[北周:天和五年 北斉:武平元年 陳:太建二年 後梁:天保八年]


●武平改元
 これより前、北斉の〔侍中・尚書左僕射の〕和士開上皇が崩御したのち、改元を行おうと考えた。この時、多くの案が出た。〔給事黄門侍郎の〕劉逖は『武平』を推し、密かに士開にこう言った。
「『武平』の反語は『明輔』(mu+byou→myou+bu)です。明輔は名宰相、つまり公の事でございます。」
 士開は喜び、武平を採用した。
 春、正月、乙酉朔(1日)年号を天統から武平に改めた。

 この日、太師・并州刺史・東安王の婁叡が死去した。大司馬を追贈した。

 この日、陳が征西大将軍・開府儀同三司・郢州刺史の黄法氍を建康に召し、侍中・中権大将軍とした(後任は不明)。

 戊申(24日)、北斉が裴讞之を兼散騎常侍として陳に派遣した。


○北斉後主紀・資治通鑑
 武平元年春正月乙酉朔,改元。太師、并州刺史、東安王婁叡薨。戊申,詔兼散騎常侍裴獻(讞)之聘于陳。
○陳宣帝紀
 二年春正月乙酉,以征西大將軍、開府儀同三司、郢州刺史黃法氍為中權大將軍。
○北斉15婁叡伝
 薨。贈大司馬。
○北42劉逖伝
 及武成崩,和士開欲改元,議者各異。逖請為「武平」,私謂士開曰:「武平反為明輔,逖作此以為公。」士開悅而從之。
○陳11黄法氍伝
 二年,徵為侍中、中權大將軍。

 ⑴和士開...字は彦通。生年524、時に47歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝(上皇)に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。568年、尚書右僕射→左僕射とされた。上皇が死ぬ際看病をし、後事を託された。後主が即位すると趙郡王叡ら政敵を排除して朝廷の実権を握った。569年(2)参照。
 ⑵上皇...高湛。もと北斉の四代皇帝の武成帝。537~568。在位561~565。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。565年、太子に位を譲って上皇となった。のち酒色に溺れ過ぎたことが原因で幻覚などに苦しめられるようになり、568年に亡くなった。568年(3)参照。
 ⑶劉逖...字は子長。生年525、時に46歳。北魏の太常卿の劉芳の孫。若年の頃から聡明だった。狩猟や騎射を好むなど活動的で、人と交流することを楽しみとし、冗談を得意とした。のち発奮して勉学に励むようになり、非常に優れた詩を作るようになったが、性格が陰湿だった。武成帝(上皇)の寵臣の和士開に近づき、その口利きによって中書侍郎とされ、機密事項に携わった。564年、陳への使者とされた。間もなく給事黄門侍郎とされた。祖挺が士開の失脚を図ると、その告発文を上皇に渡してくれるよう頼まれたが実行しなかった。568年、北周に副使として赴いた。568年(2)参照。
 ⑷婁叡...字は仏仁。婁太后(武成帝の母)の兄の子。若年の頃から弓や馬を好み武将としての才能があった。とりわけて優れた所は無かったが、外戚ということで富貴を得、財貨や女色をほしいままにした。562年、平秦王帰彦の乱を平定し、564年、北周の部将の楊檦を大破・捕縛した。565年、豫州にて不正行為を繰り返した罪で免官に遭ったが、間もなく赦されて大尉とされた。566年に大司馬、567年に太傅とされた。567年(2)参照。
 ⑸北斉書に見られる婁叡の叙任記録は太傅で終わっている。去年の11月に斛律光が太傅となっているので、この時に太師とされていたのだろうか。
 ⑹黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。生年518、時に53歳。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと巴山に割拠した。のち陳覇先に付き、556年、高州刺史とされた。557年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍の撃破や親王琳派の熊曇朗の討伐に貢献した。563年、南徐州刺史→江州刺史とされた。565年に中衛大将軍とされ、567年に南徐州刺史とされた。568年、郢州刺史とされた。569年、征西大将軍とされた。569年(1)参照。
 ⑺裴讞之…字は士平。歴代の故事・儀礼に通じ、司徒主簿や儀曹郎、永昌太守などを歴任した。
 
●宜陽の戦い

〔去年の12月から、北周は北斉の宜陽を包囲していた。〕
 この月、北斉の太傅の斛律光が三万(周12斉煬王憲伝では『四万』)の兵を率いて救援に向かった。定隴()に到った時、北周の張掖公の宇文傑王傑、中州刺史の梁士彦、開府・司水大夫の梁景興らが鹿盧交道を固めていた。光は鎧をつけ武器を執ると先頭に立って突撃し、瞬時に傑の軍を大破して二千余人を斬った。光は洛水の南岸に渡って宜陽に直行し、斉公憲と申国公の拓抜顕慶李穆)の軍と百日に亘って対峙した。
 これより前(568~569年)、北周と北斉は国交を通じ、互いに不可侵を約していた。この時に至り、憲は劉雄宇文雄)を光のもとに派して約を違えたことを責め立てさせた。雄の言辞は物怖じすることなく堂々としたものであったため、北斉の人々は恐れ憚った。
 光軍の勢いは非常に盛んだったが、北周の和州刺史の魏玄は戦うたびにこれを破った。
 光は統関(周29劉雄伝では『通関』)・豊化の二城を築き、宜陽との連絡路を確保したのち、帰途に就いた。その途中、安鄴に到った時、五万と号する憲らの軍が追撃をかけてきた。光は騎兵を率いてこれを大破し、開府の宇文英・都督の越勤世良・韓延らを捕らえ、三百余を斬った。憲は更に宇文傑と大将軍・中部公の梁洛都梁台)と景興・士彦らに三万を与えて鹿盧交の要路を遮断させ、〔帰還を阻もうとし〕た。光は韓貴孫・呼延族・王顕らと共にこれを大破し、景興を斬って千頭の馬を手に入れた。

 梁士彦生年515、時に56歳)は字を相如といい、安定烏氏の人である。若年の頃は任俠的な生活を送り、仕事をしなかった。剛毅果断な性格で、善人か悪人か決めるのを好んだ。また、兵法書を愛読するなど非常な読書家でもあった。北周の時に軍功を立て、儀同三司とされた。

 劉雄は字を猛雀といい、臨洮子城の人である。幼少の頃から口が達者で、気概があり、大志を抱いていた。西魏の大統年間(535~551)に出仕して宇文泰の親信となり、そののち統軍・宣威将軍・給事中・子城令・都督・輔国将軍・中散大夫・兼中書舍人を歴任し、宇文氏の姓を与えられた。北周の孝閔帝が即位すると(557)大都督とされ、司市下大夫・斉右下大夫・治小駕部を歴任し、車騎大将軍・儀同三司とされた。保定四年(564)に治中外府属とされ、洛陽征伐に従軍した。天和二年(567)、駕部中大夫とされ、四年(569)、兼斉公憲府掾とされた。

