[北周:建徳二年 北斉:武平四年 陳:太建五年 後梁:天保十一年]

援軍出陣


 陳の北討大都督の呉明徹の軍勢が北斉領内に入ると(3月23日出陣)、長江沿いの城鎮は相次いで降伏した。明徹はその勢いのまま秦州(秦郡)に向かった。秦州の前には滁水があり、北斉はその中に大杭を打ち込んで柵を作り、防備を固めていた。
 辛亥(4月16日)、安遠将軍(五品)・豫章内史の程文季が決死隊を率いてこれを攻め、突破に成功した。

 癸丑(18日)、北斉の後主が皇祠に祈りを捧げた。この時、壇壝(臨時の宿泊所)を囲む低い生け垣の中に突然車輪の跡が現れた。いくら周囲を調査しても車がどこから来たか分からなかった。
 乙卯(20日)、これを大慶事とみなし、天下に告げ知らせた。

 丙辰(21日)、北周が東宮の官員の数を増やした。

 己未(24日)、北周の使者(侯莫陳凱宇文訳〈鄭訳〉?)が北斉に到着した。

 これより前、北斉は陳が淮南に侵攻してきたのを知ると、軍議を開いて善後策を講じた。領軍将軍の封輔相は出撃を求めた。一方、開府儀同三司〔・武衛将軍〕の王紘はこう言った。
「官軍は近頃しばしば戦いに敗れ[1]、軍心は動揺しています。このような時に、更に江・淮に出兵などなさいますと、北狄(突厥)・西寇(北周)が大挙として侵攻してきた場合、支えきれず、一巻の終わりとなってしまうでしょう。ゆえに、ここは〔出兵せずに〕税率や労役負担を軽減して軍・民を休養することに専念したほうが良いと思います。さすれば、軍・民は朝廷のために力を尽くし、化外の者たちも我らの仁義・道徳ぶりを聞いて感動し、偽陳(陳の蔑称)どころか、天下全てが帰順してくることになるでしょう。」
〔録尚書事・淮陰王の〕高阿那肱は参加者にこう言った。
「王武衛に賛成の者は南を向いて座れ。」
 参加者はみな南を向いた。
 しかし、結局援軍は派遣されることになった。北斉は〔豫州道行台尚書令・豫州刺史・〕歴陽王の高景安封輔相に和州を、開府儀同三司・領軍将軍の尉破胡長孫洪略に秦州を救わせた。
 また、もと揚州(寿陽)道行台尚書・揚州刺史の盧潜を再び揚州道行台尚書とした。

○資治通鑑
官軍比屢失利,人情騷動。」…不從。遣軍救歷陽…。
○周武帝紀
 夏四月…丙辰,增改東宮官員。
○北斉後主紀
 癸丑,祈皇祠壇壝蕝之內忽有車軌之轍,按驗傍無人跡,不知車所從來。乙卯,詔以為大慶,班告天下。己未,周人來聘。
○陳宣帝紀
 辛亥,吳明徹克秦州水柵。
○周16侯莫陳凱伝
 建德二年,為聘齊使主。
○周35鄭訳伝
 建德二年,為聘齊使副。
○北斉25王紘伝
 五年,陳人寇淮南,詔令羣官共議禦捍。封輔相請出討擊。紘曰:「官軍頻經失利,人情騷動,若復興兵極武,出頓江、淮,恐北狄西寇,乘我之弊,傾國而來,則世事去矣。莫若薄賦省徭,息民養士,使朝廷協睦,遐邇歸心,征之以仁義,鼓之以道德,天下皆當肅清,豈直偽陳而已。」高阿那肱謂眾人曰:「從王武衞者南席。」眾皆同焉。
○北斉42盧潜伝
 至鄴未幾,陳將吳明徹渡江侵掠,復以潛為揚州道行臺尚書。
○陳9呉明徹伝
 明徹總統眾軍十餘萬,發自京師,緣江城鎮,相續降款。軍至秦郡,克其水柵。
○陳10程文季伝
 五年,都督吳明徹北討秦郡,秦郡前江浦通涂水,齊人竝下大柱為杙,柵水中,乃前遣文季領驍勇拔開其柵。

