参照。
 ⑷侯莫陳相…489~571。祖父は北魏の第一領民酋長、父は朔州刺史・白水公。武勇に優れ、韓陵の戦いにて力戦して功を挙げた。550年に太子太師・白水王、554年に司空、559年に大将軍、のち、太尉・兼瀛州刺史とされた。565年に太保・兼朔州刺史、566年に太傅、567年に太宰とされた。571年(1)参照。
 ⑸邵州…洛陽の西北にあり、黄河の北岸にある。軹関の西。北周領であり、567年に周臣の豆盧勣が刺史とされている。これ以降にいつの間にか北斉に陥とされ、575年の洛陽攻めの際に奪還したが、撤退の際放棄して再び北斉のものとなっていた。
 ⑹権襲慶…天水の人で、父は秦州刺史。開府とされ、563~4年に普六茹忠(楊忠)に従って北斉の晋陽を攻めたが、奮戦むなしく戦死した。564年(1)参照。
 ⑺可頻謙(王謙)…字は勅万。柱国の可頻(叱?)雄(王雄)の子。控え目で礼儀正しい性格をしていた。それ以外これといった取り柄は無かったが、父の七光によって安楽県伯に封ぜられ、開府儀同三司とされた。557年、治右小武伯とされた。562年に父が庸国公に封ぜられると、代わりに武威郡公に封ぜられた。のち父が邙山にて戦死すると、565年、代わりに柱国大将軍・庸国公とされた。576年、吐谷渾討伐に参加した。のち上柱国とされた。576年(5)参照。
 ⑻越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際、後一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際には右一軍総管とされ、斉王憲の指揮のもと晋州の救援に赴いた。のち上柱国とされた。576年(5)参照。

●北斉滅ぶ
 北斉の上皇胡太皇太后を済州に留め、大丞相・淮陰王の高阿那肱に数千の兵を与えて済州関を守備させ、周軍の動静を逐一報告させた。そして自らは穆上后馮淑妃・幼主・韓長鸞・鄧長顒ら数十人を連れて青州に奔った。
 また、宦官で開府・中侍中の田敬宣を西方に派遣し、周軍の動静を偵察させたが、敬宣は周兵に捕らえられてしまった。周兵が上皇の所在を尋ねると、鵬鸞は偽ってこう言った。
「主上は既に済州を発たれた。時間と距離を計算するに、もう国境を出ておられることだろう。」
 周兵はその発言の真偽を疑い、本当のことを言うよう鵬鸞の手足を棍棒で叩き折った。しかし、鵬鸞の語気や顔色は手足が一本折れるごとにいよいよ激しいものとなった。そのため、とうとう全てを折って命を奪うに至った。
 敬宣は蛮人で、もとの名を鵬鸞という。十四、五歳の時に去勢され、宦官となった。〔宮廷に入って書物に触れると〕その楽しさに目覚め、書物を手放さず、朝夕音読するようになった。身分は卑しく仕事も大変だったが、それでも暇を見つけては人に教えを請うて回り、文林館(国立文学館)に行っても、いつも息を弾ませ汗を流して書物の内容について質問して回るだけで、他のことについては一切口にしなかった。古人の節義の記事を目にすると、感動して暫くじっと考え込む(或いはその記事を繰り返しつぶやく)のが常だった。顔之推はその勉強熱心さを非常に気に入り、格別な励ましの言葉をかけた。のち〔後主に〕評価されて敬宣の名を与えられ、中侍中・開府とされた。のち、之推はその死を聞くとこう言った。
「蛮夷の少年でさえ、学問によって〔成長し、〕忠義を成すまでに至ったのに、北斉の将軍や大臣連中は何たるざまであろう。彼らは敬宣の奴隷にすらふさわしくない者たちである。」

 上皇は青州に到着すると、陳への亡命を図った。しかし、高阿那肱から来る報告は決まってこのようなものだった。
「周軍はまだやってきていませんし、既に橋も焼き払っております。また、青州には友軍が集結中であります。まだ南行すべきではありません。」
 上皇はこれを聞くと安心し、青州に留まった。
 北周の尉遅勤の軍が済州関に到ると、阿那肱の兵はみなあちこちに逃げ散り、阿那肱は降伏した。
 勤が次いで青州を攻めると、虚を突かれた上皇は慌てて金を入れた袋を鞍の後ろに括り付け、長鸞・淑妃ら十数騎を連れて南方に奔った。
 己亥(25日)、青州の南にある鄧村にて追いつかれ、全員捕虜となり、〔済州にて先に捕らえられていた〕胡太后と共に鄴に送られた(北斉の滅亡。北斉は550年に建国され、文宣帝・廃帝・孝昭帝・武成帝・後主・幼主の六代二十八年にて滅んだ)。

