●王琳、東伐に向かう

 これより前、梁の丞相の王琳は陳の武帝が死んだことを知ると、太府卿の孫瑒を使持節・散騎常侍・都督郢荊巴武湘五州諸軍事・安西将軍・郢州刺史として留守の事を全て任せ、天啓帝を連れて陳討伐に向かった。
 11月、乙卯(2日)、琳が大雷(湓城の東北。長江の守りの要の一つ)を攻めた。
 琳は〔大雷を陥とすと東進を続け、〕先鋒は南陵(湓城と建康の中間にある。長江の守りの要の一つ)に到った。〔高唐・太原(大雷付近)二郡太守で南陵を守備していた〕程霊洗はこれを撃破し、多くの捕虜と青龍(軍船?)十余隻を手に入れた。
 琳軍が濡須口(柵口)に進んだ(道中の南皖口や南陵は陥とした?)。北斉の揚州〔道?〕行台の慕容儼は長江の沿岸に兵を進め、遠方よりこれを支援した。陳は大尉の侯瑱を大都督とし、司空の侯安都・儀同の徐度を率いてこれを迎撃するよう命じた。陳軍は蕪湖に陣を布いた。大都督は侯瑱だったが、兵の指揮や作戦の立案は殆ど侯安都が行なった。
 陳は安州刺史(名ばかり?)の呉明徹と宣城太守の遂興侯詳に夜陰に紛れて長江を遡らせ、琳の家族がいる湓城を奇襲させた。しかし、二人は琳の派した巴陵太守の任忠(11)に大敗を喫し、身一つで南湖(鄱陽湖)に逃れ、鄱陽より陸路を取って建康に帰還した。

○陳文帝紀
 冬十一月乙卯,王琳寇大雷,詔遣太尉侯瑱、司空侯安都、儀同徐度率眾以禦之。
○北斉32王琳伝(南64王琳伝)
 及陳霸先(陳文帝)即位,琳乃輔莊次於濡須口。齊遣揚州道行臺慕容儼率眾臨江,為其聲援。陳遣安州刺史吳明徹江中夜上,將襲湓城。琳遣巴陵太守任忠大敗之,明徹僅以身免。琳兵因東下,陳遣〔太尉侯瑱、〕司空侯安都等拒之。
○陳8侯安都伝
 王琳下至柵口,大軍出頓蕪湖,時侯瑱為大都督,而指麾經略,多出安都。
○陳9侯瑱伝
 王琳至于柵口,又以瑱為都督,侯安都等竝隸焉。
○陳10程霊洗伝
 出為高唐、太原二郡太守,仍鎮南陵。遷太子左衛率。高祖崩,王琳前軍東下,靈洗於南陵破之,虜其兵士,并獲青龍十餘乘。
○陳15陳詳伝
 世祖嗣位,除宣城太守,將軍如故。王琳下據柵口,詳隨吳明徹襲湓城,取琳家口,不克,因入南湖,自鄱陽步道而歸。
○陳25孫瑒伝
 敬帝嗣位,授持節、仁威將軍、巴州刺史。高祖受禪,王琳立梁永嘉王蕭莊於郢州,徵瑒為太府卿,加通直散騎常侍。及王琳入寇,以瑒為使持節、散騎常侍、都督郢荊巴武湘五州諸軍事、安西將軍、郢州刺史,總留府之任。

 ⑴王琳...字は子珩。時に33歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が梁の元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、更に郢州に勢力を広げた。沌口にて陳軍に完勝を収め、江州を占拠したが、間もなく南征の失敗・西境の失陥によって窮地に陥り、陳と和を結んで西方に引き返した。559年(3)参照。
 ⑵孫瑒...字は徳璉。王琳の同門で副将。刺史の王琳に代わって広州を治めたが、都の江陵が陥ちると琳のもとに逃げ帰った。555年(1)参照。
 ⑶天啓帝...もと永嘉王荘。梁の四代皇帝・元帝の嫡孫。時に11歳。555年に人質として北斉に送られた。558年、王琳の求めによって南還し、皇帝に即位した。559年(1)参照。
 ⑷程霊洗...字は玄滌。時に46歳。侯景の乱の際には新安にて粘り強く景に抵抗した。王僧弁が陳覇先の襲撃に遭うとその救出に向かい、敗れて降伏した。のち、沌口にて王琳に敗れ捕らえられたが、脱走に成功した。のち、南陵の守備を任された。557年(3)参照。
 ⑸慕容儼...字は恃德。西魏から東荊州を守り切ったことがある。555年に郢州の鎮守を任され、半年に渡って梁の攻撃を防いだ。今年、新蔡に拠る魯悉達を破り、陳に追い払った。559年(1)参照。
 ⑹侯瑱...字は伯玉。時に48歳。梁の猛将。侯景が乱を起こすと豫章に拠った。のち、侯景討伐の先鋒となり、建康から逃げる景を追撃して破った。のち、東関にて郭元建の軍を大破し、北斉が郢州を陥とすとこれを攻めた。王僧弁が死ぬと豫章と湓城に拠って自立し、周文育の軍を撃退したが、部下の叛乱に遭って万事休し、遂に覇先に降った。のち、梁山を守備し、王琳や北斉の攻撃に備えた。559年(3)参照。
 ⑺侯安都...字は成師。時に41歳。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らし回り、幕府山南の決戦では別働隊を率いて北斉軍の後軍の横腹を突き、梁軍を大勝に導いた。のち沌口にて王琳と戦って大敗を喫し、捕虜となったが、やがて脱走に成功した。のち、文帝の即位に大きく貢献した。559年(3)参照。
 ⑻徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好んだ。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。557年、北斉領に侵攻して合肥を攻めた。のち王琳に備えるために南陵を守備し、今年、南皖口に砦を築いた。559年(1)参照。
 ⑼呉明徹...字は通炤。時に47歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。幕府山南の勝利に大きく貢献した。のち、沌口の決戦に敗北し、王琳の部将の曹慶との戦いにも敗北を喫した。559年(2)参照。
 ⑽遂興侯詳...陳詳。字は文幾。時に37歳。武帝の親族で、帝が杜龕の討伐に赴いた際、安吉・原郷・故鄣の三県を攻略した。のち、その地に置かれた陳留郡の太守とされた。559年(3)参照。
 (11)任忠...字は奉誠、幼名は蛮奴。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力した結果、優れた頭脳と膂力を併せ持った青年に育ち、郷里の少年たちに慕われる存在になった。梁の合州刺史の鄱陽王範に登用され、侯景領の寿陽を攻めた。のち王琳の配下となり、巴陵太守とされた。548年(5)参照。

