[北周:天和六年 北斉:武平二年 陳:太建三年 後梁:天保九年]

┃汾州包囲

 陳〔侍中・征北大将軍・開府・南徐州刺史の〕淳于量が江陰王の蕭季卿経由で梁の陵墓の樹を買った。
 6月、丁亥(6日)、陳がこれを問題として量の侍中の職を解き、季卿にも罪を及ぼして免官処分とした。

 乙未(14日)、北周が大将軍・太原公の拓王秉王秉を柱国とした。

 甲辰(23日)、陳が東中郎将・長沙王府諮議参軍の蕭彝を代わりに江陰王とした。

 この月(或いは5月?)、北斉の左丞相・平原王の段韶太尉の蘭陵王長恭が五万を率いて定陽を包囲した。
 この年、北周は開府・司木中大夫・軍器副監の楊敷を汾州諸軍事・汾州刺史とし、守りを固めていた。韶は近くの山に登って城勢を調査したのち、雲梯や衝車、地下道を用いて昼夜の別無く猛攻を仕掛けた。敷は矢石をものともせずに陣頭に立って指揮を執り、臨機応変に防衛して数十日に亘って持ち堪えた。

○周武帝紀
 六月乙未,以大將軍、太原公王柬(秉)為柱國。
○陳宣帝紀
 六月丁亥,江陰王蕭季卿以罪免。甲辰,封東中郎將長沙王府諮議參軍蕭彝為江陰王。
○周34楊敷伝
 天和六年,出為汾州諸軍事、汾州刺史,進爵為公,增邑一千五百戶。齊將段孝先率眾五萬來寇,梯衝地道,晝夜攻城。敷親當矢石,隨事扞禦,拒守累旬。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 又攻定陽。
○北斉16段韶伝
 六月,徙圍定陽,其城主開府儀同楊範固守不下。韶登山望城勢,乃縱兵急攻之。
○陳11淳于量伝
 三年,坐就江陰王蕭季卿買梁陵中樹,季卿坐免,量免侍中。

 ⑴淳于量…字は思明。生年511、時に61歳。幼い頃から如才なく、姿形が立派で、才略に優れ、弓馬の扱いに秀でていた。梁の元帝の王時代からの部下で、王僧弁と共に巴陵を守備し、侯景を撃退した。元帝が即位すると桂州刺史とされ、以後そこに割拠し、陳と梁どちらにも使者を通じた。559年に陳によって征南大将軍とされた。564年、中撫軍大将軍とされて徴召を受けたが、逡巡してなかなか行こうとせず、566年にようやく建康に到着した。567年5月、西道大都督とされて華皎討伐に赴き、平定に成功した。568年、中軍大将軍→南徐州刺史とされた。569年、征北大将軍とされた。569年(1)参照。
 ⑵蕭季卿…梁の武林侯諮の子。558年に江陰王に封ぜられた。558年(2)参照。
 ⑶拓王秉(王秉)…大将軍・太原公の王思政の子。沈着冷静で度量があった。宇文泰の親信となり、549年に父が東魏に降伏したのちも厚遇を受け、太原公の爵位を継ぎ、開府儀同三司とされた。550年の東討の際には父の部下たちを全て与えられた。553年の征蜀の際には天水郡を鎮守した。間もなく拓王氏の姓を与えられた。のち鄜州刺史とされ、武成末(560)に匠師中大夫→載師とされた。562年、安・襄二州総管を歴任した。553年(1)参照。
 ⑷段韶…字は孝先。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色な所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。571年(1)参照。
 ⑸蘭陵王長恭…高長恭。生年541、時に31歳。本名は肅、或いは孝瓘で、長恭は字。後主の伯父の高澄の第四子。母の詳細は不明。肌が白く、美女のような顔立ちをしていて、声も綺麗だった。しかし、性格は男らしく勇敢で、戦場では威厳をつけるために仮面をつけて戦った。560年、蘭陵王に封ぜられ、領左右大将軍とされた。孝昭帝が即位すると開府儀同三司・中領軍とされ、561年、武成帝が即位すると并州刺史とされた。563年、領軍将軍とされた。564年、突厥と北周の連合軍を晋陽にて奮戦して撃破した。北周が洛陽に攻めてくると五百騎を率いてこれを救出する大功を立て、尚書令とされた。のち司州牧や青州・瀛州の刺史を歴任し、賄賂政治を行なった。569年に尚書令、570年に録尚書事とされた。571年(1)参照。
 ⑹楊敷…字は文衍。華山公の楊寛の兄の子。性格優良の能吏。若年の頃から高潔な志操を備え、約束は必ず守り、忠臣の列伝を愛読した。廷尉少卿とされると公正に判決を下した。558年、北斉にて叛乱を起こした司馬消難を迎えに行き、帰ると蒙州刺史とされて善政を行なった。保定年間に司水中大夫とされ、東討の際水上輸送の監督を任された。陳公純が陝州総管とされるとその長史となり、570年に司木中大夫・軍器副監とされた。
 
●段韶の病臥と汾州の陥落
 やがて、北斉軍が外城を陥とし、多くの首級と捕虜を得た。この時城中の兵は二千に満たず、戦死者は既に四・五割に達し、兵糧も尽き果て、官民ともに困窮の極みにあった。北周の〔柱国国・大司馬の〕斉公憲は救援に赴いたが、段韶の武威を憚って汾州に近づくことができなかった。
 楊敷は城が必ず陥落するのを知ると、部下を集めてこう言った。
「私と卿らは共に辺鎮に在って、一致団結して敵を撃退し、城を守り抜こうと誓った。しかし、敵は予想外に強く、長らく四方より攻囲を受けた結果、食糧は既に尽き、援軍の望みも無くなった。無援の城と心中するのは丈夫のやることではない。今、城内にはまだ数百人の精鋭がいる。私は彼らを率い、一か八か包囲の突破を試みようと思う。もし仮に突破できたとしても、朝廷にて処刑されるかもしれないが、賊の手にかかって死ぬよりかは断然良い。我が計は決まった。諸君はどう思うか?」
 部下たちは泣いて命に従った。
 この時、韶は軍中にて病の床に就いていたが、内城がまだ陥とせていなかったため、〔鄴に帰ろうとはしなかった。〕韶は軍権を蘭陵王長恭に委ね、こう言った。
「定陽城は三方が深い渓谷となっていて地勢が険しく、逃げ道に適しているのはただ東南の一箇所だけであります。賊がもし包囲を突破しようとしてくるなら、必ずこの方向からでありましょう。精鋭を選り抜いてそこに待ち伏せさせておけば、必ず捕らえることができます。」
 長恭はそこで勇士千余人を東南の渓谷の出入り口に伏せさせた。
 夜、敷は出撃して斉兵数十人を殺し、斉軍がやや退いた所を見計らって突破に成功した。しかし間もなく伏兵に遭って激戦となり、刀折れ矢尽きて遂に兵たちと共に捕らえられた。北斉は敷を任用しようとしたが、敷はこれを拒否し、鄴にて憂憤の中に死んだ[1]
 乙巳(29日)、北斉が汾州を陥とした[2]。この時点で、汾北に残った北周の城は郭栄の築いた城だけとなった。
 韶は病状が悪化したため、長恭よりも先に帰還した。
 北斉は汾州を西汾州と改めた。

