[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]

不良太子

 当時、北周の太子贇は多くの不祥事を起こしていた。内史中大夫の烏丸軌王軌は事あるごとに武帝に太子を廃して秦王贄を新しい太子とするよう勧めた。太子は常に不安を覚え、西征の際、密かに宮尹[1]宇文訳鄭訳にこう言った。
「秦王は主上(武帝)の愛子であり、烏丸軌は主上の信臣である。今、自分が西征に行ったら、扶蘇の二の舞になったりしないだろうか?」
 訳は言った。
「仁孝の行ないに励み、子の道に外れぬようにするだけで大丈夫です。他の事は一切考えなさらぬよう。」
 太子はこれを聞き入れた。
 当時、太子贇宇文訳・王端らを寵用していた。太子は軍中で数々の問題行動を起こしたが、訳らはその全てに関与した。
 軍が帰還すると、〔お目付け役の〕烏丸軌王軌)と安化公孝伯がこの事を帝に報告した。すると帝は激怒し、太子と訳らを鞭打ち、訳らの官爵を剥奪した。また、東宮の家臣のうち重用されていた者にもみな譴責を加えた。ただ、侍読の顔之儀のみ、軍中にてたびたび太子に諫言していた事を以て褒賞を加え、小宮尹・平陽県男(邑二百戸)とした。
 これ以後、太子は烏丸軌らを非常に憎むようになった。
 のち、太子は再び訳を召し寄せると、以前のようにまた馴れ馴れしくふざけ合った。ある時、訳は太子にこう言った。
「殿下はいつ天子となられるのですか?」
 太子はこれを聞くと非常にいい気分になり、以後ますます訳と馴れ親しむようになった。のち、訳は規則にのっとって復官し、吏部下大夫とされた。

○周40王軌伝
 時宮尹鄭譯、王端等竝得幸帝。帝在軍中,頗有失德,譯等皆預焉。軍還,軌等言之於高祖。高祖大怒,乃撻帝,除譯等名,仍加捶楚。帝因此大銜之。
○周40顔之儀伝
 高祖初建儲宮,盛選師傅,以之儀為侍讀。太子後征吐谷渾,在軍有過行,鄭譯等竝以不能匡弼坐譴,唯之儀以累諫獲賞。即拜小宮尹,封平陽縣男,邑二百戶。
○周35・隋38・北35鄭訳伝
 時太子多失德,〔內史中大夫烏丸軌每勸帝廢太子而立秦王,由是太子恒不自安。其後詔〕太子西征〔吐谷渾,太子乃陰謂譯曰:「秦王,上愛子也。烏丸軌,上信臣也。今吾此行,得無扶蘇之事乎?」譯曰:「願殿下勉著仁孝,無失子道而已。勿為他慮。」太子然之。既破賊,譯以功最,賜爵開國子,邑三百戶。後坐褻狎皇太子,〕王(烏丸)軌、宇文孝伯等以聞,高祖大怒,宮臣親幸者,咸被譴責,譯坐除名。〔太子復召譯,戲狎如初。因言於太子曰:「殿下何時可得據天下?」太子悅而益昵之。〕後例復官,仍拜吏部下大夫。

 ⑴太子贇…字は乾伯。生年559、時に18歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。叱奴太后が亡くなって帝が喪に服すと、五十日に亘って政治を代行した。その後も帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。今年、吐谷渾の討伐に赴いた。576年(1)参照。
 ⑵烏丸軌(王軌)…祖先は代々州郡の冠族の出で、北魏に仕えると烏丸氏の姓を賜り。のち北鎮に移って四代に亘って居住したという。父は北周の開府儀同三司・上黄郡公の烏丸光(王光)。真面目で正義感が強く、沈着冷静で見識があった。輔城公時代の武帝に仕え、帝が即位すると非常な厚遇を受け、腹心とされた。のち、晋公護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。護が誅殺されると内史中大夫(中書令?)・開府儀同三司とされ、国政にみな参与した。今年、太子贇が吐谷渾の討伐に赴くと、そのお目付け役とされた。576年(1)参照。
 ⑶武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に34歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年(1)参照。
 ⑷秦王贄…字は乾信。母は厙汗姫。武帝の第三子。秦国公とされ、574年に王とされた。
 [1]宮尹…太子宮尹。恐らく太子詹事(東宮内外の事務を取り仕切る)の職であろう。
 ⑸宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に37歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。  輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕え、非常に気に入られた。573年、副使として北斉に赴いた。今年、贇と共に吐谷渾の討伐に赴いた。576年(1)参照。
 ⑹扶蘇の二の舞…扶蘇は秦の始皇帝の長子。北境の監督に赴いている間に讒言を受け、自決させられた。
 ⑺安化公孝伯…宇文孝伯。字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に34歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。のち東宮左宮正とされ、太子贇の匡正を任された。573年(3)参照。
 ⑻顔之儀…字は子升。北斉の黄門侍郎の顔之推の弟。読書家で、詞賦作りを好んだ。梁の元帝に仕え、西魏が江陵を陥とすと兄と共に長安に連行された。北周の明帝の時(557~560)に麟趾学士とされ、のち司書上士とされた。武帝が太子を立てると(572年)侍読とされた。

太子を廃せず

 帝は太子が皇帝の重任に堪えられないのではないかと心配し、非常に厳しく接した。朝見の時は太子の待遇は臣下と変わりないものとし、酷寒の時も酷暑の時も休息を与えなかった。太子が酒好きなのを知れば東宮に酒を入れるのを禁じ、太子が何か過失を犯せばそのつど鞭打ちを加えた。ある時、帝は太子にこう言った。
「古来より、廃された太子は何人もいる。お前の弟たちも太子に立てられる権利が充分にあるのだ。」
 以降、帝は東宮の官吏に太子の言行を記録させ、毎月報告させた。太子は帝の威厳を恐れはばかり、うわべを装って叱られないように努めたので、過失は帝の耳に入らなくなった。

