[北周:保定三年 北斉:河清二年 陳:天嘉四年 後梁:天保元年]
●連合成る
突厥は柔然を滅ぼして以降、長城以北の地を全て支配し、数十万の弓騎兵を擁する大国となっていた。
西魏の恭帝の時(554~556)、西魏は北斉と対抗するため、この突厥と婚姻を結び、援軍を派遣してもらおうと考えていた。木杆可汗⑴はこれに応じ、娘を宇文泰⑵に嫁がせることを約束したが、実行する前に泰は亡くなった。間もなく、木杆は他の娘を武帝⑶に嫁がせることを約束した。北斉はこれを知ると、北周と突厥が連合して攻めてくることを恐れ、同じく求婚の使者を派し、非常に多くの財貨を贈った。突厥領の東部を治めていた木杆の弟で地頭可汗の阿史那庫頭(平田陽一郎氏はこれをのちの他鉢可汗とする)は、北斉の使者を受け入れ、兄に先約を破棄することを提案した。木杆は財貨に目が眩んでこれを聞き入れた。
これより前、北周は西魏の時代に柔然と婚姻を結んだものの、結局北斉に付かれて裏切られたことがあった。北周はこの二の舞を避けるため、改めて御伯大夫[1]の楊荐⑷を正使、左武伯[2]の王慶⑸を副使とする使節を突厥に送った。木杆は荐らを捕らえて北斉に送ろうとした。荐はこれを知ると、厳しい顔つきをして木杆にこう言った。
「昔、太祖(宇文泰)は可汗と良好な関係を築こうと努力なさいました。蠕蠕(柔然)の部落数千が可汗に追われて逃げ込んできた時には、彼らをみな可汗の使者に引き渡し、可汗の意に添われたものです⑹。なのに、なぜ今可汗はにわかにその好誼に背こうとなされるのでしょうか。鬼神に対して恥ずかしいと思わないのですか?⑺」
その口調は激しく、その目からは涙がとめどなく流れ落ちた。
木杆は心を打たれ、暫くしてこう言った。
「貴君の言う通りだ。わしの腹は決まったぞ。共に東賊を討とう。それから娘を送ろうではないか。」
荐らが復命すると、朝廷は良く任を果たした事を以て荐を大将軍とした[3]⑻。
○資治通鑑
初,周人欲與突厥木桿可汗連兵伐齊,許納其女為后,遣御伯大夫楊荐及左武伯大原王慶往結之。齊人聞之懼,亦遣使求昏於突厥,賂遺甚厚。木桿貪齊幣重,欲執荐等送齊。荐知之,責木桿曰:「太祖昔與可汗共敦鄰好,蠕蠕部落數千來降,太祖悉以付可汗使者,以快可汗之意,如何今日遽欲背恩忘義,獨不愧鬼神乎﹖」木桿慘然良久曰:「君言是也。吾意決矣,當相與共平東賊,然後送女。」荐等復命。
○周9武帝阿史那皇后伝
武帝阿史那皇后,突厥木扞可汗俟斤之女。突厥滅茹茹之後,盡有塞表之地,控弦數十萬,志陵中夏。太祖方與齊人爭衡,結以為援。俟斤初欲以女配帝,既而悔之。高祖即位,前後累遣使要結,乃許歸后於我。
○周11晋蕩公護伝
初,太祖創業,即與突厥和親,謀為掎角,共圖高氏。是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。破齊長城,至幷州而還。
○周30竇毅伝
時與齊人爭衡,戎車歲動,竝交結突厥,以為外援。在太祖之時,突厥已許納女於我,齊人亦甘言重幣,遣使求婚。狄固貪婪,便欲有悔。朝廷乃令楊荐等累使結之,往反十餘,方復前好。
○周33楊荐伝
孝閔帝踐阼,除御伯大夫,進爵姚谷縣公。仍使突厥結婚。突厥可汗弟地頭可汗阿史那庫頭居東面,與齊通和,說其兄欲背先約。計謀已定,將以荐等送齊。荐知其意,乃正色責之,辭氣慷慨,涕泗橫流。可汗慘然良久曰:「幸無所疑,當共平東賊,然後發遣我女。」乃令荐先報命,仍請東討。以奉使稱旨,遷大將軍。
○周33王慶伝
初,突厥與周和親,許納女為后。而齊人知之,懼成合從之勢,亦遣使求婚,財饋甚厚。突厥貪其重賂,便許之。朝議以魏氏昔與蠕蠕結婚,遂為齊人離貳。今者復恐改變,欲遣使結之。遂授慶左武伯,副楊荐為使。
