[北周:建徳二年 北斉:武平四年 陳:太建五年 後梁:天保十一年]

蘭陵王の死
 北斉の太保の蘭陵王長恭は、洛陽と汾州で大功を立てて以来、常に誅殺の恐怖に怯え、一線から退こうと考えていた。現在、陳との戦いが始まると、長恭は再び将軍に起用されるのを恐れ、嘆息してこう言った。
「去年は面腫(帯状疱疹?)になったのに、なんで今に限ってならないのか!」(病気になれば将軍に起用されないと思ってこう言ったのである
 以後、病気になっても治さず、そのままにするようになった。
 この月後主徐之範を派し、長恭に毒薬を飲むよう命じた。長恭は妃の鄭氏にこう言った。
「私は陛下に忠義を尽くしてきた。何の罪があって毒を飲まねばならないのか!」
 妃は言った。
「どうして陛下に会って弁明なさらないのですか。」
 長恭は言った。
「どうして陛下にお会いできようか。」
 かくて毒薬を飲んで亡くなった。仮黄鉞・使持節・并青瀛□定等五州諸軍事・録尚書事・太師・太尉公・并州刺史を追贈され、忠武と諡された。
 長恭は千金の額の債券(借用証文)を所有していたが、死んだ日にそれらを全て焼き払い、〔借金を帳消しにしてやった〕。

 長恭が死んだのち、妃の鄭氏は頸珠(ネックレス)を寺に布施しようとした。〔長恭の兄の〕広寧王孝珩がこれを買おうとすると、〔長恭の弟の〕安徳王延宗は自ら手紙を書いて諫めた。その手紙は涙で濡れそぼっていた。

○北斉後主紀
 是月,殺太保、蘭陵王長恭。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 及江淮寇擾,恐復為將,歎曰:「我去年面腫,今何不發。」自是有疾不療。武平四年五月,帝使徐之範飲以毒藥。長恭謂妃鄭氏曰:「我忠以事上,何辜於天,而遭鴆也。」妃曰:「何不求見天顏。」長恭曰:「天顏何由可見。」遂飲藥薨。贈太尉。…有千金責券,臨死日,盡燔之。
○北斉11安徳王延宗伝
 及蘭陵死,妃鄭氏以頸珠施佛。廣寧王使贖之。延宗手書以諫,而淚滿紙。
○斉故仮黄鉞太師太尉公蘭陵忠武王碑
 四年,…賜假黃鉞,持使節并青瀛□定等五州諸軍事、録尚書事、太師、太尉公、并州刺史…。

 ⑴蘭陵王長恭…高長恭。生年541、時に33歳。本名は肅、或いは孝瓘で、長恭は字。後主の伯父の高澄の第四子。母の詳細は不明。肌が白く、美女のような顔立ちをしていて、声も綺麗だった。しかし、性格は男らしく勇敢で、戦場では威厳をつけるために仮面をつけて戦った。職務に精励し、よく物を分け与えたため兵からの支持がとても厚かった。560年、蘭陵王に封ぜられ、領左右大将軍とされた。孝昭帝が即位すると開府儀同三司・中領軍とされ、561年、武成帝が即位すると并州刺史とされた。563年、領軍将軍とされた。564年、突厥と北周の連合軍を晋陽にて奮戦して撃破した。北周が洛陽に攻めてくると五百騎を率いてこれを救出する大功を立て、尚書令とされた。のち司州牧や青州・瀛州の刺史を歴任し、警戒を解くためわざと賄賂政治を行なった。569年に尚書令、570年に録尚書事とされた。571年、太尉とされ、病気の段韶に代わって汾州を攻略した。572年に大司馬とされ、今年、太保とされた。573年(1)参照。
 ⑵後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に18歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。573年(2)参照。
 ⑶徐之範…名医。太子太師の徐之才の弟。太常卿にまで昇り、之才が死ぬと特別にその爵位の西陽王を継ぐことを許された。
 ⑷広寧王孝珩(コウ)…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。572年(4)参照。
 ⑸安徳王延宗…生年544、時に30歳。高澄(高歓の長子)の第五子。後主の従兄。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝(上皇)に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになったが、兄の孝琬が上皇に誅殺されると憤激し、上皇に擬した藁人形を作ってこれに矢を射、上皇の怒りを買って半殺しにされた。572年、司徒とされた。今年、太尉とされた。573年(1)参照。

┃文化の香り
 北斉の諸王たちは補佐官の大半に豪商や鷹犬(武将? 使用人?)の子弟を用いたが、襄城王淯広寧王孝珩・蘭陵王長恭だけは文才や識見のある者を任用したので称賛を受けた。

 顔氏家訓…投壺の遊戯は近世になっていよいよ盛んに行なわれるようになった。昔は壺の中に小豆を入れ、矢が壺の中から飛び出さないようにしていたが、今は跳ね返って戻ってくる()回数が多ければ多いほど良いとされ、倚竿(斜めに入れる)・帯剣(壺の耳に入れる)・狼壺(壺の口に回らせて入れる)・豹尾(向こう側に傾かせて入れる)・龍首(投げた側に傾かせて入れる)という役も考案された。最上の役名を蓮花驍と言った。



 汝南の人で周弘正の子の周璝と会稽の人で賀革の子の賀徽は共に一矢で四十余驍(投げて・跳ね返って・それを掴んで・また投げるを四十回)の記録を叩き出した。賀徽はあるとき小さいついたての向こうに壺を置いて矢を投げたが、一度も外れる事が無かった。
 顔之推は鄴にやってきて以降、広寧王孝珩・蘭陵王長恭の邸宅に投壺の道具があるのを見たが、結局北斉では一驍さえ出来る者を見なかった。弾棋(駒を盤上で弾いて技能を争うもの?)も近世になってから広まった遊戯である。こういう遊戯をして憂さを晴らすのもいいだろう。