 ⑴呉明徹…字は通炤。生年512、時に62歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。王琳が東伐に向かうと湓城の留守を狙ったが、迎撃に遭って敗走した。560年、武州刺史とされたが、北周軍がやってくると城を捨てて逃走した。561年に南荊州刺史、562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。564年に呉興太守、565年に中領軍とされた。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊がクーデターを図るとこれに賛同した。567年、湘州刺史とされ、華皎討伐に赴いてこれを平定した。のち後梁領の河東を陥とし、次いで江陵を攻めたが撃退された。572年、都に呼び戻されて侍中・鎮前将軍とされた。今年、北討大都督とされ、北伐の総指揮官とされた。573年(1)参照。
 ⑵滁水…《元和郡県図志》曰く、『廬州の梁県(合肥の東北七十里)に水源があり、全椒県(揚州府の西二百六十里→滁州の西南五十里)の六十里南を通り、東に流れて滁県・六合県を経て瓜步の地にて長江に入る。』
 ⑶程文季…字は少卿。陳の名将の程霊洗の子。孝行者。幼少の頃から騎射に巧みで武略があり、父に似て果断だった。弱冠(二十歳)にして父の征討に従い、戦うたびに先んじて敵陣を陥とした。文帝が即位すると始興王伯茂の中直兵参軍とされ、王府の軍事をみな委任された。留異が叛乱を起こすと、新安に拠る向文政を撃破して降伏させた。その後再び伯茂の中兵参軍とされた。陳宝応討伐の際には水軍の先鋒を任され、連戦連勝した。のち臨海太守とされ、父が華皎の攻撃を受けると救援に赴いた。568年、父が死ぬと軍陣であるにも関わらず喪に服し、痩せ細った。570年、豫章内史とされ、喪期間が終わると重安県公を継いだ。570年、青泥の軍艦を焼き払い、次いで江陵を攻めたが撃退された。570年(2)参照。
 ⑷後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に18歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。573年(1)参照。
 ⑸封輔相…鮮卑人でもと是賁氏? 高歓からの譜代の臣で、軍功を挙げて領軍とされた。572年、北周に使者として派遣された。572年(4)参照。
 ⑹王紘…字は師羅。高句麗出身? 東魏の北豫州刺史の王基の子。騎射を得意とし、文学を非常に愛好した。また聡明で、機転が利いた。後主の伯父の高澄に仕えて庫直となり、澄が賊の襲撃に遭って落命した時には敢然と賊に立ち向かって負傷し、その忠節を以て領左右都督とされた。のち、文宣帝の柔然討伐に従い、包囲に遭うと力戦して帝を救った。帝から重用を受け、諫言を何度行なっても容赦された。孝昭帝が実権を握ると、中外府功曹参軍事とされた。564年、突厥討伐に参加し、功によって驃騎大将軍とされた。565年、給事黄門侍郎とされ、のち散騎常侍とされた。570年、開府儀同三司とされた。570年(3)参照。
 [1]北斉は近年北周と宜陽・汾北を巡って争い、どちらにも勝利して確保しており、敗れてはいない(宜陽は陥とされている?)。恐らく北斉は勝利したとは言っても、それは勝ったり負けたりを繰り返した末の辛勝であり、軍は疲弊していたのであろう。
 ⑺高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・驃騎大将軍・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。大体後主の侍衛を任されたので、その関係で後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事とされ、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。573年(1)参照。
 ⑻高景安…北斉の勇将。もとの姓は元氏。昭成帝(拓跋什翼犍)の五世孫で、高祖父は陳留王虔。清廉の人。もと西魏の臣だったが、天平の末年(537)に東魏に寝返った。馬と弓の扱いに熟達しており、いかなる時も品があったので、梁の使者がやってくるとその都度命を受けて騎射を披露し、賞賛を受けた。冷静明晰で優れた才能と度量を有し、数々の戦いで武功を挙げた。のち、高氏の姓を与えられ、領左右大都督→武衛大将軍→領左右大将軍・兼七兵尚書とされた。555年に北斉が長城を築くとその守備を任された。のち都官尚書→七兵尚書とされ、右衛将軍→右衛大将軍とされた。565年、并省尚書右僕射とされ、間もなく徐州刺史とされた。568年に豫州道行台僕射・豫州刺史とされると善政を行なった。572年に行台尚書令・歴陽郡王とされた。572年(5)参照。
 ⑼尉破胡…南陽王綽が波斯狗を何匹も飼っていたのを諫めたが、怒った綽が突然数匹の狗を斬り殺すと驚いて逃げ、以後二度と諫言しなくなった。568年(1)参照。
 ⑽盧潜…容貌は立派で、話術に長けた。高澄に用いられて中外府中兵参軍となると、才能を発揮して重用を受けた。澄が西魏将の王思政の降伏を受け入れようとすると反対した。554年、魏書の内容を批判した罪で禁錮刑に処された。のち復帰して要職を歴任したが、鄭頤の讒言を受けて左遷された。560年に揚州道行台左丞→尚書とされ、572年まで13年の長きに亘って淮南を治め、良く人々の心を摑んだ。去年、五兵尚書とされて中央に呼び戻された。572年(5)参照。

大峴山の戦い

 高景安封輔相は五万[1]を率いて歴陽に到り、付近の小峴山に城を築いた。この時、揚州道行台尚書の盧潜は〔慎重に攻めるよう強く求めたが、〕輔相は聞き入れなかった。潜は憂憤の余り陣中にて病の床に就いた。
 和州の攻略に当たっていた陳の南豫州刺史の黄法氍は、北斉軍の到来を知ると、左衛将軍の樊毅と〔右軍将軍の〕任忠に兵を与え、〔小峴山の東にある〕大峴山にて迎撃させた。
 庚申(25日)、北斉軍を大破し、数え切れないほどの人馬・兵器を獲た。

○陳宣帝紀
 庚申,齊遣兵十萬援歷陽,儀同黃法氍破之。
○北30盧潜伝
 四年,陳將吳明徹來寇,領軍封輔相赴援。陳兵及峴,輔相不從,潛固爭不得,憂憤發病,臥幕下,果敗。
○陳11黄法氍伝
 五年,大舉北伐,都督吳明徹出秦郡,以法氍為都督,出歷陽。齊遣其歷陽王步騎五萬來援,於小峴築城,法氍遣左衛將軍樊毅分兵於大峴禦之,大破齊軍,盡獲人馬器械。
○陳31任忠伝
 五年,眾軍北伐,忠將兵出西道,擊走齊歷陽王高景安於大峴。

 [1]考異曰く、『陳宣帝紀には「十万」とあり、黄法氍伝には「五万」とある。尉破胡の方も蕭摩訶伝には「十万」とある。のちの源文宗の言葉から考えるに、恐らくこれほどの兵数では無かったであろう。』(文宗の言葉はあくまでも『精鋭』の数だけなので、多少の誇張はあるにしても、そう否定するものではないように思う)
 ⑴小峴山…《読史方輿紀要》曰く、『峴山は二つあり、大峴山は和州含山県の東北十三里にあり、小峴山は含山県の北二十里にある。《輿地志》曰く、「小峴は合肥の東にあり、大峴は小峴の東にある」。胡三省曰く、「建康ー歷陽ー寿陽の経路の要衝で、そのうち小峴が最も要害である。」《紀勝》《輿地紀勝》曰く、「小峴はまたの名を昭関といい、二つの峰が峙立している。」』
 ⑵黄法氍(ク)…字は仲昭。生年518、時に56歳。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと巴山に割拠した。のち陳覇先に付き、556年、高州刺史とされた。557年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍の撃破や親王琳派の熊曇朗の討伐に貢献した。563年、南徐州刺史→江州刺史とされた。565年に中衛大将軍とされ、567年に南徐州刺史、568年に郢州刺史、570年に中権大将軍とされた。572年、征南大将軍・南豫州刺史とされた。北伐が行なわれると、西道方面の攻略を任された。573年(1)参照。
 ⑶樊毅…字は智烈。樊文熾の子で、樊文皎の甥。武芸に優れ、弓技に長けた。陸納の乱の際には巴陵の防衛に活躍した。江陵が西魏に攻められると救援に赴き、捕らえられ、後梁の臣下となった。556年に武州を攻めて刺史の衡陽王護を殺害したが、王琳の討伐を受けて捕らえられた。その後は琳に従った。560年、王琳が敗れると陳に降った。のち荊州攻略に加わり、次第に昇進して武州刺史とされた。569年、豊州(福建省東部)刺史とされた。のち左衛将軍とされた。569年(3)参照。
 ⑷任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の合州刺史の鄱陽王範に登用され、侯景領の寿陽を攻めた。のち王琳の配下となり、巴陵太守とされた。王琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、安湘太守とされて巴・湘の制圧に加わった。のち豫寧太守などを歴任し、陳宝応討伐に参加した。のち、衡陽内史とされた。華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。欧陽紇の乱の平定に活躍して廬陵内史とされ、のち右軍将軍とされた。567年(3)参照。