○資治通鑑
 乙巳,齊取周汾州及姚襄城,唯郭榮所築城獨存。
○周武帝紀
 是月,齊將段孝先攻陷汾州。
○北斉後主紀
 六月,段韶攻周汾州,剋之,獲刺史楊敷。
○周34楊敷伝
 孝先攻之愈急。時城中兵不滿二千,戰死者已十四五,糧儲又盡,公私窮蹙。齊公憲總兵赴救,憚孝先,不敢進軍。敷知必陷沒,乃召其眾謂之曰:「吾與卿等,俱在邊鎮,實願同心戮力,破賊全城。但彊寇四面攻圍日久,吾等糧食已盡,救援斷絕。守死窮城,非丈夫也。今勝兵之士,猶數百人,欲突圍出戰,死生一決。儻或得免,猶冀生還受罪闕庭,孰與死於寇乎(手)!吾計決矣,於諸君意何如?」眾咸涕泣從命。敷乃率見兵夜出,擊殺齊軍數十人。齊軍眾稍卻。俄而孝先率諸軍盡銳圍之,敷殊死戰,矢盡,為孝先所擒。齊人方欲任用之,敷不為之屈,遂以憂懼(憤)卒於鄴。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 又攻定陽。韶病,長恭總其眾。前後以戰功別封鉅鹿、長樂、樂平、高陽等郡公。
○北斉16段韶伝
 七月,屠其外城,大斬獲首級。時韶病在軍中,以子城未克,謂蘭陵王長恭曰:「此城三面重澗險阻,並無走路,唯恐東南一處耳。賊若突圍,必從此出,但簡精兵專守,自是(此必)成擒。」長恭乃令壯士千餘人設伏於東南澗口。其夜果如所策,賊遂出城,伏兵擊之,大潰,範等面縛,盡獲其眾。韶疾甚,先軍還。
○隋書地理志冀州
 文城郡東魏置南汾州,後周改為汾州,後齊為西汾州。

 ⑴斉公憲…字は毗賀突。宇文泰の第五子。生年544、時に28歳。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年、益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されるとやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に常に関わることを許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。今年、汾北にて北斉と戦った。571年(1)参照。
 [1]楊敷は〔北斉のもと宰相の〕楊愔の族子である。愔は北斉に尽くして命を落とし、敷も北周に尽くして命を落とした。二人ともそれぞれ仕える国家に忠義を尽くしたのである。
 [2]考異曰く、『段韶伝には「七月、外城を陥とした」とあり、周武帝紀・北斉後主紀には「六月、汾州を陥とした」とある。今は後者の記述に従った。』
 ⑵郭栄…字は長栄。生年547、時に25歳。父の郭徽は洵州刺史・安城県公。逞しい姿形をしていて、ぞんざいのように見えて実は細やかな気配りができたので、彼と付き合った者たちはみな好感を抱いた。晋公護の親信とされると真面目で誠実な仕事ぶりが評価され、中外府水曹参軍に抜擢された。汾北の戦いでは築城や浮き橋の防衛を任された。571年(1)参照。

●警戒
 これより前、蘭陵王長恭が邙山で大勝を博した(564年)後、後主が長恭にこう言った。
「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事になっていたのだぞ。」
 長恭は答えて言った。
「我が家(高氏、北斉)の事を想う余り、気づいたら突っ込んでいました。」
 帝は長恭が『国家の事を』と言わず『我が家の事を』と言ったのが気に食わず、以後警戒するようになった[1]⑵
 のち、長恭は司州牧や青瀛二州の刺史を歴任したが、その際大いに賄賂を受け取り、とうとう行参軍の陽士深にその事を朝廷に報告されて瀛州刺史を解任されるに至った。
 現在になって、部下の尉相願が長恭にこう言った。
「国家の重臣たる殿下が、こんな低俗なことをしていいものでしょうか?」
 長恭が答えないでいると、相願はこう言った。
「邙山での華々しい武功によって生じた警戒の念を解くため、わざとこんな低俗なことをして少人物のように見せかけているのではありませんか?」
 すると長恭は言った。
「その通りだ。」
 相願は言った。
「陛下がもし殿下を猜忌していらっしゃるのなら、この行為は警戒を解くどころか、逆に殿下を処刑するいい口実になってしまいます。生を求める余り、却って死を早めてどうなさいます。」
 長恭が泣いてどうしたらいいか聞くと、相願はこう言った。
「殿下は既に大功を立てていらっしゃるのに、今また大戦果を挙げてしまいましたから、武功が過大なものになっていて、〔非常に危険な状態になっております。〕ゆえに、ここは病気と称して家に引きこもり、これ以上国に関わらないようにするのが良いでしょう。」
 長恭はこれに頷いたが、結局引退できなかった。
 長恭は将軍となったのち職務に精励し、どんな些細なことでも自分で指示し、美味しいものが手に入るとそれが少量であっても必ず将兵と分かち合った。
 定陽攻めの際、軍中に陽士深がいた。士深が仕返しを恐れているのを聞くと、長恭はこう言った。
「端からそんなつもりは無いぞ。」
〔それでも士深が心配して落ち着かないでいるのを見ると、〕長恭は仕方なく士深の些細な過失を見つけて二十の杖打ちを加え、それで安心させた。
 ある時、朝廷に参内した時、従者が皆はぐれて一人きりになって家に帰ったことがあったが、罰することはなかった。
 また、武成帝北斉四代皇帝。後主の父)が功績の褒美として、賈護という者に命じて二十人の妾を買わせて長恭に与えたが、長恭は一人しか受け取らなかった。