 蘭陵王は創造力が豊かで、『舞胡子』(酒胡子?)という人形(或いは雅楽?)を作った。胡子は〔尻のとがったコマの形をしており、舞うようにくるくると回り、〕王が酒を勧めようと思っている者〔の方を向いて〕盞(酒盃)を捧げ持つ形で倒れた。人々はその仕組みが分からなかった。

○北斉10襄城景王淯伝
 齊氏諸王選國臣府佐,多取富商羣小、鷹犬少年,唯襄城、廣寧、蘭陵王等頗引文藝清識之士,當時以此稱之。
○顔氏家訓雑芸
 投壺之禮,近世愈精。古者,實以小豆,為其矢之躍也。今則唯欲其驍,益多益喜,乃有倚竿、帶劍、狼壺、豹尾、龍首之名。其尤妙者,有蓮花驍。汝南周璝,弘正之子,會稽賀徽,賀革之子,並能一箭四十餘驍。賀又嘗為小障,置壺其外,隔障投之,無所失也。至鄴以來,亦見廣寧、蘭陵諸王,有此校具,舉國遂無投得一驍者。彈棋亦近世雅戲,消愁釋憒,時可為之。
○太平広記伎巧一
 北齊蘭陵王有巧思,為舞胡子。王意欲所勸,胡子則捧盞以揖之。人莫知其所由也。出《朝野僉載》

 ⑴襄城王淯...字は修延。536~551。高歓の第八子。高澄・文宣帝の同母弟。容貌が非常に美しく、才能に優れ、若い頃から令名を馳せた。551年(1)参照。

┃涇州の陥落

 6月、庚子(6日)、北周が六府(天地春夏秋冬の六府)の員外諸官を廃し、全員を丞とした。

 陳の郢州(江夏)刺史の李綜が北斉の灄口城(江夏の北を陥とした。
 乙巳(11日)任忠が合州(合肥)の外城を陥とした。
 庚戌(16日)、北斉の淮陽(淮州の西南・沭陽郡(淮州の北の長官が城を棄てて逃走した。

 壬子(18日)、北周にて皇孫の宇文衍が東宮にて誕生した。母は朱氏。〔北周はこの喜びを分かち合うため、〕文武官の爵位を一階進めた。

 朱氏(生年547、時に27歳)は名を満月といい、南人である。家が事件に連座したことで太子贇の下女とされ、贇の衣服管理を任された。贇は若年の身(14歳?)で朱氏と関係を持ち、衍を生ませた。

 また、諸軍の将帥の大規模な選任を行なった。

 この日、北斉の後主が南苑に赴いた。この時、侍従官六十人が熱中症で死んだ。
 また、録尚書事の高阿那肱を司徒とした。


 癸丑(19日)、豫章内史の程文季が涇州(石梁)を陥とし、城兵を皆殺しにした。
 乙卯(21日)、宣毅(宣毅将軍・江州刺史の長沙王叔堅)府司馬の湛陁が〔南〕新蔡城を陥とした。

○周武帝紀
 六月庚子,省六府員外諸官,皆為丞。…壬子,皇孫衍生,文武官普加一階。大選諸軍將帥。
○周静帝紀
 靜皇帝諱衍,後改為闡,宣帝長子也。母曰朱皇后。建德二年六月,生於東宮。
○北斉後主紀
 六月,明徹進軍圍壽陽。壬子,幸南苑,從官暍死者六十人。以錄尚書事高阿那肱為司徒。
○陳宣帝紀
 六月庚子,郢州刺史李綜克灄口城。乙巳,任忠克合州外城。庚戌,淮陽、沭陽郡竝棄城走。癸丑,…豫章內史程文季克涇州城。乙卯,宣毅司馬湛陁克新蔡城。
○周9宣帝朱皇后伝
 宣帝朱皇后名滿月,吳人也。其家坐事,沒入東宮。帝之為太子,后被選掌帝衣服。帝年少,召而幸之,遂生靜帝。
○陳10程文季伝
 又別遣文季圍涇州,屠其城。
○陳31任忠伝
 徑襲合肥,入其郛。

 ⑴灄口城…《読史方輿紀要》曰く、『漢陽府(郢州)の北九十里→黄陂県の南四十里にある。』
 ⑵任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、今年北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。573年(2)参照。
 ⑶淮陽郡…《読史方輿紀要》曰く、『淮安府の西〔南〕百九十里→泗州の東北百里にある。』
 ⑷沭陽郡…《読史方輿紀要》曰く、『淮安府(淮州)の北百七十里にある。梁の潼陽郡を東魏は沭陽郡に改めた。』
 ⑸太子贇(イン)…字は乾伯。生年559、時に15歳。武帝の長子。母は李氏。561年に皇子時代の父と同じ魯国公とされた。565年に楽遜、568年に斛斯徴の授業を受けた。572年、太子とされた。今年、西方を巡視した。573年(1)参照。
 ⑹高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・驃騎大将軍・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。大体後主の侍衛を任されたので、その関係で後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事とされ、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。573年(2)参照。
 ⑺程文季…字は少卿。陳の名将の程霊洗の子。孝行者。幼少の頃から騎射に巧みで武略があり、父に似て果断だった。文帝が即位すると始興王伯茂の中直兵参軍とされ、王府の軍事をみな委任された。留異が叛乱を起こすと、新安に拠る向文政を撃破して降伏させた。その後再び伯茂の中兵参軍とされた。陳宝応討伐の際には水軍の先鋒を任され、連戦連勝した。のち臨海太守とされ、父が華皎の攻撃を受けると救援に赴いた。568年、父が死ぬと軍陣であるにも関わらず喪に服し、痩せ細った。570年、豫章内史とされ、喪期間が終わると重安県公を継いだ。570年、青泥の軍艦を焼き払い、次いで江陵を攻めたが撃退された。北伐が行なわれると秦州を攻め、水柵を突破した。573年(2)参照。
 ⑻南新蔡城…《読史方輿紀要》曰く、『江西九江府(江州)の北七十里→黄梅県に、東晋は南新蔡郡と永興県を置いた。』

