[北周:建徳四年 北斉:武平六年 陳:太建七年 後梁:天保十三年]

●伐斉告示

 丁卯(7月15日)、北周の武帝が雲陽宮から長安に帰った。

 甲戌(22日)、陳の使者が北周に到着した。


 この日、北斉の後主が晋陽に赴いた。


 これより前、北周の武帝は内史(中書令)の拓王誼王誼)にのみ伐斉計画を相談していた。のち、弟たちの中で一番有能な〔大冢宰の〕斉王憲にもこの事を告げると、即座に賛同を受けた。
 また、納言(北周は564年に御伯を納言に改めた。侍中)の盧韞を早馬に乗せて三たび安州(安陸。江陵の東北)総管の万紐于翼于翼のもとに到らせ、伐斉の策について尋ねた。
 また、今年に同州蒲津潼関等六防諸軍事・同州刺史としていた尉遅運を長安に呼んで伐斉について諮った。
 伐斉計画は極秘とし、他の者たちには全く知らせなかった。
 丙子(24日)、大将軍以上の者たちを大徳殿に集め、初めて伐斉計画を告げて言った。
「太祖(宇文泰)は天命を受けて王業の礎を築き、傑出した軍事の才能によって労することなく賊徒を平定されたが、ただ彼の偽斉のみ、何度征伐を行なっても討平することはできなかった。朕は愚昧の身でありながら帝位を継ぎ、〔亡き太祖の悲願である伐斉を志したが、悲しいかな、〕政権が宰相(晋公護)の手に在ったため、これに注力することができなかった。〔しかし、宰相を誅し、〕親政を行えるようになってから、朕は東討の実現に邁進し、倹約に努めて軍備を整え、数年でなんとか少しは格好のつくものとなった。ただ、彼の偽主(後主)は暗愚・暴虐で人民のことを顧みぬ者であるゆえ、討伐するにはもはや充分である。今もし、各所より出兵し、水陸より同時に進軍し、北は太行陘、東は黎陽の要所を抑えたのち、河陰を陥とす事ができれば、兗・豫の地は檄文を送るだけで平定することができるだろう。しかるのちに軍備の完成を待ち、それから彼の本拠に攻め込めば、たった一戦で滅ぼすことができるだろう。王公はこれについてどう思うか?」
 群臣はみな賛成した。

 拓王誼生年540、時に36歳)は字を宜君といい、河南洛陽の人である。父は北周の大将軍・鳳州刺史・洛邑県公の拓王顕王顕)で、従祖父は開府・太傅・長楽郡公の拓王盟王盟
 誼は若年の頃から意気軒昂として大志を抱き、弓術・馬術を得意とし、書物を広く読み漁った。北周の孝閔帝の時(557年)に左中侍上士とされた。この時、大冢宰の晋公護が政権を握り、その権勢は帝室を凌ぐほどで、帝はお飾りで政治に全く関わることができなかった。そのため、帝の側近の朝士ですらやや不敬な所が見られた。誼がこれを見て顔色をサッと変え、進み寄って朝士に殴りかかろうとすると、朝士は恐れおののいて謝罪したので、誼は殴るのをやめた。これ以降、朝士たちはみな帝にきちんと礼を執るようになった。一年あまりののち、御正大夫(散騎常侍?)とされた。父が亡くなると度を越した悲しみようを見せて痩せ細り、墓の傍に庵を建て、自ら土を運んで盛り土をした。一年あまりののち雍州別駕(次官)とされると固辞したが許されなかった。武帝が即位すると儀同とされ、のち次第に昇進して内史大夫とされた。

 この時、内史都上士の宇文㢸ヒツ)が献策して言った。
「斉氏は建国されてから代を重ねておりますゆえ、君主がいくら無道な政治を行なっていても、守将にはまだ見るべきものがおります。ゆえに、戦場の選択には慎重を期さねばなりません。河陽は要衝の地で精鋭が集結しているため、全力で攻囲しても陥とすのは難しいでしょう。臣が見ます所、彼の汾曲(晋州一帯?)が拠点も小規模で地形も平坦で、攻略が容易であるように思います。こたびの戦場はこの地ほど良い場所はありません。どうか陛下、よくよくご検討くださいますよう。」
 帝は聞き入れなかった。

 宇文㢸は字を公輔といい、河南洛陽の人で、その祖先は北周の皇室と同じである。祖父の宇文直力覲は北魏に仕えて鉅鹿太守とされ、父の宇文珍は北周に仕えて宕州刺史とされた。
 㢸は気概があって一本筋が通っており、博学多識だった。北周に仕えて礼部上士とされた。あるとき鄧至国(天水の西南にあった羌族の国)や黒水・龍涸にいる羌族のもとに使者として赴き、三十余部落を帰順させた。帰還すると五礼(吉礼・凶礼・賓礼・軍礼・嘉礼。国家の儀礼制度)の修定を行ない、書物を完成させると公田十二頃と穀物百石を恩賞として与えられた。のち次第に昇進して少吏部とされ、八人を県令に選任すると、みな優れた政績を挙げた。そのため、人々から人を見る目があると称賛された。のち、内史都上士とされた。

 また、民部中大夫の趙煚も諫めてこう言った。
「河南洛陽城は開けた地に在って四方より攻撃を受ける場所でありますゆえ、もし攻略する事ができたとしても維持することは難しいように思われます。それなら河北郡(弘農の近北)より直接敵の本拠である太原(并州晋陽)を突き、一気に滅ぼしてしまった方がいいように思います。」

 また、遂伯下大夫の鮑宏もこう言った。
「我が国は強国であるのに対し、斉氏は弱く、国力は同等ではありません。また、斉主は小人を近づけて政治も刑罰も日に日にでたらめになっているのに対し、至尊(武帝)は寛大で思いやりがあり、法令も基準を厳格に守って公正であります。国力も君主もこのように優劣がはっきりしているのですから、勝てない心配をする必要はありません。ただ、〔至尊が攻めようとなさっている〕洛陽は、先皇(宇文泰)が何度攻めても勝てなかった備えのある場所であります。ゆえに、ここは〔我が国があまり攻撃をしたことが無く、斉があまり備えをしていない〕汾・潞(平陽・上党)方面に兵を進め、一気に敵の本拠の晋陽を突くのが良いと思います。」
 帝は聞き入れなかった

