[北周:保定元年 北斉:皇建二年→大寧元年 陳:天嘉二年 後梁:大定七年]

●兄弟の確執

 これより前、北斉の孝昭帝が〔王時代に執政の〕楊愔・燕子献らを殺害しようとした時(559年〈2〉参照)、帝は長広王湛にこう約束していた。
「事が上手く行っ〔て天子になれ〕たら、お前を皇太弟(皇太子、跡継ぎ)にしよう。」
 しかし、即位すると、帝は〔約束を破って〕自分の子の高百年を太子とした。湛は〔右丞相とされ、〕鄴の政治・軍事を一任されたが、内心不満で一杯だった。
 帝は〔領軍将軍の〕高元海を散騎常侍として鄴に留め、機密を司らせた。
 帝は鮮卑人で領軍の厙狄伏連を幽州刺史として〔鄴から幽州に追いやり、〕斛律光の弟の斛律羨を代わりに領軍として湛の軍権を分かとうとした。〔その思惑を察した〕湛は伏連を留めて幽州に遣らず、羨がやってきてもこれに領軍府の職務に就くことを禁じた。また、狩猟をするという名目で河南王孝瑜と一緒に外出し、誰もいない所で密謀を巡らし、暗くなってから鄴に帰った。

 厙狄伏連は字を仲山という。本名は伏憐といったが、訛って連となった。若い頃、武才を以て爾朱栄に仕え、直閤将軍とされた。のち、高歓の下剋上に協力し、その功を以て蛇丘男に封じられた。高澄が東魏の宰相となると、武衛将軍とされた。天保元年(550)に儀同三司、四年(553)に鄭州刺史とされ、間もなく開府を加えられた。 
 実直な性格で職務に精励し、皇宮の守備を任されると一日中職場を離れず、高く評価された。ただ愚鈍残忍で、政治家としての才能は全く無く、刺史となるとひたすら蓄財に励んだ。ある時、居室に蠅が入ってくると門番を杖で打ってこう言った。
「どうして蠅を中に入れたのか!」
 また、妻が病気となると、〔やむなく大好きな金を出して〕百銭で薬を買ったが、のち、そのことでよく愚痴を言った。また、名士を尊ばなかった。開府参軍は大体名家出身の者が採用されたが、伏連は彼らによく鞭打ちを加え、城壁の修築に従事させた。

 河南王孝瑜は、字を正徳といい、高澄の長子である。母は宋氏。堂々とした容姿と芯の通った精神を備え、控えめで優しく、文学を愛好した。十行を同時に読める速読の才能と、囲碁の碁石がめちゃくちゃになっても完璧に並べ直すことができる(曹魏の王粲の異能の一つ)抜群の記憶力を有した。
 初め河南郡公に封ぜられ、北斉が建国されると王とされた(550年〈3〉参照)。 孝瑜は〔祖父の〕高歓の家で育てられ、同年だった湛と非常に仲良くなった。湛が楊愔らを誅殺する際、これに協力した。
 宋氏は北魏の吏部尚書の宋弁の孫娘である。もともと北魏の潁川王斌之の妃だったが、やがて高澄の妃となり、孝瑜を産んだ。孝瑜が屋敷に戻ると、太妃とされた。 孝瑜の妃は盧正山盧道約の子)の娘で、湛の妃の胡氏の年上のいとこである(胡氏の母は盧道約の娘)。

