●玉壁の守将代わる
 東魏の丞相の高歓が鄴に赴いた。
 この月(8月、歓の世子で尚書令・大将軍・領中書監の高澄が洛陽にあった漢魏の石経五十二碑を鄴に遷した

 この年、西魏が荊州刺史・東南道行台僕射の長孫慶明を朝廷に呼び戻して大行台尚書・兼丞相府司馬とし、代わりに汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台の王思政を東道行台尚書左僕射・都督(〜諸軍事?)・荊州刺史とした(慶明は政治型なので、これを交代させたのは侯景の侵攻に対応するもの?)。
 荊州は多湿の低地で、城壁や堀の多くが崩れてしまっていた。思政がそこで都督の藺小歓にその補修を命じたところ、人夫が黄金三十斤を掘り当てた。小歓が夜中にこっそりこれを思政に送ると、朝になって思政は幕僚を呼び、黄金を見せてこう言った。
「人臣たるもの、私心があってはならない。」
 かくて黄金全てに封をして朝廷に送った。泰はその心がけを褒め、思政に二十万銭を与えた。
 思政はまた、武関以南の千五百里の地に三十余城を築いたが、それらはどれも要衝の地ばかりで、推挙した者もみな才能のある者ばかりだった。

 また、西魏の丞相の宇文泰は、思政を荊州刺史とした時こう尋ねて言った。
「誰に玉壁を任せればよいか?」
 思政は答えて言った。
「晋州刺史の韋孝寬は智勇兼備で、しかも不動の忠義心を持っています。彼に玉壁を守らせれば、必ずや国家の盾となってくれるでありましょう。今いる朝臣の中で、彼を超える人材はおりません。」
 泰は言った。
「私も彼の良い噂はよく聞いていた。その上、いま公が太鼓判を押すのだから、きっと大丈夫だろう。」
 泰はこれに従い、孝寛を兼摂南汾州事として玉壁を守備させた。孝寬は思政のやっていたことを全て踏襲し、兵士を育成し、兵糧を蓄えることに努めた。

 これより前、南汾州では山胡が要害に拠ってしばしば盗賊行為を働いていた。孝寬が武威と信義を以てこれに当たると、州内は平穏になった。〔この功により〕孝寬は大都督に昇進した。

○資治通鑑
 東魏丞相歡如鄴。高澄遷洛陽《石經》五十二碑於鄴。
○魏孝静紀
 八月,移洛陽漢魏石經于鄴。
○周26長孫倹伝
 在州遂歷七載。徵授大行臺尚書,兼相府司馬。
○周31韋孝寛伝
 八年,轉晉州刺史,尋移鎮玉壁,兼攝南汾州事。先是山胡負險,屢為劫盜,孝寬示以威信,州境肅然。進授大都督。
○周18・北62王思政伝
 十二年,加特進、〔兼尚書左僕射、行臺、都督、〕荊州刺史。州境(境內)卑濕,城壍多壞。思政方(乃)命都督藺小歡督工匠繕治之。掘得黃金三十斤,夜中密送之。至旦,思政召佐吏以金示之,曰「人臣不宜有私」,悉封金送上。太祖嘉之,賜錢二十萬。思政之去玉壁也,太祖命舉代己者,思政乃進所部都督韋孝寬。〔…初,思政在荊州,自武關以南延袤一千五百里,置三十餘城,並當衝要之地。凡所舉薦,咸得其才。〕
○北史演義
 且說宇文泰見東魏與蠕蠕通好,日夜慮其來寇。以玉壁地連東界,為關西障蔽,因厚集兵力,命王思政守之。繼欲遷思政為荊州刺史,苦於無人替代,乃召思政問曰:「公往荊州,誰可代玉壁者?」思政曰:「諸臣中唯晉州刺史韋孝寬,智勇兼備,忠義自矢。使守其地,必為國家湯城之固。當今人才無逾此者。」泰曰:「吾亦久知其賢,今公保舉,定屬不謬。」乃使思政往荊州,孝寬鎮玉壁。孝寬之任,簡練材勇,廣積芻糧,悉遵思政之舊。