┃王紘の死
 丙辰(22日)、北斉が開府儀同三司〔・兼侍中〕の王師羅を北周に派遣した。
 紘は帰国すると正式に侍中とされたが、間もなく逝去した。紘は本を書くのが好きで、《鑑誡》二十四篇を著した。その内容は非常に奥が深かった。

○北斉後主紀
 丙辰,詔開府王師羅使於周。
○北斉25王紘伝
 尋兼侍中,聘於周。使還即正,未幾而卒。紘好著述,作鑒誡二十四篇,頗有文義。

 ⑴王紘…字は師羅。高句麗出身? 東魏の北豫州刺史の王基の子。騎射を得意とし、文学を非常に愛好した。また聡明で、機転が利いた。後主の伯父の高澄に仕えて庫直となり、澄が賊の襲撃に遭って落命した時には敢然と賊に立ち向かって負傷し、その忠節を以て領左右都督とされた。のち、文宣帝の柔然討伐に従い、包囲に遭うと力戦して帝を救った。帝から重用を受け、諫言を何度行なっても容赦された。孝昭帝が実権を握ると、中外府功曹参軍事とされた。564年、突厥討伐に参加し、功によって驃騎大将軍とされた。565年、給事黄門侍郎とされ、のち散騎常侍とされた。570年、開府儀同三司とされた。573年(2)参照。

┃猛獣・猛禽の絵
 この日、北周の武帝が露寝(正殿)に赴き、諸将を集めて軍事について討論した。
 庚申(26日)、諸軍の全ての旌旗に猛獣や猛禽の絵を描かせた。

○周武帝紀
 丙辰,帝御露寢,集諸軍將,勗以戎事。庚申,詔諸軍旌旗皆畫以猛獸、鷙鳥之象。

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に31歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、護を誅殺して親政を開始した。572年(5)参照。

┃合州・仁州陥落
 陳の南豫州刺史の黄法氍が合肥(合州)に進軍した。
 癸亥(29日)、合肥の守備軍は法氍の軍旗を見ると戦わずして降伏した(刺史は敬長瑜)。法氍は〔その心がけに免じて〕城内の略奪を禁じ、自ら守備兵に優しい言葉をかけて落ち着かせ、盟誓を行なったのち、彼らをみな北斉領内に帰らせた。

 この日、北周の使者が陳に到着した。
 
 甲子(30日)呉明徹が仁州(赤坎。徐州の南を陥とした。

○陳宣帝紀
 癸亥,周遣使來聘。黃法氍克合州城。吳明徹師次仁州,甲子,克其州城。
○北55敬長瑜伝
 遷合州刺史,陷於陳,卒。
○陳11黄法氍伝
 進兵合肥,望旗降款,法氍不令軍士侵掠,躬自撫勞,而與之盟,竝放還北。

 ⑴黄法氍(ク)…字は仲昭。生年518、時に56歳。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと巴山に割拠した。のち陳覇先に付き、556年、高州刺史とされた。557年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍の撃破や親王琳派の熊曇朗の討伐に貢献した。563年、南徐州刺史→江州刺史とされた。565年に中衛大将軍とされ、567年に南徐州刺史、568年に郢州刺史、570年に中権大将軍とされた。572年、征南大将軍・南豫州刺史とされた。北伐が行なわれると、西道方面の攻略を任された。573年(2)参照。
 ⑵呉明徹…字は通炤。生年512、時に62歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。王琳が東伐に向かうと湓城の留守を狙ったが、迎撃に遭って敗走した。560年、武州刺史とされたが、北周軍がやってくると城を捨てて逃走した。561年に南荊州刺史、562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。564年に呉興太守、565年に中領軍とされた。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁領の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。572年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。今年、北討大都督とされ、北伐の総指揮官とされた。573年(2)参照。
 ⑶仁州…《太平寰宇記》曰く、『徐州の南百四十里→宿州の東南百五十六里→虹県(夏丘)の西南百九十五里にある。』

羅州の戦い


 秋、7月、乙丑(1日)、陳が鎮前将軍・開府儀同三司・安呉県公の呉明徹の将軍号を征北大将軍に、爵位を南平郡公に進め、封邑を加増して二千五百戸とした。

 これより前、北斉は尚書左丞の陸騫に二万の兵を与えて斉昌(羅州。柴桑と江夏の中間)を救わせていた(5月20日に陳が外城を陥としていた)。
 騫は字を雲儀といい、〔故・秦州刺史の陸杳の弟である。〕中書舍人・黄門常侍を歴任した。
 やがて、騫は巴水・蘄水の地(羅州の手前の地)にて陳の西道都督・安蘄江衡司定六州諸軍事・安州刺史・西陽太守の周炅の軍と遭遇した。炅はこのとき弱兵や輜重を残し、精鋭のみを率いて間道を通り、騫軍の背後に出た。炅は出陣の際に本陣に人形などを置いて兵数を偽装していたため、騫は炅の出陣に気づかなかった。
 戊辰(4日)、炅が騫軍を大破し、数え切れないほどの武器や馬驢を獲た。
 
 己巳(5日)呉明徹が峽口(寿陽の西北二十五里に進軍し、北岸城を陥とした。すると、南岸城の守備隊は城を棄てて逃走した(明徹伝では『峽石岸二城』とある)。
 また、周炅が巴州(武昌の対岸を陥とした。
 淮北の絳城(西楚州の北[1]と穀陽(徐州の南の士民が長官を殺して陳に降った。

 北周〔の関中地域?〕では春以降、雨が降っていなかった。
 壬申(8日)武帝がこれを己の責任だとし、百官を大徳殿に集め、政治に何か間違いが無いか意見を求めた。
 戊子(24日)、雨が降った。