○北斉11河南康舒王孝瑜伝
 河南康舒王孝瑜,字正德,文襄長子也。初封河南郡公,齊受禪,進爵為王。...初, 孝瑜養於神武宮中,與武成同年相愛。將誅楊愔等, 孝瑜預其謀。...孝瑜容貌魁偉,精彩雄毅,謙慎寬厚,兼愛文學,讀書敏速,十行俱下,覆棊不失一道。
 ...孝瑜母,魏吏部尚書宋弁孫也,本魏潁川王斌之妃,為文襄所納,生 孝瑜, 孝瑜還第,為太妃。 孝瑜妃,盧正山女,武成胡后之內姊也。
○北斉14高元海伝
 皇建末,孝昭幸晉陽,武成居守,元海以散騎常侍留典機密。初孝昭之誅楊愔等,謂武成云「事成以爾為皇太弟」。及踐祚,乃使武成在鄴主兵,立子百年為皇太子,武成甚不平。...除領軍厙狄伏連為幽州刺史,以斛律豐樂為領軍,以分武成之權。武成留伏連而不聽豐樂視事。乃與河南王孝瑜偽獵,謀於野,暗乃歸。
○北斉20・北53厙狄伏連伝
 代人厙狄伏連,字仲山,〔本名伏憐,訛音連。〕少以武幹事尒朱榮,至直閤將軍。後從高祖建義,賜爵蛇丘男。世宗輔政,遷武衞將軍。天保初,儀同三司。四年,除鄭州刺史,尋加開府。 伏連質朴,勤於公事,直衞官(宮)闕,曉夕不離帝所,〔〕以此見知。〔〕鄙吝愚狠,無治民政術。及居州任,專事聚斂。性又嚴酷,〔居室患蠅,杖門者曰:「何故聽入!」其妻病,以百錢買藥,每自恨之。〕不識士流。開府參軍多是衣冠士族, 伏連加以捶撻,逼遣築牆。

 ⑴孝昭帝…高演。時に27歳。北斉の三代皇帝。高歓の第六子で、初代文宣帝の同母弟。身長八尺・腰回り十囲の大男で、容姿・立ち居振る舞いは人並み外れたものがあった。政治に優れた手腕を示して文宣帝に重用されたが、諫言をして怒りを買い、瀕死の重傷を負わされた。文宣帝が死ぬとクーデターを起こし、宰相の楊愔らを殺害して権力を握り、帝の子の廃帝を廃して皇帝の位に即いた。561年(1)参照。
 ⑵長広王湛…高歓の第九子で、北斉初代文宣帝・三代孝昭帝の同母弟。時に25歳。不仲だった兄の永安王浚を死に追い込んだことがある。孝昭帝のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。560年(4)参照。
 ⑶高元海…高歓の甥の子。かつて林慮山に引きこもり、二年に渡って仏典の研究に打ち込んだが、結局諦めて俗界に復帰した。知恵者を自認した。武芸に通じておらず軟弱者と言われていたが、柔然征伐の際に文宣帝が奇襲を受けると、奮戦して危機から救った。去年、孝昭帝のクーデターに協力した。560年(2)参照。
 ⑷斛律光…字は明月。時に47歳。斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれた。去年、孝昭帝のクーデターに協力した。560年(5)参照。
 ⑸斛律羨…字は豊楽。斛律光の弟。騎射に長じた。553年に武衛大将軍とされた。553年(3)参照。
 ⑹高澄…字は子恵。521~549。高歓の長子。女好きの美男子。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、侯景の離反を招いた。のち、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑺同年だった…湛は537年生まれなので、孝瑜は時に25歳となる。高澄が17歳の時の子。
 ⑻潁川王斌之…字は子爽。安楽王鑑の弟。孝武帝が長安に逃れると梁に亡命し、のち西魏に帰属した。

●高殷の死
 孝昭帝は廃帝の高殷を廃して済南王としたのち、これを鄴〔の北城〕に留めていた。ある時、太史(天文・暦算を担当が上奏し、鄴の北城に天子の気があると言った。孝昭帝はこれを殷が帝位に返り咲く予兆だと考え、恐れた。〔司徒の〕平秦王帰彦は〔殷の廃位に深く関わっていたため、〕殷の存在を危険に感じ、帝に殺害を勧めた。そこで帝は帰彦を鄴に派し、殷を晋陽に連れてこさせた。

