[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]

校猟と恤民

 春、正月、癸未(4日)、北周の武帝が同州長安の東北二百八十里・蒲州の西八十一里に赴いた。
 辛卯(12日)、河東にある涑(ソク)川に赴き、関中・河東の諸軍を集めて巻き狩りを行なった。
 甲午(15日)、同州に帰った。
 丁酉(18日)、詔を下して言った。
『朕は政治に勤しんでいるが、まだ結果に結びついておらず、日夜恐々としていにしえの政治の研究に励んでいる所である。よって今、大使を全国に派遣し、訴訟や流行歌を見聞させ、何に困っているか調査させることにする。でたらめな刑罰を行ない、人民を搾取する者がいれば、隨事調査をして証拠を洗い出し、悪事を箇条書きにして上奏せよ。政績優秀で統治方法がしっかりとしている者や、身分が低くても品行の立派な者がいれば、よくよく調査したのち、その姓名を書いて上奏せよ。また、鰥寡孤独(高齢のやもお・やもめ、幼くして父親を亡くした者、高齢で子を亡くした者)の者は真に憐れむべき存在であるゆえ、見つけ次第生活の援助をせよ。』
 また、盗鋳が相次いで価値が下落し、民間で使用されなくなっていた布泉銭を廃止した。
 戊申(29日)、盗鋳の主犯者を絞首刑にし、従犯者を遠方に流罪にして雑戸(官有の賎民)とした。

 壬辰(13日)、北斉が詔を下して言った。
「去年の秋以降、水害によって住居や田畑を喪い、生計が立てられなくなった者は、付近の大寺および裕福な家に仮住まいし、救済を受けよ。」
 2月、甲寅(5日)、北斉が大赦を行なった。
 乙卯(6日)後主が晋陽から鄴に帰った(去年の7月に晋陽に赴いていた)。

○周武帝紀
 五年春正月癸未,行幸同州。辛卯,行幸河東涑川,集關中、河東諸軍校獵。甲午,還同州。丁酉,詔曰:「朕克己思治,而風化未弘。永言前古,載懷夕惕。可分遣大使,周省四方,察訟聽謠,問民卹隱。其獄犴無章,侵漁黎庶,隨事究驗,條錄以聞。若政績有施,治綱克舉;及行宣圭蓽,道著丘園:並須撿審,依名騰奏。其鰥寡孤獨,寔可哀矜,亦宜賑給,務使周贍。」廢布泉錢。戊申,初令鑄錢者絞,其從者遠配為民。
○北斉後主紀
 七年春正月壬辰,詔去秋已來,水潦人饑不自立者,所在付大寺及諸富戶濟其性命。甲寅,大赦。乙卯,車駕至自晉陽。
○隋食貨志
 五年正月,以布泉漸賤而人不用,遂廢之。初令私鑄者絞,從者遠配為戶。

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に34歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。575年(3)参照。
 ⑵涑(ソク)川…《水経注》曰く、『涑水は河東の聞喜県の東山の黍葭谷(華谷)が水源地で、西に流れて周陽邑の南を過ぎ、西南に流れて左邑県の南を過ぎ、また西南に流れて安邑県の西を過ぎ、南に流れて解県の東を過ぎ、西南に流れて張陽池に注ぐ。』《読史方輿紀要》曰く、『上流は絳水といい、絳県より聞喜→夏県→安邑→猗氏→臨晋→蒲州の東十里を経、西南に流れて黄河に注ぐ。』
 ⑶布泉銭…561年7月に鋳造。一枚の価値を永安五銖銭五枚と同等として、五銖銭と並行して国内に流通させた。574年にこの銭十枚相当の価値がある五行大布銭が鋳造された。575年、関内に流入することは許したが流出は禁じた。575年(1)参照。
 ⑷去年の8月15日に北斉の冀・定・趙・幽・滄・瀛の六州(河北東部)にて洪水が発生していた。
 ⑸後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に21歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。575年(3)参照。

吐谷渾討伐

 これより前、吐谷渾の国内が大いに乱れた。
 辛酉(12日)、北周の武帝太子贇に西方の巡撫と吐谷渾の討伐を命じた。帝は〔腹心の〕上開府儀同大将軍〔・内史中大夫〕の烏丸軌王軌と開府儀同大将軍・宗師中大夫〔・東宮左宮正〕の安化公孝伯の二人を随行させて全権を委ね、太子は彼らから報告を受けるだけとした。
 また、柱国の可頻謙王謙・〔大将軍の〕伊婁穆・〔開府・河州刺史の〕宇文雄劉雄・〔儀同の〕宇文徹李徹)らが討伐軍に参加した。

 徹は字を広達といい、柱国の宇文意李意の子である。剛毅な性格で才幹を有し、立派な容貌をしていて、多くの武芸に巧みだった。大冢宰の晋公護に用いられて親信とされ、間もなく殿中司馬とされた。のち次第に昇進して奉車都尉(儀仗職)とされた。控えめ・温厚なうえ才能もあったため、護に非常に礼遇を受け、護の子の中山公訓が蒲州刺史となると、本官のまま随行させた。間もなく車騎大将軍・儀同三司とされた。

○周武帝紀
 二月辛酉,遣皇太子贇巡撫西土,仍討吐谷渾,戎事節度,並宜隨機專決。
○周21王謙伝
 從皇太子討吐谷渾。
○周29伊婁穆伝
 五年,從皇太子討吐谷渾。
○周29劉雄伝
 五年,皇太子西征吐谷渾。
○周40王軌伝
 又拜上開府儀同大將軍,…宣帝之征吐谷渾也,高祖令軌與宇文孝伯竝從,軍中進取,皆委軌等,帝仰成而已。
○周40宇文孝伯伝
 尋拜宗師中大夫。及吐谷渾入寇,詔皇太子征之。軍中之事,多決於孝伯。
○周50吐谷渾伝
 建德五年,其國大亂。高祖詔皇太子征之。
○隋54李徹伝
 李徹字廣達,朔方巖綠人也。父和,開皇初為柱國。徹性剛毅,有器幹,偉容儀,多武藝。大冢宰宇文護引為親信,尋拜殿中司馬,累遷奉車都尉。護以徹謹厚有才具,甚禮之。護子中山公訓為蒲州刺史,護令徹以本官從焉。未幾,拜車騎大將軍、儀同三司。武帝時,從皇太子西征吐谷渾。