 この年、北斉の燕郡公の慕容三蔵が周軍を孝水(穀水。洛陽の周囲を流れる)にて撃破した(上記の斛律光と宇文傑らの戦い?)。
 三蔵(《北斉書》では建中)は東魏の開府・南道行台・燕郡公の慕容紹宗の子である。幼い頃から利発で、武略に長じ、頗る父の面影があった。北斉に仕えて太尉府参軍事となり、間もなく備身都督とされた。武平の初め(570年)に燕郡公(邑八百戸)の爵位を継いだ。

 2月、己巳(15日)、北斉が太傅・咸陽王の斛律光を右丞相・并州刺史とし、并州刺史・右丞相・安定王の賀抜仁を録尚書事とし、冀州刺史の任城王湝(11)を太師とした。


○北斉後主紀
 二月…己巳,以太傅、咸陽王斛律光為右丞相,并州刺史、右丞相、安定王賀拔仁為錄尚書事,冀州刺史、任城王湝為太師。
○周12斉煬王憲伝
 齊將斛律明月率眾四萬,築壘洛南。五年,憲涉洛邀之,明月遁走。憲追之,及于安業,屢戰而還。
○周27田弘伝
 齊將段孝先、斛律明月出軍定隴以為宜陽援。
○周29王傑伝
 六年,從齊公憲東禦齊將斛律明月。
○周29劉雄伝
 劉雄字猛雀,臨洮子城人也。少機辯,慷慨有大志。大統中,起家為太祖親信。尋授統軍、宣威將軍、給事中,除子城令,加都督、輔國將軍、中散大夫,兼中書舍人,賜姓宇文氏。孝閔帝踐阼,加大都督,歷司市下大夫,齊右下大夫,治小駕部,進車騎大將軍、儀同三司。保定四年,治中外府屬,從征洛陽。天和二年,遷駕部中大夫,四年,兼齊公憲府掾,從憲出宜陽,築安義等城。五年,齊相斛律明月率眾築通關城以援宜陽。先是,國家與齊通好,約言各保境息民,不相侵擾。至是,憲以齊人失信,令雄使於明月,責其背約。雄辭義辯直,齊人憚焉。
○周43魏玄伝
 五年,齊將斛律明月率眾向宜陽,兵威甚盛,玄率兵禦之,每戰輒剋。
○北斉17斛律光伝
 武平元年正月,詔光率步騎三萬討之。軍次定隴,周將張掖公宇文桀、中州刺史梁士彥、開府司水大夫梁景興等又屯鹿盧交道,光擐甲執銳,身先士卒,鋒刃纔交,桀眾大潰,斬首二千餘級。直到宜陽,與周齊國公宇文憲、申國公㩉跋顯敬相對十旬。光置築統關、豐化二城,以通宜陽之路。軍還,行次安鄴,憲等眾號五萬,仍躡軍後。光縱騎擊之,憲眾大潰,虜其開府宇文英、都督越勤世良、韓延等,又斬首三百餘級。憲仍令桀及其大將軍中部公梁洛都與景興、士彥等步騎三萬於鹿盧交塞斷要路。光與韓貴孫、呼延族、王顯等合擊,大破之,斬景興,獲馬千匹。詔加右丞相,幷州刺史。
○北斉20慕容建中伝
 士肅弟建中,襲紹宗爵。
○隋40梁士彦伝
 梁士彥字相如,安定烏氏人也。少任俠,不仕州郡。性剛果,喜正人之是非。好讀兵書,頗涉經史。周世以軍功拜儀同三司。
○隋65慕容三蔵伝
 慕容三藏,燕人也。父紹宗,齊尚書左僕射,東南道大行臺。三藏幼聰敏,多武略,頗有父風。仕齊,釋褐太尉府參軍事,尋遷備身都督。武平初,襲爵燕郡公,邑八百戶。其年,敗周師於孝水,又破陳師於壽陽,轉武衞將軍。又敗周師於河陽,授武衞大將軍。又轉右衞將軍,別封范陽縣公,食邑千戶。周師入鄴也,齊後主失守東遁,委三藏等留守鄴宮。齊之王公以下皆降,三藏猶率麾下抗拒周師。及齊平,武帝引見,恩禮甚厚,詔曰:「三藏父子誠節著聞,宜加榮秩。」授開府儀同大將軍。

 ⑴斛律光...字は明月。生年515、時に56歳。北斉の名将。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。563年、突厥・北周連合軍が晋陽に攻めてくると、晋州の守備を任された。564年、司徒とされ、突厥を討った。北周が洛陽に攻めてくると五万騎を率いて救援に赴き、これを大破し、王雄を自らの手で射殺した。その功により大尉とされた。565年に大将軍、567年に太保、569年に太傅とされた。567年(2)参照。
 ⑵周27田弘伝には『齊將段孝先(段韶)、斛律明月出軍定隴以為宜陽援』とある。
 ⑶宇文傑(王傑)…もとの名は文達。生年515、時に56歳。宇文泰に「一万人を相手にすることができる」と評された。邙山の戦いに活躍し、傑の名を与えられた。また、宇文氏の姓を与えられた。漢中攻略・江陵攻略に加わり、江陵では敵の勇者を一矢で射倒し、于謹に「我が大事を成すものは、公のこの矢である」と絶賛された。のち、武功大なるを以て出身の河州の刺史とされた。563年、楊忠の晋陽攻めに加わった。568年、阿史那皇后を迎えに突厥国境まで出向いた。568年(1)参照。
 ⑷斉公憲...字は毗賀突。宇文泰の第五子。生年544、時に27歳。母は達步干妃。聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備えていた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559年、益州刺史とされると、真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。562年、都に呼び戻された。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めに参加し、包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されるとやむなく撤退した。晋公護から信任を受け、賞罰の決定に常に関わることを許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。去年の9月、宜陽の攻略に赴いた。569年(3)参照。
 ⑸拓抜穆(李穆)...字は顕慶。生年510、時に61歳。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。567年、申国公とされた。569年、宜陽の攻略に赴いた。569年(2)参照。
 ⑹魏玄…字は僧智。祖先は南朝に仕えたが、景明年間(500~504)に北魏に付き、新安(洛陽の西)に居を構えた。梁と戦って征虜将軍とされ、北魏が東西に分裂すると関南にて西魏に付き、東魏将の高敖曹と何度も戦った。西魏が邙山にて大敗を喫すると、宜陽にいた母や弟が東魏に捕らえられたが、西魏に忠義を貫き、関南を鎮守した。547年、東魏将の侯景が叛乱を起こすと李義孫と共に東魏の伏流城と孔城を陥とし、伏流を鎮所とした。のち、河南郡守・大都督とされた。550年、洛安郡民の雍方雋の乱を平定した。のち561年に蛮谷に、564年に閻韓に鎮所を移した。566年に北斉の侵攻を撃退し、568年に熊州刺史、569年に和州刺史とされた。569年(3)参照。
 ⑺梁台(賀蘭台)...字は洛都。賀蘭氏の姓を賜った。爾朱天光・賀抜岳に仕え、文武に活躍して信任を受けた。のち宇文泰に仕え、莫折後熾・劉平伏の乱の平定に活躍した。559年、吐谷渾の討伐に加わった。564年に大将軍、565年に鄜州刺史とされた。564年(6)参照。
 ⑻駕部中大夫…《通典》曰く、『夏官(大司馬)に属する。輿や車、駅舎、廄や牧場、牛馬驢騾などの家畜の管理を任された。』
 ⑼慕容紹宗…501~549。前燕の末裔。母のいとこの子が爾朱栄。爾朱栄→爾朱兆→高歓に仕え、高澄の代に東南道行台とされて侯景を大破した。のち西魏の王思政を潁川に包囲したが、その途中で戦死した。
 ⑽賀抜仁...字は天恵。勲貴の一人。韓陵の決戦・西魏の南汾州攻略・邢摩納らの乱の平定に活躍し、太保・安定王とされたが、554年に文宣帝の勘気を蒙り、髪を抜き取られて庶民の身分に落とされ、晋陽宮にて炭の運搬を命じられた。のち赦され、557年、太保とされた。560年、常山王演(孝昭帝)のクーデターに協力した。565年、太師とされた。567年、右丞相とされた。567年(2)参照。
 (11)任城王湝...高歓の第十子で上皇(武成帝)の異母弟。母は小爾朱氏。聡明で、孝昭帝・武成帝が晋陽から鄴に赴く時、常にその留守を任された。566年に太保とされ、并州刺史とされると婦人の靴を盗んだ犯人を当てるなど明察ぶりを発揮した。568年に太師とされた。569年(1)参照。