 ⑴高歓...字は賀六渾。時に51歳。爾朱栄の部将だったが、その死後急速に台頭し、爾朱氏を滅ぼして東魏を建国した。545年参照。
 ⑵高澄...字は子恵。時に26歳。高歓の長子。女好きの美男子。536年より鄴の朝政を任され、乱脈な勲貴の弾圧を行なって綱紀を粛清した。545年参照。
 ⑶石経...175年3月に後漢が作り、518年6月に北魏がこれを補修していた。
 ⑷長孫慶明...北魏の名族・長孫氏の出。立派な容貌で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、泰の飛躍に大きく貢献した。荊州刺史とされると善政を行なった。
 ⑸王思政...王羆に代わる防衛の専門家。もと孝武帝の側近で、のち宇文泰に忠誠を誓い、河橋の戦いでは奮戦し瀕死の重傷を負った。のち北東の守備を任されると玉壁に注目して要塞を築き、高歓の包囲を退けた。のち邙山の勝利に乗ずる東魏軍の侵攻から恒農を守り切った。543年(2)参照。
 ⑹前島佳孝氏(『西魏・北周政権史の研究』)曰く…前任者長孫倹は行政官として有能であったし、荊州は梁の襄陽と接して…本来であれば隣国に対する防備が蔑ろにされるはずがない。従ってこれは…それまでの国境の平安を示…すものであるかもしれない(西魏と梁は友好とは言えないまでも、それに準ずる関係が漢中攻防戦以後から構築されていたのであろう)。
 ⑺宇文泰...字は黒獺。時に40歳。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手も膝まで届いた。賀抜岳のもとで名を上げ、その死後遺衆を引き継いで関中の支配者となり、孝武帝を保護して西魏を建てた。
 ⑻韋孝寬...本名は叔裕。孝寬は字。関中の名門の出。時に38歳。沈着冷静にして頭脳明晰、穏和正直な性格で読書を好んだ。蕭宝寅の乱の平定に活躍し、楊侃に才を認められて娘を与えられた。のち、荊州にて独孤信と共に優れた治績を挙げ、『連璧』(双連の璧玉)と称賛された。のち宇文泰に従い、河南にて東魏と粘り強く戦いを続けた。538年(2)参照。

●高歓、再度玉壁を攻める
 一方、高歓はこれを聞くと、諸将を呼び集めてこう言った。
「先日玉壁にて志を得なかったのは、思政めがよく守備したからであるが、今その思政は荊州に行き、玉壁は別人が守備しているという。思政のおらぬ玉壁を陥とすことなど、朽ちた木を砕くように容易なことだ。」
 すると段韶が言った
「王が西征せんと欲するなら、玉壁にこだわらず、直接関中を突くべきです。孫子も敵の『備えざるを攻める』(始計篇、原文『攻其無備、出其不意。』)と言っています。何もいたずらに兵を堅城の下に集めることはございません。」
 歓は言った。
「それは違う。泰は玉壁を軍事の要地と思っておるから、わし直々これを攻めれば、〔今度こそ〕必ず救援に向かってくる。そこを撃てば、絶対に勝てる。」
 諸将も口を揃えてこう言った。
「その通りでございます。」