○周50突厥伝
時與齊人交爭,戎車歲動,故每連結之,以為外援。初,魏恭帝世,俟斤許進女於太祖,契未定而太祖崩。尋而俟斤又以他女許高祖,未及結納,齊人亦遣求婚,俟斤貪其幣厚,將悔之。至是,〔武帝〕詔遣涼州刺史楊荐、武伯王慶等往結之。慶等至,諭以信義。俟斤遂絕齊使而定婚焉。仍請舉國東伐。語在荐等傳。...敬鬼神。...自俟斤以來,其國富彊,有凌轢中夏志。
⑴木杆可汗...阿史那燕都。顔の広さが一尺余もあり、顔色は非常に赤く、眼は瑠璃色をしていた。剛情粗暴な性格で、才智に溢れ軍事に精通し、戦いを好んだ。555年に柔然を滅ぼし、556年には吐谷渾を攻めた。556年(4)参照。
⑵宇文泰...字は黒獺。507~556。孝閔帝・明帝・武帝の父。北魏末の混乱に乗じて関中に割拠し、西魏を建国した英雄。556年(4)参照。
⑶武帝...宇文邕。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。生年543、時に21歳。聡明・沈着で将来を見通す目を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いた。563年(3)参照。
[1]御伯大夫...唐六典曰く、『北周は天官府に御伯中大夫二人を置いた。天子の傍に付き従い、大祭祀の際に帝が手足を洗うと、手ぬぐいを渡した。武帝は御伯を納言と改めた(564年)。恐らく侍中と同様の職であろう。宣帝の末に別に侍中を置き、加官とした。』
⑷楊荐...字は承略。無欲で慎み深く、感情を表に出さなかった。宇文泰の譜代で、渉外を担当し、孝武帝や柔然への使者とされた。550年、西魏が北斉討伐の兵を興した際、柔然に赴き、西魏を攻めぬよう説得を行なった。550年(4)参照。
[2]左武伯...恐らく待衛の官であろう。
⑸王慶...字は興慶。幼少の頃より聡明で、弘農・沙苑の戦いに活躍し、多くの褒賞を賜った。晋公護に用いられて典籤とされると、難題を上手に処理して次第に目をかけられるようになった。560年に行小賓部下大夫とされて吐谷渾への使者とされ、国境の画定と和平の締結を行なった。562年(6)参照。
⑹555年(2)参照。
⑺突厥の人々は鬼神を敬っていた。
[3]考異曰く、『典略は保定二年の事とする。王慶伝には「この年、入并の役(晋陽攻め)を興した」とある。今はその記述に従った。』
⑻竇毅伝には『十余回に渡って楊荐らを突厥に派し、昔の友好状態に戻した』とある。
●北斉討伐
〔北周はここに至って北斉討伐を決意した。〕その際、高官たちは口を揃えてこう言った。
「斉氏(北斉)は天下の半ばを領有し、物資は豊富で、軍隊は精強であります。〔突厥と連合して〕漠北から并州に攻め入るにしても、その道のりは非常に険しく〔、攻め難いものがあります〕。その上、斉氏の大将には強敵の斛律明月(光)⑴がいるのです。ゆえに、本拠を突くには十万は必要だと考えます。」
しかし、〔柱国大将軍・大司空・〕隨国公の楊忠⑵のみこう言った。
「勝利に必要なのは和であって数ではありません。一万騎で充分であります。それに、明月はただの若僧です。一体何ができましょうや。」
戊子(27日)、忠を北斉討伐軍の元帥(総大将)とし、大将軍の楊纂⑶・李穆⑷・王傑⑸・爾朱敏および開府の元寿・田弘⑹・慕容延(北史は『近』)ら十余人を指揮して、突厥と共に北道より北斉を討つように命じた。
冬、10月、乙巳(14日)、開府の杞公亮⑺を梁州総管とした。
