[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]


●晋州城の戦い
 北斉の晋州(平陽)の守将は特進・開府・晋州道行台尚書僕射・海昌王の尉相貴だった。
 北周の武帝は毎日汾曲より城下に赴いて自ら兵を監督・激励した。晋州城は次第に苦境に立った。

 甲子(10月19日)、北斉が晋祠に大軍を集結させた。
 庚午(25日)後主自ら十万の兵を率いて晋州の救援に向かった。

 これより前、晋州行台左丞の侯子欽は北周に内応することを約束していた。〔現在、子欽は内応の機会が到来したと感じ、〕別駕の李仲挙を仲間に引き込もうとしたが、仲挙の生真面目な性格に気後れし、言いかけてやめることが三、四回に及んだ。仲挙は子欽の本心を推し量り、こう言った。
「城は累卵の危うきの状態(脆い卵を積み重ねた危険な状態)にあり、公の知恵が必要な時であります。今、公の言う言葉には他意が無いはず。それなのになぜ何度も言いかけてはやめているのですか?」
 子欽は〔やむなく〕言った。
「急を告げても援軍の知らせは一向に来ず、城は陥落の瀬戸際にある。このままだと我らは陥落の際処刑されるだろう。それなら、先に有道の国(北周)に帰して命を繋ぐ方がいいと思うのだが、どうだろうか?」
 すると仲挙は血相を変えてこう言った。
「僕(私の謙譲語)は高氏にまだそこまで恩を受けておりませんが、公は皇家に一生かけても報いきれない恩を受けているはずです。臣下の道には踏み外してならないものがあります。どうして今、そのような事を言われるのですか!」
 この日の夜子欽は仲挙に計画を漏らされることを恐れ、内応を諦めて城から出、北周に投降した。

 壬申(27日)の夜、晋州城の北城を守備していた晋州刺史の崔景嵩が密かに北周に使者を送り、内応を約束した。武帝はこれに応じ、上開府儀同大将軍の烏丸軌王軌段文振・宇文仲方崔仲方らに北城を攻めさせた。
 文振と仲方は槊(長矛)を手に仲方ら数十人と共に先陣を切って城壁を登り、景嵩の手引によって尉相貴の寝所に到ると、佩刀を抜いて脅した。相貴は抵抗せずに縄についた。間もなく烏丸軌の軍が城壁の上に登って軍鼓を打ち鳴らし鬨の声を上げると、北斉兵は仰天して総崩れとなり、晋州城は陥落した。北周は八千の北斉兵を捕虜とし、相貴と共に長安に送った。
 帝は晋州陥落の報を受けると大いに喜び、文振に千段の反物を与えた。

 段文振は北海期原の人(或いは鮮卑段部の人?)で、祖父は北魏の滄州刺史の段寿、父は北周の洮河甘渭四州刺史の段威。文振は剛直な性格で、若年の頃から膂力・胆力に優れ、頭も良く事務処理に通じた。初め晋公護の親信(側近官)とされ、そこで才能を認められて中外府兵曹参軍に抜擢された。

 この時、宇文㢸は三輔(長安周辺)の豪俠の若者数百人を募って別動隊を組織して戦い、三箇所に傷を受けてもなお闘志を失わなかったため、帝から称賛を受けた。

○周武帝紀
 帝每日自汾曲赴城下,親督戰,城中惶窘。庚午,齊行臺左丞侯子欽出降。壬申,齊晉州刺史崔景嵩守城北面,夜密遣使送款,上開府王軌率眾應之。未明,登城鼓噪,齊眾潰,遂克晉州,擒其城主特進、開府、海昌王尉相貴,俘甲士八千人,送關中。
○北斉後主紀
 甲子,出兵,大集晉祠。庚午,帝發晉陽。
○隋天文志五代災変応
 庚午,克之。
○周12斉煬王憲伝
 齊主聞晉州見圍,乃將兵十萬,自來援之。
○周40王軌伝
 五年,高祖總戎東伐,六軍圍晉州。刺史崔景嵩守城北面,夜中密遣送款。詔令軌率眾應之,未明,士皆登城鼓噪。齊人駭懼,因即退走。遂克晉州,擒其城主特進、海昌王尉相貴,俘甲士八千人。
○隋56宇文㢸伝
 建德五年,大舉伐齊,卒用㢸計。㢸於是募三輔豪俠少年數百人以為別隊,從帝攻拔晉州。身被三創,苦戰不息,帝奇而壯之。
○隋60崔仲方伝
 尋從帝攻晉州 ,齊之亞將崔景嵩請為內應,仲方與段文振等登城應接,遂下晉州,語在文振傳。
○隋60段文振伝
 段文振,北海期原人也。祖壽,魏滄州刺史。父威,周洮、河、甘、渭四州刺史。文振少有膂力,膽氣(智)過人,性剛直,明達時(世)務。初為宇文護親信,護知其有〔器局〕幹用,擢授中外府兵曹。後武帝攻齊海昌王尉相貴於晉州,其亞將侯子欽、崔景嵩為內應。文振杖槊登城,與崔仲方等數十人先登〔城〕。文振隨景嵩至相貴所,拔佩刃劫之,相貴不敢動,城遂下。帝大喜,賜物千段。
○北斉19尉相貴伝
 尉摽,代人也。大寧初,封海昌王。子相貴嗣,武平末,晉州道行臺尚書僕射、晉州刺史。…周武自率眾至城下,欽等夜開城門引軍入,鎖相貴送長安。尋卒。
○北100序伝
 授晉州別駕。及周師圍晉州,外無救援,行臺左丞侯子欽內圖離貳,欲與仲舉謀,憚其嚴正,將言而止者數四。仲舉揣知其情,乃謂之曰:「城危累卵,伏賴於公,今之所言,想無他事,欲言而還中止也?」子欽曰:「告急官軍,永無消息,勢之危急,旦夕不謀,意欲不坐受夷戮,歸命有道,於公何如?」仲舉正色曰:「僕射(於)高氏恩德未深,公於皇家沒齒非答。臣子之義,固有常道,何至今日,翻及此言!」子欽懼泄,夜投周軍。