 高歓が山東の兵をこぞって西魏討伐に出発した。
 癸巳(23日)、鄴より出発した軍が晋陽に集結し終わった。殿中将軍の曹魏祖が諌めて言った。
「出兵してはなりません! 今は八月で、八月は西方王の分野に当たります。また、死気の季節から生気の季節に当たる時の戦いは、客(出兵する側)ではよろしくありませんが、主人(防衛する側)ならまあまあよろしいものです。もし行けば、必ず大将を傷つけることになりましょう!」
 歓はこれを聞き入れなかった。
 東西魏が兵を構える時、鄴の人々はいつも黄(東魏軍の戦袍の色)と黒(西魏軍の戦袍の色)の蟻の集団を戦わせ合って、勝敗を占ったものだったが、今回は黄蟻の集団がことごとく死んでしまった
 大司馬・冀州刺史の斛律金は烏蘇道を通り、晋州にて歓の軍勢と合流した。
 9月、歓は長安に攻め入る前に、交通の要衝である玉壁を攻めて包囲した。軍旗は野を覆い、鐘と太鼓は天を震わし、城中の将兵はみな恐れおののいたが、孝寬だけは泰然自若としていた。ある者が朝廷に援軍を求めるよう勧めると、孝寬はこう言った。
「朝廷がわしにここを任せたのは、ここを守るにふさわしい人物と見たからだ。今、この城にはそのわしがいて、しかも〕備えも万全なのだから、〔諸君は何の心配も無く、〕ただ知恵を絞って敵を破ることに専念すればいいのだ。それをどうして、諸君はあべこべに、ばたばたと救援を求め、朝廷の心を無闇に煩わせようとするのか? 諸君はただわしの命令に従い、落ち着いて敵に当たるだけでよい。さすれば賊は久しからずして必ず退く。これで何を恐れることがあろう。」
 かくて城を堅く守ることに徹させ、一兵も外に出さなかった。歓は何度も戦いを挑んだが、城中はひっそりとするばかりだった。
 歓は西魏軍を決戦に引き込もうとしたが、泰はこれに応じなかった。

○魏孝静紀
 齊獻武王自鄴帥眾西伐,文襄王會于晉州。
○北斉神武紀
 四年八月癸巳,神武將西伐,自鄴會兵於晉陽。殿中將軍曹魏祖曰:「不可,今八月西方王,以死氣逆生氣,為客不利,主人則可。兵果行,傷大將軍。」神武不從。自東、西魏搆兵,鄴下每先有黃黑螘陣鬪,占者以為黃者東魏戎衣色,黑者西魏戎衣色,人間以此候勝負。是時,黃螘盡死。九月,神武圍玉壁以挑西師,不敢應。
○周31韋孝寛伝
 十二年,齊神武傾山東之眾,志圖西入,以玉壁衝要,先命攻之。
○北斉17斛律金伝
 四年,詔金率眾從烏蘇道會高祖於晉州,仍從攻玉壁。
○北史演義
 高王聞之,謂諸將曰:「前日不得志於玉壁者,以思政善守耳。今易他人鎮之,吾取之如拉朽矣。」段韶曰:「王欲西征,不如直搗關中,攻其不備,無徒頓兵堅城之下。」王曰:「不然。泰以玉壁為重鎮,吾往攻之,西師必出,從而擊之,蔑不勝矣。」諸將皆曰:「善。」乃召高洋歸鎮並州。大發各郡人馬,親率諸將,往關西進發。
 武定四年九月,兵至玉壁城。旌旗蔽野,金鼓震天,城中皆懼。孝寬安閉自若,或請濟師於朝,孝寬曰:「朝廷委我守此,以我能禦敵也。今有城可守,有兵可戰。敵至,當用計破之,奚事紛紛求救,以貽朝廷之憂?諸君但遵吾令,以靜制之,不久賊自退矣,何畏之有?」乃下令堅守,不出一兵。高王停軍城外,屢來挑戰,城中寂然不應。

 ⑴段韶...字は孝先。高歓の妻の婁昭君の姉の子。知勇兼備の将。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。543年(1)参照。
 ⑵礼記正義曰く、『出兵する者を客といい、防衛する者を主と言う。』
 ⑶東魏の色はもともと赤だったが、邙山の戦いの前に黄に改めていた。543年(1)参照。
 ⑷斛律金...字は阿六敦。時に59歳。勅勒族の酋長。地の臭いを嗅いで敵の接近を、敵軍の上げる土煙でその兵数の多寡を知ることができた。もと爾朱栄の部将。栄が死ぬと高歓に従ってその勢力拡大に貢献した。歓が沙苑に大敗した時、その馬を鞭打って無理矢理引き返させた。邙山の戦いでは河橋を良く守り抜いた。のち歓と共に山胡を討伐した。544年参照。
 ⑸烏蘇...《読史方輿紀要》曰く、『沁州(晋陽の南三百十里、晋州の東北三百四十里)の西北二十里に閼与城がある。《冀州図》曰く、またの名を鳴蘇城といい、俗に烏蘇村という。

