[北周:保定六年→天和元年 北斉:天統二年 陳:天嘉七年→天康元年 後梁:天保四年]

●新体制

 庚寅(5月14日)、陳が驃騎将軍・司空・揚州刺史・新除尚書令の安成王頊を驃騎大将軍・司徒・録尚書・都督中外諸軍事とし、班剣(儀仗兵。功臣に与える)三十人を与えた。
 丁酉(21日)、〔侍中・〕中軍大将軍・開府儀同三司の徐度を司空とし、鎮南将軍・開府儀同三司・江州刺史の章昭達を侍中・征南将軍とし、鎮東将軍・東揚州刺史の始興王伯茂を征東将軍・開府儀同三司とし、平北将軍・南徐州刺史の鄱陽王伯山を鎮北将軍とし、吏部尚書の袁枢を左僕射とし、雲麾将軍・呉興太守の沈欽を右僕射とし、新除中領軍の呉明徹を領軍将軍とし、新除中護軍の沈恪を護軍將軍とし、平南将軍・湘州刺史の華皎を安南将軍とし、散騎常侍・御史中丞の徐陵(11)を吏部尚書とし、大著作を兼任させた。



○陳廃帝紀
 庚寅,以驃騎將軍、司空、揚州刺史、新除尚書令安成王頊為驃騎大將軍,進位司徒、錄尚書、都督中外諸軍事。丁酉,中軍大將軍、開府儀同三司徐度進位司空;鎮南將軍、開府儀同三司、江州刺史章昭達為侍中,進號征南將軍;鎮東將軍、東揚州刺史始興王伯茂進號征東將軍、開府儀同三司;平北將軍、南徐州刺史鄱陽王伯山進號鎮北將軍;吏部尚書袁樞為尚書左僕射;雲麾將軍、吳興太守沈欽為尚書右僕射;新除中領軍吳明徹為領軍將軍;新除中護軍沈恪為護軍將軍;平南將軍、湘州刺史華皎進號安南將軍;散騎常侍、御史中丞徐陵為吏部尚書。
○陳宣帝紀
 廢帝即位,拜司徒,進號驃騎大將軍,錄尚書,都督中外諸軍事,給班劔三十人。
○陳12徐度伝
 世祖崩,度預顧命,以甲仗五十人入殿省。

 ⑴安成王頊(キョク)...字は紹世。陳の文帝の弟。生年530、時に37歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年、帰国し、揚州刺史とされた。のち、周迪討伐の総指揮官とされた。侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇ったが、去年、部下の不始末により侍中・中書監を剥奪された。566年(1)参照。
 ⑵徐度...字は孝節。生年509、時に58歳。さっぱりとした性格で、容貌は堂々としていた。酒と博打を好んだ。次々と巧みな術策を考え出して陳覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。560年、侯瑱の指揮のもと王琳を大破し、北周が巴・湘の救援に向かってくると瑱と共にこれを迎撃した。561年、侯瑱に代わって湘州刺史とされた。563年、侍中・中軍大将軍とされた。563年(1)参照。
 ⑶章昭達...字は伯通。生年518、時に49歳。豪快な性格で、福相の持ち主。戦いで片目を失明した。文帝に最も信頼され、王琳との決戦では随一の武功を立てた。561年、郢州刺史とされ、翌年、周迪の討伐に赴いた。563年、護軍将軍とされ、周迪が旧領回復を図って臨川に侵攻してくるとこれを撃破し、次いで陳宝応を攻め滅ぼした。565年、江州刺史とされた。565年(2)参照。
 ⑷始興王伯茂...字は鬱之。文帝の第二子。559年8月に始興王とされ、561年に揚州刺史、562年に東揚州刺史とされた。562年(4)参照。
 ⑸鄱陽王伯山...字は静之。生年550、時に17歳。陳の二代文帝の第三子。立派な容姿をしていて、立ち居振る舞いに品があり、喜怒の感情を表に出さなかったので、文帝に非常に可愛がられた。560年、鄱陽王とされた。565年、南徐州刺史とされた。565年(2)参照。
 ⑹袁枢...字は践言。生年517、時に50歳。名門陳郡袁氏の出身で、梁の呉郡太守の袁君正の子。美男子で、物静かな性格をしており、読書を好み、片時も本を手離さなかった。質素な生活を送り、交際をせず、無欲恬淡としていた。王僧弁が侯景を討って建康を鎮守すると、貴族たちが争ってご機嫌伺いに行く中、一人家に閉じこもり、出世を求めなかった。陳覇先が僧弁を討って実権を握ると人事を司った。栄達したのちも、生活態度は昔のままだった。566年(1)参照。
 ⑺沈欽...生年503、時に64歳。沈皇太后の兄。無能だったが、外戚であったため重用を受けた。文帝が即位すると会稽太守→侍中・左衛将軍・衛尉卿とされ、565年に中領軍とされた。565年(1)参照。
 ⑻呉明徹...字は通炤。生年512、時に55歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。非常な孝行者。陳覇先の熱い求めに応じてその配下となり、幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。王琳が東伐に向かうと湓城の留守を狙ったが、迎撃に遭って敗走した。560年、武州刺史とされたが、北周軍がやってくると城を捨てて逃走した。561年に南荊州刺史、562年に江州刺史とされて周迪の討伐を命じられたが、軍を良くまとめられず更迭された。564年、呉興太守とされ、565年、中領軍とされた。565年(2)参照。
 ⑼沈恪...字は子恭。生年509、時に58歳。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。陳覇先(武帝)と同郡の生まれで非常に仲が良く、王僧弁襲撃を事前に知らされた一人となった。558年、周迪の救援に赴いた。559年、東南部の軍事を任された。561年、中央に召されて左衛将軍とされた。のち、郢州刺史とされた。565年、中護軍とされた。565年(2)参照。
 ⑽華皎…代々小役人を務めた家柄の出。侯景に仕え、監禁された文帝を丁重に扱ったことが縁で、その解放後に帝の都録事とされ、会計に才能を遺憾なく発揮した。560年、監江州・督尋陽太原高唐南北新蔡五郡諸軍事・尋陽太守とされた。562年、叛乱を起こした周迪の侵攻を受けたが撃退に成功した。563年、都督湘巴等四州諸軍事・湘州刺史とされ、経営に手腕を発揮した。564年(2)参照。
 (11)徐陵...字は孝穆。名文家の徐摛の子。生年507、時に60歳。文才があり、庾信と並び称された。また、弁舌にも長けた。548年7月に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発したため、帰国できなくなった。555年、帰国を許された。565年に御史中丞とされると、権勢を誇っていた安成王の部下を容赦なく弾劾した。565年(1)参照。