王琳に委ねよ

 これより前、司空〔・宜陽王〕の趙彦深は起居省にて密かに秘書監の源文宗にこう尋ねて言った。
「呉賊()の邪心はいよいよ膨れ上がり[1]、とうとう我が領内を犯すに至った。僕は長らく宰相を務めてきたが、無才の身であるゆえ、どうすれば良いか分からぬ。弟(年下の同僚の呼称)はむかし秦州と涇州(石梁)の刺史を務めておったゆえ、江・淮一帯の事情に通じておるはず。どのように防衛すればよいだろうか?」
 文宗は答えて言った。
「私は国家に大恩を受けましたが、功を立ててこれに報いることができておりません。そこで今、思い切って王に考えを申し上げます。今、朝廷が諸将に与えた精兵は数千以下の少なさで、これでは呉楚()に勝つどころか、却って格好の餌食となるだけであります。しかも、大将の尉破胡の性格は王がよく知っている通り〔向こう見ず〕であります〔ゆえ、退却もしないでしょう〕。進めば敗北は明らかで、退くこともしないのなら、敗報がやってくるのはそう遠くございません。王は中央・地方ともに良い政績を挙げられたお方で、官・民から非常な期待を寄せられていますが、一度でも失敗すればどうなるか分かりません。こたびのはかりごとは何度もやり直せるものではないのです。〔ただ、〕国家は淮南を喪うことを、よもぎで作った矢(価値が低い)を失うのと同様に見ています。ゆえに、私の考えでは、〔国軍を使わず、南人の〕王琳に防衛の全権を委ね、〔兵は〕淮南にて〔民兵を〕三、四万ほど募らせて率いさせるのが一番良いと思います。琳は淮南の人々と風俗・習慣が同じでありますから、きっとその〔心を掴み、〕死力を尽くさせることができると思います。それに、琳が曇頊(陳頊〈宣帝〉の蔑称?)に寝返ることが無いのも、〔これまでの経緯からいって〕明らかです。その間に、破胡らに淮北にて兵の調練を行なわせれば、盤石な防衛態勢が出来上がるはずです。以上の点から言って、これこそまことに上計というものでしょう。ただ、もし琳に全権を委ねず、他の将軍の支配下に置けば、敗北はすぐにでもやってきます。これは絶対にしてはならないことです。」
 彦深は嘆息して言った。
「弟のこの良計は、まことに千里の彼方の戦いを勝利に導くものである。ただ、出陣前に僕が十日に亘って主張した意見も聞き入れられなかったのだから、出陣後なら、なおさら聞き入れてもらえぬであろう。」
 かくて二人して涙を流した。

 源文宗生年521、時に53歳)は本名を彪といい、文宗は字である(源氏のもとの姓は禿髪)。父は東魏の魏尹の源子恭で、子に源師がいる。聡明・博識で、若年の頃から名声があった。北魏の永安年間(528~530)に父の功によって臨潁県伯に封ぜられ、員外散騎常侍とされた。天平四年(537)に涼州大中正とされ、〔元象元年(538)に〕父が死ぬと職を去った。武定の初め(543年)に喪が明けると、吏部郎中・領司徒記室とされ、平東将軍を加えられた。高澄後主の伯父。東魏の二代丞相)が吏部尚書となると、尚書郎の選別が行なわれ、文宗は尚書祠部郎中・領司徒記室とされた。のち太子洗馬とされ、天保元年(550)に太子中舍人、乾明の初め(560)に范陽郡守とされた。
 皇建二年(561)に涇州刺史とされると、恩情と信義を旨とした政治を行なって不安定な国境地帯を非常に良く治めた。陳はこれに一目を置き、前任の刺史の時に拉致していた住民の多くを送還した。天統の初め(565年)に中央に入って吏部郎中とされ、のち御史中丞・兼吏部郎中→散騎常侍・兼吏部郎中・驃騎大将軍とされた。
 秦州刺史の宋嵩が逝去すると、朝廷は秦州が治め難い国境にあることを理由に、同じ国境地帯の涇州で非常な政績を挙げた文宗を後任の刺史とした。朝廷は文宗に駅馬を使わせて州に急行させ、特別に後部鼓吹(楽隊)を与えた。文宗の秦州の政治姿勢は、涇州の時と変わらなかった。李孝貞が陳に使者として赴いた時(568年11月、到着は569年?)、陳主(宣帝?)は孝貞にこう言った。
「斉朝が源涇州(文宗)を瓜步(秦州)に赴任させた事は、まことに友好的な態度と言えよう。」
 間もなく儀同三司を加えられた。武平二年(572)に中央に呼び戻されて領国子祭酒とされ、今年、秘書監とされた。

