[北周:保定六年→天和元年 北斉:天統二年 陳:天嘉七年→天康元年 後梁:天保四年]

●天和改元
 春、正月、己卯(2日)、日食があった。

 辛巳(4日)、北周にて露寝(正殿)の改修工事が終了した(着工は563年8月15日)。武帝は露寝に赴き、祝賀会を開き、群臣に古詩を作らせて吟じさせた。長安の長老たちもみな参加を許された。帝は参加者全員にそれぞれ差をつけて下賜品を分け与えた。
 この時、〔儀同三司で能書家の〕趙文深は露寝の扁額(看板)を揮毫し、功を以て二百戸を加増され、趙興郡(寧州の治所。もと豳州。長安の東北、安定の東北)守とされた。文深が外勤となったのちも、長安の人々は扁額が必要になると文深に揮毫を依頼した。

 文深は字を徳本といい、南陽郡宛県の人である。父の趙遐は医術の腕前を認められて北魏に登用され、尚薬典御とされた。
 文深は幼少の頃より書を学び、十一歳の頃には魏帝に作品を献上するまでになっていた。〔北魏が東西に分裂すると〕西魏に付き、大丞相府法曹参軍とされた。文深の書には鍾繇・王義之共に書の名人)の風格があり、その筆勢は鑑賞に値するものがあった。当時、西魏において石碑・扁額の大家といえば、ただ文深と冀儁の二人がいるだけだった。
 大統十年(544)、むかし西魏に付き従った功を取り上げられて賞され、白石県男(邑二百戸)とされた。ある時、宇文泰武帝の父)は現在使用されている漢字に誤りがあるとして、文深・黎季明・沈遐らに《説文解字》と《字林》に載っている六種の書体を参考にして訂正させ、正しい字一万余を作らせて世に広めた。
 西魏が江陵を攻略し(554年)、王褒が長安に連行されてくると、上流階級の人々は一斉に褒の書法を真似し、文深の書法は一顧だにされなくなった。文深は不満を露わにしたが、やがて潮流を変えられないことを悟ると、〔矜持を捨てて〕自分も褒の書法を学んだ。しかし、結局ものにならず、人々からは嘲笑の的となって、邯鄲学歩の誹りを受けた。ただ、石碑や扁額の字の腕前は褒も及ばぬ所だったので、宮殿・楼閣のそれらはみな文深の手によった。
 のち、県伯下大夫(全国の県単位の政治を掌るとされ、儀同三司を加えられた。ある時、明帝武帝の兄。在位557~560)に命じられて江陵(後梁の都)に行き、景福寺の碑文を書いた。その出来栄えは漢水(襄陽付近に流れる川)以南の人士も称賛するものだった。後梁の宣帝蕭詧。在位555~562)もこれを賛美し、文深に非常に多くの賞賜を与えた。

 癸未(6日)、北周が大赦を行ない、年号を保定から天和に改めた。百官に四級上の加官を行なった。

 丙申(19日)、北斉が吏部尚書の尉瑾を尚書右僕射とした。人事権は引き続き瑾に委ねた。


 庚子(23日)、北斉の後主が晋陽に赴いた(去年の12月19日に晋陽から鄴に赴いていた)。

○周武帝紀
 天和元年春正月己卯,日有蝕之。辛巳,露寢成,幸之。令羣臣賦古詩,京邑耆老並預會焉,頒賜各有差。癸未,大赦改元,百官普加四級。
○北斉後主紀
 二年丙戌春正月...丙申,以吏部尚書尉瑾為尚書右僕射。庚子,行幸晉陽。二月庚戌,太上皇帝至自晉陽。壬子,陳人來聘。
○周47趙文深伝
 趙文深字德本,南陽宛人也。父遐,以醫術進,仕魏為尚藥典御。文深少學楷隸,年十一,獻書於魏帝。立義歸朝,除大丞相府法曹參軍。文深雅有鍾、王之則,筆勢可觀。當時碑牓,唯文深及冀儁而已。大統十年,追論立義功,封白石縣男,邑二百戶。太祖以隸書紕繆,命文深與黎季明、沈遐等依說文及字林刊定六體,成一萬餘言,行於世。及平江陵之後,王褒入關,貴遊等翕然並學褒書。文深之書,遂被遐棄。文深慙恨,形於言色。後知好尚難反,亦攻習褒書,然竟無所成,轉被譏議,謂之學步邯鄲焉。至於碑牓,餘人猶莫之逮。王褒亦每推先之。宮殿樓閣,皆其迹也。遷縣伯下大夫,加儀同三司。世宗令至江陵書景福寺碑,漢南人士,亦以為工。梁主蕭詧觀而美之,賞遺甚厚。天和元年,露寢等初成,文深以題牓之功,增邑二百戶,除趙興郡守。文深雖外任,每須題牓,輒復追之。