 湛は高元海にどうすれば良いか尋ねた。元海は言った。
「〔子ども思いの〕皇太后(婁太后)がご健勝で、至尊(孝昭帝)は孝行者なのですから(通鑑には『孝友(親や兄弟に優しい)』となっている)、心配はいりません(湛は太后の子)。」
 湛は答えて言った。
「それが卿の本心から出た言葉なのか?」
 元海が自室に帰って一晩考えたいと言うと、湛はこれを拒否し、奥の間に留めた。元海は〔びくびくとして〕一睡もできず、一夜中寝台の周りをのろのろと歩き回っていた。夜明け前、湛は突然元海のもとを訪れ、こう言った。
「何か名案は浮かんだか?」
 元海は言った。
「三つの方策が思い浮かびましたが、役に立つかは分かりませんぞ。一つ目は、〔前漢の〕梁の孝王の故事に倣い、数騎だけを連れて晋陽に行き、太后に助けを求めてから主上に会い、兵権を返上し、死ぬまで政治に関わらないと誓う方法です。さすれば、必ずや泰山の安き(絶対の安心)を得られるでありましょう。これが上策であります。これが実行できないのであれば、こう上表するとよろしいでしょう。『権勢がありすぎると、人にあらぬ噂を立てられる恐れがあるので、青・斉二州の刺史に任命してほしい』と。田舎に引っ込めば、疑いをかけられることもなくなるでしょう。これが中策であります。」
 湛が下策を尋ねると、元海はこう言った。
「これを言うと、族誅になりかねません。」
 湛が発言を強要すると、元海は言った。
「済南王(高殷)は正当な後継者であったのに、太后の力を借りた主上によって無理矢理帝位を奪われてしまいました。もし、今、文武諸官を集め、済南王の命令書を見せて斛律豊楽)を捕らえ、高帰彦を斬り、王を帝位に帰して天下に号令を下し、正義を以て不義を討てば、〔成功はまず疑いありません。〕今はその千載一遇の好機であります。」
 湛はこれを聞くと大いに喜んだが、いざ決行しようとすると、途端に成功するかどうか不安になった。そこで方術士の鄭道謙に成否を占わせると、皆このような結果が出た。
「失敗します。動かない方が良い結果となります。」
 湛は更に曹魏祖を呼んで国の行く末について尋ねた。するとこう答えて言った。
「もうすぐ大きな不幸が訪れます。」
 占候(天象の変化から未来を予測する術)に造詣のある、林慮令の潘子密資治通鑑に拠る。高元海伝では姓しか分からない)は密かに湛にこう言った。
「天子は間もなくお隠れになられ、殿下が天下の主となります。」
 湛は子密を自邸に留め、引き続き未来を占わせた。また、霊媒師たちも多くがこう言った。
「挙兵すべきではありません。大慶(非常にめでたいこと)は自然とやってきます。」
 湛はそこで詔命に従い、数百の騎兵に殷を晋陽に送らせた。
 9月、帝は殷に毒酒を与えて自殺させようとしたが、飲もうとしなかったので、手で絞め殺した(享年17)。間もなく、帝は殺したことを非常に後悔した。

