[北魏:正光五年 梁:普通五年]

北伐軍の進撃

 冬、10月、戊寅(1日)、梁の宣毅将軍(十七班)・豫州(合肥)刺史の裴邃と平北将軍(二十班)・北青兗二州刺史の元樹が〔彭城の東北にある〕北魏の建陵城を攻め、陥落させた
 辛巳(4日)、更に〔建陵の西にある?〕曲沭を抜いた。
 また、掃虜将軍(九班)の彭宝孫が〔建陵の東北にある〕琅邪を抜いた。

○梁武帝紀
 冬十月戊寅,裴邃、元樹攻魏建陵城,破之。辛巳,又破曲木(沭)。掃虜將軍彭寶孫剋琅邪。

 ⑴裴邃…字は淵明。文才があり、左伝に通じた。南斉の代に北魏に降っていたが、502年に梁に亡命した。以降軍才を示して多くの武功を挙げた。普通二年(521)頃に督豫州北豫霍三州諸軍事・豫州刺史とされた。今年の6月、督征討諸軍事とされ、北伐に向かった。9月、寿陽を攻めて外城を陥としたが結局撃退された。524年(2)参照。
 ⑵元樹…字は秀和(君立?)。生年484、時に41歳。北魏の献文帝の孫で、咸陽王禧の子。美男で談論を得意とし、将略を有した。509年に梁に亡命し、鄴王とされた。今年の6月、平北将軍・北青兗二州刺史とされ、北伐に赴いた。524年(1)参照。
 ⑶建陵城…《読史方輿紀要》曰く、『揚州府の北三百二十里→淮安府(北兗州)の北百七十里→沭陽県の西北にある。郯郡の治所である。
 ⑷裴邃伝にこの戦いに参加した記述は無く、本紀にはある。また、通鑑にはこの記事の前に『河間王琛軍至西硤石,解渦陽圍,復荊山戍。青、冀二州刺史王神念與戰,為琛所敗』という記事を載せているが、魏57崔孝芬伝に『河間王琛らは城父に軍を留めて何ヶ月も進軍しなかった』とあり、その後525年にようやく寿陽に赴いている。琛らの出陣は524年9月の事なので、記述と合致する。梁本紀・28裴邃伝でも525年1月〜5月の間に琛らは裴邃と寿陽で戦った事が読み取れるので、以上から推察するにその記事をここに置くことは誤りのように思われる。
 ⑸曲沭…《読史方輿紀要》曰く、『沭陽県の西北にある。建陵の次に攻めたのだから、恐らく建陵の西にあったのだろう。』『沭水は厚丘県にて二つに分かれる。魏の正光年間に斉王の蕭宝寅が徐州刺史となった際、沭水に大堰を作って水を西に流し、二つの水路の合流地点に曲沭戍を置いた。
 ⑹琅邪…《読史方輿紀要》曰く、『兗州府の東三百六十里→州の東南五十里にある。

┃営州の乱
 これより前、北魏はもと京兆王府諮議参軍の李仲遵を左将軍・営州(昌黎。山海関の東北)刺史とした。この時、国中の州鎮にて叛乱が相次いでおり、営州城内にも城民の劉安定本姓は独孤?)・就徳興本姓は菟頼)を中心に不穏な空気が充満していた。
 仲遵は〔彼らを刺激せぬように〕少人数で州に赴き、大使の盧同昌黎太守や営州長史を務めたことがある)と共に説得に当たった。しかし、送った使者はみな殺害された。同はそこで安定らの家族三十人を釈放すると共に、解放して良民とした家奴に手紙を持たせて安定らの説得をさせた。すると安定らは帰順し、仲遵らを受け入れた。同は城内を安撫して帰還した。
 のち、朝廷は同を幽州刺史・兼行台尚書とし、北辺を慰労させた。同は北辺の人々を信じることができず、兵を集めてから赴こうとした。安定らは同が兵を集めているのは自分たちを討伐するためだと考えた。
 この月(10月、安定らが叛乱を起こして仲遵を捕らえ、その子の李清石・李阿罕と共に殺害した。兄の子の李徽仁のみ逃れることができた。
 のち、城民の王悪児が安定を斬って北魏に降ると、徳興は東方に逃れ、燕王を自称した。
 盧同が討伐に赴いたが、大敗を喫して帰った(詳細な時期は不明)。

○魏孝明紀
 冬十月,營州城人劉安定、就德興據城反,執刺史李仲遵。城人王惡兒斬安定以降。德興東走,自號燕王。
○魏39李仲遵伝
 元珍弟仲遵,有業尚(器業)。彭城王勰為定州,請為開府參軍。累轉員外散騎常侍、游擊將軍、太中大夫。出為京兆內史。大將軍、京兆王繼西伐,請為諮議參軍。尋除左將軍、營州刺史。時四方州鎮謀逆,叛亂相續,營州城內,咸有異心。仲遵單車赴州,既至,與大使盧同以恩信懷誘,率皆怡悅。後肅宗又詔盧同為行臺,北出慰勞。同疑彼人情難信,聚兵將往。城民劉安定等先有異志,謂欲圖己,還相恐動,遂執仲遵。二子清石、阿罕,尋亦見殺。唯兄子徽仁得免。
○魏76盧同伝
 營州城民就德興謀反,除同度支尚書,黃門如故,持節使營州慰勞,聽以便宜從事。同頻遣使人,皆為賊害,乃遣賊家口三十人,并免家奴為良,齎書諭德興,德興乃降。安輯其民而還。德興復反,詔同以本將軍為幽州刺史,兼尚書行臺慰勞之。同慮德興難信,勒眾而往,為德興所擊,大敗而還。

 ⑴盧同…字は叔倫。名門の范陽盧氏の出身。八尺の長身で堂々とした姿をしていて、世渡りが上手かった。豫州の乱や秦州の乱の平定に活躍した。

┃北海王、西討に赴く
 これより前、自称高平王の胡琛は北魏に敗れ北方に逃れていた(4月頃)が、〔やがて勢力を盛り返し、〕部将の宿勤明達・叱干騏驎らに豳・夏・北華の三州を荒らし回らせるまでになった。
 
 壬午(10月5日)、北魏はそこで都督の北海王顥を使持節・仮征西将軍・都督華豳東秦諸軍事・西〔北?〕道行台左僕射とし、諸将を率いて討伐に赴くよう命じた。

○魏孝明紀
 胡琛遣其將宿勤明達寇豳、夏、北華三州。壬午,詔都督北海王顥率諸將討之。
○魏21元顥伝
 其後,賊帥宿勤明達、叱干騏驎等寇亂豳華諸州,乃復顥王爵,以本將軍加使持節、假征西將軍、都督華豳東秦諸軍事、兼左僕射、西道行臺,以討明達。