○周武帝紀
 丁卯,至自雲陽宮。甲戌,陳遣使來聘。丙子,召大將軍以上於大德殿,帝曰:「太祖神武膺運,創造王基,兵威所臨,有征無戰。唯彼偽齊,猶懷跋扈。雖復戎車屢駕,而大勳未集。朕以寡昧,纂承鴻緒,往以政出權宰,無所措懷。自親覽萬機,便圖東討。惡衣菲食,繕甲治兵,數年已來,戰備稍足。而偽主昏虐,恣行無道,伐暴除亂,斯實其時。今欲數道出兵,水陸兼進,北拒太行之路,東扼黎陽之險。若攻拔河陰,兗、豫則馳檄可定。然後養銳享士,以待其至。但得一戰,則破之必矣。王公以為何如?」羣臣咸稱善。

○北斉後主紀

 秋七月甲戌,行幸晉陽。

○周12斉煬王憲伝
 四年,高祖將欲東討,獨與內史王誼謀之,餘人莫得知也。後以諸弟才略,無出於憲右,遂告之。憲即贊成其事。
○周30于翼伝
 四年,高祖將東伐,朝臣未有知者,遣納言盧韞等前後乘驛,三詣翼問策焉。翼贊成之。
○周40尉遅運伝
 四年,出為同州、蒲津、潼關等六防諸軍事、同州刺史。高祖將伐齊,召運參議。
○隋40王誼伝
〔王盟…兄子顯,幼而敏悟,沉靜少言。初為周文帳內都督,累遷驃騎大將軍、開府儀同三司、光祿卿、鳳州刺史。賜爵洛邑縣公,進位大將軍,卒。子誼。〕王誼字宜君,河南洛陽人也。父顯,周鳳州刺史。誼少慷慨,有大志,便弓馬,博覽羣言。周閔帝時,為左中侍上士。時大冢宰宇文護執政,勢傾王室,帝拱默無所關預。有朝士於帝側,微為不恭,誼勃然而進,將擊之。其人惶懼請罪,乃止。自是朝士無敢不肅。歲餘,遷御正大夫。丁父艱,毀瘁過禮,廬於墓側,負土成墳。歲餘,起拜雍州別駕,固讓,不許。武帝即位,授儀同,累遷內史大夫。
○隋46趙煚伝
 武帝出兵鞏、洛,欲收齊河南之地。煚諫曰:「河南洛陽,四面受敵,縱得之,不可以守。請從河北,直指太原,傾其巢穴,可一舉以定。」帝不納。
○隋56宇文㢸伝
 宇文㢸字公輔,河南洛陽人也,其先與周同出。祖直力覲,魏鉅鹿太守。父珍,周宕州刺史。㢸慷慨有大節,博學多通。仕周為禮部上士,嘗奉使鄧至國及黑水、龍涸諸羌,前後降附三十餘部。及還,奉詔修定五禮,書成奏之,賜公田十二頃,粟百石。累遷少吏部,擢八人為縣令,皆有異績,時以為知人。轉內史都上士。武帝將出兵河陽以伐齊,謀及臣下,㢸進策曰:「齊氏建國,于今累葉,雖曰無道,藩屏之寄,尚有其人。今之用兵,須擇其地。河陽衝要,精兵所聚,盡力攻圍,恐難得志。如臣所見,彼汾之曲,戍小山平,攻之易拔。用武之地,莫過於此,願陛下詳之。」帝不納,師竟無功。
○隋66鮑宏伝
 帝嘗問宏取齊之策,宏對云:「我強齊弱,勢不相侔。齊主昵近小人,政刑日紊,至尊仁惠慈恕,法令嚴明。事等建瓴,何憂不剋。但先皇往日出師洛陽,彼有其備,每不剋捷。如臣計者,進兵汾、潞,直掩晉陽,出其不虞,以為上策。」

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に33歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。575年(1)参照。
 ⑵後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に20歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。575年(1)参照。
 ⑶斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に32歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年に益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されるとやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。574年(3)参照。
 ⑷万紐于翼(于翼)…字は文若。柱国・燕国公の于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。のち開府儀同三司・渭州刺史とされ、吐谷渾と戦った。麟趾学が建てられるとその席次を定めた。明帝が亡くなると晋公護と共に遺詔を受け、武帝を立てた。568年に突厥から阿史那皇后が嫁いでくると婚礼の監督役を任せられた。また、人を見る目があったため、帝の弟や子どもの幕僚の選任を任された。のち大将軍・総中外宿衛兵事とされた。護はその重用ぶりを快く思わなかった。571年、柱国とされた。帝が護を誅殺した時、その世子の中山公訓を呼び出す役に指名されたが、自分では失敗すると言って越公盛を代わりに勧め、成功させた。武帝が東討を図って国境の軍備を増強すると、それでは警戒を呼んでしまうとして反対し、国交を結んで油断させることを提言して許可された。573年(2)参照。
 ⑸尉遅運…生年539、時に37歳。故・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。571年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。斛律光が汾北に侵攻してくるとこれを迎撃し、伏龍城を陥とした。572年に右侍伯とされ、のち右司衛とされた。のち忠良・剛直な点を評価され、右宮正とされて太子贇の匡弼を任された。衛王直の乱が起きると、宮城を守り切る大功を立て、大将軍とされた。574年(2)参照。
 ⑹拓王盟(王盟)…字は子仵。?~545。宇文泰の母の兄。楽浪王氏の出とされる。西魏に仕えて開府・太傅・長楽郡公とされ、拓王氏の姓を与えられた。立ち居振る舞いが上品で、誰にも優しく接し、師傅の位に就いて、百官の中で一番の礼遇を受けても常に恭しい態度をとって威張ることが一度も無かったので宇文泰に尊重された。545年(1)参照。
 ⑺趙煚(ケイ)…字は賢通。生年532、時に44歳。天水西県の人。幼少の頃に父を喪い、母に養われ、良く孝行を尽くした。宇文泰に用いられて丞相府参軍事となり、河南方面で北斉軍と戦った。北周が建国されると硤州(夷陵)刺史とされ、蛮族の酋長の向天王が叛乱を起こし、信陵・秭歸を攻めると(566~567年頃?)、手勢五百を率いて奇襲して破り、二郡を守り抜いた。のち硤州の西南岸にある安蜀城を蛮族や陳将の呉明徹から守り切り、その功により開府儀同三司・荊州総管府長史とされた。のち、民部中大夫とされた。 570年(2)参照。
 ⑻鮑宏…字は潤身。もと梁の臣。兄は鮑泉。文才があり、湘東王繹(のちの梁の元帝)に気に入られて中記室とされた。西魏が江陵が陥とすと長安に連行された。のち、北周の明帝から非常な礼遇を受け、麟趾殿学士とされた。のち、次第に昇進して遂伯下大夫とされ、陳に使者として赴き、北斉攻めの約束を取り付けた。572年(4)参照。
 ⑼隋66鮑宏伝では『鮑宏の言は聞き入れられた』とあり、これから推測するに、鮑宏の言のみこの時の出来事では無いように思われる。ただ、今は資治通鑑がここに載せていることと、まとめて記したほうが分かりやすいことからここに載せた。