○北斉廃帝紀
 皇建二年九月,殂於晉陽,時年十七。...皇建二年秋,天文告變, 歸彥慮有後害,仍白孝昭,以王當咎。乃遣歸彥。
○北斉孝昭紀
 初帝與濟南約不相害。及輿駕在晉陽,武成鎮鄴,望氣者云鄴城有天子氣。帝常恐濟南復興,乃密行鴆毒,濟南不從,乃扼而殺之。後頗愧悔。
北斉14高元海伝
 既而太史奏言北城有天子氣。昭帝以為濟南應之,乃使平秦王歸彥之鄴,迎濟南赴并州。武成先咨元海,並問自安之計。元海曰:「皇太后萬福,至尊孝性非常,殿下不須別慮。」武成曰:「豈我推誠之意耶?」元海乞還省一夜思之。武成即留元海後堂。元海達旦不眠,唯遶牀徐步。夜漏未曙,武成遽出,曰:「神算如何?」答云:「夜中得三策,恐不堪用耳。」因說梁孝王懼誅入關事,請乘數騎入晉陽,先見太后求哀,後見主上,請去兵權,以死為限,求不干朝政,必保太山之安。此上策也。若不然,當具表,云「『威權大盛,恐取謗眾口』,請青、齊二州刺史。沉靜自居,必不招物議。此中策也。」更問下策。曰:「發言即恐族誅。」因逼之,答曰:「濟南世嫡,主上假太后令而奪之。今集文武,示以此勑,執豐樂,斬歸彥,尊濟南,號令天下,以順討逆,此萬世一時也。」武成大悅,狐疑,竟未能用。乃使鄭道謙卜之,皆曰:「不利舉事,靜則吉。」又召曹魏祖,問之國事。對曰:「當有大凶。」又時有林慮令姓潘,知占候,密謂武成曰:「宮車當晏駕,殿下為天下主。」武成拘之於內以候之。又令巫覡卜之,多云不須舉兵,自有大慶。武成乃奉詔,令數百騎送濟南於晉陽。

 ⑴高殷…生年545、時に17歳。北斉の二代皇帝。在位559~560。北斉の初代文宣帝の長子。温厚で気遣いができ、賢人を敬い、学問を好み、時局に通暁していた。ある時文宣帝に鞭打たれたのがきっかけで吃音となり、精神が不安定になった。去年、叔父にクーデターを起こされ、帝位を奪われた。560年(4)参照。
 ⑵太史…孝昭紀では『望気者』とある。今は高元海伝の記述に従った。
 ⑶平秦王帰彦…高歓の族弟。字は仁英。文宣帝に重用を受けた。清河王岳を陥れて死に追い込んだ。帝の臨終の際に太子殷の輔佐を託されたが、他の執政と仲違いし、常山王演の味方をしてその権力奪取に大いに貢献し、以後非常に優遇された。560年(4)参照。
 ⑷婁太后…諱は昭君。高歓の正妻で、高澄・文宣帝・孝昭帝・長広王湛の母。560年(4)参照。
 ⑸曹魏祖…玉壁攻略に向かおうとする高歓に不吉だと忠告した。546年(2)参照。

●西南部の状況
 甲辰(1日)、北周の南寧州(治 建寧郡味県)が朝廷に滇馬(雲南産の名馬)と蜀鎧を献上した。
 南寧州は漢の䍧柯郡の地で、䍧柯郡は近代(蜀漢の時)に興古・雲南・建寧・朱提の四郡に分けられた。南中の地であり、諸葛亮正しくは王連)が不毛の地と言った所である。僻遠の地にあり土地は痩せ、住民は蛮夷の者が多く、統治に従うような者は非常に少なかった。また、爨・氐などの豪族が僻遠の地であることを頼みに勝手気ままに振る舞い、しばしば叛乱の恐れがあった。ただ、人口は非常に多く、金銀財宝は豊かで、二河の地(南寧州西部)は駿馬・明珠を産し、益寧(南寧州東部)の地は塩井・犀角を産した。
 西晋はこの地が益州(成都)から遠く離れている事から、泰始七年(271)に〔建寧郡の味県に〕寧州を置いた。〔劉宋・南斉はこれをそのまま受け継いだが、梁は州名を南寧州に改めた。〕太清二年(547)に南寧州刺史の徐文盛湘東王繹のちの元帝)の招聘に応じて荊州に赴いて以降、〔梁の支配から離れたが、〕西魏は東魏と対峙していたため攻略の暇が無く、やむなく土豪の爨瓚を刺史として間接的に支配を行なっていた。

