[北魏:正光四年 梁:普通四年]

┃府戸問題
 北魏の都督北討諸軍事の李崇が柔然の討伐に赴いた時、その長史で鉅鹿の人の魏蘭根が崇にこう説いて言った。
「昔、北辺に初めて諸鎮を設置した時、土地は広大なのに人口が少なかったので、中原の豪族の子弟や国家の名族をもってその防衛を任せました。これは国家にとって非常に大事な任務であったので、朝廷は彼らを選んだのであり、また中央での出世の道も開いておくなど高待遇を与えたのです。
 しかし遷都以来、都から鎮に派遣されてくる役人は、彼らを『府戸』(鎮将の将軍府に隷属する軍戸)と呼んで蔑み、賎民のように扱うようになりました。
 また、府戸は貴族との通婚もできず、出世街道から完全に脱落しましたが、一方で都に残った元々同族であった者たちは各々次々と栄達し、この世の春を謳歌する有様。このように境遇が天と地まで離れるようになっては、彼らに恨みつらみが溜まるのも当然と言えましょう。
 よって、ここは鎮を改めて州とし、州と同じように郡県を設置して、おおよそ府戸といえる者は全て解放して平民の身分に戻し、朝廷の官に就きたいと願う者が現れれば、旧来の朝廷での身分に応じて官位を賜うようにすべきです。
 このように致せば、国家は北辺に問題を抱えることがなくなるでしょう。」
 崇はそこで蘭根に代わって上奏したが、朝廷はこれを黙殺した。

 魏蘭根は身長八尺にして並外れて立派な顔立ちをしており、群書を読破し、特に左氏伝と周易は暗誦することができた。また、物事の理解が非常に早かった。父の魏伯成は太山太守にまで昇った。
 蘭根は出仕して北海王国侍郎となり、次第に昇進して定州長流参軍となった。
 母が亡くなった時、常山郡境に埋葬しようとした。そこには董卓の祠があった。蘭根は卓の凶逆無道を理由に、刺史に許可を求めたのち、その周囲にある柏の木を伐採し、槨(棺を保護するもの)の材料に転用してしまった。ある人は祟りを恐れて止めたが、蘭根は恐れることなく、とうとう全てを伐採してしまった。
 のち父の伯成が亡くなると、庵を墓側に建てて自ら土を背負って墳墓を築き、殆ど死にかけるまで悲しみに打ち沈んで喪に服した。人々はその孝を賞賛した。
 のち、司空・司徒二府の記室参軍となり、次いで夏州平北府長史となり、中央勤務となって司徒掾となり、地方勤務となって本郡(鉅鹿)太守となったが、どの職場でも能吏の評判を得た。

○北斉23・北56魏蘭根伝
 魏蘭根,鉅鹿下曲陽人也。父伯成,魏太山太守。蘭根身長八尺,儀貌奇偉,汎覽羣書,誦左氏傳、周易,機警有識悟。起家北海王國侍郎,歷定州長流參軍。丁母憂,居喪有孝稱。將葬常山郡境,先有董卓祠,祠有柏樹。蘭根以卓凶逆無道,不應遺祠至今,乃〔啟刺史〕伐柏以為槨材。人或勸之不伐(左右人言有靈),蘭根盡取之,了無疑懼。遭父喪,廬於墓側,負土成墳,憂毀殆於滅性。後為司空、司徒二府記室參軍,轉夏州平北府長史,入為司徒掾,出除本郡太守,並有當官之能。
 正光末,尚書令李崇為本郡都督,率眾討茹茹,以蘭根為長史。因說崇曰:「緣邊諸鎮,控攝長遠。昔時初置,地廣人稀,或徵發中原強宗子弟,或國之肺腑,寄以爪牙。中年以來,有司乖實,號曰府戶,役同廝養,官婚班齒,致失清流。而本宗舊類,各各榮顯,顧瞻彼此,理當憤怨。更張琴瑟,今也其時,靜境寧邊,事之大者。宜改鎮立州,分置郡縣,凡是府戶,悉免為民,入仕次敘,一准其舊,文武兼用,威恩並施。此計若行,國家庶無北顧之慮矣。」崇以奏聞,事寢不報。