 ⑴武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。生年543、時に24歳。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。565年(2)参照。
 ⑵冀儁...字は僧儁。大人しく控え目な性格で、字が上手く、とりわけ写字を得意とした。太昌元年(532)に賀抜岳の墨曹参軍となり、岳が侯莫陳悦に殺されると宇文泰の記室となった。泰が悦の討伐に向かう際、勅書を完璧に偽造して費也頭族から助力を得ることに成功した。のち、黄門侍郎や湖州刺史などを歴任した。明帝に字を教えた。558年(2)参照。
 ⑶黎季明...本名は景熙。字は季明。読書好きで、記憶力や理解力に優れたが、会話を苦手とした。字が上手く、陰陽・卜占・暦数などに精通した。仕事をせず、家に引きこもって読書三昧の生活を行ない、生活が困窮しても生き方を変えなかった。のち、親友の盧道源に強く勧められて遂に仕官し、北魏→侯景→王思政に仕え、間もなく関中に入った。大統の末年に著作佐郎とされた。仕事ぶりは真面目だったが、偏屈な所があったため出世できず、十年に渡って一史官のままだった。この時、同輩たちはみな高官となって、車も服も豪勢を極めていたが、季明は一切恥じる所が無かった。559年、吐谷渾討伐に参加した。563年、大規模な宮殿の造営や上流階級の華美追求の風潮を非難した。563年(2)参照。
 ⑷王褒…字は子淵。名門琅邪の王氏の出身。もと梁の臣。梁の元帝の旧友。名文家・能書家。帝に非常に信任された。首都江陵が西魏によって陥とされると、長安に連行されて尊敬を受けた。562年(5)参照。
 ⑸邯鄲学歩...《荘子》秋水に『田舎の若者が都会の邯鄲に出かけて歩行術を学んだが、ものにならず、元の歩きかたも忘れてしまって、四つん這いになって家に帰ったという寓話がある。自分の力量を考えずに人の真似をして虻蜂取らずになることを指す。
 ⑹県伯...《通典》曰く、『地官に属する。北周は正五命に郷伯・左右遂伯・毎方稍伯・毎方県伯、毎方畿伯・毎方載師・師氏などの中大夫を置いた。正四命に小郷伯・郷大夫、毎郷小遂伯・遂大夫、毎遂小稍伯・稍大夫、毎稍小県伯・県大夫、毎県小畿伯・畿大夫、毎畿小載師、小師氏・保氏・司倉・司門・司市・虞部などの下大夫を置いた。』
 ⑺尉瑾...字は安仁。北魏の肆州刺史の尉慶賓の子。幼少の頃より聡明で、学問を好んだ。名族であることを以て次第に昇進して直後となった。のち司馬子如(高歓の親友。四貴の一人)が尚書令とされると、その親戚の娘を娶っていた関係で中書舍人に抜擢され、勲貴らと親しい関係を築いた。のち吏部郎中とされた。文宣帝が即位すると高徳政と共に機密を掌った。高演(孝昭帝)が宰相となると吏部尚書とされた。559年(4)参照。
 ⑻後主...高緯。上皇(武成帝)の長子。生年556、時に11歳。在位565~。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に惰弱な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを酷く嫌った。去年、父から位を譲られて皇帝となった。565年(2)参照。

●宕昌国の滅亡

〔これより前、北周は大将軍・岷州刺史の田弘に宕昌国の討伐を命じていた。〕
 弘は龍涸・甘松一帯に進軍し、宕昌国の二十五王を捕らえ、七十六柵を抜いてこれを滅ぼすことに成功した。
 丁未(29日)、北周は宕昌に宕州を置いた。

○周武帝紀
 丁未,於宕昌置宕州。以柱國、昌寧公長孫儉為陝州總管。遣小載師杜杲使於陳。二月戊申,以開府、中山公訓為蒲州總管。戊辰,詔三公已下各舉所知。庚午,日鬭,光遂微,日裏烏見。
○周27田弘伝
 吐谷渾寇西邊,宕昌羌濳相應接,詔弘討之,獲其二十五王,拔其七十二柵,遂破平之。
○周49宕昌羌伝
 高祖怒,詔大將軍田弘討滅之,以其地為宕州。
○紇干弘神道碑
 渾王叛換,梗我西疆;宕羌首竄,藩籬攜貮。公受脤于社,偏師遠襲,揚鞭龍涸,繫馬甘松。二十五王,靡旗乱轍;七十六栅,鶉奔雉竄