 ⑴胡琛…勅勒族の酋長。524年、高平鎮民が反乱を起こすと推戴されて高平王となったが、北魏に敗れて北方に逃走した。524年(1)参照。
 ⑵北海王顥…字は子明。孝文帝の弟の北海王詳の子。豪気な性格をしていた。徐州刺史とされたが、523年、汚職を働いた廉で除名された。今年、復帰を許され、都督として莫折念生の討伐に赴いた。524年(2)参照。
 ⑶この時、蕭宝寅も西道行台を務めているので、重複する。ゆえに、誤りか、西北道行台なのかもしれない。魏41源子雍伝は顥の官職を『大行台』としている。

┃源父子の節義と二夏保全

 これより前、破六韓抜陵が叛乱を起こすと、北魏の朔方胡が叛き、夏州刺史の源子雍生年488、時に37歳)の籠る統万城を包囲した。
 子雍が上表して援軍を求めると、朝廷はその子の源延伯生年504、時に21歳)に羽林兵一千を与えて救援に赴かせた。 
 延伯は以前南秦州にて叛乱が起きた際(521年12月)、都督の河間王琛の指揮下、統軍として常に先陣を切り勇戦した。この時、軍司として従軍していた子雍の弟の源子恭は、彼がまだ年若く(18歳)未熟なのを見て叱りつけてやめさせようとしたが、とうとう言うことを聞かなかった。
 延伯は統万城下に辿り着くと三軍に冠たる武勇を示し、見事に入城することに成功した。
 しかし籠城が長引くと、城中は食尽き、人々は馬の皮を煮て飢えを凌ぐ有り様となった。それでも子雍の統率宜しきを得て誰も二心を抱かず、力を尽くして戦い続けた。
 子雍はこの窮状を見て、自ら城外に出て食糧を求めに行くことを思い立ち、その間の留守は子の延伯に任せることにした。すると将佐らが口を揃えて言った。
「今天下離反相次ぎ、統万は食糧尽き援軍も来ない有り様です。父子共にお逃げなさり、後図を策すべきです。」
 それを聞くや子雍は泣いて言った。
「我が家は代々国恩を受けてきた身。故にこの城と運命を共にするのが当然なのだ。しかし今食尽き防衛に支障が出たから、やむなく城を出て東州[1]に行き、諸君のために数ヶ月の食糧を取ってこようとするだけである。もし運良く手に入れることができたら、必ず帰還して諸君と共にこの城を守りきる所存だ。」
 かくて子雍は防衛戦に支障が出ぬよう傷病者のみを連れて東夏州に向かい、延伯らは涙を流してこれを見送った。
 しかし子雍は行くこと数日にして、賊将の曹阿各抜に待ち伏せを受け捕らえられてしまった。それでも子雍は密かに城に密使を送って城中の者にこう言った。
「援軍が間近に迫っているゆえ、諸君は動揺せず戦い続けよ。努力して防衛し続ければ、必ず子孫に田畑を残せるぞ。」
 更に延伯にも一通書き送り、変わらず将兵らと共に城を守り続けるよう命じた。
 延伯は留守を任されたのち兵士と共に汁物を分け合って食べ、空堀を深くして防戦に務めていた。そこに子雍捕らわるの一報が届くと、城中は重々しい空気に包まれたが、延伯は彼らにこう諭して言った。
「我が父の生死は未だ分からず、我が心は張り裂けんばかりだ。しかし私はその父に城の防衛を託されており、その重大な使命に背くことはできない。そもそも、私が国益より私情を優先することなど絶対に無い! 諸君も我が意を体し、名節を汚さぬようにしてほしい!」
 将兵はその節義に感動し、奮い立たぬ者は無かった。朝廷はこれを聞くと延伯を褒め称え、龍驤将軍(従三品)・行夏州事・五城県開国子(邑三百戸)とした。
 また子雍も囚われの身となったとはいえ、胡人に常に刺史として遇されると、彼らに事の利害を分かりやすく教え、阿各抜に降るよう説得を続けていた。阿各抜がこれに心動きかけた所で死ぬと、その弟の曹桑生が遺志を継ぎ、遂に部衆と共に子雍に降った。
〔かくて自由の身となった〕子雍は行台の北海王顥のもとに行くと、賊を討つことができる理由を事細かに説明した。顥はそこで子雍に兵馬を授け、統万救援軍の先鋒とした。
 時に東夏州はどこも叛乱軍で満ちていたが、子雍は戦いながら進軍を続け、三ヶ月の間に数十戦して遂に東夏州の平定に成功した。そしてそこで徴収した穀物を約束通り統万に運び入れると、二夏は全て魏有のまま保持されることとなった。

 子雍は字を霊和といい、源懐501年11月参照)の子である。若年の頃から文学を好んで学問に励み、真心を以て教養のある者と接したので、彼らの多くから支持を得た。出仕して秘書郎とされ、のち太子舍人・涼州中正とされた。孝明帝が即位すると東宮の臣だった事を以て奉車都尉(天子の輿・車の管理を司り、天子の外出に随行する)とされ、のち司徒属とされた。次いで太中大夫・司徒司馬・恒農太守を歴任したのち、夏州刺史とされた。