 烏丸軌王軌)はあるとき小内史の賀若弼に太子が吐谷渾討伐中に多くの不祥事を起こしていた事を告げ、太子は皇帝の重任に絶対に堪えられないと言った。弼は頗るこれに同意し、軌にこの事を帝に述べるように言った。軌はのちに帝と陪席した時、帝にこう言った。
「皇太子は仁(思いやり)や孝(親思い)の行ないをせず、不道徳な行ないばかりをしており、国を滅ぼしてしまう恐れがあります。ただ、臣は愚昧でありますゆえ、臣の意見は陛下の判断材料にはならないでしょう。しかし、陛下が常に文武の奇才と評している賀若弼も、臣と同意見なのであります。」
 帝はそこで弼を呼んで真偽を尋ねた。すると弼は嘘をついてこう言った。
「皇太子は東宮にて人格の陶冶に努めておられ、私は太子の過失を一切聞いたことがありません。一体陛下は誰からそのような事を聞かれたのですか?」
 帝は口を噤んで黙りこくった。弼が部屋を退出すると、軌は弼を責めてこう言った。
「私たちは普段から隠し事をしない仲ではないか。それなのに、なぜ君は今、陛下の前でいきなり態度を翻したりしたのか?」
 弼は答えて言った。
「これは自分の過ちではなく、貴公の過ちだ。皇太子は国の後継者であり、軽々しく批評できるような存在では無いのだ。もし太子を非難して代える事ができなかったら、太子が天子となられた時、我らは即座に族滅の災いを受けるのだぞ。そもそも、私は公にこっそりと陛下太子に太子の批評をしてほしかったのに、なんで公は公衆の面前で言ってしまったのか[1]。君主が言葉を慎まなければ臣下からの信頼を失い、臣下が言葉を慎まなければ身命を失うと言う(《周易》繫辞上)。だから私は敢えて言わなかったのだ。」
 軌は暫くの間黙りこくったが、やがてこう言った。
「私が案じているのは国家の未来であって、自分の未来などではない。〔ただ、〕公衆の面前で〔公の名を〕言ったことは、本当に良くなかったと思っている。」

 あるとき帝は陪席していた右宮伯の安化公孝伯にこう尋ねて言った。
「我が子は最近少しは成長したか?」
 孝伯は答えて言った。
「皇太子は最近陛下の威厳を恐れたのか、あれから過失は犯しておりません。」
 のち、烏丸軌は内々の宴会にて帝にお酒を進める際、帝の顎髭を撫ででこう言った。
「愛すべき陛下よ、後嗣ぎが頼りない事だけが玉に瑕です。」
 宴会が終わったのち、帝は孝伯を責めて言った。
「公は常に私に太子は最近過失を犯していないと言っているが、なら何故先ほど軌があのような事を言ったのだ。公は私を騙したのか!」
 孝伯は再拝して言った。
「臣はこう聞いております。『父子の間の事は、他人は意見しにくい』と。臣は陛下が太子にかける愛情を捨てきれないと知っていたので、敢えて言わなかったのです。」
 帝は孝伯の意図を知ると、暫くの間黙りこくり、それからこう言った。
「朕は既に公に太子の教育を委ねている。公よ、努力せよ。」

 帝は軌の言葉を非常にもっともな事だと思ったが、ただ、次子の漢王賛字は乾依。太子の同母弟)も才能に欠けていて、他の子どもたちはみな幼かったため、遂に太子を廃するには至らなかった。

○周宣帝紀
 帝之在東宮也,高祖慮其不堪承嗣,遇之甚嚴。朝見進止,與諸臣無異,雖隆寒盛暑,亦不得休息。性既嗜酒,高祖遂禁醪醴不許至東宮。帝每有過,輒加捶扑。嘗謂之曰:「古來太子被廢者幾人,餘兒豈不堪立耶。」於是遣東宮官屬錄帝言語動作,每月奏聞。帝憚高祖威嚴,矯情修飾,以是過惡遂不外聞。
○周40王軌伝
 軌又嘗與小內史賀若弼言及此事,且言皇太子必不克負荷。弼深以為然,勸軌陳之。軌後因侍坐,乃謂高祖曰:「皇太子仁孝無聞,復多涼德,恐不了陛下家事。愚臣短暗,不足以論是非。陛下恆以賀若弼有文武奇才,識度宏遠,而弼比每對臣,深以此事為慮。」高祖召弼問之。弼乃詭對曰:「皇太子養德春宮,未聞有過。未審陛下,何從得聞此言?」既退,軌誚弼曰:「平生言論,無所不道,今者對揚,何得乃爾翻覆?」弼曰:「此公之過也。皇太子,國之儲副,豈易攸言。事有蹉跌,便至滅門之禍。本謂公密陳臧否,何得遂至昌言。」軌默然久之,乃曰:「吾專心國家,遂不存私計。向者對眾,良寔非宜。」後軌因內宴上壽,又捋高祖鬚曰:「可愛好老公,但恨後嗣弱耳。」高祖深以為然。但漢王次長,又不才,此外諸子竝幼,故不能用其說。
○周40宇文孝伯伝
 俄授京兆尹,入為左宮伯,轉右宮伯。嘗因侍坐,帝問之曰:「我兒比來漸長進不?」答曰:「皇太子比懼天威,更無罪失。」及王軌因內宴捋帝鬚,言太子之不善,帝罷酒,責孝伯曰:「公常語我,云太子無過。今軌有此言,公為誑矣。」孝伯再拜曰:「臣聞父子之際,人所難言。臣知陛下不能割情忍愛,遂爾結舌。」帝知其意,默然久之,乃曰:「朕已委公矣,公其勉之。」
○隋52賀若弼伝
 周武帝時,上柱國烏丸軌言於帝曰:「太子非帝王器,臣亦嘗與賀若弼論之。」帝呼弼問之,弼知太子不可動搖,恐禍及己,詭對曰:「皇太子德業日新,未覩其闕。」帝默然。弼既退,軌讓其背己,弼曰:「君不密則失臣,臣不密則失身,所以不敢輕議也。」