庚戌(19日)、陳の使者が長安に到着した。
○周武帝紀
戊子,詔柱國楊忠率騎一萬與突厥伐齊。冬十月...乙巳,以開府、杞國公亮為梁州總管。庚戌,陳遣使來聘。
○周10宇文亮伝
後襲烈公爵,除開府儀同三司、梁州總管。
○周11晋蕩公護伝
是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。
○周19楊忠伝
時朝議將與突厥伐齊,公卿咸曰:「齊氏地半天下,國富兵強。若從漠北入幷州,極為險阻,且大將斛律明月未易可當。今欲探其巢窟,非十萬不可。」忠獨曰:「師克在和不在眾,萬騎足矣。明月豎子,亦何能為。」三年,乃以忠為元帥,大將軍楊纂、李穆、王傑、爾朱敏及開府元壽、田弘、慕容延等十餘人皆隸焉。
○周50突厥伝
三年,詔隨公楊忠率眾一萬,與突厥伐齊。
⑴斛律光...字は明月。生年515、時に49歳。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれるようになった。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。562年、司空とされた。563年(1)参照。
⑵楊忠...字は揜于。生年507、時に57歳。武川出身。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏の姓を賜った。梁に二度身を置いたことがある。のち西魏に帰国すると、梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。北斉にて司馬消難が乱を起こすと、その保護に大きく貢献した。562年、大司空とされた。562年(4)参照。
⑶楊纂...広寧の人。もと東魏の安西将軍・武州刺史。武功に見合った褒賞を受けられなかったことを恨み、535年に西魏に寝返って征南将軍・大都督とされた。河橋・邙山の戦いで活躍し、莫胡盧氏の姓を賜り、561年、大将軍・隴東郡公とされた。561年(4)参照。
⑷李穆...字は顕慶。生年510、時に54歳。宇文泰に早くから仕えた。河橋の戦いにて窮地に陥った泰を救い、十度まで死罪を免除される特権を与えられた。のち江陵攻略に参加し、拓拔氏の姓を賜った。557年、甥の李植が宇文護暗殺を図って失敗すると、連座して平民に落とされた。のち、赦されて大将軍に復した。562年(5)参照。
⑸王傑...もとの名は文達。生年515、時に49歳。宇文泰に「一万人を相手にすることができる」と評された。邙山の戦いに活躍し、傑の名を与えられた。また、宇文氏の姓を与えられた。漢中攻略・江陵攻略に加わり、江陵では敵の勇者を一矢で射倒し、于謹に「我が大事を成すものは、公のこの矢である」と絶賛された。のち、武功大なるを以て出身の河州の刺史とされた。554年(3)参照。
⑹田弘...字は広略。生年510、時に54歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。561年、岷州刺史とされた。561年(4)参照。
⑺杞公亮...字は乾徳。宇文護の兄の宇文導の次子。
●周迪逃走
11月、辛酉(1日)、〔陳の護軍将軍の〕章昭達⑴が東興県・南城県にて周迪⑵軍を大破し、兵をみな捕虜とした。迪は身一つで逃亡し、山谷に隠れ潜んだ。臨川郡の住民は〔善政を布いていた迪を慕っていたため、〕争ってこれを匿い、〔怒った昭達が匿った者に〕処断を加えても、誰も口を割ろうとしなかった。
○陳文帝紀