 ⑴尉相貴…去年の10月に大寧に侵攻したが、北周の延州総管の王慶に撃退された。575年(3)参照。
 ⑵武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に34歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。今年、再び親征した。576年(2)参照。
 ⑶晋祠…北斉は569年4月に并州尚書省を大基聖寺とし、晋王祠を大崇皇寺としていた。《読史方輿紀要》曰く、『太原県(晋陽)の西南十里にある懸甕山の南にある。叔虞(晋の前身の唐の建国者)を祀った所である。』
 ⑷後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に21歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年(2)参照。
 ⑸侯子欽…555年に北斉が陳覇先を攻めて苦戦した時、停戦を求める使者とされた。のち晋州行台左丞とされ、今年、密かに北周に通じ、晋州に出兵するよう求めた。576年(2)参照。
 ⑹烏丸軌(王軌)…祖先は代々州郡の冠族の出で、北魏に仕えると烏丸氏の姓を賜り。のち北鎮に移って四代に亘って居住したという。父は北周の開府儀同三司・上黄郡公の烏丸光(王光)。真面目で正義感が強く、沈着冷静で見識があった。武帝に早くから仕え、帝が即位すると非常な厚遇を受け、腹心とされた。のち、晋公護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。護が誅殺されると内史中大夫(中書令?)・開府儀同三司とされ、国政にみな参与した。575年、太子贇が吐谷渾の討伐に赴くとそのお目付け役とされ、帰還すると贇の悪行を報告して贇の逆恨みを受けた。576年(1)参照。
 ⑺宇文仲方(崔仲方)…字は不斉。生年539、時に38歳。開府の宇文猷(崔猷)の子。若年の頃から読書好きで、文武に才能を示した。十五歳の時(553年)に宇文泰と会うと才能を認められ、泰の子どもたちの学友とされた。このとき普六茹堅と親しい仲になった。のち晋公護の府の参軍事、次いで記室とされた。のち司玉大夫とされ、礼律の修訂を行なった。のち、軍功によって平東将軍とされた。のち伐斉二十策を献じると帝から非常な評価を受けた。575年(1)参照。
 ⑻城壁を登り…北斉19尉相貴伝には『子欽らが夜に城門を開いて北周軍を引き入れた』とある。
 ⑼晋公護…宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。513~572。至孝・寛容の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。572年、誅殺された。572年(1)参照。
 ⑽宇文㢸…字は公輔。祖父は北魏の鉅鹿太守、父は北周の宕州刺史。 気概があって一本筋が通っており、博学多識だった。北周に仕えて礼部上士とされ、五礼(国家の儀礼制度)の修定を行なった。のち次第に昇進して少吏部とされ、八人を県令に選任すると、みな優れた政績を挙げたので、人を見る目があると称賛された。のち、内史都上士とされた。武帝が洛陽攻めを図ると、これに反対し、晋州を攻めることを提案した。575年(2)参照。

●李仲挙と盧昌衡
 李仲挙は本名を超といい、仲挙は字である。色白でひげ・眉が美しく、正直・高潔で簡素を好み、風流とは距離を置いた。読書に励んだが語句の意味などにはこだわらず、大意を知ることを重んじた。婚儀や葬儀などの行事の際の立ち居振る舞いが立派で、親族一同から手本とされた。
 二十歳の時に北斉(東魏?)に仕えて襄城王大司馬(元旭)参軍事とされた。のち県令の殆どが身分の低い者たちで占められ〔、民を収奪するようになると、〕尚書左僕射の元文遥はこれを問題視し、家柄が高く〔卑しい事をしない〕者に代えるよう帝に求めて許可された。仲挙は范陽の盧昌衡ら八人と共にこれに選ばれ、司州の修武令とされた。仲挙はおおらかで分かりやすい政治を行ない、官民から寛明な政治と評された。この時、昌衡は平恩令とされていたが、彼も慈しみ深く分かりやすい政治を行なったので人民から恩明な政治だと評された。ここから、『盧李恩寛の政』と称された。
 武平元年(570)、持節とされ、南定州(蒙籠)の鎮撫を命ぜられた。州民はみな蛮族で、山間部に住み、〔非常に統治が難しかった。しかし、〕仲挙が朝命を伝えると、州民はみな素直に統治に従って平穏になった。朝廷はこれを聞くと仲挙を大いに褒め称えた。帰還すると晋州別駕とされた。

 盧昌衡生年534、時に43歳)は字を子均といい、東魏の幽州刺史の盧道虔の子である。母は元氏。幼名を龍子といい、風采や精神がさっぱりとしていて上品で、立ち居振る舞いには見習うべきものがあった。また、読書家で、達筆だった。従弟の盧思道幼名は釈奴と共に一門の英俊と謳われた。そこで幽州(盧氏の出身州)の人々はこう言葉を作って褒め称えた。
「盧家の千里(英俊)、釈奴・龍子。」
 十七歳の時(550)に東魏の〔太尉の〕済陰王暉業に召されて太尉参軍事・兼外兵参軍とされた。北斉が建国されると(550年〜)平恩令や太子舍人を歴任した。
 天保年間(550~559)に〔七兵〕尚書の王昕が清談によって誅殺されると(559年)、その弟たちがその気風を守り続けたものの、全体的には段々と衰えていった。昌衡は頓丘の李若・彭城の劉泰珉・河南の陸彦師・隴西の辛徳源・太原の王循)らと共に後進の風流の士と称された。
 のち〔右(左?)〕僕射(572~573?)の祖孝徴祖珽から推挙を受けて尚書金部郎とされた。孝徴はよくこう言った。
「盧子均(昌衡の字)を尚書郎としたから、幽州の人々に堂々と顔向けできるな。(祖珽も幽州の出身)。」
 その後、兼散騎侍郎とされ、北周の使者の迎接を任された。