 ⑴賀若弼…字は輔伯。生年544、時に33歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。565年(2)参照。
 [1]〔原文『本謂公密陳臧否,何得遂至昌言』〕昌言は、顕言(明言。はっきり言う)の意味である。

雉、玉座に集う

 乙丑(8月19日)、陳の使者が北周に到着した。

 この年、北斉の太極殿にて鸛(コウノトリ)が巣を作った。また、并州(晋陽宮)の嘉陽殿にも巣を作った。京房の《易飛候》曰く、
『鳥が理由も無く君門(宮城の門のうち皇帝が通るもの)や宮殿内、屋根の上に巣を作るのは、国都が空虚になる予兆である。』
 丁卯(21日)後主が晋陽に赴いた。この時、晋陽宮の玉座に雉(キジ)が集まった。担当官はこれを捕らえたが、敢えて報告しなかった。
 この日、邯鄲宮の造営を命じた。

 これより前、北斉の歩兵と財政(度支)は録尚書事・晋昌王の唐邕が、騎兵の事は中書令・高昌公の白建が全て取り仕切っていた。
 この年白建が亡くなった。司空を追贈した。
 現在、帝は晋陽に赴く前、斛律孝卿を総知騎兵・度支事とした。孝卿は事務の大半を自分で決め、邕の意に従わなかった。邕は覇朝(東魏の時の高歓・高澄の幕府)時代から機密に携わり、六代の皇帝たちから重用されてきた自負があったため、この扱いに対し非常に不満を持った。それは言動にも表れるほどだった。

 この日、陳が司空の呉明徹を都督南北兗南北青譙五州諸軍事・南兗州(広陵)刺史とした。
 9月、戊戌(23日)、皇子の陳叔彪虎?)を淮南王とした。
 叔彪は字を子華といい、宣帝の第十三子である。母は王姫。若年の頃から聡明で、文才があった。

○周武帝紀
 乙丑,陳遣使來聘。
○北斉後主紀
 八月丁卯,行幸晉陽。雉集於御坐,獲之,有司不敢以聞。詔營邯鄲宮。
○陳宣帝紀
 秋八月丁卯,以車騎大將軍、司空吳明徹為南兖州刺史。九月戊戌,以皇子叔彪為淮南王。
○隋五行志視咎
 武平七年,有鸛巢太極殿,又巢并州嘉陽殿。雉集晉陽宮御座,獲之。京房易飛候曰:「鳥無故巢居君門及殿屋上,邑且虛。」
○北斉32・北55白建伝
 武平末,歷〔位〕特進、侍中、中書令〔,封高昌郡公〕。…武平七年卒〔,贈司空〕。
○北斉40・北55唐邕伝
〔七年,〕車駕將幸晉陽,勑孝卿總知騎兵度支,事多自決,不相詢稟。邕自恃從霸朝以來常典樞要,歷事六帝,恩遇甚重,一旦為孝卿所輕,負氣鬱怏,形於辭色。
○陳9呉明徹伝
 尋授都督南北兖南北青譙五州諸軍事、南兖州刺史。
○陳28淮南王叔彪伝
〔王姬生淮南王叔彪…〕淮南王叔彪字子華,高宗第十三子也。少聰惠,善屬文。太建八年,立為淮南王。

 ⑴後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に21歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年(1)参照。
 ⑵唐邕…字は道和。太原の人。記憶力抜群の能吏。中央以外の歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。北周軍が晋陽に迫ると、臨機応変に対応して瞬時に兵馬を集結させた。568年、右僕射とされたが、569年12月頃に人を冤罪に陥れた罪で除名された。のち復帰を許され、570年に右僕射、571年に左僕射、572年に尚書令とされ、晋昌王とされた。574年に南安王思好の乱が起こるとその討伐軍の統率・監督を任された。平定後、録尚書事とされた。去年、高阿那肱の讒言を受けて遠ざけられるようになった。575年(3)参照。
 ⑶白建…字は彦挙。太原の人。温和で真面目な能吏。初め大丞相府騎兵曹となり、騎兵の維持管理を任された。天保十年(559)、兼中書舍人とされた。常山王演(孝昭帝)が実権を握ると大丞相府騎兵参軍とされた。のち特進・侍中・中書令を歴任し、高昌公とされた。572年(3)参照。
 ⑷斛律孝卿…東夏州刺史の斛律羌挙の子。若年の頃から聡明で、物腰に気品があり、高官を歴任した。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・義寧王に昇り、門下省の事務に携わった。南安王思好の乱が平定されると、叱奴世安を出し抜いて先に後主に報告し、賞された。575年(3)参照。
 ⑸呉明徹…字は通炤。生年512、時に65歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊(宣帝)がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。572年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。573年、北討大都督とされて北伐の総指揮官とされ、北斉の秦州や揚州を陥とした。のち東楚州(宿豫)を陥とし、呂梁にて北斉軍を大破した。今年、司空とされた。576年(1)参照。
 ⑹宣帝…陳頊(キョク)。陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に47歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。576年(1)参照。

東伐再開


 北斉の晋州道行台左丞の侯子欽らが北周に密使を送り、こう言った。
「晋州城に出兵してくだされば、必ず内応いたします。」

 丁丑(2日)、北周の武帝が正武殿にて大醮(夜中に星辰の下に酒や乾し肉などの供物を並べて神を祭り、祈願の内容を書いた文章を奏上するもの)を催し、東伐の成功を祈願した。
 冬、10月、帝が大徳殿にて群臣にこう言った。
「朕は去年たまたま病気に罹ったため、賊徒(北斉)を討平する事ができなかった。〔ただ、〕朕が賊領に入って直接つぶさに見た所、賊軍の用兵ぶりは殆ど児戯に等しかった。また、政治は小人どもの手に握られて無秩序極まりなく、民衆は明日をも知れぬ身となって泣き叫んでいる有り様である。天が与えたもうた絶好の機会を逃せば、将来きっと後悔することになろう。ただ、去年と同じように河南を攻めても、賊の背を打つだけで、その喉元を押さえるには至らぬ。一方、晋州(平陽)はもと高歓が身を起こした〔賊にとって由緒ある〕地で、拠点としても重要な地である。今この地を攻めれば、賊はきっと助けにやってくる。そこを、充分に態勢を整えた我らが攻撃をかければ、必ず勝てる。しかるのちに破竹の勢いに乗って東進すれば、賊の本拠()を陥とし、天下を統一することなど造作もないであろう。」
 しかし、諸将の大半がこれに異を唱えた。すると帝はこう言った。
「機会というのは稀少な物で、取り逃がしてはいかぬものである。朕の計画の邪魔をする者があれば、軍法を以て裁く!」