○魏41源子雍伝
 玄諒弟子雍,字靈和。少好文雅,篤志於學,推誠待士,士多歸之。自祕書郎,除太子舍人、涼州中正。肅宗踐阼,以宮臣例轉奉車都尉,遷司徒屬。轉太中大夫、司徒司馬。除恒農太守,遷夏州刺史。時沃野鎮人破落汗拔陵首為反亂,所在蜂起,統萬逆胡,與相應接。子雍嬰城自守,城中糧盡,煮馬皮而食之。子雍善綏撫,得士心,人人戮力,無有離貳。以飢饉轉切,欲自出求糧,留子延伯據守。僚屬僉云:「今天下分析,寇賊萬重,四方音信,莫不斷絕,俄頃之間,變在不意,何宜父子如此分張?未若棄城俱去,更展規略。」子雍泣而謂眾曰:「吾世荷國恩,早受藩寄,此是吾死地,更欲何求!然守禦以來,歲月不淺,所患乏糧,不得制勝。吾今向東州,得數月之食,還與諸人保全必矣。」遂自率羸弱,向東夏運糧。延伯與將士送出城外,哭而拜辭,三軍莫不嗚咽。子雍行數日,為朔方胡帥曹阿各拔所邀,力屈見執。子雍乃密遣人齎書,間行與城中文武云:「大軍在近,努力圍守,必令諸人福流苗裔。」又敕延伯令共固守。子雍雖被囚執,雅為胡人所敬,常以民禮事之。子雍為陳安危禍福之理,勸阿各拔令降,阿各拔將從之,未果而死。拔弟桑生代總部眾,竟隨子雍降。時北海王顥為大行臺,子雍具陳賊可滅之狀。顥給子雍兵馬,令其先行。時東夏合境反叛,所在屯結。子雍轉鬬而前,九旬之中凡數十戰,仍平東夏,徵稅租粟,運於統萬。於是二夏漸寧。
○魏41源延伯伝
 長子延伯,…初為司空參軍事。時南秦民吳富反叛,詔以河間王琛為都督,延伯叔父子恭為軍司。延伯為統軍,隨子恭西討,戰必先鋒。子恭見其年幼,常訶制之而不能禁。子雍在夏州,表乞兵援,詔延伯率羽林一千人赴之,城鬬野戰,勇冠三軍。子雍之向東夏,留延伯城守,付以後事。延伯與兵士共分湯菜,防固城隍。及子雍為胡所執,合城憂懼,延伯乃人人曉喻曰:「吾父吉凶不測,方寸焦爛,實難裁割。但奉命守城,所為處重,若以私害公,誠孝並闕,諸君幸得此心,無虧所寄。」於是眾感其義,莫不勵憤。朝廷聞而嘉之。除龍驤將軍,行夏州事,封五城縣開國子,食邑三百戶。卒能固守。

 [1]東州…東州は、東夏州の事である。

北伐軍、怒涛の進撃
 甲申(10月7日)、梁将の彭宝孫が〔兗州の東の〕檀丘を抜いた。
 これより前、豫州刺史の裴邃は寿陽から退却したのち、軍容を整え兵を集めていた。邃は諸部隊をそれぞれ異なる色の服にして区別し、自らは黄袍(黄色のマント)を着て騎兵を率いた。
 辛卯(14日)、邃が〔再び寿陽に進軍し、その南にある〕狄城を抜いた。
 丙申(19日)、更に甓城を抜き、進撃して黎漿に駐屯した。
 壬寅(25日)、北魏の東海太守の韋敬欣が〔彭城の東南にある〕司吾城と共に降った。
 梁の定遠将軍の曹世宗が〔寿陽の東にある〕曲陽を抜いた。
 甲辰(27日)、世宗が更に秦墟を抜いた。
 北魏の守将たちは大半が力戦せずに城を棄てて逃走した。

○梁武帝紀
 甲申,又剋檀丘城。辛卯,裴邃破狄城。丙申,又剋甓城,遂進屯黎漿。壬寅,魏東海太守韋敬欣以司吾城降。定遠將軍□□太守曹世宗破魏曲陽城。甲辰,又剋秦墟。魏郿、潘溪守悉皆棄城走。
○梁28裴邃伝
 於是邃復整兵,收集士卒。令諸將各以服色相別。邃自為黃袍騎,先攻狄丘、甓城、黎漿等城,皆拔之。

 ⑴檀丘…《読史方輿紀要》曰く、『兗州府の東九十里→泗水県の東五十里→卞県の東南にある。
 ⑵狄城…《読史方輿紀要》曰く、『廃成徳県の南にある。即ち荻丘のことである。《水経注》曰く、「荻丘より肥水が流れ、肥水は漢の九江郡成徳県故城の西を経て、芍陂(寿陽の南にある湖)に入る。」南北朝時に荻城が置かれた。またの名を狄城という。』
 ⑶甓城…《読史方輿紀要》曰く、『恐らく狄城に近い所にあったのだろう。
 ⑷黎漿…《読史方輿紀要》曰く、『寿州の東南にある。
 ⑸司吾…邳州の東南百二十里→宿遷県の西北にある。
 ⑹曲陽…《読史方輿紀要》曰く、『鳳陽府(北徐州)の南九十里→定遠県の西北九十五里にある。』『寿州の東北八十三里に故西曲陽城がある。
 ⑺秦墟…《水経注》曰く、『洛水は淮南の曲陽故城を経由し、北上して秦墟を通る。』即ち秦墟は曲陽の北にある。

北討軍、平城に撤退
〔これより前(7月)、李崇は北討大都督とされて破六韓抜陵の討伐に赴いていたが、部下の崔暹が勝手に白道の北にて戦って大敗すると劣勢になり、雲中に退いていた。〕
 北魏の北討都督の広陽王淵が上奏して言った。
「現在北辺は六鎮がことごとく叛し、高車二部もまたこれに与同している状況です[1]。これに疲兵で立ち向かって勝つ道理は全く無いでしょう。故に、ここはよりすぐった精兵に恒州の要地を守らせ、改めて後図を策すのが宜しいかと存じます。」
 、かくて李崇と共に平城(恒州の治所)に退却した。崇はその際諸将に尋ねて言った。
「雲中は白道の要衝であり、賊の喉元である。もしこの地を失えば、并・肆州が危機に瀕するだろう。故に誰か一人をここに留まらせ防衛を引き続き行なわせたいのだが、誰が適任だろうか﹖」
 諸将は一致して言った。
費穆以上の者はおりません。」
 崇はそこで奏請して別将の費穆を雲州刺史とした
 穆は戦乱で離散した人々に〔支援を行なって〕再び集合させ、非常な人気を博した。

◯魏孝明紀
 秋七月…戊午,…都督崔暹失利于白道,大都督李崇率眾還平城。…丁丑…。
○魏18広陽王深伝
 深後上言:「今六鎮俱叛,二部高車,亦同惡黨,以疲兵討之,不必制敵。請簡選兵,或留守恒州要處,更為後圖。」
○魏44費穆伝
 及六鎮反叛,詔穆為別將,隸都督李崇北伐。都督崔暹失利,崇將班師,會諸將議曰:「朔州是白道之衝,賊之咽喉,若此處不全,則并肆危矣。今欲選諸將一人,留以鎮捍。不知誰堪此任?」僉曰:「無過穆者。」崇乃請為朔州刺史,仍本將軍,尋改除雲州刺史。穆招離聚散,頗得人心。
○魏66李崇伝
 崇與廣陵王淵力戰,累破賊眾,相持至冬,乃引還平城。