○魏47盧道虔伝
 更娉元氏,生二子昌期、昌衡。
○隋57・北30盧昌衡伝
〔盧〕昌衡字子均。父道虔,魏尚書僕射。昌衡小字龍子,〔沈靖有才識,〕風神澹雅,容止可法,博涉經史,工草行書。從弟思道,小字釋奴,宗中俱稱英妙。故幽州為之語曰:「盧家千里,釋奴、龍子。」年十七,魏濟陰王元暉業召補太尉參軍事,兼外兵參軍。齊氏受禪,歷平恩令、太子舍人。尋為僕射祖孝徵所薦,遷尚書金部郎。孝徵每曰:「吾用盧子均為尚書郎,自謂無愧幽州矣。」〔始天保中,尚書王昕以雅談獲罪,諸弟尚守而不墜。自茲以後,此道浸微。昌衡與頓丘李若、彭城劉珉、河南陸彥師、隴西辛德源、王循並為後進風流之士。〕其後兼散騎侍郎,迎勞周使。
○北斉42盧昌衡伝
 懷仁從父弟昌衡,魏尚書左僕射道虔之子。武平末尚書郎。沉靖有才識,風儀蘊籍,容止可觀。天保中,尚書王昕以雅談獲罪,諸弟尚守而不墜,自茲以後,此道頓微。昌衡與頓丘李若、彭城劉泰珉、河南陸彥師、隴西辛德源、太原王脩並為後進風流之士。
○北100序伝
〔李〕超字仲舉,以字行於世。性方雅善制(文字の錯誤・脱漏あり?),白晳美鬚眉,高簡宏達,風調疏遠。博涉經史,不守章句業,至於吉凶禮制,親表咸取則焉。弱冠,仕齊為襄城王大司馬參軍事。時尚書左僕射元文遙以令長之徒,率多寒賤,奏請革選,妙盡高資。仲舉與范陽盧昌衡等八人,同見徵用。以仲舉為司州脩武令。仲舉莅以寬簡,吏人號曰寬明。于時昌衡為平恩令,百姓號曰恩明。故時稱盧、李恩寬之政。武平初,持節,使南定〔州〕。州人並是蠻左,接帶邊嶂。仲舉具宣朝旨,邊服清謐,朝廷大嘉之。還,授晉州別駕。

 ⑴元文遥…高文遥。字は徳遠。北魏の昭成帝の七世孫。五世祖は常山王遵。美男。幼い頃より聡明で、「王佐の才がある」「千里の駒」「穰侯の印を解き得る者」と評された。文宣帝時代に中書舍人や尚書祠部郎中とされ、元氏大虐殺の対象から除外された。孝昭帝が即位すると中書侍郎とされ、国家の重要事項の処理を任された。帝が亡くなると後事を託され、武成帝を迎え入れた。のち、財政を任された。566年、高姓を賜与された。568年、趙郡王叡と和士開と結託し、馮子琮を鄭州刺史に左遷した。569年、和士開を鄴から追放しようとしたが、逆襲を受けて西兗州刺史とされた。士開が死ぬと鄴に戻ったが、用いられることが無いまま寂しく死んだ。572年(3)参照。
 ⑵蒙籠…《読史方輿紀要》曰く、『武昌府(江夏)の東北百八十里→黄州府の西北百八十里→麻城県の北にある。』
 ⑶盧思道…字は子行。生年535、時に42歳。文才・弁才に優れていたが品行が良くなく、公金を横領したり、人を侮辱したりした。魏書が作られるとその内容を非難して鞭打たれた。文宣帝が亡くなると八首もの挽歌(哀悼の歌)が採用され、『八採盧郎』と称賛された。のち権力者の馮子琮の娘婿となり、給事黄門侍郎とされるなど破格の抜擢を受けた。571年(2)参照。
 ⑷済陰王暉業…字は紹遠。北魏の景穆太子晃の玄孫。若年の頃は不良で盗賊と交流を持ったが、成長すると心を入れ替えて書物を読み漁り、非常に優れた文才を有するに至った。529年に陳慶之が侵攻してくると兼行台尚書とされ、考城を守備したが敗れて捕らえられた。535年、司空とされ、544年に太尉とされた。また、特進・領中書監・録尚書事とされた。気骨があり、高澄の簒奪を遠回しに戒めた。北斉が建国されると美陽県公とされ、開府儀同三司・特進を歴任した。晋陽にて執筆活動に専念し、北魏東魏の藩王の系譜をまとめた《宗室録》四(三?)十巻を著し、《魏書》の資料となった。551年、文宣帝に睨まれ、殺害された。
 ⑸王昕…字は元景。名文家。前秦の苻堅の丞相の王猛の子孫。仙人のように飄々としていて、北魏末の混乱時には住民や邢子才を救い、孝武帝が殺された時には肥え太った体を痩せ衰えさせるなど、徳行に優れていたため楊愔から尊敬を受けて師と仰がれた。文宣帝に勝手気ままさを憎まれ、559年に斬首された。559年(4)参照。
 ⑹祖孝徴…祖珽。孝徴は字。名門の范陽祖氏の出。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の末に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。士開が死ぬと後宮の実力者の陸令萱に擦り寄り、572年、そのコネによって左僕射とされた。間もなく斛律光や高元海を排除して政治・軍事の実権を握った。間もなく陸令萱ら寵臣の排除を目論み、胡后一派と手を組んだが失敗し、中央から追放されて北徐州刺史とされ、そこで亡くなった。573年(5)参照。

●諸城鎮の制圧

 武帝は諸軍に周辺の制圧を命じた。
 これより前、大軍が晋州城を攻略していた時、趙王招宇文孝寛韋孝寛を行軍総管とし、華谷を攻囲してその支援をしていた。晋州城が陥落したのち、宇文仲方崔仲方)や段文振らはこれと協力して文侯・華谷・翼城などを攻め陥とした。
 ただ、東雍州(正平刺史の傅伏のみ、降伏勧告を受けてもこれを拒否し、徹底抗戦の構えを示した。後主が自ら晋州の救援にやってくると伏は行台右僕射とされた。北周は東雍州に侵攻したが、撃退された。
 武帝宇文孝寛を再び玉壁の鎮守に就かせた。

○周武帝紀
 又遣諸軍徇齊諸城鎮,並相次降款。
○周31韋孝寛伝
 及趙王招率兵出稽胡(汾州?),與大軍掎角,乃敕孝寬為行軍總管,圍守華谷以應接之。孝寬克其四城。武帝平晉州,復令孝寬還舊鎮。
○北斉41傅伏伝
 武平六年,除東雍州刺史,會周兵來逼,伏出戰,卻之。周剋晉州,執獲行臺尉相貴,以之招伏,伏不從。後主親救晉州,以伏為行臺右僕射。周軍來掠,伏擊走之。
○隋60崔仲方伝
 又令仲方說翼城等四城,下之。授儀同,進爵范陽縣侯。
○隋60段文振伝
 進拔文侯、華谷、高壁三城,皆有力焉。