十一月辛酉,章昭達大破周迪,悉擒其黨與,迪脫身潛竄。
○陳11章昭達伝
至東興嶺,而迪又退走。
○陳35周迪伝
迪又散于山谷。...至是竝共藏匿,雖加誅戮,無肯言者。
○陳35陳宝応伝
都督章昭達於東興、南城破迪。
⑴章昭達...字は伯通。生年518、時に46歳。豪快な性格で、福相の持ち主。戦いで片目を失明した。文帝に最も信頼され、王琳との決戦では随一の武功を立てた。561年、郢州刺史とされ、翌年、周迪の討伐に赴いた。今年、護軍将軍とされた。563年(3)参照。
⑵周迪...山谷育ちで狩猟を生業とし、並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。質素を好み、口数は少なかった。侯景の乱が起こると臨川の工塘に拠り、大勢力の間を上手く渡り歩いた。558年、陳に付いて王琳の遠征軍を大破したが、559年敗北を喫して一時行方知れずになった。560年、王琳の与党の熊曇朗を討伐した。去年、陳に叛いて兵を挙げたが敗れて陳宝応のもとに逃亡した。今年の秋、旧領の回復に赴いた。563年(3)参照。
●北周軍、晋陽に迫る
12月、辛卯(1日)、武帝が同州から長安に帰還した。
また、太保・柱国大将軍・鄭国公の達奚武⑴に三万の兵を与え、南道より平陽(晋州)に進み、期日までに晋陽にて楊忠らと合流するよう命じた。
〔北道より晋陽に進軍していた〕楊忠は、爾朱敏に什賁⑵を占拠させ、黄河一帯を守備させた。武川に到り、自宅のあった地を通ると、祖先の祭祀を行ない、将兵に酒食をふるまった。忠が陥とした砦は二十余に達した。
己酉(19日)、恒州に到ると軍を分かち、三道より晋陽に進軍した。北斉軍が陘嶺⑶の要害を守ると、忠は奇兵を用いてこれを大破した。この時、楊纂を霊丘⑷に留めて後方の防衛を任せた。また、この時、木汗可汗が地頭可汗・步離可汗らを連れ、十万騎を率いて忠軍に合流した[1]⑸。北斉の官民は殺人・略奪の悲運に遭った。
武成帝⑹はこの報を聞くと、鄴を発って晋陽に急行した。
戊午(28日)、晋陽に到着した。
これより前、帝は唐邕⑺を晋陽に急派し、兵馬を集合させていた。邕は道中にて突厥の侵攻が速いことを耳にすると、命令書に書かれていた期日よりも早めに兵士を集合させた。手遅れになる前に兵士の集結を完了できたのは、邕の力によるものだった。
また、〔司空の〕斛律光に三万の兵を与え、平陽を守らせた。また、開府儀同三司・梁州(陳留)刺史の皮景和⑻を鄴に急行させ、後軍を率いて并州(晋陽)に赴くよう命じた。
また、〔儀同三司の〕封子絵⑼を行懐州(河内。洛陽の東北)事とし、〔兵などの〕輸送を任せた。
己未(29日)、北周軍と突厥軍が晋陽に迫った。突厥の陣営は広大で、東は汾河(晋陽の近くを流れる川)、西は風谷山⑽にまで及んだ。一方、北斉軍は慌てて出陣したため、迎撃態勢が整っていなかった。武成帝はこれを見ると、宮女を連れて東に逃走しようとした。すると、趙郡王叡(11)と河間王孝琬(12)は馬首を叩いてこれを止め、孝琬がこう言った。
「趙郡王に差配を任せれば、直ちに態勢が整うでしょう。」
帝はこれを聞き入れ、叡に軍の配置などを任せ、〔太傅・〕并州刺史〔・平原王〕の段韶(13)に戦いの指揮を任せた。
この時、并州は寒気厳しく、大雪が月を跨いで降り続いており、南北千余里に渡って平地にも雪が数尺(一尺は約30cm。1〜2メートル)も積もっていた。
○資治通鑑
