[北周:天和二年 北斉:天統三年 陳:天康二年→光大元年 後梁:天保五年]

●華皎の乱

 5月、壬申(2日)、突厥・吐谷渾・安息が北周に特産品を献上した。
 丁丑(7日)、北周が柱国・〔大司空・〕安武公の李穆を申国公(邑五千戸)とした。安武公の爵位は息子に迴授することを許した。

 陳の〔使持節・都督湘巴等(桂武?)四州諸軍事・安南将軍・〕湘州刺史の華皎は、韓子高が司徒の安成王頊に殺されたのを知ると身に不安を覚えるようになり[1]、〔来る戦いに備えて〕武具を修理し、兵馬を集め、管轄地の郡県長官の懐柔に務めた。
 これより前、陳の文帝二代皇帝)は漢水(襄陽方面)や三峽(蜀方面)への侵攻を目論み、皎に湘州の良杉を用いて大艦・金翅(艦種の一)など木船二百余艘や水戦兵器を造らせていた。現在、頊はたびたび皎にその大艦や金翅などを寄越すように命じたが、皎はあれこれ言い訳をして結局送らなかった。
 ある時、皎は頊の出方を窺うため、〔偽って僻地の〕広州の刺史になりたいと申し出た。すると頊はこれを許可したが、正式な任命書は出そうとしなかった。皎はそこで後梁に子の華玄響を人質に送って明帝を主君に仰ぎ、援兵を求めた。後梁は了承し、北周にも援軍を依頼した。

 癸巳(23日)、頊が丹楊尹〔・領軍将軍〕の呉明徹を使持節・散騎常侍・都督湘桂武三州諸軍事・安南将軍・湘州刺史とし、鼓吹(楽隊)一部を与えた。
 その実際の目的は、明徹に皎を奇襲させることにあった。この時、鎮東鄱陽王諮議参軍・兼太舟卿の蔡景歴を武勝将軍とし、明徹の軍司とした。
 明徹は金翅船を擁する三万の水軍を率いて郢州に急行した(ここから類推するに、金翅は軽快な速度を誇る艦種だと思われる。巡洋戦艦のようなものか?)。

 甲午(24日)、北斉が〔武興王普に代えて〕領軍大将軍の東平王儼を尚書令とした。

 乙未(25日)、鎮右将軍の杜稜を〔明徹の代わりに〕領軍将軍とした。
 
 この日、北斉の鄴都にて暴風が吹き荒れ、〔巻き上げられた砂塵によって〕昼でも夜のように暗くなり、家屋が倒壊し樹木が引き抜かれた。

○周武帝紀
 五月壬申,突厥、吐谷渾、安息並遣使獻方物。丁丑,進封柱國、安武公李穆為申國公。
○北斉後主紀
 五月甲午,太上皇帝詔以領軍大將軍、東平王儼為尚書令。乙未,大風晝晦,發屋拔樹。
○陳廃帝紀
 五月癸巳,以領軍將軍、丹陽尹吳明徹為安南將軍、湘州刺史。乙未,以鎮右將軍杜稜為領軍將軍。安南將軍、湘州刺史華皎謀反。
○周30李穆伝
 天和二年,進封申國公,邑五千戶,舊爵迴授一子。
○周48蕭巋伝
 五年,陳湘州刺史華皎、巴州刺史戴僧朔竝來附。皎送其子玄響為質於巋,乃請兵伐陳。巋上言其狀。
○陳9呉明徹伝
 及湘州刺史華皎陰有異志,詔授明徹使持節、散騎常侍、都督湘桂武三州諸軍事、安南將軍、湘州刺史,給鼓吹一部,仍與征南大將軍淳于量等率兵討皎。
○陳16蔡景歴伝
 廢帝即位,起為鎮東鄱陽王諮議參軍,兼太舟卿。華皎反,以景歷為武勝將軍、吳明徹軍司。
○陳20華皎伝
 廢帝即位,進號安南將軍,改封重安縣侯,食邑一千五百戶。文帝以湘州出杉木舟,使皎營造大艦金翅等二百餘艘,并諸水戰之具,欲以入漢及峽。韓子高誅後,皎內不自安,繕甲聚徒,厚禮所部守宰。高宗頻命皎送大艦金翅等,推遷不至。光大元年,密啟求廣州,以觀時主意,高宗偽許之,而詔書未出。皎亦遣使句引周兵,又崇奉蕭巋為主,士馬甚盛。詔乃以吳明徹為湘州刺史,實欲以輕兵襲之。是時慮皎先發,乃前遣明徹率眾三萬,乘金翅直趨郢州。