○周武帝紀
 秋七月…自春末不雨,至於是月。壬申,集百寮於大德殿,帝責躬罪己,問以治政得失。戊子,雨。
○陳宣帝紀
 秋七月乙丑,鎮前將軍、開府儀同三司吳明徹進號征北大將軍。戊辰,齊遣眾二萬援齊昌,西陽太守周炅破之。己巳,吳明徹軍次峽口,克其北岸城,南岸守者棄城走。周炅克巴州城。淮北絳城及穀陽士民,竝誅其渠帥,以城降。
○北28陸騫伝
 杳弟騫,字雲儀,亦歷中書舍人、黃門常侍。
○陳9呉明徹伝
 授征北大將軍,進爵南平郡公,增邑幷前二千五百戶。次平峽石岸二城。
○陳13周炅伝
 五年,進授使持節、西道都督安蘄江衡司定六州諸軍事、安州刺史,改封龍源縣侯,增邑幷前一千戶。其年隨都督吳明徹北討,所向克捷,一月之中,獲十二城。齊遣尚書左丞陸騫以眾二萬出自巴、蘄,與炅相遇。炅留羸弱輜重,設疑兵以當之,身率精銳,由間道邀其後,大敗騫軍,虜獲器械馬驢,不可勝數。進攻巴州,克之。於是江北諸城及穀陽士民,並誅渠帥以城降。

 ⑴陸杳…字は雲邁。鮮卑人で、北魏の東平王の歩六孤俟の子孫。尚書倉部郎・中書舍人・黄門常侍を歴任し、秦州刺史とされると善政を行ない、民心を摑んだ。陳の北伐が行なわれると良く防戦したが、その最中に病死した。573年(2)参照。
 ⑵周炅…字は文昭。汝南安成の人。梁代に朱衣直閤→弋陽太守とされた。侯景の乱が起こると湘東王繹(元帝)に付いて西陽太守・高州刺史とされると武昌・西陽二郡にて精兵を集め、侯景軍の侵攻を何度も撃退した。552年、都督江定二州諸軍事・江州刺史とされた。のち王琳に付いたが、陳に敗れると降伏し、文帝の代に赦されて定州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。今年、西道都督・安蘄江衡司定六州諸軍事・安州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。北伐が行なわれると北斉領に侵攻し、一月の内に十二城を抜いた。573年(2)参照。
 ⑶峽口…《読史方輿紀要》曰く、『硤石城は寿州(寿陽)の西北二十五里の硤石山の上にある。硤石山は淮水の両岸に屹立し、山上にそれぞれ城が築かれて結び合っている。渡し場の防衛の要である。』
 ⑷巴州…《読史方輿紀要》曰く、『武昌府の対岸の黄岡にある。』
 [1]絳城…恐らく同音異字の虹城の事であろう(虹城は鳳陽府〈西楚州〉の東北百七十里→虹県の西七十里にある。北斉はここに夏丘郡と潼州を置いた)。
 ⑸穀陽…《読史方輿紀要》曰く、『徐州の南百五十里→宿州の東百二十里→霊壁県の西北七十五里にある。穀水の北にある。穀水は睢水の事である。』

寿陽包囲

 呉明徹の軍が寿陽(揚州)に迫った。
 北斉の巴陵王の王琳は揚州刺史の王貴顕と共に防戦の指揮を執った。明徹は琳が寿陽に着任したばかりでまだ態勢が整っていないと見、速戦することにした。
 丙戌(22日)、寿陽を夜襲し、零時頃に外城を陥とした。琳は相国城と金城(内城)に籠もって抵抗を続けた。

○陳宣帝紀
 景戌,吳明徹克壽陽外城。
○陳9呉明徹伝
 進逼壽陽,齊遣王琳將兵拒守。琳至,與刺史王貴顯保其外郭。明徹以琳初入,眾心未附,乘夜攻之,中宵而潰,齊兵退據相國城及金城。

 ⑴王琳…字は子珩。生年526、時に48歳。もと梁の臣。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が梁の元帝の側室となったことで、重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐のさい第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘・郢州に割拠し、蕭荘を奉じて陳と何度も戦ったが、560年大敗を喫して北斉に亡命した。陳が淮南に侵入すると迎撃を命ぜられた。573年(2)参照。
 ⑵王貴顕…梁書では『顕貴』。侯景の外弟(通鑑)で景に仕え、中軍大都督とされた。景が建康を攻める際寿陽の留守を任されたが、東魏の攻撃に屈して降伏した。558年、蕭荘が王琳のもとに帰る際、これを護衛した。
 ⑶寿陽に着任したばかり…王琳は4月26日に陳軍に敗北して彭城(徐州)に逃れ、そこで命令を受けて寿陽の防衛に赴いた。ここから考えて、琳の着任は6月頃で、そうすると着任から明徹の攻撃まで二ヶ月も経っていないことになる。
 ⑷相国城…《読史方輿紀要》曰く、『《広記》曰く、「劉裕(劉宋の武帝)が長安征伐時に寿陽に駐屯した際(419年8月)築いた城である。」』

淮東攻略


 これより前、明徹は秦州に出陣したのち、貞威将軍・呉興太守の徐敬成を都督とし、淮東方面の攻略を命じていた。敬成は金翅船(快速船)に乗り、欧陽より運河を遡って広陵(東広州)に向かった。北斉の城兵たちがみな城に籠もって出てこないのを見ると、〔それぞれに抑えの兵を残して通過し、〕繁梁湖を通って淮陰城(淮州)に向かった。
 8月、乙未(2日)、山陽城が陳に降った。
 敬成は淮水に入り、淮陰城(淮州)を包囲した。この時、敬成は監北兗州(淮陰)とされた。淮・泗一帯にてこれに呼応する者は、一両日の間に数万に上った。