周楊忠拔齊二十餘城。齊人守陘嶺之隘,忠擊破之。突厥木桿、地頭、步離三可汗以十萬騎會之。己丑,自恒州三道俱入。時大雪數旬,南北千餘里,平地數尺。齊主自鄴倍道赴之,戊午,至晉陽。斛律光將步騎三萬屯平陽。己未,周師及突厥逼晉陽。齊主畏其彊,戎服率宮人東走,欲避之。趙郡王睿、河間王孝琬叩馬諫。孝琬請委睿部分,必得嚴整。帝從之,命六軍進止皆取睿節度,而使并州刺史段韶總之。
○周武帝紀
十有二月辛卯,至自同州。遣太保、鄭國公達奚武率騎三萬出平陽以應楊忠。
○北斉武成紀
冬十二月癸巳,陳人來聘。己酉,周將楊忠帥突厥阿史那木汗等二十餘萬人自恒州分為三道,殺掠吏人。是時,大雨雪連月,南北千餘里平地數尺,霜晝下,雨血於太原。戊午,帝至晉陽。己未,周軍逼并州,又遺大將軍達奚武帥眾數萬至東雍及晉州,與突厥相應。
○周11晋蕩公護伝
是年,乃遣柱國楊忠與突厥東伐。破齊長城。
○周19達奚武伝
其年,大軍東伐。隨公楊忠引突厥自北道,武以三萬騎自東道,期會晉陽。
○周19・隋1楊忠伝
又令達奚武帥步騎三萬,自南道而進,期會晉陽。忠乃留敏據什賁,遊兵河上。忠出武川,過故宅,祭先人,饗將士,席卷二十餘鎮(城)。齊人守陘嶺之隘,忠縱奇兵奮擊,大破之。又留楊纂屯靈丘為後拒。突厥木汗可汗控地頭可汗、步離可汗等,以十萬騎來會。...是時大雪數旬,風寒慘烈。
○周50突厥伝
忠軍度陘嶺,俟斤率騎十萬來會。
○北斉11河間王孝琬伝
初,突厥與周師入太原,武成將避之而東。孝琬叩馬諫,請委趙郡王部分之,必整齊,帝從其言。孝琬免冑將出,帝使追還。
○北斉16段韶伝
十二月,周武帝遣將率羌夷與突厥合眾逼晉陽,世祖自鄴倍道兼行赴救。突厥從北結陣而前,東距汾河,西被風谷。時事既倉卒,兵馬未整,世祖見如此,亦欲避之而東。尋納河間王孝琬之請,令趙郡王盡護諸將。
○北斉17斛律光伝
三年正月,周遣將達奚成興等來寇平陽,詔光率步騎三萬禦之。
○北斉21封絵伝
後突厥入逼晉陽,詔子繪行懷州事,乘驛之任。
○北斉41皮景和伝
尋加開府。二年,出為梁州刺史。三年,突厥圍逼晉陽,令景和馳驛赴京,督領後軍赴并州。
○北51趙郡王叡伝
河清三年,周師及突厥至并州,武成戎服,將以宮人避之,叡叩馬諫,乃止。帝親御戎,六軍進止,並令取叡節度,而使段孝先總焉。
○北55唐邕伝
河清元(三?)年,突厥入寇,遣邕驛赴晉陽,纂集兵馬。在路聞虜將逼,邕斟酌事宜,改敕,更促期會,由此兵士限前畢集。
⑴達奚武…字は成興。生年504、時に60歳。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。552年、漢中を陥とす大功を立てた。553年、玉壁の鎮守を任された。558年、司馬消難を迎え入れる役目を任された。今年、太保とされた。563年(2)参照。
⑵什賁...《読史方輿紀要》曰く、『《括地志》曰く、「夏州朔方県の北に什賁城がある。前漢の武帝が蘇建に築かせた城である。什賁の呼称は、恐らく異民族の言葉から来たものであろう。」宋白曰く、「什賁故城は徳静県の治所である。」』
⑶陘嶺…《読史方輿紀要》曰く、『陘嶺は、太原府の代州の西北二十五里にある。勾注山のことである。雁門山ともいう。《唐志》曰く、「西陘は関名である。雁門山の上にある。高い山々の間に険しく曲がりくねった一本の道があり、その一番高い所に関を置いた。これを西陘関といい、また雁門関と言った。西北七十里に朔州馬邑県が、南三十里に代州がある。」』
⑷霊丘...《読史方輿紀要》曰く、『大同府(平城)の東南三百五十里→蔚州の西南百五十里にある。西南二百三十里に代州繁峙県がある。漢の時、代郡に属した。趙の武霊王がここに埋葬されたという言い伝えから霊丘と名付けられた。』