●宇文冑の帰還

 これより前、宇文泰の兄の宇文顥は六鎮の乱の際に戦死した(523~524年?)。子の宇文什肥は母に孝行を尽くし、永安年間(528~530年)に泰が関中に入ったのちも母と共に晋陽に残った。泰が関中に割拠し、晋陽の高歓と対立すると、什肥は歓に殺害された。子の宇文冑は幼かったため死は免ぜられ、去勢に留められた。冑は極貧生活を送ったものの、〔挫けることなく、〕非常に才能に溢れた青年に育った。
 のち北周は顥を邵国公と追封し、什肥にこれを継がせた。それから、晋公護の子の宇文会に什肥の跡を継がせ、邵国公とした。
 天和年間(566~572)に北周と北斉が国交を通じると(568~569年)、冑はようやく北周に行くことを許された。
 この日、冑が北周領内に到着した。北周は邵公会を譚国公に改め、冑を開府・邵国公とした。

 丙子(22日)、北斉が全ての罪人に減刑を行なった。

○周武帝紀
 五年春二月己巳,邵惠公顥孫冑自齊來歸。改邵國公會為譚國公,封冑為邵國公。
○北斉後主紀
 丙子,降死罪已下囚。
○周10宇文什肥伝
 顥…子什肥…年十五而惠公歿,自傷早孤,事母以孝聞。永安中,太祖入關,什肥不能離母,遂留晉陽。及太祖定秦、隴,什肥為齊神武所害。保定初,追贈大將軍、小冢宰、大都督、冀定等州諸軍事、冀州刺史。襲爵邵國公。諡曰景。子冑嗣。
○周10宇文冑伝
 什肥…子冑…少而孤貧,頗有幹略。景公之見害也,以年幼下蠶室。保定初,詔以晉公護子會紹景公封。天和中,與齊通好,冑始歸關中。授大將軍、開府儀同三司,襲爵邵公。

 ⑴宇文什肥…宇文泰の兄の宇文顥の長子。晋公護の母が護に宛てた手紙に『長子〔の什肥〕は鼠年の時(戊子、508)に生まれ』とある。
 ⑵晋公護...字は薩保。宇文泰の兄の子。生年513、時に58歳。至孝の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。569年(3)参照。
 ⑶宇文会…邵公会。字は乾仁。宇文護の子。宇文顥(宇文護の父)の跡を継いで邵国公となった。幼少の頃より聡明で、学問を好んだ。562年、蒲州総管とされた。562年(4)参照。
 
●洭口の戦い

 陳の前広州刺史の欧陽紇は叛乱を起こす前、陽春太守の馮僕に使者を送って南海(広州)に呼び、叛乱に加わるよう強要した。僕は陽春にいる母の洗夫人のもとに使者を派してこの事を伝えると、夫人はこう言った。
「我が馮家は二代[1]に亘って国家に忠義を尽くしてきた。お前の命惜しさに国家に背いたりなどせぬ!」
 かくて郡境に兵を発して抵抗の姿勢を示し、百越の酋長を率いて紇の討伐に赴いてきた章昭達を出迎え、南北より紇を挟撃することを約した。

 これより前、〔陳の車騎将軍・中撫大将軍の〕章昭達は紇の討伐を命じられると強行軍を行ない、紇の予想よりも早く始興郡(東衡州)に到った。これを聞いた紇は〔広州から〕洭口に進み、水中に柵を築き、その外側に河原の砂や石を詰めた竹籠を沈めて〔緩衝材とし、〕敵艦の進行を阻もうとした。昭達は水柵破壊用の槌()を大艦の船首に取り付けて川(北江)を下った。洭口に到ると兵に小刀を含ませて水中に潜らせ、竹籠を切らせた。竹籠はばらばらになり、砂や石は川に流されて消えた。それから大艦に川の流れに乗って突撃させた。〔大艦は水柵を破壊した。〕紇は大敗を喫して捕らえられ、建康に送られた。かくて広州は平定された。
 癸未(29日)、紇を建康の市場にて斬刑に処した。

〔これより前、紇は叛乱を起こす際に袁敬に何度も止めるよう説得を受けていたが、紇は聞き入れなかった。〕紇は破滅する前に敬の言葉を聞かなかった事を悔やんだ。
 陳は敬の行ないを褒め称え、この年中に中央に呼んで太子中庶子・通直散騎常侍とした。

○陳宣帝紀
 二月癸未,儀同章昭達擒歐陽紇送都,斬于建康市,廣州平。
○陳11章昭達伝
 歐陽紇據有嶺南反,詔昭達都督眾軍討之。昭達倍道兼行,達于始興。紇聞昭達奄至,恇擾不知所為,乃出頓洭口,多聚沙石,盛以竹籠,置于水柵之外,用遏舟艦。昭達居其上流,裝艫造拍,以臨賊柵。又令軍人銜刀,潛行水中,以斫竹籠,籠篾皆解。因縱大艦隨流突之,賊眾大敗,因而擒紇,送于京師,廣州平。
○陳17袁敬伝
 高宗即位,遣章昭達率眾討紇,紇將敗之時,恨不納敬言。朝廷義之,其年徵為太子中庶子、通直散騎常侍。
○隋80譙国夫人伝
 至陳永定二年,其子僕年九歲,遣帥諸首領朝于丹陽,起家拜陽春郡守。後廣州刺史歐陽紇謀反,召僕至高安(南海),誘與為亂。僕遣使歸告夫人,夫人曰:「我為忠貞,經今兩代,不能惜汝輒負國家。」遂發兵拒境,帥百越酋長迎章昭達。內外逼之,紇徒潰散。