●出陣
 丁丑(25日)、詔を下して言った。
「高氏は時勢を利用して臣従せず、長きに亘って汾・漳(晋陽・鄴一帯)の地を占拠し、皇帝を僭称した。朕は寛大な心を以てその改心を待ち、心を堪えてこれと通好を結び、人民の休息に務めた。しかるに彼は改心せず、信義に背いて我が国への侵略を行なった。昔、彼の軍が宜陽(孔城)に攻め寄せてきた(569~570年)のが両者の仲違いの始まりであり、のちの汾曲での戦い(570~571年)も彼が先に仕掛けてきたものだった。この一連の戦役の間、我らは捕虜を獲るたび丁重な礼を以て送り返したが、彼は捕虜を一度も送り返すことが無かった。これに加え、高氏はでたらめな刑罰を行ない、重税を課したため、斉・魯の民は生活に困窮し、幽・并の民は救いが来るのを待ち望んでいる有様である。このように、既に彼の罪過は極まり、人心が離れ身内の者ですら離反する(574年の南安王思好の乱の事を指すか。この年、北周も衛王直の乱が起きているので人の事は言えない気がする)状態にあるのであるから、〔改心はあり得ない。〕一戦交えねば、天下は安定しないであろう。
 今は涼風が吹く秋の季節で、兵を起こして暴虐に罰を加えるのに適している時節である。ゆえに、朕は今、自ら六軍を率い、天意に従って高氏に罰を加える。祖宗の霊の御加護と将兵の尽力があれば、天下はたちどころに平定できるであろう。よって今より諸軍に命を下す。指定の期日に進発せよ。」
 かくて、柱国〔で陝州(弘農)総管?〕の陳王純を前一軍総管とし、〔大司寇・〕滎陽公の司馬消難を前二軍総管とし、〔金州総管?・〕鄭国公の達奚震を前三軍総管とし、〔蒲州総管の?〕越王盛を後一軍総管とし、〔秦州総管?・〕周昌公の侯莫陳瓊を後二軍総管とし、〔雍州牧の?〕趙王招を後三軍総管とした。
 また、
 斉王憲に二万の兵を与えて黎陽に赴かせ、
 ②隨国公の普六茹堅楊堅と広寧侯の薛迴回? 字は道弘?)に水軍三万を与えて渭水より黄河に入らせ、
 ③柱国・梁国公の侯莫陳芮に一万の兵を与えて太行道を守らせ、
 ④〔原州総管?・〕申国公の拓抜穆李穆に三万の兵を与えて軹関・柏崖および河北の諸県の攻略ののち河陽道を守らせ、
 ⑤〔安州総管・〕常山公の万紐于翼于翼)に荊・楚の兵二万を与えて陳・汝(どちらも豫州の領域)に赴かせた。

 この時、斉王憲は上表して言った。
「臣が所有する十六個の財宝を献上します。少しでも軍資金の助けになれば幸いであります。」
 帝はこれを断った。ただ、憲の上表文を高官たちに見せてこう言った。
「人臣とはかくあるべきだ。ただ、朕はこの心がけだけで充分嬉しい。どうして物を求めたりしようか。」

 帝は〔礼部下大夫の〕盧愷(11)に布告文を作らせた。〔愷が書き上げると、〕帝はその出来に大いに満足してこう言った。
「盧愷は良い文章を書くようになった。荀景倩顗。荀彧の第六子)のように、『令君(尚書令の敬称。荀彧。ここでは盧柔)の子』だけのことはある。」

 壬午(30日)武帝自ら六軍の兵六万を率い、河陰に直進した。

○周武帝紀
 丁丑,詔曰:「高氏因時放命,據有汾、漳,擅假名器,歷年永久。朕以亭毒為心,遵養時晦,遂敦聘好,務息黎元。而彼懷惡不悛,尋事侵軼,背言負信,竊邑藏姦。往者軍下宜陽,釁由彼始;兵興汾曲,事非我先。此獲俘囚,禮送相繼;彼所拘執,曾無一反。加以淫刑妄逞,毒賦繁興,齊、魯軫殄悴之哀,幽、并啟來蘇之望。既禍盈惡稔,眾叛親離,不有一戎,何以大定。今白藏在辰,涼風戒節,厲兵詰暴,時事惟宜。朕當親御六師,龔行天罰。庶憑祖宗之靈,潛資將士之力,風馳九有,電掃八紘。可分命眾軍,指期進發。
 以柱國陳王純為前一軍總管,滎陽公司馬消難為前二軍總管,鄭國公達奚震為前三軍總管,越王盛為後一軍總管,周昌公侯莫陳瓊為後二軍總管,趙王招為後三軍總管,齊王憲率眾二萬趣黎陽,隨國公楊堅、廣寧侯薛迴舟師三萬自渭入河,柱國梁國公侯莫陳芮率眾一萬守太行道,申國公李穆帥眾三萬守河陽道,常山公于翼帥眾二萬出陳、汝。壬午,上親率六軍,眾六萬,直指河陰。
○隋高祖紀
 建德中,率水軍三萬。
○周12斉煬王憲伝
 及大軍將出,憲表上私財以助軍費曰:「…謹上金寶等一十六件,少助軍資。」詔不納,而以憲表示公卿曰:「人臣當如此,朕貴其心耳,寧須物乎。」乃詔憲率眾二萬為前軍,趣黎陽。
○周30于翼伝
 及軍出,詔翼率荊、楚兵二萬。
○周30李穆伝
 四年,高祖東征,令穆率兵三萬,別攻軹關及河北諸縣。
○隋56盧愷伝
 四年秋,李穆攻拔軹關、柏崖二鎮,命愷作露布,帝讀之大悅,曰:「盧愷文章大進,荀景倩故是令君之子。」