[1]木杆は国を三部に分けた。木杆は中央を統べ、於都斤(ウトゥカン)山に居住した。地頭可汗は東方を、步離可汗は西方を統べた。
⑸北斉武成紀には北周軍・突厥軍合わせて『二十余万』とある。
⑹武成帝...高湛。北斉の四代皇帝。生年537、時に27歳。在位561~。高歓の第九子。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。563年(3)参照。
⑺唐邕...字は道和。記憶力抜群の能吏。歩兵の維持管理を任された。文宣帝に『唐邕の敏腕は千人に匹敵する』『判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができる。天下の奇才』『金城湯池』と評された。563年(3)参照。
⑻皮景和...生年521、時に43歳。騎射の名手で、山胡を討伐した際一人で数十人を射殺した。身軽ですばしこく、軍事の才能があったため、戦いに出るたび戦功を挙げた。親信副都督→庫直正都督とされ、北斉が建国されると左右大都督とされた。560年に武衛将軍、561年に武衛大将軍・開府、562年に梁州刺史とされた。563年(4)参照。551年(5)参照。
⑼封子絵...字は仲藻。高歓の挙兵に大きく貢献した封隆之の子。気遣いが上手く、器量があった。邙山の戦いで勝利した際、長安まで攻め込むことを主張したが聞き入れられなかった。高歓の臨終の際、山東の巡撫を託された。556年、合州刺史とされると、直ちに防備を完璧なものとし、遠征軍の大敗によって動揺した州の人心を落ち着けた。557年には陳の侵攻を退けた。562年に冀州にて平秦王帰彦が叛乱を起こすと、冀州に派遣されて住民の説得に当たった。562年(4)参照。
⑽風谷山...《読史方輿紀要》曰く、『太原県の西十五里にある。』
(11)趙郡王叡...高歓の弟の子。生年534、時に30歳。身長七尺の美男子。幼くして父の処刑に遭い、歓に引き取られて育てられた。常に深夜まで勉学に励み、定州刺史とされると良牧の評価を受けた。のち、長城の建設の監督を命じられた。孝昭帝が亡くなると、遺託を受けて武成帝を迎えた。去年、尚書令とされた。563年(3)参照。
(12)河間王孝琬...武成帝の兄の高澄の第三子、嫡子。生年541、時に23歳。中書監や尚書左僕射を歴任した。563年(3)参照。
(13)段韶...字は孝先。婁太后(武成帝の母)の姉の子。知勇兼備の将。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。562年(4)参照。
●一騎討ち
連合軍が晋陽に迫った時、北斉は開府の綦連猛⑴に三百騎の勇士を率いて敵情を偵察させた。猛らは北十五里の地点にて〔早くも〕連合軍の先鋒に出くわした。猛は敵が多勢であるのを見ると、徐々に退却を始めた。この時、連合軍の中から一人の勇将が出てきて、一騎討ちを求めてきた。猛はこれを望見すると、即座に打って出て戦った。猛は一瞬にして勇将を刺して落馬させ、これを斬り殺した。
○北斉41綦連猛伝
河清二年,加開府。突厥侵逼晉陽,勑猛將三百騎覘賊遠近。行至城北十五里,遇賊前鋒,以敵眾多,遂漸退避。賊中有一驍將,超出來鬭。猛遙見之,即亦挺身獨出,與其相對,俯仰之間,刺賊落馬,因即斬之。
⑴綦連猛...字は虎児。怪力の持ち主で、弓・馬の扱いに長けた。爾朱栄に親信とされ、爾朱氏に忠義を尽くした。爾朱氏が滅ぼされると高歓に仕えた。のち、中外府帳内都督→東秦州刺史→武衛将軍→武衛大将軍→領左右大将軍などを歴任し、禁軍を率いて数々の戦いに活躍した。
563年(5)に続く