○資治通鑑
「吳賊侏張,遂至於此。弟往為奏、涇刺史,悉江、淮間情事,今何術以禦之﹖」
○北斉43・北28源彪伝
 源彪,字文宗,西平樂都人也。父子恭,魏中書監、司空,文獻公。文宗學涉機警,少有名譽。魏孝莊永安中,以父功賜爵臨潁縣伯,除員外散騎常侍。天平四年,涼州大中正。遭父憂去職。武定初,服闋,吏部召領司徒記室,加平東將軍。世宗攝選,沙汰臺郎,以文宗為尚書祠部郎中,仍領記室。轉太子洗馬。天保元年,除太子中舍人。乾明初,出為范陽郡守。
 皇建二年,拜涇州刺史。文宗以恩信待物,甚得邊境之和,為隣人所欽服,前政被抄掠者,多得放還。天統初,入為吏部郎中,遷御史中丞,典選如故。尋除散騎常侍,仍攝吏部,加驃騎大將軍。屬秦州刺史宋嵩卒,朝廷以州在邊垂,以文宗往蒞涇州,頗著聲績,除秦州刺史,乘傳之府,特給後部鼓吹。文宗為治如在涇州時。李孝貞聘陳,陳主謂孝貞曰:「齊朝還遣源涇州來瓜步,直(真)可謂和通(通和)矣。」尋加儀同三司。武平二年,徵領國子祭酒。三年,遷祕書監。
 陳將吳明徹寇淮南,歷陽、瓜步相尋失守。趙彥深於起居省密訪文宗曰:「吳賊侏張,遂至於此,僕妨賢既久,憂懼交深,今者之勢,計將安出?弟往在涇州,甚悉江、淮間情事,今將何以禦之?」對曰:「荷國厚恩,無由報効,有所聞見,敢不盡言。但朝廷精兵必不肯多付諸將,數千已下,復不得與吳楚爭鋒,命將出軍,反為彼餌。尉破胡人品,王之所知。進既不得,退又未可,敗績之事,匪朝伊夕。王出而能入,朝野傾心,脫一日參差,悔無所及。以今日之計,不可再三。國家待遇淮南,失之同於蒿箭。如文宗計者,不過專委王琳,淮南招募三四萬人,風俗相通,能得死力,兼令舊將淮北捉兵,足堪固守。且琳之於曇頊,不肯北面事之明矣,竊謂計之上者。若不推赤心於琳,別遣餘人掣肘,復成速禍,彌不可為。」彥深歎曰:「弟此良圖,足為制勝千里,但口舌爭來十日,已不見從。時事至此,安可盡言。」因相顧流涕。

 ⑴趙彦深…本名隠。生年507、時に67歳。能吏で後主八貴の一人。高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄・文宣帝に重用を受け、依然として機密に携わった。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。楊愔が誅殺されると(560年)代わりに宰相とされた。565年に尚書左僕射、567年に尚書令とされた。のち宜陽王・并省録尚書事とされ、571年、司空とされたが、祖珽との政争に敗れて西兗州刺史に左遷された。今年、復帰して司空とされた。573年(1)参照。
 [1]原文『侏張』。侏は侜の誤りではないか(侜は欺くの意、侏は肥大の意)。
 ⑵王琳…字は子珩。生年526、時に48歳。もと梁の臣。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が梁の元帝の側室となったことで、重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐のさい第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘・郢州に割拠し、蕭荘を奉じて陳と何度も戦ったが、560年大敗を喫して北斉に亡命した。562年(1)参照。
 ⑶源子恭…字は霊順。?~538。鮮卑人で、もとの姓は禿髪。聡明で学問を好んだ。河州羌・秦益氐・建興蜀の乱の平定や梁軍の撃退に活躍した。孝荘帝に付いて爾朱兆と戦って敗れると、兆に仕えた。のち行台僕射・荊州刺史とされ、孝武帝が即位すると吏部尚書とされた。東魏が建国されると中書監→魏尹とされた。
 ⑷源師…字は践言。鮮卑人で、もとの姓は禿髪。祖父は東魏の魏尹の源子恭、父は北斉の秘書監の源文宗。能弁で理解力が高く、事務の才能があると自認していた。出仕して司空府参軍事となり、次第に昇進して尚書左外兵郎中・摂祠部とされた。龍星が現れると録尚書事の高阿那肱に雨乞いをするよう求めたが、拒否された。573年(1)参照。
 ⑸李孝貞…字は元操。名門趙郡の李氏の出身。父は信州刺史の李希礼。幼い頃から勉強が好きで、文才があった。さっぱりとして物静かな性格で、みだりに人と付き合わなかった。黄門侍郎の高乾和からの通婚の誘いを断ったことで左遷された。568年、副使として陳に赴いた。568年(2)参照。

石梁の決戦

 尉破胡・長孫洪略・王琳率いる十万の援軍が秦州に到着した。
 この時、琳は親しい者にこう言った。
「今、太歲(木星)は東南の斗牛の分野(呉越)に在り、太白(金星。太白は春秋呉の祖)は高い位置にある。これらの天象はみな侵入者が有利(陳は呉越地方に建てられた国)であることを示すものである。我らは敗れるだろう。」
 また、破胡にこう言った。
「呉兵(陳軍)の意気は盛んですので、慎重に戦うべきです。軽々しく戦ってはなりません。」
 破胡は聞き入れなかった。
 両軍はやがて石梁(涇州)の南にて対峙した[1]
 北斉軍の前衛には『蒼頭』・『犀角』・『大力』と名付けられた精鋭部隊が配されていた。彼らはみな八尺の長身で怪力を有し、無類の強さを誇った。軍中には更に百発百中の弓技を備えた西域出身の胡人がいて、これが陳兵の一番の恐怖の対象となっていた。戦う前、呉明徹は巴山太守の蕭摩訶にこう言った。
「この胡人を斃す事ができれば、彼の軍の意気を阻喪させることができるだろう。君は関羽・張飛と呼ばれているのだから、顔良(胡人)を斬ってしかるべきである。」
 摩訶は答えて言った。
「どんな特徴をしているか教えていただければ、公のために必ず仕留めてまいりましょう。」
 明徹は北斉軍の投降兵の中から胡人を知っている者を探し出し、問い質した。すると投降兵はこう言った。
「かの胡人は赤い衣服を着ていて、その弓は樺の皮で装飾され、ゆはず(弓の両端)は骨弭(動物の骨を加工して作ったゆはずの装飾品)で装飾されています。」
 辛酉(26日)、明徹はそこでさっそく人を派し、北斉軍を偵察させた。すると、かの胡人は目前の陣中にいることが分かった。明徹は自ら酌をして摩訶に酒を飲ませた。摩訶は酒を飲み終えると馬に乗り、まっしぐらに北斉軍の陣地に突っ込んだ。胡人はこれを知ると出陣し、陣の十余步前にて弓を引き絞り、今にも摩訶を射ようとした。その刹那、摩訶は遥か遠くから銑鋧(クナイのようなもの)を投げた。それは過たず胡人の額に命中し、胡人は即死した。北斉軍は更に『大力』十余人を繰り出したが、摩訶はこれもみな斬り殺した。ここにおいて北斉軍は総崩れとなった。破胡と琳は逃走し、洪略は戦死した[2]。陳は数え切れぬほどの首級と捕虜を獲た。

 琳は彭城(徐州)に到った所で詔命を受け、直ちに寿陽(揚州)に赴いて兵を召募し、揚州道行台尚書の盧潜と共に陳軍の侵攻を防ぐよう命ぜられた。また、巴陵郡王に爵位を進められた。