 ⑴李崇...字は継長。文成皇后の兄の子。もと揚州刺史。『臥虎』と呼ばれる数千人の精鋭部隊を率い、十年に渡って梁から揚州を守り抜いた。今年の4月、柔然の討伐に赴いた。523年(1)参照。

┃北魏の腐敗
 これより前、〔北魏の侍中・領軍将軍の〕元叉胡太后を幽閉した(520年)のち、常に孝明帝の傍に付き従い、あらゆるおべっかを用いてその寵信を得ることに成功した。
 叉は禁中を出入りする際、常に武装兵にその前後を固めさせた。禁中以外の外出にも厳重な警備を設けた。ある時宮廷から出て千秋門の外で休んだことがあったが、その時は木柵で周囲を囲んだ上で、腹心の者に身辺を護らせて刺客の襲撃に備えた。彼に会おうという者があっても、遙か遠くから対話を許されるだけだった。
 その執政の始まりの時は、自らを偽って小心翼々と政務に励み、他者からの評価を非常に気にかけていたが、権勢が確実なものとなった後は驕慢な性格に戻り、酒色に溺れて財貨を貪り、私的な感情で任免賞罰を行なった。ある時は禁中に自分用の庫を作って金銀財宝で満たし、また、ある時は女性を食輿(竹製の肩輿)中に臥せさせ、帊(二幅〈一メートル弱〉の布)を以てこれを覆い、宮中に運び入れたり出したりした。近衛兵はこのことを知っていたが、諫めようとする者はいなかった。世渡りの上手い者たちは美酒や美女を叉に捧げてその歓心を買った。また、叉は親戚の叔母や姉妹たちと近親相姦を行なった。
 叉の父の京兆王継は息子の威を借りて強すぎる物欲を満たした。新しく州郡県の長官となった者は、みな継に賄賂を贈った者たちだった。継の妻子もそれぞれ賄賂を受け、継に口利きをした。かくて郡県の下級役人に至るまで公平な選任を経ずにその地位に就いたが、司法の者は〔叉父子の権勢を恐れて〕これを看過した。
 かくて綱紀の紊爛は極に達し、牧守令長は皆貪汚の者ばかりで占められるようになった。ここにおいて人民は生活に困窮し、叛乱を考えるようになった。

○魏16京兆王継伝
 繼晚更貪婪,聚斂無已。牧守令長新除赴官,無不受納貨賄,以相託付。妻子各別請屬,至乃郡縣微吏,亦不得平心選舉。憑叉威勢,法官不敢糾摘,天下患之。
○魏16元叉伝
 既在密近,曲盡佞媚,以承上旨,遂蒙寵信。出入禁中,恒令勇士持刀劍以自先後,公私行止,彌加威防。叉於千秋門外廠下施木闌檻,有時出入,止息其中,腹心防守,以備竊發,人物求見者,遙對之而已。
 ...初,叉之專政,矯情自飾,勞謙待士,時事得失,頗以關懷,而才術空淺,終無遠致。得志之後,便驕愎,耽酒好色,與奪任情。乃於禁中自作別庫掌握之,寶充牣其中。又曾臥婦人於食輿,以帊覆之,令人輿入禁內,出亦如之,直衞雖知,莫敢言者。輕薄趣勢之徒,以酒色事之,姑姊婦女,朋淫無別。政事怠惰,綱紀不舉,州鎮守宰,多非其人。於是天下遂亂矣。