 ⑴李穆...字は顕慶。生年510、時に58歳。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓抜氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復し、楊忠の東伐に加わった。564年に柱国大将軍、565年に大司空とされた。565年(1)参照。
 ⑵華皎…代々小役人を務めた家柄の出。侯景に仕え、監禁された陳蒨(文帝)を丁重に扱ったことが縁で、その解放後に蒨の都録事とされ、会計に才能を遺憾なく発揮した。560年、監江州・督尋陽太原高唐南北新蔡五郡諸軍事・尋陽太守とされた。562年、叛乱を起こした周迪の侵攻を受けたが撃退に成功した。563年、都督湘巴等四州諸軍事・湘州刺史とされ、経営に手腕を発揮した。566年、安南将軍とされた。566年(2)参照。
 ⑶韓子高...538~567。本名は蛮子。微賤の家の生まれだったが、容姿端麗で、女性のような顔立ちをしていた。十六の時に陳蒨(文帝)に仕え、身の回りの世話をした。蒨は短気な性格だったが、いつも意にかなう事をする子高には怒ることは無かった。やがて騎射を習い、精鋭を与えられて将軍となった。気前が良く、才能がある者を抜擢したので将兵に慕われた。562年、留異討伐にて大いに活躍し、東陽太守とされた。564年、陳宝応討伐に参加した。565年、右衛将軍とされ、領軍府を鎮守した。帝が病気にかかると看病にあたった。廃帝が即位すると新安寺に屯所を移した。今年、誅殺された。567年(1)参照。
 ⑷安成王頊(キョク)...字は紹世。陳の文帝の弟。生年530、時に38歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎・射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年、帰国し、揚州刺史とされた。のち、周迪討伐の総指揮官とされた。侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇ったが、565年、部下の不始末により侍中・中書監を剥奪された。文帝が死ぬと驃騎大将軍・司徒・録尚書事・都督中外諸軍事とされ、間もなくクーデターを起こして実権を握った。567年(1)参照。
 [1]劉師知・〔到仲挙・〕韓子高らは華皎と同じく、みな文帝の親任を受けて権力を持っていた者たちだった。ゆえに、皎は〔次は自分の番かと〕不安を覚えたのである。
 ⑸明帝...蕭巋(キ)。後梁の二代皇帝。生年542、時に26歳。在位562~。初代宣帝の第三子。口が達者で、文才にも優れた。思いやりがあり、臣下の心を良く掴んだ。562年(2)参照。
 ⑹呉明徹...字は通炤。生年512、時に56歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。王琳が東伐に向かうと湓城の留守を狙ったが、迎撃に遭って敗走した。560年、武州刺史とされたが、北周軍がやってくると城を捨てて逃走した。561年に南荊州刺史、562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。564年、呉興太守とされ、565年、中領軍とされた。廃帝が即位すると領軍将軍、次いで丹陽尹とされ、安成王頊がクーデターを図るとこれに賛同した。567年(1)参照。
 ⑺蔡景歴...字は茂世。生年519、時に48歳。寒門出身の能吏。侯景の乱が起こって梁の簡文帝が景に幽閉されると、南康王会理と共に簡文帝を連れて逃げることを謀って失敗した。のち、陳覇先(武帝)に招かれて文書の作成を任された。武帝が死ぬと、文帝の即位に貢献した。のち、侯安都の誅殺に貢献した。565年、妻の兄の劉洽が景歴の威を借りて不法行為を繰り返した罪に連座し、免官処分となった。566年(2)参照。
 ⑻武興王普...字は徳広。平秦王帰彦の兄の高帰義の子。温和で心が広かった。九歲の時に帰彦と共に河州より入洛し、武成帝(上皇)兄弟と生活を共にした。天保の初年(550)に武興郡王に封ぜられた。564年の3月に〔兼?〕尚書左僕射とされ、北周が洛陽に攻めてくると迎撃のため河陽まで赴いた。566年、尚書令とされた。566年(1)参照。
 ⑼東平王儼...字は仁威。生年558、時に10歳。上皇の第三子で、後主の同母弟。母は胡后。564年に東平王とされた。
 ⑽杜稜...字は雄盛。生年503、時に65歳。呉郡の名家の生まれで、非常な読書好きだったが、長く志を得なかった。のち、陳覇先に従って書記となり、侯景の乱が起こると将軍とされた。覇先から王僧弁を討つ計画を打ち明けられた時に難色を示すと、漏洩を危惧されて首を絞められ気絶させられた。その後は主に建康の守備を任された。561年、侍中・領軍将軍とされ、565~566年に丹陽尹とされた。565年(1)参照。

●上流宰守、ほぼ皎に付く
 皎が叛旗を翻すと、長沙太守の曹慶たち配下はそのままこれに加担した。巴州刺史の戴僧朔・衡陽内史の任蛮奴・巴陵内史の潘智虔・岳陽太守の章昭裕・桂陽太守の曹宣・湘東太守の銭明も皎に付いた。

 潘智虔潘純陁の子で、幼少の頃から気概があり、二十歳の若さで巴陵内史とされた。
 章昭裕は江州刺史の章昭達の弟である。
 銭明はもと武帝の主帥(別将)で、湘州の諸郡の太守を歴任した。

 ただ、都督武州諸軍事の陸子隆のみ何度説得されても従わなかった。そこで皎は兵を派して攻めたが、陥とすことができなかった。
 また、皎は郢州刺史の程霊洗に使者を送って味方に付くよう説得したが、霊洗は使者を斬ってこの事を朝廷に報告した。頊はその忠心に甚く喜び、霊洗に鼓吹(楽隊)一部を与えると共に、霊洗の子で臨海太守の程文季に水軍を与え、金翅に乗って郢州に急行させ、防衛の手助けをさせるなど手厚い配慮を行なった。
 皎は各地に檄文を送る際、みな江州刺史の章昭達が書いたものだと称し、また、何度も昭達に使者を派して説得したが、昭達は使者をみな捕らえて建康に送った。

○陳10程霊洗伝
 華皎之反也,遣使招誘靈洗,靈洗斬皎使,以狀聞。朝廷深嘉其忠,增其守備,給鼓吹一部,因推心待之,使其子文季領水軍助防。
○陳10程文季伝
 出為臨海太守。尋乘金翅助父鎮郢城。
○陳11章昭達伝
 廢帝即位,遷侍中、征南將軍,改封邵陵郡公。華皎之反也,其移書文檄,竝假以昭達為辭,又頻遣使招之,昭達盡執其使,送于京師。
○陳20華皎伝
 巴州刺史戴僧朔,衡陽內史任蠻奴,巴陵內史潘智虔,岳陽太守章昭裕,桂陽太守曹宣,湘東太守錢明,竝隸於皎。又長沙太守曹慶等本隸皎下,因為之用。......錢明,本高祖主帥,後歷湘州諸郡守。潘智虔,純陁之子,少有志氣,年二十為巴陵內史。...章昭裕,昭達之弟...曹宣,高祖舊臣。
○陳22陸子隆伝
 華皎據湘州反,以子隆居其心腹,皎深患之,頻遣使招誘,子隆不從,皎因遣兵攻之,又不能剋。