 癸亥(28日)、陳が北伐で殺害した北斉兵をみな埋葬した。

○資治通鑑
 將戰,吳明徹謂巴山太守蕭摩訶曰:「若殪此胡,則彼軍奪氣,君才不減關羽矣。」
○北斉後主紀
 五月…是月,開府儀同三司尉破胡 、長孫洪略等與陳將吳明徹戰於呂梁南,大敗, 破胡走以免,洪略戰沒。
○陳宣帝紀
 辛酉,齊軍救秦州,吳明徹又破之。癸亥,詔北伐眾軍所殺齊兵,竝令埋掩。
○北斉32・南64王琳伝
 會陳將吳明徹來寇,帝勑領軍將軍尉破胡等出援秦州,令琳共為經略。琳謂所親曰:「今太歲在東南,歲星居斗牛分,太白已高,皆利為客,我將有喪。」又謂破胡曰:「吳兵甚銳,宜長策制之,慎勿輕鬭。」破胡不從,遂戰,軍大敗,琳單馬突圍,僅而獲免。還至彭城,帝令便赴壽陽,並許召募。又進封琳巴陵郡王。
○陳9呉明徹伝
 齊遣大將尉破胡將兵為援,明徹破走之,斬獲不可勝計。
○陳31蕭摩訶伝
 太建五年,眾軍北伐,摩訶隨都督吳明徹濟江攻秦郡。時齊遣大將尉破胡等率眾十萬來援,其前隊有「蒼頭」、「犀角」、「大力」之號,皆身長八尺,膂力絕倫,其鋒甚銳。又有西域胡,妙於弓矢,弦無虛發,眾軍尤憚之。及將戰,明徹謂摩訶曰:「若殪此胡,則彼軍奪氣,君有關、張之名,可斬顏良矣。」摩訶曰:「願示其形狀,當為公取之。」明徹乃召降人有識胡者,云胡著絳衣,樺皮裝弓,兩端骨弭。明徹遣人覘伺,知胡在陣,乃自酌酒以飲摩訶。摩訶飲訖,馳馬衝齊軍,胡挺身出陣前十餘步,彀弓未發,摩訶遙擲銑鋧,正中其額,應手而仆。齊軍「大力」十餘人出戰,摩訶又斬之,於是齊軍退走。

 [1]石梁…〔北斉後主紀では〕呂梁とある。ただ、呂梁は彭城(徐州)〔の東南六十里〕にあり、〔秦州から遠く離れている。〕石梁(揚州府〈東広州。広陵〉の西百二十里→天長県の北二十五里)の誤りではないか。
 ⑴蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に42歳。もと群雄の蔡路養の配下。陳覇先(武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。562年(6)参照。
 [2]考異曰く、『北斉後主紀には5月に破胡たちが敗北したとある。今は北斉(陳の誤り?)書〔宣帝紀〕の記述に従った。』
 

和州の陥落


 甲子(29日)、陳の南譙太守の徐槾が石梁城を陥とした。
 5月、己巳(4日)、瓦梁城が陳に降った。
 癸酉(8日)、陽平郡が陳に降った。
 甲戌(9日)徐槾が廬江城を陥とした[1]

 これより前、黄法氍は拍車(衝車? 《南史》では拋車〈投石機〉)と步艦(陸上戦艦? 身を護りながら近づくためのもの?)、竪拍(直立拍車? 投石機?)を用いて歴陽に激しい攻撃を加えた。守備軍は猛攻に苦しみ、降伏を願い出た。法氍がこれを受け入れて攻撃を緩めると、守備軍はその隙に態勢を立て直し、再び防戦を開始した。法氍は激怒し、自ら陣頭に立って攻城を督促し、拍(投石機)を用いて櫓や姫垣(城壁の上の凸部分)に攻撃を加えて無力化した。このとき更に大雨が降って城壁が崩壊した。
 丙子(11日)、歴陽は遂に陥落した。法氍は城兵を皆殺しにした。
 陳は歴陽攻めに加わっていた〔郢州刺史?の〕銭道戢に歴陽を鎮守させた。

 魏収が亡くなったのち、北斉はその著書である《魏書》の改訂を考えるようになった。
 この日、兼中書監の陽休之に詔を下し、《魏書》を改訂させた。ただ、休之は収に自分の家のことを少しばかり良く書いてもらっていたし、そもそも改訂をするほどの才能や学問が無かったため、結局いくら時間が経っても大きな改訂を加えず、ただ『嫡』『庶』の百余字を削除するだけに留めた。

 北周が柱国で大宗伯・忠城公の宇文盛を少師、大司寇・枹罕公の普屯威辛威を少傅、大司空・鴈門公の紇干弘田弘を少保とした。
 丁丑(12日)、柱国で〔荊州総管?・〕周昌公の侯莫陳瓊(11)を大宗伯、滎陽公の司馬消難(12)を大司寇、江陵総管・上庸公の歩六孤騰陸騰(13)を大司空とした。


○周武帝紀
 五月…丁丑,以柱國周昌公侯莫陳瓊為大宗伯,滎陽公司馬消難為大司寇,上庸公陸騰為大司空。
○北斉後主紀
 五月丙子,詔史官更撰魏書。
○陳宣帝紀
 甲子,南譙太守徐槾克石梁城。五月己巳,瓦梁城降。癸酉,陽平郡城降。甲戌,徐槾克廬江郡城。景子,黃法氍克歷陽城。
○周27辛威伝
 三年,遷少傅。
○周27田弘伝
 遷少保。
○周29宇文盛伝
 建德二年,授少師。
○陳11黄法氍伝
 於是乃為拍(拋)車及步艦、竪拍以逼歷陽。歷陽人窘蹴乞降,法氍緩之,則又堅守,法氍怒,親率士卒攻城,施拍加其樓堞。時又大雨,城崩,克之,盡誅戍卒。
○陳22銭道戢伝
 改授使持節、都督郢巴武三州諸軍事、郢州刺史。王師北討,道戢與儀同黃法氍圍歷陽。歷陽城平,因以道戢鎮之。
○三国典略186
 齊主以魏收之卒也,命中書監陽休之裁正其所撰《魏書》。休之以收敘其家事稍美,且寡才學,淹延歲時,竟不措手,唯削去嫡庶一百餘字。