 ⑴李崇…字は継長。生年455、時に70歳。北魏の名臣。文成皇后の兄の子。もと揚州刺史。『臥虎』と呼ばれる数千人の精鋭部隊を率い、十年に渡って梁から揚州を守り抜いた。去年、老齢を押して阿那瓌の討伐に向かったが、捕捉できずに終わった。この時、改鎮為州を求めた。間もなく六鎮の乱が起こるとこの求めが鎮民にあらぬ心を生じさせたのではないかと問題視され、罰としてその平定を命じられ、北討大都督とされた。524年(1)参照。
 ⑵破六韓抜陵…沃野鎮民。523年、人々を集めて叛乱を起こし、鎮将を殺して年号を真王と定めた。524年5月、討伐に来た臨淮王彧を五原にて大破した。7月、彧の代わりに討伐に来た李崇の部下の崔暹を白道の北にて大破し、その勢いに乗って崇軍を雲中に追いやった。524年(2)参照。
 ⑶崔暹…字は元欽。薄情な性格で、勢族に取り入るのが上手かった。南兗州刺史・豫州刺史となったが共に汚職によって解任された。のち瀛州刺史となっても変わらず汚職にまみれた政治を行ない、「癩兒(無頼。無法者)刺史」と罵られた。524年、李崇の指揮のもと破六韓抜陵の討伐に赴いたが、命令に背いて勝手に白道の北にて戦って大敗を喫し、洛陽に逃走した。間もなく逮捕されたが、妓女や田園を権臣の元叉に贈って罪を免れた。524年(2)参照。
 ⑷広陽王淵…字は智遠。生年485、時に40歳。元嘉(三代太武帝の孫)の子。肆州刺史を務めた時は恩徳と信義を信条に政治を行ない、胡人の懐柔に成功したが、賄賂を好んだ。今年の5月、北討都督とされ、破六韓抜陵の討伐に向かった。改鎮為州を進言した。524年(2)参照。
 [1]高車は487年、阿伏至羅の代に窮奇と二部に分かれた。これがいわゆる東西部の勅勒である。
 ⑸費穆…字は朗興。本姓は費連氏。梁国鎮将の費万の子。生年477、時に48歳。剛毅・苛烈な性格。読書家で、功名心が強かった。涇州平西府長史とされると、その刺史で胡太后の母の兄である事を笠に着て非法行為を繰り返していた皇甫集を忖度なく諌めた。河陰令とされると厳正な統治を行なった。521年、柔然の可汗の婆羅門が涼州にて降ったのちにその部衆が暴れるとその慰撫を任された。522年、部衆が再び叛乱を起こすと西北道行台とされてその討伐に赴き、弱体と見せかけて誘引し、大破した。六鎮の乱が起こると別将とされて李崇の指揮のもと北伐に赴いた。
 ⑹『魏書』44費穆伝では朔州刺史、のち雲州刺史とされている。ちなみに本紀ではこの出来事を7月(改鎮為州の前)の事としている。

┃李崇失脚
 この時、李崇は国子博士の祖瑩を長史としていたが、瑩が戦功の水増しと軍用物資の横領の罪で広陽王淵に訴えられ、除名処分に遭うと、崇も連座して免官・削爵となり、洛陽に召還された。これより北討軍の指揮は淵一人に委ねられることとなった。

◯魏孝明紀
 大都督李崇率眾還平城,坐長史祖瑩截沒軍資,免除官爵。
◯魏18広陽王深伝
 及李崇徵還,深專總戎政。…又驃騎長史祖瑩,昔在軍中,妄增首級,矯亂戎行,蠹害軍府,獲罪有司,避命山澤。
◯魏66李崇伝
 淵表崇長史祖瑩詐增功級,盜沒軍資。崇坐免官爵,徵還,以後事付淵。
◯魏82祖瑩伝
 後侍中崔光舉為國子博士,仍領尚書左戶部。李崇為都督北討,引瑩為長吏。坐截沒軍資,除名。

 ⑴祖瑩…字は元珍。名門の范陽祖氏の出。非常な読書家で、夜中でも本を読みふけり、両親に禁止されると灰の中に火種を隠し、親が寝た後に火をつけて読書し、衣服で窓や戸を覆って光が外に漏れないようにした。親類一同から『聖小児』と呼ばれ、高允にも高い評価を受けた

莫折天生の東進


〔これより前(6月)、北魏の雍州刺史の元志は西征都督とされて秦州の莫折念生の討伐に赴いていたが、のち隴口にて大敗を喫し(8月)、岐州に逃れていた。〕
 莫折天生が北魏の歧州に進攻した。刺史の裴芬之は城民と賊が密かに通じているのではないかと疑い、彼らをことごとく城外に追い出そうとしたが、元志に拒否された。
 11月、戊申(2日)、果たして城民が門を開けて天生を引き入れ、岐州は陥落した。天生は志と芬之を捕らえて上邽(秦州)の莫折念生のもとに送った。念生は二人を殺害した。

 裴芬之は字を文馥といい、〔南斉の豫州刺史の裴叔業の子である。〕性格が素晴らしく、施しを好み、弟たちと仲睦まじかった。南斉の明帝に仕えて羽林監とされた。〔のち父が身の危険を感じて北魏に降ろうとした時、〕人質として送られた(500年)。父の勲功によって通直散騎常侍・上蔡県開国伯(邑七百戸)とされた。また、広平内史とされたが、固辞して受けなかった。のち輔国将軍・東秦州刺史とされると清廉・簡明な事で称賛を受けた。のち中央に召されて征虜将軍・太中大夫とされ、山茌県伯とされた。のち後将軍・岐州刺史とされた。

 念生は更に卜胡・王慶雲らに涇州へ進攻させた。北魏はこれに対し薛巒を持節・光禄大夫・仮安南将軍・西道別将とし、〔西道都督の〕伊瓫生らと共に討伐に向かわせたが、平涼の東にて敗北した。
 巒はのちに撫軍将軍・汧城(東秦州)大都督とされ、北隴を鎮守した。

 薛巒は、薛安都466年10月参照)の孫である。尚書郎・秦州刺史・鎮遠将軍・隴西鎮将・隴西太守・滎陽太守・平北将軍・肆州刺史などを歴任した。これまでも激しく汚職を行なっていたが、肆州刺史となるといっそう酷くなった。のち司空の劉騰に賄賂を送って高い官職を求めたが、その見返りが来る前に騰が死んでしまった。