 相願は故司徒・海昌王の尉摽尉遅摽)の子である。能吏で、度胸と知略に優れていた。

 7月乙丑(20日)、北周が大将軍の越公盛を柱国とした。

○周武帝紀
 秋七月乙丑,以大將軍、越國公盛為柱國。
○北斉11蘭陵武王長恭伝
 歷司州牧、青瀛二州,頗受財貨。…芒山之捷,後主謂長恭曰:「入陣太深,失利悔無所及。」對曰:「家事親切,不覺遂然。」帝嫌其稱家事,遂忌之。及在定陽 ,其屬尉相願謂曰:「王既受朝寄,何得如此貪殘?」長恭未答。相願曰:「豈不由芒山大捷,恐以威武見忌,欲自穢乎?」長恭曰:「然。」相願曰:「朝廷若忌王,於此犯便當行罰,求福反以速禍。」長恭泣下,前膝請以安身術。相願曰:「王前既有勳,今復告捷,威聲太重,宜屬疾在家,勿預事。」長恭然其言,未能退。…為將躬勤細事,每得甘美,雖一瓜數果,必與將士共之。初在瀛州,行參軍陽士深表列其贓,免官。及討定陽,士深在軍,恐禍及。長恭聞之曰:「吾本無此意。」乃求小失,杖士深二十以安之。嘗入朝而僕從盡散,唯有一人,長恭獨還,無所譴罰。武成賞其功,命賈護為買妾二十人,唯受其一。
○北斉19尉相願伝
 尉摽,代人也。大寧初,〔位司徒,〕封海昌王。〔卒,〕子相貴嗣,…弟相願,強幹有膽略。

 ⑴後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に16歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に惰弱な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを酷く嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年(1)参照。
 [1]考異曰く、『邙山の戦いは河清三年(564)の事であり、その時後主はまだ九歲で、しかも即位もしていない。それなのにこのような問いをするだろうか。また、「家事」という言葉が警戒に足るものとも思えない。』
 ⑵この出来事が起こった時期を邙山の戦い直後に限らなくてもいいような気がするが…。ある時ふと聞いてみたという事だってあるだろう。この出来事が小説の類であったなら、深く考える必要は無い。
 ⑶越公盛…字は立久突。宇文泰の第十子。

●佞臣の最期
 これより前、北斉の〔大司馬・京畿大都督・領軍大将軍・御史中丞の〕琅邪王儼は〔録尚書事・淮陽王の〕和士開と〔侍中の〕穆提婆が身分不相応の贅沢をし、屋敷の増築を繰り返しているのを非常に不快に思っており、ある時二人にこう言った。
「貴君らの屋敷の造営はいつになったら終わるのか? どうしてこんなに時間がかかっているのか。」
 儼と別れたのち、二人はこう言い合った。
「 琅邪王の眼光は非常に鋭く、数步の距離にいる者の心を矢のように射る。我らも先ほど少し対面しただけで思わず冷や汗が出てしまった。天子に何か申し上げる時ですらこうはならないというのに。」
 これ以降、二人は儼を猜忌するようになった。
 この年、二人は儼の住まいを〔南宮(後主の住まい)から?〕北宮に移し、これまで毎日後主胡太后に会えていたのを五日に一度に制限した。
 この年の4月5日、士開は儼を太保とし、他の官職を全て解いた(領軍大将軍?)が、御史中丞・京畿大都督はそのままとした。この時、北城には武器庫があったので、儼を北城の外に出してから兵権を奪おうと考えたのである。治書侍御史(御史台の次官王子宜と儼の側近で開府〔・武衛大将軍〕の高舍洛・中常侍の劉辟強らはこの事を知ると儼にこう説いて言った。
「殿下が天子や太后の傍から遠ざけられたのは士開のせいであります。また、近ごろ士開が更に殿下を宮城の外に移そうとしているのを耳にしました。〔天子の弟君であられる〕殿下が、どうして北宮を出て一般の者と同じ生活しないといけないのでしょうか。」
 儼はこれを聞くと侍中の馮子琮にこう言った。
「士開の罪は重い。僕は彼奴を殺そうと思う。」[1]
 子琮は士開と仲が悪くなっていたことや、かねてから後主を廃して儼を立てたいと考えていたことから、これに賛成し、支援することを約束した。
 儼はそこで子宜に命じ、士開の罪を列挙した弾劾文を作らせ、逮捕・訊問の許可を求めた。子琮はこの上奏文を他の文書と混ぜて帝に渡した。帝はちらと目を通しただけでもう面倒になり、全てに許可を与えた。子琮が喜んですぐさま儼にこのことを伝えると、儼は領軍大将軍〔・宜都郡王〕の厙狄伏連にこう嘘をついて言った。
「勅が下った。領軍よ、士開を逮捕せよ。」
 伏連は〔何かの間違いだと思い、〕子琮にこの事を相談し、もう一度上奏して確認を取るよう求めた。すると子琮はこう言った。
「既に琅邪王が勅を受けたというのに、どうしてまた上奏する必要があるのですか。」
 伏連はそこで逮捕命令を信じ、京畿の兵五十人を神虎・千秋門[2]外に配し、士開を中に入れぬよう命じた。士開は領軍(中領軍?)だったが、常に皇宮内にいることを好んでいたため、大体朝早くに参内し、たとえ当直の日で必ず領軍府に帰らなければいけない日であっても、夜遅くになってようやく皇宮を出て領軍府に来るほどで、門の警備などの領軍の仕事には殆ど興味を持たなかった。
 庚午(25日)の早朝、士開はいつも通り早く参内した。その時、伏連が士開の前に進み出てその手を取り、こう言った。
「ただいまより、非常にめでたいお達しがございます。」
 士開は〔喜んで〕言った。
〔「ほう、それはなんだ?」〕
 その時、王子宜が伏連に一つの書簡を渡した。伏連はこれを読み上げて言った。
「勅下れり。王よ、〔南〕台(御史台)に向かえ。」
 刹那、士開は兵士に取り囲まれて治書侍御史(王子宜)の役所に連行された。この事が北宮に伝えられると、儼は望外の成功に大喜びし、すぐさま腹心で都督の馮永洛を士開のもとに派した。〔永洛は刀を持ち、士開の首に狙いを定めた。〕士開が釈明しようとした時、その頭は既に地に落ちていた享年48)。
 これより前、鄴ではこんな歌が流行っていた。
「和士開、まさに台に入るべし。」
 士開はこの歌を、自分が上台(三公)の位に就く歌だと考えた。しかし、実際は士開が南台に連行されるという意味だったのである
 儼は御史の李幼業羊立正に部下を連れて士開の屋敷に赴かせ、その家人たちを帳簿につけて官の奴隷とした。