 ⑴田弘...字は広略。生年510、時に57歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。561年、岷州(天水の西)刺史とされた。563年・564年に楊忠の指揮のもと北斉を攻めた。565年頃に宕昌国の討伐を命じられた。565年(2)参照。
 ⑵宕昌国...羌族の梁懃(勤)が宕昌に建てた国。南斉や梁とも国交があった。現国王は梁弥定。
 ⑶龍涸...『松潘衛(龍安府〈綿州の北三百五十里、文県の南三百三十里〉の西北三百三十里)の東にある。三国漢の汶山郡平康県の地である。』
 ⑷甘松...《読史方輿紀要》曰く、『〔洮州〕衛の西南にある。

●郭賢の死
 この年、開府儀同三司・陝州(弘農)刺史・楽昌県公の郭賢が在任中に死去した。少保・寧蔚朔三州刺史を追贈し、節と諡した。
 賢は数々の刺史を務めたが、明察の評判を受けることはなかった。ただ、清廉公平を旨として政治を行なったため、職を離れたのちも州民に非常に追慕された。
 賢は生涯粗衣粗食で通したが、自宅は大豪邸で、非常に多くの財産を有していたため、人々はその偽善を非難した。

 北周は〔賢の後任として〕柱国・昌寧公の長孫倹を陝州刺史・都督(総管?)八(七?)州二十防諸軍事とした。


 また、小載師下大夫杜杲を陳に派遣した。
 2月戊申(1日)、開府の中山公訓晋公護の世子)を蒲州(河東)総管とした(前任は護の子の邵公会〈562~〉?)。

 庚戌(3日)、北斉の上皇が〔晋陽より〕鄴に帰った(去年の12月14日に晋陽に赴いていた)。
 壬子(5日)、陳の使者が北斉に到着した。

 戊辰(21日)、北周が三公以下の百官に人材を推挙させた。
 庚午(23日)、太陽に靄がかかって光が弱まり、烏(黒点?)が現れた。

○周武帝紀
 以柱國、昌寧公長孫儉為陝州總管。遣小載師杜杲使於陳。二月戊申,以開府、中山公訓為蒲州總管。戊辰,詔三公已下各舉所知。庚午,日鬭,光遂微,日裏烏見。
○周28郭賢伝
 賢在官雖無明察之譽,以廉平待物,去後頗亦見思。...天和元年,卒於位。贈少保、寧蔚朔三州刺史,諡曰節。賢衣服飲食雖以儉約自處,而居家豐麗,室有餘貲。時論譏其詐云。
○周39杜杲伝
 授大都督、小載師下大夫,治小納言,復聘於陳。中山公訓為蒲州總管,以杲為府司馬、州治中,兼知州府事。加使持節、車騎大將軍、儀同三司。
○北22長孫倹伝
 天和初,轉陝州總管七州諸軍事、陝州刺史。
○拓跋倹神道碑
 天和元年,陜州刺史、都督八州二十防諸軍事,解荊州總管,餘悉如故。

 ⑴郭賢...字は道因。読書家で、記憶力に優れた。北魏の代に豳州主簿→行北地郡事を務めた。536年に高歓が夏州を陥とした時、南下してこないことを予測し的中させた。のち、王思政の指揮のもと、弘農や魯陽の守備を任されて東魏と戦った。のち、蜀討伐に参加して安州・始州を治めた。のち、勲州刺史・安州刺史・陝州刺史とされた。563年(5)参照。
 ⑵長孫倹…生年492、時に75歳。もとの名は慶明。北魏の名族の出。容貌魁偉で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、その飛躍に大きく貢献した。のち、540~546年、549年以降の長期に渡って荊州を統治し、江陵攻略を進言した。557年、長子が宇文護暗殺を図ったことが問題視され、中央に呼び戻され、小冢宰とされた。564年、柱国大将軍とされた。564年(4)参照。
 ⑶小載師下大夫...《隋書食貨志》曰く、『載師は、〔地官に属し、〕土地利用と収税を掌る。人口・耕地・家畜・車両の数を把握して徴税・徴役の数量を設定し、畿内の区域を設定し、救済に必要な物数の設定や牧畜に関する政務の審理などを行なった。
 ⑷杜杲...字は子暉。関中の名家の出。学問に造詣が深く、国政に当たることのできる才略を有し、族父の杜瓚に「我が家の千里の駒」と評された。修城郡守となった時、叛徒の仇周貢たちの包囲を受けたが、住民に非常に信頼されていたので一人も内応者を出さなかった。561年、使者として陳に赴き、和平交渉をよくまとめた。562年にも安成王頊に付き添って陳に赴いた。562年(2)参照。
 ⑸上皇...高湛。もと北斉の四代皇帝の武成帝。生年537、時に30歳。在位561~565。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。去年、太子に位を譲って上皇となった。565年(2)参照。

