┃荊州の攻防

 荊州は荊州刺史の賀抜勝が梁に亡命して東魏の手に落ちた(8月)のちも西魏に心を寄せる者が多くあり、蛮族の酋長の樊五能北史では『樊大能』)が淅陽郡を陥として西魏に呼応した(辛纂伝によると9月頃?)。
 そこで西魏はもと荊州刺史の賀抜勝の大都督で武衛将軍の独孤如願を衛大将軍・都督三荊州諸軍事・東南道行台右僕射・大都督・荊州刺史とし、都督の楊忠宇文虬を率いて荊州の奪還に赴くよう命じた。
 東魏の辛纂9月に行西荊州事[1]・兼尚書・南道行台、間もなく正刺史とされると、これらを討伐せんとした。この時、行台郎中の李広が諫めて言った。
「淅陽郡は郡城以外に住民がおらず、そこまでの道のりは山道で険しく、あちこちに蛮族が目を光らせている大変に攻めにくい地であります。今もし小部隊に討伐に行かせれば制圧できず、大部隊を派遣すれば州城が手薄になる危険が生じるだけでなく、万一討伐に失敗すれば公の威名に大いに傷がつき、人心が離れて州城(穣城)の確保が困難になるでしょう。」
 纂は答えて言った。
「賊を野放しにすれば、のちのち更に大きな患いとなる! どうして討たずにいられようか!」
 広は答えて言った。
「今は万全を期するべき時であります。胸や腹に大きな心配事があるというのに、どうして疥癬(皮膚病)の如き小さな病の治療にかまっておれましょう! 聞く所によると、官軍は既に元洪威を破ったとか。なれば援軍の到来は間もなくのはずでありますから、公はただ荊州諸郡県の守りを固め、人心を手懐けてこれを待っておればいいのです。それに淅陽は鶏肋の如く、失っても惜しむに足らぬ地です。」
 纂は答えて言った。
「そなたの言葉にも一理あるが、我が心が受けつけぬ。」

 李広は字を弘基といい、遼東から范陽に移住した家の出である。読書家で、優れた文才を有し、若い頃から趙郡の李謇と同等の、邢邵・魏収に次ぐほどの名声を博した。口下手だったが、行動はテキパキとしていた。北魏の安豊王延明が徐州を鎮守した時、試みに起用を受けて長流参軍とされた。のち正式に出仕して盪逆将軍とされた。のち爾朱仲遠に召されて大将軍記室とされ、諫議大夫を加えられた。のち荊州行台の辛纂に召されて行台郎中とされた。

 如願が武陶[2]に到ると、東魏の恒農太守の田八能が諸蛮族を率いて淅陽に布陣して前方を塞ぎ、都督の張斉民の步騎三千が如願の背後を脅かした。如願はそこで自軍の兵にこう言った。
「いま我が軍は千人にも満たないというのに、前後に敵を受け、非常に危うい状況となっている。もし引き返して斉民を攻撃すれば、敵は我らが逃げ出したと考えて、必ずや嵩にかかって攻め立ててくることだろう。ゆえに、ここは前進して八能を攻めるのが一番の上策である。」
 かくて如願は進軍を続け、奮戦して八能を破り、斉民も潰走させた。
 また、辛纂が派遣した樊五能討伐軍も敗れ、諸将は逃亡して州城に二度と還らなかった。
 如願は勝ちに乗じて一気に穣城に迫った。辛纂は自らこれを迎撃したものの、如願の善政を覚えていた荊州兵が呼びかけに次々と応じたため大敗した。纂は州城に馳せ帰ったが、兵が門を閉じる前に、如願の配下で都督の楊忠康洛児・元長生らと共に門に辿り着き、門衛をこう怒鳴りつけて言った。
「いま大軍すでに到り、城中も内応相次ぐというに、お前たちはどうして逃げて生きようとしないのか!」
 それを聞くや門衛はみな逃げ散った。かくて忠らは入城を果たし、鬨の声を上げながら矢を放って突き進み、纂を庁舎に追い詰めた。纂を護る百余人のうち抵抗したのはただ五・六人にしか過ぎず、忠らはやすやすと纂を捕らえてその首を斬り、これを槍の穂先に掲げて城中を降伏させた。
 如願は更に兵を分けて三荊全てを平定した。この功により車騎大将軍・儀同三司とされた。

 東魏は辛纂に都督定殷二州諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・司徒公・定州刺史を追贈した。