 ⑴元叉...字は伯俊。幼名は夜叉。生年486、時に38歳。京兆王継の長子。胡太后の妹の夫であることから、太后から寵用を受けたが、520年に恩を仇で返して太后を幽閉し、政治の実権を握った。
 ⑵胡太后...宣武帝の后。聡明で弓の腕前も一流だったが、淫乱だった。帝が死んで幼い孝明帝が跡を継ぐと摂政を行ない、自分のことを朕と称した。520年に元叉によって幽閉された。
 ⑶孝明帝...元詡。生年510、時に14歳。北魏九代皇帝。515年にわずか6歳で即位し、母の胡太后の摂政を受けた。
 ⑷京兆王継...字は世仁(仁世)。生年464、時に60歳。道武帝の昆孫で、南平王霄の第二子。子が無いまま死んだ江陽王根の跡を継いだ。温和寛容な性格で長者と呼ばれたが、貪欲だった。孝文帝の時に撫冥鎮都大将→都督柔玄撫冥懐荒三鎮諸軍事・柔玄鎮大将とされた。のち左衛将軍・兼中領軍とされ、洛陽の留守を任された。のち平北将軍とされて平城を鎮守した。498年に高車酋帥の樹者が叛乱を起こすと都督北討諸軍事とされて討伐を命じられた。このとき戦わずして叛徒の多くを帰順させ、孝文帝に「江陽王は大任を任せるに足る」と激賞を受けた。宣武帝が即位すると青州刺史→恒州刺史→度支尚書とされたが、青州刺史の時に飢饉が起きた際、州民の娘を家僮の妻にしたり良民を下女にした事が問題視されて官爵を剥奪された。514年に徐揚の鎮守を任された。515年に胡太后が摂政を行なうと子の元叉が太后の妹を妻としていた事を以て官爵を元に戻され、間もなく特進・領軍将軍とされた。のち驃騎大将軍・儀同三司とされ、518年に京兆王に改められた。519年に司空、520年に司徒、521年に太保、522年に太傅とされた。
 
┃六鎮の乱起こる


 これより前、于忠の弟で武衛将軍の于景字は百年)は密かに叉を排斥しようとしたが露見し、懐荒鎮将に左遷された。
 阿那瓌が叛乱を起こすと、困窮した鎮民は景に食糧を求めたが、景はこれを拒否した。すると不満が爆発した鎮民は遂に叛乱を起こし、景とその妻を捕らえると、別々の部屋に監禁してその衣服を脱がし、景には毛皮を、妻には使い古しの赤い胡服を着るよう命じた。それから一ヶ月あまり陵辱したのち殺害した(詳細な時期は不明)。

 それから間もなく沃野鎮の高闕戍主が配下の統御に失敗し、破六韓抜陵に殺害された。抜陵は人々を集めて叛乱を起こし、鎮将を殺して年号を真王と定めた。諸鎮の民は華夷を問わず皆次々とこれに呼応した(魏孝明紀は翌年の3月の事とする[1])。

 破六韓抜陵は附化の人で、匈奴単于の末裔である。初め、単于の呼厨泉が後漢に参朝した時、曹操に抑留を受け、叔父で右賢王の去卑が代わりに匈奴の人々の監督を任された。去卑はのちに新興の拓跋部(のちの北魏)の圧迫を受け、部衆を率いて南遷し、弟で右谷蠡王の潘六奚に北方の防御を任せた。拓跋部がこれを破ると、奚とその五子はみな投降し、子孫は潘六奚を氏とした。後世の人は潘六奚を訛らせて破六韓(破落汗・歩大汗・歩落稽・歩六孤?)と呼ぶようになった。破六韓氏は代々酋長を務めて部衆を率いた。
 抜陵は叛乱を起こすと宗人の破六韓孔雀を大都督・司徒・平南王とした。
 孔雀は若年の頃から勇敢だった。