●日照りと改元
 丙子(29日)、陳の文帝が詔を下して言った。
「朕は徳に乏しい身でありながら、国家の経営という大事業を受け継いだ。朕は日々職務に精励してこの大事業を発展させようとしたが、政策の多くが当を得なかったため、人民の暮らしは未だに安定せず、しかも長期に亘って疫病が流行り、幾月に亘って日照りが続いてしまった。こうなってしまった責任は人民には無く、全て朕にある。この事を考えると、まるで頭痛を病んでいるかのような憂苦を感じる。〔このような空気を一新するため、〕天下に大赦を行ない、天嘉七年を改めて天康元年とする。

 3月、己卯(3日)、驃騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史・司空の安成王頊を尚書令とした。

 乙巳(29日)、北斉の上皇が詔を下し、三台を〔大〕興聖寺に喜捨した
 この春、日照りがあった。この時、北斉は大いに人夫を徴発して大明宮(晋陽の新宮殿)を造営していた。 〔日照りは天がこれを戒めたものだった。〕北斉は日照りの厄を払うため、囚人に減刑を行なった。

 夏、4月、辛亥(5日)、北周が雨乞いの儀式を行なった。

 乙卯(9日)、陳にて皇孫の陳至沢が生まれた(このとき父の陳伯宗は15歳。母は王氏)。文武百官にそれぞれ差をつけて絹織物を与え、跡継ぎの者の爵位を一級上げた。

 甲子(18日)、太陽に薄雲がかかり、白虹(幻日環?)に貫かれた。

○周武帝紀
 夏四月...辛亥,雩。甲子,日有交暈,白虹貫之。
○北斉後主紀
 三月乙巳,太上皇帝詔以三臺施興聖寺。以旱故,降禁囚。
○陳文帝紀
 天康元年春二月景子,詔曰:「朕以寡德,纂承洪緒,日昃劬勞,思弘景業,而政道多昧,黎庶未康,兼疹患淹時,亢陽累月,百姓何咎,寔由朕躬,念茲在茲,痛如疾首。可大赦天下,改天嘉七年為天康元年。」三月己卯,以驃騎將軍、開府儀同三司、揚州刺史、司空安成王頊為尚書令。夏四月乙卯,皇孫至澤生,在位文武賜絹帛各有差,為父後者賜爵一級。
○隋五行旱
 後主天統二年春,旱。是時大發卒,起大明宮。

 ⑴文帝...陳蒨。陳の二代皇帝。在位559~。生年527、時に40歳(建康実録)。陳の初代武帝(陳覇先)の兄の子。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派だった。陳覇先がクーデターを行なった際、東方を制圧して会稽等十郡諸軍事・会稽太守とされた。559年、武帝が死ぬとその跡を継ぎ、版図を長江下流域から一気に江南一帯にまで拡大した。565年(2)参照。
 ⑵安成王頊(キョク)...字は紹世。陳の文帝の弟。生年530、時に37歳。八尺三寸の長身の美男子。幼少の頃より寬大で、智勇に優れ、騎射に長けた。552年に人質として江陵に送られ、江陵が陥落すると関中に拉致された。562年、帰国し、揚州刺史とされた。のち、周迪討伐の総指揮官とされた。侍中・中書監・司空とされて非常な権勢を誇ったが、去年、部下の不始末により侍中・中書監を剥奪された。565年(2)参照。
 ⑶三台...曹操が築き、石虎・文宣帝が改修した高殿。もともと銅雀・金虎・氷井という名前が付けられていたが、文宣帝の時に金鳳・聖応・崇光に改められた。
 ⑷河清二年(563)に三台宮〔の一部?〕を大興聖寺としていた。

●文帝の死
 陳の文帝は去年より病に臥し、政治は全て尚書僕射(中央行政機関の次官)の到仲挙と五兵尚書(のちの兵部尚書)の孔奐に任せていた。帝の病状が悪化すると、仲挙と奐、司空・尚書令・揚州刺史の安成王頊、吏部尚書の袁枢、中書舍人の劉師知・右衛将軍の韓子高らが看病に当たった。
 昔から、帝は太子の陳伯宗を、懦弱で君主の器が無いと見ていたが、嫡長子であることや、太子が簡単に代えられないものであることを以て、長年に亘って廃することができずにいた。現在、帝は重体になると、〔弟の〕頊を呼んでこう言った。
「太伯のやった事(弟に周王の位を譲った)に倣いたいと思う。」
 頊は聞いた当初何を言っているか分からなかったが、やがて意味に気がつくと、その場にひれ伏し、泣いて固辞した。
 帝はまた仲挙や奐らにこう言った。
「今、三方が鼎峙し、天下は安定しておらぬ。かような時は年長の君主を立てるべきである。朕は、近きは〔東〕晋の成帝に、遠きは殷の継承法(弟が跡を継ぐ)に倣いたいと思う。卿らよ、同意してくれるな。」
 すると、奐が泣いてこう言った。
「陛下は重病ではなく、ただ食が細くなっただけで、それも直に快復します。それに、皇太子は若年とは申せ、日に日に天子にふさわしい聖徳を身につけていっておられます。〔陛下に万が一の事がございましても、太子はしっかりと天子をお務めになりましょう。その時、〕安成王は陛下の弟君という尊き立場を以て、周公旦のように宰相の任を充分務めてくれましょう。ゆえに、陛下がいくら太子の廃立を持ち出しても、聞き入れることはできませぬ。」
 帝は答えて言った。
「卿は古人のようにまっすぐだな。」
 かくて奐を太子詹事とし、〔太子の輔佐を託した〕。