 ⑴曹慶...もと梁(王琳)の左衛将軍・呉州刺史。潘純陁に次ぐ数の兵を率いた。559年、余孝励の救援に赴き、迂回して周迪と呉明徹を大破したが、帰還途中に侯安都に敗れた。559年(3)参照。
 ⑵戴僧朔...呉郡銭塘県の人。筋力に優れ、勇猛頑健で戦いっぷりが良かったので、族兄で右将軍の戴僧錫(逷?易?)に非常に可愛がられ、彼が高齢になると、常に兵を任されて代わりに征討を行なった。のち、王琳大破に戦功を挙げた。僧錫が亡くなると、代わりに南丹陽(南豫州の東)太守となり、採石(采石、南豫州の北)を鎮守した。562年、留異討伐に参加し、負傷した侯安都を助けるなど活躍し、壮武将軍・北江州刺史・領南陵太守とされた。のち周迪討伐にも活躍し、巴州刺史とされた。562年(3)参照。
 ⑶任蛮奴...任忠。字は奉誠、幼名は蛮奴。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の合州刺史の鄱陽王範に登用され、侯景領の寿陽を攻めた。のち王琳の配下となり、巴陵太守とされた。王琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、安湘太守とされて巴・湘の制圧に加わった。のち豫寧太守などを歴任し、陳宝応討伐に参加した。563年(5)参照。
 ⑷曹宣...もと陳覇先(陳の初代皇帝)の盪主(別将)。侯景との最終決戦の際、一城を陥とした。
 ⑸銭明...もと陳覇先の別将。556年に北斉が建康に攻めてくると、水軍を率いて北斉の兵糧船を襲い、北斉軍を困窮させた。556年(2)参照。
 ⑹潘純陁...潘純、或いは潘純陀。もと王琳の部将で、最も多くの兵の指揮を任された。侯平と共に後梁を攻めた。のち監郢州事とされ、侯安都らの攻撃を防ぎ切って琳を大勝に導いた。560年、琳に従って陳を攻めたが、大敗を喫すると琳と小舟に乗って江州に逃走し、最後は陳に降伏した。562年までに巴州刺史とされ、周迪の討伐に赴いた。562年(2)参照。
 ⑺章昭達...字は伯通。生年518、時に50歳。豪快な性格で、福相の持ち主。戦いで片目を失明した。文帝に最も信頼され、王琳との決戦では随一の武功を立てた。561年、郢州刺史とされ、翌年、周迪の討伐に赴いた。563年、護軍将軍とされ、周迪が旧領回復を図って臨川に侵攻してくるとこれを撃破し、次いで陳宝応を攻め滅ぼした。565年、江州刺史とされた。566年(2)参照。
 ⑻陸子隆...字は興世。生年524、時に44歳。もと張彪の部将。文帝が彪を討伐した際、ただ一人力戦した末に捕らえられ、帝に忠義心を気に入られて中兵参軍とされた。帝が即位すると宿衛の兵の指揮を任された。間もなく王琳の迎撃に加わり、561年、廬陵太守とされた。562年、周迪の叛乱に呼応した脩行師の侵攻を受けたが、撃退に成功した。その後は迪の討伐に加わった。陳宝応討伐の際には章昭達を救う働きを見せた。564年(4)参照。
 ⑼程霊洗...字は玄滌。生年514、時に54歳。健脚で、騎乗・水泳に達者だった。侯景の乱の際には新安にて粘り強く景に抵抗した。王僧弁が陳覇先の襲撃に遭うと救出に向かったが、力及ばず敗れて降伏した。のち、沌口にて王琳に敗れ捕らえられたが、脱走に成功した。のち、王琳との戦いに活躍し、左衛将軍とされた。564年、周迪を討って大破し、中護軍とされた。のち、郢州刺史とされた。564年(4)参照。
 ⑽程文季...字は少卿。程霊洗の子。幼少の頃から騎射に巧みで武略があり、父に似て果断だった。弱冠(二十歳)にして父の征討に従い、戦うたびに先んじて敵陣を陥とした。文帝が即位すると始興王伯茂の中直兵参軍とされ、王府の軍事をみな委任された。留異が叛乱を起こすと、新安に拠る向文政を撃破して降伏させた。その後再び伯茂の中兵参軍とされた。陳宝応討伐の際には水軍の先鋒を任され、連戦連勝した。564年(4)参照。

●討伐軍出陣
 丙申(26日)、中撫大将軍の淳于量を使持節・征南大将軍・西討大都督とし、大艦を擁する五万の水軍を与えて建康を発たせ、江州刺史の章昭達・郢州刺史の程霊洗と協力して皎を討伐させた。
 6月、壬寅(3日)、中軍大将軍・司空の徐度を使持節・車騎将軍として陸軍の総督とし、中央軍を率いて嶺路より華皎の本拠である湘州を攻めさせた。この時、頊は仮節・冠武将軍・安成内史の楊文通に安成道を通って茶陵に、巴山太守の黄法慧黄法氍の親類?)に宜陽道より澧陵に向かわせた。

 この間、陳は〔貞威将軍・豫章太守の〕徐敬成を仮節・都督巴州諸軍事・雲旗将軍・巴州刺史とし、間もなく水軍を率いて華皎討伐軍に参加するよう命じた。

 この時、陳は裴忌を総知中外城防諸軍事とし、建康の防衛を任せた。

 辛亥(12日)、北周が武帝の母の叱奴氏を皇太后とした。

 己未(20日)、北斉が皇弟の高仁幾を西河王に、高仁邕を楽浪(平?)王に、高仁倹を潁川王に、高仁雅を安楽王に、高仁直を丹陽王に、高仁謙を東海王に封じた(それぞれ上皇の第八子〜第十三子。みな字。仁邕の本名は約で、仁直は統か)。

 閏6月、庚午(1日)、北周〔の長安〕にて地震があった。

○周武帝紀
 六月辛亥,尊所生叱奴氏為皇太后。...閏月庚午,地震。
○北斉後主紀
 六月己未,太上皇帝詔封皇子仁幾為西河王,仁約為樂浪王,仁儉為潁川王,仁雅為安樂王,仁為丹陽王,仁謙為東海王。
○陳廃帝紀
 景申,以中撫大將軍淳于量為使持節、征南大將軍,總率舟師以討之。六月壬寅,以中軍大將軍、司空徐度進號車騎將軍,總督京邑眾軍,步道襲湘州。
○陳11淳于量伝
 華皎構逆,以量為使持節、征南大將軍、西討大都督,總率大艦。
○陳12徐度伝
 華皎據湘州反,引周兵下至沌口,與王師相持,乃加度使持節、車騎將軍,總督步軍,自安成郡由嶺路出于湘東,以襲湘州。
○陳12徐敬成伝
 除貞威將軍、豫章太守。光大元年,華皎謀反,以敬成為假節、都督巴州諸軍事、雲旗將軍、巴州刺史。尋詔為水軍,隨吳明徹征華皎。
○陳20華皎伝
 又遣撫軍大將軍淳于量率眾五萬,乘大艦以繼之,又令假節、冠武將軍楊文通別從安成步道出茶陵,又令巴山太守黃法慧別從宜陽出澧陵,往掩襲,出其不意,并與江州刺史章昭達、郢州刺史程靈洗等參謀討賊。...蕭巋授皎司空。...先是,詔又遣司空徐度與楊文通等自安成步出湘東,以襲皎後。
○陳25裴忌伝
 及華皎稱兵上流,高宗時為錄尚書輔政,盡命眾軍出討,委忌總知中外城防諸軍事。