 ⑴陳王純…字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州(天水)総管とされた。570年、陝州(弘農)総管とされ、田弘と共に宜陽の攻略に向かった。574年、王とされた。570年(1)参照。
 ⑵司馬消難…字は道融。北斉の太尉の司馬子如の長子。幼い頃から聡明で、歴史書を読み漁り、風格があった。ただ見栄っ張りで、名誉を求める所があった。高歓の娘の高氏を娶った。北豫州刺史とされると汚職を働き、御史中丞の畢義雲の捜査を受けた。また、浮気癖があったため高氏に嫌われ、讒訴された。また、上党王渙を匿ったという嫌疑もかけられると、身の危険を感じて遂に叛乱を起こして北周に降り、小司徒・大将軍・滎陽公とされた。この時救援に来てくれた楊忠と義兄弟となり、たいへん親密な間柄となった。忠の子の楊堅とも叔父・甥のような親密な関係となった。571年に柱国、573年に大司寇とされた。573年(2)参照。
 ⑶達奚震…字は猛略。故・太傅の達奚武の子。馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を有し、巻狩りの際、宇文泰の前で兎を一矢で仕留めた。559年、華州(華山。長安の東)刺史とされると善政を行なった。564年、洛陽の戦いの際では父と共に殿軍を務め、被害を出さずに帰還に成功した。566年に大将軍とされ、稽胡を討伐した。571年に柱国、573年に金州総管とされた。573年(3)参照。
 ⑷越王盛…字は立久突。宇文泰の第十子。母は不明で、武帝の異母弟。571年に柱国とされた。晋公護誅殺の際、蒲州に行って護の子の中山公訓を長安に呼ぶ役目を任された。574年、王とされた。572年(2)参照。
 ⑸侯莫陳瓊…字は世楽。故・柱国の侯莫陳崇の弟。良く母や兄に仕えた。梁仚定の討伐に参加し、のち、北秦州刺史→郢州刺史とされた。560年に金州総管、561年に大将軍、569年に荊州総管、571年に柱国、573年に大宗伯、574年に秦州総管とされた。574年(3)参照。
 ⑹趙王招…字は豆盧突。宇文泰の第七子で武帝の異母弟。母は王姫。文学を愛好し、著名な文人の庾信と布衣の交わりを結んだ。562年、柱国とされ、益州総管を570年まで務めた。572年に大司空→大司馬、574年に王・雍州牧とされた。575年(1)参照。
 ⑺普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に35歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。557年、右小宮伯(侍衛の官)・大興郡公とされた。560年、左小宮伯とされた。のち隨州刺史とされ、大将軍とされた。のち長安に呼び戻され、苦桃が三年に亘って病に臥すと、その間ずっとつきっきりで看病し、世間からこれ以上ない親孝行者という評価を受けた。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇に嫁いだ。573年(3)参照。
 ⑻侯莫陳芮…故・柱国の侯莫陳崇の子。
 ⑼拓抜穆(李穆)…字は顕慶。生年510、時に66歳。武帝の養父の李賢の弟。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年に宜陽の攻略に赴き、570年には汾北の救援に赴いた。572年、太保とされた。一年あまりののち原州総管とされた。572年(3)参照。
 ⑽柏崖…《読史方輿紀要》曰く、『柏崖城は故・河清県(河清県は孟県の西南五十里にある)の西三里にある(軹関の南)。東魏の侯景が築いた城である。』
 (11)盧愷_字は長仁。名門の范陽盧氏の出身で、北周の開府・内史大夫(中書監・令に相当)の盧柔の子。親孝行で兄弟仲も良く、聡明かつ大の読書家で、非常に文才があった。北周に出仕して斉王憲の記室参軍とされた。のち、憲の北斉討伐(571年)に加わり、柏杜鎮を説得によって降伏させた。 のち小吏部下大夫とされると、晋公護に諫言してその不相応の者を昇進させるのをやめさせた。のち内史下大夫とされた。武帝が諸村に命を下して老牛を差し出させ、兵士たちのご馳走に供しようとすると、諫言してやめさせた。のち礼部下大夫とされ、陳への副使とされると、陳の礼儀作法ではなく北周の礼儀作法に則った振る舞いをした。574年(3)参照。

●楊素と牛弘の登場
 これより前(571年)、北周の汾州刺史の楊敷は北斉の攻囲を受けると頑強に抵抗したが、奮戦及ばず捕らえられ、北斉の地で憂憤の内に死去していた。
 武帝が親政を行なうようになったのち、敷の子で大都督の楊素は父が降伏したのではなく奮戦した末に捕らえられて北斉で亡くなったのに、いまだに追贈も追諡も無いのを不満に思い、遂にこの事を帝に訴えた。帝はこれを拒否したが、素は諦めずに再三に亘って訴えを起こした。すると帝は激怒し、左右の者に素の首を斬るように命じた。素はそこで大声でこう言った。
「臣は無道の天子に仕えるという大罪を犯してしまいました! このような死を遂げるのは当然です!」
 帝はその言葉を立派だと思い、〔素を赦して訴えを聞き入れ、〕敷に使持節・大将軍・淮広復三州諸軍事・三州刺史を追贈し、忠壮と諡し、遺体を故郷の弘農郡華陰県に埋葬した
 また、素を車騎大将軍・儀同三司とし、次第に礼遇するようになった。
 ある時、素は帝から詔書の作成を命じられると、たちまちの内に書き上げた。しかも文章も内容も両方素晴らしい出来だった。帝はこれを褒め称え、素にこう言った。
「この道に精進していけば、きっと富貴の身となろう。」
 すると素はすぐさまこう答えて言った。
「臣にとって富貴は身の不安を呼ぶものでありますゆえ、富貴になりたいと考えた事は一切ございません。」
 素(生年544、時に32歳)は字を処道という。若年の頃から豪放な性格で細かいことにこだわらず、大志を抱いていた。人々からほとんど知られていない時、ただ従叔祖で西魏の尚書僕射の楊寛のみその才能を見抜き、たびたび子孫にこう言った。
「処道は傑出した才器の持ち主で、お前たちのかなう相手ではない。」
 のち、安定の人の牛弘と一緒に学問の研鑽に励み、多くの書物を読み漁った。素は文才があり、達筆で、風占いに非常に関心を持っていた。また、髭が美しく、英傑の風貌をしていた。
 北周の大冢宰の晋公護に登用されて中外府記室とされた。のち礼曹参軍とされ、大都督を加えられた。