 ⑴石梁城…石梁は涇州の治所だが、涇州陥落は陳宣帝紀によれば6月の事である。《読史方輿紀要》には『廬州府(合肥)の東百二十里に石梁鎮がある』とある。徐槾の行動的に、恐らく石梁はこちらのことを指しているのではなか。
 ⑵瓦梁城…《読史方輿紀要》曰く、『瓦梁壘は六合県(秦州)の西五十五里・滁州(南譙州)の東南八十五里にある。孫呉が作った塗塘の地にある。またの名を瓦梁城という。』『北斉はここに瓦梁郡を置いた。』
 ⑶陽平郡…《読史方輿紀要》曰く、『淮安府(淮州)の南八十里・盱眙県の東百八十里・天長県(石梁の南二十五里)の東北百七十里にある。』
 ⑷廬江城…《読史方輿紀要》曰く、『廬州府(合肥)の南百八十里にある。』
 [1]恐らく徐槾の軍は〔石梁から〕西に向かって廬江を陥としたのであろう。
 ⑸銭道戢…字は子韜。生年511、時に63歳。従妹は陳の武帝の初めての妻。武帝や文帝に付き従って各地を転戦した。562年、留異討伐に参加して後方を脅かした。のち、功を以て都督東西二衡州諸軍事・衡州刺史・領始興内史とされた。563年、陳宝応討伐に参加し、569年、欧陽紇が叛乱を起こして攻撃をかけてくると良く防戦して撃退した。乱が平定されると中央に呼び戻されて左衛将軍とされた。570年、北周の青泥・安蜀城を攻めた。間もなく郢州刺史とされた。570年(3)参照。
 ⑹魏収…字は伯起。506~572。温子昇や邢子才に並ぶ名文家。鉅鹿魏氏の出で、驃騎大将軍の魏子建の子。頭脳明晰で非常に優れた文章を書いたが、人格に問題があった。551~554年に亘って魏書を編纂したが、記述に問題があり『穢史』と糾弾された。572年(5)参照。
 ⑺陽休之…字は子烈。生年509、時に65歳。北平陽氏の出で、名文家の陽固の子。博学で、典雅純正な文章を書いた。賀抜勝と共に梁に亡命したが、のち袂を分かって東魏に属した。石にあった『六王三川』の字の解釈を高歓に行なった。武定七年(549)に給事黄門侍郎とされたが、文宣帝が東魏に禅譲を迫る際、生来のおしゃべりを発揮して計画を鄴中に漏らしてしまったことで一時左遷された。政治の才能に優れ、中山太守や西兗州刺史を務めると住民に慕われ、孝昭帝が即位すると才能を買われて相談役となった。天統元年(565)に光禄卿・監国史とされ、間もなく吏部尚書とされた。570年、中書監→兼尚書右僕射とされた。571年、兼中書監とされた。572年(3)参照。
 ⑻宇文盛…字は保興。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。570年、大宗伯とされた。570年(1)参照。
 ⑼普屯威(辛威)…生年512、時に62歳。隴西の人。祖父の大汗は北魏の渭州刺史・武川太守、父の辛生は河州四面〔総管・〕大都督。宇文泰が賀抜岳の兵を受け継いだとき、優秀さを認められてその帳内とされ、数々の戦いに活躍した。のち、鄜州刺史・河州刺史を務めた。558年、北斉の司馬消難が北周に降ると、その迎えに赴いた。561年、丹州の叛胡を討った。564年、寧州総管とされ、洛陽攻めに参加した。西魏の文帝の娘を賜った。565年に小司馬とされ、阿史那皇后を迎えに西涼州に赴いた。566年に柱国とされた。のち、綏・銀諸州の叛胡を討伐した。571年、汾北にて北斉と戦った。572年、大司寇とされた。572年(3)参照。
 ⑽紇干弘(田弘)…字は広略。生年510、時に64歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。561年、岷州刺史とされた。563年・564年に楊忠の指揮のもと北斉を攻めた。566年頃に宕昌国を滅ぼした。のち江陵総管とされ、陳が侵攻してくると後梁の明帝を連れて紀南城に逃れた。のち、仁寿城主とされ、宜陽攻略を命ぜられた。571年に柱国、573年に大司空とされた。573年(1)参照。
 (11)侯莫陳瓊…字は世楽。柱国大将軍の侯莫陳崇の弟。良く母や兄に仕えた。梁仚定の討伐に参加し、のち、北秦州刺史→郢州刺史とされた。560年に金州総管、561年に大将軍、569年に荊州総管、571年に柱国とされた。569年(3)参照。
 (12)司馬消難…字は道融。北斉の太尉の司馬子如の長子。幼い頃から聡明で、歴史書を読み漁り、風格があった。ただ見栄っ張りで、名誉を求める所があった。高歓の娘の高氏を娶った。北豫州刺史とされると汚職を働き、御史中丞の畢義雲の捜査を受けた。また、浮気癖があったため高氏に嫌われ、讒訴された。また、上党王渙を匿ったという嫌疑もかけられると、身の危険を感じて遂に叛乱を起こして北周に降り、小司徒・大将軍・滎陽公とされた。この時救援に来てくれた楊忠と義兄弟となり、たいへん親密な間柄となった。忠の子の楊堅とも叔父・甥のような親密な関係となった。571年、柱国とされた。571年(1)参照。
 (13)歩六孤騰(陸騰)…字は顕聖。鮮卑の名門の出身。高祖父は北魏の東平王の陸俟。もと東魏の臣で、邙山の戦いの際に陽城を固守したが、刀折れ矢尽きて西魏に降った。のち、蜀方面にて活躍し、斉公憲や趙公招が益州に赴任してくると、軍事を一任された。564年、斉公憲の副官として洛陽攻めに参加した。のち、566年頃に信州蛮の乱を平定した。569年、江陵総管とされ、570年に陳の侵攻を撃退した。571年、柱国とされた。571年(1)参照。

秦州降る

 己卯(14日)、北斉の高塘郡が陳に降った。
 辛巳(16日)、征南大将軍・開府儀同三司・南豫州(姑孰)刺史の黄法氍の鎮所を歴陽に移した。

 これより前、陳の使持節・西道都督・安蘄江衡司定六州諸軍事・安州刺史・西陽武昌二郡太守の周炅が北斉領に侵入して連戦連勝し、一月の内に十二城を抜いた。
 乙酉(20日)、南斉昌太守の黄詠が北斉の斉昌(羅州の外城を陥とした。
 丙戌(21日)、廬陵內史の任忠が東関の東西二城を陥とし、更に蘄城も陥とした。
 戊子(23日)、更に〔南〕譙郡城も陥とした。