○周武帝紀
 九月甲辰,南寧州遣使獻滇馬及蜀鎧。...冬十月甲戌,日有蝕之。
○陳・南史陳文帝紀
〔九月甲寅,詔以故〕大司馬、驃騎大將軍〔侯瑱、故司空周文育、故〕平北將軍、〔開府儀同三司杜僧明、故中護軍胡穎、故領軍陳擬配食武帝廟庭。〕景辰,以侍中、中權將軍、特進、左光祿大夫、開府儀同三司王沖為丹陽尹;丹陽尹沈君理為左民尚書,領步兵校尉。冬十月乙巳(癸丑),霍州西山蠻率部落內屬。
○隋37梁睿伝
 南寧州,漢世䍧柯之地,近代已來,分置興古、雲南、建寧、朱提四郡。戶口殷眾,金寶富饒,二河有駿馬、明珠,益寧出鹽井、犀角。晉太始七年,以益州曠遠,分置寧州。至偽梁,南寧州刺史徐文盛,被湘東徵赴荊州,屬東夏尚阻,未遑遠略。土民爨瓚遂竊據一方,國家遙授刺史。
○南斉州郡志
 寧州,鎮建寧郡,本益州南中,諸葛亮所謂不毛之地也。道遠土塉,蠻夷眾多,齊民甚少,諸爨、氐彊族,恃遠擅命,故數有土反之虞。

●配廟
 甲寅(11日)、陳が故大司馬・驃騎大将軍の侯瑱、故司空の周文育、故平北将軍・開府儀同三司の杜僧明、故中護軍の胡穎、故領軍の陳擬武帝陳初代皇帝。陳覇先。文帝の叔父)の廟に併せ祭った。
 丙辰(13日)、侍中・中権将軍・特進・左光禄大夫・開府儀同三司の王沖を丹陽尹とし、丹陽尹の沈君理を左民尚書とし、步兵校尉と兼任させた。

 冬、10月、甲戌(2日)、日食があった。

 丙子(4日)、北斉が〔大司馬・兼〕尚書令の彭城王浟を太保に、長楽王の尉粲を太尉とした。

○周武帝紀
 冬十月甲戌,日有蝕之。
○陳・南史陳文帝紀
〔九月甲寅,詔以故〕大司馬、驃騎大將軍〔侯瑱、故司空周文育、故〕平北將軍、〔開府儀同三司杜僧明、故中護軍胡穎、故領軍陳擬配食武帝廟庭。〕景辰,以侍中、中權將軍、特進、左光祿大夫、開府儀同三司王沖為丹陽尹;丹陽尹沈君理為左民尚書,領步兵校尉。冬十月乙巳(癸丑),霍州西山蠻率部落內屬。

 ⑴侯瑱...字は伯玉。510~561。陳の猛将。侯景の乱の平定や王琳との戦いに活躍した。
 ⑵周文育...字は景徳。509~559。陳の猛将。侯景の乱の平定や北斉との戦い・蕭勃との戦いなどに活躍した。
 ⑶杜僧明...字は弘照。509~554。梁の猛将。侯景の乱の平定に活躍した。
 ⑷胡穎...字は方秀。507~560。武帝(陳覇先)と同郷だったことから重用を受けた。侯景の乱の平定や北斉との戦い・王琳との戦いに活躍した。
 ⑸陳擬...字は公正。503~560。武帝(陳覇先)の甥。武帝が即位すると永脩侯に封じられた。
 ⑹王沖...字は長深。生年492、時に70歳。名門王氏の出。母は梁の武帝の妹。早くに孤児となり、梁の武帝に手厚い養育を受けた。温和で人に逆らわず、音楽や歌舞に通じ、人付き合いが良かったので社交界で好評を博した。また、法律に通じ、公平な政治を行なった。南郡太守を務め、梁の湘東王繹(元帝)が荊州刺史となるとその鎮西長史を兼ねた。侯景の乱が起こると南郡太守の座を王僧弁に譲り、更に女妓十人を繹に献じて軍賞の助けとした。のち衡州刺史→行湘州事・長沙内史とされ、陸納が湘州にて乱を起こすと捕らえられたが、納が降ると解放された。559年(3)参照。
 ⑺沈君理...字は仲倫。生年525、時に37歳。風貌が美しく、読書家で、鑑識眼があった。陳の武帝と同郷で、帝と親交のあった父の推薦によって帝に仕え、その娘(会稽長公主)を娶った。557年頃に呉郡太守とされると、能吏の評判を得た。文帝が即位すると(559年)、中央に呼び戻されて丹陽尹とされた。557年(3)参照。
 ⑻彭城王浟...字は子深。高歓の第五子。孝昭帝の異母兄。母は大爾朱氏。いっとき高歓の後継者に指名されそうになったことがある。滄州・定州・司州にて善政を行なった。560年(4)参照。
 ⑼尉粲...勲貴の尉景と高歓の姉の子。558年、大尉とされた。559年(1)参照。