 ⑴太子贇…字は乾伯。生年559、時に18歳。武帝の長子。母は李氏。品行が良くなく、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返したとされる。輔佐する者の賢愚によって品行が激変する事から『中人』と評された。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。574年、西方を巡視した。叱奴太后が亡くなって帝が喪に服すと、五十日に亘って政治を代行した。その後も帝が四方に赴くたびに長安に留まって政治を代行した。574年(2)参照。
 ⑵周40宇文孝伯伝には『吐谷渾が侵攻してきたため』とある。
 ⑶烏丸軌(王軌)…祖先は代々州郡の冠族の出で、北魏に仕えると烏丸氏の姓を賜り。のち北鎮に移って四代に亘って居住したという。父は北周の開府儀同三司・上黄郡公の烏丸光(王光)。真面目で正義感が強く、沈着冷静で見識があった。輔城公時代の武帝に仕え、帝が即位すると非常な厚遇を受け、腹心とされた。のち、晋公護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。護が誅殺されると内史中大夫(中書令?)・開府儀同三司とされ、国政にみな参与した。575年(2)参照。
 ⑷安化公孝伯…字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に34歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。のち東宮左宮正とされ、太子贇の匡正を任された。573年(3)参照。
 ⑸可頻謙(王謙)…字は勅万。柱国の可頻(叱?)雄(王雄)の子。控え目で礼儀正しい性格をしていた。それ以外これといった取り柄は無かったが、父の七光によって安楽県伯に封ぜられ、開府儀同三司とされた。557年、治右小武伯とされた。562年に父が庸国公に封ぜられると、代わりに武威郡公に封ぜられた。のち父が邙山にて戦死すると、565年、代わりに柱国大将軍・庸国公とされた。565年(1)参照。
 ⑹伊婁穆…字は奴干。鮮卑人で、北魏の支流の出。父は西魏の隆州刺史の伊霊(尹)。早くから宇文泰に仕え、口が達者なことで名を知られた。邙山の戦いで功を挙げた。553年、蜀に使者として赴いた際、趙雄傑らの乱に遭うと、叱羅協と共にこれを討伐した。561年に軍司馬、564年に金州総管とされ、565年に衛公直が襄州総管とされるとその長史とされ、572年、代公達が荊州総管とされるとその長史とされた。二度に亘って総管となった王族の副官となり、優れた補佐官という名声を得た。のち小司馬とされた。575年、李穆の指揮のもと軹関などを陥とした。575年(2)参照。
 ⑺宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮子城の人。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、宇文氏の姓を与えられた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。569年に兼斉公憲府掾とされ、北斉が盟約を破って宜陽に攻めてくるとその軍中に使者として赴き、約を違えたことを堂々と責め立てた。のち兼中外府掾・開府儀同三司とされた。570年、稽胡を綏州にて撃破した。汾北の戦いでは軍が総崩れする中、塹壕に留まって奮戦した。572年に納言、573年に内史・候正とされ、のち出身の河州の刺史とされた。575年、李穆の指揮のもと軹関などを陥とした。575年(2)参照。
 ⑻宇文意(李意)…本名は李慶和。先祖は隴西狄道→朔方に居住地を変えた。父は夏州酋長。逞しい容姿をし、勇敢で見識・度量があった。賀抜岳に仕えて帳内都督→征北将軍・思陽公とされた。漢陽郡守となると。優しく分かりやすい政治を行なった。西魏が建国されると開府・夏州刺史にまで昇り、宇文氏の姓を与えられた。知勇に優れ、まめまめしく働いたため、宇文泰に「いつも我が意に適う 」と称賛され、意の名を与えられた。562年に洛州刺史とされると、夏州刺史の時のように優しく分かりやすい政治を行なった。568年、大将軍・延綏丹三州武安伏夷安民三防諸軍事・延州刺史とされた。571年、柱国とされた。572年、延綏銀三州文安伏夷安民周昌梁和五防諸軍事に改められた。575年、罪を得て免官とされた。575年(5)参照。
 ⑼晋公護…宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。513~572。至孝・寛容の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。572年、誅殺された。572年(1)参照。
 ⑽中山公訓…晋公護の世子。566年に蒲州総管とされた。571年、柱国とされた。572年、父と共に誅殺された。572年(2)参照。

旧章と饗宴

 この日、北斉が14~20歳の未婚の雑戸の娘を全て後宮に入れた。隱匿した家長は死刑に処した。
 丙寅(17日)、〔鄴にて〕五日間に亘って西北から強風が吹き荒れ、屋根や樹木を吹き飛ばした。高阿那肱穆提婆らが政治を専横していることに対応するものだった。

 壬申(23日)、陳が開府儀同三司の呉明徹を司空とし、他(侍中・使持節・都督征討諸軍事・北討大都督・車騎大将軍・開府儀同三司・南平郡公)はそのままとした。また、詔を下して言った。
「昔は戦う際に、きちんと官職に対応した軍旗を立てて士気を高揚させていたものだったが、近頃はこの伝統が廃れ、戦場に到ってもどれが誰の軍か識別できぬ有り様となった。よって今、司空に司空・大都督用の斧鉞と龍の軍旗を授ける。他の将軍たちにも官職に対応した物を授けることとする。」
 丁丑(28日)、江東道の民間人で、太建五年(573)以前に租税や夏調を滞納した者をみな赦した。

 3月、壬寅(24日)、北周の武帝が長安に帰った(正月4日に同州に赴いていた)。
 戊申(29日)文宣皇太后叱奴太后の三回忌(二周忌のこと)の祭祀(大祥忌)を執り行なった。
 夏、4月、乙卯(7日)、再び同州に赴いた。
 開府儀同大将軍〔・熊州(宜陽。洛陽の西南七十里)刺史〕の清河公神挙が北斉の陸渾(洛陽の南百六十里→嵩県の北三十里)など五城を陥とした。


 甲寅(6日)、陳が詔を下して言った。
「凱旋した諸将を顕彰し褒賞する場は、饗宴(もてなしの酒宴)の場が相応しい。よって、今月の十七日に楽遊苑にて、糸竹の楽器を揃え、大いに文武百官を集めた酒宴を開くこととする。」