 ⑴趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。去年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。576年(2)参照。
 ⑵韋孝寛…宇文孝寛。本名叔裕。生年509、時に68歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。576年(2)参照。
 ⑶文侯…《読史方輿紀要》曰く、『絳州(北斉の東雍州)の西五十五里→稷山県(玉壁の東北十三里)の西北にある。』
 ⑷翼城…《読史方輿紀要》曰く、『翼城県は平陽府の東南百三十里にある。また、絳州の東五十六里→曲沃県の東北七十里(或いは東五十五里)にある。』
 ⑸東雍州…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の南百五十里の絳州の治所である。』
 ⑹傅伏…太安(五原付近)の人で、父は北蔚州刺史の傅元興。若年の頃から戦場に出、戦功を立てて開府・永橋領民大都督にまで出世した。去年、北周が河陰に侵攻してくると中潬城を二十日に亘って守り抜き、北斉に勝利をもたらした。間もなく東雍州刺史とされると、北周の侵攻を再び退けた。575年(2)参照。

●鶏棲原の戦い


 北斉の援兵一万が千里径・汾水関に到った。
 汾水関の守将の宇文盛が早馬を出して斉王憲に急を知らせると、憲は千騎を率いて救援に駆けつけた。斉兵は谷中に土煙が上がったのを見て〔救援がやってきたと思い、〕慌てて退却を開始した。盛は柱国の侯莫陳芮と共に汾水を渡って追撃し、多数の首級と捕虜を得た。
 間もなく鶏棲原の守将の永昌公椿から斉軍が迫ってきたとの報を受けると、憲は軍を返してその救援に赴いた。
 癸酉(28日)後主が鶏棲原を攻めた。
 憲は後主の軍と睨み合うだけで戦おうとはしなかった。
 この時、北斉軍は集結したばかりで意気盛んだった。武帝は一時退却してその鋭鋒を避けることに決め、憲に陣を引き払って殿軍となるよう命じた。
 憲と椿はこの命を受けると、夜陰に紛れて鶏棲原から撤退した。斉兵は栢で作った小屋が帳幕だと思っていたため、これに気づかなかった。
 甲戌(29日)、ようやく周軍の撤退を悟った。後主は〔鶏棲原を占拠したのち、〕高阿那肱に前軍の指揮権を与えて〔平陽に〕先行させた。諸軍の指揮権は依然として自分が握り続けた。

 北斉の開府・洛州(洛陽)刺史・臨川王の独孤永業は三万の兵を指揮下に置いており、晋州の陥落の報を聞くと、北上して周軍を攻撃する許可を朝廷に求めたが、その上奏文は捨て置かれ、返事が来ることは無かった。永業はこの対応に憤慨した。

○周武帝紀
 齊主自幷州率眾來援。帝以其兵新集,且避之,乃詔諸軍班師,遣齊王憲為後拒。
○北斉後主紀
 癸酉,帝列陣而行,上雞棲原,與周齊王憲相對,至夜不戰,周師斂陣而退。
○周12斉煬王憲伝
 齊主聞晉州見圍,乃將兵十萬,自來援之。時柱國、陳王純頓軍千里徑,大將軍、永昌公椿屯雞棲原,大將軍宇文盛守汾水關,並受憲節度。…時齊主分軍萬人向千里徑,又令其眾出汾水關,自率大兵與椿對陣。宇文盛馳騎告急,憲自以千騎救之。齊人望谷中塵起,相率遽退。盛與柱國侯莫陳芮涉汾逐之,多有斬獲。俄而椿告齊眾稍逼,憲又回軍赴之。會椿被勑追還,率兵夜返。齊人果謂栢菴為帳幕也,不疑軍退,翌日始悟。
○北斉41独孤永業伝
 有甲士三萬,初聞晉州敗,請出兵北討,奏寢不報,永業慨憤。
○北斉50高阿那肱伝
 及軍赴晉州,令肱率前軍先進,仍總節度諸軍。
○隋48楊素伝
 明年,復從憲拔晉州。憲屯兵雞棲原,齊主以大軍至,憲懼而宵遁。

 ⑴宇文盛…字は保興。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。570年に大宗伯、573年に少師とされた。576年(2)参照。
 ⑵斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に33歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。576年(2)参照。
 ⑶侯莫陳芮…故・柱国の侯莫陳崇の子。梁国公を継ぎ、571年に柱国とされた。575年の東伐の際には一万の兵を与えられ、太行道の守備を命ぜられた。575年(2)参照。
 ⑷永昌公椿…字は乾寿。宇文導(晋公護の兄)の第四子。杞公亮の弟。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。575年、東伐が行なわれると斉王憲と共に武済など五城を陥とした。576年(2)参照。
 ⑸楊素伝には『後主が大軍を率いて鶏棲原に到ると、斉王憲は恐懼し、夜陰に紛れて遁走した』とある。
 ⑹高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年に北周が洛陽に攻めてくると救援に赴いた。576年(2)参照。
 ⑺独孤永業…字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長け、晋陽(覇府)の宿衛(近衛兵)とされた。のち、高澄から抜擢を受け、中外府外兵参軍とされた。天保元年(550)に中書舍人・豫州司馬とされた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。564年に北周が洛陽に攻めてくると防衛の指揮を執り、北斉軍の到着まで良く守り抜いた。のち、斛律光と対立し、565年に都に呼び戻されて太僕卿とされた。572年、北道行台僕射・幽州刺史とされ、前任の斛律羨の逮捕に赴いた。間もなく領軍将軍とされた。のち再び河陽道行台僕射・洛州刺史とされ、575年に北周が洛陽に攻めてくるとまたも援軍の到着まで良く守り抜き、開府・臨川王とされた。575年(2)参照。

●撤退
 武帝が全軍に撤退命令を発しようとした時、開府儀同大将軍・化政郡公の宇文忻が諌めて言った。
「陛下の素晴らしき智力と武勇を以て、敵の無秩序・無軌道に乗ずれば、勝たない事はありません! もし斉人が名君を得、君臣が団結してしまえば、湯王や武王のような勢いがあっても討平は困難なものとなります。〔しかし〕今の斉は君主も臣下も暗愚で、兵には闘志がありません。これでは、たとえ彼らが百万の大軍を率いてきたとしても、陛下への献上品(格好の餌食)となるだけなのであります。」
 軍正で京兆の人の王韶もこう言った。
「斉は綱紀を失うこと二代に亘り、天が〔綱紀が粛然としている〕王室(北周)を佑けた結果、我らはたった一戦で斉の喉元を押さえるに至りました。また、斉は上は君主が暗愚で、下は人民が恐懼している始末。〔これはまさに〕乱れ滅びかかった国というもので、これを手中とする時はまさに今日なのです。その絶好の機会を捨てて去るのは、愚かで頭の固い臣には到底理解のできぬ事であります。どうか階下、よくよく考え直されますように。」
 帝は大いに喜び、韶に縑(かとり。二本の生糸を合わせた糸で、細かく織った絹布)百疋を与えたが、考えを変えることはなかった。