●今毛玠・徐陵
 徐陵は梁末から官吏の任用が乱れてしまったと感じており、自分が吏部尚書となってからは、名声と実力が本当に釣り合っているか精査してから任用するようにした。当時、実力が無いのに上辺だけを良く見せかけて出世を願う者が多かった。陵はこのような風潮を一掃するため、このような告示を張り出して言った。
「古来より、吏部尚書の役目は、人物の才能や家柄の高下を良く吟味して相応しい官職に就けることにある。ただ、梁の元帝の時(552~554)は侯景の乱が、王太尉王僧弁)の時(554~555)は荊州の失陥が起きた後であったため、官吏の任用は自然と雑然としたものとなった。永定の時(557~559)に我が国家が建国されても、依然として戦乱は続いたため、官吏の任用は引き続き秩序のないものとなった。当時、国の倉庫は空っぽで、賞賜に使う金品が不足していたため、国家は入手が困難な白銀(財貨)よりも、入手が容易な黄札(任命書)を賞賜に用い、官位を以て銭や絹の代わりとした。この行為は人心を収攬するために必要であったため、野放図に行なわれ、員外散騎常侍は路上にて肩を並べ、諮議参軍は市中に溢れかえる有様となってしまった。国の綱紀上からいって、このようなことが許されていいものであろうか? 現在、〔天下は平定され、〕社会の秩序は日々回復に向かっている。このような時に、これまでのような考えは通用しない。私が見るところ、諸君らの多くが本分を超えた官職に就いている。しかるに、諸君らはなお抑圧を受けていると称し、分外の望みを抱いていることに気づかないでいる。もし、梁朝の領軍の朱异が卿相(大臣)の職に就いたとしたら、それは本分を超えたものではないだろうか? 〔何故なら、〕异は天子の抜擢によって官界に入った者であり、公式の登用制度を経た者では無いからである。梁の武帝はこう言った。『人々が長者(貴族)を重んじているのに、私一人が重んじないわけにはいかぬ』。〔劉〕宋の文帝もこう言った。『人が出世するには、才能だけでなく、めぐり合わせ(血筋・家柄)も必要である。清官(高官)に欠員が出るまでは、羊玄保を昇進させられぬ』。これらの言葉は、即ち清官・顕職に就くには、人の手では左右できぬ何かが必要であることを指しているのだ。秦が〔中〕車府令の趙高をいきなり丞相とし、〔前〕漢が高廟()令の田千秋をいきなり丞相としたのがそのいい例ではないだろうか(それなら朱异も丞相になっていいような気がするが...)? 私が吏部尚書となったからには、この点をはっきりとさせて任用を行なう。賢明なる諸君たちは、我が意思をよく理解するよう。」
 これ以降人々は陵に感服し、彼を毛玠に比した。


○陳26徐陵伝
 天康元年,遷吏部尚書,領大著作。陵以梁末以來,選授多失其所,於是提舉綱維,綜覈名實。時有冒進求官,諠競不已者,陵乃為書宣示曰:「自古吏部尚書者,品藻人倫,簡其才能,尋其門冑,逐其大小,量其官爵。梁元帝承侯景之凶荒,王太尉接荊州之禍敗,爾時喪亂,無復典章,故使官方,窮此紛雜。永定之時,聖朝草創,干戈未息,亦無條序。府庫空虛,賞賜懸乏,白銀難得,黃札易營,權以官階,代於錢絹,義存撫接,無計多少,致令員外、常侍,路上比肩,諮議、參軍,市中無數,豈是朝章,應其如此?今衣冠禮樂,日富年華,何可猶作舊意,非理望也。所見諸君,多踰本分,猶言大屈,未喻高懷。若問梁朝朱領軍异亦為卿相,此不踰其本分邪?此是天子所拔,非關選序。梁武帝云『世間人言有目色,我特不目色范悌』。宋文帝亦云『人世豈無運命,每有好官缺,輒憶羊玄保。』此則清階顯職,不由選也。秦有車府令趙高直至丞相,漢有高廟令田千秋亦為丞相,此復可為例邪?既忝衡流,應須粉墨。所望諸賢,深明鄙意。」自是眾咸服焉,時論比之毛玠。

 ⑴朱异...梁の武帝の寵臣。非常に有能だったが寒門出身だったため出世できなかった。
 ⑵羊玄保...劉宋の名臣。真面目さと清貧さと碁に通じていたことで文帝から重用を受けた。
 ⑶趙高...秦の宦官。二世皇帝から寵用を受け、丞相とされた。
 ⑷田千秋...車千秋。前漢の人。太子の無実を明らかにした功により、高寝郎から丞相とされた。
 ⑸毛玠...曹操時代に人事を担当した。心から誠実な者を任用し、上辺を飾った者を排した。順序を重視し、曹丕(魏の文帝)からお気に入りの者を抜擢するよう依頼されても拒否した。

●破綻者・陳暄
 陳慶之の末子の陳暄は、誰からも教えを受けることなく素晴らしい詩文を作れるようになった文才の持ち主だったが、酒好きで素行が悪く、王公の屋敷を訪れては大声で騒ぎ立てて傲慢無礼な態度を取った。そのため中正から推挙を受けることができず、現在に至るまで官途に就くことができなかった。
 徐陵が吏部尚書となると、暄は玉のかんざしを髻に挿し、紅色の糸で織った頭巾で髻を包み、くるぶしまで届く長袍と膝まで届く長靴を身につけた〔派手な姿で〕吏部の役所に赴き、官爵や郷里を述べることなく一直線に中に入って陵に面会した。しかし陵は暄を知らなかったので、部下に命じて外に追い出させた。しかし暄は澄ました顔でゆっくりと步いて出て行き、最後まで恥じるそぶりを見せなかった。家に帰ると書状を書いて陵を非難し、陵を酷く悩ませた。

○南61陳暄伝
〔陳慶之第五子昕…〕少弟暄,學不師受,文才俊逸。尤嗜酒,無節操,徧歷王公門,沈湎諠譊,過差非度。...暄以落魄不為中正所品,久不得調。陳天康中,徐陵為吏部尚書,精簡人物,縉紳之士皆嚮慕焉。暄以玉帽簪插髻,紅絲布裹頭,袍拂踝,靴至膝,不陳爵里,直上陵坐。陵不之識,命吏持下。暄徐步而出,舉止自若,竟無怍容。作書謗陵,陵甚病之。

 ⑴陳慶之...484~539。梁の名将。武勇には優れなかったが統率力に優れ、529年に北魏の亡命皇族を戴いて一路魏都洛陽に突進し、陥落させることに成功した。

●北周、岐州に諸城を築く
 己亥(5月23日)、北斉が上皇の子の高仁弘名は廓、仁弘は字。上皇の第四子)を斉安王とし、高仁堅名は貞、仁堅は字。上皇の第五子)を北平王とし、高仁英上皇の第六子。本名は不明)を高平王とし、高仁光を淮南王とした。
 6月、兼散騎常侍の韋道儒を陳に派遣した。

 丙午(1日)、北周が大将軍・〔小司馬・〕枹罕公の辛威を柱国大将軍とした。


 辛亥(6日)、陳が翊右将軍(三品級)・右光禄大夫の王通を安右将軍(三品級)とした。
 甲子(19日)、陳が先帝の陳蒨に文皇帝と諡し、廟号を世祖とした。
 丙寅(21日)文帝を永寧陵に埋葬した。