◯魏77辛纂伝
 九月,行西荊州事、兼尚書、南道行臺,尋正刺史。時蠻酋樊五(大)能破析陽郡,應宇文黑獺。纂議欲出軍討之,纂行臺郎中李廣諫曰:「析陽四面無民,唯一城之地耳。山路深險,表裏羣蠻。今若少遣軍,則力不能制賊;多遣,則減徹防衞,根本虛弱。脫不如意,便大挫威名。人情一去,州城難保。」纂曰:「豈得縱賊不討,令其為患日深!」廣曰:「今日之事,唯須萬全。且慮在心腹,何暇疥癬。聞臺軍已破洪威,計不久應至。公但約勒屬城,使各修完壘壁,善撫百姓,以待救兵。雖失析陽,如棄雞肋。」纂曰:「卿言自是一途,我意以為不爾。」遂遣兵攻之,不克而敗,諸將因亡不返。城人又密招西賊,黑獺遣都督獨孤如願率軍潛至,突入州城,遂至廳閤。纂左右惟五六人,短兵接戰,為賊所擒,遂害之。贈都督定殷二州諸軍事、驃騎大將軍、尚書左僕射、司徒公、定州刺史。
◯周16独孤信伝
 時荊州雖陷東魏,民心猶戀本朝。乃以信為衞大將軍、都督三荊州諸軍事,兼尚書右僕射、東南道行臺、大都督、荊州刺史以招懷之。信至武陶,東魏遣其弘農郡守田八能,率蠻左之眾,拒信於淅陽;又遣其都督張齊民,以步騎三千出信之後。信謂其眾曰:「今我士卒不滿千人,而首尾受敵。若卻擊齊民,則敵人謂為退走,必來要截。未若先破八能。」遂奮擊,八能敗而齊民亦潰。信乘勝襲荊州。東魏刺史辛纂勒兵出戰。士庶既懷信遺惠,信臨陣喻之,莫不解體。因而縱兵擊之,纂大敗,奔城趨門,未及闔,信都督楊忠等前驅斬纂。語在忠傳。於是三荊遂定。就拜車騎大將軍、儀同三司。
◯周19楊忠伝
 除安西將軍、銀青光祿大夫。東魏荊州刺史辛纂據穰城,忠從獨孤信討之,纂戰敗退走。信令忠與都督康洛兒、元長生為前驅,馳至其城,叱門者曰:「今大軍已至,城中有應,爾等求活,何不避走!」門者盡散。忠與洛兒、長生乘城而入,彎弓大呼,纂兵衞百餘人莫之敢禦,斬纂以狥,城中懾服。
◯周29宇文虬伝
 及孝武西遷,以獨孤信為行臺,信引虬為帳內都督。破田八能及擒東魏荊州刺史辛纂,虬功居多。
◯北斉45李広伝
 李廣,字弘基,范陽人也,其先自遼東徙焉。廣博涉羣書,有才思文議之美,少與趙郡李謇齊名,為邢、魏之亞。而訥於言,敏於行。魏安豐王延明鎮徐州,署廣長流參軍。釋褐盪逆將軍。尒朱仲遠牒為大將軍記室,加諫議大夫。荊州行臺辛纂上為行臺郎中。

 ⑴賀抜勝…字は破胡。祖父の代に武川鎮に移住した。故・関西大行台の賀抜岳の兄。騎・射に優れた。六鎮の乱が起こると懐朔鎮の守備に就き、のち北魏の本隊のもとで奮戦を続けた。のち爾朱栄に仕え、栄の入洛の際には井陘を守り、葛栄との戦いの際には上党王天穆の軍の前鋒大都督を務めた。韓楼が薊城に割拠して抵抗すると、中山を守って南下を許さなかった。元顥が入洛すると前軍大都督とされて顥軍の大破に貢献した。栄が誅殺されると孝荘帝に付き、東征都督とされて爾朱仲遠の討伐に赴いたが、敗れて降伏した。のち韓陵の戦いの際に高歓に寝返り、爾朱氏大敗のきっかけを作った。のち南道大行台・荊州刺史とされ、梁に侵攻して武帝に「北間の驍将」と評された。534年、孝武帝が歓と戦った際、助けに来るよう命ぜられたが行かず、間もなく侯景の攻撃を受けて敗れ、梁に亡命した。534年(5)参照。
 ⑵独孤如願…生年502、時に34歳。字は期弥頭(河内戻公墓誌)。雲中の人。北魏の譜代の出。祖父の代に武川鎮に移住した。父は領民酋長。おしゃれ好きの美男子で、独孤郎(独孤の若殿)と呼ばれた。騎・射に優れた。宇文泰の幼馴染み。六鎮の乱が起こると、賀抜度抜らと共に衛可孤を斬って名を上げたが、中山に赴いた所で葛榮に捕らえられた。528年、爾朱栄が葛栄を滅ぼすと別将に任じられた。韓樓が幽州にて叛乱を起こすと賀抜勝と共に討伐に赴き、袁肆周を一騎討ちで捕らえた。529年、元顥討伐の先鋒を任された。建明年間〈530~531〉に荊州の新野鎮将・新野郡守、→荊州防城大都督・南郡守とされ、二郡両方で治績を挙げた。勝が荊州刺史となると大都督とされた。533年、勝の南伐に加わり梁の下溠戍を陥とした。534年、賀抜岳の遺衆を収めに関中に赴いたが、宇文泰に先んじられた。間もなく朝廷に招聘され、孝武帝から厚い信任を受けた。帝が西遷するとこれに付き従った。534年(4)参照。
 [1]西荊州…荊州。東荊州の西にあるので対応してそう呼ばれたのであろう。
 ⑶宇文虬…字は楽仁。武川の人。533年、独孤信の指揮のもと梁の下溠・欧陽・酇城を陥とした。この功により南安県侯とされた。
 ⑷辛纂…字は伯将。辛雄の従父兄。読書家で、温和・正直な性格。咸陽王禧の謀叛の際に李伯尚を匿った罪で免官に遭い、十余年に亘って無職となった。のち復帰を赦され、太尉騎兵参軍とされると、府主の清河王懌から賞賛を受け、「辛騎兵は学識・才能がある。上第(成績第一等)とするべきだろう。」と言われた。のち尚書令の李崇の柔然討伐の際、録事参軍とされた。この時の働きぶりが評価され、臨淮王彧の北征・広陽王淵の北伐の際に長史とされた。526年、梁将の曹義宗が荊州・新野に迫ると南道行台とされて救援に向かい、これを撃破した。荊州の兵は二千しかいなかったが、迅速な用兵と団結ぶりを警戒され、攻撃を受けなかった。のち荊州軍司とされた。528年、孝明帝の崩御の報が届くと、帝の死を隠すことなく号泣し、兵全員の服を喪服に着替えさせた。間もなく再び曹義宗の包囲を受けたが、費穆に救出された。この時、穆に「辛行台がここにいらっしゃらなければ、功を立てられませんでした」と言われ、更に孝荘帝に労苦をいたわられ、東中郎将とされた。529年、陳慶之の攻撃を受けて捕らえられたが、不問にされた。のち滎陽太守とされた。534年、河内太守とされた。高歓が洛陽に攻めてくると降伏した。534年(4)参照。
 ⑸元洪威…北魏の太原郡公の大曹の従兄の子。子が無いまま死んだ大曹の跡を継いだ。控えめで学問を好み、潁川太守となると治績を上げた。534年、孝武帝が高歓に逐われると抵抗の兵を挙げた。534年(5)参照。
 [2]武陶…『武関』の誤りではないか。
 ⑹この出来事は詳細な時期は分からないが、楊忠伝には『斬纂以狥,城中懾服。居半歲,以東魏之逼,與信奔梁』とある。北斉の荊州奪還は535年正月であり、辛纂が荊州刺史とされたのは534年9月である。『半歲』の記述を信じるなら、9月頃に起きた事のように思われる。