 忻(生年523、時に54歳)は字を仲楽といい、北周の大司馬・許国公の宇文貴の子である。幼い頃から利発で、他の子どもたちと兵隊ごっこをした時、統制の取れた部隊を作って指揮したため有識者に一目置かれた。十二歳の時には早くも左右どちらからでも騎射する事ができ、身のこなしは軽快でまるで空を飛んでいるかのようだった。よく親しい者にこう言った。
「古の名将として韓信・白起・衛青・霍去病の四人の名が良く挙げられるが、自分の見る所、皆そこまで尊敬するほどではない。もし自分が同じ時代に生まれていたら、こんな青二才たちに名声を独り占めにはさせなかっただろう。」
 その血気盛んぶりはこのようであった。
 十八歳の時(540年)に斉王憲の突厥討伐に参加して功を立て、儀同三司・興固県公とされた。韋孝寛宇文孝寛)が玉壁の鎮守を任されると(542年)、勇猛さを見込まれて同行を求められ、そこで数多くの戦功を立てて開府・驃騎〔大〕将軍・化政郡公(邑二千戸)とされた。

 韶は字を子相といい、太原晋陽の王氏を自称し、代々京兆に居住した。祖父の王諧は原州刺史となり、父の王諒は早くに亡くなった。韶は幼い頃から生真面目で、他人に真似のできぬような行ないを非常に好み、有識者から一目置かれた。北周に仕えて数多くの軍功を立て、車騎大将軍・儀同三司とされ、のち軍正とされた。

○資治通鑑
 軍正京兆王韶曰:「…正在今日。釋之而去,臣所未諭。」周主雖善其言,竟引軍還。
○周武帝紀
 齊主自幷州率眾來援。帝以其兵新集,且避之,乃詔諸軍班師,遣齊王憲為後拒。
○隋40宇文忻伝
 宇文忻字仲樂,本朔方人,徙京兆。祖莫豆于,周安平公。父貴,周大司馬、許國公。忻幼而敏慧,為兒童時,與羣輩遊戲,輒為部伍,進止行列,無不用命,有識者見而異之。年十二,能左右馳射,驍捷若飛。恒謂所親曰:「自古名將,唯以韓、白、衞、霍為美談,吾察其行事,未足多尚。若使與僕並時,不令豎子獨擅高名也。」其少小慷慨如此。年十八,從周齊王憲討突厥有功,拜儀同三司,賜爵興固縣公。韋孝寬之鎮玉壁也,以忻驍勇,請與同行。屢有戰功,加位開府、驃騎將軍,進爵化政郡公,邑二千戶。從武帝伐齊,攻拔晉州。齊後主親馭六軍,兵勢甚盛,帝憚之,欲旋師。忻諫曰:「以陛下之聖武,乘敵人之荒縱,何往不克!若使齊人更得令主,君臣協力,雖湯、武之勢,未易平也。今主暗臣愚,兵無鬬志,雖有百萬之眾,實為陛下奉耳。」
○隋62王韶伝
 王韶字子相,自云太原晉陽人也,世居京兆。祖諧,原州刺史。父諒,早卒。韶幼而方雅,頗好奇節,有識者異之。在周,累以軍功,官至車騎大將軍、儀同三司。復轉軍正。武帝既拔晉州,意欲班師,韶諫曰:「齊失紀綱,於茲累世,天奬王室,一戰而扼其喉。加以主昏於上,民懼於下,取亂侮亡,正在今日。方欲釋之而去,以臣愚固,深所未解,願階下圖之。」帝大悅,賜縑一百匹。

 ⑴宇文貴…字は永貴。?~567。宇文泰に一族に準ずる扱いを受けた。音楽と囲碁を好み、気前が良く、才能のある者を尊重した。537年の潁川の戦いにて東魏の大軍を大破した。のち、宕昌の乱・楊辟邪の乱を平定した。554から557年まで益州刺史を務め、武断政治を行なった。北周が建国されると柱国とされた。559年、吐谷渾の討伐に赴き、帰還したのち許国公とされた。564年、大司徒とされ、のち太保とされた。565年、可汗の娘を迎えるために突厥に赴いたが、抑留された。のち帰国を許されたが、567年、帰国の途上で病死した。567年(3)参照。
 ⑵斉王憲の突厥討伐…このとき憲はまだ生まれていない。李弼の白額稽胡討伐の誤りか?

●梁士彦
 この日、帝は上開府儀同大将軍・熊州(宜陽。洛陽の西南七十里)刺史の梁士彦を使持節・晋絳二州諸軍事・晋州刺史とし、大将軍を加官し、精兵一万を与えて晋州を鎮守させた。

 士彦(生年515、時に62歳)は字を相如といい、安定烏氏の人である。若い頃は不良で州郡に仕えず、剛毅果断な性格で悪人を懲らしめる事を好んだ。また、読書家で、特に兵法書を好んだ。北周の時に軍功によって儀同三司・扶風郡守とされた。のち、勇猛果断さを耳にした武帝によって九曲(洛陽の西南)鎮将・上開府・建威県公とされると、斉人を非常に恐れ憚らせた。のち熊州刺史とされた。

 士彦は以前からもと北斉の晋州別駕の李仲挙の評判を耳にしていたので、引見して時事について議論した。すると仲挙はこう言った。
「私は代々山東(華北の東半部)に暮らした家の出で、高氏(北斉)に恩を受けております。今、国の綱紀が乱れ、侵攻を受けて捕らえられ、臣道に殉じて死ぬ事ができなかったとはいえ、どうしてさような議論をする事ができましょうか。」
 士彦は言った。
「百里奚・李左車という前例がある。私も彼らのような良い意見を聞きたい。」
 そこで仲挙はやむなくこう言った。
「今、官軍は吊民伐罪(虐げられた人民を慰め,罪のある支配者を討伐する)を旗印として遠方より征伐の軍を起こしたからには、まず人民に恩沢を及ぼし、それからそれとなく武力を示して畏服せしめるのが良いと思います。このように至聖(寛容)の情を明らかにしたのち、広く帰属を促す使者を送れば、到る所で帰順する者が現れる事でしょう。これこそいわゆる『王者の軍は、戦わずして勝利を収めることができる』というものであります。」
 士彦は大いにこれに納得し、以後ますます尊重するようになった。
 晋州城は陥落した当初、官民共にめちゃくちゃとなり、戸籍や帳簿などの記録の多くが散逸した。仲挙は士彦に全権を委ねられると、これらを調べ直して完璧に作り直した。これは大いに軍の助けとなった。