○周武帝紀
 三月…壬寅,至自同州。文宣皇〔太〕后服再期,戊申,祥。夏四月乙卯,行幸同州。開府、清河公宇文神舉攻拔齊陸渾等五城。
○北斉後主紀
 二月辛酉,括雜戶女年二十已下十四已上未嫁悉集省,隱匿者家長處死刑。(二月)丙寅,風從西北起,發屋拔樹,五日乃止。
○陳宣帝紀
 二月壬申,車騎大將軍、開府儀同三司吳明徹進位司空。丁丑,詔江東道太建五年以前租稅夏調逋在民間者,皆原之。夏四月甲寅,詔曰:「元戎凱旋,羣師振旅,旌功策賞,宜有饗宴。今月十七日,可幸樂遊苑,設絲竹之樂,大會文武。」
○隋五行志常風
 七年三月,大風起西北, 發屋拔樹 。五日乃止。時高阿那瓌(肱)、駱提婆等專恣之應。
○陳9呉明徹伝
 八年,進位司空,餘如故。又詔曰:「昔者軍事建旌,交鋒作鼓,頃日訛替,多乖舊章,至於行陣,不相甄別。今可給司空、大都督鈇鉞龍麾,其次將各有差。」

 ⑴高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・驃騎大将軍・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年(3)参照。
 ⑵駱提婆…もと駱提婆。先祖の姓は他駱抜で、父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。寵用をいいことに身分不相応の贅沢をして琅邪王儼に睨まれ、そのクーデターの際に目標の一人とされた。政治に全く無関心だったが、性格は温厚で、人を傷つけるような事はしなかったので、その点は評価された。573年、左僕射とされた。574年、婁定遠を讒言して死に追い込んだ。575年(1)参照。
 ⑶呉明徹…字は通炤。生年512、時に65歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊(宣帝)がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。572年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。573年、北討大都督とされて北伐の総指揮官とされ、北斉の秦州や揚州を陥とした。のち東楚州(宿豫)を陥とし、呂梁にて北斉軍を大破した。575年(3)参照。
 ⑷文宣皇太后(叱奴太后)…武帝と衛王直の母。高齢になったのちも浴びるように酒を飲み、感情の起伏が時々常軌を逸するようになったという。574年3月13日に逝去した。
 ⑸清河公神挙…生年532、時に45歳。儀同三司の宇文顕和の子。554年に父を喪うと族兄の安化公深に養育され、成人すると、才気煥発・眉目秀麗・堂々たる体躯の立派な青年となった。詩文を趣味としていたことで明帝と意気投合し、いつも一緒に外出した。564年、開府儀同三司とされ、566年に右宮伯中大夫・清河郡公とされた。572年、武帝から護誅殺の計画を打ち明けられると、これに協力した。のち、京兆尹とされた。574年、熊州刺史とされた。574年(3)参照。

●斉国世子の死
 この月、北周の斉国(斉王憲)世子の宇文貴が死去した(享年17)。
 貴(生年560)は字を乾福といい、幼少の頃から賢く、本を読み漁った。また、馬と弓の扱いに非常に長けた。初めて《孝経》を読んだ際、人にこう言った。
「人生の指針は、この経書を読むだけで充分に得られる。」
 天和四年(569)に十歲となると、安定郡公(邑千五百戸)とされた。安定郡は北周の太祖の宇文泰が〔西魏の〕丞相となった時に封建された地で(535年)、その死(556年)後は誰にも貸し与えられる事は無かったが、ここに至って貴が封建されたのだった。
 十一歳(570年)の時、父の斉王憲に付いて塩州(もと西安州。五原。延安府の東北三百六十里→綏徳州の北三百里→榆林鎮の西南七百二十里。夏州の西南。黄河屈曲部の中間)に巻狩に出かけた。その時、一つの囲みだけで馬と鹿十五頭を射止めた。
 建徳二年(573)に斉国世子とされた。四年(575)、車騎大将軍・儀同三司とされ、間もなく豳州(長安の西北三百五十里。安定の東南百五十里)刺史とされた。貴は温室育ちだったが、きちんと政務に関心を持った。一度見聞きしたものは忘れず、あるとき〔州の役所の〕道中で二人の人物に会うと、傍の者にこう言った。
「彼らは県の役人だろう。なのにどうしてここにいるのか?」
 傍の者は二人の事を知らなかった。貴がすらすらと二人の姓名を口にすると、傍の者たちはみな感服した。
 ある時、白虎烽(狼煙台の一つ)がある商人の手によって焼かれたが、商人が烽帥(狼煙係)に賄賂を渡したため、州に報告されることは無かった。のち、烽帥が規則通りに州の役所にやってくると、貴は彼にこう問い質して言った。
「商人が狼煙台を焼いたというのに、どうして勝手に見逃したりしたのだ?」
 烽帥は愕然とし、即座に罪を白状した。その明察ぶりはこんなふうだった。
 貴が亡くなると、武帝は非常に残念がった。

 5月、庚寅(13日)、陳の〔侍中・〕尚書左僕射の王瑒が逝去した。
 
 壬辰(15日)、北周の武帝が長安に帰った(4月7日に同州に赴いていた)。

 6月、戊申朔(1日)、日食があった。
 癸丑(6日)、陳が雲麾将軍(四品)・広州(南海)刺史の長沙王叔堅を合州(合肥)刺史・平北将軍(三品)とした。
 これより前、衛尉卿の沈君高は宣遠将軍・平南長沙王(叔堅)府長史・南海太守・行広州事とされたが、娘が叔堅の妃となっている事から〔公私混同になるとして、〕固辞して行かなかった。のち再び衛尉卿とされた。
 この年、君高を持節・都督広等十八州諸軍事・寧遠将軍・平越中郎将・広州刺史とした。広州刺史は嶺南(大庾嶺の南)に住む俚族・獠族と代々に亘って戦ってきたが、君高は文官で軍事の才能が無かった。ただ、誠実を旨として統治を行なったので、良く州内を治める事ができた。