┃楊忠の登場
 楊忠生年507、時に28歳。本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。
 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。
 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕?)に仕えて北平太守とされた。
 鉉の子の楊元寿は北魏に仕えて武川鎮司馬とされ、以後そのまま武川鎮の神武郡(平城の西南二百八十里→朔州〈馬邑〉の東南。武川からかなり遠い)樹頹県(神武郡の南)に居住するようになった。
 元寿の子は太原太守の楊恵嘏で、恵嘏の子は龍驤将軍・平原太守(太原太守?)の楊烈で、烈の子は寧遠将軍の楊禎で、禎の子が忠だった。
 禎は戦功を立てて建遠将軍とされた。北魏末に戦乱が起こると中山に避難し(或いは強制移住させられたか)、義徒を集めて鮮于修礼と戦い、敗れて死んだ(526年?。保定年間(561~565)に忠勲を以て柱国大将軍・少保・興城郡公を追贈された。

 忠は身長が七尺八寸あり、立派な容貌を備えてひげが美しかった。また、人並み外れた武芸の腕前を持つ上に、高い見識も有し、大将たるにふさわしい才略を備えていた。
 十八の時(524年? 525年?)に〔東?〕泰山に遊学したが、そこでたまたま梁の侵攻に遭って江東に連行された。五年後に北海王顥が入洛すると(529年)これに従って北に帰り、直閤将軍を授けられた。顥が敗れると爾朱度律の帳下統軍とされ、爾朱兆孝荘帝を攻める(530年)のに加わって都督に昇進し、昌県伯に封じられた。のち賀抜勝の南征(533年)に際し独孤如願の配下として参加し、下溠戍・南陽の攻略に功を立てた。その後、如願と共に洛陽に赴き(534年)、高歓孝武帝と対立して洛陽に攻め込むと、帝に従って関中に入り、爵位を進められて侯とされた。のち潼関・回洛城攻略に参加し、安西将軍・銀青光禄大夫とされた。

◯周19楊忠伝
〔漢太尉震八代孫鉉,仕燕為北平太守。鉉生元壽,後魏代為武川鎮司馬,子孫因家焉。元壽生太原太守惠嘏,嘏生平原太守烈,烈生寧遠將軍禎,禎生忠,忠即皇考也。〕楊忠,弘農華陰人也。小名奴奴。高祖元壽,魏初,為武川鎮司馬,因家於神武樹頹焉。祖烈,龍驤將軍、太原郡守。父禎,以軍功除建遠將軍。屬魏末喪亂,避地中山,結義徒以討鮮于脩禮,遂死之。保定中,以忠勳,追贈柱國大將軍,少保、興城郡公。
 忠美髭髯,身長七尺八寸,狀貌瓌偉,武藝絕倫,識量沉深(深重),有將帥()之畧。年十八,客遊泰山。會梁兵攻郡,陷之,遂被執至江左。在梁五年,從北海王顥入洛,除直閤將軍。顥敗,爾朱度律召為帳下統軍。及爾朱兆以輕騎自幷州入洛陽,忠時預焉。賜爵昌縣伯,拜都督,又別封小黃縣伯。從獨孤信破梁下溠戍,平南陽,並有功。及齊神武舉兵內侮,忠時隨信在洛,遂從魏孝武西遷,進爵為侯。仍從平潼關,破回洛城。除安西將軍、銀青光祿大夫。