 牛弘生年545、時に31歳)は字を里仁といい、安定鶉觚の人で、本姓は尞という。祖父の尞熾は安定郡の中正となり、父の尞允は西魏の侍中・工部尚書・臨涇公となり、牛氏の姓を与えられた。
 弘がまだ赤子の時、人相占い師がその顔を見て允にこう言った。
「この子はきっと出世します。大切に育ててください。」
 成長すると非常に立派な鬚と容貌を備えた、おおらかで、学問を好む博識な青年となった。北周に仕えて中外(晋公護)府記室・内史上士とされた。間もなく納言上士とされて専ら文書作成を担当すると、人々から絶賛を受けた。のち威烈将軍・員外散騎侍郎を加えられ、起居注の編纂を行なった。のち、父の允の跡を継いで臨涇公とされた。

 北斉討伐を行なう時、楊素は亡き父・楊敷の部下を率いて先鋒を務めたいと申し出た。帝はこれを聞き入れ、〔愛用の〕竹策(竹製の鞭)を与えてこう言った。
「朕はこれから天下の指図をするつもりだ。だから、これは卿に与える。」

○周34楊敷伝
 高祖平齊,贈使持節、大將軍、淮廣復三州諸軍事、三州刺史,諡曰忠壯。葬於華陰舊塋。
○隋48楊素伝
 楊素字處道,弘農華陰人也。祖暄,魏輔國將軍、諫議大夫。父敷,周汾州刺史,沒於齊。素少落拓,有大志,不拘小節,世人多未之知,唯從叔祖魏尚書僕射寬深異之,每謂子孫曰:「處道當逸羣絕倫,非常之器,非汝曹所逮也。」後與安定牛弘同志好學,研精不倦,多所通涉。善屬文,工草隸,頗留意於風角。美鬚髯,有英傑之表。周大冢宰宇文護引為中外記室,後轉禮曹,加大都督。武帝親總萬機,素以其父守節陷齊,未蒙朝命,上表申理。帝不許,至於再三。帝大怒,命左右斬之。素乃大言曰:「臣事無道天子,死其分也。」帝壯其言,由是贈敷為大將軍,諡曰忠壯。拜素為車騎大將軍、儀同三司,漸見禮遇。帝命素為詔書,下筆立成,詞義兼美。帝嘉之,顧謂素曰:「善自勉之,勿憂不富貴。」素應聲答曰:「臣但恐富貴來逼臣,臣無心圖富貴。」及平齊之役,素請率父麾下先驅。帝從之,賜以竹策,曰:「朕方欲大相驅策,故用此物賜卿。」
○隋49牛弘伝
 牛弘字里仁,安定鶉觚人也,本姓尞氏。祖熾,郡中正。父允,魏侍中、工部尚書、臨涇公,賜姓為牛氏。弘初在襁褓,有相者見之,謂其父曰:「此兒當貴,善愛養之。」及長,鬚貌甚偉,性寬裕,好學博聞。在周,起家中外府記室、內史上士。俄轉納言上士,專掌文翰,甚有美稱。加威烈將軍、員外散騎侍郎,修起居注。其後襲封臨涇公。

 ⑴楊敷…字は文衍。名門・弘農楊氏の出身。華山公の楊寛の兄の子。性格優良の能吏。若年の頃から高潔な志操を備え、約束は必ず守り、忠臣の列伝を愛読した。廷尉少卿とされると公正に判決を下した。558年、北斉にて叛乱を起こした司馬消難を迎えに行き、帰ると蒙州刺史とされて善政を行なった。保定年間に司水中大夫とされ、東討の際水上輸送の監督を任された。陳公純が陝州総管とされるとその長史となり、570年に司木中大夫・軍器副監とされた。571年、汾州刺史とされると北斉の侵攻に遭い、奮戦したものの敗れて捕らえられ、北斉領内にて逝去した。571年(2)参照。
 ⑵周34楊敷伝ではこの追贈諡は北斉を滅ぼした後の事だとする。今は隋48楊素伝の記述に従った。
 ⑶楊寛…字は景仁(或いは蒙仁)。501?~561?。名門弘農の楊氏の出身。懐朔鎮将の楊鈞の子。文才があり、武芸にも優れた。六鎮の乱中に父が死ぬと、その跡を継いで懐朔鎮を守備した。のち、太宰の元天穆に従って陳慶之と戦った。爾朱世隆や高歓が洛陽に迫ると防戦の指揮を執った。のち宇文泰に従い、漢中の攻略に活躍した。のち、小冢宰、御正中大夫とされた。561年、梁州総管とされた。561年(4)参照。

●馮翊王潤の死

 8月、戊子(6日)、北斉の〔太宰?・〕定州刺史の馮翊王潤が病床に伏した。


 丁酉(15日)、北斉の冀・定・趙・幽・滄・瀛の六州(河北東部)にて洪水が発生した。

 壬寅(20日)、陳が西陽郡(江夏の東南)の治所を保城(汝南の南?)に移した。

 甲辰(22日)、北斉の定州刺史の馮翊王潤が州館にて逝去した(享年33)。
 侍中・使持節・仮黄鉞・冀定滄瀛趙幽安平常朔并肆十二州諸軍事・左丞相・太師・録尚書事・冀州刺史を追贈し、文昭と諡した。

 癸卯(21日)、北周の使者が陳に到着した。〔この時?、〕もと梁の兼廷尉卿の殷不害が陳に送還された。
 この年、陳が不害を司農卿とし、間もなく光禄大夫とした。

○北斉後主紀
 八月丁酉,冀、定、趙、幽、滄、瀛六州大水。
○陳宣帝紀
 秋八月壬寅,移西陽郡治保城。癸卯,周遣使來聘。
○北斉10馮翊王潤伝
 復為定州刺史。薨,贈假黃鉞、左丞相。
○斉故侍中仮黄鉞左丞相文昭王墓誌銘
 以武平六年八月六日遘疾,廿二日薨于州館。…詔贈侍中、使持節、假黃鉞、冀定滄瀛趙幽安平常朔并肆十二州諸軍事、左丞相、太師、錄尚書事、冀州刺史,品爵如故,諡曰文昭。
○陳32殷不害伝
 太建七年,自周還朝,其年詔除司農卿,尋遷光祿大夫。

 ⑴馮翊王潤…字は子沢。生年543、時に33歳。高歓の第十四子で、後主の叔父。母は鄭大車。美男子。歓に「我が家の千里の駒」と評された。14、5歳になるまで母と一緒に眠り、けじめの無さを非難されたが、長じると生真面目で慎み深く、政治に明るい青年に育った。東北道行台・兼尚書左僕射・定州刺史とされると、不正を厳しく取り締まった。のち、更に都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。後主の父の武成帝に信頼され、河陽行台尚書令とされ、566年に太尉、567年に大司馬、569年に太保とされ、571年頃に河陽道行台録尚書とされた。571年に太師、572年に太宰とされた。のち定州刺史とされた。572年(4)参照。
 ⑵殷不害…字は長卿。生年505、時に71歳。もと梁の中書郎。陳の尚書右丞の殷不佞の兄。気丈な性格で、台城陥落時に侯景が兵を引き連れてやってきても太子綱(簡文帝)の傍を離れなかった。江陵陥落時(554年)には雪の降る中、七日間に亘って母を探し続けた。のち、長安に連行され、儀同三司・治御正とされた。561年、陳に使者として派遣された。561年(1)参照。