○北斉後主紀
 秋七月庚午,太保、琅邪王儼矯詔殺錄尚書事和士開於南臺。
○北斉12琅邪王儼伝
 儼以和士開、駱提婆等奢恣,盛修第宅,意甚不平,嘗謂曰:「君等所營宅早晚當就?何太遲也。」二人相謂曰:「琅邪王眼光奕奕,數步射人,向者暫對,不覺汗出,天子前奏事尚不然。」由是忌之。
 武平二年,出儼居北宮,五日一朝,不復得每日見太后。四月,詔除太保,餘官悉解,猶帶中丞,督京畿。以北城有武庫,欲移儼於外,然後奪其兵權。治書侍御史王子宜與儼左右開府高舍洛、中常侍劉辟疆說儼曰:「殿下被疏,正由士開間構,何可出北宮入百姓叢中也。」儼謂侍中馮子琮曰:「士開罪重,兒欲殺之。」子琮心欲廢帝而立儼,因贊成其事。儼乃令子宜表彈士開罪,請付禁推。子琮雜以他文書奏之,後主不審省而可之。儼誑領軍厙狄伏連曰:「奉勑令領軍收士開。」伏連以諮子琮,且請覆奏。子琮曰:「琅邪王受勑,何須重奏。」伏連信之,伏五十人於神獸門外,詰旦,執士開送御史。儼使馮永洛就臺斬之。
○北斉20厙狄伏連伝
 武平中,封宜都郡王,除領軍大將軍。尋與瑯琊王儼殺和士開。
○北斉50・北92和士開伝
 世祖時,恒令士開與太后握槊,又出入臥內無復期限,遂與太后為亂。及世祖崩後,彌自放恣,琅邪王儼惡之,與領軍〔大將軍〕厙狄伏連、侍中馮子琮、〔書侍〕御史王子宜、武衞〔大將軍〕高舍洛等謀誅之。
 伏連發京畿軍士,帖神武、千秋門外,並私約束,不聽士開入殿。〔士開雖為領軍,恒性好內,多早下(參),縱當直,必須還宅,晚始來。門禁宿衞,略不在意。〕其年七月二十五日旦,士開依式早參,伏連前把士開手曰:「今有一大好事。」王子宜便授一函,云:「有勑令王向臺。」遣兵(軍)士防送,禁於治書侍御廳事。儼遣都督馮永洛就臺斬之,時年四十八。〔先是鄴下童謠云:「和士開,當入臺。」士開謂入上臺,至是果驗。儼令御史李幼業、羊立正將令史就宅,〕簿錄其家口。
○隋五行志詩妖
 二年,童謠曰:「和士開,七月三十日,將你向南臺。」小兒唱訖,一時拍手云:「殺却。」至七月二十五日,御史中丞、琅邪王儼執士開,送於南臺而斬之。
○北史演義
 次早士開依常早參,門者不聽入,伏連前執其手曰:「今有一大好事,御史王子宜舉公為之。」士開問何事,伏連曰:「有敕令公向台。」因令軍士擁之而行,至台,儼喝左右斬之。士開方欲有言,頭已落地。
○南北史演義
 獨治書侍御史王子宜,與瑯琊王友善,探得士開等密謀,更欲徙儼出外,乃入北宮語儼道:「殿下被疏,統由士開讒間。近聞士開又欲移徙殿下,殿下何可輕出北宮,與百姓為伍呢?」儼左右開府高舍洛,中常侍劉闢強,亦勸儼早自為計,毋為人制。儼乃密召馮子琮入商,屏人與語道:「士開罪重,兒欲殺死此賊。」子琮已與士開有嫌,當即贊成,許為援助。儼即令子宜奏彈士開,請收禁推訊。子琮收入奏牘,並攙雜另外文書,進呈御覽。齊主緯略略省視,即覺厭煩,便語子琮道:「可行便行,朕不耐閱此。」子琮巴不得有此語,便令領軍庫狄伏連,收系士開。伏連請再復奏,子琮道:「瑯琊王入奏邀準,何須再奏!」伏連乃夜遣甲士五十人,伏住神獸門外,待士開凌晨入朝,把他拘住,送交廷尉。一面報知北宮,儼大喜過望,即遣心腹將馮永洛,往斬士開。