 ⑴欧陽紇...字は奉聖。陳の広州刺史の欧陽頠の子。非常に優れた才知を有した。天嘉年間(560~)に黄門侍郎・員外散騎常侍とされ、次第に昇進して安遠将軍・衡州刺史とされた。563年に父が死ぬと跡を継ぎ、陽山郡公・都督交広等十九州諸軍事・広州刺史とされた。今年、左衛将軍とされた。569年(1)参照。
 ⑵陽春…《読史方輿紀要》曰く、『広州府の西二百三十里→肇慶府の西南三百四十里にある。』
 ⑶馮僕…生年550、時に21歳。北燕の末裔?で、代々羅州刺史を務めた家の出。高涼太守の馮宝と洗氏の子。558年、母の命令により9歳の幼さで百越の酋長たちを連れて建康に赴き、陽春太守とされた。
 ⑷洗夫人…代々南越族の首領を務めた家の出。幼い頃から賢く権謀術数に長け、良く部衆を手懐けた。535年、高涼太守の馮宝に嫁いだ。のち侯景が乱を起こして建康を陥とすと、陳覇先(武帝)に付き、計略を用いて高州刺史の李遷仕を撃破した。
 [1]僕と父の馮宝の事である。
 ⑸章昭達...字は伯通。生年518、時に53歳。豪快な性格で、福相の持ち主。戦いで片目を失明した。文帝に最も信頼され、王琳との決戦では随一の武功を立てた。561年、郢州刺史とされ、翌年、周迪の討伐に赴いた。563年、護軍将軍とされ、周迪が旧領回復を図って臨川に侵攻してくるとこれを撃破し、次いで陳宝応を攻め滅ぼした。565年、江州刺史とされた。華皎が叛乱を起こすとこれに加わるよう誘われたが拒否した。568年9月、中撫大将軍とされて建康に呼び戻されたが、遅参したため弾劾を受け、車騎大将軍から車騎将軍に降格された。去年、欧陽紇討伐に赴いた。569年(3)参照。
 ⑹洭口…《読史方輿紀要》曰く、『洭水(湟水)と湞水が合流する所を洭口という。』『湟水は湖広の寧遠県の九疑山が水源で、連州の陽山県(西衡州)の東を経、東南に流れて韶州府(東衡州)の英徳県(韶州府の西南二百二十里、広州府の清遠県の東北二百七十里)に入り、南下して広州府の清遠県(広州府の北二百五十里)に入り、県の東南にて湞水と合流する。』『湞水は大庾嶺が水源で、南雄府(韶州府の東北二百九十里)を経て南下し、韶州府の東南にて武水と合流し、韶州府の英徳県を経て、南下して清遠県の東北を流れ、県の東にて洭水と合流する。』
 ⑺袁敬…字は子恭。生年507、時に64歳。名門陳郡陽夏袁氏の出で、梁の司空の袁昂の子。非常な孝行者で風格があり、幼い頃から熱心に学問に励み、老いたのちも飽きることを知らなかった。梁に仕えて中舍人とされ、西魏が江陵を陥とすと(554年)嶺南の地に避難し、欧陽頠を頼った。569年、頠の子の欧陽紇が叛乱を企むと何度も説得したが聞き入れられなかった。569年(3)参照。

●広州始末
 これより前、侯景が乱を起こした時(548年)、西昌侯儀同(蕭淵藻)府主簿の蕭引は広州に避難し、紇父子から礼遇を受けた。しかし、紇が叛乱を計画した時に諌言を行なうと、以後遠ざけられるようになった。この時、広州には岑之敬・公孫挺ら知識人たちが引と同じく戦乱を避けて建康から広州に寓居していた。紇が叛乱を起こした時、彼らは驚き恐れて為す所を知らなかったが、引のみ平然として之敬らにこう言った。
管幼安袁曜卿[1]もこういう時は悠然と構えていたものだ。君子とは心を直くして正義を行なう者である。今さら何を恐れることがあろうか?」
 のち、章昭達が番禺(広州)を平定すると、引はようやく建康に帰った。宣帝から嶺南の事について尋ねられると、細大漏らさず詳細に答え、非常に気に入られてその日の内に金部侍郎とされた。引は達筆だったので人々から尊重された。帝はあるとき引から上奏を受けると、引の署名を指差してこう言った。
「この字の筆勢は軽妙で、今にも鳥のように飛んでいきそうだ。」
 引は謝意を述べてこう言った。
「これは陛下から貸し与えられた羽毛(庇護のたとえ)に過ぎません。」
 帝はまた引にこう言った。
「イライラしていても、卿を見るとどうでも良くなってしまう。何故だろうか?」
 引は答えて言った。
「それはただ陛下がお優しくて人に八つ当たりをなさらないからです。臣は何も関係ありませぬ。」
 引は字を叔休といい、〔黄門(中書?)侍郎の〕蕭允の弟である[2]。真っ直ぐで才能・性格共に優れ、非常に生真面目で、どんな時でも礼法を遵守して行動した。また、聡明・博学で文才があった。出仕すると著作佐郎とされ、のち西昌侯儀同府主簿とされた。侯景の乱が起こると朝士の大半は荊州刺史の湘東王繹のちの元帝)のもとに避難したが、引はこう考えた。
「今は諸王が跡目を巡って争っている時で、主君を決めるのはまだ早い。我が家は二代(蕭恵蒨?と蕭介)に亘って始興郡の太守を務めたため、嶺南の人々から慕われている。南行こそが家門を存続させる道だ。」
 かくて弟の蕭彤および一族百余人と共に嶺南に避難した。