○周武帝紀
 五月壬辰,至自同州。六月戊申朔,日有食之。
○北斉後主紀
 夏六月戊申朔,日有食之。
○陳宣帝紀
〔五月〕庚寅,尚書左僕射王瑒卒。六月癸丑,以雲麾將軍、廣州刺史長沙王叔堅為合州刺史,進號平北將軍。
○周12宇文貴伝
 貴字乾福,少聰敏,涉獵經史,尤便騎射。始讀孝經,便謂人曰:「讀此一經,足為立身之本。」天和四年,始十歲,封安定郡公,邑一千五百戶。太祖之初為丞相也,始封此郡,未嘗假人,至是封貴焉。年十一,從憲獵於鹽州,一圍之中,手射野馬及鹿十有五頭。建德二年,冊拜齊國世子。四年,授車騎大將軍、儀同三司。尋出為豳州刺史。貴雖出自深宮,而留心庶政。性聰敏,過目輒記。嘗道逢二人,謂其左右曰:「此人是縣黨,何因輒行?」左右不識,貴便說其姓名,莫不嗟伏。白獸烽經為商人所燒,烽帥納貨,不言其罪。他日,此帥隨例來參,貴乃問云:「商人燒烽,何因私放?」烽帥愕然,遂即首服。其明察如此。五年四月卒,年十七。高祖甚痛惜之。
○陳23沈君高伝
 尋除太子中庶子、尚書吏部郎、衛尉卿。出為宣遠將軍、平南長沙王長史、南海太守,行廣州事。以女為王妃,固辭不行,復為衛尉卿。復為衛尉卿。八年,詔授持節、都督廣等十八州諸軍事、寧遠將軍、平越中郎將、廣州刺史。嶺南俚、獠世相攻伐,君高本文吏,無武幹,推心撫御,甚得民和。

 ⑴斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に33歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。575年(3)参照。
 ⑵王瑒…字は子璵、或いは子瑛。故・特進の王沖の第十二子。生年523、時に54歳。美男で、立ち居振る舞いに品があった。梁に仕えて兼侍中・司徒左長史となり、敬帝が陳覇先(陳の武帝)に帝位を譲る際、皇帝の璽綬を覇先に届ける役目を任された。陳が建国されると守五兵尚書とされ、文帝が即位すると領太子庶子→太子中庶子とされた。宣帝が即位すると度支尚書・領羽林監→中書令とされた。573年に吏部尚書、574年に右僕射、575年に僕射→左僕射とされた。575年(3)参照。
 ⑶長沙王叔堅…字は子成。宣帝の第四子。母は酒家の下女の何淑儀。幼少の頃から悪賢く、乱暴で非常に酒癖が悪かったので兄弟たちから距離を置かれた。占いごとや風占い・お祓いなど神秘的なものを好み、金や玉の加工の技を極めた。天嘉年間(560~566)に豊城侯とされ、569年、長沙王・呉郡太守とされた。572年、宣毅将軍・江州刺史とされた。575年、雲麾将軍・平越中郎将・広州刺史とされた。575年(3)参照。
 ⑷沈君高…字は季高。陳の尚書右僕射で武帝の娘婿の沈君理の第六弟。若年の頃から世に名を良く知られた。剛直な性格で、政治の才能があった。外戚であることから早くから要職に名を連ね、太子舍人・洗馬・中書舍人・司空(宣帝)府従事中郎・廷尉卿を歴任した。569年に陳の東境で洪水が起こると、呉令とされて対応に当たった。のち太子中庶子・尚書吏部郎・衛尉卿とされた。569年(2)参照。

江総の登場

 これより前、陳の太子叔宝は左民尚書の江総を太子詹事(東宮内外の事務を取り仕切る)にしようと思い、東宮管記の陸瑜を吏部尚書の孔奐のもとに派してこの事を伝えさせた。すると奐は瑜にこう言った。
「江(江総)は潘・陸(潘岳陸機。共に西晋随一の文人の様な華やかさはあるが、園・綺(東園公綺里季。前漢の著名な隠者)のような質実さは無い。太子を輔弼する役目には相応しくない。」
 瑜がこの事をつぶさに太子に伝えると、太子は非常に不満に思い、今度は自ら宣帝のもとに出向き、総を太子詹事にするよう求めた。帝がこれを許そうとすると、奐は上奏して言った。
「江総は確かに優れた文章の才能を持っておりますが、皇太子殿下は既に優れた文才を備えておられますので、その手を借りる必要はございません! どうか、〔江総のような軽薄な者より、〕真面目でしっかりした者を輔導の職に置かれますよう。」
 帝は言った。
「もし卿の言う通りにするなら、誰を詹事にすればよいか。」
 奐は言った。
「都官尚書の王廓は代々品行の良い者を輩出した家の出身で、しかも誠実・聡明であるので、彼を詹事にするとよいと思います。」
 この時帝の傍にいた太子は、これを聞くとこう言った。
「廓は王泰の子であるゆえ、太子詹事とするのは宜しくない。」(王『泰』と『太』子詹事は同音。父の諱は避けるのが普通
 すると奐は言った。
「宋朝の范曄范泰の子でありましたが、太子詹事とされました。前代の人々は〔父の諱と官職名がかぶることを〕問題にしなかったのです。」
 しかし、太子がなおも強く総の詹事就任を求めると、帝は結局これを聞き入れてしまった。

 江総は字を総持といい、名門済陽考城の江氏の出で、西晋の散騎常侍の江統《徙戎論》の著者)の十世孫である。五世祖の江湛は劉宋の左光禄大夫・開府儀同三司・忠簡公、祖父の江蒨は梁の光禄大夫で、その時代の著名人だった。父の江紑フウ。字は含潔)は本州(南徐州)から招かれて主簿とされたが、父の死に遭うと悲しみの余り体調を崩して夭逝し、《梁書》の孝行伝に載せられた。
 総は七歲にして父を喪い、母方のもとで育てられた。幼くして聡明で、善良そのものな性格をしていた。舅で当時名声のあった呉平光侯の蕭勱は総をとりわけ可愛がり、あるとき総にこう言った。
「お前の品行は非常に正しく、容姿も抜きん出ている。きっと将来私より有名になるだろう。」
 成長すると学問に励み、家伝の書物数千巻を一日中読み続けて、手を止めることが無かった。文才に優れ、十八歳の時に出仕して宣恵武陵王府法曹参軍となった。のち中権将軍・丹陽尹の何敬容が幕府を開き、幕僚を置いた時(537年)、全員貴族の子弟を用いたが、総はその一人に選ばれ、主簿とされた。のち尚書殿中郎とされた。
 梁の武帝が《〔孔子〕正言》〔二十巻〕を編纂し終わって、《述懐詩》(詩集?)を作った際、総はこれに参加して詩を作った。帝はその詩を大いに賞賛した。
 のち(540年頃?)〔尚書〕侍郎とされた。尚書僕射で范陽の人の張纘・度支尚書で琅邪の人の王筠(11)・都官尚書で南陽の人の劉之遴(12)はみな高才碩学の士だったが、彼らは年少にして既に名声を得ている総を重んじ、忘年の交わりを結んだ。
 のち太子洗馬、臨安令、中軍宣城王府限内録事参軍、太子中舍人とされた。
 梁が東魏と国交を通じると、総は徐陵(13)と共に本官のままその使者とされたが、病気のため行かず、侯景(14)が建康に侵攻してくると(548年)総は暫時に兼太常卿とされ、小廟を守備した。台城(内城)が陥ちると(549年)険しい山道を通って会稽郡に避難し、そこに数年滞在した。
 総の第九舅の蕭勃(15)が広州に割拠すると、総は会稽から広州に移り住んだ。梁の元帝(16)侯景を滅ぼすと(552年)、明威将軍・始興内史とされ、郡の秩米八百斛を旅費として支給された。しかし間もなく江陵が陥ちた(554年)ため、行く事はなく、嶺南の地に留まった。
 天嘉四年(563)に中書侍郎とされて建康に帰り、侍中省に宿直した。のち次第に昇進して司徒右長史・掌東宮管記・給事黄門侍郎・領南徐州大中正とされた。のち太子中庶子・通直散騎常侍とされ、東宮管記・中正はそのままとされた。のち左民尚書とされた。