 これより前、北斉の秦州は百余日(誇張?)に亘って陳軍の攻撃に耐え続けていた。城内では疫病が流行り、半数以上の者が死ぬ地獄絵図となっていたが、仮儀同三司・秦州刺史の陸杳が良く人心を摑んでいたため、誰も二心を抱かなかった。北斉はその敢闘ぶりを嘉し、杳に開府儀同三司を加えた。しかし、間もなく杳は病死してしまった。
 この日、秦州城が陳に降った[1]
 呉明徹は杳が州内で善政を布き、人々に慕われていたことを以て遺体を北斉に返還し、その家族や家財にも一切手を出さなかった。
 
 杳は字を雲邁といい、北魏の東平王の歩六孤俟の子孫である。中書舍人・黄門常侍を歴任し、死後、開府儀同三司・尚書僕射を追贈された。

 秦郡(秦州の治所)は呉明徹の故郷だった。陳は明徹を実家に帰らせ、文武官や儀仗隊を整列させたのち、国が用意した太牢を用いて祖先の墓を祀らせた。郷里の人々はこれを名誉なことだと考えて非常に羨ましがった。
 癸巳(28日)、瓜步・胡墅の二城が陳に降った。

○陳宣帝紀
 己卯,北高唐郡城降。辛巳,詔征南大將軍、開府儀同三司、南豫州刺史黃法氍徙鎮歷陽,齊改縣為郡者竝復之。乙酉,南齊昌太守黃詠克齊昌外城。景戌,廬陵內史任忠軍次東關,克其東西二城,進克蘄城。戊子,又克譙郡城,秦州城降。癸巳,瓜步、胡墅二城降。
○北28陸杳伝
 駿弟杳字雲邁,亦歷中書舍人、黃門常侍,假儀同三司、秦州刺史。武平中,為寇所圍,經百餘日,就加開府儀同三司。城中多疫癘,死者過半,人無異心。遇疾卒。及城陷,陳將吳明徹以杳有善政,吏人所懷,啟陳主,還其屍,家累貲物無所犯。贈開府儀同三司、尚書僕射。
○陳9呉明徹伝
 秦郡乃降。高宗以秦郡明徹舊邑,詔具太牢,令拜祠上冢,文武羽儀甚盛,鄉里以為榮。
○陳10程文季伝
 明徹率大軍自後而至,攻秦郡克之。
○陳13周炅伝
 五年,進授使持節、西道都督安蘄江衡司定六州諸軍事、安州刺史,改封龍源縣侯,增邑幷前一千戶。其年隨都督吳明徹北討,所向克捷,一月之中,獲十二城。
○陳31任忠伝
 逐北至東關,仍克其東西二城。進軍蘄、譙,並拔之。

 ⑴高塘…《読史方輿紀要》曰く、『安慶府の西南二百七十里にある。漢の皖県の地にあり、東晋はここに松茲僑県を置き、梁は高塘郡を置いた。』
 ⑵南斉昌…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(武昌の北岸)の東二百十里にある。』
 ⑶周炅…字は文昭。汝南安成の人。梁代に朱衣直閤→弋陽太守とされた。侯景の乱が起こると湘東王繹(元帝)に付いて西陽太守・高州刺史とされると武昌・西陽二郡にて精兵を集め、侯景軍の侵攻を何度も撃退した。552年、都督江定二州諸軍事・江州刺史とされた。のち王琳に付いたが、陳に敗れると降伏し、文帝の代に赦されて定州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。今年、西道都督・安蘄江衡司定六州諸軍事・安州刺史・西陽武昌二郡太守とされた。
 ⑷斉昌…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(武昌の北岸)の東南百十里にある。梁の斉昌郡蘄水県で、北斉はここに斉昌県と羅州を置いた。』
 ⑸東関…《読史方輿紀要》曰く、『廬州府(合肥)の東南百八十里→巣県の東南四十里にある。』『東西二城は呉の諸葛恪が築いたものである。』
 ⑹蘄城…《読史方輿紀要》曰く、『廬州府(合肥)の東南百八十里にある。漢の居巣県で、東晋がここに蘄県を置いた。』
 ⑺南譙郡城…《読史方輿紀要》曰く、『廬州府(合肥)の東南百八十里→巣県の東南二十里にある。僑郡である。』
 [1]4月16日に秦州の水柵を突破してから三十八日経ってようやく州城が降ったのである。
 ⑻瓜步…《読史方輿紀要》曰く、『瓜步山は六合県(秦州)の東二十五里にあり、またの名を瓜埠といい、東側が長江に面している。』
 ⑼胡墅…《読史方輿紀要》曰く、『胡墅城は六合県(秦州)の東六十里の長江北岸にあり、対岸に石頭城がある。』

祖珽追放

 北斉の侍中・開府〔・尚書左僕射?〕・燕郡公の祖珽は〔陸令萱との政争に敗れて以降、後主の信任を失って〕日に日に遠ざけられるようになり、宦官たちはこの機に乗じて珽のどんな些細な過失でも取り上げて帝に讒言した。帝がそこで令萱に珽の処遇について尋ねると、令萱は悲しそうな顔をして押し黙った。帝が三度尋ねると、牀(寝具・座具)より下りて叩頭して言った。
「老婢()は死ぬべきです。もともと、老婢が孝徴(祖珽)を推薦したのは、和士開が『博学多才の人』と評したのを聞いて国家にとって良い人物と考えたからでありましたが、最近、孝徴の犯した罪過は目に余るものがあります。まことに、人の本性は予測し難いものです。〔このような悪人を推薦した〕老婢は死ぬべきです。」
 帝はそこで韓長鸞に調査をさせた。すると天子の命令だと偽って勝手に賞賜を受けたことなど十余の悪行が明るみに出た。中書監・兼吏部尚書の段孝言も珽の讒言を行なった。帝は以前にどんなことがあっても殺さないと珽に誓っていたので、〔死刑にすることはせず、〕ただ侍中・僕射の職を解いて北徐州(琅邪)刺史に左遷するに留めた。珽はこれを知ると〔皇宮に赴いて〕帝に申し開きをすることを求めたが、長鸞は以前から珽を非常に嫌っていたため、これを許さず、領軍将軍の侯呂芬に命じて無理やり珽を栢閣(柏台なら御史台のこと)に連行させた。しかし珽はなおも帝に会うことを求め、その場に座り込んで行こうとしなかった。長鸞はそこで兵士に外に引きずり出させ、朝堂に立たせて〔朝臣たちの前で〕大いに罵声を浴びせた。珽が北徐州への道に就くと、朝廷はこれを呼び戻し、開府儀同三司と燕郡公の官爵を解いて刺史だけとしてから再び出立させた(詳細な時期は不明。573年正月〜5月の間?