○魏孝明紀
 十有一月戊申,莫折天生攻陷岐州,執都督元志及刺史裴芬之。
○魏14元志伝
 及莫折念生反,詔志為西征都督討之。念生遣其弟天生屯隴口,與志相持。為賊所乘,遂棄大眾奔還岐州。賊遂攻城。刺史裴芬之疑城人與賊潛通,將盡出之,志不聽。城人果開門引賊,鎖志及芬之送念生,見害。
◯魏44伊瓫生伝
 復為西道都督。
◯魏59蕭宝寅伝
 遣天生率眾出隴東,攻沒汧城,仍陷岐州,執元志、裴芬之等。
○魏61薛巒伝
 子巒,襲爵,降為平溫子。尚書郎、秦州刺史、鎮遠將軍、隴西鎮將,帶隴西太守。後為滎陽太守,遷平北將軍、肆州刺史。所在貪穢,在州彌甚。納賄於司空劉騰,以求美官,未得而騰死。正光五年,莫折念生反於秦州,遣其別帥卜胡、王慶雲等眾寇涇州。肅宗以巒為持節、光祿大夫、假安南將軍、西道別將,與伊瓫生等討之。進及平涼郡東,與賊交戰,不利,巒等退還。後為撫軍將軍、汧城大都督,鎮北隴。
○魏71裴芬之伝
 蒨之弟芬之,字文馥。長者,好施,篤愛諸弟。仕蕭鸞,歷位羽林監。入國,以父勳授通直散騎常侍,上蔡縣開國伯,食邑七百戶。除廣平內史,固辭不拜。轉輔國將軍、東秦州刺史,在州有清靜之稱。入為征虜將軍、太中大夫。徙封山茌縣。出為後將軍、岐州刺史。正光末,元志西討隴賊,軍敗退守岐州,為賊所圍。城陷,志與芬之並為賊擒送於上邽,為莫折念生所害。贈平東將軍、青州刺史。

 ⑴元志…字は猛略。河間公斉の孫。読書家で文才があった。孝文帝が南伐に赴いた時、帝を庇って矢を受け、片目を失明した。のち荊州刺史を務めた際、良民の女性を無理やり奴隷にして弾劾を受けた。揚州刺史となると李崇ほどではないものの良く南朝を威圧した。雍州刺史となると贅沢に溺れ、評判を落とした。524年6月、西征都督とされて莫折念生の討伐に赴いたが、隴口にて大敗を喫し、岐州に逃れた524年(2)参照。
 ⑵莫折念生…秦帝。秦州にて自立し、秦王となった莫折大提の第四子。天子を称し、百官を置き、年号を天建とした。524年(2)参照。
 ⑶莫折天生…秦州の群雄の莫折念生の弟(孝明帝紀や崔延伯伝では「兄」とある)。念生が即位すると高陽王とされ、関中攻略に向かった。524年(2)参照。
 ⑷卜胡…或いは卜朝。莫折大提の部下。524年に高平鎮を陥とした。524年(1)参照。
 ⑸伊瓫生…本姓は伊婁氏で北魏の支流の出。司空・河南公の伊馛の孫。崔延伯に次ぐ名将。
 ⑹劉騰…字は青龍。?~523。宦官。元叉と共に朝廷を牛耳った。

北伐軍、寿陽に迫る

 丙辰(11月10日)、梁の掃虜将軍の彭宝孫が〔琅邪に続いてその東北にある〕東莞を抜いた。
 壬戌(16日)、豫州刺史の裴邃が寿陽の〔南にある〕安城を攻めた。
 丙寅(20日)、馬頭・安城・沙陵その東北が共に梁に降った。

○梁武帝紀
 十一月丙辰,彭寶孫剋東莞城。壬戌,裴邃攻壽陽之安城,剋之。丙寅,魏馬頭、安城並來降。
○梁28裴邃伝
 屠安成、馬頭、沙陵等戍。

 ⑴東莞…《読史方輿紀要》曰く、『莒州(東莞)は青州府の南三百里、膠州の西南二百八十里、沂州(琅邪)の東北二百七十里、海州の北四百七十二里にある。
 ⑵安城…《読史方輿紀要》曰く、『寿州(寿陽)の南にある。』
 ⑶馬頭…《読史方輿紀要》曰く、『寿州の西北二十里にある。淮水沿岸を防備する砦である。

┃関西の動乱
〔これより前(4月)、高平鎮民は叛乱を起こし、勅勒族酋長の胡琛を推戴して高平王としていたが、間もなく琛は北魏に敗れ、北方に逃走した。のち、琛は勢力を盛り返し、部将の宿勤明達・叱干騏驎らに豳・夏・北華の三州を荒らし回らせるまでになっていた。〕
 この月(11月、高平の人々が卜胡を攻め殺し、一致して前主の胡琛を迎え入れた。

 莫折天生の軍が黒水(長安の西南百六十里辺り)にまで到った。
壬申(26日)、朝廷はそこで尚書左僕射・斉王の蕭宝寅を代わりに西道行台・大都督とし、崔延伯元顥を都督として討伐に当たらせることとした。
 乙亥(29日)孝明帝が明堂にて彼らのために餞別の宴を開いた。〉

◯魏孝明紀
 高平人攻殺卜朝,共迎胡琛。十有二月壬辰,詔太傅、京兆王繼為太師、大將軍,率諸將討之。嚈噠、契丹、地豆于、庫莫奚諸國並遣使朝貢。
◯魏19元修義伝
 元志敗沒,賊東至黑水,更遣蕭寶夤討之,以脩義為雍州刺史。
◯魏59蕭宝寅伝
 遂寇雍州,屯於黑水。朝廷甚憂之,乃除寶夤開府、西道行臺,率所部東行將統,為大都督西征。肅宗幸明堂,因以餞之。
○魏77羊深伝
 正光末,北地人車金雀等帥羌胡反叛,高平賊宿勤明達寇豳夏諸州。北海王顥為都督、行臺討之,以深為持節、通直散騎常侍、行臺左丞、軍司,仍領郎中。
○北67唐永伝
 唐永,北海平壽人也。本居晉昌之憤安縣【[一二]按本書卷二七唐和傳云:「晉昌冥安人也。」冥安,西漢及東漢並屬燉煌郡見漢書地理志下及後漢書郡國志五。晉惠帝元康五年分燉煌、酒泉置晉昌郡,冥安改屬之。見晉書地理志上。晉書「冥」作「宜」,當是字訛。疑唐永為唐和族人,「憤安」當作「冥安」。丹楊當是前涼所置,非江南之丹楊。】,晉亂,徙於丹陽。祖揣,始還魏,官至北海太守,因家焉。父倫,青州刺史。永身長八尺,少耿介,有將帥才,讀班超傳,慨然有萬里之志。正光中,為北地太守,當郡別將。俄而賊將宿勤明達、車金雀等寇郡境,永擊破之,境內稍安。永善馭下,士人競為之用。臨陣常著帛裙襦,把角如意以指麾處分,辭色自若。在北地四年,與賊數十戰,未常敗北。時人語曰:「莫陸梁,恐爾逢唐將。」永所營處,至今猶稱唐公壘也。