 甲寅(7日)、陳が侍中・尚書右僕射の陸繕(17)を左僕射とし、人事に参与させた。侍中はそのままとした。帝は孔奐を繕の後任にしようとし、詔を出したが、太子の抗議を受けると、改めて晋陵太守の王克(18)を右僕射とした。


 のち、太子は総と夜通し酒を飲んだり、良娣(太子の側室の最高位)の陳氏を総の養女としたり、密かに総の家に行って遊んだりした。毛喜(19)が帝にこの事を告げ、東宮の臣を更迭して太子を戒めるよう求めた。帝は大いに怒り、総を免官処分とした(20)

○陳宣帝紀
 甲寅,以尚書右僕射陸繕為尚書左僕射,新除晉陵太守王克為尚書右僕射。
○陳21孔奐伝
 後主時在東宮,欲以江總為太子詹事,令管記陸瑜言之於奐。奐謂瑜曰:「江有潘、陸之華,而無園、綺之實,輔弼儲宮,竊有所難。」瑜具以白後主,後主深以為恨,乃自言於高宗。高宗將許之,奐乃奏曰:「江總文華之人,今皇太子文華不少,豈藉於總!如臣愚見,願選敦重之才,以居輔導。」帝曰:「即如卿言,誰當居此?」奐曰:「都官尚書王廓,世有懿德,識性敦敏,可以居之。」後主時亦在側,乃曰:「廓王泰之子,不可居太子詹事。」奐又奏曰:「宋朝范曅即范泰之子,亦為太子詹事,前代不疑。」後主固爭之,帝卒以總為詹事,由是忤旨。其梗正如此。初,後主欲官其私寵,以屬奐,奐不從。及右僕射陸繕遷職,高宗欲用奐,已草詔訖,為後主所抑,遂不行。
○陳23陸繕伝
 尋遷左僕射,參掌選事,侍中如故。
○陳27江総伝
 江總字總持,濟陽考城人也,晉散騎常侍統之十世孫。五世祖湛,宋左光祿大夫、開府儀同三司,忠簡公。祖蒨,梁光祿大夫,有名當代。父紑,本州迎主簿,少居父憂,以毀卒,在梁書孝行傳。
 總七歲而孤,依于外氏。幼聰敏,有至性。舅吳平光侯蕭勱,名重當時,特所鍾愛,嘗謂總曰:「爾操行殊異,神采英拔,後之知名,當出吾右。」及長,篤學有辭采,家傳賜書數千卷,總晝夜尋讀,未嘗輟手。年十八,解褐宣惠武陵王府法曹參軍。中權將軍、丹陽尹何敬容開府,置佐史,竝以貴冑充之,仍除敬容府主簿。遷尚書殿中郎。梁武帝撰正言始畢,製述懷詩,總預同此作,帝覽總詩,深降嗟賞。仍轉侍郎。尚書僕射范陽張纘,度支尚書琅邪王筠,都官尚書南陽劉之遴,竝高才碩學,總時年少有名,纘等雅相推重,為忘年友會。…遷太子洗馬,又出為臨安令,還為中軍宣城王府限內錄事參軍,轉太子中舍人。
 及魏國通好,勑以總及徐陵攝官報聘,總以疾不行,侯景寇京都,詔以總權兼太常卿,守小廟。臺城陷,總避難崎嶇,累年至會稽郡。…總第九舅蕭勃先據廣州,總又自會稽往依焉。梁元帝平侯景,徵總為明威將軍、始興內史,以郡秩米八百斛給總行裝。會江陵陷,遂不行,總自此流寓嶺南積歲。天嘉四年,以中書侍郎徵還朝,直侍中省。累遷司徒右長史,掌東宮管記,給事黃門侍郎,領南徐州大中正。授太子中庶子、通直散騎常侍,東宮、中正如故。遷左民尚書,轉太子詹事,中正如故。以與太子為長夜之飲,養良娣陳氏為女,太子微行總舍,上怒免之。
○陳29毛喜伝
 乃言無回避,而皇太子好酒德,每共幸人為長夜之宴,喜嘗為言高宗以誡太子,太子陰患(銜)之,至是(即位後)稍見疎遠。
○南77司馬申伝
 乃短喜於後主曰:「喜臣之妻兄,高帝時稱陛下有酒德,請逐去宮臣,陛下寧忘之邪!」喜由是廢錮。