 秋、7月、戊寅(3日)、北周が武功・郿・斜谷・武都・留谷・津坑()に城を築いた(岐州の渭水流域に城を築いたのである。理由は不明)。


 丁酉(22日)、陳が王妃を皇后とした。

 8月、北斉の上皇が晋陽に赴いた(2月3日から鄴に滞在していた)。

○周武帝紀
 六月丙午,以大將軍、枹罕公辛威為柱國。秋七月戊寅,築武功、郿、斜谷、武都、留谷、津坑諸城,以置軍人。
○北斉後主紀
 己亥,封太上皇帝子儼為東平王,仁弘為齊安王,仁堅為北平王,仁英為高平王,仁光為淮南王。六月,太上皇帝詔兼散騎常侍韋道儒聘於陳。秋八月,太上皇帝幸晉陽。
○陳文帝紀
 六月甲子,羣臣上謚曰文皇帝,廟號世祖。景寅,葬永寧陵。
○陳廃帝紀
 六月辛亥,翊右將軍、右光祿大夫王通進號安右將軍。秋七月丁酉,立妃王氏為皇后。

 ⑴上皇...高湛。もと北斉の四代皇帝の武成帝。生年537、時に30歳。在位561~565。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。去年、太子に位を譲って上皇となった。566年(1)参照。
 ⑵辛威...普屯氏の姓を賜った。宇文泰が賀抜岳の兵を受け継いだとき、優秀さを認められてその帳内とされ、数々の戦いに活躍した。のち、鄜州刺史・河州刺史を務めた。558年、北斉の司馬消難が北周に降ると、その迎えに赴いた。561年、丹州の叛胡を討った。564年、洛陽攻めに参加した。561年(4)参照。
 ⑶王通...字は公達。生年503、時に64歳。名門琅琊の王氏の末裔。母は梁の初代皇帝・武帝の妹。559年(3)参照。
 ⑷陳蒨...文帝。陳の二代皇帝。在位559~566。陳の武帝(陳覇先)の兄の子。生年527~566。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派だった。陳覇先が下剋上を行なった時、東方を制圧して会稽等十郡諸軍事・会稽太守とされた。559年、武帝が死ぬとその跡を継ぎ、版図を揚州北部から一気に江南一帯にまで拡大した。今年の4月に崩御した。566年(1)参照。
 ⑸武功...《読史方輿紀要》曰く、『鳳翔府(岐州)の東二百里→乾州の西南六十里にある。鳳翔府の東〔南〕百十里→扶風県の東南五十里にある。』
 ⑹郿...《読史方輿紀要》曰く、『鳳翔府(岐州)の東南百四十里にある。』
 ⑺斜谷...《読史方輿紀要》曰く、『郿県の西南三十里にある。』
 ⑻武都...《読史方輿紀要》曰く、『鳳翔府(岐州)の南三十五里にある虢城に、北魏は武都郡を置いた。』
 ⑼留谷...《新唐書地理志》曰く、『鳳翔府(岐州)扶風郡に留谷がある。』
 ⑽王妃...王通の弟の王固の娘。562年、太子妃とされた。562年(4)参照。

●信州蛮の乱

 これより前、信州蛮の冉令賢向五子王らが叛乱を起こして王侯を自称し、北周領の白帝(信州)を陥として開府の楊長華を殺害した。その勢力は〔長江一帯の〕二千余里に及んだ。
 そこで北周は開府・利州総管・利沙方渠四州諸軍事の趙剛を渠州刺史を加え、儀同十人と利・沙など十四州の兵一万を率いて討伐に赴かせた。剛が信州に到ると、蛮族の酋長たちはその軍威を恐れて相次いで降伏したが、年を越えて剛軍が疲弊したのを見ると、再び叛いて逃げ去った。結局剛は何の功も挙げることができずに鎮所に帰還した。これに加えて、剛は部下で儀同の尹才と仲違いを起こしたため、呼び出しを受け、長安に赴く途中病死した(享年57)。中淅涿三州刺史を追贈され、成と諡された
 また、これに前後して開府の元契が信州蛮の討伐に赴き、その賊徒を撃破したが、討滅するまでには至らなかった。
 9月、乙亥(1日)、北周は開府儀同三司〔・隆州総管〕の陸騰に、開府の王亮と〔開府・始州刺史の〕司馬裔らを率いて討伐するよう命じた。
 騰はまず益州(成都)に赴き、勇士と楼船を集め、外江(長江)に沿って信州に向かった。〔その手前にある〕湯口に到ると、司馬裔を派して蛮族の説得をさせた。
 しかし令賢は降伏せず、防備を固めて抵抗の意思を明らかにした。令賢は長子の冉西黎と次子の冉南王に親族を率いて長江の南の要害の地に十城を築くよう命じ、かつ遠方にいる涔陽蛮と連携させた。令賢自身は精鋭を率いて水邏城を固守した。
 騰はこれを知ると、部将たちを集めて軍議を開き、どう攻めればよいか尋ねた。部将たちは口々にこう言った。
「水邏を陥としてから、江南の城を陥とすべきです。」
 すると騰はこう言った。
「令賢には、水邏城の鉄壁の守備と、涔陽蛮の緊密な援護という内外二つの強みがある。その上、物資は潤沢で、武器も精良なのだ。もし、我らが水邏の堅塁を攻めて陥とすことができなかったら、彼らの意気はますます盛んとなって、手がつけられなくなってしまう。それなら、本隊は湯口に留め、一軍を派遣して江南の諸城を先に陥とし、彼らの意気を挫いてから水邏を攻めた方が良い。これこそが勝ちをおさめるやり方である。」
 部将たちは皆これに賛同した。

○周武帝紀
 九月乙亥,信州蠻冉令賢、向五子王反,詔開府陸騰討平之。
○周28陸騰伝
 天和初,信州蠻、蜑據江峽反叛,連結二千餘里,自稱王侯,殺刺史守令等。又詔騰率軍討之。騰乃先趣益州,進驍勇之士,兼具樓船,㳂外江而下。軍至湯口。
○周33趙剛伝
 剛以偽信州濱江負阻,遠連殊俗,蠻左強獷,歷世不賓,乃表請討之。詔剛率利沙等十四州兵,兼督儀同十人、馬步一萬往經略焉。仍加授渠州刺史。剛初至,渠帥憚其軍威,相次降款。後以剛師出踰年,士卒疲弊,尋復亡叛。後遂以無功而還。又與所部儀同尹才失和,被徵赴闕。遇疾,卒於路。年五十七。贈中淅涿三州刺史。諡曰成。
○周36司馬裔伝
 天和初,信州蠻酋冉令賢等反,連結二千餘里。裔隨上庸公陸騰討之。裔自開州道入,先遣使宣示禍福。蠻酋冉三公等三十餘城皆來降附。
○周49蛮伝
 武成初,文州蠻叛,州選軍討定之。尋而冉令賢、向五子王等又攻陷白帝,殺開府楊長華,遂相率作亂。前後遣開府元契、趙剛等總兵出討,雖頗剪其族類,而元惡未除。
 天和元年,詔開府陸騰督王亮、司馬裔等討之。騰水陸俱進,次于湯口,先遣喻之。而令賢方增浚城池,嚴設扞禦。遣其長子西黎、次子南王領其支屬,於江南險要之地置立十城,遠結涔陽蠻為其聲援。令賢率其精卒,固守水邏城。騰乃總集將帥,謀其進趣。咸欲先取水邏,然後經略江南。騰言於眾曰:「令賢內恃水邏金湯之險,外託涔陽輔車之援,兼復資糧充實,器械精新。以我懸軍攻其嚴壘,脫一戰不尅,更成其氣。不如頓軍湯口,先取江南,剪其羽毛,然後進軍水邏。此制勝之計也。」眾皆然之。