○周武帝紀
 甲戌,以上開府梁士彥為晉州刺史,加授大將軍,留精兵一萬以鎮之。
○周31梁士彦伝
 梁士彥字相如,安定烏氏人也。少任俠,〔不仕州郡。性剛果,喜正人之是非。〕好讀兵書,頗涉經史。周〔世以軍功拜儀同三司。〕武帝將平(有事)東夏,聞其勇決,自扶風郡守除為九曲鎮將,進位上開府,封建威縣公。齊人甚憚之。
 後以熊州刺史從武帝拔晉州,進位大將軍(柱國),除〔使持節、晉絳二州諸軍事、〕晉州刺史。
○北100序伝
 城尋破,周將梁士彥素聞仲舉名,引與言及時事。仲舉曰:「世居山東,受恩高氏,今國維不張,遠勞師眾,不能死於臣道,豈敢干非其議。」士彥曰:「百里、左車,不無前事,想亦得之。」見逼不已,仲舉乃曰:「今者官軍遠來,方申弔伐,當先德澤,遠示威懷,明至聖之情,弘招納之略,令所至之所,歸誠有地,所謂王者之師,征而不戰也。」士彥深以為然,益相知重。初,城敗之後,公私蕩然,軍人簿帳,悉多亡毀,戶口倉儲,無所憑據。事無大小,士彥一委仲舉,推尋勾當,絲髮無遺,於軍用甚有助焉。

 ⑴百里奚・李左車…百里奚は虞の大夫で、虞が滅ぶと晋の奴隷となった。のち花嫁の召使いとして秦に行き、そこで才能を認められて宰相とされ、秦の国力充実に貢献した。李左車は趙の広武君で、韓信が趙を滅ぼした際捕らえられ、燕・斉の討伐方法を尋ねられると「敗軍の将は勇を語らない」と言って断ったが、強く求められるとやむなく方策を述べた。

●黄法氍の死
 この月、陳の都督豫建光朔合北徐六州諸軍事・征西大将軍・豫州(寿陽)刺史・義陽郡公の黄法氍が亡くなった(享年59)。侍中・中権大将軍・司空を追贈し、威と諡した。

○陳11黄法氍伝
 八年十月,薨,時年五十九。贈侍中、中權大將軍、司空,諡曰威。

 ⑴黄法氍…字は仲昭。生年518、時に59歳。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと巴山に割拠した。のち陳覇先に付き、556年、高州刺史とされた。557年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍の撃破や親王琳派の熊曇朗の討伐に貢献した。563年、南徐州刺史→江州刺史とされた。565年に中衛大将軍とされ、567年に南徐州刺史、568年に郢州刺史、570年に中権大将軍とされた。572年、征南大将軍・南豫州刺史とされた。北伐が行なわれると西道方面の攻略を任され、合肥を陥とした。間もなく都督合霍二州諸軍事・征西大将軍・合州刺史とされた。575年、都督豫建光朔合北徐六州諸軍事・豫州刺史とされた。575年(1)参照。

●撤退戦
 斉王憲は撤退中、晋州城北にて宇文神慶と共に軽騎を率いて偵察に出た。その時、突然北斉の勇将の賀蘭豹子率いる精鋭の騎馬隊と遭遇し、攻撃を受けた。憲軍は敗れ、四分五裂の状態に陥ったが、宇文徹李徹楊素・神慶ら勇将十余人が力戦したため、憲は辛くも逃れることができた。
 神慶は汾橋(高梁橋?)に退いて防戦した。斉兵が争って進んでくると、神慶は弓を引いてこれを次々と射斃した。すると斉兵はやむなくやや退いた。
 高阿那肱の軍が高梁橋(平陽の東北三十七里)に到った。憲は精騎二千を率い、汾水を隔てて陣を布いた。北斉の領軍の段暢が橋に一番に到着した。憲は汾水を隔てて暢を呼び、話を交わした。話が終わると、憲は暢にこう尋ねて言った。
「お前の名前は何というか。」
 暢は言った。
「領軍の段暢である。貴公こそ誰か?」
 憲は言った。
「私はただの虞候大都督(斥候隊長)に過ぎぬ。」
 暢は言った。
「貴公の話しぶりを見るに、只者とは思われない。今日こうして対面したのに、どうして名前と官位を隠したりするのか?」
 この時、陳王純、梁国公の侯莫陳芮、内史〔・楊国公〕の拓王誼王誼らが憲の傍にいた。暢が固く憲に本当の名前と官位を尋ねると、憲はやむなくこう言った。
「私は天子の太弟(天子の弟)の斉王である。」
 また、陳王らに指を差し、彼らの名前と官位も暢に告げた。暢が馬に鞭をくれて去ると、憲は直ちに軍に撤退命令を出したが、北斉軍の急追に遭って激しい戦闘となった。憲は開府の宇文忻とそれぞれ精兵百騎を率いて殿軍を務め、勇将の賀蘭豹子山褥瑰ら百余人を斬って撃退に成功した。憲は汾水を渡り、玉壁にて武帝と合流した。
 阿那肱らは晋州城の包囲を開始した。
 11月、戊寅(3日)後主率いる本隊が平陽(晋州城)に到った。