●拘留
 これより前(3月)、武帝は北斉の内情を探るため、小司寇の拓跋偉元偉と納言の伊婁謙伊謙を北斉に使者として派遣していた。現在、後主は北周の出兵を知ると、〔右〕僕射の陽休之に謙をこう責めさせて言った。
「貴朝は盛夏にも関わらず兵を集めているという。一体どこに向かうつもりなのか?」
 謙は答えて言った。
「僕が出発する前、軍を起こすという話は聞いたことがありませんでした。おおかた東方が巴丘の守備兵を増員するなら、西方は白帝の守備兵を増員するようなもの(蜀漢の宗預の言葉)でしょう。これは人情からいって当然の行為であり、怪しむに足りません!」
 しかし、謙の参軍の高遵が真実を北斉にばらしてしまったため、謙と偉は〔鄴に〕拘留され、帰ることができなくなった。

○周38元偉伝
 四年,以偉為使主,報聘于齊。是秋,高祖親戎東討,偉遂為齊人所執。
○隋54伊婁謙伝
 因使謙與小司寇拓拔偉聘齊觀釁。帝尋發兵。齊主知之,令其僕射陽休之責謙曰:「貴朝盛夏徵兵,馬首何向?」謙答曰:「僕憑式之始,未聞興師。設復西增白帝之城,東益巴丘之戍,人情恒理,豈足怪哉!」謙參軍高遵以情輸於齊,遂拘留謙不遣。

 ⑴拓跋偉(元偉)…字は猷道(または子猷)。拓跋什翼犍(昭成帝)の子孫。元順の子。もと淮南王。穏やかで上品な人柄で、学問を好んだ。伐蜀の際、尉遅迥の軍府の司録となり、軍府の出す文書の全てを一人で作成した。北周が建国されると晋公護の司録とされ、明帝が即位すると師氏中大夫とされた。のち開府儀同三司とされ、外では隴右總管府長史・成州刺史、内では匠師中大夫・司宗中大夫・司宗・司会中大夫・民部中大夫・小司寇を歴任した。今年、北斉に正使として派遣された。575年(1)参照。
 ⑵伊婁謙(伊謙)…字は彦恭。生年535、時に41歳。北魏の支流の出。兄に襄州や荊州総管府の長史などを務めた伊婁穆(伊穆)がいる。 忠義・実直な性格で、騎射や弁舌を得意とし、読書を好んだ。貴族の子弟であることを以て親信→直寝→直閤将軍とされた。威厳があり、宮廷の人々から敬い憚られた。北周が建国されると内侍上士とされ、のち舍人上士→宣納上士とされ、朝廷の事務に関わった。開府儀同三司とされ、候正を兼任した。武帝の信任厚く、特別にその警護を任された。575年、北斉の内情を探るため副使として派遣された。575年(1)参照。
 ⑶陽休之…字は子烈。生年509、時に67歳。北平陽氏の出で、名文家の陽固の子。博学で、典雅純正な文章を書いた。賀抜勝と共に梁に亡命したが、のち袂を分かって東魏に属した。石にあった『六王三川』の字の解釈を高歓に行なった。武定七年(549)に給事黄門侍郎とされたが、文宣帝が東魏に禅譲を迫る際、生来のおしゃべりを発揮して計画を鄴中に漏らしてしまったことで一時左遷された。政治の才能に優れ、中山太守や西兗州刺史を務めると住民に慕われ、孝昭帝が即位すると才能を買われて相談役となった。天統元年(565)に光禄卿・監国史とされ、間もなく吏部尚書とされた。570年、中書監→兼尚書右僕射とされた。571年、兼中書監とされた。574年、正中書監とされた。今年、右僕射とされ、また兼中書監とされた。575年(1)参照。

●河陰・金墉の戦い

 この日、北周軍が北斉領内に侵入した。武帝は将兵に民家の樹木を切り倒したり田んぼを踏み荒らす事を禁じた。これを破った者はみな斬罪に処した。
 北周軍は洛水を通って邙山に進んで陣を布き、洛陽城を包囲した。
 帝は諸軍を率いて河陰に向かった。北斉の永橋領民大都督で太安の人の傅伏は夜中に永橋を渡って中潬城(河陽と河陰の間に流れる黄河の中洲にある城)の守りに就いた。
 丁未(25日)、帝みずから諸軍を率いて河陰の大城(南城?)を攻め、これを陥とした。次いで子城(中潬城?)に攻め込んだが、これは陥とす事ができなかった。
 河陰攻めの際、開府の宇文神慶は真っ先に城壁を登って斉兵と白兵戦を切り結んだが、石つぶてを食らって落下し、気絶したのちに目を覚ました。帝は労をねぎらってこう言った。
「卿の有り余る勇気を、他の者に買わせたいものだ。」
 この時、儀同の和洪が力戦して河陰の西門を陥とした。帝はその勇気を褒め称え、千段の反物を褒美として与えた。

 傅伏は太安(五原付近)の人で、父は儀同・北蔚州刺史の傅元興。若年の頃から戦場に出、戦功を立てて開府・永橋領民大都督にまで昇進した。

 普六茹堅楊堅)は三万の水軍を率い、北斉軍を河橋(河陽と中潬城と河陰を結ぶ浮き橋。ここでは河陽と中潬城を結ぶ浮き橋?)にて破り、儀同の陰寿と共に火船を放って河橋や敵の艦船を焼き払った。

 黎陽に向かっていた斉王憲は大将軍・岐州刺史の永昌公椿らを率いて武済を攻め陥とし、次いで洛口を攻囲し、東西二城を陥とした(合わせて五城を陥としたという)。

 椿は字を乾寿といい、宇文導晋公護の兄)の子である。保定年間(561~565)に開府儀同三司・宗師中大夫とされ、建徳元年(572)に大将軍とされた。間もなく岐州刺史とされた。