 ⑴淳于量...字は思明。生年511、時に57歳。幼い頃から如才なく、姿形が立派で、才略に優れ、弓馬の扱いに秀でていた。梁の元帝の王時代からの部下で、王僧弁と共に巴陵を守備し、侯景を撃退した。元帝が即位すると桂州刺史とされ、以後そこに割拠し、陳と梁どちらにも使者を通じた。559年に陳によって征南大将軍とされた。564年、中撫軍大将軍とされて徴召を受けたが、逡巡してなかなか行こうとせず、566年にようやく建康に到着した。566年(2)参照。
 ⑵徐度...字は孝節。生年509、時に59歳。さっぱりとした性格で、容貌は堂々としていた。酒と博打を好んだ。次々と巧みな術策を考え出して陳覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。560年、侯瑱の指揮のもと王琳を大破し、北周が巴・湘の救援に向かってくると瑱と共にこれを迎撃した。561年、侯瑱に代わって湘州刺史とされた。563年、侍中・中軍大将軍とされた。566年、司空とされた。566年(2)参照。
 ⑶茶陵...《読史方輿紀要》曰く、『茶陵州は長沙府の南四百八十里にある。東四百三十里に江西の吉安府が、東南(南?)三百里に衡州府の桂陽州が、西三百十五里に衡州府がある。』
 ⑷宜陽...《読史方輿紀要》曰く、『明の袁州府の事である。袁州府は吉安府の西北二百四十里、長沙府の東四百三十里にある。』
 ⑸澧陵...《読史方輿紀要》曰く、『長沙府の東〔南〕百八十里にある。東至江西萍鄉縣百二十里,西南至湘潭縣百七十里。』
 ⑹徐敬成...陳の功臣の徐度の子。幼い頃から聡明で読書を好み、当意即妙な受け答えができた。また、文人と交流し、人を見る目に優れていることで評判となった。父の兵を率いて王琳討伐軍に加わったが、敗れて捕虜となった。のち脱走に成功し、太子舍人→洗馬とされ、度が呉郡太守とされると監呉郡とされた。天嘉二年(561)、太子中舍人とされた。度が湘州から帰ってくるとその精兵をみな受け継ぎ、陳宝応討伐に功を挙げて豫章太守とされた。564年(4)参照。
 ⑺裴忌...字は無畏。生年521、時に47歳。名将裴邃の兄の孫。幼い頃より聡明で度量があり、史書に通暁していた。陳覇先に仕え、555年に覇先がクーデターを起こして王僧弁を殺害し、僧弁の弟の王僧智が呉郡に挙兵すると、これを奇襲して陥とし、呉郡太守とされた。陳が建国されると左衛将軍とされ、文帝が即位すると南康内史とされた。のち張紹賓の乱を平定し、司徒左長史→衛尉卿とされた。563年(5)参照。
 ⑻武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に25歳。宇文泰の第四子。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。566年(2)参照。

●北周、南伐の軍を興す
 華皎と後梁の使者が長安にやってくると、大冢宰の晋公護はこれに応じて南伐の軍を出ださんとした。朝臣たちがみな口を噤む中、司会の崔猷のみ異を唱えて言った。
「三年前の東征において、我が軍は過半数が死傷しました。その傷は深く、現在に至るまで回復に努めてもまだ癒えぬほどです。近ごろ彗星が出現しておりますのは、まさに天が戦いを戒め給うたものにほかありません。であれば、我らは今、仁政を行なって天変を祓うのが当然であります。しかるに、どうして今、冢宰は大軍を興して天に再び叱責を受けるような真似をなさるのでしょうか? また、今、陳氏とは和を結んで友好関係にあります。しかるに、ただ土地が欲しいばかりに盟約に違い、その叛臣を受け入れて無名の師を興すとは何事ですか! このような醜事は、古今聞いたことがありません。」
 しかし、護は聞き入れなかった。
 戊寅(9日)、襄州総管の衛公直に柱国〔・大司冦〕の陸通・大将軍の田弘・権景宣・元定らを率いさせ、皎の救援に赴かせた。また、陰寿を監軍として軍の行動を監督させた。
 後梁も柱国〔・鎮右将軍・尚書僕射〕の王操に水軍を率いさせて援軍とした。

○周武帝紀
 戊寅,陳湘州刺史華皎率眾來附,遣襄州總管衞國公直率柱國綏德公陸通、大將軍田弘、權景宣、元定等,將兵援之,因而南伐。
○周13衛剌王直伝
 天和中,陳湘州刺史華皎舉州來附,詔直督綏德公陸通、大將軍田弘、權景宣、元定等兵赴援。
○周27田弘伝
 天和二年,陳湘州刺史華皎來附,弘從衞公直赴援。
○周28権景宣伝
 天和初,授荊州總管、十七州諸軍事、荊州刺史,進爵千金郡公。陳湘州刺史華皎舉州款附,表請援兵。
○周34元定伝
 久之,轉左武伯中大夫,進位大將軍。天和二年,陳湘州刺史華皎舉州歸梁,梁主欲因其隙,更圖攻取,乃遣使請兵。詔定從衞公直率眾赴之。
○周35崔猷伝
 天和二年,陳將華皎來附,晉公護議欲南伐,公卿莫敢正言。猷獨進曰:「前歲東征,死傷過半,比雖加撫循,而瘡痍未復。近者長星為災,乃上玄所以垂鑒誡也。誠宜修德以禳天變,豈可窮兵極武而重其譴負哉?今陳氏保境息民,共敦隣好。無容違盟約之重,納其叛臣,興無名之師,利其土地。詳觀前載,非所聞也。」護不從。
○周48蕭巋伝
 五年,陳湘州刺史華皎 、巴州刺史戴僧朔竝來附。皎送其子玄響為質於巋,乃請兵伐陳。巋上言其狀。高祖詔衞公直督荊州總管權景宣、大將軍元定等赴之。巋亦遣其柱國王操率水軍二萬,會皎於巴陵。
○大隋使持節柱国司空公趙郡武公陰使君墓誌銘
 巫俠夐嶮,夷蜑逆命,柱國陸騰,總兵南伐,晉公遣公監軍,爲其進止。