●長孫倹

 西魏の大行台尚書・兼丞相府司馬の長孫慶明は、あるとき諸公と共に泰と同席する機会を持った。退出すると、泰は左右の者にこう言った。

「長孫公はいつも落ち着いていて上品である(慶明は堅物な性格で、家の中にいても終始威儀を正し、交際も生真面目で、相手がどんな名門の者であっても性格が合わなければ決して付き合おうとしなかった)。私は彼と話す時、いつも自分が何か下手なことをしでかしてないかびくびくしてしまう。」

 後日、泰は慶遠にこう言った。

「名と実はつりあっているべきである。尚書は質素な暮らしに甘んじる高潔さを備えているゆえ、名を『倹』に改め、その美徳を明らかにするとよい。」


○周26長孫倹伝

 嘗與羣公侍坐於太祖,及退,太祖謂左右曰:「此公閑雅,孤每與語,嘗肅然畏敬,恐有所失。」他日,太祖謂儉曰:「名實理須相稱,尚書既志安貧素,可改名儉,以彰雅操。」


●岳陽王詧、雍州刺史となる
 冬、10月癸酉(4日)、梁の汝陰王の劉哲劉宋の末裔)が亡くなった。
 乙亥(6日)、梁が前東揚州刺史の岳陽王詧を持節・都督雍梁東益南北秦五州郢州之竟陵司州之隨郡諸軍事・西中郎将・領寧蛮校慰・雍州(治 襄陽)刺史とした。
 武帝は嫡孫の詧兄弟(長子の豫章王歓・次子の河東王誉らのこと)を差し置いて太子綱を皇太子にしたこと(531年〈3〉参照)を後ろめたく感じており、彼らを大州の東揚州(治 会稽)の刺史に代わるがわる就任させることでお茶を濁そうとしたが、詧兄弟の不平心は収まらなかった。
 詧は武帝が老耄し失政が目立つことからその破滅が近いことを予測すると、有事に備えて財貨を多く蓄え、身分の低い者にも礼儀正しく接し、俠客数千人を集めて親衛隊を組織して多くの給料を与えた。
 詧は雍州刺史となると、襄陽が険要の地で、武帝の創業の基にもなった地[1]であることをもって、有事には覇業を成すことができると考えた。詧はそこで己を律して政治に励み、士大夫や庶民にしばしば恩恵を施してこれを懐け、広く諫言を受け入れて領内を良く治め、その時を待った。

○梁武帝紀
 冬十月癸酉,汝陰王劉哲薨。乙亥,以前東揚州刺史岳陽王詧為雍州刺史。
○周48蕭詧伝
 初,昭明卒,梁武帝舍詧兄弟而立簡文,內常愧之,寵亞諸子,以會稽人物殷阜,一都之會,故有此授,以慰其心。詧既以其昆弟不得為嗣,常懷不平。又以梁武帝衰老,朝多秕政,有敗亡之漸,遂蓄聚貨財,交通賓客,招募輕俠,折節下之。其勇敢者多歸附,左右遂至數千人,皆厚加資給。
 中大同元年,除持節,都督雍梁東益南北秦五州、郢州之竟陵、司州之隨郡諸軍事,西中郎將,領寧蠻校慰,雍州刺史。詧以襄陽形勝之地,又是梁武創基之所,時平足以樹本,世亂可以圖霸功,遂克己勵節,樹根恩於百姓,務修刑政,志存綏養。於是境內稱治。

 ⑴岳陽王詧...サツ。字は理孫。故・昭明太子統の第三子。幼い頃から学問を好み、優れた文章を書いた。特に仏教の教義に通じ、武帝に褒められた。
 ⑵武帝...蕭衍。時に83歳。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。
 ⑶太子綱...字は世纉。時に44歳。武帝の第三子。角ばった豊かな頬と絵に書いたような美しい髭を備えていた。早熟の天才で、読書をする際は十行を同時に読むことができ、筆をとれば直ちに文章や詩を書き上げることができた。531年に皇太子とされた。
 [1]武帝が襄陽より挙兵して天下を得たことを指す。