 ⑴琅邪王儼…字は仁威。生年558、時に14歳。後主の同母弟。母は胡太后。564年に東平王とされた。567年、司徒とされた。上皇と胡太后に可愛がられ、京畿大都督・領軍大将軍・御史中丞も兼任した。勝ち気な性格をしていて、喉の持病(ぜんそく?)を治すために鍼(はり)治療をしてもらった時、痛みを我慢し、目を見開いて一度も瞬きをしなかった。上皇と胡太后は後主を廃して儼を立てようと考えたが、結局実行しなかった。568年に大将軍とされ、569年に琅邪王・大司馬とされた。571年、太保とされた。571年(1)参照。
 ⑵和士開…字は彦通。生年524、時に48歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝(上皇)に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。568年、尚書右僕射→左僕射とされた。上皇が死ぬ際看病をし、後事を託された。後主が即位すると趙郡王叡ら政敵を排除して朝廷の実権を握った。570年、尚書令とされた。571年(1)参照。
 ⑶穆提婆…もと駱提婆。父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。571年(1)参照。
 ⑷胡太后…もと上后。魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に後主の父の武成帝(上皇)に嫁いだ。淫乱で、和士開などと関係を持った。571年(1)参照。
 ⑸治書侍御史…《隋書百官志》後斉曰く、『御史臺,掌察糾彈劾。中丞一人,治書侍御史二人,侍御史八人,殿中侍御史、檢校御史各十二人,錄事四人。』
 ⑹馮子琮…字は子琮。北燕の君主の馮弘の後裔。読書家で、頭の回転が早く、記憶力に優れた。皇建元年(560)に領軍府法曹(尚書駕部郎中)とされて機密事項に関わることを許され、庫部郎中を兼ねた。孝昭帝に帳簿の内容について尋ねられると、何も見ずに答えたが、一つも間違いが無かった。武成帝が即位すると、胡后の妹を妻としていたことを以て、胡長粲と共に太子緯(後主)の教育を任された。後主が即位すると給事黄門侍郎・兼主衣都統とされ、自由に宮中に出入りし、後主への報告を全て受け持つことを許された。のち、晋陽の大明宮の建設の監督を任された。568年、和士開と対立し、鄭州刺史に左遷された。570年頃、士開と和解し、中央に復帰し吏部尚書とされた。今年、右僕射・兼吏部尚書とされ、再び士開と険悪な仲になった。571年(1)参照。
 [1]馮子琮は〔儼の母の〕胡太后の妹の夫だったので、児(僕。児は子どもの両親に対する自称)という一人称を使ったのである。
 ⑺厙狄伏連…字は仲山。本名は伏憐といったが、訛って連となった。若い頃、武才を以て爾朱栄に仕え、直閤将軍とされた。のち、高歓の下剋上に協力し、高澄が東魏の宰相となると武衛将軍とされた。天保元年(550)に儀同三司、四年(553)に鄭州刺史とされ、間もなく開府を加えられた。 実直な性格で職務に精励し、皇宮の守備を任されると一日中職場を離れず、高く評価された。ただ愚鈍残忍で、政治家としての才能は全く無く、刺史となるとひたすら蓄財に励んだ。妻が病気となるとやむなく百銭で薬を買ったが、のち、そのことでよく愚痴を言った。また、名士を尊ばず、その子弟で部下となっている者によく鞭打ちを加え、城壁の修築に従事させた。561年(2)参照。
 [2]神虎・千秋門…鄴宮の西門である。
 ⑻隋五行志には「和士開、七月三十日、南台に向かう」という歌詞で、子どもたちはこれを歌い終わったのち一斉に拍手して「殺しちゃった」と言ったという。これだと非常にあからさまな気がするので、今採らなかった。

●琅邪王、宮城に迫る
 儼の目的はただ士開を殺すことだけにあり、事が成ると帝のもとに出頭して謝罪しようとした。しかし、徒党たちは誅殺されることを恐れ、儼にこう迫って言った。
「至尊(後主)の寵臣を殺してしまった以上、もう後には退けませんぞ! 〔謝罪なさりたいのなら、〕まず兵を率いて皇宮に突入し、君側の奸を除いて〔至尊の目を醒まさせて〕からにしてください。
 かくて儼は京畿の兵三千余人を率い、宮殿の西北角にある千秋門に進んだ。これに朝廷内外は大騒ぎになった。この時、ある者が誤って厙狄伏連が叛乱を起こしたと帝に報告した。しかし、帝はこう言った。
「こんなことをしでかしたのは仁威(儼の字)に違いない。」
 帝は劉桃枝に近衛兵八十人を与え、儼を自分のもとに引っ立ててくるよう命じた。桃枝は儼に会うと遠くから拝礼を行な〔い、儼に一人で帝のもとに来るように言〕った。儼が〔これを拒否し、〕桃枝を捕らえて後ろ手に縛り、斬首しようとすると、近衛兵たちは逃げ散った。帝は更に馮子琮に儼を呼びつけさせた。すると儼はこれも拒否してこう言った。
「士開は昔から万死に値する奸賊でしたが、今、更に至尊(後主)の殺害や家家(母。胡太后のこと)の出家を企みました。臣はこれを阻止するために、詔を偽造してまでこれを誅殺したのです。尊兄(後主)が臣を誅殺しようとなさるなら、臣は甘んじて刑を受けます。臣を赦してくださるなら、どうか姉姉(乳母。陸令萱のこと)を迎えに寄越してください。さすれば、臣はすぐに尊兄に拝謁いたします。」
 しかし、実際は出頭する気は毛頭無く、真の目的は令萱を誘い出して殺すことだった。この時、令萱は刀を持って帝の後ろに控えていたが、儼の言葉を聞くと〔身の危険を感じて〕恐れおののいた。
 帝は〔令萱ではなく〕韓長鸞を派し、罪を赦すことを告げた。儼がそこで皇宮に入ろうとすると、中常侍の劉辟強がその衣服を引っ張って諫めて言った。
「提婆母子(陸令萱・穆提婆)を斬るまでは入ってはなりません!」
 儼はそこで長鸞を追い返した。
 この時、広寧王孝珩安徳王延宗がたまたま西方よりやって来た。二人は儼の一挙に助勢しようとしてこう言った。
「どうして宮城に突入しないのか?」
 辟強は言った。
「兵が少ないからです。」
 延宗は兵を顧みてこう言った。
孝昭帝楊遵彦を誅殺なさった時(560年〈2〉参照)、その兵は八十人だけだった。今、貴君らの兵は数千もいる。これでどうして少ないなどというのか?」
 しかし、儼はとうとう突入を決断することができなかった。孝珩はそこで延宗にこう言った。
「この者たちと心中する必要は無いだろう。」
 かくてその場を去った。

○北斉後主紀
 初琅邪王舉兵,人告者誤云厙狄伏連反,帝曰:「此必仁威也。」
○北斉12琅邪王儼伝・資治通鑑
 儼徒本意唯殺士開,及是,因逼儼曰:「事既然,不可中止。」儼遂率京畿軍士三千餘人屯千秋門。帝使劉桃枝將禁兵八十人召儼。桃枝遙拜,儼命反縛將斬之,禁兵散走。帝又使馮子琮召儼,儼辭曰:「士開昔來實合萬死,謀廢至尊,剃家家頭使作阿尼,故擁兵馬欲坐著孫鳳珍宅上,臣為是矯詔誅之。尊兄若欲殺臣,不敢逃罪,若放臣,願遣姊姊來迎臣,臣即入見。」姊姊即陸令萱也,儼欲誘出殺之。令萱執刀帝後,聞之戰慄。又使韓長鸞召儼,儼將入,劉辟疆牽衣諫曰:「若不斬提婆母子,殿下無由得入。」廣寧、安德二王適從西來,欲助成其事,曰:「何不入?」辟疆曰:「人少。」安德王顧眾而言曰:「孝昭帝殺楊遵彥,止八十人,今乃數千,何言人少?」
○北斉18孫鳳珍伝
 孫騰…子鳳珍嗣。鳳珍庸暗,武平中,卒於開府儀同三司。
○北斉41皮景和伝
 琅邪王之殺和士開也,兵指西闕,內外惶惑,莫知所為。
○北92和士開伝
 自領兵士從殿西北角出。
○北史演義
 儼本意唯殺士開,入朝謝罪。其黨懼誅,共逼之曰:「事已如是,不可中止,宜引兵入宮,先清君側之惡,然後圖之。」…儼不能決。孝珩謂延宗曰:「此未可與同死。」遂去之。