 癸酉(27日)、帝が危篤状態になり、有覚殿にて崩御した(在位8年、享年40。《南北史演義》では45とする)。
 遺詔にはこうあった。
『朕の病状は悪化の一途を辿り、遂に手の施しようもない所までに至った。寿命の長短は天が決め給うた事だから、これについてとやかく言うことはしない。ただ、国歩艱難の時だったとはいえ、連年軍事行動を起こして人民たちの多くを疲弊させてしまったことは、慚愧の念に堪えぬ。〔軍事行動の結果、〕今、ようやく国内を平定したが、人民たちの生活を改善する前に、この世を去ることになったのは心残りである。国家の統治の任務は重大であるから、〔朕の死後は〕直ちに太子を即位させるように。王侯将相は一致協力してこれを輔佐し、朕の意旨に違背せぬようにせよ。葬儀は必ず質素にし、速やかに終わらせるように。大斂(遺体を柩に納める儀式)が終わったら、群臣は三日の内に一度哭礼を行なえ。埋葬が済んだら服喪を解け。これらは全て昔の事例を参照するように。』

 帝は多くの艱難を経たのち皇帝となったので、人民の困窮ぶりを知悉しており、人民に負担をかけぬよう質素倹約に務めた。人民からの徴発はやむを得ない場合に限り、行なった際は必ず嘆息して顔色を曇らせ、自分が至らなかったせいだとした。担当官に決裁を求められた際は、その真偽をよく見抜いて悪事を許さなかったので、官吏たちは襟を正して職務に励んだ。帝は夜になっても寝殿に繋がる小門を開けておき、ひっきりなしに来る緊急の案件を処理した。当時、鶏人(時刻を伝える者)が更籤(時刻を覚えておくための竹片・木片)を持ってきて殿中に時刻を報告するのが決まりだった。帝は鶏人にこう言った。
「更籤を石段の上に投げつけ、大きな音を出せ。さすれば、朕が眠ってしまったとしても、驚いて跳ね起きるだろう。」
 このような逸話は、帝の在位中、多く見受けられた。

○陳文帝紀
 癸酉,世祖疾甚。是日,崩于有覺殿。遺詔曰:「朕疾苦彌留,遂至不救,脩短有命,夫復何言。但王業艱難,頻歲軍旅,生民多弊,無忘愧惕。今方隅乃定,俗教未弘,便及大漸,以為遺恨。社稷任重,太子可即君臨,王侯將相,善相輔翊,內外協和,勿違朕意!山陵務存儉速。大斂竟,羣臣三日一臨,公除之制,率依舊典。」
 世祖起自艱難,知百姓疾苦。國家資用,務從儉約。常所調斂,事不獲已者,必咨嗟改色,若在諸身。主者奏決,妙識真偽,下不容姦,人知自勵矣。一夜內刺閨取外事分判者,前後相續。每雞人伺漏,傳更籤於殿中,乃勑送者必投籤於階石之上,令鎗然有聲,云「吾雖眠,亦令驚覺也」。始終梗槩,若此者多焉。
○陳廃帝紀
 帝仁弱無人君之器,世祖每慮不堪繼業,既居冢嫡,廢立事重,是以依違積載。及疾將大漸,召高宗謂曰「吾欲遵太伯之事」,高宗初未達旨,後寤,乃拜伏涕泣,固辭。
○陳14到仲挙伝
 六年,秩滿,解尹。是時,文帝積年寢疾,不親御萬機,尚書中事,皆使仲舉斷決。天康元年,遷侍中、尚書僕射,參掌如故。文帝疾甚,入侍醫藥。
○陳20韓子高伝
 文帝不豫,入侍醫藥。
○陳21孔奐伝
 尋為五兵尚書,常侍、中正如故。時世祖不豫,臺閣眾事,竝令僕射到仲舉共奐決之。及世祖疾篤,奐與高宗及仲舉并吏部尚書袁樞、中書舍人劉師知等入侍醫藥。世祖嘗謂奐等曰:「今三方鼎峙,生民未乂,四海事重,宜須長君。朕欲近則晉成,遠隆殷法,卿等須遵此意。」奐乃流涕歔欷而對曰:「陛下御膳違和,痊復非久,皇太子春秋鼎盛,聖德日躋,安成王介弟之尊,足為周旦,阿衡宰輔,若有廢立之心,臣等愚誠,不敢聞詔。」世祖曰:「古之遺直,復見於卿。」天康元年,乃用奐為太子詹事,二州中正如故。