 ⑴向五子王...556年頃に向白虎と共に叛乱を起こし、信州を陥としたが、田弘・李遷哲・賀若敦ら西魏の討伐軍がやってくると狼狽して遁走した。556年(1)参照。
 ⑵趙剛...字は僧慶。曽祖父は北魏の并州刺史、祖父は高平太守、父は寧遠将軍。孝武帝と高歓が対立すると、帝のために東荊州の説得に赴いた。のち西魏に仕え、梁との折衝に当たった。のち河南方面を任され、侯景と激闘を繰り広げた。550年、西方の渭州にて鄭五醜が叛乱を起こすとこれを討伐した。北周が建国されると利州総管・利沙方渠四州諸軍事とされ、沙州氐を討服した。
 ⑶渠州...《隋書地理志》曰く、『梁が梁州の宕渠郡に置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『重慶府の北百五十里→合州の東北三百里→広安州の〔東〕北百二十里にある。』
 ⑷成と諡した...《諡法解》曰く、『国家を安定させた者を成という。』
 ⑸陸騰...字は顕聖。鮮卑の名門の出身。高祖父は北魏の東平王の陸俟。もと東魏の臣で、邙山の戦いの際に陽城を固守したが、刀折れ矢尽きて西魏に降った。のち、蜀方面にて活躍し、斉公憲や趙公招が益州に赴任してくると、蜀の軍事を一任された。564年、斉公憲の副官として洛陽攻めに参加した。564年(4)参照。
 ⑹司馬裔...字は遵胤。河内温城の人。東晋の末裔。537年に故郷にて兵を挙げて西魏に付き、以降その方面の経略を任された。廃帝元年(552)より漢中方面に遷された。564年、北周が東伐を行なうと、義兵を率いて楊檦と共に軹関を守り、懐州刺史・東道慰労大使とされた。565年、始州刺史とされた。564年(5)参照。
 ⑺湯口...《読史方輿紀要》曰く、『湯渓が長江に注ぐ地のことである。湯渓は夔州府(信州)の西百里にある。』
 ⑻涔陽...《読史方輿紀要》曰く、『涔陽鎮は公安県の西南百里にある。涔陽は涔水の北にある。涔水は常徳府(武陵)の北百八十里→澧州の東南百二十五里→安鄉県の北にある。』
 ⑼水邏城...《読史方輿紀要》曰く、『夔州府(信州)の東境にある。』

●信州蛮討伐
 騰は開府の王亮に長江南岸の十城を攻めさせた。亮は十日の内に八城を陥とし、賊帥の冉承公と三千の兵を捕虜とし、蛮民一千戸を投降させた。ここにおいて騰は勇士を選抜し、数路から水邏に攻め込んだ。
 その道中に石壁城という城があった。この城は四方が断崖絶壁という峻険な地に建てられていたため、『石壁城』と名付けられたのである。城に行くには一本の小道しかなく、それも梯子を使ってなんとか登れるという難路だった。蛮人たちはこの峻険な城の防衛に自信を持っていた。騰は鎧兜をつけ、軍の先頭に立って石壁城を攻めた。北周軍はつぶさに艱難辛苦をなめた後、数日かけて旧道を発見〔し、そこから攻め陥とすことに成功し〕た。
 騰は長らく隆州総管を務めていたので、蛮帥の冉伯犁冉安西が令賢と仲違いしていることを熟知していた。騰が伯犁らと父子の関係を結び、大量の金品を贈ると、伯犁らは喜んで騰に降り、水先案内人を買って出た。
 また、この時、水邏城の傍には石勝城という堅城があった。令賢は兄の子の冉龍真にこれを守備させていた。騰は龍真にも寝返りを誘ってこう言った。
「水邏を陥とすことができたら、そなたを令賢の地位に就かせよう。」
 龍真はこれを聞くと大いに喜び、密かに息子を騰のもとに遣った。騰は一行を手厚くもてなし、多くの金品を与えた。
 蛮人たちは騰のために手柄を立てようと考え、騰にこう言った。
「内応して石勝城を占拠したいと思うのですが、手持ちの兵が少ないのが気がかりでできません。」
 騰はそこで三百の兵を送ってこれを支援させた。
 間もなく騰は二千の兵を率い、夜陰に紛れて石勝城を不意打ちした。龍真は奮戦したが、〔内外の攻撃に遭って〕防ぎきれず、遂に石勝城は陥ちた。
 早朝、騰が水邏城下に到ると、〔思わぬ敵の出現に〕蛮族たちは総崩れとなった。騰軍は首級一万余と捕虜一万を得た。令賢は遁走したが追いつかれて捕らえられ、子弟たちと共に斬られた。
 この時、司馬裔も開州道より信州に入って、別に二(三?)十余城を陥とし、蛮帥の冉三公らを捕らえていた。騰は水邏城の傍に蛮人の骸骨を積み上げ、京観()を築いた。のち、蛮・蜑族たちはこれを望見すると号泣し、以降、反抗心を失った。
 
 この時、向五子王が石黙()城⑵[1]に、その子の向宝勝が双城に拠り、向天王たちが外より支援を行なって、水邏が陥ちた後も依然として反抗の意思を示していた。騰は何度も使者を派遣して帰順を促したが、そのたびに拒絶された。騰はそこで王亮を牢坪()に、司馬裔を双城に遣って討伐を図った。騰は双城が峻険で容易に陥とせないこと、賊が城を棄てて山奥に逃走すると追討が難しいことを鑑み、石黙・双城の周囲に柵を築き、逃走路を遮断し〔長期戦を戦う強い意志を示し〕た。賊徒はこれを見ると大いに驚いた。騰はそれから諸軍に攻城を命じた。裔は昼夜の別なく双城を攻囲し、向宝勝・向天王らと春から秋に至るまで五十余回も戦った。やがて宝勝は兵糧・武器が尽き果て、遂に降伏した。この時、東側の一城がまだ陥ちていなかったが、間もなくこれも陥とした。また賊帥の冉西梨黎?・向天王らも捕らえた。亮も石黙にて五子王を捕らえた。騰は向族の首領たちをみな斬首し、一万余の捕虜を得た。騰軍が信州にやってきてから再朞(二年)で、蛮族はみな屈服した。
 信州の治所は白帝にあったが、騰は劉備(蜀漢の初代皇帝)の故宮城(永安宮)の南で、八陣灘の北の、長江の沿岸の地に城を築き、そこに治所を移転した。また、三峡の要所にある巫県・信陵・秭帰に城を築いて防を置き、信州城を守る防壁とした。
 北周は司馬裔を信州刺史とした。