 岑之敬生年519、時に52歳)は字を思礼といい、五歲の時に孝経を読み、焼香をするさい常にかしこまって正座したので親戚から感嘆され、一目を置かれるようになった。十六歳の時(534)に春秋左氏伝や孝経の大義を答える試験に合格し、高第(成績優秀)に挙げられた。御史は上奏して言った。
「我が国家は多士済々でありますが、抜擢される者は明経の者(四書五経全てに通じた者)にとどまっております。顔〔回〕、閔〔子騫〕のような徳行に秀でた者たちも高第とすべきであります。」
 梁の武帝は試験の内容を見るとこう言った。
「どうして顔・閔の再来を邪魔しようか?」
 かくて之敬を面前に呼んで講座に上らせ、中書舍人の朱异武帝の寵臣。非常な能吏)に孝経を持たせて士章篇を朗読させ、自らその内容について之敬と議論した。すると之敬は理路整然と解説してみせ、質問されれば瞬時に回答したので、その場にいた者たちはみな感服した。かくて童子奉車郎とされ、多くの賞賜を与えられた。
 十八歳の時(536年)、重雲殿の法会に参加した。この時、帝自ら行香(参会した僧たちに焼香の香を配り渡すこと)を行なった。その時、帝は之敬をじっと見つめてこう言った。
「少し見ない内に、あっという間に立派な青年になったものだ!」(原文『「未幾見兮,突而弁兮!」』これは詩経の斉風甫田にある
 かくて即日、之敬を太学限内博士とした。間もなく寿光学士→司義郎→武陵王安西(蕭紀)府刑獄参軍事とされ、太清元年(547)に地方勤務を志願し、南沙(呉郡の北)令とされた。侯景の乱が起こると配下の兵を率いて建康の救援に向かった。しかし、〔晋陵(建康と呉郡の中間)〕郡の境界に到った時に台城が陥落したのを聞くと人々と別れて郷里に帰った。承聖二年(553)、晋安王(蕭方智。梁最後の皇帝)宣恵府中記室参軍とされた。この時、嶺南(広州)に割拠していた蕭勃の説得を命ぜられた。その途中、江陵が陥落すると(554年)そのまま広州に留まった。
 現在になって朝廷に帰還すると、東宮義省学士とされた。太子叔宝は平素から之敬の評判を耳にしていたので、之敬を非常に礼遇した。

 これより前、陳の護軍将軍の沈恪は広州刺史とされたが(569年)、紇が叛乱を起こしたため赴任することができなかった。乱が平定されるとようやく州に入ることができたが、戦禍に遭った直後だったため、方々で農地や家屋に被害が出ていた。恪がそこで救済に努めると、広州の人々は恪に感謝の念を抱き、信頼するようになった。

 また、前東宮通事舍人の周確を中書舍人とし、広州の人々を慰労させた。
 確は字を士潜といい、特進の周弘正の弟の周弘直の子である。美男で、優しく品があり、読書家で老荘を好み、叔父の弘正から特に可愛がられた。梁に仕えて太学博士・司徒祭酒・晋安王主簿とされた。陳が建国されると尚書殿中郎とされ、次第に昇進して安成王(宣帝)限内記室となった。宣帝が即位すると東宮通事舍人とされた。のち母の死に遭って職を去った。
 
 馮僕は(無事助けられたのだろう)母の洗夫人の功を以て信都侯・平越中郎将・石龍太守とされた。また、陳は夫人を中郎将・石龍(北史では『高涼郡』)太夫人とし、刺繍と防水のための油が施された垂れ幕と飾り縄が付いた四頭立ての安車(横になったり座ったりできる馬車)一輌・楽隊一部・麾幢(のぼり旗)・旌節(しるし旗)と、刺史と同等の儀仗隊を従える権利を授けた。
 
 また、衡州刺史の銭道戢を〔中央に呼んで〕左衛将軍とした。

 また、豫章太守の胡鑠を広州東江督護とした。

 また、紇平定に貢献した徐倹に十人の奴隷と五百斛の米を与え、鎮北(中衛の誤り?)鄱陽王(陳伯山)諮議参軍・兼中書舍人とした。

○陳12胡鑠伝
 穎弟鑠,亦隨穎將軍。穎卒,鑠統其眾。歷東海、豫章二郡守,遷員外散騎常侍。隨章昭達南平歐陽紇,為廣州東江督護。
○陳12沈恪伝
 高宗即位,加散騎常侍、都督廣衡東衡交越成定新合羅愛德宜黃利安石雙等十八州諸軍事、鎮南將軍、平越中郎將、廣州刺史。恪未至嶺,前刺史歐陽紇舉兵拒險,恪不得進,朝廷遣司空章昭達督眾軍討紇,紇平,乃得入州。州罹兵荒,所在殘毀,恪綏懷安緝,被以恩惠,嶺表賴之。
○陳21蕭引伝
〔蕭允弟〕引字叔休。方正有器局,望之儼然,雖造次之間,必由法度。性聰敏,博學,善屬文。釋褐著作佐郎,轉西昌侯儀同府主簿。侯景之亂,梁元帝為荊州刺史,朝士多往歸之。引曰:「諸王力爭,禍患方始,今日逃難,未是擇君之秋。吾家再世為始興郡,遺愛在民,正可南行以存家門耳。」於是與弟彤及宗親等百餘人奔嶺表。時始興人歐陽頠為衡州刺史,引往依焉。頠後遷為廣州,病死,子紇領其眾。引每疑紇有異,因事規正,由是情禮漸疎。及紇舉兵反,時京都士人岑之敬、公孫挺等竝皆惶駭,唯引恬然,謂之敬等曰:「管幼安、袁曜卿亦但安坐耳。君子正身以明道,直己以行義,亦復何憂懼乎?」及章昭達平番禺,引始北還。高宗召引問嶺表事,引具陳始末,帝甚悅,即日拜金部侍郎。引善隸書,為當時所重。高宗嘗披奏事,指引署名曰:「此字筆勢翩翩,似鳥之欲飛。」引謝曰:「此乃陛下假其羽毛耳。」又謂引曰:「我每有所忿,見卿輒意解,何也?」引曰:「此自陛下不遷怒,臣何預此恩。」
○陳22銭道戢伝
 紇平,除左衛將軍。
○陳24周確伝
 確字士潛,美容儀,寬大有行檢,博涉經史,篤好玄言,世父弘正特所鍾愛。解褐梁太學博士、司徒祭酒、晉安王主簿。高祖受禪,除尚書殿中郎,累遷安成王限內記室。高宗即位,授東宮通事舍人,丁母憂,去職。及歐陽紇平,起為中書舍人,命於廣州慰勞。
○陳26徐倹伝
 紇平,高宗嘉之,賜奴婢十人,米五百斛,除鎮北鄱陽王諮議參軍,兼中書舍人。
○陳34岑之敬伝
 岑之敬字思禮,南陽棘陽人也。父善紆,梁世以經學聞,官至吳寧令、司義郎。之敬年五歲,讀孝經,每燒香正坐,親戚咸加歎異。年十六,策春秋左氏制旨、孝經義,擢為高第。御史奏曰:「皇朝多士,例止明經,若顏、閔之流,乃應高第。」梁武帝省其策曰:「何妨我復有顏、閔邪?」因召入面試,令之敬昇講座,勑中書舍人朱异執孝經,唱士章,武帝親自論難。之敬剖釋縱橫,應對如響,左右莫不嗟服。乃除童子奉車郎,賞賜優厚。十八,預重雲殿法會,時武帝親行香,熟視之敬曰:「未幾見兮,突而弁兮!」即日除太學限內博士。尋為壽光學士、司義郎,又除武陵王安西府刑獄參軍事。太清元年,表請試吏,除南沙令。侯景之亂,之敬率領所部,赴援京師。至郡境,聞臺城陷,乃與眾辭訣,歸鄉里。承聖二年,除晉安王宣惠府中記室參軍。是時蕭勃據嶺表,勑 之敬 宣旨慰喻,會江陵陷,仍留廣州。太建初,還朝,授東宮義省學士,太子素聞其名,尤降賞接。
○隋80・北91譙国夫人伝
 僕以夫人之功,封信都侯,加平越中郎將,轉石龍太守。詔使持節冊夫人為中郎將、石龍(高涼郡)太夫人,賚繡幰油絡駟馬安車一乘,給鼓吹一部,并麾幢旌節,其鹵簿一如刺史之儀。