 ⑴鮮于修礼…六鎮の出身。?~526。526年、強制移住先の定州左人城にて挙兵して魯興と改元し、討伐に来た河間王琛・長孫稚らの軍を破った。のち、部将の元洪業に殺された。
 ⑵同じ武川出身の宇文は鮮于修礼に従い、北魏軍と戦って敗死している。楊禎ももしかするとこちらの方だったのかもしれない。
 ⑶家族が中山に避難(強制移住)して大変な時に遊学? 父がなんとか工面してくれたのか、一人ここに移住させられたのか、売られたのか、真相は不明である。
 ⑷524年なら梁将の彭宝孫が東泰山郡に近い琅邪や檀丘を陥としている。525年なら徐州が梁に降る事件が起こっているので、州境の東泰山にも手が及ぶことはあっただろう。泰山郡だと国境から遠い。
 ⑸北海王顥…元顥。字は子明。?~529。北魏の孝文帝の弟の北海王詳の子。528年、爾朱栄が洛陽を陥とすと梁に亡命し、529年、梁将の陳慶之の助力を得て洛陽を陥とし、皇帝となったがすぐ栄の反撃を受けて敗れ、殺された。529年(4)参照。
 ⑹爾朱度律…?~532。爾朱栄の従父弟。母は山氏。素朴な性格で口数が少なかったが、強欲だった。530年、栄が孝荘帝に殺されると爾朱兆・爾朱世隆と共に建明帝を擁立して太尉・四面大都督・常山王とされた。洛陽を陥とすと世隆と共に洛陽を鎮守した。531年、節閔帝を擁立し、大将軍・太尉とされた。高歓が挙兵すると東北道大行台尚書令とされて爾朱兆らと討伐に赴いたが広阿にて敗北した。532年、歓と韓陵にて戦ったが兆と反目して動かず、大敗の原因を作った。のち洛陽の西まで逃げたがそこで捕らえられ、処刑された。532年⑴参照。
 ⑺爾朱兆…字は万仁。?~533。北魏の天柱大将軍の爾朱栄の甥。若くして勇猛で馬と弓の扱いに長け、素手で猛獸と渡り合うことができ、健脚で敏捷なことは人並み以上だったが、知略に欠けていた。529年、栄が洛陽の元顥を攻めた時、賀抜勝と共に敵前渡河を行なって顥の子の元冠受を捕らえた。この功により驃騎大将軍・汾州刺史とされた。530年、栄が孝荘帝に殺されると長広王曄を皇帝の位に即け、大将軍・王となった。間もなく洛陽を陥とし、帝を捕らえた。紇豆陵步蕃が晋陽に迫ると帝を連れてその迎撃に向かい、中途にて帝を殺害した。步蕃に連敗したが、高歓の助力を得てなんとか平定することに成功した。531年、節閔帝が即位すると都督中外諸軍事・柱国大将軍・領軍将軍・領左右・并州刺史・兼録尚書事・大行台とされた。高歓が挙兵すると討伐に赴いたが、広阿にて敗北を喫した。532年、韓陵山にて再び歓と戦い、あと一歩のところまで追い詰めたが結局大敗を喫し、晋陽に逃走した。間もなく討伐を受け、更に秀容に逃れた。533年、討伐を受けて追い詰められ、自殺した。533年⑴参照。
 ⑻孝荘帝…元子攸。北魏の九代皇帝。507~530。在位528~530。五代献文帝の孫で、彭城王勰第三子。もと長楽王。超が付くほどの美男だった。孝明帝と仲が良かった。爾朱栄が洛陽を攻めた際、宮中から脱走して合流し、皇帝とされた。530年、栄を誅殺したが余党の逆襲に遭い殺された。
 ⑼高歓…字は賀六渾。生年496、時に39歳。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握った。孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建てた。
 ⑽孝武帝…元修。北魏の十二代皇帝。510~534。在位532~534。六代孝文帝の孫。532年、高歓が爾朱氏を倒した際に擁立されて皇帝となった。534年、歓と対立し、攻撃を受けると関中の群雄の宇文泰を頼ったが、間もなく泰に殺された。

●孝静帝の即位 ―西魏・東魏の成立―

 高歓は洛陽に帰還すると(9月10日か29日)僧の道栄を長安に派し、孝武帝に上表文を奉らせて《北斉神武紀》言った。
「陛下がもし都に還るならば、臣は文武百官と共に皇宮を清めてお待ちしたいと思います。しかし、もし都にお還りなさらないのであれば、七廟(天子のみたまや)の祭祀や各国からの使者の応対に支障をきたしますゆえ、非常に僭越ながら別に天子を立てて、国家の面目を施したいと思います。臣は陛下に背きはしても、国家には背かぬ所存です。」《出典?》
 帝はこれにも返答しなかった。そこで歓は百官・僧侶・老人たちを集めて誰が皇帝に相応しいか議論させた。このとき清河王亶は屋敷からの出入りの際に警蹕(先払い。天子の特権)の声を上げさせ、あたかも皇帝のように振る舞っていた。歓はこれを見て亶を候補から外し、こう言った。
「孝昌の頃より天下に争乱が生じて国統が中絶し、位牌も身の置きどころが無くなり、霊位の席次の秩序が失われてしまった。例えば永安帝(孝荘帝)は孝文帝を伯父として祀り【慣例では父の世代に当たる孝文帝を父として祀らねばならなかったのだが、父の彭城王勰を追尊して皇帝としたため、こうしたのである】、永熙帝(孝武帝)は孝明帝の位牌を夾室(廟にある脇部屋)に遷した【兄弟は同じ廟に入れない決まりなので、こうしたのである(孝武帝は孝明帝の弟)】。このような事になったのは、国運が衰え、天子の在位が短くなったことに原因がある。私はこの悪弊を改め、霊位の秩序を正すために、孝明帝の子の世代に当たる者を皇帝に推戴することに決めた。」
 かくて亶の世子の善見【孝明帝の父宣武帝の弟清河王懌の孫】を皇帝にすることに決した。この事を亶に伝えて《北斉神武紀》言った。
「王を天子に立てたかったのですが、よく討論した結果、王の子を立てるほうが良いということになりました。」
 亶はこれを聞いて不安になり、軽騎に乗って梁に亡命しようとしたが、歓の派した兵に追いつかれ、連れ戻された《出典?》『北斉書』神武紀では『歓の報告に対し、亶は「天子が即位した時、父はいないもの。我が子が天子に即いたなら、自分はいつ死んでも悔いはございませぬ。」』と答えている)。