 この時既に高齢となっていた紇豆陵熾竇熾は腕を握りしめ、悔しそうにこう言った。
「臣は老いさらばえたとはいえ、武器を執って討伐軍の先鋒になりたいと存じます。大賊を討滅して天下を祓い清め、四方を巡察して山に登り、天に勝利を告げることができれば、死んでも思い残すことはございません。」
 帝はその志節を褒め称え、熾の第二子で武当公の紇豆陵恭竇恭)を左二軍総管とする事とした。

 己酉(4日)、帝が東伐に赴いた。越王盛を右一軍総管、杞公亮を右二軍総管、隋国公の普六茹堅楊堅を右三軍総管、譙王倹を左一軍総管、大将軍の紇豆陵恭を左二軍総管、広化公の丘乃敦崇丘崇)を左三軍総管とし、斉王憲・陳王純を前軍とした。

○周武帝紀
 九月丁丑,大醮於正武殿,以祈東伐。冬十月,帝謂羣臣曰:「朕去歲屬有疹疾,遂不得克平逋寇。前入賊境,備見敵情,觀彼行師,殆同兒戲。又聞其朝政昏亂,政由羣小,百姓嗷然,朝不謀夕。天與不取,恐貽後悔。若復同往年,出軍河外,直為撫背,未扼其喉。然晉州本高歡所起之地,鎮攝要重,今往攻之,彼必來援,吾嚴軍以待,擊之必克。然後乘破竹之勢,鼓行而東,足以窮其窟穴,混同文軌。」諸將多不願行。帝曰:「幾者事之微,不可失矣。若有沮吾軍者,朕當以軍法裁之。」
 己酉,帝總戎東伐。以越王盛為右一軍總管,杞國公亮為右二軍總管,隨國公楊堅為右三軍總管,譙王儉為左一軍總管,大將軍竇恭為左二軍總管,廣化公丘崇為左三軍總管,齊王憲、陳王純為前軍。
○周30竇熾伝
 帝於大德殿將謀伐齊,熾時年已衰老,乃扼腕曰:「臣雖朽邁,請執干櫓,首啟戎行。得一覩誅翦鯨鯢,廓清寰宇,省方觀俗,登岳告成,然後歸魂泉壤,無復餘恨。」高祖壯其志節,遂以熾第二子武當公恭為左二軍總管。
○北斉19尉相貴伝
 為行臺左丞侯子欽等密啟周武請師,欽等為內應。

 ⑴侯子欽…555年に北斉が陳覇先を攻めて苦戦した時、停戦を求める使者とされた。
 ⑵高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。後主の祖父。北魏末に群雄の爾朱栄に仕えて晋州刺史とされ、栄が殺されると次第に頭角を現し、531年信都にて挙兵して爾朱氏を撃ち破り、河北東半部を制した。擁立した孝武帝が宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑶紇豆陵熾(竇熾)…字は光成。生年507、時に70歳。知勇兼備の名将。北魏の高官を務める名家の出。武帝の姉婿の紇豆陵毅(竇毅)の叔父。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、その関中亡命に付き従い、河橋・邙山の戦いで活躍した。552年、原州刺史とされ、善政を行なった。554年、柔然軍を撃破した。560年、柱国大将軍とされ、561年に鄧国公、564年に大宗伯とされた。のち、洛陽攻めに加わった。晋公護に嫌われ、570年、宜州刺史に左遷された。護が誅殺されると太傅とされた。572年(3)参照。
 ⑷越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。去年の北斉討伐の際、後一軍総管とされた。575年(2)参照。
 ⑸杞公亮…字は乾徳。晋公護の兄の宇文導の次子。護と同じ宇文顥系の子孫であることから重用を受け、護の子どもたちと共に贅沢をほしいままにした。563年~568年頃に梁州総管を務め、のち宗師中大夫とされた。571~574年、秦州総管とされ、亡兄の豳公広の部下を全て配されたが、全く政績を挙げることができなかった。のち、柱国とされた。護が誅殺されると不安を覚え、酒に溺れた。572年(2)参照。
 ⑹普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に36歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇に嫁いだ。去年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。575年(2)参照。
 ⑺譙王倹…字は侯幼突。生年551(《譙忠孝王墓誌》)、時に26歳。宇文泰の第八子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に譙国公に封ぜられた。567年、柱国とされた。568年、于謹の葬儀の監護を任された。570~575年、益州総管とされた。574年、王とされた。570年(2)参照。
 ⑻斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に33歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。575年(3)参照。
 ⑼陳王純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州(天水)総管とされた。570年、陝州(弘農)総管とされ、田弘と共に宜陽の攻略に向かった。574年、王とされた。去年の北斉討伐の際には前一軍総管とされた。575年(2)参照。