○陳宣帝紀
 八月乙未,山陽城降。
○陳12徐敬成伝
 五年,除貞威將軍、吳興太守。其年隨都督吳明徹北討,出秦郡,別遣敬成為都督,乘金翅自歐陽引埭上泝江由廣陵。齊人皆城守,弗敢出。自繁梁湖下淮,圍淮陰城。仍監北兖州。淮、泗義兵相率響應,一二日間,眾至數萬,遂克淮陰、山陽。

 ⑴徐敬成…故・司空の徐度の子。生年540、時に34歳。幼い頃から聡明で読書を好み、当意即妙な受け答えができた。また、文人と交流し、人を見る目に優れていることで評判となった。父の兵を率いて王琳討伐軍に加わったが、敗れて捕虜となった。のち脱走に成功し、太子舍人→洗馬とされ、度が呉郡太守とされると監呉郡とされ、天嘉二年(561)に太子中舍人とされた。度が湘州から帰ってくるとその精兵をみな受け継ぎ、陳宝応討伐に功を挙げて豫章太守とされた。567年、巴州刺史とされ、華皎討伐に赴いた。568年に度が亡くなると喪に服し、のち南豫州刺史とされた。572年、太子右衛率とされた。今年、呉興太守とされた。572年(3)参照。
 ⑵欧陽…《読史方輿紀要》曰く、『欧陽戍は揚州府(広陵)の西七十五里→儀真県の東北十里にある。
 ⑶運河…邗溝。《読史方輿紀要》曰く、邗溝は上流の儀真(欧陽)と下流の瓜洲の二路から入ることができ、二路は揚子橋(揚州府の南二十里)にて合流する。東北に行くと揚州府城の東を通過し、そこから約六十里進むと邵伯湖に入り、更に北に六十里行くと高郵の境界に入り、更に北に四十里行くと界首に到り、宝応湖に入る。更に北に行くと黄浦に到り、淮安(山陽)の境界と接する。
 ⑷繁梁湖…樊梁湖、樊良湖。今の高郵湖。《読史方輿紀要》曰く、『揚州府の東北百二十里→高郵州の西北五十里にある。』
 ⑸山陽…《読史方輿紀要》曰く、『淮安府(山陽)は揚州府の北三百二十里、鳳陽府の泗州の東百九十里、南京から五百里の地にある。』『淮陰の東南四十里にある。

破竹の進撃

 これより前、安遠将軍(五品)・豫章内史の程文季が盱眙城(西楚州の東を攻めていた。
 壬寅(9日)、盱眙城が降った。文季は明徹の軍に合流した。

 丙午(12日)、北周が三夫人(側室の一。北魏では左右昭儀の次)を三妃(貴妃・長貴妃・徳妃)に改めた。
 関中で蝗が大量発生した。

 戊申(15日)、陳が南斉昌郡を廃止した。
 壬子(19日)、戎昭将軍(八品)の徐敬弁徐敬成の弟?)が海安城(漣口。淮州の東北を陥とした。
 青州(海州)の東海城(鬱州。淮州の北三百七十里が降った。
 戊午(25日)平固侯敬泰陳の武帝の従孫)らが晋熙(江州。梁の晋州。柴桑と合肥の中間)を陥とした。
 9月、甲子(1日)、陽平城(盱眙の西北五十里?が降った。

 乙丑(2日)、陳の使者が北周に到着した。

 壬申(9日)、陳の高陽太守の沈善度通鑑では沈善慶)が馬頭城(西楚州の西を陥とした。
 甲戌(11日)、斉安城(衡州が降った。
 丙子(13日)、左衛将軍の樊毅が広陵楚城の子城[1]を陥とした。

 戊寅(15日)、北周が柱国・鄭国公の達奚震を金州(漢中と襄陽の中間)総管・十一州九防諸軍事・金州刺史とした。


 また、詔を下して言った。
「『政治の要諦は経費を節約することにあり』(《史記》孔子世家)、『儀式は簡素にした方が良い』(論語八佾)という。しかし近頃は、婚儀は日に日に華美になり、食事は贅を尽くし、財産を使い果たすほどとなっている。これは先王の規範に大いに背く行為である。担当官は奢侈を禁止する命令を出し、国民全員を礼制に従うようにせよ。」

○周武帝紀
 八月丙午,改三夫人為三妃。關內大蝗。九月乙丑,陳遣使來聘。…戊寅,以柱國、鄭國公達奚震為金州總管。詔曰:「政在節財,禮唯寧儉。而頃者婚嫁競為奢靡,牢羞之費,罄竭資財,甚乖典訓之理。有司宜加宣勒,使咸遵禮制。」
○陳宣帝紀
 壬寅,盱眙城降。戊申,罷南齊昌郡。壬子,戎昭將軍徐敬辯克海安城。青州東海城降。戊午,平固侯陳敬泰等克晉州城。九月甲子,陽平城降。壬申,高唐太守沈善度克馬頭城。甲戌,齊安城降。景子,左衞將軍樊毅克廣陵楚子城。
○周19達奚震伝
 出為金州總管、十一州九防諸軍事、金州刺史。
○陳10程文季伝
 進攻盱眙,拔之。仍隨明徹圍壽陽。
○陳31樊毅伝
 五年,眾軍北伐,毅率眾攻廣陵楚子城,拔之。