 ⑴太子叔宝…字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に24歳。西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、宣帝が即位すると太子とされた。のち周弘正に論語と孝経の講義を受けた。573年(3)参照。
 ⑵陸瑜…字は幹玉。若年の頃から学問に熱心で、美しい文章を作った。東宮学士とされると、東宮管記を務めていた兄の陸琰と合わせて二応(応瑒・応璩兄弟)に比せられた。571年に太子叔宝が釋奠(孔子祭)を行なった時、非常に華麗な詩文を作った。のち桂陽王明威将軍功曹史・兼東宮管記とされた。571年(3)参照。
 ⑶孔奐…字は休文。生年514、時に63歳。剛直で生真面目な性格。博覧強記で文才があった。侯景が建康を陥とすとその重臣の侯子鑑に仕え、多くの住民を兵の乱暴から救った。侯景が滅ぶと揚州刺史とされ、陳覇先が実権を握ると司徒右長史・給事黄門侍郎とされた。建康令とされた時に北斉軍の侵入に遭うと、多くの麦飯のおむすびを用意し、勝利に貢献した。のち、晋陵太守とされると清廉で慈愛に満ちた政治を行なって『神君』と称された。文帝が即位すると御史中丞とされ、法律を厳格に執行し、多くの者を弾劾した。政治に通暁し、意見書を提出すれば必ず感嘆を受け、難題があるたびに決裁を求められた。のち中書舎人とされ、詔誥の作成を任された。のち五兵尚書とされ、文帝が病に伏すと到仲挙と共に政治を取り仕切り、廃帝を守り立てることを誓った。廃帝が即位すると国子祭酒とされ、宣帝が実権を握ると尋陽太守とされ、刺史の始興王叔陵を助けた。571年、度支尚書・右軍将軍とされた。574年、吏部尚書とされた。才能を見抜く目があり、家柄の高低にも精通していたので、その人事は誰からも納得を受けた。また、私的な頼み事を一切受けなかった。574年(3)参照。
 ⑷宣帝…陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王頊(キョク)。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に47歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年、北伐を敢行して淮南の地を制圧した。575年(3)参照。
 ⑸王泰…字は仲通。東晋の丞相の王導の五世孫。梁の時代に吏部尚書を務めた。
 ⑹范曄…字は蔚宗。398~445。名門順陽范氏の出で、《後漢書》の著者。442年に太子詹事とされた。445年、謀反を企てて処刑された。
 ⑺蕭勱…字は文約。梁の武帝の従父弟の呉平忠侯・蕭景の子。弟に梁末陳初の群雄の蕭勃がいる。非常な孝行者かつ大の読書家で、淮南・宣城・豫章や広州で善政を行なった。
 ⑻何敬容…字は国礼。名門廬江何氏の出で、色白・美鬚眉で八尺の長身。当時の貴族の風潮に逆らい、文学・芸術を嗜まずに政治に没頭したため、笑いものになった。南斉の武帝の娘を娶った。531年に尚書右僕射、533年に左僕射、537年に丹陽尹、539年に尚書令とされた。544年に免官とされたが、のち復帰して侍中・太子詹事とされた。侯景に対しては受入れ拒否派で、太子が老荘に凝っている事にも不安を口にした。侯景が乱を起こし建康を包囲すると、その最中に病没した。
 ⑼梁の武帝…蕭衍。字は叔達。464~549。梁の初代皇帝。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。その後約半世紀に亘って江南に平和をもたらしたが、仏教に傾倒して仏寺に捨身したり、子どもたちに寛容すぎてわがままにさせたりと問題も起こした。548年、東魏の降将の侯景に叛乱を起こされ、翌年建康を陥とされ、餓死に追い込まれた。
 ⑽張纘…字は伯緒。499~549。名門范陽張氏の出。父は衛尉卿の張弘策。身長は七尺四寸で、眉目秀麗だった。梁の武帝の第四女を娶った。学問を好み、数万巻の書物を集め、文集二十巻を著した。湘州刺史とされると善政を行なった。548年に雍州刺史とされたが、侯景の乱が起こると岳陽王詧に交代を拒まれて捕らえられ、最後には殺された。
 (11)王筠…字は元礼、或いは徳柔。482~550。名門琅邪王氏の出。六尺に満たない身長だったが、温厚・謙虚で文才をひけらかさなかったので人々に敬い重んじられた。540~546年に度支尚書を務めた。のち司徒左長史とされ、簡文帝が即位すると太子詹事とされたが、盗賊に襲われて殺された。
 (12)劉之遴…字は思貞。478~549。名門南陽劉氏の出。文才に優れ、学問の造詣が非常に深かった。都官尚書や太常卿を務めた。侯景の乱が起こると江陵に避難したが、刺史の湘東王繹に才能を妬まれて毒殺された。
 (13)徐陵…字は孝穆。名文家の徐摛の子。生年507、時に70歳。もと梁の臣。文才があり、庾信と並び称された。また、弁舌にも長けた。548年に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発すると抑留され、555年に帰国を許された。565年に御史中丞とされると、権勢を誇っていた安成王(宣帝)の部下を容赦なく弾劾した。566年、吏部尚書とされると公平な任用を行ない、曹魏の毛玠に比せられた。569年に右僕射、570年に尚書僕射、572年に左僕射とされた。陳が北伐を行なうと、呉明徹を元帥に推薦した。575年、仕事上のいざこざにより、侍中・僕射を解任された。間もなく領軍将軍とされた。575年(3)参照。
 (14)侯景…字は万景。503~552。東魏の臣。高歓の死後亡命した梁にて叛乱を起こし、都の建康を陥として漢を建国したが、552年、王僧弁・陳覇先の連合軍に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。552年(2)参照。
 (15)蕭勃…曲江候勃。?~557。梁の武帝の従父弟の子。侯景の乱後、広州に割拠した。557年、兵を起こして陳覇先と対決したが、前軍が敗れて劣勢になった所で部下に叛かれ、殺害された。557年(1)参照。
 (16)元帝…字は世誠。幼名は七符。508~554。梁の武帝の第七子。生まれつき片目に異常があり、のち失明した。頭の回転が非常に速く博学多才だったが、残忍で疑い深く利己的な性格で、侯景の乱が起こると皇帝になりたいがために武帝と太子を見殺しにし、更に他の兄弟や甥たちも殺害した。552年に侯景を滅ぼし、皇帝に即位して江陵に都したが、554年、西魏の侵攻を受けて捕らえられ、殺された。
 (17)陸繕…字は士繻。生年518、時に59歳。名門呉郡陸氏の出身。承聖年間(552~555)に中書侍郎・掌東宮管記とされ、江陵が西魏に陷とされると建康に逃亡した。のち給事黄門侍郎や侍中、新安太守とされ、陳の文帝が即位すると太子中庶子・掌東宮管記とされた。容姿端麗で立ち居振る舞いにも品があったので、帝の子どもたちの手本とされた。陳宝応を滅ぼすと(564年)、建安太守とされた。のち御史中丞とされ、太建の初め(569)に度支尚書・侍中・太子詹事・行東宮事・領揚州大中正とされた。575年、尚書右僕射とされた。575年(3)参照。
 (18)王克…東晋の丞相の王導の末裔で、王繢の孫。美男子。梁代に守吏部尚書→尚書僕射とされた。文弱の徒であったため侯景の警戒を受けず、簡文帝の居室への出入りを許された。太宰とされ、梁将の王僧弁が景を破ると建康の台城門を開き、梁朝の旧臣を率いて出迎えた。この時、僧弁に「さぞ辛かったでしょう。夷狄の君主に仕えるのは」「王氏は百世の卿族でありましたが、その名声も一朝にして地に墜ちましたな」と嫌味を言われた。552年(2)参照。
 (19)毛喜…字は伯武。生年516、時に61歳。幼い頃から学問を好み、達筆だった。梁の中衛西昌侯記室参軍。陳の武帝に才能を評価され、江陵に行く安成王頊(のちの宣帝)の世話役とされた。江陵が陥落すると関中に拉致された。561年に陳に返されると、文帝に北周と和を結ぶよう進言した。562年、帰国した頊の出迎えを任された。その後は頊の府諮議参軍・中記室とされ、文書の作成を一任された。文帝が死に廃帝が継ぎ、反頊派の到仲挙らが頊を宮廷から追い出そうとすると、その危険性を察知して頊に宮廷から出ないよう諌めた。また、反頊派の韓子高に精良な兵馬や鉄炭を送って油断させるよう勧めた。頊が即位して宣帝となると給事黄門侍郎・兼中書舍人とされ、国家の機密事項を司った。のち御史中丞や五兵尚書(のちの兵部尚書)を歴任した。567年(1)参照。
 (20)毛喜伝はこの記事を577~578年の淮北攻めの後に置いているので、そこから宣帝が死ぬまでの578~582年辺りに起きた出来事なのだろう。
 