○周28陸騰伝
 軍至湯口,分道奮擊,所向摧破。乃築京觀以旌武功。語在蠻傳。
○周36司馬裔伝
 進次雙城,蠻酋向寶勝等率其種落,據險自固。向天王之徒,為其外援。裔晝夜攻圍,腹背受敵。自春至秋,五十餘戰。寶勝糧仗俱竭,力屈乃降。時尚有籠東一城未下,尋亦拔之。又獲賊帥冉西梨、向天王等。出師再朞,羣蠻率服。拜信州刺史。
○周49・北95蛮伝・資治通鑑
 乃遣開府王亮率眾渡江,旬日攻拔其八城,凶黨奔散。獲賊帥冉承公并生口三千人,降其部眾一千戶。遂簡募驍勇,數道入攻水邏。路經石壁城。此城峻嶮,四面壁立,故以名焉。唯有一小路,緣梯而上。蠻蜑以為峭絕,非兵眾所行。騰被甲先登,眾軍繼進,備經危阻,累月(日)乃得舊路。且騰先任隆州總管,雅知蠻帥冉伯犁、冉安西與令賢有隙。騰乃招誘伯犁等,結為父子,又多遺其金帛。伯犁等悅,遂為鄉導。水邏側又有石勝城者,亦是險要。令賢使兄子龍真據之。騰又密誘龍真云,若平水邏,使其代令賢處。龍真大悅,密遣其子詣騰。騰乃厚加禮接,賜以金帛。蠻貪利既深,仍請立効。乃謂騰曰:「欲翻所據城,恐人力寡少。」騰許以三百兵助之。既而遣二千人銜枚夜進。龍真力不能禦,遂平石勝城。晨至水邏,蠻眾大潰,斬首萬餘級,虜獲一萬口。令賢遁走,追而獲之,并其子弟等皆斬之。司馬裔又別下其二十餘城,獲蠻帥冉三公等。騰乃積其骸骨於水邏城側,為京觀。後蠻蜑望見,輒大號哭。自此狼戾之心輟矣。
 時向五子王據石默(墨)城,令其子寶勝據雙城。水邏平後,頻遣喻之,而五子王猶不從命。騰又遣王亮屯牢坪,司馬裔屯雙城以圖之。騰慮雙城孤峭,攻未易拔。賊若委城奔散,又難追討。乃令諸軍周回立柵,遏其走路。賊乃大駭。於是縱兵擊破之,擒五子王於石默,獲寶勝於雙城,悉斬諸向首領,生擒萬餘口。信州舊治白帝。騰更於劉備故宮城南,八陣〔通鑑:灘〕之北,臨江岸築城,移置信州。又以巫縣、信陵、秭歸竝是硤中要險,於是築城置防,以為襟帶焉。

 ⑴開州...《読史方輿紀要》曰く、『夔州府(信州)の西北四百七十里にある。』
 ⑵石墨城...《読史方輿紀要》曰く、『石墨城は夔州府(信州)の東北境にある。』
 [1]今の帰州(秭帰)巴東県の長江南岸に、鉄槍の槍先が突き立てられている。その長さは数丈(約6〜18メートル)あり、数百年経っても朽ちないでいる。人々はこれを「向王槍」と呼ぶ。恐らく、向族が拠った場所はこの地であろう。
 ⑶双城...《読史方輿紀要》曰く、『双城は夔州府の東三百三十里→帰州(秭帰)の西九十里→巴東県の北六十里にある。二つの城の間には十余里の距離がある。言い伝えによると、三国時代に築かれたものであるという。』
 ⑷八陣...《読史方輿紀要》曰く、『八陣磧は夔州府(信州)の南にある。《元和郡県図志》曰く、「奉節県(信州の治所)の西七里にある。」《太平寰宇記》曰く、「奉節県の西南七里にある。」』
 ⑸巫県...《読史方輿紀要》曰く、『夔州府(信州)の東百三十里にある。』
 ⑹信陵...《読史方輿紀要》曰く、『巫山県(巫県)の東百四十五里にある。』
 ⑺秭帰...《読史方輿紀要》曰く、『帰州(夔州府の東三百三十里)の治所である。』

●臨機応変
 これより前、北周は陸騰の信州蛮討伐が長引いているのを知ると、〔儀同三司・〕小吏部の辛昂を通・渠などの〔信州に近い〕諸州に派遣し、兵糧輸送を取り仕切らせた。この時、臨・信・楚・合などの〔長江流域の〕諸州民の多くが蛮族の叛乱に呼応していたが、昂が説得を行なうと鎮まった。昂は老弱に兵糧輸送をさせ、壮年の者に防戦(護衛?)をさせたが、みな喜んで昂の役に立とうとし、嫌がる者はいなかった。
 昂が任務を果たして帰還しようとした時、たまたま巴州の万栄郡民が叛乱を起こし、郡城を攻囲して山道を遮断した。昂は連れの者にこう言った。
「賊どもの勢いは盛んで、とうとう郡城を攻囲するまでに至った! 朝廷に使者を送って討伐の許可を得るには、最悪一ヶ月はかかる。そんな悠長な事をしていては、孤立無援の城は必ず賊どもの手に落ちてしまうだろう。近くで溺れている者を助ける際、わざわざ遠くの越人(中国東南の異民族。泳ぎが達者なことで有名)の手を借りるだろうか。人民のためになることなら、独断で動いても良いはずだ。」
 かくて開・通の二州から兵を募って三千の兵を得ると、直ちに城下に急行した。それから兵に中国歌を歌わせ(大軍のふりをするためか)、叛乱軍の陣地に攻め込んだ。賊たちは斥候を出していなかったため、大勢の救援軍がやってきたと早合点し、戦わずして総崩れとなった。かくて郡内は平穏となった。朝廷は昂の臨機応変さを嘉し、梁州総管の杞公亮に奴隷二十人と反物四百疋を与えさせた。亮は昂が宕渠の人々から信望を集めていることを以て、上表して渠州刺史とした。のち、昂は通州刺史に転任した。
 昂は真心を以て民に接したので、夷・獠族から非常な好評を得た。任期満了となって長安に帰る際、夷・獠族の首領たちはみな昂に従って朝廷に赴き、帝に拝謁した。朝廷は統治宜しきを以て昂を驃騎大将軍・開府儀同三司とした。

○周39辛昂伝
 天和初,陸騰討信州羣蠻,歷時未克。高祖詔昂便於通、渠等諸州運糧饋之。時臨、信、楚、合等諸州民庶,亦多從逆。昂諭以禍福,赴者如歸。乃令老弱負糧,壯夫拒戰,咸願為用,莫有怨者。使還,屬巴州萬榮郡民反叛,攻圍郡城,遏絕山路。昂謂其同侶曰:「凶奴狂悖,一至於此!若待上聞,或淹旬月,孤城無援,必淪寇黨。欲救近溺,寧暇遠求越人。苟利百姓,專之可也。」於是遂募開、通二州,得三千人,倍道兼行,出其不意。又令其眾皆作中國歌,直趣賊壘。賊既不以為虞,謂有大軍赴救,於是望風瓦解,郡境獲寧。朝廷嘉其權以濟事,詔梁州總管、杞國公亮即於軍中賞昂奴婢二十口、繒綵四百匹。亮又以昂威信布於宕渠,遂表為渠州刺史。俄轉通州刺史。昂推誠布信,甚得夷獠歡心。秩滿還京,首領皆隨昂詣闕朝覲。以昂化洽夷華,進位驃騎大將軍、開府儀同三司。