 万紐于翼于翼)は大将軍の張光洛・鄭恪・開府の趙煚らを率い、宛・葉(北斉の襄州?)を通って襄城(北斉の広州)に侵攻し、十日の内に十九城を抜いた。あるとき配下の都督が村に押し入ると、翼はこれを斬って見せしめにした。これ以後、斉人は翼に親しみを抱き、相次いで帰順した。

 拓抜穆李穆)は大将軍・小司馬の伊婁穆や儀同・河州刺史の宇文雄劉雄らを率いて軹関・柏崖および邵州など河北諸県を陥とした。

 これより前(565年)、北斉は河陽道行台尚書・洛州刺史の独孤永業(11)を都に呼び戻して太僕卿とし、のち北道行台僕射・幽州刺史とし、間もなくまた都に呼び戻して領軍将軍としていた。この間、洛陽一帯の人々の多くが永業の事を追慕した。のち、北斉は国境が不安定になってきたことから永業を再び河陽道行台僕射・洛州刺史とした。
 現在、帝が自ら洛陽の金墉城を攻めた。永業は兵を出して迎撃し、〔自らは城に残って〕北周軍にこう尋ねて言った。
「周の高官様の誰が、何しにやってきたのか?」
 周人は答えて言った。
「至尊(陛下)自らがお出ましになったのだ。汝はここの主人(永業)であるのに、なぜ自ら賓客を出迎えぬ。」
 永業は答えて言った。
「突然やってきたゆえ、出迎えないのだ。〔連絡一つくらい寄越してもらいたい。〕」
 永業はその日の夜の内に二千の飼い葉桶を用意した。周人はこれを聞くと、北斉の援軍がもうじきやってくると思い、浮き足立った。

 9月(北斉は閏8月)、己丑(?日。己未〈7日〉の誤り?)、北斉の右丞相〔・并州刺史・淮陰王〕の高阿那肱(12)が晋陽より救援に赴き、河陽に到った。
 この時、〔録尚書事・晋昌王で兵権を握っている〕唐邕(13)は阿那肱に兵を割くのを非常に渋った。これ以後、二人の仲は険悪なものとなった。

 辛酉(9日)の夜、帝は病気になったこともあり、全軍に撤退を命じた。水軍は船を焼いて歩いて帰還した[1]
 この時、傅伏は〔河陽道?〕行台〔尚書?〕の乞伏貴和(14)にこう言った。
「周軍は疲弊しています。私に精騎二千をお授けくださるなら、追擊して破ってご覧に入れましょう。」
 しかし、貴和は聞き入れなかった。

 この時、斉王憲・万紐于翼・拓抜穆は連戦連勝して三十余城を抜いていたが、本軍の撤退を聞くと城をみな棄てて撤退した。ただ、王薬城(15)のみ要害ということで儀同三司の韓正に守備させたが、間もなく正は城と共に北斉に降った。

 北斉は独孤永業を開府・臨川王とした。

○周武帝紀
 八月癸卯,入于齊境。禁伐樹踐苗稼,犯者以軍法從事。丁未,上親率諸軍攻河陰大城,拔之。進攻子城,未克。上有疾。九月辛酉夜,班師,水軍焚舟而退。齊王憲及于翼、李穆等所在克捷,降拔三十餘城,皆棄而不守。唯以王藥城要害,令儀同三司韓正守之。正尋以城降齊。
○隋高祖紀
 建德中,率水軍三萬,破齊師於河橋。
○北斉後主紀
 是月,周師入洛川,屯芒山,攻逼洛城,縱火船焚浮橋,河橋絕。閏月己丑,遣右丞相高阿那肱自晉陽禦之,師次河陽,周師夜遁。
○周10永昌公椿伝
〔導五子,廣、亮、翼、椿、眾。…〕椿字乾壽。初封永昌郡公。保定中,授開府儀同三司、宗師中大夫。建德初,加大將軍。尋除岐州刺史。…四年,高祖東伐,椿與齊王憲攻拔武濟等五城。
○周12斉煬王憲伝
 乃詔憲率眾二萬為前軍,趣黎陽。高祖親圍河陰,未克。憲攻拔武濟,進圍洛口,收其東西二城。
○周29伊婁穆伝
 入為小司馬。從柱國李穆平軹關等城。
○周29劉雄伝
 四年,從柱國李穆出軹關,攻邵州等城,拔之。以功獲賞。
○周30于翼伝
 及軍出,詔翼率荊、楚兵二萬,自宛、葉趣襄城,大將軍張光洛、鄭恪等竝隸焉。旬日下齊一十九城。所部都督,輒入民村,即斬以狥。由是百姓欣悅,赴者如歸。
○周30李穆伝
 四年,高祖東征,令穆率兵三萬,別攻軹關及河北諸縣,竝破之。後以帝疾班師,棄而不守。
○隋46趙煚伝
 尋從上柱國于翼率眾數萬,自三鴉道以伐陳(齊の誤り?),克陳十九城而還。
○隋50宇文慶伝
 後從武帝攻河陰,先登攀堞,與賊短兵接戰,良久,中石廼墜,絕而後蘇。帝勞之曰:「卿之餘勇,可以賈人也。」
○隋55和洪伝
 從帝攻河陰,洪力戰,陷其西門。帝壯之,賞物千段。
○北斉40・北55唐邕伝
 屬周師來寇(攻洛陽),〔右〕丞相高阿那肱赴援,邕配割不甚從允,因此有隙。
○北斉41・北53独孤永業伝
 武平三年,遣永業取斛律豐洛,因以為北道行臺僕射、幽州刺史。尋徵為領軍將軍。河洛民庶,多思永業,朝廷又以疆埸不安,除永業河陽道行臺僕射、洛州刺史。周武帝親攻金墉,永業出兵禦之,問曰:「是何達官,作何行動?」周人曰:「至尊自來,主人何不出看客。」永業曰:「客行怱速(怱),是故不出〔看〕。」乃通夜辦馬槽二千。周人聞之,以為大軍將至,乃解圍去。永業進位開府,封臨川王。
○北斉41傅伏伝
 傅伏,太安人也。父元興,儀同、北蔚州刺史。伏少從戎,以戰功稍至開府、永橋領民大都督。周帝前攻河陰,伏自橋夜渡,入守中潬城。南城陷,被圍二旬不下,救兵至。周師還。伏謂行臺乞伏貴和曰:「賊已疲弊,願得精騎二千追擊之,可捷也。」貴和弗許。
○大隋使持節柱国司空公趙郡武公陰使君墓誌銘
 尋除使持節、車騎大將軍、儀同三司。…未幾,除内外府掾。…從周武帝東伐,師出河陰,彼以山川形勝,水陸抗拒,公率一舸,乱流而出,焼其舩艦,無復遺餘。