 ⑴盱眙城…《読史方輿紀要》曰く、『鳳陽府(西楚州)の東二百里→泗州の南七里にある。淮安府の西百九十里、六合県の西北二百六十里にある。
 ⑵海安城…《読史方輿紀要》曰く、①『揚州府の東百二十里→泰州の東百二十里にある。』②『淮安府の東北九十里の安東県に東魏は海安郡を置いた。
 ⑶東海城…《読史方輿紀要》曰く、『淮安府の北三百七十里→海州の東十九里にある。東二十八里に海岸がある。
 ⑷陽平…陳宣帝紀は5月に陽平郡城が降った』と書き、今また『陽平城が降った』と記している。《魏書》は〔西〕楚州に北陽平郡と陽平県があったとし、淮州にも陽平郡と陽平城があったとする。《隋書》は『徐州下邳郡徐城県(泗州〈盱眙の北七里〉の西北五十里)に梁は高平郡を置き、東魏は梁の東平・陽平・清河・帰義の四郡を併せて高平県とした』とあり、『揚州江都郡安宜県に梁は陽平郡と東莞郡を置いた』とある。この記事の直後に馬頭城が陥ちていることを考えると、この陽平は西楚州の陽平であるように思われる。
 ⑸馬頭城…《読史方輿紀要》曰く、『鳳陽府の西北七十里→懐遠県の西南二十里にある。淮河に接している。
 ⑹斉安…《読史方輿紀要》曰く、『武昌府の東北百八十里の州府に南斉は斉安郡を置き、北斉は衡州を置いた。』《中国歴史地図集》は何故か現在の麻城の西南とする。今はその判断に従った。
 ⑺樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴き、捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。573年、北伐に参加し、大峴山にて高景安の軍を大破した。573年(2)参照。
 [1]広陵・楚子城…この広陵は江都の広陵ではない。北魏の東豫州の治所の広陵ではないか。また、楚子城は梁の楚州(汝南郡城陽県。北斉の永州)の治所の楚城〔の子城〕のことではないか。《水経注》には『淮水は城陽県→新息県を通る』とある。ここから広陵城と楚子城は近い所にあることが分かる。
 ⑻達奚震…字は猛略。故・太傅の達奚武の子。馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を有し、巻狩りの際、宇文泰の前で兎を一矢で仕留めた。559年、華州(華山。長安の東)刺史とされると善政を行なった。564年、洛陽の戦いの際では父と共に殿軍を務め、被害を出さずに帰還に成功した。566年に大将軍とされ、稽胡を討伐した。571年、柱国とされた。

普六茹堅と太子贇

 壬午(19日)、北周の太子贇楊麗華を太子妃とした。麗華(生年561、時に13歳)は大将軍・隨国公の普六茹堅楊堅の長女である。武帝は以後、ますます堅を重用するようになった。

 太子贇は品行が良くなく、小人物ばかりを傍に近づけ、非行を繰り返していた。東宮左宮正の安化公孝伯は帝にこう言った。
「皇太子〔の言動〕は天下の注目するところでありますのに、これまで良い評判が聞こえてきた試しがありません。その責任は、太子の教育係を任されている臣にございます。ただ、太子のお歳はまだ若く、更生の余地が残っております。今もし、心根の正しい者を選抜して太子の師友と為し、その御心を良く善導なされば、品行は日に日に改まっていくことでしょう。これをなさらなかった場合は、後悔しても遅くなりますぞ。」
 帝は顔つきを改めて言った。
「卿の家は剛直さと真摯さで有名だが、今の卿の言葉はまさしくその家風を体現するものだ。」
 孝伯は平伏して言った。
「意見を言うのは別に難しくないのです。意見を受け入れる事こそ難しいのです。どうか陛下、臣のこの言葉をよくご勘案いただきますよう。」
 帝は言った。
「君より心根の正しい者はいまい。」
 かくて孝伯をそのまま左宮正とした。また、意見どおり朝臣の中から真摯で剛直な者を選抜し、右司衛の尉遅運を右宮正とした。

 帝はある時、同州(長安の東北二百八十里)に赴き、万年県丞の楽運を呼んでこう聞いた。
「卿はむかし太子に会ったことは無かったか?」
 運は言った。
「臣は都を発つ際、太子にお別れの挨拶をしたことがあります。」
 帝は言った。
「卿は太子をどのような人物と見る?」
 運は言った。
「中程度の人物と見ました。」
 この、場には斉公憲らがいた。帝は憲らの方に向いて言った。
「百官はみな私のご機嫌を伺って、『太子は頭がいい』と言うが、運だけは『中程度の人物』と言った。これこそ運が忠誠・正直だという何よりもの証拠である。」
 帝はそのまま運に太子を中程度の人物と見た理由を聞いた。運は答えて言った。
「班固は斉の桓公を中程度の人物と評しました(《漢書》古今人表)。管仲が輔佐すると覇者となり、豎貂()が輔佐すると国を乱した(後継者争いを起こさせた)からです。周囲の人物が上等であれば善事を行ない、下等であれば悪事を行なう。そういう人物を、中程度の人物と言うのです。」
 帝は言った。
「良く分かった。」
 このように、朝臣の選抜には運の意見も大きく関わっていたのだった。帝は運を飛び級昇進させ、京兆(雍州)郡丞とした。一方、太子は運の言葉を聞くと非常に不機嫌になった。

 運(生年540、時に34歳)は字を承業といい、南陽淯陽の人で、西晋の尚書令の楽広の八世孫である。祖父の楽文素は南斉に仕えて南郡守となり、父の楽均は梁に仕えて義陽郡守となった。
 運は若年の頃から学問を好み、書物を読み漁った。本の内容は〔大意を重視し、〕些末なことには拘らなかった。十五の時に西魏が〔梁の都の〕江陵を陥とすと(554年)、長安に連行された。この時、親族の多くが奴隷とされたが、運は長年人の下働きをしてお金を貯め、彼らの身を贖ってみな自由にした。また、母や亡兄の妻にも非常に恭しく接し、孝行かつ義理堅いことで世間に名を知られるようになった。もと梁の都官郎で琅邪の人の王澄は運を褒め称え、運の行動の仔細を《孝義伝》に記した。運はまた、品行方正で、一度たりとも人に媚を売らなかった。
 天和の初め(566年)に出仕して夏州総管府倉曹参軍とされ、のち柱国府記室参軍とされた。間もなく臨淄公〔で露門学(教育施設。567年開設)の文学博士〕の万紐于瑾唐瑾の推薦によって露門学士とされた。この頃何度も武帝に諫言を行ない、その多くが聞き入れられた。
 この年、万年(長安城東部)県丞とされると、豪族の勝手を許さず、剛直の評判を得た。帝はこれを褒め、特別に通籍(皇宮の出入り)を許し、何か時宜に合わない事があれば、どんな些細なことでも直接自分に意見させた。