 [1]管寧は後漢の人で字を幼安といい、中原が混乱すると遼東の公孫度と康を頼ったものの、仕官することはなく山に隠棲して暮らし、魏が建国されると郷里の北海郡に帰った。袁渙も後漢の人で字を曜卿といい、劉備→袁術に仕えたが、のち呂布に捕らえられた。このとき劉備を罵倒する書簡を書くよう命じられたが拒否し、武器で脅されても結局書かなかった。布が敗れると曹操に仕えた。
 ⑴宣帝…陳の四代皇帝。在位569~。もと安成王頊(キョク)。字は紹世。陳の二代皇帝の文帝の弟。生年530、時に41歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年、帰国し、揚州刺史とされた。のち、周迪討伐の総指揮官とされた。侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇ったが、565年、部下の不始末により侍中・中書監を剥奪された。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。568年、太傅とされ、569年、皇帝に即位した。569年(3)参照。
 ⑵金部…南斉百官志曰く、『度支尚書の下に度支・金部 ・倉部・起部の四曹がある。』隋百官志後斉曰く、『金部は度量衡や全国の出納帳に関わる事柄を管轄した。』
 ⑶蕭允…字は叔佐。劉宋の陽穆公の蕭思話の曾孫、南斉の左民尚書の蕭恵蒨の孫、梁の都官尚書の蕭介の子。若年の頃から名を知られ、容姿・動作・識見全てが高雅だった。梁に仕えて太子洗馬となり、侯景が台城を陥とすと、恐れることなく東宮や京口に留まって隠棲した。侯安都が南徐州刺史となると(556~559・559~563年)安都自らの来訪を受けるなど礼遇を受けた。天嘉三年(562)、陳に仕えて太子庶子とされ、のち丹陽尹丞を務め、五年(564)に兼侍中とされて北周に使者として赴いた。帰国すると中書侍郎・大匠卿とされた。宣帝が即位すると黄門侍郎とされた。564年(2)参照。
 [2]蕭允兄弟は大難に遭っても恐れることが無かった。
 ⑷太子叔宝…字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。生年553、時に18歳。西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、宣帝が即位すると太子とされた。569年(2)参照。
 ⑸沈恪...字は子恭。生年509、時に62歳。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。陳覇先(武帝)と同郡の生まれで非常に仲が良く、王僧弁襲撃の際には事前に計画を知らされた。558年、周迪の救援に赴いた。559年、東南部の軍事を任された。561年、中央に召されて左衛将軍とされた。のち、郢州刺史とされた。565年に中護軍、566年に護軍将軍とされた。567年、荊州刺史とされたが赴任することなく、568年、護軍将軍とされた。569年、広州刺史とされたが前刺史の欧陽紇が乱を起こしたため赴任することができなかった。569年(3)参照。
 ⑹周弘正...字は思行。博識の大学者で、国子博士などを務めた。梁の武帝が侯景を梁に引き入れた際、戦乱が起こることを予言した。のち、元帝に都を建康に戻すよう勧めた。江陵が西魏に攻められると、包囲をかいくぐって建康に逃走した。のち、北周に派遣され、562年に安成王頊(宣帝)を連れて帰国した。のち566年に都官尚書とされ、569年に特進とされた。569年(3)参照。
 ⑺石龍…《隋書地理志》曰く、『羅州が置かれた。』馮家は代々羅州刺史を務めた。《読史方輿紀要》曰く、『今の化州である。化州は高州府(肇慶府の西南七百七十里)の西南九十里にある。』
 ⑻銭道戢...字は子韜。生年511、時に60歳。従妹は陳の武帝の初めての妻。武帝や文帝に付き従って各地を転戦した。562年、留異討伐に参加して後方を脅かした。のち、功を以て都督東西二衡州諸軍事・衡州刺史・領始興内史とされた。563年、陳宝応討伐に参加した。569年、欧陽紇が叛乱を起こして攻撃をかけてくると良く防戦して撃退した。569年(3)参照。
 ⑼胡鑠…呉興太守の胡穎の弟。穎の部将として活躍し、穎が亡くなると(560年)兵を受け継いだ。呉興太守を務め、のち周迪討伐に参加した。東海太守→豫章太守を歴任し、欧陽紇の乱の平定に加わった。562年(3)参照。
 ⑽徐倹…別名は衆。生年528、時に43歳。右僕射の徐陵の子。幼い頃からしっかりしていて、学問に勤しみ、周弘正(或いは周弘直)に気に入られて娘を嫁にもらった。侯景の乱が起こると、東魏に使いしていた父に代わって一家を引き連れて江陵に避難した。湘東王繹(元帝)から重用されて尚書金部郎中とされ、文才も認められた。江陵が陥落すると建康に避難し、562年に中書侍郎とされた。569年、欧陽紇が乱を起こすと説得に赴いたが監禁され、のち釈放されて帰ると紇の内情を知っているということで討伐軍に加わった。569年(3)参照。

●交阯の乱れと阮卓の孝廉
 欧陽紇の乱を平定したのちも、交阯(ハノイ)の夷族・獠族は〔陳の統治に服せず、〕何度も徒党を組んでは略奪行為を働いた。陳はそこで晋安王府記室の阮卓に説得させた。交阯は日南(ベトナム中部)・象郡(ベトナム北部)に通じ、金翠(金や翡翠)・珠貝(子安貝)など珍奇な物を多く産出したため、卓の前後に派遣された使者たちは皆これらを手に入れて帰ったが、ただ卓のみ着の身着のままで帰ってきたので、人々はその清廉さに感服した。

 阮卓531~533?~589~591?、時に40歳頃)は陳留尉氏の人である。祖父の阮詮は梁の散騎侍郎で、父の阮問道は梁の寧遠岳陽王府記室参軍。
 幼い頃から利発で、熱心に読書に励み、談論を得意とし、巧みな五言詩を作った。非常な孝行者で、父が岳陽王〔詧〕に付き従って江州に赴いたのちそこで病死すると、当時十五歳(つまり545年?だった卓は建康より駆けつけて喪に服し、水すら口に入れないことが何日も続いた。
 この時、たまたま侯景の乱が起こると、建康への帰路は危険な物となったが、卓は艱難を冒ものともせず、棺を都まで運びに行く事にした。その道中、賊に出くわしたが、卓が憔悴した顔で号泣しながら見逃してくれるよう訴えると、賊は同情して卓を殺さなかったどころか、境(州境?ここでは江州?)まで護送まで買って出た。彭蠡湖(鄱陽湖)を渡ろうとした時、その途中で突然強風が吹き荒れて何度も船が転覆しそうになったが、卓が仰天を仰いで悲しみの声を上げると、間もなく風はやんだ。人々はみな卓の孝心が天に通じたのだと考えた。
 陳の文帝が即位すると(559年)軽車鄱陽王府外兵参軍とされ、天康元年(566)に雲麾新安王(伯固)府記室参軍とされ、のち新安王が翊右将軍とされると翊右府の記室とされ、撰史著士を兼任した。のち鄱陽王(伯山)中衛府録事(569年に中衛将軍に就任)・晋安王(伯恭)府記室を歴任したが、著士はそのままとされた。