●宇文測の死
 この月、西魏の太子少保の宇文測が在位中に死去した(享年58)。泰はその死を痛惜し、柩の前で激しく泣いた。葬式の一切を水池公宇文護に取り仕切らせた。靖公と諡した。

 測は優しい性格で施しを好み、必要な衣食の他は家に何も蓄えなかった。洛陽にいた時、妻の陽平公主の衣服を盗まれた事があった。のち州県が泥棒を捕らえると、その所持品の中にその衣服があった。しかし測は泥棒が死刑になることを恐れて、妻のものだと認めなかった。そうこうするうち、泥棒はたまたま大赦に遇って釈放された。泥棒は測に恩義を感じ、そばに置いてくれるよう求めて許可された。測が孝武帝の西遷に従った際、事は突然だったが、この泥棒は測のそばを離れず関中に入り、忠義を貫いた。


○周27宇文測伝
 十二年十月,卒於位,時年五十八。太祖傷悼,親臨慟焉。仍令水池公護監護喪事。贈本官,諡曰靖。
 測性仁恕,好施與,衣食之外,家無蓄積。在洛陽之日,曾被竊盜,所失物,即其妻陽平公主之衣服也。州縣擒盜,并物俱獲。測恐此盜坐之以死,乃不認焉。遂遇赦得免。盜既感恩,因請為測左右。及測從魏孝武西遷,事極狼狽,此人亦從測入關,竟無異志。

 ⑴宇文測...字は澄鏡。宇文泰の族子。北魏に仕えて司徒右長史となり、宣武帝の娘を娶った。西魏では大統六年(540)まで国家の機密を司り、それ以降は汾州や綏州など国境の州の刺史となって善政を行ない、今羊祜と称賛された。大統十年(544)に朝廷に召され、太子少保となった。542年12月参照。
 ⑵水池公...宇文護はこの年に開府儀同三司・中山公とされた。
 ⑶宇文護...字は薩保。宇文泰の兄の子。時に35歳。宇文泰に器量が自分に似ていると評された。大統九年(543)の邙山の戦いでは敗退して敗戦のきっかけを作り、一時免官に遭った。543年(1)参照。