○周武帝紀
 壬午,納皇太子妃楊氏。
○隋文帝紀
 武帝娉高祖長女為皇太子妃,益加禮重。
○周9宣帝楊皇后伝
 宣帝楊皇后名麗華,隋文帝長女。帝在東宮,高祖為帝納后為皇太子妃。
○周40尉遅運
 建德元年,授右侍伯,轉右司衞。時宣帝在東宮,親狎諂佞,數有罪失。高祖於朝臣內選忠諒鯁正者以匡弼之。於是以運為右宮正。
○周40宇文孝伯伝
 歷司會中大夫、左右小宮伯、東宮左宮正。建德之後,皇太子稍長,既無令德,唯昵近小人。孝伯白高祖曰:「皇太子四海所屬,而德聲未聞。臣忝宮官,寔當其責。且春秋尚少,志業未成,請妙選正人,為其師友,調護聖質,猶望日就月將。如或不然,悔無及矣。」帝歛容曰:「卿世載鯁直,竭誠所事。觀卿此言,有家風矣。」孝伯拜謝曰:「非言之難,受之難也。深願陛下思之。」帝曰:「正人豈復過君。」於是以尉遲運為右宮正,孝伯仍為左宮正。尋拜宗師中大夫。
○周40楽運伝
 時京兆郡丞樂運亦以直言數諫於帝。運字承業,南陽淯陽人,晉尚書令廣之八世孫。祖文素,齊南郡守。父均,梁義陽郡守。運少好學,涉獵經史,而不持章句。年十五而江陵滅,運隨例遷長安。其親屬等多被籍,而運積年為人傭保,皆贖免之。又事母及寡嫂甚謹。由是以孝義聞。梁故都官郎琅邪王澄美之,為次其行事,為孝義傳。性方直,未嘗求媚於人。天和初,起家夏州總管府倉曹參軍,轉柱國府記室參軍。尋而臨淄公唐瑾薦為露門學士。前後犯顏屢諫高祖,多被納用。建德二年,除萬年縣丞。抑挫豪右,號稱彊直。高祖嘉之,特許通籍,事有不便於時者,令巨細奏聞。高祖嘗幸同州,召運赴行在所。既至,高祖謂運曰:「卿來日見太子不?」運曰:「臣來日奉辭。」高祖曰:「卿言太子何如人?」運曰:「中人也。」時齊王憲以下,竝在帝側。高祖顧謂憲等曰:「百官佞我,皆云太子聰明睿知,唯運獨云中人,方驗運之忠直耳。」於是因問運中人之狀。運對曰:「班固以齊桓公為中人,管仲相之則霸,豎貂輔之則亂。謂可與為善,亦可與為惡也。」高祖曰:「我知之矣。」遂妙選宮官,以匡弼之。仍超拜運京兆郡丞。太子聞之,意甚不悅。

 ⑴普六如堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に33歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。557年、右小宮伯(侍衛の官)・大興郡公とされた。560年、左小宮伯とされた。のち隨州刺史とされ、大将軍とされた。のち長安に呼び戻され、苦桃が三年に亘って病に臥すと、その間ずっとつきっきりで看病し、世間からこれ以上ない親孝行者という評価を受けた。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。569年(2)参照。
 ⑵安化公孝伯…字は胡三(あるいは胡王)。生年543、時に31歳。故・吏部中大夫の安化公深の子。沈着・正直で人にへつらわず、直言を好んだ。武帝と同じ日に生まれ、宇文泰に非常に可愛がられ、帝と一緒に養育された。帝が即位すると比類ない信任を受けて側近とされ、常に帝に付き従って寝室にまで出入りし、機密事項の全てに関わることを許された。護誅殺の際は計画を打ち明けられ、これに協力した。572年(3)参照。
 ⑶卿の家は剛直さと真摯さで有名…孝伯の父の宇文深は剛直な性格で、中央にあれば良く宇文泰に献策し、地方にあれば良く領内を治めた。叔父の宇文測も中央にあれば良く宇文泰に献策し、地方にあれば良く領内を治めた。
 ⑷尉遅運…生年539、時に35歳。故・呉国公の尉遅綱の子。557年、明帝が即位する際岐州まで迎えに行った。560年、開府とされた。563年、晋陽を攻めた。569年に隴州刺史、570年に小右武伯とされた。571年、左武伯中大夫・軍司馬とされた。斛律光が汾北に侵攻してくるとこれを迎撃し、伏龍城を陥とした。571年(1)参照。
 ⑸斉公憲…字は毗賀突。生年544、時に30歳。宇文泰の第五子(第六子?)。武帝の異母弟。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年に益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されるとやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に常に関わることを許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも引き続き用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。572年(3)参照。
 ⑹万紐于瑾(唐瑾)…字は附璘。北魏の名将の唐永の子。八尺二寸の長身で、非常に立派な容姿をしていた。穏やかで控えめな性格で、読書と作詩を趣味とした。沙苑の戦い以前から宇文泰に仕えて相府記室参軍事となり、多くの命令書の作成に携わった。のち、尚書右丞・吏部郎中とされ、周恵達と共に古い文献を斟酌して礼楽を完備するのに貢献した。のち戸部尚書・開府儀同三司とされ、宇文氏の姓を与えられたが、瑾の才能を気に入った于謹の申し出により、謹と同じ万紐于氏の姓に改められた。江陵征伐の際にはその作戦計画の大半を考案し、江陵を陥とすと書籍だけを得て帰った。のち礼部・吏部・御正・納言中大夫や諸州の刺史を務めた。567年、文学博士とされ、教育に当たった。567年(2)参照。