丘乃敦崇と普六茹瓚

 丘乃敦崇は恒州代郡鼓城県広義郷孝讓里の人で、北魏の十姓の丘乃敦氏の末裔である。
 五代祖の丘乃敦邈は驃騎大将軍・開府儀同三司・営丘郡開国公とされ、曽祖父の丘乃敦双軌は使持節・驃騎大将軍・司徒・青兗二州刺史・范陽文昭公とされた。夫人は太原の王氏。祖父の丘提は使持節・衛将軍・駙馬都督・河交二州刺史・霊寿県開国公とされた。夫人は孝文帝の第二女の清亷郡長公主。父の丘願は使持節・大都督徐州諸軍事・徐州刺史・平陽県開国公(邑四千戸)とされた。夫人は宇文泰の第三妹の宇文氏。北周が建国されると使持節・大将軍・弘化郡開国公(邑千戸)を追贈された。夫人は安徳郡長公主を追贈された。
 北魏が東魏と西魏に分かれて争い合うと、崇は兄の丘賓と共に東魏に抑留されて父と離れ離れになり、三十余年が経過した。のち北斉と北周の関係が良好となると、崇・賓兄弟は北周に行くことを許された。天和四年(569)に長安に到ると、武帝は自分の甥であることを以て賓を使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督・安楽県開国公(邑千戸)とし、崇を使持節・大都督・驃騎大将軍・開府儀同三司・広化県開国公(邑千戸)とした。賓は間もなく亡くなり、本官の他に少傅・蒲虞勲三州諸軍事・蒲州刺史を追贈され、天和六年(571)に長安の洪瀆原に埋葬された。妻は青州の石氏で、長城郡君とされた。
 崇は天和六年に大将軍を加えられた。建徳二年(573)、使持節・都督宜州(もと北雍州)諸軍事・宜州刺史とされた。崇は清廉・公明な政治を行ない、州民はその統治に心から従った。崇は無欲で酒も飲まず、非常に落ち着いていて感情を表に出さなかった。筆を下ろせば整った文章を書き、楽器を弾けば典雅な曲を奏でた。仁義礼節を重んじ、大の読書好きだった。

 この時、帝は諸王をみな遠征に連れていき、長安の留守は〔妹の婿で儀同・納言の〕普六茹瓚楊瓚)に任せた。帝は瓚にこう言った。
「六府(天官府・地官府・春官府・夏官府・秋官府・冬官府。北周の行政機構。六部の前身)の事務は非常に多岐に亘るが、全て卿に一任する。〔卿に任せれば、〕朕は東方の討伐に向かっても、西方に不安を抱かぬ。」
 その親密・信頼ぶりはこのようだった。

 瓚(生年550、時に27歳)は字を恒生という。またの名を慧といい、普六茹堅楊堅)の同母弟である。父の普六茹忠楊忠)の軍功によって竟陵郡公に封ぜられ、武帝の妹の順陽公主を娶り、右中侍上士から御伯中大夫(侍中)に昇進した。保定四年(564)に納言(御伯から名称変更)に改められ、儀同とされた。
 瓚は貴公子であり公主の婿であり、美男子であり、そのうえ教養があって、才能のある者を愛したので、世間から非常に高い評判を得て、『楊三郎』(楊家の三番目の若君様)と称された。武帝も瓚に非常な親愛の情を抱いた。

 また、〔開府・右宮伯の〕安化公孝伯を内史下大夫とし、留守の間の朝廷の政治を取り仕切らせた。

○周40宇文孝伯伝
 五年,大軍東討,拜內史下大夫,令掌留臺事。
○隋44滕穆王瓚伝
 滕穆王瓚字恒生,一名慧,高祖母弟也。周世,以太祖軍功封竟陵郡公,尚武帝妹順陽公主,自右中侍上士遷御伯中大夫。保定四年,改為納言,授儀同。瓚貴公子,又尚公主,美姿儀,好書愛士,甚有令名於當世,時人號曰楊三郎。武帝甚親愛之。平齊之役,諸王咸從,留瓚居守,帝謂之曰:「六府事殷,一以相付。朕將遂事東方,無西顧之憂矣。」其見親信如此。
○周使持節大将軍広化郡開国公丘乃敦崇墓誌
 崇,恒州代郡鼓城縣廣義鄉孝讓里人也。…魏道武皇帝…兄弟十人,分為十姓。…丘氏即其一焉。
 五代祖邈,驃騎大將軍、開府儀同三司、營丘郡開國公。…曽祖雙軌,使持節、驃騎大將軍、司徒、青兖二州刺史、范陽文昭公。…夫人太原王氏。…祖提,使持節、衞將軍、駙馬都督、河交二州刺史、靈夀縣開國公。…夫人清亷郡長公主,孝文帝之第二女也。…父願,使持節、大都督徐州諸軍事、徐州刺史、平陽縣開國公,食邑四千户。…夫人宇文氏,周文皇帝之第三妹也。…魏受其終,周新其命,式墓封墳,追旌盛徳,乃贈使持節、大將軍、廣化郡開國公,食邑一千户。夫人贈安徳郡長公主。
 自永安以來,魏室大壞。…高丞相驅率風雲,奄荒齊、晉。我舅氏文皇帝,駕馭龍虎,據有周、秦。南北渝盟,東西敵怨。既而各受圖書,並當珪壁。百姓則父南子北,兄東弟西,事主則憂親,求生則慮禍。大周親戚,…闗河嚴隔,三十餘年。天厭䘮亂,人思反徳。彼之風塵,既静函谷。…中山寃枉之餘,代郡凋殘之澤,並遇革音,咸蒙禮送。崇、賓兄弟二人,…遂得生還。天和四年,至於新邑。朝廷以舅甥之國,外內之親,乃授賓使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、大都督、安樂縣開國公,食邑一千户。賓得免虎口,仍上龍門,聲價已高。…時不我與,先從朝露,春秋若干。…贈本官加少傅、蒲虞勲三州諸軍事、蒲州刺史。以天和六年某月日,葬於長安之洪瀆原。妻青州石氏,長城郡君。…崇蒙授使持節、大都督、驃騎大將軍、開府儀同三司、廣化縣開國公,食邑一千户。…天和六年授大將軍餘如。…建徳二年,授使持節、都督宜州諸軍事、宜州刺史。…崇清淨為政,廉明為法。人不忍背吏,不忍欺性。不飲酒,無所嗜欲。深沉牆仭,喜愠不形。文必正詞,絃惟雅曲,仁義禮節,是所用心,緹帙祑緗素,愛翫無已。