 ⑴永橋…①《読史方輿紀要》曰く、『永橋鎮は河南府の東北百四十里→懐慶府(懐州河内)の東百里→武陟県の西にある。恐らく河陽に近い所にあったのだろう。』隋42李徳林伝曰く、『軍は永橋に到ったが、沁水(懐慶府〜武陟県の傍を流れる)が増水していたため渡ることができなかった。』②《洛陽伽藍記》曰く、『洛陽の宣陽門の外四里の洛水のほとりに浮橋がある。これがいわゆる永橋である。』沁水の橋か洛水の橋かのどちらかになるが、北55唐邕伝に『又奏河陽、晉州,與周連境,請於河陽、懷州、永橋、義寧、烏藉各徙六州軍人并家,立軍府安置,以備機急之用。』という記述から考えるに、『河陽、懷州、永橋、義寧、烏藉』は烏藉だけ詳細は不明だが、あとはみな河北にある城なので、この永橋は沁水の永橋のように思われる。
 ⑵宇文神慶…本名は慶といい、神慶は字。宇文顕和の子で、清河公神挙の弟。冷静沈着で器量があり、若年の頃から聡明なことで名を知られた。また、壮志があって武芸の腕前が人並み外れ、弓を得意とした。また、度胸があり、虎と格闘することを好んだ。事務仕事を嫌って槍働きを志願し、文州の住民が叛乱を起こすと(560年?)その討伐に参加し、奇襲して撃破した。その功により都督とされた。衛公直が山南を治めるようになると(565年)、その側近とされた。のち次第に昇進して儀同三司・柱国府掾とされ、武帝が晋公護を誅殺する際、その計画に関与した。成功すると開府とされた。572年(3)参照。
 ⑶和洪…汝南の人。北周の武帝の時に数々の戦功を立て、儀同三司とされた。龍州蛮の任公忻らが叛乱を起こすと独孤善に代わって刺史とされ、一ヶ月余りで公忻らを捕らえる事に成功した。563年(5)参照。
 ⑷陰寿…字は羅雲。生年543、時に33歳。文武両道の能吏。宇文護の内親信とされ、のち大都督・中外府騎兵曹とされた。567年、南伐軍の監軍とされた。567年(2)参照。
 ⑸武済…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東北五十里→孟津縣の東二十里→孟津旧県の東にある。むかし周の武王が殷を伐つ時にここから黄河を渡ったとされるためこの名が付いた。』
 ⑹張光洛…もと宮伯。孝閔帝が晋公護を誅殺しようとした時、これを護に密告した。557年(3)参照。
 ⑺鄭恪…大将軍。570年に越巂を平定し、西寧州を置いた。574年、始州(剣閣)民の王鞅の乱を討平した。574年(3)参照。
 ⑻伊婁穆…字は奴干。鮮卑人で、北魏の支流の出。父は西魏の隆州刺史の伊霊(尹)。早くから宇文泰に仕え、口が達者なことで名を知られた。邙山の戦いで功を挙げた。のち丞相府参軍事→外兵参軍→中書舍人・尚書駕部郎中→大丞相府掾→従事中郎→給事黄門侍郎とされた。553年、蜀に使者として赴いた際、趙雄傑らの乱に遭うと、叱羅協と共にこれを討伐した。557年、兵部中大夫→治御正とされた。561年に軍司馬、564年に金州総管とされ、565年に衛公直が襄州総管とされるとその長史とされ、572年、代公達が荊州総管とされるとその長史とされた。二度に亘って総管となった王族の副官となり、優れた補佐官という名声を得た。のち小司馬とされた。572年(5)参照。
 ⑼宇文雄(劉雄)…宇文雄(劉雄)…字は猛雀。臨洮子城の人。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、そののち統軍・子城令・都督・兼中書舍人を歴任し、宇文氏の姓を与えられた。557年に大都督とされ、司市下大夫・斉右下大夫・治小駕部を歴任し、儀同三司とされた。564年に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。567年に駕部中大夫とされ、569年に兼斉公憲府掾とされた。北斉が盟約を破って宜陽に攻めてくるとその軍中に使者として赴き、約を違えたことを堂々と責め立てた。のち兼中外府掾・開府儀同三司とされた。570年、稽胡を綏州にて撃破した。汾北の戦いでは軍が総崩れする中、塹壕に留まって奮戦した。572年に納言、573年に内史・候正とされ、のち出身の河州の刺史とされた。573年(5)参照。
 ⑽邵州…軹関の西。北周領であり、567年に周臣の豆盧勣が刺史とされている。これ以降にいつの間にか北斉に陥とされていたのだろうか? もしくは軹関に置いていたのだろうか?
 (11)独孤永業…字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長け、晋陽(覇府)の宿衛(近衛兵)とされた。のち、高澄から抜擢を受け、中外府外兵参軍とされた。天保元年(550)に中書舍人・豫州司馬とされた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。564年に北周が洛陽に攻めてくると防衛の指揮を執り、北斉軍の到着まで良く守り抜いた。のち、斛律光と対立し、565年に都に呼び戻されて太僕卿とされた。572年、北道行台僕射・幽州刺史とされ、前任の斛律羨の逮捕に赴いた。572年(2)参照。
 (12)高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・驃騎大将軍・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年(1)参照。
 (13)唐邕…字は道和。太原の人。記憶力抜群の能吏。中央以外の歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。北周軍が晋陽に迫ると、臨機応変に対応して瞬時に兵馬を集結させた。568年、右僕射とされたが、569年12月頃に人を冤罪に陥れた罪で除名された。のち復帰を許され、570年に右僕射、571年に左僕射、572年に尚書令とされ、晋昌王とされた。574年に南安王思好の乱が起こるとその討伐軍の統率・監督を任された。平定後、録尚書事とされた。574年(1)参照。
 (14)乞伏貴和…代々第一領民酋長を務めた家柄の出。もと爾朱兆の配下。兆が高歓に滅ぼされると歓に従った。のち、弟の慧(字は令和)と共に栄達し、開府・王とされた。565年に独孤永業に代わって河陽行台尚書とされた。565年(2)参照。
 [1]黄河の流れは急で、遡るのは時間がかかって追いつかれる危険があるので、焼いて歩いて帰ったのである。
 (15)王薬城…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東百三十里→鞏県の東北の黄河沿いにある。』しかし、これだといくら要害とはいえ非常に孤立してしまう。


 575年(3)に続く