 当時の人々は口々にこう言った。
「阿那肱は密かに周に取り入って、斉主を捕らえることができるように図ったのだ。だから周兵がやってきた事をすぐに伝えなかったのだ。」
 また、天保年間(550~559)に文宣帝高洋。北斉初代皇帝)が晋陽から鄴に帰った時、愚かなふりをしている僧の阿禿師が路上で帝の姓名を叫んでこう言った。
「阿那瓌がいずれお前の国を滅ぼすだろう!」
 この時、柔然の可汗の阿那瓌頭兵可汗)が長城以北の地で強盛を誇っていた。帝はこれを非常に忌み嫌い、連年出撃してこれを討伐したが、結局北斉を滅ぼしたのは阿那肱だった。阿那肱の『肱』の字は、当時の人々は『瓌』と同じ音で読んでいた。これは言うまでもなく『秦を亡ぼす者は胡なり』と同じことで、人智の及ばない所で決定していた事だったのであろう。

 武帝が詔を下して言った。
「晋州大陣から鄴平定に至るまでの間に戦死した者の子に、父と同じ官職を授ける。」

○資治通鑑
 上皇至青州,卽欲入陳。而高阿那肱密召周師,約生致齊主,屢啓云:「周師尚遠,已令燒斷橋路。」上皇由是淹留自寬。周師至關,阿那肱卽降之。周師奄至青州,上皇囊金,繫於鞍,與后、妃、幼主等十餘騎南走,己亥,至南鄧村,尉遲勤追及,盡擒之,幷胡太后送鄴。
○周武帝紀
 己亥,詔曰:「自晉州大陣至于平鄴,身殞戰塲者,其子即授父本官。」尉遲勤擒齊主及其太子恆於青州。
○北斉幼主紀
 留太皇太后濟州,遣高阿那肱留守。太上皇並皇后攜幼主走青州,韓長鸞、鄧顒等數十人從。太上皇既至青州,即為入陳之計。而高阿那肱召周軍,約生致齊主,而屢使人告言,賊軍在遠,已令人燒斷橋路。太上所以停緩。周軍奄至青州,太上窘急,將遜於陳,置金囊於鞍後,與長鸞、淑妃等十數騎至青州南鄧村,為周將尉遲綱所獲。
○北斉41田敬宣伝
 又有開府、中侍中宦者田敬宣,本字鵬,蠻人也。年十四五,便好讀書。既為閽寺,伺隙便周章詢請,每至文林館,氣喘汗流,問書之外,不暇他語。及視古人節義事,未嘗不感激沉吟。顏之推重其勤學,甚加開奬,後遂通顯。後主之奔青州,遣其西出,參伺動靜,為周軍所獲。問齊主何在,紿云已去。毆捶服之,每折一支,辭色愈厲,竟斷四體而卒。
○北斉50・北92高阿那肱伝
 後主走度太行(河)後,〔令〕那肱以數千人投濟州關,仍遣覘候〔周軍進止,日夕馳報〕。〔那肱〕每奏〔云〕:「周軍未至,且在青州集兵〔馬〕,未須南行。」及周將軍尉遲迥至關〔首,所部兵馬皆散〕,肱遂降。時人皆云,肱表欵周武,必仰生致齊主,故不速報兵至,使後主被擒。…初天保中,顯祖自晉陽還鄴,陽愚僧阿禿師於路中大叫,呼顯祖姓名云:「阿那瓌終破你國。」是時茹茹主阿那瓌在塞北強盛,顯祖尤忌之,所以每歲討擊,後亡齊者遂屬〔高〕阿那肱云。雖作「肱」字,世人皆稱為「瓌」音,斯固「亡秦者胡」,蓋懸定於窈冥也。
○顔氏家訓8勉学
 齊有宦者內參田鵬鸞,本蠻人也。年十四五,初為閽寺,便知好學,懷袖握書,曉夕諷誦。所居卑末,使彼苦辛,時伺閒隙,周章詢請。每至文林館,氣喘汗流,問書之外,不暇他語。及睹古人節義之事,未嘗不感激沈吟久之。吾甚憐愛,倍加開獎。後被賞遇,賜名敬宣,位至侍中開府。後主之奔青州,遣其西出,參伺動靜,為周軍所獲。問齊主何在,紿云:「已去,計當出境。」疑其不信,歐捶服之,每折一支,辭色愈厲,竟斷四體而卒。蠻夷童丱,猶能以學成忠,齊之將相,比敬宣之奴不若也。

 ⑴済州関…《読史方輿紀要》曰く、『北周の武帝は碻磝津に済州関を置いた。碻磝津は済南府(斉州)の西南七十里→長清県の西北にある。』
 ⑵馮淑妃…名は小憐。もと穆后の侍女。后によって五月五日に帝に進上され、この経緯から『続命』と呼ばれた。聡明で琵琶や歌舞が上手だったため、帝に非常に気に入られて淑妃とされ、常にその傍に侍った。576年(5)参照。
 ⑶《北斉書》高阿那肱伝では『尉遅迥』とある。迥は宇文泰の姉の子で、太師・上柱国・蜀国公。
 ⑷阿禿師…晋陽にいた僧侶。賢いのか愚かなのか判断がつかなかった。子供の時の文宣帝に自分は将来どのような官位に就くか尋ねられると、再三指を天に向けるだけで何も言わなかった。535年(2)参照。
 ⑸『秦を亡ぼす者は胡なり』…秦の始皇帝は預言書にあったこの文を見て胡(匈奴)を討伐したが、結局秦を滅ぼしたのは、息子で、二世皇帝となり、国を大いに乱れさせた胡亥だった。


 577年(2)に続く