 ⑴丘乃敦氏…《魏書》官氏志曰く、『献帝(拓跋隣)は第三弟を丘敦氏とした。のち丘氏に改めた。北魏の十姓の一つである。

玉壁通過

 これより前、柱国・勲州刺史・鄖国公の宇文孝寛韋孝寛は七十歳近くになったことを理由に、たびたび引退を申し出ていたが、武帝は天下がまだ平定されていないことを以て、心を込めた詔を下して懇ろにこれを断った。のち、孝寛が病と称して再び引退を求めると、帝はこう言った。
「前に面と向かって本心を告げたではないか。それなのに、どうしてまたそんな事を言うのか。」
 現在、帝は東伐に赴いて玉壁を過ぎた時、その防備の堅牢さを非常に賞賛した。それから間もなく玉壁を去った。この時、孝寛は北斉の内情に習熟している事を以て先鋒に名乗りを上げた。帝は玉壁が要衝であること、孝寛でしか鎮守できないことを告げてこれを断った。

 その代わりとして、孝寛の子の韋総を連れて行った。総は字を善会といい、頭が良く学問を好んだ。驃騎大将軍・開府儀同三司・納言・京兆尹を歴任した。帝はある時総にふざけてこう言った。
「卿は帝都の長官という富貴の身となったのだから、これを笠に着て郷里(京兆)の人々を言いなりにさせたらどうだ?」
 すると総は顔つきを厳しくしてこう答えて言った。
「陛下が臣に破格の抜擢をなさったのは、もしかすると臣の馬鹿真面目さを既に見抜いておられたからかと思っておりましたが、今そのお考えをうかがいますに、まだ臣の真心が伝わっておられなかったようであります。これで、どうしてかような要職に長い間就いていることができましょうか。ただただ陛下のお考えが分かりかねます。どうか臣の印綬を解いて、賢能の士にお譲りくださいますよう。」
 すると帝は大笑して言った。
「先ほどの言葉は戯れに言ったまでだ。」

○周31・北64韋孝寛伝
 孝寬每以年迫懸車,屢請致仕。帝以海內未平,優詔弗許。至是復稱疾乞骸骨。帝曰:「往已面申本懷,何煩重請也。」
 五年,帝東伐,過幸玉壁。觀禦敵之所,深歎羨之,移時乃去。孝寬自以習練齊人虛實,請為先驅。帝以玉壁要衝,非孝寬無以鎮之,乃不許。
 …孝寬有六子,總、壽、霽、津知名。〔總字善會,聰敏好學。位驃騎大將軍、開府儀同三司、納言、京兆尹。武帝嘗戲總曰:「卿師尹帝鄉,故當不以富貴威福鄉里邪?」總乃正色對曰:「陛下擢臣非分,竊謂已鑒愚誠。今奉嚴旨,便似未照丹赤。豈可久忝此職,用疑聖慮。請解印綬,以避賢能。」帝大笑曰:「前言戲之耳。」五年,從武帝東征。總每率麾下,先驅陷敵。

 ⑴宇文孝寛(韋孝寛)…本名叔裕。生年509、時に68歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年に勲州(玉壁)刺史、564年に柱国、570年に鄖国公とされた。572年、北斉に流言を放ち、斛律光を誅殺に導いた。また、武帝に伐斉三策を進言した。575年(1)参照。

●危機意識の欠如
 丙辰(11日)、北斉の後主が三堆の祁連池にて大規模な巻き狩りを行なった。
 ある日、晋州から危急を告げる使者が朝から正午までに三度も到った。すると〔右丞相・并州刺史・淮陰王の〕高阿那肱は使者にこう言った。
「大家(後主)は今お楽しみ中なのだ! 〔それに、〕辺境の小規模な衝突などいつもの事ではないか! なのに何故そう急いて報告しようとする!」
 その日の夕方、新たに使者が到ってこう言った。
「平陽城(晋州)は既に陥落いたしました!(誤報、或いは高阿那肱伝の錯誤か) 賊はじきここにやってきます!」
 そこでようやく帝に報告した。
 翌日の早朝、帝は晋陽に帰ろうとしたが、馮淑妃に最後にもう一つの囲みの中にいる獣たちを殺す(一囲を殺す)よう求められると、これを聞き入れた。このため、出発はますます遅れてしまった。有識者は、帝の名が緯であるのに『囲を殺す』と言うのは不吉ではないかと考えた。
 癸亥(18日)、晋陽に帰った。

 馮淑妃は名を小憐といい、もと穆后の侍女だったが、后が後主に愛されなくなると、焦った后によって五月五日に帝に進上された。この経緯から、小憐は『続命』と呼ばれた。小憐は聡明で琵琶や歌舞が上手だったため、帝はその虜になって小憐を淑妃とし、室内では常に傍に座らせ、室外では馬を並べて外出し、生死を共にする事を願った。また、淑妃を隆基堂に住まわせたが、隆基堂はもと曹昭儀の住んでいた所だったため、淑妃はその痕跡を嫌悪して、床を全て張り替えさせた。また、数千人の侍女を付き従わせたが、その侍女一人ひとりにも千金の費用をかけて着飾らせた。

 曹昭儀は楽人の曹僧奴の娘で、姉と共に後主に進上された。姉は帝の意に逆らったため顔の皮を剝がされたが、昭儀は琵琶が上手だったため昭儀とされ、僧奴も日南王とされた。僧奴の死後
、その兄弟の曹妙達ら二人も同日に郡王とされた。帝は昭儀のために隆基堂を建てたが、それは当代の粋が集められた非常に華麗なものだった。のち、昭儀は女侍中の陸令萱に危険視され、遂に呪詛を行なったという罪を捏造されて殺された。