●高景安の弓技
 北斉の孝昭帝はあるとき西園にて競射の宴を催し、朝臣二百余人がこれに参加した。宴会場の建物から百四十余步の距離に的〔として虎の像〕を置き、射当てた者に良馬や珍宝や反物などを与えた。競射が始まると、一人が虎の頭に射当てたが、寸余の差で鼻に当たらなかった。皆が射終わった時、ただ高景安のみ一本だけ矢を残していた。帝が景安に射るよう命じると、景安はおもむろに身なりを整えて弓を取り、ぎりぎりまで引き絞ってから矢を放った。すると矢は見事に虎の鼻に命中した。帝は感嘆して褒め称え、特別に良馬二頭を与え、他の景品も量を多目にして与えた。

○北斉41元景安伝
 肅宗曾與羣臣於西園醼射,文武預者二百餘人。設侯去堂百四十餘步,中的者賜與良馬及金玉錦綵等。有一人射中獸頭,去鼻寸餘。唯景安最後有一矢未發,帝令景安解之,景安徐整容儀,操弓引滿,正中獸鼻。帝嗟賞稱善,特賚馬兩疋,玉帛雜物又加常等。

 ⑴高景安...北斉の勇将。元の姓は元氏。昭成帝(拓跋什翼犍)の五世孫で、高祖父は陳留王虔。もと西魏の臣だったが、天平の末年(537)に東魏に寝返った。馬と弓の扱いに熟達しており、いかなる時も品があったので、梁の使者がやってくるたび命を受けて騎射を披露し、賞賛を受けた。冷静明晰で優れた才能と度量を有し、数々の戦いで武功を挙げた。のち、高氏の姓を与えられた。領左右大都督→武衛大将軍→領左右大将軍・兼七兵尚書とされた。555年に北斉が長城を築くとその守備を任された。のち都官尚書→七兵尚書とされた。555年(2)参照。