 ⑴劉桃枝…高歓の時からいる高家の家奴。声相見から、『非常に富貴な身分となるが、多くの王侯将相を殺すだろう』と予言された。のち、その予言通りに永安王浚・上党王渙・尚書右僕射の高徳政・平秦王帰彦・趙郡王叡・胡長仁の殺害に関わった。570年(1)参照。
 ⑵琅邪王儼伝はこのあと『故に、兵馬を擁して孫鳳珍(孫騰〈東魏の四貴の一人〉の子)の屋敷に居座ろうとしたのです』と続くが、意味不明で通志も無視しているので、採らなかった。
 ⑶陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、駱提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で非常な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。571年(1)参照。
 ⑷韓長鸞…本名は鳳。長鸞は字。步大汗氏の出で、祖父は東魏の洛州刺史の韓賢、父は北斉の開府・青州刺史・高密郡公の韓永興。若年の頃から聡明で、膂力にも優れて騎射を得意とした。次第に昇進して烏賀真・大賢真正都督とされた。後主の太子時代(562~565年)に侍衛の任に充てられると、一目で気に入られてしばしば遊び相手となった。後主が即位すると高密郡公の爵位を継ぎ、開府儀同三司とされた。569年(2)参照。
 ⑸広寧王孝珩…高澄(高歓の長子)の第二子。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。570年(3)参照。
 ⑹安徳王延宗…生年544、時に28歳。高澄(高歓の長子)の第五子。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝(上皇)に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになったが、兄の孝琬が誅殺されると憤激し、上皇に擬した藁人形を作ってこれに矢を射、上皇の怒りを買って半殺しにされた。569年(1)参照。

●勝敗決す
 長鸞の説得が失敗に終わったことを知ると、後主は〔儼との決戦を覚悟し、〕泣いて太后にこう言った。
「縁があればまた家家に会うことがかないましょうが、縁が無ければ永遠の別れとなるでしょう。」
 かくて〔決戦の助けとするため、〕急いで〔名将で右丞相・咸陽王の〕斛律光を呼び出した。儼も光を呼び出した。光は儼が士開を殺したことを聞くと手を叩いて大笑し、こう言った。
「龍(皇帝)の子のやる事は、やはり凡人とは違うな。」
 光は〔帝の呼び出しに応じ、〕永巷(女性刑務所)にて帝に謁えた。この時、帝は近衛兵四百を率い、彼らに鎧を与えて出撃しようとしていた。すると光は言った。
「〔こたびの事件は叛乱というより〕小童どもが武器を弄んで戦ごっこをしているだけでございますから、戦えば直ちに勝負は決します。ただ、鄙諺(世間での諺)に『奴隷は主人を一目見ただけで恐懼して放心状態になる』とありますように、そもそも至尊が直々に千秋門にお出ましになって説得するだけで、きっと琅邪王らは恐懼して武器を下ろすでしょう。」
 皮景和が賛同すると、帝はこれに従った。光は步いて馬上の帝を先導し、人を千秋門外に派してこう言わせた。
「大家(陛下)のお出ましであるぞ!」
 すると果たして儼の徒党たちは驚いて逃げ散った。帝は〔門前の〕橋の上にて馬を停め、遠くから儼を呼んだ。儼が立ち竦んだまま進まないでいると、光が歩み寄って笑ってこう言った。
「天子の弟が一漢奴を殺しただけなのに、どうしてそんなに怖がるのですか。」
 かくてその手を引っ張って帝の前まで連れて行った。それから儼を弁護してこう言った。
「琅邪王は年少の上、食べ過ぎで頭の巡りが悪くなっているゆえ、道理が分からずにこのようなことをしでかしましたが、大人になれば自然とこのようなことは起こさなくなるはずです。ゆえに、今はどうか寛大な処置をお願いいたします。」
 帝は儼の髪を罪人のように編ませて(辮頭[1])それを引っ掴み、儼の刀の柄でひとしきり打ち据えてから釈放した。
 これより前、儼は鄴の北城にある白馬仏塔を修理したことがあった。これは〔後趙の〕石季龍石虎)が澄公(仏図澄)のために作った由緒ある仏塔だった。この時、占い師が言った。
「この仏塔を動かすと、北城は主を失うことになろう。」
 儼はこれに耳を貸さず、二階まで取り壊した所、長さ数丈の白蛇が現れてぐるぐると回ったのち姿を消した。その数十日後に儼は乱を起こして失敗したのだった。

○北斉12琅邪王儼伝・資治通鑑
 後主泣啟太后曰:「有緣更見家家,無緣永別。」乃急召斛律光,儼亦召之。光聞殺士開,撫掌大笑曰:「龍子作事,固自不似凡人。」入見後主於永巷。帝率宿衞者步騎四百,授甲將出戰。光曰:「小兒輩弄兵,與交手即亂。鄙諺云『奴見大家心死』,至尊宜自至千秋門,琅邪必不敢動。」皮景和亦以為然,後主從之。光步道(=導),使人出曰:「大家來。」儼徒駭散。帝駐馬橋上,遙呼之,儼猶立不進。光就謂曰:「天子弟殺一漢(夫),何所苦。」執其手,強引以前。請帝曰:「琅邪王年少,腸肥腦滿,輕為舉措,長大自不復然,願寬其罪。」帝拔儼帶刀環亂築,辮頭,良久乃釋之。
○北斉41皮景和伝
 景和請後主出千秋門自號令。
○北92和士開伝
 斛律明月說後主親自曉告軍士,軍士果散。
○隋五行皇之不極
 琅邪王儼壞北宮中白馬浮圖,石趙時澄公所建。見白蛇長數丈,廻旋失所在。時儼專誅失中之咎也。見變不知戒,以及於難。
○北史演義
 使人走出連呼曰:「大家來!大家來!」
○南北史演義
 緯得長鸞回報,不禁惶急,便入啟胡太后。太后聞士開被殺,已是悲痛交並,又見緯前來泣訴,益覺憤不可耐,便道:「逆子可恨,爾可速召斛律光,使執逆子入宮!」緯乃趨出,亟召斛律光入議。…由光朗聲呼道:「大家來!」儼黨素憚光威,相率駭散。齊主緯立馬橋上,遙呼儼名,儼尚趦趄不進。光搶步上前,握住儼手,且笑且語道:「天子弟殺一漢奴,何必慌張!」遂牽儼至齊主前,並為代請道:「瑯琊王尚在少年,腦滿腸肥,舉動輕率,將來年紀長成,自知改過,願曲為恕罪!」煞費調停。齊主乃拔儼佩刀,但用刀環擊儼首數下,便即釋去。