○北斉後主紀
 冬十月丙辰,帝大狩於祁連池。周師攻晉州。癸亥,帝還晉陽。
○隋五行志心咎華孽
 齊後主有寵姬馮小憐,慧而有色,能彈琵琶,尤工歌儛。後主惑之,拜為淑妃。選綵女數千,為之羽從,一女之飾,動費千金。帝從禽於三堆,而周師大至,邊吏告急,相望於道。帝欲班師,小憐意不已,更請合圍。帝從之。
○北斉50・北92高阿那肱伝
 周師逼平陽,後主於天池校獵,晉州頻遣馳奏,從旦至午,驛馬三至,肱云:「大家正作樂,〔邊境小小兵馬,自是常事,〕何急奏聞。」至暮,使更至,云:「平陽城已陷,賊方至。」乃奏知。明早旦,即欲引軍,淑妃又請更合一圍。〔所以彌致遲緩。
○北14馮淑妃伝
 馮淑妃名小憐,本穆后從婢也。穆后愛衰,以五月五日進之,號曰「續命」。慧黠能彈琵琶,工歌舞。後主惑之,坐則同席,出則並馬,願得生死一處。命淑妃處隆基堂,淑妃惡曹昭儀所常居也,悉令反換其地。周師之取平陽,帝獵於三堆,晉州亟告急,帝將還,淑妃請更殺一圍,帝從其言。識者以為後主名緯,殺圍言非吉徵。
○北14曹昭儀伝
 樂人曹僧奴進二女,大者忤旨,剝面皮;少者彈琵琶,為昭儀。以僧奴為日南王。僧奴死後,又貴其兄弟妙達等二人,同日皆為郡王。為昭儀別起隆基堂,極為綺麗。陸媼誣以左道,遂殺之。

 ⑴三堆…《読史方輿紀要》曰く、『三堆城は静楽県の治所である。』
 ⑵祁連池…《読史方輿紀要》曰く、『晋陽の西北二百二十里→静楽県の北百四十里→管涔山の北麓にある。』
 ⑶高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年(3)参照。
 ⑷穆后…名は邪利、のち舍利に改めた。幼名は黄花。母は宋欽道の下女。父は不明で、一説には欽道という。欽道が誅殺されると官婢となって斛律后の侍女とされたが、後主の寵愛を受けたことで女侍中の陸令萱の養女とされ、その後押しを受けて弘徳夫人となった。570年6月に高恒を産んだ。のち鮮卑の大姓の穆氏(丘穆陵)の姓を与えられた。572年、右皇后とされ、573年、唯一の皇后とされた。574年(2)参照。
 ⑸五月五日に〜続命と呼ばれた…五月五日は端午の節句。端午の節句は邪気を払って寿命を延ばす飾り物を飾るため、『続命節』とも呼ばれる。
 ⑹陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、穆提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で絶大な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人(穆后)を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。571年、琅邪王儼がクーデターを起こした時、標的の一人に挙げられた。のち、斛律光の誅殺や弘徳夫人の皇后即位に関わった。575年(1)参照。

●晋州攻め

 これより前、北斉の臣の張延雋は晋州行台左丞とされると、良く晋州の主将を補佐して国境地帯を鎮撫し、兵器や兵糧を蓄えると共に民力の向上に努め、遂に一国に匹敵するほどの隠然たる勢力を持つに至った。しかし、佞臣たちに諂わなかったため左遷され、以降晋州は官民共に乱脈を極めるようになった。

 この日、武帝が北斉の晋州に到り、汾曲に屯営した。
 また、前軍の斉王憲に精鋭の騎兵二万を与えて雀鼠谷⑵[1]を守らせ、陳王純に二万の兵を与えて千里径を守らせ、鄭国公の達奚震に一万を与えて統軍川を守らせ、大将軍の歩大汗明韓明。柱国の韓果の子)に五千を与えて斉子嶺を守らせ、烏氏公の尹昇に五千を与えて鼓鍾鎮を守らせ、涼城公の辛韶大義公の辛遵の弟?)に五千を与えて蒲津関を守らせ、柱国の趙王招に一万を与えて華谷より北斉の汾州の諸城を攻めさせ、柱国の宇文盛に一万を与えて汾水関(11)を守らせた。また、内史の拓王誼王誼(12)に六軍の監督をさせ、晋州城を攻めさせた。

○雀鼠谷

 この日の夜、晋州城の上空にて虹が架かった。虹は南に向かい、紫微宮に入っていた。長さは十余丈あった。占い師はこう言った。
「この虹の下で兵が戦うと大いに血が流れる。」
 またこう言った。
「もしこの下に兵がいなければ、必ず天子が崩御する。」

 斉王憲は洪洞(13)と永安(14)二城を攻めてこれを陥とした。憲は更に進攻しようとしたが、北斉人が橋を焼き払って要地を守備したためこれ以上進めなくなり、やむなく永安に留まった。
 千里径の陳王純・鶏棲原(15)永昌公椿(16)・汾水関の宇文盛はみな憲の指揮下に属した。憲は密かに椿にこう言った。
「戦いとは如何に相手を騙せるかにあるが、その騙し方に必勝法はなく、時と場合に応じて柔軟に変えねばならぬ。お前は今陣地を築くが、その際、幕ではなく栢の木の板を用いて覆うようにせよ。〔さすれば、賊はそのしっかりとした作りを見て〕大軍がいるように思い、お前が後退したのちも警戒して攻撃を躊躇うであろう。」
 