 ⑴辛昂...字は進君。名門の隴西辛氏の出。もと東魏の臣で侯景の配下だったが、景が西魏に寝返るとこれに従って西魏の臣となり、丞相府行参軍とされた尉遅迥の伐蜀に従軍し、蜀を平定すると龍州長史・行成都令・梓潼郡守を歴任した。六官が建てられると中央勤務に転じ、司隸上士・天官府上士・小職方下大夫・治小兵部・小吏部を歴任した。564年、北斉討伐が起こると権景宣の豫州攻めに従軍した。間もなく梁・益州に派遣されて当地の軍事・政治を一任され、治安向上に貢献した。
 ⑵万栄郡...《読史方輿紀要》曰く、『夔州府の西北八百里(或いは保寧府〈閬中〉の東三百五十里→巴州の東南三百里)→達州(梁の万州、北周の通州)の西百里にある。漢の宕渠県の地である。梁はここに永康県と万栄郡を置いた。
 ⑶杞公亮...字は乾徳。宇文護の兄の宇文導の次子。563年10月に梁州総管とされた。563年(4)参照。

●弔使派遣
 北斉の太傅・長楽王の尉粲が死去した。
 冬、10月、乙卯(12日)、北斉が太保の侯莫陳相を太傅とし、大司馬の任城王湝を太保〔・并州刺史〕とし、太尉の婁叡を大司馬とし、司徒の馮翊王潤を太尉とし、開府儀同三司の韓祖念を司徒とした。


 ある時、并州のある婦人が汾水にて洗濯していると、馬に乗って通りかかったある人が自分の古い靴と婦人の新しい靴を取り換えて駆け去った。婦人は犯人の残した古い靴を持って并州の役所に赴き、被害を訴えた。すると刺史の任城王湝は晋陽城外に住んでいる老女たちを呼び集め、犯人の靴を見せてこう嘘をついて言った。
「馬に乗ったある者が路上にて拉致され、この靴だけが残された。この中にこの靴の持ち主の家族はいないか?」
 すると一人の老女が胸を叩き慟哭してこう言った。
「私の子が昨日、この靴を履いて妻の実家に向かいました。」
〔そこで捜査してみると〕果たしてその言葉の通りだったので、老女の子を逮捕した。人々は湝の明察ぶりを称賛した。

 11月、乙亥(2日)、北周の弔使が陳に到着した。

 丙戌(13日)、北周の武帝が武功などの新城(7月参照)の視察に赴いた。

 この月、北斉で大雪が降った。また、太廟にあった御服(皇帝用の衣服)が盗まれた。

 12月、庚申(18日)武帝が長安に帰った。

 乙丑(23日)、陳の使者が北斉に到着した。


○周武帝紀
 十一月丙戌,行幸武功等新城。十二月庚申,還宮。
○北斉後主紀
 冬十月乙卯,以太保侯莫陳相為太傅,大司馬、任城王湝為太保,太尉婁叡為大司馬,司徒、馮翊王潤為太尉,開府儀同三司韓祖念為司徒。
 十一月,大雨雪。盜竊太廟御服。十二月乙丑,陳人來聘。是歲,殺河間王孝琬。突厥、...遣使朝貢。
○陳廃帝紀
 十一月乙亥,周遣使來弔。
○北斉10任城王湝伝
 天統三年,拜太保、并州刺史,別封正平郡公。時有婦人臨汾水浣衣,有乘馬人換其新靴馳而去者,婦人持故靴,詣州言之。湝召城外諸嫗,以靴示之,紿曰:「有乘馬人在路被賊劫害,遺此靴焉,得無親屬乎?」一嫗撫膺哭曰:「兒昨著此靴向妻家。」如其語,捕獲之。時稱明察。

 ⑴尉粲...勲貴の尉景と高歓の姉の子。561年、大尉→太保とされた。565年、瀛州刺史→太傅とされた。565年(2)参照。
 ⑵侯莫陳相...生年489、時に78歳。祖父は北魏の第一領民酋長、父は朔州刺史・白水公。智勇に優れ、韓陵の戦いにて力戦し、功を挙げた。550年に太子太師・白水王とされ、554年、司空とされた。559年に大将軍とされた。のち、太尉・兼瀛州刺史とされた。565年、太保とされた。565年(2)参照。
 ⑶任城王湝...高歓の第十子で上皇(武成帝)の異母弟。母は小爾朱氏。聡明で、孝昭帝・武成帝が晋陽から鄴に赴く時、常にその留守を任された。565年、大司馬とされた。565年(1)参照。
 ⑷婁叡...字は仏仁。婁太后(武成帝の母)の兄の子。若年の頃から弓や馬を好み武将としての才能があった。とりわけて優れた所は無かったが、外戚ということで富貴を得、財貨や女色をほしいままにした。562年、平秦王帰彦の乱を平定し、564年、北周の部将の楊檦を大破・捕縛した。565年、豫州にて不正行為を繰り返した罪で免官に遭ったが、間もなく赦されて大尉とされた。565年(2)参照。
 ⑸馮翊王潤...字は子沢。生年543、時に24歳。高歓の第十四子で、武成帝の異母弟。母は鄭大車。美男子。歓に「我が家の千里の駒」と評された。十四,五歳になるまで母と一緒に眠り、けじめの無さを非難されたが、長じると生真面目で慎み深く、政治に明るい青年に育った。東北道行台・兼尚書左僕射・定州刺史とされると、不正を厳しく取り締まった。のち、更に都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。武成帝に信頼された。のち、河陽行台尚書令とされ、565年、司徒とされた。565年(2)参照。
 ⑹武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。生年543、時に24歳。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。566年(1)参照。

●柳慶の死
 この月、北周の司会中大夫(財務大臣)の柳慶が死去した(享年50)。鄜綏丹三州刺史を追贈し、景と諡した

 この年、北斉が中書監の元文遙に高姓を賜与した。
 また、突厥の使者が北斉に到着した。

 この年、北周が安州総管の崔謙を江陵総管とした。

○周22柳慶伝
 天和元年十二月薨。時年五十,贈鄜綏丹三州刺史,諡曰景。
○周35崔謙伝
 天和元年,授江陵總管。
○北斉38元文遙伝
 天統二年,詔特賜姓高氏,籍屬宗正,子弟依例歲時入朝。