 冬、10月、丙寅(17日)、善見は洛陽の東北にて皇帝の位に即いた。これが孝静帝である。時に11歳。大赦を行ない、年号を永熙から天平と改めた。これより魏は東西に分裂した《魏孝静紀》

 丁卯(18日)、梁は信武将軍の元慶和東豫州刺史だったが、527年10月に梁に降伏した。527年〈3〉参照)を鎮北将軍とし、東魏を討伐させた(魏19元慶和伝では北道総督・魏王とされている《梁武帝紀》

東方に歓の手伸びる

 これより前、孝武帝高歓の仲が決裂すると、斉州刺史の侯淵は兗州刺史の樊子鵠・青州刺史の東萊王貴平と陰かに使者を交わし、共に中立の姿勢を取ったが、淵は一方で歓に使者を送るなど歓寄りの態度を示した。しかし孝武帝が入関すると、淵は再び孝武帝に心を寄せるようになり、皇帝を代行した清河王亶汝陽王暹を斉州刺史とし、州城(歴城)の西に到らせても、淵は交代を受け入れず門を開こうとしなかった。しかしそのとき城民の劉桃符らが密かに暹を西門より引き入れると、淵は慌てて城門を巡ってこれと戦ったが、勝つことができず、遂に騎兵を率いて逃亡し、彼の妻子や部曲(部下、私兵)はことごとく暹の手に落ちた。
 淵が広里(歴城の西南)に到ったとき、歓は亶の名のもとこれを行青州事に任じ、青州を貴平より接収するように命じた。また、更に書簡を送ってこう言った。
「そなたは兵が少ないことを理由に東行を憚ってはならない。斉人は心が軽薄で、道理よりも利益を追求する。汝陽王ですら斉州に迎え入れられたのだから、そなたが青州に迎え入れられないことはあるまい。そなたは迷うことなく、ただただ青州へ向かうのだ。」
 淵はそこで東の州城に戻り、暹から妻子部曲を返されたのち青州に向かった。しかし貴平が交代を受け入れようとしなかったため、淵は高陽郡を襲撃してこれを陥とし、ここに妻子や部曲を置いて、自ら軽騎のみを率いて青州の各地を荒らし回った。貴平がそこで長子に高陽を攻めさせると、南青州刺史の茹懐朗も兵を送ってこれを助けた。淵は夜陰に紛れて東陽(青州の治所)に到り、食糧を運ぶ州民らにこう嘘をついて言った。
「官軍はもう高陽に到り、王の差し向けた軍を皆殺しにしてしまった。私は王の世子の下人で、命からがら高陽より州城に逃げ戻る所だ。お前たちはそれでも州城に行くのか!」
 これを聞いた者はみな食糧を棄てて逃亡した。夜が明けると更に道行く人にこう言った。
「官軍は昨夜既に高陽に到った。私はその先鋒で今ここまでやってきた者だが、侯公がどこにいるか詳しく知っている者はいるか?」
 城民はこれを聞いて慌てふためき、遂に貴平を捕らえて淵を迎え入れた【侯淵は韓樓征伐(529年〈3〉参照)の際にもこのような計略を用いた《魏80侯淵伝》
 戊辰(19日)、淵は孝武帝側と訣別するため貴平を斬り、その首を洛陽に送った《魏出帝紀・魏80侯淵伝》

 庚午(21日)、東魏は趙郡王諶を大司馬、咸陽王坦を太尉、開府儀同三司の広平公高盛歓の従叔とされる)を司徒、高敖曹を司空とした。
 坦は元樹(梁に亡命し北魏と何度も刃を交えた。532年7月参照)の弟である《魏孝静紀》

鄴遷都
 歓は洛陽が西魏や梁の国境に近く、晋陽に還った際これらの侵攻に対応できないことを鑑み、護軍の祖瑩を召して鄴に遷都(534年〈3〉参照)することの是非を問うた。瑩がこれに同意すると、歓は遂に遷都の命令を下した。遷都はその三日後に直ちに実行された《北斉神武紀・北47祖瑩伝》
 丙子(27日)孝静帝が洛陽を発って鄴に向かい、四十万戸の住民は慌てふためきながらこれに従った。歓は百官から馬を奪い、天子の車の傍に付き添う者で無いものは、尚書丞・郎以上の者であってもことごとく驢馬に乗るように命じた。歓は洛陽に残って事後処理をしたのち、晋陽に帰還した。これより国政は全て丞相府が司ることとなった。
 歓は司州を洛州に改め、衛大将軍・尚書令の元弼をその刺史として洛陽の守備を任せた[1]。また行台尚書の司馬子如を尚書左僕射とし、右僕射の高隆之・侍中の高岳・孫騰、慕容紹宗らと共に鄴の朝政を管理させた《北斉18司馬子如伝》。また、遷民の生活がまだ成り立っていないことから、詔を下して鄴に移住した百官に三年、人民に五年の免税の特典を与え《魏孝静紀》、更に130万石の食糧を支給した《魏食貨志》
 歓はこの遷都の際、汾州刺史の斛律金に三万の兵を与え、風陵を守備させて西魏の攻撃に備えた《北斉17斛律金伝》