●玉壁の戦い

 これより前(9月)、高歓は玉壁を攻囲し、昼夜分かたず激しく攻め立てていたが、守将の韋孝寬はこれを臨機応変に防いでいた。
 歓は城の南に高い土山を築き、そこから城内になだれ込もうとした。城南の城壁の上には以前から二つの櫓が建っていたが、孝寬はその櫓の上に更に木を継ぎ足し、常にその土山よりも高くなるようにさせ、そこに多くの兵器を置いて侵攻を防いだ。歓はそこで使者を遣って城中にこう警告した。
「お前たちが天にまで届く櫓を建てたとしても、坑道を掘れば陥とすことができるぞ!」
 歓はこのとき太原太守の李業興の献策に従って孤虛の術[1]を用い、兵を城の〔西〕北に集め、たった一夜で汾水の流れを上流で変えて水源を断った(玉壁城の中には水源が無く、汾水に頼っていた。)。すると、城内は井戸を掘ってこれに対処した。すると、今度は昼夜分かたず土山を作りながら攻め立てつつ、実は密かに城の〔東〕南に十個の坑道を掘って、そこから城内に攻めこもうとした。
 しかし孝寬はこれを見てこう言った。
西北の地形は千余尺もある天険の地で、攻めるにふさわしい場所では無い。これはただの虚勢、陽動にしか過ぎぬ。我らは東南に備えをしておくべきだ。」
 かくて城壁の内周に深い塹壕を巡らし、その傍に兵士を置いて東魏兵を待ち受けさせた。このため、東魏兵は坑道を掘り進んでも塹壕の中に出てしまい、捕らえられて殺されてしまった。また、孝寬は燃やした焚き木で坑道を塞ぎ、皮製の鼓排(ふいご)を用いてこれを吹かせたので、坑道に潜んでいた東魏兵たちは熱波によってたちまち爛れ死んでしまった。
 東魏兵が衝車を造ると、玉壁の城壁は至るところで突き崩され、城内が排楯(岩板? 衝車が攻撃する所に吊り下げてこれを防ぐ)を用いても防ぐことができなかった。すると孝寬は布を縫い合わせて巨大な幔幕を作り(布幔)、衝車のやって来る所にこれを吊り下げさせた。幔幕は城壁と距離を空けて吊り下げられていたため、衝車はこれに妨げられて破壊することができなくなった。
 東魏兵は更に長竿を作って、その先に油を注いで燃やした松の枝や麻の茎を縛り付け(火竿)、これで幔幕や櫓を燃やそうとした。すると孝寬は鋭利な鉄鉤(カギ)を付けた長竿を作り(鉤竿)、火竿がやってくるとこれを用いて松麻を切り落とした。
 歓は更に城の四面に二十一の坑道を掘り、それを更にそれぞれ四路に分けて掘り進ませ、城壁の真下まで来たところで坑道の支柱を燃やし、城壁を地下に崩落させた[2]。しかし孝寬は直ちに崩れた所に木柵を築かせたので、東魏兵は城内に入ることができなかった。
 歓はあらゆる手を尽くして城を攻めても、城内にはまだ余力があった。孝寬が兵を外に出して土山を占拠させると、歓は遂に万策尽き、倉曹参軍の祖珽を遣ってこう言わせた。
「援軍が来ないというのに、どうして降らないのか?」
 孝寬は答えて言った。
「我が城は堅固で、兵糧もまだまだ豊富である。また、籠城戦というのは、攻める側が不利で、守る側が有利なもの。半月足らずですぐ救援を待つような者がどこにいる! むしろお前たちが引き返す時期を逸するのを心配しているくらいなのだ。孝寬は関西男児である! 断じて将軍に降伏などせぬぞ!」
 間もなく、珽は城兵にこう言った。
「韋城主は彼(西魏)から官爵や禄米をもらっているからこんなことをしているのだ。お前たちにはその道連れになる義務は無いぞ!」
 かくて城中に募格(報酬)を記した書状を射こんでこう言った。
「城主を斬って降った者は太尉・開国郡公の地位と封邑一万戸・絹一万疋を与えよう。」
 孝寬はその書状の背に自ら字を書き、城外に射返してこう言った。
「高歓を斬った者には、これと同じ褒賞を与えよう。」
 歓は〔怒って〕山東にいた孝寬の弟の子の韋遷を城下にひったててこさせ、これに白刃を突きつけてこう言った。
「早く降らぬと、こいつを殺すぞ!」
 孝寬は激昂し〔て言った。
「わしが国益より私情を優先すると思っているのか!」
 かくて〕全くこれに取り合わなかった。士卒はみなこれに感動して奮いたち、孝寬のために命を投げ出す覚悟を決めた。
 歓はおよそ五十日間に渡って激しい攻撃を加え、孝寛が鉄仮面の重武装の兵士を繰り出せば、歓は元溢という者を繰り出して目を射て倒す(目だけは守られていないからである)という一幕もあったが、結局〔ただいたずらに死者を増やすだけで、〕戦病死した者は七万人[3]にも上った。歓はこれを大きな塚の中に埋葬した。歓は智力尽き果て、恥と憤りの余り病を発した。その日の夜、歓の軍営の中に流れ星が落ち、多くの驢馬が一斉に鳴き出した。東魏兵たちはこれに驚き恐れた。
 11月、庚子(1日)、歓は遂に囲みを解き、軍の指揮を大司馬の斛律金に代わらせて晋陽へ去った。