 ⑴柳慶...字は更興。生年517、時に50歳。名門河東の柳氏の出身。酒好きの読書家で、口が達者だった。北魏の孝武帝が高歓に圧迫を受けた時、宇文泰を頼るよう進言した。のち、無実の身の王茂を殺さぬよう宇文泰に諫言した。長く司会中大夫(財務大臣)を務めたが、全く汚職をしなかった。孝閔王が即位すると宇文氏の姓を与えられた。のち、権力者となった晋公護から距離をとったことで憎まれ、560年、宜州刺史とされたが、563年、再び司会に復帰した。甥が父の仇討ちを行なうと連座して捕らえられたが、護を相手に一歩も退かず、遂に無罪放免を勝ち取った。564年(2)参照。
 ⑵景と諡した...《諡法解》曰く、『強い意志を以て大事を成した者を景という。』三国時代では孫休・王朗・劉曄・蔣済・劉靖・孫礼・満寵・王基・黄権らが景と諡された。北周では賀蘭祥が、北斉では厙狄干・慕容紹宗がいる。
 ⑶元文遥...字は徳遠。北魏の昭成帝の七世孫。五世祖は常山王遵。美男。幼い頃より聡明で、「王佐の才がある」「千里の駒」「穰侯の印を解き得る者」と評された。文宣帝時代に中書舍人や尚書祠部郎中とされ、元氏大虐殺の対象から除外された。孝昭帝が即位すると中書侍郎とされ、国家の重要事項の処理を任された。帝が亡くなると後事を託され、武成帝を迎え入れた。のち、財政を任された。563年(3)参照。
 ⑷崔謙…北史では崔士謙。字は士遜。名門博陵崔氏出身。父は北魏の兼吏部尚書で、高歓に殺された崔孝芬。幼い頃から聡明で、容貌が立派だった。長じると冷静で見識・度量に優れた青年となった。読書を好んだが、字句にはこだわらず、経世済民の箇所を愛読した。孝昌年間(525~528)に出仕し、邢杲討伐に参加し、賀抜勝が荊州に赴任すると行台左丞とされ、政治の一切を任された。孝武帝が関中に逃れると、勝にそのもとに馳せ参じるよう主張したが聞き入れられなかった。のち勝と共に梁に亡命した。やがて帰国を許されて西魏に行くと、宇文泰から礼遇を受けた。のち数々の戦いに参加し、尚書右丞→開府儀同三司・直州刺史とされ、宇文氏の姓を賜った。554年に利州刺史とされ、556年に叛乱が起こるとこれを平定した。政術に通暁し、政務に精励して倦むことを知らなかったので州民から敬愛を受けた。562年、安州総管とされた。562年(6)参照。

●陳忻の死
 この年、北周の〔開府儀同三司・〕熊州(宜陽。洛陽の西南)刺史〔・覇城県伯〕の陳忻尉遅忻が在任中に亡くなった。
 忻は〔中州刺史の〕韓雄宇文雄と同郷で親類だったので、幼い頃から仲が良かった。共に三十余年に亘って国境を守り(534~566)、東魏・北斉が攻めてくると常に二人で迎撃に赴き、息の合った連携を見せた。そのため、幾度も強敵と戦っても大敗を喫することが無かった。どちらも武勇に優れていたが、強弓を引いて射当てることに関しては雄の方が上だった。ただ、気前良く物を与えて兵の心を掴むことに関しては忻の方が上だった。忻が亡くなった日、配下の者たちは生前の恩義を想って嘆き悲しんだ。

○周43陳忻伝
 天和元年,卒於位。忻與韓雄里閈姻婭,少相親昵。俱總兵境上三十餘載,每有禦扞,二人相赴,常若影響。故得數對勍敵,而常保功名。雖竝有武力,至於挽彊射中,忻不如雄;散財施惠,得士眾心,則雄不如忻。身死之日,將吏荷其恩德,莫不感慟焉。

 ⑴陳忻...《北史》では陳欣。字は永怡。宜陽の人。堂々とした容姿と体躯をしていた。気前のいい性格で、人々に慕われた。北魏が東西に分裂すると兵を挙げて西魏に味方し、立義大都督とされた。以後、河南の地にて東魏と戦い続けた。549年、宜陽郡守とされ、550年に東方老を石泉にて、554年に段韶を九曲にてそれぞれ撃破した。555年、開府とされ、尉遅氏の姓を与えられた。555年(5)参照。
 ⑵韓雄...字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。537年、脱走して恒農にいた宇文泰に拝謁した。間もなく郷里に帰って再び兵を集め、洛陽に迫ってこれを陥とした。その後も東垣の地にて戦い続けた。のち開府儀同三司・東徐州刺史とされ、北周が建国されると宇文氏の姓を与えられた。558年、中州刺史とされた。558年(3)参照。

●北斉、河南より北周に侵攻す
 この年(565年?)、北斉の洛州(洛陽)刺史の独孤永業乞伏貴和)が二万余の兵を率いて北周領に侵攻した。陝州(弘農)総管の尉遅綱長孫倹)は開府儀同三司の魏玄に迎撃を命じた。玄は儀同の宇文能・趙乾らを指揮し、五百騎を率いて鹿盧交()の南にて永業軍と戦った。玄は五騎を率いて偵察を行ない、永業軍と遭遇すると直ちに交戦して数十人を殺傷し、馬や武器鎧などを獲て帰った。永業は撤退した。

○周43魏玄伝
 天和元年,陝州總管尉遲綱遣玄率儀同宇文能、趙乾等步騎五百於鹿盧交南,邀擊東魏洛州刺史獨孤永業。永業有眾二萬餘人,玄輕將五騎行前覘之,卒與之遇,便即交戰,殺傷數十人,獲馬并甲矟等,永業遂退。

 ⑴独孤永業...字は世基。本姓は劉。弓と馬の扱いに長け、晋陽(覇府)の宿衛(近衛兵)とされた。のち、高澄から抜擢を受け、中外府外兵参軍とされた。天保元年(550)に中書舍人・豫州司馬とされた。読み書きや計算が達者で、しかも歌や舞が上手だったので、文宣帝に非常に気に入られた。智謀に優れ、洛州刺史とされるとたびたび意表を突いた侵攻を行なった。乾明元年(560)に河陽行台右丞とされ、のち(562年以降?)洛州刺史・左丞→尚書とされた。564年に北周が洛陽に攻めてくると防衛の指揮を執り、北斉軍の到着まで良く守り抜いた。斛律光と対立し、565年に都に呼び戻されて太僕卿とされた。565年(2)参照。
 ⑵乞伏貴和…代々第一領民酋長を務めた家柄の出。もと爾朱兆の配下。兆が高歓に滅ぼされると歓に従った。のち、弟の慧(字は令和)と共に栄達した。565年に独孤永業に代わって河陽行台尚書とされた。565年(2)参照。
 ⑶尉遅綱...字は婆羅。生年517、時に50歳。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。557年に小司馬・柱国大将軍とされ、559年に呉国公とされ、561年に少傅→大司空とされた。562年、陝州総管とされた。564年、北周が東伐を行なうと、長安の留守を任された。564年(4)参照。
 ⑷魏玄…字は僧智。祖先は南朝に仕えたが、景明年間(500~504)に北魏に付き、新安(洛陽の西)に居を構えた。梁と戦って征虜将軍とされ、北魏が東西に分裂すると関南にて西魏に付き、東魏将の高敖曹と何度も戦った。西魏が邙山にて大敗を喫すると、宜陽にいた母や弟が東魏に捕らえられたが、西魏に忠義を貫き、関南を鎮守した。547年、東魏将の侯景が叛乱を起こすと李義孫と共に東魏の伏流城と孔城を陥とし、伏流を鎮所とした。のち、河南郡守・大都督とされた。550年、洛安郡民の雍方雋の乱を平定した。のち561年に蛮谷に、564年に閻韓に鎮所を移した。550年(6)参照。

●三縛と決命大散
 金州刺史の伊婁穆が病気に罹って長安に帰り、〔名医の〕姚僧垣に診療を求めた。この時、穆はこう言った。
「腰から臍に至るまでの三ヶ所が縛られている感じがして、両脚に力が入らない。」
 僧垣は脈を取ると、煎じ薬を三つ処方した。穆が最初の一つを服用すると一番上の縄のような物が解かれ、次にもう一つを服用すると真ん中の縄が解かれ、最後にもう一つを服用すると最後の縄が解かれた。ただ、両脚はまだ麻痺していて、曲がったまま動かなかった。そこで更に粉薬を一つ処方すると、次第に曲げ伸ばしができるようになった。僧垣は言った。
「霜が降る頃には完治するでしょう。」
 果たして九月になると立ち上がって歩く事ができるようになった。