 ⑴魏孝明紀には元志敗死前の9月の事とあるが、魏19元修義伝には『元志が敗死し、賊が東進して黒水に至ると、更に蕭宝寅を討伐に向かわせ、修義を雍州刺史とした。』とあり、魏59蕭宝寅伝には『天生が隴東に出陣して汧城・岐州を陥落させ、元志・裴芬之らを捕らえ、雍州に攻め込んで黒水に陣を布いた。朝廷はこれに非常に憂怖し、宝寅を開府・西道行台・大都督として西征に赴かせた。』とあり、魏73崔延伯伝には『莫折念生の兄の天生が隴東を侵し、征西将軍の元志を捕らえると、勢いが非常に盛んとなって進撃を続け、黒水に陣を布いた。朝廷は延伯を使持節・征西将軍・西道都督とし、行台の蕭宝寅と共に討伐に赴かせた。』とある。元志が敗死したのは11月の事である。もし仮にこの説を採って11月西行とすると、壬申は26日に、乙亥は29日になる。

北伐、第二戦線開く

〔これより前(9月)、梁の北兗州刺史の趙景悦が北魏の荊山城(北徐州の西北を包囲していた。〕
 12月、戊寅(2日)、北魏の荊山城が梁に降った。

 壬辰(16日)、北魏が〔権臣の元叉の父で〕太傅の京兆王継を使持節・侍中・太師・大将軍・録尚書事・〔西道〕大都督とし、西道諸軍の総指揮をして莫折念生を討伐するよう命じた。
 出立の日、孝明帝や朝士全員が見送りに出た。また、万を数える賞賜が与えられた。

 辛丑(25日)、梁の信威将軍長史の楊乾『梁書』では楊法乾)が北魏の武陽関を攻めた。
 壬寅(26日)、更に峴関を攻めた。
 乙巳(29日)、また、梁の武勇将軍の李国興が平静関を攻めた。梁はこれら全てに勝利した。
 国興は更に進んで郢州を包囲した。北魏の郢州刺史の裴詢は蛮酋の西郢州刺史の田朴特と表裏一体となってこれを防いだ。

 裴詢生年478、時に47歳)は字を敬叔といい、裴駿の孫である(445年11月参照)。美しい容貌を持ち、多芸で、音楽や局戯に精通していた。
 平昌太守となった時、太原長公主は未亡人の身で詢と私通した。孝明帝はそこで詢に長公主を嫁がせた。まもなく詢は長公主の婿である事を以て特別に散騎常侍を授けられた。
 この時本邑の中正に欠員が出、係役人が詢をこれに充てようとしたところ、詢の族叔の裴昞が自らこの官に就きたいと陳情してきた。詢がそこで彼に中正の地位を譲ると、人々に賞賛された。
 そののち平南将軍・郢州刺史となった。この時蛮酋の田朴特が要害に拠って数万以上の兵を擁しており、防衛の大きな助けとなると考えられたので、朴特を西郢州刺史とするよう奏請し、聴許された。
 そして現在、李国興が州城に攻めてくると、果たして朴特はその防衛に多大な貢献を為したのであった。

○梁武帝紀
 十二月戊寅,魏荊山城降。乙巳,武勇將軍李國興攻平靜關,剋之。辛丑,信威長史楊法乾攻武陽關;壬寅,攻峴關:並剋之。
○魏16江陽王継伝
 後除使持節、侍中、太師、大將軍、錄尚書事、大都督,節度西道諸軍。及出師之日,車駕臨餞,傾朝祖送,賞賜萬計。
○魏45裴詢伝
 子詢,字敬叔。美儀貌,多藝能,音律博弈,咸所開解。起家奉朝請,太尉集曹參軍,轉長流尚書起部郎中、平昌太守。時太原長公主寡居,與詢私姦,肅宗仍詔詢尚焉。尋以主壻,特除散騎常侍。時本邑中正闕,司徒召詢為之。詢族叔昞自陳情願此官,詢遂讓焉,時論善之。尋監起居事,遷祕書監。出為平南將軍、郢州刺史。詢以凡司戍主蠻酋田朴特地居要險,眾踰數萬,足為邊捍,遂表朴特為西郢州刺史。朝議許之。蕭衍遣將李國興寇邊,時四方多事,朝廷未遑外略,緣境城戍,多為國興所陷。賊既乘勝,遂向州城。詢率厲固守,垂將百日,援軍既至,賊乃退走。加散騎常侍、安南將軍。朴特自國興來寇,便與詢掎角,為表裏聲援,郢州獲全,朴特頗有力焉。

 ⑴荊山城…《読史方輿紀要》曰く、『鳳陽府(北徐州)の西北七十里→懐遠県の北三里にある。』
 ⑵京兆王継…字は世仁(仁世)。生年464、時に61歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。515年に胡太后が摂政を行なうと子の元叉が太后の妹を妻としていた事を以て官爵を元に戻され、間もなく特進・領軍将軍とされた。のち驃騎大将軍・儀同三司とされ、518年に京兆王に改められた。519年に司空、520年に司徒、521年に太保、522年に太傅とされた。523年⑵参照。
 ⑶李国興…もと北魏の楚王城主。509年に梁に降った。

山胡の乱
 正光(520~525)の末期、汾州の吐京郡(蒲子の北九十五里、西河の西南二百里)の山胡(魏孝明紀には『正平・平陽の山胡』とある)の薛羽悉公?)と馬牒騰が共に自立して王を名乗り、徒党を集めて叛乱を起こした。その数は数万にまで至り、正平・平陽二郡が最も被害を受けた。北魏は尚書考功郎中の裴良を西北道行台尚書左丞とし、〔討伐を命じた。〕

 良(生年475、時に51歳)は〔河東の名門の裴氏の出で、〕太常卿の裴延儁の従祖弟で、字を元賓という。出仕して奉朝請とされ、のち北中府功曹参軍とされた。宣武帝在位499~515)の初めに南絳県令とされ、のち次第に昇進して并州安北府長史とされ、のち中央に入って中散大夫・尚書考功郎中とされた。