 ⑴到仲挙...字は徳言。祖父は南斉の中書侍郎、父は梁の侍中。これといった才能が無かったが、正直な性格で身を立てた。引きこもり気質で、事務を行なわず、朝士と親しく付き合うこともなく、ただ蓄財と飲酒だけをして日々を過ごした。文帝(陳蒨)と早くから付き合いがあり、重用を受けた。文帝が即位すると侍中とされて選考に関与し、のち、都官尚書→尚書右僕射・丹陽尹とされた。564年(4)参照。
 ⑵孔奐...字は休文。生年514、時に53歳。生真面目な性格。博覧強記で、文才があった。侯景が建康を陥とすとその重臣の侯子鑑に仕え、多くの住民を兵の乱暴から救った。侯景が滅ぶと揚州刺史とされ、陳覇先が実権を握ると司徒右長史・給事黄門侍郎とされた。建康令とされた時に北斉軍の侵入に遭うと、多くの麦飯のおむすびを用意し、勝利に貢献した。のち、晋陵太守とされると清廉で慈愛に満ちた政治を行なって『神君』と称された。文帝が即位すると御史中丞とされ、法律を厳格に執行し、多くの者を弾劾した。政治に通暁し、意見書を提出すれば必ず感嘆を受けた。百官は難題があるとみな奐に決裁を求めた。のち中書舎人とされ、詔の作成を任された。561年(3)参照。
 ⑶袁枢...字は践言。生年517、時に50歳。名門陳郡袁氏の出身で、梁の呉郡太守の袁君正の子。美男子で、物静かな性格をしており、読書を好み、片時も本を手離さなかった。質素な生活を送り、交際をせず、無欲恬淡としていた。王僧弁が侯景を討って建康を鎮守すると、貴族たちが争ってご機嫌伺いに行く中、一人家に閉じこもり、出世を求めなかった。陳覇先が僧弁を討って実権を握ると人事を司った。栄達したのちも、生活態度は昔のままだった。565年(2)参照。
 ⑷劉師知...寒門の出身だったが、多くの書物を読み漁り、巧みな文章を書き、朝廷の儀礼・慣習に通じていたため、陳覇先(陳の武帝)によって中書舍人とされ、詔誥の作製を任された。勝手気ままな性格で人とよく衝突したため、昇進はしなかったが、その諫言はどれも国の利益に繋がった。561年、北斉に使者として派遣された。562年(4)参照。
 ⑸韓子高...生年538、時に29歳。本名は蛮子。微賤の家の生まれだったが、容姿端麗で、女性のような顔立ちをしていた。十六の時に陳蒨(文帝)に仕え、身の回りの世話をした。蒨は短気な性格だったが、いつも意にかなう事をする子高には怒ることは無かった。やがて騎射を習い、精鋭を与えられて将軍となった。気前が良く、才能がある者を抜擢したので将兵に慕われた。562年、留異討伐にて大いに活躍し、東陽太守とされた。564年、陳宝応討伐に参加した。565年、右衛将軍とされ、領軍府を鎮守した。565年(2)参照。
 ⑹陳伯宗...字は奉業。生年552、時に15歳。文帝の嫡長子。559年8月に皇太子とされ、565年に元服した。565年(1)参照。
 ⑺東晋の成帝...東晋の三代皇帝。23歳で亡くなった時、弟の司馬岳(康帝)に帝位を継がせた。

●廃帝の即位

 この日、太子の陳伯宗が皇帝の位に即いた(時に15歳)。〔即ち陳の廃帝である。〕帝は大赦を行なった。また、建康内外の文武百官に詔を下し、おのおの原職に復帰するよう命じ、遠方の者には弔問に来ぬように命じた。
 5月、己卯(3日)章皇太后を太皇太后とし、沈皇后を皇太后とした。

 庚辰(4日)、北周の武帝が正武殿に群臣を集め、自ら《礼記》の講義を行なった。
 吐谷渾の龍涸王の莫昌が部落を連れて北周に降った。北周は龍涸に扶州を置いた。

○周武帝紀
 五月庚辰,帝御正武殿,集羣臣親講禮記。吐谷渾龍涸王莫昌率戶內附,以其地為扶州。
○陳廃帝紀
 天康元年四月癸酉,世祖崩,其日,太子即皇帝位于太極前殿,詔曰:「...可大赦天下。」又詔內外文武,各復其職,遠方悉停奔赴。五月己卯,尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。