 ⑴晋公護...字は薩保。宇文泰の兄の子。生年513、時に55歳。至孝の人。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。泰が危篤となると幼い息子(孝閔王)の後見を託されたが、宰相となると瞬く間に権力を手中にし、孝閔王と明帝を毒殺して武帝を立てた。565年(2)参照。
 ⑵崔猷...字は宣猷。宇文氏の姓を与えられた。北魏の吏部尚書の崔孝芬の子。高歓に父を殺され、関中に逃れた。宇文泰に『智略抜群で、臨機応変の才覚を有している』と絶賛された。王思政が潁川に鎮所に遷すのを反対した。のち梁州刺史とされ、556年に蜀にて叛乱が起こると援軍や食糧を送って各州を助けた。晋公護の重用を受け、娘がその養女となった。明帝が即位すると御正中大夫とされ、559年に皇帝を名乗るよう進言して聴許された。560年、司会中大夫とされた。明帝が亡くなるとその子を皇帝にするよう勧めた。561年、再び梁州刺史とされ、間もなくまた司会とされた。560年(3)参照。
 ⑶衛公直...字は豆羅突。宇文泰の第六子、武帝の同母弟。母は叱奴氏。もと秦郡公。559年に蒲州の守備を任され、561年に雍州牧、562年に柱国大将軍、564年に大司空とされた。565年、襄州総管とされた。565年(1)参照。
 ⑷陸通...字は仲明。祖先は江南出身。宇文泰に早くから仕え、非常な信任を受けた。趙青雀の乱の平定や邙山の戦いに活躍した。のち、歩六孤の姓を賜った。564年に柱国大将軍、565年に大司冦とされた。565年(1)参照。
 ⑸田弘...字は広略。生年510、時に58歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。561年、岷州刺史とされた。563年・564年に楊忠の指揮のもと北斉を攻めた。566年頃に宕昌国を滅ぼした。566年(1)参照。
 ⑹権景宣...字は暉遠。軍略に優れ、主に東南方面にて活躍した。のち、その軍事を一任された。のち、基鄀硤平四州五防諸軍事・江陵防主とされ、大将軍に任ぜられた。564年、洛陽攻めに連動して豫州を攻め、降伏させた。566年、荊州総管・十七州諸軍事・荊州刺史とされた。564年(6)参照。
 ⑺元定...拓跋定。字は願安。北魏の宗室の出。口数が少なく、誠実で人情に厚かった。爾朱天光→賀抜→宇文泰に従い、数々の戦いにおいて先鋒を務め、戦えば必ず敵陣を陥としたが、その手柄を一度たりとも主張しなかったため泰に重んじられ、諸将からもその長者ぶりを称賛された。邙山の戦いでは多くの敵兵を殺傷して一番の功を立てた。549年に開府儀同三司とされ、553年、宗室であることから建城郡王とされたが、554年、周礼の施行によって長湖郡公に改められた。557年に岷州刺史とされると善政を行なった。保定年間に左宮伯中大夫→左武伯中大夫とされ、大将軍とされた。
 ⑻陰寿…字は羅雲。生年543、時に25歳。文武両道の能吏。宇文護の内親信とされ、のち大都督・中外府騎兵曹とされた。
 ⑼王操…字は子高。明帝の祖母・龔氏の外弟。誠実な性格で智謀があり、大変な読書家だった。勤勉に働き、宣帝から蔡大宝に次ぐ信任を得た。558年、王琳の東下の隙を突いて長沙・武陵・南平などの諸郡を攻略した。558年(3)参照。

●斛律金の死
 辛巳(12日)、北斉の左丞相・咸陽王の斛律金が逝去した(享年80)。上皇は西堂にて哀悼の儀式を行ない、後主も晋陽宮にて(後主は去年の正月から晋陽に滞在)哀悼の儀式を行なった。仮黄鉞・使持節・都督朔定冀并瀛青斉滄幽肆晋汾十二州諸軍事・相国・太尉公・録尚書・朔州刺史を追贈し、第一領民酋長・王についてはそのままとした。また百万銭を遺族に贈り、武と諡した。
 金は質実剛健な性格で、文字を知らなかった。本名(勅勒名)は敦(阿六敦)といったが、敦の字を書くのが難しかったので簡単に書ける金に改名した。しかし、それでもまだ難しいと考えた。そこで司馬子如が金の字を家に見立てて書き方を教えると、ようやく書けるようになった。高歓上皇の父。東魏の実力者)は金の古人のような質実さを重んじ、高澄上皇の兄。皇帝になる寸前に横死した)にいつもこう戒めて言った。
「お前は漢人を多く用いているが、彼らが金を讒言してきても信じるでないぞ。」
 金の長子の斛律光は大将軍まで昇り、次子の斛律羨と孫の斛律武都は共に開府儀同三司とされてそれぞれ幽州刺史と梁・兗二州刺史に任ぜられ、その他の子孫たちも非常に多くが侯爵とされ、顕貴の地位にのぼった。二人の孫娘は太子妃(孝昭帝の太子百年の妃)と皇后(後主の皇后)になり、三人の孫たち(光の息子の武都・世雄・恒伽)はみな公主を娶った。この富貴栄華ぶりに比肩する者は誰もいなかった。ただ、金は栄寵ぶりに喜ぶことなく、あるとき光にこう言った。
「わしは本を読んだことが無いが、梁冀らを筆頭に多くの外戚が破滅の憂き目に遭ったことは知っている。〔なぜ外戚は破滅するか。それは、〕女が寵愛を受ければ貴族連中のやっかみを受け、寵愛を受けなければ天子に憎まれるからだ。しかし、我が一家は忠勤によって富貴を得たのだ。女のおかげではない。」
 金は帝から賞賜を与えられるたびに辞退したが、辞退できないといつもこれがもとで何か悪いことが起きるのではないかと心配した。