 ⑴斛律光…字は明月。生年515、時に57歳。北斉の名将。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。563年、突厥・北周連合軍が晋陽に攻めてくると、晋州の守備を任された。564年、司徒とされ、突厥を討った。北周が洛陽に攻めてくると五万騎を率いて救援に赴き、これを大破し、王雄を自らの手で射殺した。その功により大尉とされた。565年に大将軍、567年に太保・咸陽王、569年に太傅、570年に右丞相とされた。宜陽が包囲されると救援に赴いた。570~571年、北周領の汾北に侵攻した。571年(1)参照。
 ⑵後主の后が斛律光の娘だったからであろう。
 ⑶皮景和…生年521、時に51歳。騎射の名手で、山胡を討伐した際一人で数十人を射殺した。身軽ですばしこく、軍事の才能があったため、戦いに出るたび戦功を挙げた。親信副都督→庫直正都督とされ、北斉が建国されると左右大都督とされた。560年に武衛将軍、561年に武衛大将軍・開府、562年に梁州刺史とされた。563年に北周が晋陽を攻めると後軍を率いて援軍に赴き、領左右大将軍とされた。吏務にも通じ、公正な性格だったため、のち并省五兵尚書・殿中尚書・侍中とされた。北斉が北周と国交を通じると、北周の使節がやってくるたびに接待を任された。その際、競射を行なって百発百中の腕前を披露すると尊敬を受けた。今年、斛律光と共に汾北を攻略した。571年(1)参照。
 ⑷一漢奴…和士開は鮮卑人、或いは西域人である。ここではただ単に『下らない者』という意味合いで使っただけであろう。通鑑は『天子弟殺一夫(一人の匹夫)』と記している。
 [1]辮頭…今から斬首することを示すための行為である。

●徒党誅殺
 後主琅邪王儼の乱に加担した厙狄伏連・高舍洛・王子宜・劉辟強・都督の翟顕貴・馮永洛らを後園にて矢の的にしたのち斬首した。屍はバラバラにして皇宮の西の街中に晒した。帝は更に儼の府の文武官を皆殺しにしようとした。すると右丞相・咸陽王の斛律光が反対して言った。
「彼らはみな勲貴の子弟でありますゆえ、皆殺しにされますと人心が動揺してしまいますぞ。」
 司空・宜陽王の趙彦深も言った。
「《春秋》も上の者だけに責任を問うと説いております。」[1]
 帝はそこで皆殺しをやめ、罪の度合いを調査させ、それに応じて処罰を加えることとした。
 徒党はみな髪を編まれて後ろ手に縛られ、涼風堂にて光と彦深による取り調べを受けた。その結果、十余人が死罪となった。この取り調べと処罰は秘密とされ、〔帝と涼風堂の〕連絡は全て韓長鸞の口を通して行なわれた。全てが終わったのち、帝は詔勅を下して文武百官に公開した。帝は長鸞を侍中・領軍として皇宮の警護を一任し、宮中の機密事項を統括させた。

 帝は和士開の死を非常に悲しみ、数日に亘って政務を執らずに引きこもり、士開の事を思い出しては涙ぐんだ。帝は士開の子の和道盛を喪の途中で復帰させて通直散騎常侍とし、更に弟の和士休を宮中に入れ、機密に携わらせた。また、士開に仮黄鉞・十州諸軍事・左丞相・太宰・司徒公・録尚書事を追贈し、文定と諡した。

 厙狄伏連は非常にケチで、百人以上いた家人に真夏の日は一人につき米二升だけを与え、塩と野菜(或いは塩漬けの野菜)は与えなかった。そのため、彼らはいつも顔色を悪くしていた。
 ある時、冬至の日に親戚が祝いにやってくると、伏連の妻は彼らに豆餅を出してもてなした。すると伏連はこう問い詰めて言った。
「この豆はどこから手に入れてきたのだ?」
 妻は答えて言った。
「馬に与える豆を減らして得たのです。」
 すると伏連は激怒し、〔監督不行き届きとして〕馬と飼料係の者に杖打ちを加えた。
 下賜品は全て専用の蔵に保管し、侍女一人に管理させた。伏連はよく蔵に入って物が減っていないか調べ、そのたびに必ず妻子にこう言った。
「ここに入っているものは全て朝廷の物であるから、軽々しく使ってはならぬぞ。」
 伏連が死んだ時、身につけていたものは古い褌(ズボン)だけだった。蔵にあった二万疋もの絹は、帳簿につけられたのちに没収されて再び朝廷の物となった。