○陳34阮卓伝
 阮卓,陳留尉氏人。祖詮,梁散騎侍郎。父問道,梁寧遠岳陽王府記室參軍。卓幼而聰敏,篤志經籍,善談論,尤工五言詩。性至孝,其父隨岳陽王出鎮江州,遇疾而卒,卓時年十五,自都奔赴,水漿不入口者累日。屬侯景之亂,道路阻絕,卓冒履險艱,載喪柩還都。在路遇賊,卓形容毀瘁,號哭自陳,賊哀而不殺之,仍護送出境。及渡彭蠡湖,中流忽遇疾風,船幾沒者數四,卓仰天悲號,俄而風息,人皆以為孝感之至焉。世祖即位,除輕車鄱陽王府外兵參軍。天康元年,轉雲麾新安王府記室參軍,仍隨府轉翊右記室,帶撰史著士。遷鄱陽王中衛府錄事,轉晉安王府記室,著士如故。及平歐陽紇,交阯夷獠往往相聚為寇抄,卓奉使招慰。交阯通日南、象郡,多金翠珠貝珍怪之產,前後使者皆致之,唯卓挺身而還,衣裝無他,時論咸伏其廉。

 ⑴岳陽王詧が江州刺史になった記述は無い。侯景の乱が起きた時も雍州刺史である。乱が起きた時江州刺史だったのは尋陽王(当時は当陽公)大心である。阮卓伝は最後にも『江州』と書いているので江州は間違い無いとすると、『岳』と『尋』を間違えたのではないか。ただ、『江州』が雍州の誤りの可能性も捨てきれない。雍州(襄陽)なら建康に行く際鄱陽湖を通るし、隋に連行される時も関中に行く道中にあるのでおかしくは無い。詧が雍州に赴任する途中江州で亡くなった可能性もある。
 ⑵当時十五歳…岳陽王詧が雍州刺史となったのは546年で、尋陽王大心が江州刺史とされたのは547年である事から考えると、生年は532か533の可能性がある。江州刺史は540~547年まで湘東王繹が就いているので、545年に詧が実は就いている可能性は無い。就任してからすぐ侯景の乱が起こらないと卓の命が危ないので、やはり大心の説が正しいのか?すると没年が591となって、『589年に陳が滅び、〔関中に連行される途中に〕父の亡所の江州を通過した際、感じる所があって病気となって亡くなった。享年59』の記述からすると、発病から死まで2年のタイムラグができてしまうが…。詧説なら1年で済む。

●章太后の死
 3月、辛卯(7日)、北周が柱国〔・建忠郡公〕の韋孝寛宇文孝寛を鄖国公とした。

 丙申(13日)、陳の章皇太后が紫極殿にて崩御した(享年65)。皇太后は死ぬ前に遺令を残し、葬儀は質素にし、供物に生贄を使わぬよう言い残した。

 戊戌(15日)、北斉の録尚書事・安定王の賀抜仁が逝去した。仮黄鉞・相国・太尉・録尚書・十二州諸軍事・朔州刺史を追贈し、武と諡した。

 甲辰(21日)、北周が命令を下して言った。
「宿衛の官(近衛兵)に就いている者で、関外(関東)に家族がいる者は、家族をみな入京させよ。従えない者は宿衛の任から解く。」

 丙午(23日)、陳が広・衡二州(欧陽紇の勢力範囲)に恩赦を行なった。
 丁未(24日)、天下に大赦を行なった。また、周迪562~565年・華皎567年)討伐以来の戦いで戦死した者の亡骸を回収して小さい柩に入れ、郷里に送還させた。また、戦傷がまだ癒えない者に薬を支給した

○周武帝紀
 三月辛卯,進封柱國韋孝寬為鄖國公。甲辰,初令宿衞官住關外者,將家累入京,不樂者,解宿衞。
○北斉後主紀
 閏月戊戌,錄尚書事、安定王賀拔仁薨。
○陳宣帝紀
 三月景申,皇太后崩。景午,曲赦廣、衡二州。丁未,大赦天下。又詔自討周迪、華皎已來,兵交之所有死亡者,竝令收斂,幷給棺槥,送還本鄉;瘡痍未瘳者,各給醫藥。
○北53賀抜仁伝
 天保初,封安定郡王,歷數州刺史、太保、太師、右丞相、錄尚書事。武平元年薨,贈假黃鉞、相國、太尉、錄尚書、十二州諸軍事、朔州刺史,諡曰武。
○陳7高祖宣皇后章氏伝
 二年三月景申,崩于紫極殿,時年六十五。遺令喪事所須,並從儉約,諸有饋奠,不得用牲牢。

 ⑴韋孝寬(宇文孝寛)...本名叔裕。生年509、時に62歳。関中の名門の出身。華北の大名士かつ智謀の士の楊侃に才能を認められ、その娘婿となった。北魏時代に政治面で優れた手腕を示し、独孤信と共に「連璧」と並び称された。のち、西魏に仕え、高歓の大軍から玉壁を守り切る大殊勲を立てた。のち、江陵攻略に参加し、宇文氏の姓を賜った。556年、再び玉壁の守備を任された。561年、勲州刺史とされた。564年、柱国とされた。564年(4)参照。
 ⑵章皇太后…諱は要児。生年506、時に65歳。武帝の後妻。知性と美貌を兼ね備え、手の爪の長さが五寸(約10cm)もあり、どれも綺麗な桃色をしていた。読み書き・計算が達者で、詩経と楚辞を暗誦することができた。559年、帝が死ぬと皇太后とされた。566年、文帝が死ぬと太皇太后とされた。568年、安成王頊(宣帝)の要請を受けて廃帝を廃した。569年、宣鼎が即位すると皇太后とされた。569年(1)参照。
 ⑶北斉の暦ではこの記事は閏2月に属するが、今は〔北周と?〕陳の暦に従った。
 ⑷陳は564年の陳宝応討伐後に同様の施策を行なっている。