 大将軍・襄楽公の賀蘭隆先賀蘭祥の弟)は気疾(呼吸器系統の病気)と水腫を病んでいて、いきなり喘息(気管支喘息。気道がむくんで細くなる事で発症)を発症するので毎日気が気でなかった。そこである者が『決命大散』という薬を服用するよう勧めた。隆先の家族はその薬を信じきれず、飲むかどうか決められなかったので、僧垣に判断を仰いだ。僧垣は言った。
「この病気と大散は合わないと思います。もし大散を服用したいと考えるなら、わざわざお訪ねに来られなくともよろしいです。」
 かくて家族を帰らせた。すると隆先の子が頭を下げて心を込めてこう言った。
「私は長い間我慢してきましたが、耐えきれなくなって今日ここに来たのです。〔もう父が苦しむ姿を見たくはありません。〕もし父の病気が治らないままになったら、自分の心のありったけを尽くしたことになりませぬ。」
 僧垣は治療できる事を知ると、直ちに薬を処方して急いで服用するよう勧めた。隆先がこれを飲むとすぐに呼吸が良くなり、更にもう一つ服用すると他の病気も全て治った。
 この年、僧垣を車騎大将軍・儀同三司とした。

○周47姚僧垣伝
 金州刺史伊婁穆以疾還京,請僧垣省疾。乃云:「自腰至臍,似有三縛,兩脚緩縱,不復自持。」僧垣為診脉,處湯三劑。穆初服一劑,上縛即解;次服一劑,中縛復解;又服一劑,三縛悉除。而兩脚疼痺,猶自攣弱。更為合散一劑,稍得屈申。僧垣曰:「終待霜降,此患當愈。」及至九月,遂能起行。
 大將軍、襄樂公賀蘭隆先有氣疾,加以水腫,喘息奔急,坐臥不安。或有勸其服決命大散者,其家疑未能決,乃問僧垣。僧垣曰:「意謂此患不與大散相當。若欲自服,不煩賜問。」因而委去。其子殷勤拜請曰:「多時抑屈,今日始來。竟不可治,意實未盡。」僧垣知其可差,即為處方,勸使急服。便即氣通,更服一劑,諸患悉愈。天和元年,加授車騎大將軍、儀同三司。
○北61賀蘭祥伝
〔賀蘭〕祥弟隆,大將軍、襄樂縣公。

 ⑴伊婁穆…字は奴干。父は西魏の隆州刺史の伊霊(尹)。早くから宇文泰に仕え、口が達者なことで名を知られた。邙山の戦いで功を挙げた。のち丞相府参軍事→外兵参軍→中書舍人・尚書駕部郎中→大丞相府掾→従事中郎→給事黄門侍郎とされた。553年、蜀に使者として赴いた際、趙雄傑らの乱に遭うと、叱羅協と共にこれを討伐した。557年、兵部中大夫→治御正とされた。561年に軍司馬、564年に金州総管とされ、のち襄州総管の衛公直の長史とされた。

●淳于量遅参
〔これより前(564年3月)、陳は征南大将軍・開府儀同三司・桂州刺史の淳于量を中撫軍大将軍とし、建康に呼び寄せていた。〕
 この年、量が〔ようやく〕都の建康に到着した。陳は遅参の罪によって開府儀同三司を剥奪したが、他の官職はそのままとした。

○陳11淳于量伝
 天康元年,至都,以在道淹留,為有司所奏,免儀同,餘竝如故。

 ⑴淳于量...字は思明。生年511、時に56歳。幼い頃から如才なく、姿形が立派で、才略に優れ、弓馬の扱いに秀でていた。梁の元帝の王時代からの部下で、王僧弁と共に巴陵をを守備し、侯景を撃退した。元帝が即位すると桂州刺史とされ、以後そこに割拠し、陳と梁どちらにも使者を通じた。559年に陳によって征南大将軍とされ、564年、中撫軍大将軍とされて徴召を受けたが、逡巡してなかなか行こうとしなかった。564年(2)参照。

●周宝安と陸山才の死
 この年、陳の左衛将軍・衛尉卿の周宝安が死去した(享年29)。侍中・左衛将軍を追贈し、成と諡した。

 この年、陳の西陽武昌二郡太守の陸山才が死去した(享年58)。右衛将軍を追贈され、簡子と諡された。
 これより前、山才は陳宝応討伐から帰還したのち、宴席にて〔中書舎人の〕蔡景歴に暴言を吐いたことが原因で免官処分になった。しかし、間もなく赦されて散騎常侍とされ、のち雲旗将軍・西陽武昌二郡太守とされた。

○陳8周宝安伝
 徵為左衞將軍,加信武將軍。尋以本官領衞尉卿,又進號仁威將軍。天康元年卒,時年二十九。贈侍中、左衞將軍,諡曰成。
○陳18陸山才伝
 還朝,坐侍宴與蔡景歷言語過差,為有司所奏,免官。尋授散騎常侍,遷雲旗將軍、西陽武昌二郡太守。天康元年卒,時年五十八。贈右衞將軍,諡曰簡子。

 ⑴周宝安...字は安民。陳の名将周文育の子。騎射に長じた。若い頃はどら息子だったが、父の文育が一時王琳に捕らえられると更生した。文帝が即位すると非常に重用され、精鋭利器の多くを配された。王琳撃破の際に非常に活躍し、父の仇の熊曇朗が誅殺されると、その一族を皆殺しにして恨みを晴らした。561年、呉興太守とされ、562年、留異討伐軍の先鋒を務めた。563年、都督南徐州諸軍事・南徐州刺史とされ、のち(恐らく564年)左衛将軍とされた。
 ⑵陸山才...字は孔章。生年509、時に58歳。幼少の頃から自立心が強く、書籍を愛好した。王僧弁→張彪→陳覇先に仕え、周文育の軍師となって政治・軍事を補佐した。文育が死ぬと熊曇朗に捕らえられ、王琳のもとに送られたが、すぐに救出された。以後は主に東方の防衛を任された。562年、周迪討伐軍の軍師を務めた。563年、海路から陳宝応討伐に赴く余孝頃の軍師を務めた。563年(5)参照。
 ⑶簡と諡した...《諡法》曰く、『法律を行き渡らせて人に罪を犯させず、死刑に至らせなかった者を簡という。正直で邪心の無かった者を簡という。真っ直ぐで邪心の無かった者を簡という。邪心無く、非難を信じなかった者を簡という。』
 ⑷蔡景歴...字は茂世。生年519、時に48歳。寒門出身の能吏。侯景の乱が起こって梁の簡文帝が景に幽閉されると、南康王会理と共に簡文帝を連れて逃げることを謀って失敗した。のち、陳覇先(武帝)に招かれて文書の作成を任された。武帝が死ぬと、文帝の即位に貢献した。のち、侯安都の誅殺に貢献した。565年、妻の兄の劉洽が景歴の威を借りて不法行為を繰り返した罪に連座し、免官処分となった。563年(2)参照。


 567年(1)に続く