●新体制
○北斉文宣紀
 十一月辛未,梓宮還京師。
○北斉廃帝紀
 十一月乙卯,以右丞相、咸陽王斛律金為左丞相,以錄尚書事、常山王演為太傅,以司徒、長廣王湛為太尉,以司空段韶為司徒,以平陽王淹為司空,高陽王湜為尚書左僕射,河間王孝琬為司州牧,侍中燕子獻為右僕射。
 ...十二月戊戌,改封上黨王紹仁(信?)為漁陽王,廣陽王紹義為范陽王,長樂王紹廉為隴西王。

 乙卯(2日)、北斉が右丞相の斛律金を左丞相に、録尚書事の常山王演を太傅に、司徒の長広王湛を太尉に、司空の段韶を司徒に、〔開府儀同三司?の〕平陽王淹を司空に、〔尚書右僕射の〕高陽王湜を尚書左僕射に、〔左僕射の〕河間王孝琬を司州牧に、侍中の燕子献を右僕射に任じた。
 辛未(18日)文宣帝の棺が鄴に到った。
 12月、戊戌(15日)上党王紹信高澄の第六子)を漁陽王に、広陽王紹義文宣帝の第三子)を范陽王に、長楽王紹廉文宣帝の第五子)を隴西王に改めた。
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 ⑴斛律金...字は阿六敦。時に72歳。敕勒族の長老。文宣帝の父・高歓の盟友。帝に非常な寵遇を受けた。557年(2)参照。
 ⑵長広王湛...高歓の第九子で、文宣帝の同母弟。時に23歳。去年の12月に司徒とされた。不仲だった永安王浚を死に追い込んだ。558年(3)参照。
 ⑶段韶...字は孝先。婁太皇太后の姉の子。知勇兼備の将。邙山の戦いで高歓の危機を救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。去年の12月に司空とされた。558年(3)参照。
 ⑷平陽王淹...字は子邃。高歓の第四子。文宣帝の弟。554年(2)参照。
 ⑸高陽王湜...高歓の第十一子。おべっかが上手く、文宣帝に寵用された。559年(1)参照。
 
●この父にしてこの子あり
○周19達奚震伝
 震字猛畧。少驍勇,便騎射,走及奔馬,膂力過人。大統初,起家員外散騎常侍。太祖嘗於渭北校獵,時有兔過太祖前,震與諸將競射之,馬倒而墜,震足不傾躓,因步走射之,一發中兔。顧馬纔起,遂回身騰上。太祖喜曰:「非此父不生此子!」賜武雜綵一百段。十六年,封昌邑縣公,一千戶。累遷撫軍將軍、銀青光祿大夫、通直散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。世宗初,拜儀同、司右中大夫,加驃騎大將軍、開府儀同三司,改封普寧縣公。武成初,進爵廣平郡公,除華州刺史。震雖生自膏腴,少習武藝,然導民訓俗,頗有治方。秩滿還朝,為百姓所戀。