 達奚震は義寧・烏蘇二鎮(17)を攻略した(詳細な時期は不明)。

○資治通鑑172
 先是,晉州行臺左丞張延雋公直勤敏,儲偫有備,百姓安業,疆埸無虞。諸嬖倖惡而代之,由是公私煩擾。
○周武帝紀
 癸亥,帝至晉州,遣齊王憲率精騎二萬守雀鼠谷,陳王純步騎二萬守千里徑,鄭國公達奚震步騎一萬守統軍川,大將軍韓明步騎五千守齊子嶺,烏氏公尹昇步騎五千守鼓鍾鎮,涼城公辛韶步騎五千守蒲津關,柱國、趙王招步騎一萬自華谷攻齊汾州諸城,柱國宇文盛步騎一萬守汾水關。遣內史王誼監六軍,攻晉州城。帝屯於汾曲。齊王憲攻洪洞、永安二城,並拔之。是夜,虹見於晉州城上,首向南,尾入紫微宮,長十餘丈。
○隋天文志五代災変応
 癸亥,帝率眾攻晉州。是日虹見晉州城上,首向南,尾入紫宮,長十餘丈。…占曰:「其下兵戰流血。」又曰:「若無兵,必有大喪。」
○周12斉煬王憲伝
 五年,大舉東討,憲率精騎二萬,復為前鋒,守雀鼠谷。高祖親圍晉州。憲進兵克洪同、永安二城,更圖進取。齊人焚橋守險,軍不得進,遂屯於永安。…時柱國、陳王純頓軍千里徑,大將軍、永昌公椿屯雞棲原,大將軍宇文盛守汾水關,並受憲節度。
○周10永昌公椿伝
 五年,高祖出晉州,椿率眾屯棲雞原(雞棲原)。憲密謂椿曰:「兵者詭道,去留不定,見機而作,不得遵常。汝今為營,不須張幕,可伐栢為菴,示有形勢。令兵去之後,賊猶致疑也。」
○周19達奚震伝
 五年,又從東伐,率步騎一萬守統軍川,攻克義寧、烏蘇二鎮。
○隋54田仁恭伝
 大義公辛遵及其弟韶。
○顔氏家訓慕賢
 張延雋之為晉州行臺左丞,匡維主將,鎮撫疆埸,儲積器用,愛活黎民,隱若敵國矣。群小不得行志,同力遷之;既代之後,公私擾亂。

 ⑴汾曲…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府城の西南にある。汾水の屈曲部である。』
 ⑵雀鼠谷…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北三百九十里→汾州府の南三十五里→孝義県の南二十里にある。』
 [1]雀鼠谷…《水経注》曰く、『汾水の冠爵津の事を俗に雀鼠谷という。数十里の間の道は皆険しく、汾水の左右はみな普通には通れず、崖の傍に積み上げた石の橋を渡って通る。橋はある所は水から一丈、ある所は六丈の高さがある。上は高い山阜、下は深い渓谷があり、俗に魯般(魯班。魯の工匠)橋という。』
 ⑶千里径…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北百四十五里→霍州の東十里にある。』霍太山にある間道である。
 ⑷達奚震…字は猛略。故・太傅の達奚武の子。馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を有し、巻狩りの際、宇文泰の前で兎を一矢で仕留めた。559年、華州(華山。長安の東)刺史とされると善政を行なった。564年、洛陽の戦いの際では父と共に殿軍を務め、被害を出さずに帰還に成功した。566年に大将軍とされ、稽胡を討伐した。571年に柱国、573年に金州総管とされた。去年の北斉討伐の際には前三軍総管とされた。575年(2)参照。
 ⑸統軍川…《読史方輿紀要》曰く、『統軍川は土軍川の訛りである。平陽府の北三百九十里→汾州府の西南二百里→石楼県の西五十里にある。水源は団円山。土軍谷(吐京谷)があり、西に流れて黄河に達する。』
 ⑹斉子嶺…《読史方輿紀要》曰く、『懐慶府(河内)城の西七十里→済源県の西六十里にある。』
 ⑺鼓鍾鎮…《読史方輿紀要》曰く、『鼓鐘鎮は平陽府の南百五十里→絳州の東南二百三十里→垣曲県の北六十里にある。《水経注》曰く、「教水は垣県の北の教山より湧き出で、南に流れて鼓鐘上峽を経る。鼓鐘上峽は流れが速く両岸が断崖絶壁となっている。更に南に流れて鼓鐘川を経る。川の西南に冶宮があり、世間はこれを鼓鐘城という。のち南に流れて黄河に入る。」』
 ⑻趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。去年の北斉討伐の際には後三軍総管とされた。575年(2)参照。
 ⑼華谷…黍葭谷。《読史方輿紀要》曰く、『華谷城は平陽府の南百五十里→絳州の西五十五里→稷山県の西北二十里にある。』
 ⑽宇文盛…字は保興。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。570年に大宗伯、573年に少師とされた。573年(2)参照。
 (11)汾水関…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北百四十五里→霍州の北百里→霊石県の西南にある。』
 (12)拓王誼(王誼)…字は宜君。生年540、時に37歳。父は北周の大将軍・鳳州刺史・洛邑県公の拓王顕(王顕)、従祖父は開府・太傅・長楽郡公の拓王盟(王盟。宇文泰の母の兄)。 若年の頃から文武に優れた。北周の孝閔帝の時に左中侍上士とされ、大冢宰の晋公護が実権を握っている時でも帝を尊重した。のち、御正大夫とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細った。のち雍州別駕(次官)とされた。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫・楊国公とされた。去年の北斉討伐の際には事前に帝に計画を相談された。575年(2)参照。
 (13)洪洞…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北五十五里→洪洞県の北六里にある。』
 (14)永安…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北百四十五里→霍州の治所の霍邑廃県にある。』
 (15)鶏棲原…《読史方輿紀要》曰く、『霍州の東北三十里にある。』
 (16)永昌公椿…字は乾寿。宇文導(晋公護の兄)の第四子。杞公亮の弟。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。575年、東伐が行なわれると斉王憲と共に武済など五城を陥とした。575年(3)参照。
 (17)義寧・烏蘇二鎮…《魏書地形志》曰く、『并州上党郡沁源県に義寧郡が置かれた。また、并州郷郡銅鞮県に烏蘇城がある。』《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の東北三百四十里→沁州(銅鞮)の西二百里の沁源県に義寧郡が置かれた。また、沁州の西北二十里に烏蘇城がある。

 
 576年(3)に続く