●竇熾の左遷と徐之才の復帰
 これより前、宇文泰武帝の父。西魏の建国者)は渭北にて狩猟を行なった。この時、泰は竇熾紇豆陵熾晋公護に兎狩りの競争をさせた。熾は一日で十七羽、護は十一羽を獲た。護は負けたことを恥じ、以後熾を嫌うようになった。
 現在になって、熾は更に武帝が立派に成長した(時に28歳)ことを理由に、護に政権を返すよう勧めた。護はここに来て積年の恨みを爆発させ、熾を地方に左遷することに決めた。
 この年、北周が大宗伯(春官の長。礼法祭祀を司る)の熾を宜州(もと北雍州)刺史とした。
 夏、4月、甲寅(1日)、北周が柱国〔・延州総管?〕の宇文盛を代わりに大宗伯とした。


 また、武帝が醴泉宮(長安の西北にある離宮)に赴いた
 また、帥都督の官を廃止した。

 乙卯(2日)、陳の臨海王伯宗もと廃帝が死去した(享年19。毒殺?)。

 去年の冬、北斉が開府儀同三司・兗州刺史の徐之才を鄴に呼び戻した。間もなく左僕射に欠員が出ると、之才は自分を推薦して言った。
「臣なら〔少康のように〕禹の功業を復興(国家を中興)することができます。」
 辛酉(8日)、北斉が之才を尚書左僕射とした。


 丙寅(13日)、大使を派遣し、国内を巡察させた。また、〔秦州(天水)総管〕陳公純を陝州(弘農)総管とした。

 この時、純の部下で大都督の郭衍は詔命を受けて天水にて募兵を行ない、志願した千余家を連れて東境の陝城(弘農)に駐屯し、使持節・車騎大将軍・儀同三司とされた。衍は斉軍が侵攻してくると、そのつど配下の兵を率いて迎撃し、一年の間に何度も勝利した。そのため、北斉人に非常に恐れ憚られる存在となり、公からはますます信任を受けた。
 衍は字を彦文といい、自称太原郡介休県の人である。父の郭崇532年〈1〉参照)は北魏に仕えて中書舍人とされ、孝武帝に従って入関し、のち侍中にまで至った。
 衍は若年の頃から勇猛で、騎射を得意とした。純に登用されて従者とされ、次第に昇進して大都督とされた。

○周武帝紀
 夏四月甲寅,以柱國宇文盛為大宗伯。行幸醴泉宮。省帥都督官。丙寅,遣大使巡天下。以陳國公純為陝州總管。
○北斉後主紀
 閏月戊戌,錄尚書事、安定王賀拔仁薨。三月辛酉,以開府儀同三司徐之才為尚書左僕射。
○陳・南史廃帝紀
 太建二年四月〔乙卯〕薨,時年十九。
○陳宣帝紀
 夏四月乙卯,臨海王伯宗薨。戊寅,皇太后祔葬萬安陵。五月…壬午,齊遣使來弔。
○周30竇熾伝
 天和五年,出為宜州刺史。先是,太祖田於渭北,令熾與晉公護分射走兔,熾一日獲十七頭,護獲十一頭。護恥其不及,因以為嫌。至是,熾又以高祖年長,有勸護歸政之議,護惡之,故左遷焉。
○隋61郭衍伝
 郭衍字彥文,自云太原介休人也。父崇以舍人從魏武帝入關,其後官至侍中。衍少驍武,善騎射。周陳王純引為左右,累遷大都督。時齊氏未平,衍奉詔於天水募人,以鎮東境,得樂徙千餘家,屯於陝城。拜使持節、車騎大將軍、儀同三司。每有寇至,輒率所領禦之,一歲數告捷,頗為齊人所憚。王益親任之。
○北斉33徐之才伝
 五年冬,後主徵之才。尋左僕射闕,之才曰:「自可復禹之績。」武平元年,重除尚書左僕射。
○陳7高祖宣皇后章氏伝
 其年四月,羣臣上謚曰宣太后,祔葬萬安陵。

 ⑴竇熾(紇豆陵熾)...字は光成。生年507、時に64歳。知勇兼備の名将。北魏の高官を務める名家の出。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、関中亡命に付き従い、河橋・邙山の戦いで活躍した。552年、原州刺史とされ、善政を行なった。554年、柔然軍を撃破した。560年、柱国大将軍とされ、561年に鄧国公、564年に大宗伯とされた。のち、洛陽攻めに加わった。564年(2)参照。
 ⑵武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に28歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。569年(3)参照。
 ⑶宇文盛...字は保興。勇猛で、宇文泰の帳内となると数々の戦いで功を立てて開府・塩州刺史にまで昇った。のち趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。のち、吐谷渾討伐に参加し、延州総管とされた。564年、柱国とされた。567年、銀州に城を築き、稽胡族の白郁久同・喬是羅・喬三勿同らを討伐した。567年(4)参照。
 ⑷一昨年の5月26日~7月25日、去年の5月22日~7月24日にも醴泉宮に赴いていた。569年(2)参照。
 ⑸臨海王伯宗…もと陳の三代皇帝。在位566~568。生年552、時に17歳。二代文帝の嫡長子。559年8月に皇太子とされ、565年に元服した。文帝が死ぬと跡を継いで皇帝となった。568年、放蕩と安成王頊を除こうとしたことを理由に廃され、臨海王とされた。568年(2)参照。
 ⑹徐之才...生年492、時に79歳。幼い頃から利発で、神童と称された。口が達者で、父と同じく医術を得意とした。また、天文の事象や預言書に精通した。梁の豫章王綜に仕えたが、525年に綜が徐州から脱走して北魏に亡命すると、その混乱に巻き込まれて北魏に捕らえられ、そのままその臣下となった。その後は溢れる才技によって人気の的になり、東魏の丞相となった高歓からも非常な礼遇を受けた。のち秘書監とされたが、南人という理由で魏収と交代させられた。のち、高洋に多くの証例を持ち出して禅譲を受けるように勧め、洋が即位して文宣帝となると重用を受けた。帝が暴君となると危険を感じ、外勤を志願して趙州刺史とされた。皇建二年(561)、西兗州刺史とされた。その赴任前に武明太后が病気となると、これを治して多くの賞賜を受けた。567年に尚書右僕射、568年に左僕射とされた。上皇が病気になるとこれを治療し、重用された。5月頃に兗州刺史とされた。568年(3)参照。
 ⑺左僕射の前任は和士開。北斉書後主紀には『〔天統四年(568)〕冬十月辛巳…右僕射和士開為左僕射』とあり、『〔武平元年(570)〕秋七月…中領軍和士開為尚書令』とあり、今年の7月までにいつの間にか中領軍となっている。記述は無いが、恐らくこの時(4月)までには士開は中領軍とされていたのであろう。
 ⑻陳公純...字は堙智突。宇文泰の第九子。母は不明で、武帝の異母弟。559年に陳国公とされた。のち、保定年間(561~565)に岐州刺史とされた。565年、可汗の娘を迎えるため突厥に赴いたが抑留された。568年に解放され、可汗の娘を連れて帰国し、秦州総管とされた。568年(3)参照。


 570年(2)に続く