 別将の李徳龍薛羽に敗れると、裴良は汾州に入って刺史の汝陰王景和汝陰王天賜の孫)・徳龍と共に数千の兵を率いて州城に立て籠った。羽は城を激しく攻め立てた。
 この月(12月、北魏は太常卿の裴延儁を西北道行台尚書とし、章武王融の爵位を回復して征東将軍・持節・西北道大都督とし、宗正珍孫を西北道都督として救援に赴かせた。延儁は間もなく病気になり、勅命を受けて洛陽に帰った。
 この時、五城郡(蒲子の西南百六十里→定陽の北六十里)の山胡の馮宜都賀悦回成らが妖術を用いて人々を洗脳し、叛乱を起こした。〔宜都は〕皇帝を称し、白衣を着、車に白傘と白幡(のぼりばた)を付けて雲台郊にて官軍に抵抗した。章武王融はこれと戦ったが、軍事に疎かったため大敗を喫した。宜都は勝利に乗じて城(州城?)を包囲した。
 北魏は員外散騎侍郎の裴慶孫を募人別将とし、郷里にて募兵を行なわせ、その兵を以て討伐をさせた。慶孫は募兵の結果数千の兵を得た。慶孫は陣頭で指揮を執り、たびたびやってくる胡賊を蹴散らし、敵地奥深くの雲台郊にまで到った。すると諸賊は改めて連合し、郊西にて一大決戦を行なった。戦いは朝から晩までに及び、慶孫が自ら敵陣に突入して賊王の郭康児を斬ると、賊軍は総崩れになった。
 すると裴良も出撃して包囲軍を大破し、賀悦回成を斬った。更に諸胡を説得すると、諸胡は馮宜都を殺して首を送ってきた。
 朝廷は慶孫を都に呼び戻し、直後(宿衛官)とした。
 
 慶孫は裴良の従父兄の子で、字を紹遠という。若年の頃に父を喪った。度量が大きく、約束したことは必ず実行した。

○魏孝明紀
 汾州正平、平陽山胡叛逆。詔復征東將軍章武王融封爵,為大都督,率眾討之。
○魏19章武王融伝
 汾夏山胡叛逆,連結正平、平陽,詔復融前封,征東將軍、持節、都督以討之。融寡於經略,為胡所敗。
○魏69裴延儁伝
 至都未幾,拜太常卿。時汾州山胡恃險寇竊,正平、平陽二郡尤被其害,以延儁兼尚書,為西北道行臺,節度討胡諸軍。尋遇疾,敕還。
○魏69裴良伝
〔裴〕延儁從祖弟良,字元賓。起家奉朝請,轉北中府功曹參軍。世宗初,南絳縣令,稍遷并州安北府長史,入為中散大夫,領尚書考功郎中。
 時汾州吐京羣胡薛羽等作逆,以良兼尚書左丞,為西北道行臺。值別將李德龍為羽所破,良入汾州,與刺史、汝陰王景和及德龍率兵數千,憑城自守。賊併力攻逼,詔遣行臺裴延儁,大都督、章武王融、都督宗正珍孫等赴援。
 時有五城郡山胡馮宜都、賀悅回成等以妖妄惑眾,假稱帝號,服素衣,持白傘白幡,率諸逆眾,於雲臺郊抗拒王師。融等與戰敗績,賊乘勝圍城。良率將士出戰,大破之,於陣斬回成,復誘導諸胡令斬送宜都首。又山胡劉蠡升自云聖術…。
○魏69裴慶孫伝
〔裴〕良從父兄子慶孫,字紹遠。少孤,性倜儻,重然諾。釋褐員外散騎侍郎。
 正光末,汾州吐京羣胡薛悉公、馬牒騰並自立為王,聚黨作逆,眾至數萬。詔慶孫為募人別將,招率鄉豪,得戰士數千人以討之。胡賊屢來逆戰,慶孫身先士卒,每摧其鋒,遂深入至雲臺郊。諸賊更相連結,大戰郊西,自旦及夕,慶孫身自突陳,斬賊王郭康兒。賊眾大潰。敕徵赴都,除直後。於後賊復鳩集,北連蠡升,南通絳蜀,兇徒轉盛,復以慶孫為別將,從軹關入討。

 ⑴章武王融…字は永興。生年480、時に55歳。景穆太子の曾孫、南安王楨の孫、章武王彬の長子。容貌は立派で、豪放磊落な性格をしていた。梁の遠征軍を大破したことがあるが、強欲だった。523年、汚職の罪で除名処分とされた。523年⑴参照。

┃南秦回復
 北魏の山南行台・東益州刺史の魏子建が南秦州の諸氐を招撫すると、六郡十二戍が再び北魏に帰順した。子建は更に賊帥の韓祖香6月参照)を斬った。莫折念生の南秦王の張長命6月参照)は子建の勢いを恐れ、蕭宝寅に降伏の使者を送った。

○魏孝明紀
 山南行臺東益州刺史魏子建招降南秦氐民,復六郡十二戍,又斬賊王韓祖香。南秦賊王張長命畏逼,乃告降於蕭寶夤。
○魏104自序
 及秦賊乘勝,屯營黑水,子建乃潛使掩襲,前後斬獲甚眾,威名赫然,先反者及此悉降。乃間使上聞,肅宗甚嘉之,詔子建兼尚書為行臺,刺史如故。於是威震蜀土,其梁、巴、二益、兩秦之事,皆所節度。

 ⑴魏子建が行台に任じられたのは翌年の正月の事。また、魏子建伝曰く、『秦賊が岐州の勝利に乗じて黒水に屯営した。そこで子建は密かにこれに奇襲を仕掛け、前後に非常に多くの兵を斬り捕らえた。ここにおいて威名は赫然となり、先に叛していた者たちはことごとく北魏に降った。孝明帝はこれを嘉賞し、子建を兼尚書・行台とし、東益州刺史はそのままとした。これより威は蜀土を震わし、梁・巴・二益・両秦の指揮は子建に任された。』とある。子建の子の魏収が魏書の著者なためどこまで盛っているか怪しい(そもそも黒水の大功は崔延伯のものでは?)が、黒水戦後に「先に叛していた者たちはことごとく北魏に降った」という記述から、やはりこの記述は翌年正月に置いたほうがいいような気がする。

┃涼州、再び陥落す

 この月(12月莫折念生が涼州を攻めると、城民の趙天安は再び刺史の宋穎9月参照)を捕らえて内応した。

○魏孝明紀
 是月,莫折念生遣兵攻涼州,城人趙天安復執刺史以應之。

朱异現る
 この年、梁の侍中・太子詹事の周捨が有罪となって免官となり、散騎常侍で銭唐の人の朱异生年483、時に42歳)が代わりに機密事項の処理を一手に任されるようになった。軍事のこと、地方司令官の任免、朝廷の儀式や祝典の事、詔勅作成などがそれにあたった。
 异は文学を好み、多芸で、よく政務に精励して機知に富んでいたため、武帝の信任を得たのであった。