○周武帝紀
 十一月己卯,齊主自幷州率眾來援。帝以其兵新集,且避之,乃詔諸軍班師,遣齊王憲為後拒。是日,齊主至晉州,憲不與戰,引軍度汾。齊主遂圍晉州。
○北斉後主紀
 十一月,周武帝退還長安,留偏師守晉州。高阿那肱等圍晉州城。戊寅,帝至圍所。
○周12斉煬王憲伝
 時高祖已去晉州,留憲為後拒。齊主自率眾來追,至於高梁橋。憲以精騎二千,阻水為陣。齊領軍段暢直進至橋。憲隔水招暢與語,語畢,憲問暢曰:「若何姓名?」暢曰:「領軍段暢也。公復為誰?」憲曰:「我虞候大都督耳。」暢曰:「觀公言語,不是凡人,今日相見,何用隱其名位?」陳王純、梁公侯莫陳芮、內史王誼等並在憲側。暢固問不已。憲乃曰:「我天子太弟齊王也。」指陳王以下,並以名位告之。暢鞭馬而去,憲即命旋軍,而齊人遽追之,戈甲甚銳。憲與開府宇文忻各統精卒百騎為殿以拒之,斬其驍將賀蘭豹子、山褥瓌等百餘人,齊眾乃退。憲渡汾而及高祖於玉壁。
○隋48楊素伝
 憲屯兵雞棲原,齊主以大軍至,憲懼而宵遁,為齊兵所躡,眾多敗散。素與驍將十餘人盡力苦戰,憲僅而獲免。
○隋50宇文慶伝
 復從武帝拔晉州。其後齊師大至,慶與宇文憲輕騎而覘,卒與賊相遇,為賊所窘。憲挺身而遁,慶退據汾橋,眾賊爭進,慶引弓射之,所中人馬必倒,賊乃稍却。
○隋54李徹伝
 後從帝拔晉州。及帝班師,徹與齊王憲屯雞栖原。齊主高緯以大軍至,憲引兵西上,以避其鋒。緯遣其驍將賀蘭豹子率勁騎躡憲,戰於晉州城北。憲師敗,徹與楊素、宇文慶等力戰,憲軍賴以獲全。

 ⑴宇文神慶…本名は慶といい、神慶は字。宇文顕和の子で、清河公神挙の弟。冷静沈着で器量があり、若年の頃から聡明なことで名を知られた。また、壮志があって武芸の腕前が人並み外れ、弓を得意とした。また、度胸があり、虎と格闘することを好んだ。事務仕事を嫌って槍働きを志願し、文州の住民が叛乱を起こすと(560年?)その討伐に参加し、奇襲して撃破した。その功により都督とされた。衛公直が山南を治めるようになると(565年)、その側近とされた。のち次第に昇進して儀同三司・柱国府掾とされ、武帝が晋公護を誅殺する際、その計画に関与した。成功すると開府とされた。575年(2)参照。
 ⑵宇文徹(李徹)…字は広達。柱国の宇文意(李意)の子。剛毅な性格で才幹を有し、立派な容貌をしていて、多くの武芸に巧みだった。大冢宰の晋公護に用いられて親信とされ、殿中司馬→奉車都尉(儀仗職)とされた。控えめ・温厚なうえ才能もあったため、護から非常な礼遇を受け、子の中山公訓を蒲州刺史とする際、随行を命ぜられた。間もなく儀同三司とされた。今年、吐谷渾討伐に赴いた。576年(1)参照。
 ⑶楊素…字は処道。生年544、時に33歳。故・汾州刺史の楊敷の子。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。西魏の尚書僕射の楊寛に「傑出した才器の持ち主」と評された。多くの書物を読み漁り、文才を有し、達筆で、風占いに非常な関心を持った。髭が美しく、英傑の風貌をしていた。 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。のち礼曹参軍とされ、大都督を加えられた。武帝が親政を始めると死を顧みずに父への追贈を強く求め、許された。のち儀同とされた。詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げ、しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だったため、帝から絶賛を受けた。575年の北斉討伐の際には志願して先鋒となった。575年(2)参照。
 ⑷段暢…開府。瀛州刺史の婁定遠に南安王思好と内通した疑いが出た時、三千騎を率いてこれを急襲するよう命ぜられた。
 ⑸陳王純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州(天水)総管とされた。570年、陝州(弘農)総管とされ、田弘と共に宜陽の攻略に向かった。574年、王とされた。575年の北斉討伐の際には前一軍総管とされた。576年の北斉討伐の際にも前軍とされ、二万の兵を率いて千里径を守備した。576年(2)参照。
 ⑹拓王誼(王誼)…字は宜君。生年540、時に37歳。父は北周の大将軍・鳳州刺史の拓王顕(王顕)、従祖父は開府・太傅の拓王盟(王盟。宇文泰の母の兄)。 若年の頃から文武に優れた。北周の孝閔帝の時に左中侍上士とされ、大冢宰の晋公護が実権を握っている時でも帝を尊重した。のち、御正大夫とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細った。のち雍州別駕(次官)とされた。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫・楊国公とされた。575年の北斉討伐の際には事前に帝に計画を相談された。576年の北斉討伐の際には六軍の監督を任され、晋州城を攻めた。576年(2)参照。
 ⑺周武帝紀には『己卯(4日)』の事とする。今は北斉後主紀の記述に従った。

●平陽の戦い


 後主が自ら六軍を率いて平陽を攻囲した。この時、平陽は周囲に友軍も無く孤立しており、城内の動揺は激しかったが、梁士彦は烈々たる闘志を失わず、平然としていた。
 戦闘が始まると平陽城は北斉軍の猛攻により櫓も姫垣(城壁の上にある凸状の防御設備)もみな破壊され、城壁はたった六・七尺の高さ(人の身長並み)を残すのみとなり、あちこちで白兵戦が繰り広げられ、騎馬隊の侵入すら許す苦境に陥った。しかし、士彦は泰然として将兵にこう言った。
「我らの死ぬ日は今日である! 私がお前たちの良き手本となってみせよう!」
 ここにおいて将兵たちの覚悟は定まって一斉に奮い立ち、地を震わすほどの鬨の声を上げ、百人に敵する事ができるほどの勇戦ぶりを示した。北斉軍が堪らずやや退却すると、士彦はその間に自分の妻妾や軍民の子女さえも動員して昼夜突貫で城の修理を行ない、三日で元通りにしてみせた。

 この時、武帝斉王憲に六万の兵を授け、晋州城を救援させた。憲は涑川まで進軍した。この時、間諜のある者が城は既に陥ちたと告げた。憲はそこで柱国の越王盛・〔上柱国〕大将軍の尉遅迥・上開府の宇文雄劉雄・開府の清河公神挙らに軽騎一万を与え、夜陰に紛れて晋州にまで到らせ、〔様子を確認させ〕た。憲自らは蒙坑にまで進軍して遠くからこれを支援した。宇文雄は千の兵を率いて晋州城近くに到り、〔城がまだ陥ちていない事を知ると、〕軍鼓や角笛を鳴らして遥か遠くの城中に援軍が来たことを知らせた。憲は報告を聞くと涑川に帰還し〔、帝率いる本隊の到着を待っ〕た。
 