●孝昭帝の死
 ある時、北斉の孝昭帝はたびたび発熱し、何度も薬を服用した。この時、尚書令史の趙という者が、鄴にて文宣帝(北斉初代皇帝。高殷の父、孝昭帝の兄)の霊が楊愔・燕子献らの霊を従え、復讐を誓い合って西方に去ったのを見たと言った。〔すると、果たして〕帝は晋陽宮にて毛夫人と共に彼らを目撃した。以降、帝の容態は悪化の一途を辿った。ある時、帝はお祓いを試み、煮えたぎった油をあちこちに撒き散らしたり、松明〔の煙?〕で追い立てたりした。〔すると〕怨霊たちは宮殿の梁から〔安全な屋上の〕棟木の上に居場所を移して居座り、〔お祓いに〕全く恐れを見せず、歌ったり喚いたりして楽しんだ。この時、天狗が帝の所に舞い降りてきて、武芸を鍛えて彼らを追い払うよう勧めた。そこで帝は〔病身を押して〕狩猟に出かけた。その時、一羽の兎が突然目の前に現れ、驚いた馬に振り落とされて肋骨を折った。太后は帝を見舞うと、高殷がどこにいるか三度に渡って尋ねたが、帝は答えなかった。すると太后は怒ってこう言った。
「殺したのか! 私の言うことを聞かぬ〔馬鹿息子など、〕死んでしまえ!」
 太后は一度も振り返ることなく部屋を去った。
 11月、甲辰(2日)、帝は平秦王帰彦・趙郡王叡元文遥らに後事を託し、詔を下して言った。
「朕は急病に罹り、死は目前となった。嗣子(高百年)は幼く、政治に慣れておらぬゆえ、国家の運営などできるわけがない。〔よって、帝位はこれに継がせず、〕最上の徳のある者に継がせることにした。右丞相の長広王湛は物事に通じ、道を体得しているばかりか、一番近い親戚で、英雄の誉れ高く、天下の人々や我が兄弟からも尊敬されている、まさに家・国が一番頼りにする者である。そこで今、尚書左僕射の趙郡王叡を長広王のもとに派し、帝位を継ぐよう申し渡させた。朕の葬儀は漢の文帝のそれと同じにし、三等親の者は十五日、四等親の者は十四日、五等親の者は七日(計三十六日)で喪服を解かせるようにする。陵墓の造営費用はできる限り節約するようにせよ。」
 また、湛に親書を渡してこう言った。
「〔妻や〕百年に罪は無い。彼らの処遇はお前の好きにしていいが、私のように殺したりはするな。」[1]
 臨終の際、帝は寝台に這いつくばって叩頭し、太后に謝り続けた。
 この日、帝は晋陽宮にて崩御した(享年27)。
 帝は病身となっても、変わらず政務を執り続けた。

 李百葯曰く...帝は英明果断で才知に優れ、〔父〕高歓の遺恨を晴らすため、優勢な国力を存分に活用して北周を討たんとし、平陽(晋州)に赴いてその準備に取り掛かろうと考えていた。しかし、その遠大なはかりごとを実現しないうちに亡くなってしまった。何とも惜しいことだ!

 顏之推曰く...帝は非常な孝行者であったが、どういう行為を忌むべきかが分かっていなかった。これも全ては儒教の経典をよく学んでいないがためだった。

○資治通鑑
 齊肅宗出畋,有兔驚馬,墜地絕肋。婁太后視疾,問濟南所在者三,齊主不對。太后怒曰:「殺之邪?不用吾言,死其宜矣!」遂去,不顧。十一月,甲辰,詔以嗣子沖眇,可遣尚書右僕射趙郡主叡諭旨,徵長廣王湛統茲大寶。又與湛書曰:「百年無罪,汝可以樂處置之,勿效前人也。」是日,殂於晉陽宮。臨終,言恨不見太后山陵。
○北斉廃帝紀
 王薨後,孝昭不豫,見文宣為祟。孝昭深惡之,厭勝術備設而無益也。薨三旬而孝昭崩。
○北斉孝昭紀
 十一月甲辰,詔曰:「朕嬰此暴疾,奄忽無逮。今嗣子沖眇,未閑政術,社稷業重,理歸上德。右丞相、長廣王湛研機測化,體道居宗,人雄之望,海內瞻仰,同胞共氣,家國所憑,可遣尚書左僕射、趙郡王叡喻旨,徵王統茲大寶。其喪紀之禮一同漢文,三十六日悉從公除,山陵施用,務從儉約。」先是,帝不豫而無闕聽覽,是月(日),崩於晉陽宮,時年二十七。
 ...雄斷有謀,于時國富兵強,將雪神武遺恨,意在頓駕平陽,為進取之策。遠圖不遂,惜哉!
 ...初苦內熱,頻進湯散。時有尚書令史姓趙,於鄴見文宣從楊愔、燕子獻等西行,言相與復讐。帝在晉陽宮,與毛夫人亦見焉。遂漸危篤。備禳厭之事,或煑油四灑,或持炬燒逐。諸厲方出殿梁,騎棟上,歌呼自若,了無懼容。時有天狗下,乃於其所講武以厭之。有兔驚馬,帝墜而絕肋。太后視疾,問濟南所在者三,帝不對。太后怒曰:「殺去耶,不用吾言,死其宜矣!」臨終之際,唯扶服牀枕,叩頭求哀。遣使詔追長廣王入纂大統,手書云:「宜將吾妻子置一好處,勿學前人也。」
○陳・南史陳文帝紀
 冬十〔一?〕月乙巳(癸丑),霍州西山蠻率部落內屬。
○北斉12楽陵王百年伝
 帝臨崩,遺詔傳位於武成,並有手書,其末曰:「百年無罪,汝可以樂處置之,勿學前人。」
○北斉38元文遥伝
 及帝大漸,與平秦王歸彥、趙郡王叡等同受顧託,迎立武成。