○資治通鑑
 武衛將軍于景,忠之弟也...執景,殺之。未幾,沃野鎮民破六韓拔陵聚眾反,殺鎮將,改元真王【《考異》曰:《魏帝紀》:「正光五年破落汗拔陵反,詔臨淮王彧討之,五月,彧敗,削官。」按令狐德棻《周書·賀拔勝傳》:「衞可孤圍懷朔經年,勝乃告急於彧。」然則拔陵反當在四年。蓋《帝紀》因詔彧討拔陵而言之,非拔陵於時始反也。《周書》作「破六韓」,今從之】,諸鎮華、夷之民往往響應。
○魏孝明紀
〔五年…〕三月,沃野鎮人破落汗拔陵聚眾反,殺鎮將,號真王元年【[八]北史卷四「汗」作「韓」。他處「落」或作「六」作「洛」,譯音無定字。又,本書將此事繫於正光五年三月,通鑑考異云:…按拔陵之反當在四年冬】。詔臨淮王彧為鎮軍將軍,假征北將軍,都督北征諸軍事以討之。
◯魏官氏志
 步六孤氏,後改為陸氏。…出(歩)大汗氏,後改為韓氏 。
○魏18広陽王淵伝
 而高闕戍主率下失和,拔陵殺之,敢為逆命。
○魏31于景伝
 忠弟景,字百年。自司州從事,稍遷步兵校尉。寧朔將軍、高平鎮將。坐貪殘受納,為御史中尉王顯所彈,會赦免。忠薨後,景為武衞將軍。謀廢元叉,叉黜為征虜將軍、懷荒鎮將。及蠕蠕主阿那瓌叛亂,鎮民固請糧廩,而景不給。鎮民不勝其忿,遂反叛。執縛景及其妻,拘守別室,皆去其衣服,令景著皮裘,妻著故絳襖。其被毀辱如此。月餘,乃殺之。
○魏103蠕蠕伝
 五年,…是歲,沃野鎮人破六韓拔陵反,諸鎮相應。
◯北斉27破六韓常伝
 破六韓常,字保年,附化人,匈奴單于之裔也。〔初呼厨貌入朝漢,為魏武所留,遣其叔父右賢王去卑監本國戶。魏氏方興,率部南轉,去卑遣弟〕右谷蠡王潘六奚〔率軍北禦。軍敗,奚及五子俱〕沒於魏,其子孫以潘六奚為氏,後人訛誤,以為破六韓。世領部落,其父孔雀,世襲酋長。孔雀少驍勇。時宗人拔陵為亂,以孔雀為大都督、司徒、平南王。

 [1]《考異》曰く、『《魏孝明紀》には「正光五年三月破落汗拔陵反,詔臨淮王彧討之」とあるが、《周書賀抜勝伝》には「衞可孤圍…懷朔…經年,勝乃告急於彧」とある。包囲から年を越えたのなら、抜陵の乱は四年にあるべきである。恐らく《魏孝明紀》が言っているのは彧に討伐を命じた時の事であり、抜陵が叛いた時の事では無いのであろう。
 ⑴高闕戍…《水経注》曰く、『黄河は窳渾県の東を経たのち東に流れを変え、高闕の南を通る。闕(二つの山が向かい合う場所)の北は荒れ地が広がる。闕口に山と山を繋ぐ城があり、これを高闕戍という。昔より北方の侵攻に備える要地とされた。』
 ⑵附化…《魏書地形志》曰く、『朔州(懐朔鎮)附化郡に附化・息沢・五原・広牧県が属する。

┃武川鎮の戦い
 抜陵は兵を率いて南下を開始し、別帥・王の衛可鮮卑衛氏に武川鎮を攻囲させ、のちに懐朔鎮も攻撃させた。
 このとき武川鎮にて武川の人の宇文肱が武川の南河においてこの侵攻に抵抗した。その戦いの最中、肱は落馬したが、長子の宇文顥が数騎と共に助けに駆けつけ、数十人を撃殺して敵を怯ませたため、その間に馬に跨り逃れることができた。しかし顥の方はまもなくやってきた大勢の追騎に敗れ、戦死した。

 肱は、宇文逸豆帰344年正月参照)の玄孫である。逸豆帰の子の陵は前燕に仕え、駙馬都尉となり、玄菟公に封じられた。北魏の道武帝が中山に侵攻した時(397年)、陵は慕容宝に従ってこれを迎撃したが、宝が敗れると陵は甲騎五百と共に北魏に帰順し、都牧主を授けられ、安定侯に封じられた。天興(398~404年)の初めに武川に遷された。
 陵は系を生み、系は韜を生んだ。彼らは共に武略の高さを賞賛された。そして韜が肱を生んだ。
 肱は任侠を好み気骨があった。肱は楽浪の王氏を妻に娶り、王氏は宇文顥・宇文連・宇文洛生・宇文泰を産んだ。
 宇文顥は孝心厚く、母の王氏が亡くなった時は度を越した哀惜の情を示し、痩せ衰えた。これより武川の人々は皆彼に畏敬の念を抱くようになった。