 この年、北周が開府儀同三司・司右中大夫・普寧県公の達奚震の爵位を広平郡公に進め、華州(華山。長安の東)刺史とした。震は鄭国公の達奚武の御曹司で、しかも幼少の頃より武芸の練習に明け暮れていたが、いざ刺史となると、非常に優れた政治手腕を示した。任期満了となって朝廷に帰ると、州民はその善政ぶりを追慕した。
 震は字を猛略という。幼少の頃から勇敢で、馬と弓の扱いに長け、駿馬のような脚力と人並み外れた筋力を備えた。大統元年(535)に出仕して員外散騎常侍とされた。
 ある時、宇文泰が渭北にて巻狩りを行なった。その最中、兎が泰の前を横切った。震は諸将と共にこれを射たが、そのさい馬が倒れて落馬してしまった。しかし震はサッと綺麗に着地すると、自らの足で走って兎を追いかけて矢を射、たった一発でこれを仕留めた。それから後ろを振り返って馬が起き上がったのを見ると、ひらりとその上に跨った。泰は喜んでこう言った。
「この父でなければ、このような子は生まれなかっただろう!」
 かくて武に色とりどりの反物百段を与えた。
 十六年(550)に昌邑県公(邑一千戸)に封ぜられた。のち、次第に昇進して撫軍将軍・銀青光禄大夫・通直散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍となった。明帝元年(557)に驃騎大将軍・開府儀同三司・司右中大夫とされ、爵位を普寧県公に改められた。

●泉仲遵の死
○周28賀若敦伝
 武成元年,入為軍司馬。
○周44泉仲遵伝
 魏恭帝初,徵拜左衞將軍。尋出為都督金興等六州諸軍事、金州刺史。武成初,卒官,時年四十五。贈大將軍、華洛等三州刺史。諡曰莊。

 この年、北周が開府儀同三司・都督七州諸軍事・金州刺史(漢中の東)の賀若敦を中央に呼び戻し、軍司馬とした。
 代わりに開府儀同三司・左衛将軍の泉仲遵を都督金興等六州諸軍事・金州刺史としたが、その年中に死去した(享年45)。大将軍・華洛等三州刺史を追贈し、荘と諡した
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 ⑴賀若敦...もと東魏の臣。537年に父の統と共に西魏に付いた。蜀東北部の攻略に活躍し、のち信州の回復に貢献した。557年、蜀東部に割拠する譙淹を討伐した。557年(5)参照。
 ⑵泉仲遵...生年515、時に45歳。西魏の洛州刺史の泉企の次子。謹厳実直な性格で、読書を好み、清廉だった。537年、高敖曹が洛州に攻めてくると父・兄と共にこれと戦い、奮戦したが流れ矢が目に当たったことで戦闘不能となり、陥落の憂き目に遭った。しかし間もなく脱走に成功し、洛州刺史とされた。547年、三荊二広南雍平信江隨二郢淅等十三州諸軍事・行荊州刺史事とされ、王思政の代わりに荊州を治めた。549年、漢水東部の攻略に大いに貢献した。552年、山南の攻略に参加し、南洛州刺史とされた。554年、左衛将軍とされたが、間もなく金州刺史とされた。
 ⑶荘...《逸周書補注》曰く、『圉(辺境)を叡(あき)らかにして克(よ)く服するを荘という。』

●辛術の死
○北斉38辛術伝
 天保末,文宣嘗令術選百員官,參選者二三千人,術題目士子,人無謗讟,其所旌擢,後亦皆致通顯。術清儉,寡嗜慾。勤於所職,未嘗暫懈。臨軍以威嚴,牧人有惠政。少愛文史,晚更修學,雖在戎旅,手不釋卷。及定淮南,凡諸資物一毫無犯,唯大收典籍,多是宋、齊、梁時佳本,鳩集萬餘卷,并顧、陸之徒名畫,二王已下法書數亦不少,俱不上王府,唯入私門。及還朝,頗以饋遺權要,物議以此少之。十年卒,年六十。

 この年、北斉の文宣帝が吏部尚書の辛術に二・三千人の候補者から人材を選出させた。術が書いた品評は〔どれも公正で理にかなっていたため、〕、選出の結果に不満を持つ者はおらず、選出された者は〔品評通り有能で、最終的に皆〕高官に昇った。
 術は清廉・質素で、欲が薄かった。どのような職でも真摯に当たり、指揮官となると威厳を以て兵を御し、地方官となると優しさを以て民に接した。年老いても勉学に励み、軍中にあっても本を手放さなかった。淮南を平定した時(552年)には戦利品に一切手をつけなかったが、ただ劉宋・南斉・梁代に書かれた良書万余巻と顧愷之・陸探微らの名画、二王(王羲之・王献之)らの名書は自分のものとして朝廷に献上せず、鄴に帰ると、これらの品を要人たちに盛大にばらまいた。人々はこの点を残念に思った。
 この年、術が逝去した(享年60)。
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 ⑴辛術...字は懐哲。生年500、時に60歳。名門の隴西辛氏の出。清河太守とされると善政を行なった。侯景が叛乱を起こすと東南道行台尚書とされ、高岳らと共に景を討伐した。のち、東徐州刺史・淮南経略使とされて侯景に当たり、552年、景が滅ぶと淮南を平定した。のち吏部尚書とされると公正なことで好評を得た。554年(2)参照。


 560年(1)に続く