 ⑴趙郡王叡...高歓の弟の高琛の子。時に27歳。身長七尺、容貌は非常に立派だった。幼くして父の処刑に遭い、歓に引き取られて育てられた。常に深夜まで勉学に励み、定州刺史とされると良牧の評価を受けた。のち、長城の建設の監督を命じられた。去年、尚書左僕射・大丞相府左長史とされた。560年(4)参照。
 ⑵元文遥...字は徳遠。北魏の昭成帝の七世孫。五世祖は常山王遵。幼い頃より聡明で、「王佐の才がある」「千里の駒」「穰侯の印を解き得る者」と評された。文宣帝時代に中書舍人や尚書祠部郎中とされ、元氏大虐殺の対象から除外された。孝昭帝が即位すると中書侍郎とされ、国家の重要事項の処理を任された。560年(4)参照。
 [1]《史記》楚世家曰く、『楚の霊王が〔呉の同盟国の徐を討って〕乾谿に逗留した時、楚国内で政変が起きて太子が殺された。王はこれを聞くと驚きの余り車から転げ落ちた。〔王は自分の行動に驚き、〕侍者にこう言った。「人が子を愛し、〔その死に驚き悲しむのは〕、皆こんな感じなのか?」侍者は答えて言った。「これ以上です。」王は言った。「私は人の子を殺すことが多かった。これまでよく無事だったものだ!」孝昭帝は兄の子を殺しておきながら、臨終の際、弟に自分の子を殺すことを禁じた。まことに憫笑に値する。

●二年を過ぎず
 ある時、孝昭帝趙郡王叡に、十度まで死罪を免ぜられる権利を与えた。すると王は喜んでこう言った。
「臣は皇甫玉凄腕の人相見)に『良くない死を遂げる』と言われております。今更死を恐れたりはいたしません。」
 帝は玉が諸王の人相を見ていることを不快に感じた。
 ある時、玉は妻にこう言った。
「殿上にいる者(孝昭帝)は二年と持たないだろう。」
 妻がこれを舍人の斛斯洪慶の妻に喋ると、妻はこれを洪慶に言い、洪慶はこれを帝に伝えた。すると帝は激怒してこう言った。
「女子どもに対して万乗の主(皇帝)を論ずるとは何事か!」
 かくて玉を朝廷に呼びつけた。玉は鏡を見るたび、自分は武器によって死ぬと言っていた。呼び出しに遭うと、玉は妻にこう言った。
「私は今から朝廷に行くが、帰ってこれないだろう。ただ、正午過ぎまで生きることができたら、或いは帰ってこれるかもしれぬ。」
 正午の時間に、玉は斬刑に遭った。

○北斉49・北89皇甫玉伝
〔孝昭賜趙郡王十死不問,王喜曰:「皇甫玉相臣,云當惡死,今復何慮?」帝以玉輒為諸王相,心不平之。〕玉謂其妻曰:「殿上者不過二年。」妻以告舍人斛斯〔洪〕慶〔妻〕,〔洪〕慶以啟帝,帝怒〔曰:「向婦女小兒評論萬乘主!」敕〕召之。玉每照鏡,自言當兵死,及被召,謂其妻曰:「我今去不迴,若得過日午時,或當得活。」既至正中,遂斬之。


 561年(3)に続く