 异がまだ年端も行かぬ頃、外祖の顧歓が彼を撫でながら异の祖父の朱昭之にこう言った。
「この子は並の器ではない。きっとお前の家を栄えさせてくれることだろう。」
 异は十余歲の時、人を集めて賭博することを好んで郷里の人々に非常に煙たがられたが、成長すると心を改めて留学に赴いた。梁はその初めに五経書館を開設しており、异はその五経博士の明山賓を師と仰いだ。
 异は貧しかったので筆耕(人の代わりに本を筆写して報酬を得ること)をしてやりくりしたが、写し終わった時にはもう暗誦できるようになっていた。このようにして异は徧く五経を学んだが、特に礼経・易経に深い造詣を持つようになった。また文学・史籍を読み漁り、各種の技芸にも通暁し、囲碁などの博戯・書画・算術を得意とした。
 二十になって、都に上って尚書令の沈約と面試を行なうと、約は异にこうからかって言った。
「そなたは若いのに、どうしてそう欲深なのか?」
 异がとまどってその意味を測りかねていると、約は言った。
「天下の趣味というのはただ文学・囲碁・書画しか無いが、そなたはその全てに通暁し、自分のものにしようとしている。故に欲深と言ったのだ。」
 その年(502年)、建康に獄司を設置して廷尉と同等の権限を持たせるよう、朝廷に意見書を出した。武帝は尚書にこの事を討議させ、その結果設置を許可することとした。元来の決まりでは25歳にならないと仕官が許されなかったが、异は21にして特別に揚州の議曹從事史となった。

 まもなく人材を求める詔が出されると五経博士の明山賓が上表して异を勧めて言った。
「錢唐の朱异は、まだ若いですが、その品行は既に老成したものを備え、一人で居るときもだらけたりすること無く、賓客と対応するときのようにしっかりとしております。またその器は広く深く、風采は山のように気高いものがあります。
 万丈の金山(美しい山}は少し登っただけではその高さが分からず、千尋の玉海はちょっと覗き見ただけではその深さを測れぬものです。また、磨いたばかりの玉器や編んだばかりの絹織物は、触るだけで美しい音色を響かせ、手に取ればますます輝きを増すものです。
 彼の誠実な言動を見るに、その才は郷里に一人いるかいないかというものではなく、要職を与えれば必ず天下の役に立つ才だと思われます。」
 そこで武帝が异を呼び寄せ、孝経・周易の内容について語らせた所とても素晴らしいものがあったので、非常に喜んで左右にこう言った。
「朱异は真に非凡である。」
 のちに帝は山賓に会うとこう言った。
「そなたが推薦した者は、真に朕が求めている者であったぞ。」
 かくて异を中書省に出仕させると、まもなく太学博士も兼任させた。その年、帝が自ら孝経の講義を行なった際、异は朗読を任された。尚書儀曹郎に遷り、中書通事舍人を兼ねた。
 後に中書郎に任じられた。時あたかも秋の日のことであり、委任式が始まると、蟬が飛んできて异の武冠に集まった。当時の人々は皆、これを异が蟬飾りをした冠の位(皇帝の近臣)に就く予兆だと言い合った。のちに太子右衛率となった。

 异は顔つきが堂々として立派であり、立ち居振る舞いが素晴らしく、学生出身者ではあったが、政治・軍事両面の決まりや習わしを知悉していた。异の前には常に四方からの報告書や当局の文書が決裁を得るためにうず高く積まれたが、异は筆を下ろせば文章が出来上がっており、目を通せばもう意見が書き上がっているといった具合で、そのうえ寸刻も筆を休めることがなかったので、しばらくすると諸事は全て順調に回り出すのだった。

○梁38朱异伝
 朱异字彥和,吳郡錢唐人也。〔祖昭之,以學解稱於鄉。叔父謙之字處光,以義烈知名。年數歲,所生母亡,昭之假葬於田側,為族人朱幼方燎火所焚。同產姊密語之,謙之雖小,便哀感如持喪,長不昏娶。齊永明中,手刃殺幼方,詣獄自繫。縣令申靈勗表上之。齊武帝嘉其義,慮相報復,乃遣謙之隨曹武西行。將發,幼方子懌於津陽門伺殺謙之。謙之兄〕父巽〔之〕,以義烈知名,〔即异父也,又刺殺懌。有司以聞。武帝曰:「此皆是義事,不可問。」悉赦之。吳興沈顗聞而歎曰:「弟死於孝,兄殉於義,孝友之節,萃此一門。」巽之字處林,有志節,著辯相論。幼時,顧歡見而異之,以女妻焉。〕官至齊江夏王參軍、吳平令。异年數歲,外祖顧歡撫之謂异祖昭之曰:「此兒非常器,當成卿門戶。」年十餘歲,好羣聚蒲()博,頗為鄉黨所患。既長,乃折節從師,〔梁初開五館,异服膺於博士明山賓。居貧,以傭書自業,寫畢便誦。〕遍治()五經,尤明禮、易,涉獵文史,兼通雜藝,博弈書算,皆其所長。年二十,詣都,尚書令沈約面試之,因戲异曰:「卿年少,何乃不廉?」异逡巡未達其旨。約乃曰:「天下唯有文義异()書,卿一時將去,可謂不廉也。」其年,上書言建康宜置獄司,比廷尉,敕付尚書詳議,從之。舊制,年二十五方得釋褐。時异適二十一,特敕擢為揚州議曹從事史。尋有詔求異能之士,五經博士明山賓表薦异曰:「竊見錢唐朱异,年時尚少,德備老成,在獨無散逸之想,處闇有對賓之色,器宇弘深,神表峯峻。金山萬丈,緣陟未登;玉海千尋,窺映不測。加以珪璋新琢,錦組初構,觸響鏗鏘,值()采便發。觀其信行,非惟十室所稀,若使負重遙途,必有千里之用。」高祖(武帝)召見,使說孝經、周易義,甚悅之,謂左右曰:「朱异實異。」後見明山賓,謂曰:「卿所舉殊得其人。」仍召异直西省,俄兼太學博士。其年,高祖自講孝經,使异執讀。遷尚書儀曹郎,入兼中書通事舍人,〔後除中書郎,時秋日,始拜,有飛蟬正集异武冠上,時咸謂蟬珥之兆。〕累遷鴻臚卿,太子右衞率,尋加員外常侍。…中大通元年,遷散騎常侍。〔异容貌魁梧,能舉止,雖出自諸生,甚閑軍國故實。〕自周捨卒後,异代掌機謀(密),〔其軍旅謀謨,〕方鎮改換,朝儀國典,詔誥敕書,並兼(典)掌之。每四方表疏,當局簿領,諮詢詳斷(諮詳請斷),填委於前,异屬辭落紙,覽事下議,從橫敏贍,不暫停筆,頃刻之間,諸事便了。