 金の子の斛律光斛律羨は喪に服して官を去ったが、月を跨がぬうちに朝廷は二人を前職に復帰させた。

○北斉後主紀
 閏六月辛巳,左丞相斛律金薨。壬午,太上皇帝詔尚書令、東平王儼錄尚書事,以尚書左僕射趙彥深為尚書令,并省尚書左僕射婁定遠為尚書左僕射,中書監徐之才為右僕射。
○北斉17・北54斛律金伝
〔金性質直,不識文字。本名敦,苦其難署,改名為金,從其便易,猶以為難。司馬子如教為金字,作屋況之,其字乃就。神武重其古質,每誡文襄曰:「爾所使多漢,有讒此人者,勿信之。」〕...金長子光大將軍,次子羨及孫武都並開府儀同三司,出鎮方岳,其餘子孫皆封侯貴達。一門一皇后,二太子妃,三公主,尊寵之盛,當時莫比。金嘗謂光曰:「我雖不讀書,聞古來外戚梁冀等無不傾滅。女若有寵,諸貴妬人;女若無寵,天子嫌人。我家直以立勳抱忠致富貴,豈可藉女也?」辭不獲免,常以為憂。天統三年薨,年八十。世祖舉哀西堂,後主又舉哀於晉陽宮。贈假黃鉞、使持節、都督朔定冀幷瀛青齊滄幽肆晉汾十二州諸軍事、相國、太尉公、錄尚書、朔州刺史,酋長、王如故,贈錢百萬,諡曰武。
○北斉17斛律光伝
 三年六月,父喪去官,其月,詔起光及其弟羨並復前任。
○北斉17斛律羨伝
 其年六月,丁父憂去官,與兄光並被起復任,還鎮燕薊。

 ⑴斛律金...字は阿六敦。時に80歳。敕勒族の出で、もと爾朱栄の部将。地の臭いを嗅いで敵の接近を、敵軍の上げる土煙でその兵数の多寡を知ることができた。栄が死ぬと高歓に従ってその勢力拡大に貢献した。のち、歴代の君主から非常な寵遇を受けた。562年(1)参照。
 ⑵上皇...高湛。もと北斉の四代皇帝の武成帝。在位561~565。生年537、時に31歳。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。565年、太子に位を譲って上皇となった。567年(1)参照。
 ⑶後主...高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に12歳。上皇(武成帝)の長子。端正な顔立ちをしていて、父に最も可愛がられた。565年、父から位を譲られて皇帝となった。567年(1)参照。
 ⑷司馬子如...字は遵業。490~553。高歓の大親友。四貴の一人。野卑な性格を批判されたが、姉によく仕え、兄たちの子に優しく接し、名士たちを敬愛したことは称賛された。頭脳明晰で口が達者だったため、爾朱栄に仕えると重用を受け、要地の防衛を任されたり、孝荘帝への使者にされたりした。栄が誅殺されると爾朱世隆に引き返して歓が洛陽を攻めるよう進言した。高歓が叛乱を起こすと疑われて南岐州刺史とされ、歓が爾朱氏を滅ぼすと洛陽に呼ばれて右腕とされた。のち、歓の親友であることをいいことに汚職を繰り返したが、高澄に弾劾されて一時監禁されると心を入れ替えて仕事に取り組むようになった。のち、崔暹・崔季舒を死刑に追い込もうとしたことが問題視されて再び免官に遭った。
 ⑸斛律光...字は明月。生年515、時に53歳。北斉の名将。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。563年、突厥・北周連合軍が晋陽に攻めてくると、晋州の守備を任された。564年、司徒とされ、突厥を討った。北周が洛陽に攻めてくると五万騎を率いて救援に赴き、これを大破し、王雄を自らの手で射殺した。その功により大尉とされた。565年、大将軍とされた。565年(2)参照。
 ⑹斛律羨...字は豊楽。斛律光の弟。騎射に長じた。553年に武衛大将軍とされた。のち、孝昭帝の代に領軍将軍とされ、鄴に赴いたが、長広王湛(武成帝)の警戒を受け任に就けなかった。564年、都督幽安平南北營東燕六州諸軍事・幽州刺史とされると幽州に侵攻してきた突厥を撃退し、突厥から『南面可汗』と呼ばれて恐れられた。565年(2)参照。
 ⑺斛律武都...斛律光の長子。文宣帝の娘(義寧公主)を娶った。特進・太子太保・開府儀同三司・梁兗二州刺史を歴任した。任地では政績を挙げることなく住民の搾取に血道をあげた。
 ⑻梁冀...後漢の外戚。政治を専断し、質帝から『跋扈将軍』と呼ばれた。最後は宦官の協力を得た桓帝によって誅殺され、族滅に遭った。