 北斉軍は坑道を掘って地下から平陽攻めを行なった。これにより十余步の範囲の城壁が崩落した。将兵はこれに乗じて攻め込もうとしたが、後主の命によって止められた。城が陥落する様を馮淑妃と観たいため、淑妃が来るまで攻撃を止めさせたのだった。しかし、淑妃は化粧に時間をかけ、すぐには来なかった。北周軍はその間に木材を用いて崩落箇所を塞いだ。そのため、北斉軍の攻撃は頓挫した。
 これより前、民間では、晋州城の西にある石の上に聖人の跡があると言い伝えられていた。淑妃はこれを観に行こうとした。〔その石に行くには汾水に架かる橋を渡る必要があった。〕帝は弩の矢が橋に届く事を恐れ、攻城用の木材を使って晋州城の遠くに橋を造らせた。この時、監作舍人(工事担当官)は工事が遅いのを理由に処罰を受けた。〔橋が完成すると、〕帝は淑妃と一緒に橋を渡ろうとしたが、橋は壊れてしまった。〔工兵が急いで橋を修理したが、〕夜になっても終わらないため、帝は諦めて引き返した。

 河東で地震があった。

 乙酉(10日)、陳が平北将軍・合州(合肥)刺史の長沙王叔堅を平西将軍・郢州(江夏)刺史とした。

○周武帝紀
 齊主遂圍晉州,晝夜攻之。齊王憲屯諸軍於涑水,為晉州聲援。河東地震。
○陳宣帝紀
 冬十一月乙酉,以平南將軍、湘州刺史長沙王叔堅為平西將軍、郢州刺史。
○周12斉煬王憲伝
 高祖又令憲率兵六萬,還援晉州。憲遂進軍,營于涑水。齊主攻圍晉州,晝夜不息。間諜還者,或云已陷。憲乃遣柱國越王盛、大將軍尉遲迥、開府宇文神舉等輕騎一萬夜至晉州。憲進軍據蒙坑,為其後援,知城未陷,乃歸涑川。
○周29劉雄伝
 其年,大軍東討,雄從齊王憲拔洪洞,下永安。軍還,仍與憲廻援晉州。未至,齊後主已率大兵親自攻圍,晉州垂陷。憲遣雄先往察其軍勢。雄乃率步騎千人,鳴皷角,遙報城中。
○周31梁士彦伝
 及帝還〔後〕,齊後主親〔總六軍而〕攻圍之,〔獨守孤城,外無聲援,眾皆震懼,士彥慷慨自若。賊盡銳攻之,〕樓堞皆盡,〔城雉所存,尋仞而已。或〕短兵相接〔,或交馬出入〕。士彥慷慨自若,謂將士曰:「死在今日,吾為爾先!」於是勇猛齊奮,號聲動天(地),無不一當百。齊兵(師)少卻,乃令妻〔妾〕及軍人(民)子女,晝夜修城,三日而就。
○北14馮淑妃伝
 及帝至晉州,城已欲沒矣。作地道攻之,城陷十餘步,將士乘勢欲入。帝敕且止,召淑妃共觀之。淑妃粧點,不獲時至。周人以木拒塞,城遂不下。舊俗相傳,晉州城西石上有聖人跡,淑妃欲往觀之。帝恐弩矢及橋,故抽攻城木造遠橋,監作舍人以不速成受罰。帝與淑妃度橋,橋壞,至夜乃還。

 ⑴越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。去年の北斉討伐の際、後一軍総管とされた。今年の北斉討伐の際には右一軍総管とされた。576年(2)参照。
 ⑵尉遅迥…字は薄居羅。宇文泰の姉の子。生年516、時に61歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年、隴右の鎮守に赴いた。559年に蜀国公、562年に大司馬とされた。564年、洛陽攻めの総指揮官となったが、包囲が破られると数十騎を率いて殿軍を務めた。568年に太保とされ、のちに太傅とされた。572年に太師、575年に上柱国ととされた。575年(3)参照。
 ⑶宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮子城の人。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、宇文氏の姓を与えられた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。569年に兼斉公憲府掾とされ、北斉が盟約を破って宜陽に攻めてくるとその軍中に使者として赴き、約を違えたことを堂々と責め立てた。のち兼中外府掾・開府儀同三司とされた。570年、稽胡を綏州にて撃破した。汾北の戦いでは軍が総崩れする中、塹壕に留まって奮戦した。572年に納言、573年に内史・候正とされ、のち出身の河州の刺史とされた。575年、李穆の指揮のもと軹関などを陥とした。576年、吐谷渾討伐の際、二十の兵で七百余を破るなど多大な戦功を挙げ、上開府とされた。北斉討伐の際には斉王憲の指揮のもと洪洞・永安を陥とした。576年(1)参照。
 ⑷清河公神挙…生年532、時に45歳。儀同三司の宇文顕和の子。554年に父を喪うと族兄の安化公深に養育され、成人すると、才気煥発・眉目秀麗・堂々たる体躯の立派な青年となった。詩文を趣味としていたことで明帝と意気投合し、いつも一緒に外出した。564年、開府儀同三司とされ、566年に右宮伯中大夫・清河郡公とされた。572年、武帝から護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。のち、京兆尹とされた。574年、熊州刺史とされた。576年、陸渾など五城を陥とした。576年(1)参照。
 ⑸蒙坑…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の南百二十里(或いは翼城県の西五十五里・絳州〈北斉の東雍州〉の東五十六里)→曲沃県の東北五十里にある。西に喬山と接する。』
 ⑹馮淑妃…名を小憐といい、もと穆后の侍女。后によって五月五日に帝に進上され、この経緯から『続命』と呼ばれた。聡明で琵琶や歌舞が上手だったため、帝に非常に気に入られて淑妃とされ、常にその傍に侍った。576年(2)参照。
 ⑺長沙王叔堅…字は子成。宣帝の第四子。母は酒家の下女の何淑儀。幼少の頃から悪賢く、乱暴で非常に酒癖が悪かったので兄弟たちから距離を置かれた。占いごとや風占い・お祓いなど神秘的なものを好み、金や玉の加工の技を極めた。天嘉年間(560~566)に豊城侯とされ、569年、長沙王・呉郡太守とされた。572年、宣毅将軍・江州刺史とされた。575年、雲麾将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。576年、平北将軍・合州刺史とされた。576年(1)参照。


 576年(4)に続く