 ⑴章皇太后...諱は要児。生年506、時に61歳。武帝の後妻。知性と美貌を兼ね備え、手の爪の長さが五寸(約10cm)もあり、みな綺麗な桃色をしていた。読み書き・計算が達者で、詩経と楚辞を暗誦することができた。559年、帝が死ぬと皇太后とされた。559年(3)参照。
 ⑵沈皇后...諱は妙容。字は妙姫。父の沈法深は梁の安前中録事参軍。大同年間(535~546)に十余歲で陳蒨(文帝)に嫁いだ。陳覇先(武帝)が侯景の討伐に赴いた際、景によって夫と共に捕らえられたが、のち、脱走に成功した。559年、文帝が即位すると皇后とされた。559年(5)参照。

●河間王孝琬の死
 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬は、高澄の嫡子という出自に誇りを持っていたため、しばしば不遜な態度を取った。孝琬は庶兄の河南王孝瑜和士開ら権臣たちの讒言によって殺されたことを怨み、奸臣たちの姓名を書いた草人形(藁人形)を作り、それを射て鬱憤を晴らした。士開と祖珽はこれを上皇に讒言して言った。
「草人形は聖躬(陛下のお体)に擬して作ったものです。また、むかし突厥が并州に侵攻してきた時(563年)、孝琬は兜を脱いで地に投げつけ、『婆さんがなんで兜を着ける必要があるのか!』と言いましたが、これは暗に大家(陛下)を謗ったものです。」
 上皇はこの時ちょうど病気がちだったため、これを聞くと〔孝琬が呪ったためだったかと思い、〕怒りが込み上げた。
 また、これより前、魏(北魏か東魏)の時代にこのような歌が流行った。
『河南種穀河北生、白楊樹頭金鶏鳴。』
 珽はこれをこのように解釈して上皇に言った。
「河南と河北の間は『河間』であります。『金鶏鳴』というのは、孝琬が今まさに〔帝位に即いて〕金鶏を掲げ、天下に大赦を行なおうとしていることを指しているのです。孝琬はこの歌を流行らせ、人心を惑わそうとしているのです。
 上皇はこれを聞くと、孝琬に疑いを抱くようになった。
 この時、孝琬はブッダの歯を手に入れた。それを邸内に置いた所、夜中に神々しい光を発した。昭玄都(僧官名)の法順が上皇に報告してはどうかと勧めたが、孝琬は拒否した。孝琬のやる事は愚かなものばかりだった。上皇が〔法順から?〕これを聞いて邸内を捜索させると、倉庫から矟(長矛)と旗数百が発見された。上皇はこれを聞くと、孝琬が叛乱を企んでいると考えた。そこで孝琬の妃たちに尋問すると、寵愛を受けていなかった陳氏という者が嘘をついてこう言った。
「孝琬は陛下の絵を書き、その絵の前で〔怨みの余り〕泣いていました。」
 しかし、実際の所は、書いていた絵は父の高澄の絵で、孝琬はただ父を慕って泣いていただけだった。
 しかし、上皇は陳氏の言葉を信じて激怒し、遂に武衛将軍の赫連輔玄に命じ、倒鞭[1]で孝琬を打ちのめさせた。その最中に孝琬が上皇のことを阿叔(叔父さん)と呼ぶと、上皇は怒ってこう言った。
「誰が叔父だ!? よくも皇帝たる俺のことを叔父と呼んだな!」(皇帝のことを陛下と呼ばず、叔父と呼ぶのは不敬
 孝琬は言った。
「私は神武皇帝(高歓。上皇の父)の嫡孫であり、文襄皇帝(高澄)の嫡子であり、魏の孝静皇帝(東魏の最初にして最後の皇帝)の外甥である! その由緒正しい私が、なんでお前のことを叔父と呼んではいけないのか!」
 上皇はこれを聞くと激高し、遂に巨杖を用いて一撃でその両足を打ち砕いて殺した(享年26)。遺体は西山に埋めた。

〔孝琬の弟の〕安徳王延宗は兄が殺されたことを知ると号泣し、自分も草の束で草人形を作って上皇に見立て、これを鞭打ってこう言った。
「なんで兄貴を殺したのだ!」
 延宗もまた一個の愚人であった。
 奴隷がこれを密告すると、上皇は延宗をうつ伏せにさせ、馬鞭で二百も打ち据えて半殺しにした。上皇は延宗が何も言わなくなると死んだのかと思い、人に担ぎ出させた。延宗は結局蘇生したが、上皇はこれ以上罪に問わなかった。