●尉瑾の死
 北斉の尚書右僕射の尉瑾が病死した(詳細な時期は不明)。この時、上皇は三台にて宴会を開いていたが、高文遥からこの事を訊くと、宴会を取り止めて哀悼の意を示した。
 瑾は貴人の身分にはなったが、好色で女性関係に節度が無く、亡兄の妻の元氏と関係を持ったりしたため、人々から蔑まれた、ある時、瑾は吏部郎中で頓丘の人の李構を非難して言った。
「郎は古制に通じておらぬ。」
 構は令史(尚書省の下級役人)にこう言った。
「確かに私は古制に通じていないが、兄嫁と関係を持つのは古制にあるのだろうか?」
 瑾はこれを聞くと大いに恥じ入った。
 ただ、身分の低い者にも謙虚に接した。心は名族との交流に向けられていたが、分け隔てはしなかった。賈彦始は学者のように風貌が地味だったが、瑾は陳の使者に相応しい人物だと称賛した。司徒戸曹の祖崇儒は文章の才能も弁舌の才能もそこまで優れていなかったが、瑾は彼の才能を当世一と絶賛した。
 また、南朝人が勢いよく喋ったり歩いたりする様を好んで真似したが、これも嘲笑の的となった。また、人に会うと良く笑ったが、論者はこれを寒蟬(ツクツクボウシやヒグラシ)に準えた。また、立ち居振る舞いが軽々しかった。ある時、子の尉徳載を蒲の穂の鞭(痛くない)で叩いて叱ると、井戸の中に逃げられた。すると瑾は井戸の上からこう叫んで言った。
「息子よ、出てこい!」
 これを聞いた者はみな笑った。
 偉くなると非常に怒りっぽくなり、役所の郎中が何か意見しようとすると、すぐさま罵声を浴びせて全く聞こうとしなかった。吏部尚書となって人事権を握るようになると、ますます傲慢・残忍になった。
 瑾の姻戚の皮子賤は瑾への推薦を餌に人々から賄賂を荒稼ぎした。瑾の死後、この行為に怒っていた弟の皮静が告発すると、子賤は鞭二百の刑に処され、北営州(北辺)に流された。
 これより前、瑾が梁に使いした時(545年10月に鄴を出立)、陳昭という人相を観るのが上手い者が瑾に会ってこう言った。
「あなたは二十年後に宰相(右僕射)になるでしょう。」(つまり瑾が梁に到着したのは546年頃?
 瑾が退出すると、密かに人にこう言った。
「あのお方は宰相になった後、三年以内に死ぬだろう。」
 昭はのちに兼散騎常侍とされ、陳の正使として北斉に赴いた。この時、瑾は兼右僕射となっており(566年頃)、彼が外出する時には先払いの騎兵が前を進み、楽隊が銅鑼と笛を鳴らしていた。昭はまた人にこう言った。
「二年以内に死ぬだろう。」
 果たしてその言葉通りになったのだった。

○北斉40・北20尉瑾伝
 病卒。世祖方在三臺飲酒(饗宴),文遙奏聞,遂命徹樂罷飲。瑾外雖通顯,內闕風訓,閨門穢雜,為世所鄙。〔有女在室,忽從奔誘,瑾遂以適婦姪皮逸人。瑾又通寡嫂元氏。瑾嘗譏吏部郎中頓丘李構云:「郎不稽古。」構對令史云:「我實不稽古,未知通嫂得作稽古不?」瑾聞大慚。〕然亦能折節下士,意在引接名流,但不別之。〔有賈彥始者,儀望雖是儒生,稱堪充聘陳使。司徒戶曹祖崇儒,文辯俱不足,言將為當世莫及。好學吳人搖脣振足,為人所哂。見人好笑,時論比之寒蟬。又少威儀,子德載,以蒲鞭責之,便自投井,瑾自臨井上,呼云:「兒出!」聞者皆笑。〕及官高任重,便大躁急,省內郎中將論事者,逆即瞋詈(罵),不可諮承。既居大選,彌自驕狠。〔皮子賤恃其親通,多所談薦,大有受納。瑾死後,其弟靜忿而發之。子賤坐決鞭二百,配北營州。初,瑾為聘梁使,梁人陳昭善相,謂瑾曰:「二十年後當為宰相。」瑾出,私謂人曰:「此公宰相後,不過三年,當死。」昭後為陳使主,兼散騎常侍,至齊。瑾時兼右僕射,鳴騶鐃吹。昭復謂人曰:「二年當死。」果如言焉。德載位通直散騎侍郎。〕

 ⑴尉瑾…字は安仁。北魏の肆州刺史の尉慶賓の子。幼少の頃より聡明で、学問を好んだ。名族であることを以て次第に昇進して直後となった。のち司馬子如(高歓の親友。四貴の一人)が尚書令とされると、その親戚の娘を娶っていた関係で中書舍人に抜擢され、勲貴らと親しい関係を築いた。のち吏部郎中とされた。文宣帝が即位すると高徳政と共に機密を掌った。高演(孝昭帝)が宰相となると吏部尚書とされた。566年、尚書右僕射とされた。567年(4)参照。
 ⑵今は仮に右僕射が尉瑾から徐之才に変わる記事の前に置いた。
 ⑶高文遥…元文遥。字は徳遠。北魏の昭成帝の七世孫。五世祖は常山王遵。美男。幼い頃より聡明で、「王佐の才がある」「千里の駒」「穰侯の印を解き得る者」と評された。文宣帝時代に中書舍人や尚書祠部郎中とされ、元氏大虐殺の対象から除外された。孝昭帝が即位すると中書侍郎とされ、国家の重要事項の処理を任された。帝が亡くなると後事を託され、武成帝(上皇)を迎え入れた。のち、財政を任された。566年、高姓を賜与された。566年(2)参照。
 ⑷李構…字は祖基。北魏の名臣の李崇の一族。真っ直ぐで清廉だったため、名士たちから尊重を受けた。太府卿まで昇った。
 ⑸賈彦始…儒学者の賈思伯の子。武定年間(543~550)に淮陽太守を務めた。
 ⑹祖崇儒…祖珽の族弟。読書家で文才があり、事務処理能力が高かった。

●叙任
 壬午(13日)、北斉が尚書令の東平王儼を録尚書事とし(5月24日に尚書令とされていた)、尚書左僕射の趙彦深を尚書令とし、并省(晋陽)尚書左僕射の婁定遠を尚書左僕射とし、中書監の徐之才を右僕射とした。
 婁定遠婁昭の次子で、外戚の中でもっとも上皇に気に入られ、若くして顕官を歴任した。

 壬辰(23日)、北周が大将軍の譙公倹を柱国大将軍とした。

 癸巳(24日)、陳が〔使持節・都督南琅邪彭城東海三郡諸軍事・〕雲麾将軍〔・彭城琅邪二郡太守〕の新安王伯固を丹陽尹とした。


○周武帝紀
 壬辰,以大將軍、譙國公儉為柱國。
○北斉後主紀
 壬午,太上皇帝詔尚書令、東平王儼錄尚書事,以尚書左僕射趙彥深為尚書令,并省尚書左僕射婁定遠為尚書左僕射,中書監徐之才為右僕射。
○陳廃帝紀
 閏月癸巳,以雲麾將軍新安王伯固為丹陽尹。
○北斉15婁定遠伝
 次子定遠 ,少歷顯職,外戚中偏為武成愛狎。
○陳36新安王伯固伝
 廢帝嗣立,為使持節、都督南琅邪彭城東海三郡諸軍事、雲麾將軍、彭城琅邪二郡太守。尋入為丹陽尹,將軍如故。