沈君理の死

 この年、陳の尚書右僕射・領吏部・駙馬都尉の沈君理が病床に伏した。宣帝は自ら君理の見舞いに赴いた。
 癸未(20日)、逝去した。侍中・太子少傅を追贈した。葬儀で必要な物があれば随時遺族に支給した。のち、更に翊左将軍・開府儀同三司を追贈し、侍中はそのままとした。貞憲と諡した。

 丁亥(24日)、陳の前鄱陽内史の魯天念が黄城(江夏の北九十里。北斉の南司州[1]⑶の小城を陥とした。北斉軍は大城(内城)に立て籠もり、抵抗を続けた。
 戊子(25日)、南兗州(広陵)の盱眙郡を譙州(譙城。歴陽の北百五十里)に属させた。

 壬辰晦(29日)の黎明、黄城の大城が陳に降った。

 この月、北斉の後主が鄴の東にて巻狩りを行なった。

 冬、10月、甲午(2日)、郭黙城(江州の東北が陳に降った。

 戊戌(6日)、中書令の王瑒を吏部尚書とした。
 己亥(7日)、特進・領国子祭酒・豫州大中正の周弘正を尚書右僕射とした。祭酒・中正はそのままとした。


 宣帝は間もなく弘正に勅命を下し、太子叔宝に論語と孝経の講義をさせた。叔宝は、弘正が朝廷の旧臣で、徳行も名望も重い事を理由に、非常に敬意を払って師弟のような関係を結び、心の底から教えを請うた。

○北斉後主紀
 九月,校獵于鄴東。
○陳宣帝紀
 癸未,尚書右僕射、領吏部、駙馬都尉沈君理卒。丁亥,前鄱陽內史魯天念克黃城小城,齊軍退保大城。戊子,割南兖州之盱眙郡屬譙州。壬辰晦,夜明,黃城大城降。冬十月甲午,郭默城降。戊戌,以中書令王瑒為吏部尚書。己亥,以特進、領國子祭酒周弘正為尚書右僕射。
○陳23沈君理伝
 其年有疾,輿駕親臨視,九月卒,時年四十九。詔贈侍中、太子少傅。喪事所須,隨由資給。重贈翊左將軍、開府儀同三司,侍中如故。諡曰貞憲。
○陳23王瑒伝
 遷中書令,尋加散騎常侍,除吏部尚書,常侍如故。瑒性寬和,及居選職,務在清靜,謹守文案,無所抑揚。
○陳24周弘正伝
 太建五年,授尚書右僕射,祭酒、中正如故。尋勑侍東宮講論語、孝經。太子以弘正朝廷舊臣,德望素重,於是降情屈禮,橫經請益,有師資之敬焉。

 ⑴沈君理…字は仲倫。生年525、時に49歳。風貌が美しく、読書家で、人を見抜く目があった。陳の武帝と同郷で、帝と親交のあった父の推薦によって帝に仕え、帝の娘(会稽長公主)を娶った。557年頃に呉郡太守とされると能吏の評判を得た。文帝が即位すると(559年)中央に呼び戻されて丹陽尹とされた。561年、左民尚書とされた。566~568年まで喪に服し、569年、復帰して太子詹事とされた。569年に吏部尚書とされ、今年、尚書右僕射とされ、吏部を兼任した。573年(1)参照。
 ⑵宣帝…陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王頊(キョク)。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に44歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年に帰国すると侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇った。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。573年(1)参照。
 [1]黄城…《魏書》地形志曰く、『譙州下蔡郡に黄城がある。』東魏は譙州を渦陽に置いた。恐らく下蔡郡は淮北にあり、黄城は寿陽の西にあったのであろう。《水経注》曰く、『柴水は東に流れて黄城の西を通る。ここは故・弋陽の地であり、城内には二城があり、西〔の城が小?〕黄城である。柴水は更に東北に流れて淮水に入る。この地を柴口という。』
 ⑶黄城…《読史方輿紀要》曰く、『漢陽府(江夏)の北九十里にある黄陂県の治所である。黄祖が築いたためこう呼ばれた。北斉はここに南司州を置いた。』
 ⑷郭黙城…《読史方輿紀要》曰く、①『九江府(江州)の東北にある。』②『蘄水県(九江府の西北)の東にある。胡氏曰く、蘄(蘄水県と九江府の中間)・黄(江夏の東)二州の間にある。』555年頃に段韶が新蔡(江州の北)を攻める際に郭黙戍を築いている(555年(1)参照)ことから、今は①の説を採った。
 ⑸王瑒…字は子璵、或いは子瑛。故・特進の王沖の第十二子。美男で、立ち居振る舞いに趣があった。梁に仕えて兼侍中・司徒左長史となり、敬帝が陳覇先(陳の武帝)に帝位を譲る際、皇帝の璽綬を覇先に届ける役目を任された。陳が建国されると守五兵尚書とされ、文帝が即位すると領太子庶子→太子中庶子とされた。宣帝が即位すると度支尚書・領羽林監→中書令とされた。567年(4)参照。
 ⑹周弘正…字は思行。博識の大学者で、国子博士などを務めた。梁の武帝が侯景を梁に引き入れた際、戦乱が起こることを予言した。のち、元帝に都を建康に戻すよう勧めた。江陵が西魏に攻められると、包囲をかいくぐって建康に逃走した。のち、北周に派遣され、安成王頊(宣帝)を陳に連れて帰った。のち566年に都官尚書とされ、569年に特進とされた。570年(1)参照。
 ⑺太子叔宝…字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に21歳。西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、宣帝が即位すると太子とされた。573年(1)参照。


 573年(4)に続く