 11月、庚寅(11日)孝静帝が鄴に到着し、城の北部にある相州刺史の官庁を仮の皇宮とし、相州刺史を司州牧、魏郡(鄴の所在郡)太守を魏尹と改称した【のちに北斉は魏尹を更に清都尹に改めた】。このとき六坊の兵(宿衛兵、近衛兵)のうち、孝武帝に付き従って入関した者は一万人に満たず、洛陽に残った者はみな鄴に徙された。歓は彼らに毎年の俸禄のほか春と秋に絹を与えて衣服の用に充てさせ【養兵の害、ここより始まる】、調の対象外に置き、絹を売って豊作の地域の値段で米を買わせ、それを国に納めさせた(原文『并給常廩、春秋賜帛以供衣服、乃於常調之外、隨豊稔之処、折絹糴粟以供国用。』《隋魏食貨志》

 この時、起部郎中の辛術が上奏して言った。
「今、遷都が決定いたしましたが、その設計は必ず古来の都制に倣われるべきであり、上は歴代の王朝(曹魏・後趙・冉魏・前燕)の鄴の形式を参照し、下は洛陽の形式を模倣すべきであります。ただ、鄴は伝統のある都城ではございますが、都であった時の建築の基礎は跡形も無くなっており、絵図や記録などの資料もまちまちでありますので、造営には入念な事前調査が必要であります。臣は工事の担当官ではありますが、古来の方式に通じておりませぬゆえ、この国家の大事業を一人で行なおうとは考えておりません。通直散騎常侍の李業興は碩学の大学者であり、博聞多識でありますゆえ、造営については、彼の意見を求めるのが良いと思います。今、臣は彼に意見を求めて資料の正否を明らかにし、前代の形式に現代の形式を程よく混じえて都制を策定し、画工を呼んで、鄴都の設計図を作らせると共に、必要な調度品の設計図も作らせ、それを陛下に上奏し、裁決を仰ぎ、工事を始める日には万事つつがなく取りかかれるようにしたいと思います。」
 帝はこれを聞き入れた。

○魏孝静紀
 丙子,車駕北遷于鄴。詔齊獻武王留後部分。改司州為洛州,以衞大將軍、尚書令元弼為驃騎大將軍、儀同三司、洛州刺史,鎮洛陽。詔從遷之戶,百官給復三年,安居人五年。…庚寅,車駕至鄴,居北城相州之廨。改相州刺史為司州牧,魏郡太守為魏尹,徙鄴舊人西徑百里以居新遷之人,分鄴置臨漳縣,以魏郡、林慮、廣平、陽丘、汲郡、黎陽、東濮陽、清河、廣宗等郡為皇畿。
○北斉神武紀
 神武以孝武既西,恐逼崤、陝,洛陽復在河外,接近梁境,如向晉陽,形勢不能相接,乃議遷鄴,護軍祖瑩贊焉。詔下三日,車駕便發,戶四十萬狼狽就道。神武留洛陽部分,事畢還晉陽。自是軍國政務,皆歸相府。
○魏79張熠伝
 天平初,遷鄴草創,右僕射高隆之、吏部尚書元世儁奏曰:「南京宮殿,毀撤送都,連筏竟河,首尾大至,自非賢明一人,專委受納,則恐材木耗損,有闕經構。熠清貞素著,有稱一時,臣等輒舉為大將。」詔從之。熠勤於其事。尋轉營構左都將。興和初,衞大將軍。宮殿成,以本將軍除東徐州刺史。
○魏84李業興伝
 遷鄴之始,起部郎中辛術奏曰:「今皇居徙御,百度創始,營構一興,必宜中制。上則憲章前代,下則模寫洛京。今鄴都雖舊,基址毀滅,又圖記參差,事宜審定。臣雖曰職司,學不稽古,國家大事非敢專之。通直散騎常侍李業興碩學通儒,博聞多識,萬門千戶,所宜訪詢。今求就之披圖案記,考定是非,參古雜今,折中為制,召畫工并所須調度,具造新圖,申奏取定。庶經始之日,執事無疑。」詔從之。

 [1]司州を洛州に改め…洛陽は北魏の二代明元帝が占拠した際に洛州が置かれたが、のち六代孝文帝が太和十七年(493)にここに遷都したことで司州と改められていた。

樊子鵠の乱
 この月(11月、兗州刺史の樊子鵠が瑕丘にて叛乱を起こし、南青州刺史の大野抜・西兗州刺史の乙瑗・東道軍司の羊深・徐州民の劉粋らがおのおの兵を率いてこれに加わった。
 子鵠は深を斉州刺史とした。深は〔故郷の〕泰山郡博平県(泰山郡の治所)の商王村に砦を築き、泰山・斉州の民を招き寄せた。
 また、子鵠は北徐州に赴任しに兗州を通過していた北徐州刺史の安康伯忻之を殺害した。東魏は殉職である事を以て忻之に使持節・都督定殷二州諸軍事・驃騎大将軍・司空公・定州刺史を追贈し、文貞と諡した。