趙彦深の死

 北周の利州(晋寿。剣閣の東北百九十里)総管・利始等五州大小剣二防諸軍事・利州刺史の紀王康は傲慢で臣下としての分を守らず、幕僚の盧奕らを信任し、兵器を修繕して叛乱を図った。司録の裴融が諫止すると、康は〔激怒して〕これを殺してしまった。
 丙辰(9日)、北周が康を自殺させ、子の宇文湜に王位を継がせた。


 丁巳(10日)武帝が雲陽宮に赴いた。

 これより前、北斉の司徒・宜陽王の趙彦深は、母の傅氏の死に遭い喪に服していたが、間もなく本官に復帰していた。
 庚申(13日)、急病により逝去した(享年70)。
 彦深は高歓から後主までの六君に仕え、常に機密に参与した。性格は温和・控えめで、感情を表に出さなかった。皇建年間(560~561)以降にだんだんと礼遇を受けるようになり、事あるごとに引見を受け、ある時は御榻(皇帝用の座臥具)に同座する栄誉を受けた。また、いつも官名で呼ばれ、名前では呼ばれない礼遇も受けた。人材登用の際は品評を任されたが、その際は〔才能よりも〕品行を優先し、道徳心の無い者は薦めなかった。また、常に謙虚で一度も偉ぶることがなかったため、左遷を受けても中央に復帰することができた。北斉の宰相で良く終わりを全うできたのは、彦深一人だけだった。
 母の傅氏は節操と見識があった。彦深が三歲の時(509年)、傅氏は夫(趙奉伯)を亡くして未亡人となった。家人に再婚を勧められたが、傅氏はそんなことをするくらいなら死を選ぶと言って聞かなかった。彦深が五歲の時(511年)、傅氏は彦深にこう言った。
「家は貧しく、お前も幼い。これで生きていけるのだろうか。」
 彦深は泣いてこう言った。
「もし天が僕たちを憐れんでくださって無事生き抜くことができましたら、大きくなった時、きっとお母様に恩返しをいたします。」
 傅氏はその健気さに感動し、涙を流した。のち、彦深は太常卿とされると、家に帰るなり朝服を脱ぐこともなく傅氏に会い、跪いてこう言った。
「私は幼小の頃早くに父を喪いましたが、母上の教えのおかげでここまで至ることができました。」
 親子は感極まり、暫くの間共に涙を流した。そののち、彦深はようやく朝服を脱いだ。のち、彦深が宜陽王とされると、傅氏は宜陽国太妃とされた。

 秋、7月、丁丑(1日)、北斉の鄴一帯にて長雨が降り続いた。
 この月、水害が発生し、多くの者が作物全滅により難民となった。そこで使者を派遣し、難民たちを救済させた。

 乙未(19日)、北周の長安一帯にて日照りがあった。

○周武帝紀
 丙辰,利州總管、紀王康有罪,賜死。丁巳,行幸雲陽宮。秋七月乙未,京師旱。
○北斉後主紀
 庚申,司徒趙彥深薨。秋七月丁丑,大雨霖。是月,以水澇遣使巡撫流亡人戶。
○周13紀厲王康伝
 仍出為總管利始等五州、大小劍二防諸軍事、利州刺史。康驕矜無軌度,信任僚佐盧奕等,遂繕脩戎器,陰有異謀。司錄裴融諫止之,康不聽,乃殺融。五年,詔賜康死。子湜嗣。
○北斉38趙彦深伝
 丁母憂,尋起為本官。七年六月暴疾薨,時年七十。
 彥深歷事累朝,常參機近,溫柔謹慎,喜怒不形於色。自皇建以還,禮遇稍重,每有引見,或升御榻,常呼官號而不名也。凡諸選舉,先令銓定,提奬人物,皆行業為先,輕薄之徒,弗之齒也。…常遜言恭己,未嘗以驕矜待物,所以或出或處,去而復還。母傅氏,雅有操識。彥深三歲,傅便孀居,家人欲以改適,自誓以死。彥深五歲,傅謂之曰:「家貧兒小,何以能濟?」彥深泣而言曰:「若天哀矜,兒大當仰報。」傅感其意,對之流涕。及彥深拜太常卿,還,不脫朝服,先入見母,跪陳幼小孤露,蒙訓得至於此。母子相泣久之,然後改服。後為宜陽國太妃。…齊朝宰相,善始令終唯彥深一人。