○資治通鑑
 拔陵引兵南侵,遣別帥衛可孤圍武川鎮。
○周文帝紀
 九世至侯豆歸,為慕容晃所滅。其子陵仕燕,拜駙馬都尉,封玄菟公。魏道武將攻中山,陵從慕容寶禦之。寶敗,陵率甲騎五百歸魏,拜都牧主,賜爵安定侯。天興初,徙豪傑於代都,陵隨例遷武川焉。陵生系,系生韜,並以武略稱。韜生肱。
 肱任有俠有氣幹。正光末,沃野鎮人破六汗拔陵作亂,遠近多應之。其偽署王衞可孤徒黨最盛。
○周10邵恵公顥伝
 邵惠公顥,太祖之長兄也。德皇帝娶樂浪王氏,是為德皇后。生顥,次𣏌簡公連,次莒莊公洛生,次太祖。顥性至孝,德皇后崩,哀毀過禮,鄉黨咸敬異焉。德皇帝與衛可孤戰於武川南河,臨陣墜馬,顥與數騎奔救,擊殺數十人,賊眾披靡,德皇帝乃得上馬引去。俄而賊追騎大至,顥遂戰歿。

 ⑴衛可孤…魏書・北史では『衛可瓌』、周書では『衛可孤』、北斉書では『衛可肱』とある。瓌と肱は北斉書高阿那肱伝には『『肱』の字は、当時の人々は『瓌』と同じ音で読んでいた』とある。周書は宇文肱の諱を避けたのかもしれない。今は魏書・北史の『衛可瓌』を採った。

┃懐朔鎮の戦い
 一方、懐朔鎮には尖山の人の賀抜度抜と子の賀抜允生年489、時に35歳)・賀抜勝生年?)・賀抜岳生年?)がいて、みな才能と勇気のあることで世に知られていた。彼らは元々武川に住んでいたが、仮鎮北将軍・撫軍将軍・都督懐朔沃野武川三鎮諸軍事・北道大行台・懐朔鎮将の楊鈞が抜陵の叛乱を聞いて招聘してきたのに応えたのである。鈞は度抜を統軍(三千人を指揮)に、三子を軍主(小隊を指揮)に抜擢し、叛乱軍の来攻に備えた。
 そこに果たして衛可瓌の軍がやってくると、岳は城壁の上に登り、城西三百余歩の地に可瓌の姿を見止めるやこれに向かって矢を放った。その矢はあやまたず可瓌の腕に当たり、賊軍を大いに驚愕させた。

 賀抜岳、字は阿斗泥という。若くして大志を抱き、物を与えることや勇士と交際することを好んだ。初め太学生となり、長じると左右どちらの手でも騎上から射ることができるようになり、抜群の武勇を誇った。また、兵法書を読まずともその内容に符合する事を度々行なったので、それを知った者はみな一様に不思議がった。

○資治通鑑
 又攻懷朔鎮。尖山賀拔度拔及其三子允、勝、岳皆有材勇,懷朔鎮將楊鈞擢度拔為統軍、三子為軍主以拒之。
○周14賀抜勝伝
 賀拔勝字破胡,神武尖山人也。...父度拔,性果毅,為武川軍主。
 魏正光末,沃野鎮人破六汗拔陵反,南侵城邑。懷朔鎮將楊鈞聞度拔名,召補統軍,配以一旅。其賊偽署王衞可孤徒黨尤盛,既圍武川,又攻懷朔。
○周14・魏80賀抜岳伝
 岳字阿斗泥。少有大志,愛施好士。初為太學生,及長,能左右馳射,驍果絕人(長以弓馬為事)。不讀兵書而暗與之合,識者咸異之。〔與父兄赴援懷朔,賊王衞可瓌在城西三百餘步,岳乘城射之,箭中瓌臂,賊大駭。

 ⑴楊鈞...字は季孫。名門弘農の楊氏の出身。博学多識で秀才に挙げられ、大理平・廷尉正・洛陽令・河南尹・廷尉卿・七兵尚書・北道大行台・恒州刺史などを歴任した。


 524年(1)に続く