○魏孝静紀
 十有一月,兗州刺史樊子鵠、南青州刺史大野拔據瑕丘反。
○魏16元忻之伝
 除撫軍將軍、北徐州刺史。便道之州,屬樊子鵠據瑕丘反,遂於中途遇害。以死王事,追贈使持節、都督定殷二州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、定州刺史,諡曰文貞。
○魏44乙瑗伝
 西兗州刺史。天平元年,舉兵應樊子鵠。
○魏77羊深伝
 永熙三年六月,以深兼御史中尉、東道軍司。及出帝入關,深與樊子鵠等同〔不從齊神武〕逆(起兵)於兗州。子鵠署深為齊州刺史,於太山博縣商王村結壘,招引山齊之民。
○北42劉騭伝
〔劉廞〕子騭,字子昇,少有風氣,頗涉文史。位徐州開府從事中郎。父廞之死,騭率勒鄉部赴兗州,與刺史樊子鵠抗禦王師。

 李弼...字は景和。生年494、時に41歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献し、秦州刺史とされた。534年(2)参照。

┃曹泥討伐
 12月宇文泰が都官尚書の趙善趙貴の従祖兄。爾朱天光の行台左丞)を北道行台とし(周34趙善伝)、儀同の趙貴李弼李虎賀抜岳が殺された時、代わりの盟主に賀抜勝を選んだ。534年〈2〉参照)らと共に霊州の曹泥岳はこれを討伐しに赴いた所で侯莫陳悦に殺された)を討伐させた《周文帝紀》

賀抜允賜死
 丁卯(19日)《魏孝静紀》、東魏の大尉・燕郡王の賀抜允賀抜勝・岳の兄。歓が六鎮兵を得るのに貢献した。530年〈5〉参照)が死を賜った(享年48)。
 生前、孝武帝が允の弟の岳や勝を頼みとして歓に対抗すると、当時の人々はみな允もこれに与するのではないかと疑った(北斉19賀抜允伝)。しかし歓は旧交を重んじて允を害しないでいた。そこにある者が歓にこう告げ口をした。
「允は大王との猟の最中、弓を引いて密かに大王を狙っておりました。」
 歓はそこで允を樓上に閉じ込め、餓死という形で死なせたのだった。歓は自ら允の亡骸のもとに赴くと、慟哭して弔意を表した《北49賀抜允伝》

 閏12月、梁将の元慶和李洪芝・王当伯らに〔北魏の南兗州の西にある〕平瀬郷[1]⑴を陥とさせた。
 洪芝らは州境を乱したが、豫州刺史の堯雄が伏兵を設けてこれを破って捕らえ、非常に多くの捕虜・戦利品を得た。

○魏孝静紀
 閏月,蕭衍以元慶和為鎮北將軍、魏王,入據平瀨鄉。
○北斉20堯雄伝
 梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。

 [1]司馬彪の《続漢志》曰く、陳国の苦県に頼郷がある。晋は梁国に苦県を属させ、北魏は苦県を陳留谷陽県に編入した。
 ⑴平瀬郷…《魏書地形志》曰く、『陳留郡武平県に武平城と賴郷城がある。天平二年(535)に鎮を置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『苦県城は帰徳府(梁郡)の南百二十里→鹿邑県の東七十里にある。《九域志》曰く、「苦県は亳州(南兗州)の西六十里にある。」