 癸巳(28日)、北斉が領軍の穆提婆を尚書左僕射とし、侍中・中書監の段孝言を右僕射とした。


 孝言は引き続き人事を司った。人事は孝言の気分次第で行なわれ、官職を求める請願が公然と行なわれた。鄴の北の堀を浚渫する際、朝廷は孝言にその監督を命じた。この時、儀同三司の崔士順・将作大匠の元士将・太府少卿の酈孝裕・尚書左民郎中の薛叔昭・司州治中の崔龍子・清都尹丞の李道隆・鄴県令の尉長卿・臨漳令の崔象・成安令の高子徹らが孝言の部下となって工事に関わった。工事を行なった日、孝言は盛大な宴会を開いた。その時、多くの人が膝を突きつつ孝言の前に進み出てひれ伏し、酒を勧めて長寿を祝った。その中には、長い間昇進できていないことを述べて昇進をお願いする者もいた。すると孝言は得意満面となってこれを自分の責任だとし、その全てを了承した。大商人たちは大半が抜擢されたが、人士(名士)〔の抜擢は少なく、〕たとえ抜擢される者がいたとしても、それはみな品行の正しくない者ばかりだった。

○資治通鑑
「老婢應死。老婢始聞和士開言孝徵多才博學,意謂善人,故舉之。比來觀之,大是姦臣。人寔難知,老婢應死。」
○北斉後主紀
 癸巳,以領軍穆提婆為尚書左僕射,以侍中、中書監段孝言為右僕射。
○北斉16段孝言伝
 又託韓長鸞,共構祖珽之短。及祖出後,孝言除尚書右僕射,仍掌選舉,恣情用捨,請謁大行。勑濬京城北隍,孝言監作,儀同三司崔士順、將作大匠元士將、太府少卿酈孝裕、尚書左民郎中薛叔昭、司州治中崔龍子、清都尹丞李道隆、鄴縣令尉長卿、臨漳令崔象、成安令高子徹等並在孝言部下。典作日,別置酒高會,諸人膝行跪伏,稱觴上壽,或自陳屈滯,更請轉官,孝言意色揚揚,以為己任,皆隨事報答,許有加授。富商大賈多被銓擢,縱令進用人士,咸是粗險放縱之流。
○北斉39・北47祖珽伝
 珽日益以疏,又諸宦者更共譖毀之,無所不至。後主問諸太姬,憫默不對,及三問,乃下牀拜曰:「老婢合死,本見和士開道孝徵多才博學,言為善人,故舉之,比來看之,極是罪過,人實難知。老婢合死。」後主令韓長鸞檢案,得其詐出勑受賜十餘事,以前與其重誓不殺,遂解珽侍中、僕射,出為北徐州刺史。珽求見後主(分疏),韓長鸞積嫌於珽,遣人推出栢閣()。珽固求面見,坐不肯行。長鸞乃令軍士牽曳而出,立珽於朝堂,大加誚責。上道後,令追還,解其開府儀同、郡公,直為刺史。
○北92韓鳳伝
 及祖珽除北徐州刺史,即令赴任。既辭之後,遲留不行。其省事徐孝遠密告祖珽誅斛律明月後,矯稱敕賜其珍寶財物,亦有不云敕而徑廻取者。敕令領軍將軍侯呂芬追珽還,引入侍中省鎖禁,其事首尾,並鳳約敕責之。

 ⑴祖珽…字は孝徴。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の内に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。士開が死ぬと後宮の実力者の陸令萱に擦り寄り、572年、そのコネによって左僕射とされた。間もなく斛律光や高元海を排除して政治・軍事の実権を握り、遂に陸令萱ら寵臣の排除を目論み、胡后一派と手を組んだが失敗した。573年(1)参照。
 ⑵陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、穆提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で絶大な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。571年、琅邪王儼がクーデターを起こした時、標的の一人に挙げられた。のち、斛律光の誅殺や弘徳夫人の皇后即位に関わった。573年(1)参照。
 ⑶和士開…字は彦通。524~571。本姓は素和氏。頭脳明晰で握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝(上皇)に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。568年、尚書右僕射→左僕射とされた。上皇が死ぬ際看病をし、後事を託された。後主が即位すると趙郡王叡ら政敵を排除して朝廷の実権を握り、570年、尚書令とされたが、571年、琅邪王儼に殺された。571年(2)参照。
 ⑷段孝言…故・左丞相の段韶の弟。容姿が整っていて、若年の頃から頭が良かった。親や兄の勲功と帝室との血縁関係によって出世し、高官となると度を過ぎた贅沢や無法な振る舞いをするようになった。のち吏部尚書とされたが、人の才能を見抜く目が無く、不公平で賄賂を贈ってきた者や親しい者を贔屓して起用した。間もなく中書監とされ、祖珽が趙彦深を失脚させる際に助力すると兼侍中とされ、宮中に入って機密に携わった。間もなく正侍中とされ、吏部尚書を兼任した。571年(3)参照。
 ⑸祖珽は572年2~8月まで左僕射に就いていたが、それ以降は僕射に就いた記述は無い。後任の許季良はすぐにその年中に引退しているので、代わりにまた左僕射になったのかもしれない。ちなみに左僕射は季良の引退~573年5月に穆提婆が就任するまで誰が就いていたか不明である。
 ⑹今は通鑑の判断に従い、ここにこの記事を置いた。
 ⑺穆提婆…もと駱提婆。先祖の姓は他駱抜で、父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。寵用をいいことに身分不相応の贅沢をして琅邪王儼に睨まれ、そのクーデターの際に目標の一人とされた。政治に全く無関心だったが、性格は温厚で、人を傷つけるような事はしなかったので、その点は評価された。573年(1)参照。
 
 
 573年(3)に続く