 乙酉(9日)、兼尚書左僕射の武興王普を尚書令とした。


○北斉後主紀
 五月乙酉,以兼尚書左僕射、武興王普為尚書令。...是歲,殺河間王孝琬。突厥、靺鞨國並遣使朝貢。
○北斉11河間王孝琬伝
 孝琬以文襄世嫡,驕矜自負。...又怨執政,為草人而射之。和士開與祖珽譖之,云:「草人擬聖躬也。又前突厥至州,孝琬脫兜鍪抵地,云『豈是老嫗,須著此』。此言屬大家也。」初,魏世謠言:「河南種穀河北生,白楊樹頭金雞鳴。」珽以說曰:「河南、河北,河間也。金雞鳴,孝琬將建金雞而大赦。」帝頗惑之。
 時孝琬得佛牙,置於第內,夜有神光。昭玄都法順請以奏聞,不從。帝聞,使搜之,得鎮庫矟幡數百。帝聞之,以為反。訊其諸姬,有陳氏者無寵,誣對曰「孝琬畫作陛下形哭之」,然實是文襄像,孝琬時時對之泣。帝怒,使武衞赫連輔玄倒鞭撾之。孝琬呼阿叔,帝怒曰:「誰是爾叔?敢喚我作叔!」孝琬曰:「神武皇帝嫡孫,文襄皇帝嫡子,魏孝靜皇帝外甥,何為不得喚作叔也?」帝愈怒,折其兩脛而死。瘞諸西山。
○北斉11・北52安徳王延宗伝
 河間死,延宗哭之淚亦甚(北史:延宗哭之淚赤)。又為草人以像武成,鞭而訊之曰:「何故殺我兄!」奴告之,武成覆臥延宗於地,馬鞭撾之二百,幾死。
○南北史演義
 河間王孝琬,見時政日非,每有怨語,且用草人書奸佞姓名,彎弓屢射。當由和士開等入白上皇,謂孝琬不法,妄用草人,比擬聖躬,晝夜射箭。湛正慮多病,聽到此言,不覺怒起,又因當時有童謠云:「河南種穀河北生,白楊樹端金雞鳴。」士開即指河南北為河間,金雞鳴三字,隱寓金雞大赦意義,謂謠言當出自孝琬,搖惑人心。湛即擬召訊,可巧孝琬得著佛牙,入夜有光,孝琬用槊懸幡,置佛牙前。孝琬所為,亦多癡呆。…湛怒且益甚,竟用巨杖擊孝琬足,撲喇一聲,兩脛俱斷,孝琬暈死。…「何故殺我兄?」又是一個愚人。不意復為湛所聞,令左右將延宗牽入,置地加鞭,至二百下。延宗殭臥無聲,湛疑他已死,乃令舁出,延宗竟得復蘇,湛亦不再問。

 ⑴河間王孝琬…武成帝の兄の高澄の第三子、嫡子。母は東魏の孝静帝の姉。生年541、時に26歳。中書監や尚書左僕射を歴任した。北周軍が晋陽に迫った際、逃走しようとした武成帝(上皇)を引き止めた。565年、尚書令とされた。565年(2)参照。
 ⑵高澄…字は子恵。521~549。高歓の長子。女好きの美男子。高歓が死ぬと跡を継いで東魏の実権を握った。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑶河南王孝瑜…字は正徳。生年537~563。高澄の長子。母は宋氏。堂々とした容姿と芯の通った精神を備え、控えめで優しく、文学を愛好した。十行を同時に読める速読の才能と抜群の記憶力を有した。上皇(武成帝)の幼馴染で親友。上皇から非常な信頼を受け、鄴の留守を任された。趙郡王叡と和士開に憎まれ、讒言されて殺された。563年(3)参照。
 ⑷和士開…字は彦通。生年524、時に43歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。565年(1)参照。
 ⑸祖珽…字は孝徴。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。546年、玉璧を死守する韋孝寛を説得する使者とされた。549年、瀕死となった友人の陳元康に遺書の代筆を依頼された。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年(1)参照。
 ⑹突厥が并州に侵攻してきた時、上皇(当時武成帝)は恐怖のあまり鎧兜に身を固めて完全防備をし、東方に逃走しようとした。孝琬はそんな惰弱ぶりを見て、上皇を『婆さん』になぞらえたのである。
 ⑺河清律曰く、『大赦を下した時は、武庫令に命じて金鶏と太鼓を閶闔門(宮殿の南門)外の右側に置き、囚徒を門前に集め、千回鼓を叩いたのち、枷や鎖を解いて釈放する。
 [1]倒鞭…柔らかい鞭の先端を持って、硬い持ち手で打つのである。
 ⑻安徳王延宗…生年544、時に23歳。武成帝の兄の高澄の第五子。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになった。564年(6)参照。
 ⑼武興王普…字は徳広。平秦王帰彦の兄の高帰義の子。温和で心が広かった。九歲の時に帰彦と共に河州より入洛し、武成帝(上皇)兄弟と生活を共にした。天保の初年(550)に武興郡王に封ぜられた。564年の3月に〔兼?〕尚書左僕射とされ、北周が洛陽に攻めてくると迎撃のため河陽まで赴いた。564年(5)参照。
 

 566年(2)に続く