┃孝武帝の死
 孝武帝は女性関係が乱れており、従妹三人と関係を持ち、みな降嫁させずに公主に封じていた。その三人とは、南陽王宝炬の同母兄妹の平原公主明月清河王懌の娘の安徳公主蒺䔧であった。帝が宴を開いたとき女官らが詩を詠じ、ある者が鮑照の楽府を詠じて言った。
『朱門・九重門・九閨、願わくば明月を逐いて君が懐に入らん。』
 帝は入関するさい明月だけを連れ、蒺䔧は自ら首を吊って死んだ。しかし、泰は元氏の諸王を唆して明月を殺させた。帝はこれに不快感を示し、ある時は弓を引いたり、ある時は机を押し倒したりした。これより帝と泰の間の間に亀裂が生じた。
 癸巳(15日)、嵩山の道士の潘弥孝武帝が即位する前に、天子の気があることをこれに伝えた。532年〈2〉参照)が上奏して言った。
「今日は突然の兵難が起こる可能性が非常に高うございます。」
 その夜、帝は逍遙園にて阿至羅国の使者をもてなす宴を開き、侍臣にこう言った。
「ここは洛陽の華林園を彷彿とさせる。なんとも遣り切れなくさせるではないか。」
 そこで愛馬のペルシャ馬の上に南陽王を乗せようとしたが、王が鞍に登ろうとした途端、馬は突如倒れて死んでしまった。帝はこれを不快に感じた。日が暮れて宮殿に還り、後門に到った際、帝の乗っていた馬が突然暴れ出して前に進もうとしなくなった。帝はこれに鞭をくれて無理やり宮殿に入り、弥にこう言った。
「今日は幸い、何事も無かったな。」
 弥は答えて言った。
「夜半を過ぎても何も無ければ、大吉でございまする。」
 それから間もなく帝は酒を飲み、崩御した。享年25であった《北孝武紀》帝は生前虎を従えた人を夢に見て、『お前は非常に貴い身分になり、二十五年にして亡くなるだろう』と言われたが、二十五年というのは在位の年数ではなく、寿命のことを指していたのである)。
 泰が喪を秘して群臣に次の皇帝を誰にすべきか諮ったところ、多くの者が孝武帝の兄の子の広平王賛の名を挙げた。そのとき侍中の濮陽王順が別室にて涙ながらに泰にこう言った《北15元順伝》
「高歓は先帝を都から逐ったばかりか、幼主を立てて專権を振るうなど僭越の限りを尽くし、天下から非難を浴びております。なれば、明公はこれと逆のことを行ない、天下に忠義の何たるかを示して期待に応えるべきであります。広平王は年幼でございますれば、これを立てず、別に成人した者を君主とするのがよろしいでしょう。」(北15元順伝では『「廣平雖親、年徳並茂、不宜居大宝。」』とある《資治通鑑》
 泰はそこで帝の死を公表し、太宰の南陽王宝炬時に28歳)を皇帝とすることを天下に告げた《北15元順伝》宝炬は7代宣武帝の弟の京兆王愉之の子である】(剛毅な性格で、歓の寵臣の高隆之を殴り飛ばした事がある。532年〈2〉参照)。
 孝武帝の遺骸は草堂寺に仮安置された。このとき諫議大夫の宋球が帝の死に慟哭して血を吐き、水や米粒でさえも口に入れない日が数日も続いた。泰は彼が名儒であることから不問に付した《出典?》
 泰は順を御史中尉・行雍州事とし、更に開府儀同三司・秦州刺史を加えた。

 順は字を敬叔といい、拓跋素427年4月参照)の曾孫である。孝武帝に従って入関し、濮陽王・侍中とされた。
 これより前、孝武帝は洛陽にいた時、華林園にて戯射を催した。帝は約二升の酒を入れることができる銀製の酒卮(酒杯)を百步以上の距離に吊るして景品とし、弓の使い手十余人にこれを射当てさせた。順が一矢で射当てると、帝は感嘆して酒卮の他に金帛も褒美として与えた。順は酒卮の穴(矢によってできた)を銀童()で塞ぎ、足の下に金蓮を置き、取っ手を削って火で炙り、背に己の弓技の冴えぶりを彫り込ませた。

○北史孝武紀
 帝之在洛也,從妹不嫁者三:一曰平原公主明月,南陽王同產也;二曰安德公主,清河王懌女也;三曰蒺䔧,亦封公主。帝內宴,今諸婦人詠詩,或詠鮑照樂府曰:「朱門九重門九閨,願逐明月入君懷。」帝既以明月入關,蒺䔧自縊。宇文泰使元氏諸王取明月殺之。帝不悅,或時彎弓,或時推案,君臣由此不安平。
 閏十二月癸巳,潘彌奏言:「今日當甚有急兵。」其夜,帝在逍遙園宴阿至羅,顧侍臣曰:「此處彷彿華林園,使人聊增悽怨。」命取所乘波斯騮馬,使南陽王躍之,將攀鞍,蹶而死,帝惡之。日晏還宮,至後門,馬驚不前,鞭打入。謂潘彌曰:「今日幸無他不?」彌曰:「過夜半則大吉。」須臾,帝飲酒,遇酖而崩,時年二十五。諡曰孝武。殯於草堂佛寺,十餘年乃葬雲陵。始宣武、孝明間謠曰:「狐非狐,貉非貉,焦梨狗子齧斷索。」識者以為索謂本索髮,焦梨狗子指宇文泰,俗謂之黑獺也。
○北15元順伝
 弟順,字敬叔,從孝武入關,封濮陽王,位侍中。及武帝崩,祕未發喪,諸人多舉廣平王為嗣。順於別室垂涕謂周文曰:「廣平雖親,年德並茂,不宜居大寶。」周文深然之,因宣國諱,上南陽王尊號。以順為中尉,行雍州事,又加開府儀同三司、秦州刺史。順善射。初,孝武在洛,於華林園戲射,以銀酒卮容二升許,懸於百步外,命善射者十餘人共射,中者即以賜之。順發矢即中,帝大悅,并賞金帛。順仍於箭孔處鑄一銀童,足蹈金蓮,手持剗炙,遂勒背上,序其射工。

┃閩越平定

 この年、梁が侍中の羊侃を雲麾将軍(六班)・晋安(中国東南岸)太守とした。
 晋安郡に住む閩越族は叛乱を良く起こし、前後の太守はこれを抑える事ができなかったが、侃がこれを討って渠帥の陳称・呉満らを斬ると郡内は粛然とし、叛乱を起こそうとする者はいなくなった。
 間もなく、侃は中央に呼び戻されて太子左衛率とされた。

○梁39羊侃伝
 六年,出為雲麾將軍、晉安太守。閩越俗好反亂,前後太守莫能止息,侃至討擊,斬其渠帥陳稱、吳滿等,於是郡內肅清,莫敢犯者。頃之,徵太子左衞率。