 ⑴紀王康…字は乾定(安?)。北周の初代皇帝の孝閔帝(武帝の弟)の子。母は陸夫人。561年に紀国公、574年に王とされ、利州総管とされた。
 ⑵雲陽宮…もと甘泉宮。長安の西北にある。宇文泰が亡くなった場所。
 ⑶趙彦深…本名隠。彦深は字。生年507、時に70歳。能吏で後主八貴の一人。3歳の時に父を亡くし、貧しい中母親に女手一つで育てられ、非常な母親思いとなった。頭が良く読み書きや計算を得意とした。静かに暮らすことを好み、人と無闇に付き合わず、意見はどれも納得するものばかりだった。朝方に自ら門の外を掃除したが、人にその姿を見せることは無かった。尚書令の司馬子如に認められて出世し、高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄・文宣帝に重用を受け、依然として機密に携わった。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。楊愔が誅殺されると(560年)代わりに宰相とされた。565年に尚書左僕射、567年に尚書令とされた。のち宜陽王・并省録尚書事とされ、571年、司空とされたが、祖珽との政争に敗れて西兗州刺史に左遷された。573年、復帰して司空とされた。575年、司徒とされた。575年(3)参照。

劉雄の奮戦


 これより前、北周の太子贇は吐谷渾の討伐に赴いていた(2月12日参照)。
〔開府・河州刺史の〕宇文雄劉雄)は〔柱国の〕滕王逌の指揮のもと、本軍に先駆けて涼州より吐谷渾の領内に侵入し、伏俟城(吐谷渾の首都。青海の西十五里)まで二百余里の所にまで到った。そこで逌は雄を伏俟城の東に先遣し、本軍と呼応するための合図となる火を挙げさせた。すると、吐谷渾の洮王が七百余騎を率いて迎撃してきた。雄はこの時配下の兵のうち数百を方々に斥候として出しており、傍には二十人ばかりしかいなかったが、襲来を察知すると即座にこれと戦い、七十余の首級を挙げ、こちらは三騎を喪った。これ以降も雄は逌と共に連戦し、多くの戦功を挙げ、非常な数の褒美を与えられた。
 本軍が青海を渡って伏俟城に到ると、夸呂可汗は遁走した。そこで太子贇は残された者たちを捕虜にして帰還の途に就いた。この時、殿軍の伊婁穆が吐谷渾軍の攻撃を受け包囲された。太子贇は雄を救援に向かわせた。雄は千騎を率いて吐谷渾軍を撃ち、包囲を解かせた。帰還すると雄は三百戸を加増され、上開府儀同大将軍とされた。
 吐谷渾の討伐の間、拓抜雅李雅は二千の兵を率いて洮河にて兵糧輸送の監督を任されていた。のち吐谷渾軍の追撃を受け、数日間に亘って相い対峙した。雅はこの苦境を打開するため、偽和を結び、吐谷渾軍がやや警戒を解いた所を奇襲して擊破した。この功により奴隷百人を与えられ、一子を侯とされた。
 可頻謙王謙)も力戦して功を挙げた。
 宇文徹李徹)も功を挙げ、同昌県男(邑三百戸)とされた。
 宮尹[1]宇文訳鄭訳は吐谷渾の討伐に最も功があったとされ、開国子(邑三百戸)とされた。
 8月、戊申(2日)、長安に帰還した。

 乙卯(9日)、北周の武帝が雲陽宮から長安に帰った(7月10日参照)。

○周武帝紀
 八月戊申,皇太子伐吐谷渾,至伏俟城而還。乙卯,至自雲陽宮。
○周21王謙伝
 從皇太子討吐谷渾,力戰有功。
○周29伊婁穆伝
 五年,從皇太子討吐谷渾。還,穆殿,為渾人圍。會劉雄救至,乃得解。
○周29劉雄伝
 五年,皇太子西征吐谷渾,雄自涼州從滕王逌率軍先入渾境,去伏侯城二百餘里,逌遣雄先至城東舉火,與大軍相應。渾洮王率七百餘騎逆戰。雄時所部數百人先竝分遣斥候,在左右者二十許人。雄即率與交戰,斬首七十餘級,雄亦亡其三騎。自是從逌連戰之,雄功居多,賞物甚厚。及軍還,伊婁穆殿,為賊所圍。皇太子命雄救之。雄率騎一千解穆圍。增邑三百戶,加上開府儀同三司。
○周50吐谷渾伝
 建德五年,其國大亂。高祖詔皇太子征之,軍渡青海,至伏俟城。夸呂遁走,虜其餘眾而還。
○隋37李穆伝
 拜開府儀同三司,領左右軍。其年,從太子西征吐谷渾,雅率步騎二千,督軍糧於洮河,為賊所躡,相持數日。雅患之,遂與偽和,虜備稍解,縱奇兵擊破之。賜奴婢百口,封一子為侯。
○隋54李徹伝
 武帝時,從皇太子西征吐谷渾,以功賜爵同昌縣男,邑三百戶。

 ⑴滕王逌(ユウ)…字は爾固突。宇文泰の十三子。幼い頃から読書を好み、詩文を理解した。571年に大将軍、572年に柱国、574年に王とされた。574年(1)参照。
 ⑵夸呂(カロ)可汗…慕容夸呂。吐谷渾可汗。吐谷渾の君主で初めて可汗を名乗って伏俟城を本拠とし、王・公・僕射・尚書・郎中・将軍などの中国風の官名を用いた。556年、突厥が西魏と共に吐谷渾を攻めると都を捨てて避難し、妻子を捕虜とされた。556年(4)参照。
 [1]宮尹…太子宮尹。恐らく太子詹事の職であろう。
 ⑶拓抜雅(李雅)…柱国大将軍の李穆の子。若くして識見・度量があった。保定年間(561~566)に戦功を立てて大都督・西安県男とされた。567年、拓跋定の陳討伐に参加し、敗北して捕らえられた。のち帰国を許され、開府・領左右軍とされた。567年(3)参照。
 ⑷宇文訳(鄭訳)…字は正義。生年540、時に37歳。北周の少司空の宇文孝穆(鄭孝穆)の子。幼い頃から聡明で、本を読み漁り、騎射や音楽を得意とした。一時宇文泰の妃の元后の妹の養子となり、その縁で泰の子どもたちの遊び相手とされた。  輔城公邕に仕え、邕が即位して武帝となると左侍上士とされ、儀同の劉昉と共に常に帝の傍に侍った。帝が親政を行なうようになると御正下大夫とされ、非常な信任を受けた。魯公贇が太子とされると、太子宮尹下大夫とされてその傍に仕えた。贇は訳を気に入り、親しく接した。573年、副使として北斉に派遣した。 573年(1)参照。
 
  
 576年(2)に続く