 ⑴趙彦深...本名隠。生年507、時に61歳。高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄・文宣帝に重用を受け、依然として機密に携わった。555年、東南道行台とされて梁の秦郡などを攻略した。楊愔が誅殺されると、代わりに宰相とされた。565年、尚書左僕射とされた。565年(2)参照。
 ⑵徐之才...生年492、時に76歳。幼い頃から利発で、神童と称された。口が達者で、父と同じく医術を得意とした。また、天文の事象や預言書に精通した。梁の豫章王綜に仕えたが、525年に綜が徐州から脱走して北魏に亡命すると、その混乱に巻き込まれて北魏に捕らえられ、そのままその臣下となった。その後は溢れる才技によって人気の的になり、東魏の丞相となった高歓からも非常な礼遇を受けた。のち秘書監とされたが、南人という理由で魏収と交代させられた。のち、高洋に多くの証例を持ち出して禅譲を受けるように勧め、洋が即位して文宣帝となると重用を受けた。帝が暴君となると危険を感じ、外勤を志願して趙州刺史とされた。皇建二年(561)、西兗州刺史とされた。その赴任前に武明太后が病気となると、これを治して多くの賞賜を受けた。
 ⑶婁昭...字は菩薩。?~548。上皇の母の同母弟。正直な性格で度量が大きく、優れた智謀を有していた。腰回りは八尺もあり、弓と馬の扱いは抜群のものがあった。早くから高歓の才能を見抜き、歓の雄飛に貢献した。樊子鵠の乱の平定に活躍し、大司馬・司徒・定州刺史を歴任した。548年(2)参照。
 ⑷譙公倹...字は侯幼突。生年551(《譙忠孝王墓誌》)、時に17歳。宇文泰の第八子。母は不明。559年に譙国公に封ぜられた。
 ⑸新安王伯固...字は牢之。生年555、時に13歳。文帝の第五子。母は潘容華。生まれつき亀胸(鳩胸)で、目が白く(先天性白内障?)、体つきも小さかったが、口は達者で議論を得意とした。565年、新安王とされた。565年(2)参照。

●露門学
 秋、7月、甲辰(4日)、北周が露門学を設置し蕭撝・唐瑾・元偉・王褒ら四人を文学博士とし、七十二人の学生を教育させた。

 戊申(10日)、陳が皇子の陳至沢を皇太子とした。

 この年、北周が太傅・燕国公の于謹に安車(座ることのできる小さな馬車)一台を与えた。
 壬子(14日)、謹を雍州牧とした。

○周武帝紀
 秋七月...甲辰,立露門學,置生七十二人。...壬子,以太傅、燕國公于謹為雍州牧。
○周15于謹伝
 天和二年,又賜安車一乘。尋授雍州牧。
○周42蕭撝伝
 及撝入朝,屬置露門學。高祖以撝與唐瑾、元偉、王褒等四人俱為文學博士。

 ⑴露門...路門。宮殿最奥の門。宮殿には五門があり、手前から皐門・庫門・雉門・応門・露(路)門がある。
 ⑵隋39豆盧勣伝には『明帝時,為左武伯中大夫。勣自以經業未通,請解職遊露門學。帝嘉之,勑以本官就學』とある。麟趾学の誤りか?
 ⑶蕭撝...字は智遐。梁の武帝の弟の安成王秀の子。温厚な性格で、読書や作詩を趣味とした。立ち居振る舞いに気品があり、東魏の使者がやってくるとその接待を任された。のち巴西梓潼二郡守とされ、侯景の乱が起こると武陵王紀の配下となり、紀が即位すると侍中・中書令・秦郡王とされた。紀が江陵攻めに向かうと益州の留守を任され、西魏が攻めてくると五旬に亘って成都を防衛したのち降伏した。のち開府儀同三司・黄台郡公とされ、明帝の代に麟趾学にて書籍の校定や世譜の編纂を行なった。のち礼部中大夫や上州刺史を務めた。
 ⑷唐瑾...字は附璘。北魏の名将の唐永の子。八尺二寸の長身で、非常に立派な容姿をしていた。穏やかで控えめな性格で、読書と作詩を趣味とした。沙苑の戦い以前から宇文泰に仕えて相府記室参軍事となり、多くの命令書の作成に携わった。のち、尚書右丞・吏部郎中とされ、周恵達と共に古い文献を斟酌して礼楽を完備するのに貢献した。のち戸部尚書・開府儀同三司とされ、宇文氏の姓を与えられたが、瑾の才能を気に入った于謹の申し出により、謹と同じ万紐于氏の姓に改められた。江陵征伐の際にはその作戦計画の大半を考案し、江陵を陥とすと書籍だけを得て帰った。のち礼部・吏部・御正・納言中大夫や諸州の刺史を務めた。554年(4)参照。
 ⑸元偉...字は猷道(または子猷)。拓跋什翼犍(昭成帝)の子孫。元順の子。穏やかで上品な人柄で、学問を好んだ。伐蜀の際、尉遅迥の軍府の司録となり、軍府の出す文書の全てを一人で作成した。北周が建国されると宇文護の司録となった。明帝が即位すると師氏中大夫とされ、麟趾学にて書籍の校正を行なった。のち隴右総管府長史・開府儀同三司とされ、562年に成州刺史、天和元年に匠師中大夫とされた。562年(6)参照。
 ⑹王褒…字は子淵。名門琅邪の王氏の出身。もと梁の臣。梁の元帝の旧友。名文家・能書家。帝に非常に信任された。首都江陵が西魏によって陥とされると長安に連行され、北周の明帝や武帝を始め多くの人士たちから尊敬を受けた。566年(1)参照。
 ⑺陳至沢...生年566~。陳の三代廃帝の長子。母は王氏。
 ⑻于謹...字は思敬。生年493、時に75歳。八柱国の一人で、北周の元勲。冷静沈着の名将。姓を元の万紐于氏に復した。554年、梁の首都の江陵を陥とす大功を挙げた。563年、三老に任ぜられた。564年、宇文護が北斉討伐に赴くと、その相談役となった。564年(4)参照。


 567年(3)に続く