○北斉後主紀
 即日誅領軍大將軍厙狄伏連、書侍御史王子宣等。
○北斉12琅邪王儼伝・資治通鑑
 收伏連及高舍洛、王子宜、劉辟疆、都督翟顯貴於後園,帝親射之而後斬,皆支解,暴之都街下。文武職吏盡欲殺之(帝欲盡殺儼府文武職吏)。光以皆勳貴子弟,恐人心不安,趙彥深亦云春秋責帥,於是罪之各有差。儼之未獲罪也,鄴北城有白馬佛塔,是石季龍為澄公所作,儼將修之。巫曰:「若動此浮圖,北城失主。」不從,破至第二級,得白蛇長數丈,回旋失之,數旬而敗。
○北斉20・北53厙狄伏連伝
 尋與瑯琊王儼殺和士開,伏誅〔,被支解〕。伏連家口有百數,盛夏之日,〔人〕料以倉米二升,不給鹽菜,常有饑色。冬至之日,親表稱賀,其妻為設豆餅。伏連問此豆因何而得〔處〕,妻對向於食馬豆中分減充用。伏連大怒,典馬、掌食之人並加杖罰。積年賜物,藏在別庫,遣侍婢一人專掌管籥。每入庫檢閱,必語妻子云:「此是官物,不得輒用。」至是〔死時,唯着敝褌;而積絹至二萬疋,〕簿錄,並歸天府。
○北斉50・北92和士開伝
〔即斬伏連及王子宜,並支解,棄屍殿西街。自餘皆辮頭反縛,付趙彥深於涼風堂推問,死者十餘人。〕後誅儼等。上哀悼,不視事數日,〔後〕追憶不已。詔起復其子道盛為〔通直散騎〕常侍,又勑其弟士休入內省,參典機密。詔贈士開假黃鉞、十州諸軍事、左丞相、太宰〔、司徒公,錄尚書事,諡曰文定。〕
○北斉50・北92韓鳳伝
〔武平二年,和士開為厙狄伏連等矯害,敕咸陽王斛律明月、宜陽王趙彥深在涼風堂推問支黨。其事祕密,皆令鳳口傳,然後宣詔敕號令文武。禁掖防守,悉以委之。除〕侍中、領軍,總知內省機密。
○南北史演義
 收捕庫狄伏連、王子宜、高舍洛、劉闢強、馮永洛等,縛住後園,由緯親自射死,然後梟首,把尸支解,暴示都市。…齊主欲盡殺儼府官吏,斛律光、趙彥深力為勸阻,方論罪有差。

 ⑴趙彦深…本名隠。生年507、時に65歳。能吏で後主八貴の一人。高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄・文宣帝に重用を受け、依然として機密に携わった。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。楊愔が誅殺されると(560年)代わりに宰相とされた。565年、尚書左僕射とされた。567年、尚書令とされた。のち并省録尚書事とされ、今年、司空とされた。571年(1)参照。
 [1]《春秋》も…《春秋左氏伝》〔前597年〕曰く、『韓献子(韓厥)が中行桓子(荀林父)に言った。「部下が命令に従わずに独断専行し敗れた場合、誰の責任となるでしょう。元帥であるあなたの責任ではありませんか?」』

●馮子琮の死
 胡太后は儼を叱りつけて言った。
「なんでこんな馬鹿な事をしたのか!」
 儼は泣いてこう言った。
「子琮(馮子琮)が僕にこうしろって言ったんです。」
 太后はこれを聞くと激怒し、人を派して子琮を捕らえさせ、右衛大将軍の侯呂芬に宮中にて弓の弦を用いて絞殺させた。死体は宦官によって庫車(荷車?)に載せられ、子琮邸に送り返された。
 この時、誰も庫車の中身を知らなかったが、子琮の乗馬は手綱を引きずって庫車に駆け寄り、頭でコツコツと打った。その様はまるで泣き悲しんでいるかのようで、見る者を不思議がらせた。
 この時、子琮の子どもたちはちょうど握槊(双六の一種。バックギャモンに似た遊び)をしていて、朝廷から庫車が来たと聞くと何か下賜品が送られてきたのだと思い、大喜びして箱を開けたが、父の死体が入っているのを見ると号泣した。

 子琮は出世する前は人を見る目があり、私心を捨てて国家に尽くしたが、出世すると欲にまみれて目が曇り、無能な者を登用して親しく交際し、彼らの子弟も序列を無視して出世させた。娘の婿となった者は高官を歴任させ、官爵を希望されれば大体のものは短時日の内に叶えてみせた。頓丘の李克、范陽の盧思道、隴西の李胤伯・李子希、滎陽の鄭庭堅はみな子琮の娘婿となったことで破格の抜擢を受けた。その勝手気ままさは万事こんなふうだった。
 祖珽は以前から子琮と仲が悪かったため、のちになってこの事を仔細に帝に報告し、子どもたちを除名(官爵剥奪)に追い込んだ。しかし、太后が弁護したため、間もなくまた用いられるようになった。

○資治通鑑
 太后責問儼,儼曰:「馮子琮教兒。」太后怒,遣使就內省以弓絃絞殺子琮,使內參以庫車載尸歸其家。
○北斉後主紀
 尚書右僕射馮子琮賜死殿中。
○北斉40・北55馮子琮伝
 琅邪王儼殺士開,子琮與其事。〔及儼見執,言子琮教己。太后怒,又使執子琮,遣右衞大將軍侯呂芬〕就內省〔以弓弦〕絞殺之。〔使內參以庫車載尸歸其家。諸子方握槊,聞庫車來,以為賜物,大喜,開視乃哭。〕子琮微有識鑒,〔頗慕存公。〕及位望轉隆,宿心頓改,擢引非類,以(公)為深交;縱其子弟,官位不依倫次;又專營婚媾,歷選上門,例以官爵許之,旬日(月)便驗。〔頓丘李克、范陽盧思道、隴西李胤伯、李子希、滎陽鄭庭堅並其女婿,皆至超遷。其矯縱如此。祖珽先與子琮有隙,於後具奏此事,諸子並坐此除名。太后以為言,又被擢用。〕
○三国典略
 二四二、齊馮子琮被執於省內,以弓弦絞殺之,使內參以庫車載其尸歸,人無知者。子琮所乘之馬。曳韁走,以頭扣車,狀如號哭,見者異之。車至其門,諸子方握槊,聞庫車來,以為賜也,大喜,開視乃哭。
○北史演義
 太后責問儼:「爾何妄行若此?」
○南北史演義
 胡太后召儼入宮,面加叱責,儼泣答道:「是子琮教兒。」太后留儼在宮,使人絞殺子琮。獨不顧親妹麼!

 ⑴侯呂芬…高家の家奴。声相見に劉桃枝に次ぐ出世をすると評された。
 ⑵盧思道…字は子行。生年535、時に37歳。品行が良くなく、良く人を侮辱した。魏書を非難して鞭打たれた。文宣帝が亡くなると、八首もの挽歌(哀悼の歌)が採用され、『八採盧郎』と称賛された。564年(5)参照。
 ⑶祖珽…字は孝徴。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。546年、玉璧を死守する韋孝寛を説得する使者とされた。549年、瀕死となった友人の陳元康に遺書の代筆を依頼された。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。566年、河間王孝琬を讒言して死に至らしめた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の内に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。570年(1)参照。


 571年(3)に続く