○資治通鑑
 東魏丞相歡攻玉壁,晝夜不息,魏韋孝寬隨機拒之。...城外盡攻擊之術,而城中守禦有餘。
○周文帝紀
 九月,齊神武圍玉壁,大都督韋孝寬力戰拒守,齊神武攻圍六旬不能下,其士卒死者什二三。會齊神武有疾,燒營而退。
○北斉神武紀
 九月,神武圍玉壁以挑西師,不敢應。西魏晉州刺史韋孝寬守玉壁,城中出鐵面,神武使元盜(溢)射之,每中其目。用李業興孤虛術,萃其北。北,天險也。乃起土山,鑿十道,又於東面鑿二十一道以攻之。城中無水,汲於汾,神武使移汾,一夜而畢。孝寬奪據土山。頓軍五旬,城不拔,死者七萬人,聚為一冢。有星墜於神武營,眾驢並鳴,士皆讋懼。神武有疾。
 十一月庚子,輿疾班師。
○周31韋孝寛伝
 十二年,齊神武傾山東之眾,志圖西入,以玉壁衝要,先命攻之。連營數十里,至於城下,乃於城南起土山,欲乘之以入。當其山處,城上先有兩高樓。孝寬更縛木接之,命極高峻,多積戰具以禦之。齊神武使謂城中曰:「縱爾縛樓至天,我會穿城取爾。」遂於城南鑿地道。又於城北起土山,攻具,晝夜不息。孝寬復掘長塹,要其地道,仍飭戰士屯塹。城外每穿至塹,戰士即擒殺之。又於塹外積柴貯火,敵人有伏地道內者,便下柴火,以皮韛吹之。吹氣一衝,咸即灼爛。城外又造攻車,車之所及,莫不摧毀。雖有排楯,莫之能抗。孝寬乃縫布為縵,隨其所向則張設之。布既懸於空中,其車竟不能壞。城外又縛松於竿,灌油加火,規以燒布,并欲焚樓。孝寬復長作鐵鈎,利其鋒刃,火竿來,以鈎遙割之,松麻俱落。外又於城四面穿地,作二十一道,分為四路,於其中各施梁柱,作訖,以油灌柱,放火燒之,柱折,城並崩壞。孝寬又隨崩處竪木柵以扞之,敵不得入。城外盡其攻擊之術,孝寬咸拒破之。
 神武無如之何,乃遣倉曹參軍祖孝徵謂曰:「未聞救兵,何不降也?」孝寬報云:「我城池嚴固,兵食有餘,攻者自勞,守者常逸。豈有旬朔之間,已須救援。適憂爾眾有不反之危。孝寬關西男子,必不為降將軍也。」俄而孝徵復謂城中人曰:「韋城主受彼榮祿,或復可爾,自外軍士,何事相隨入湯火中耶。」乃射募格於城中云:「能斬城主降者,拜太尉,封開國郡公,邑萬戶,賞帛萬疋。」孝寬手題書背,反射城外云:「若有斬高歡者,一依此賞。」孝寬弟子遷,先在山東,又鎖至城下,臨以白刃,云若不早降,便行大戮。孝寬慷慨激揚,略無顧意。士卒莫不感勵,人有死難之心。
 神武苦戰六旬,傷及病死者十四五,智力俱困,因而發疾。其夜遁去。後因此忿恚,遂殂。
○北斉17斛律金伝
 四年,詔金率眾從烏蘇道會高祖於晉州,仍從攻玉壁。軍還,高祖使金總督大眾,從歸晉陽。
○隋五行志射妖
 聽孤虛之言,於城北斷汾水,起土山。其處天險千餘尺,功竟不就,死者七萬。
○北史演義
 城中無水,汲於汾。高王令絕其水道,城中掘井以汲。...乃鑿穿地道,用孤虛法以攻之。孤虛者取日辰相剋,黃帝戰法,避孤擊虛,故王用之。引兵攻西北,而掘地道於東南。孝寬曰:「西北地形天險,非人力所能攻,彼不過虛張聲勢耳,當謹備東南。」...高王智力俱困,且慚且憤,因而疾發。

 ⑴李業興...性格に難があったが大学者で、天文などに詳しく、興光暦を作った。歓は出陣する際、術数に明るい業興を常に伴って助言を求めた。543年(1)参照。
 [1]孤虛の術...九天玄女は黄帝にこう言った。「戦法とは、孤立(孤)を避け、手薄な所(虚)を攻めることである。」
 ⑵《元和郡県図志》曰く、『玉壁城周の周長八十里あり、深い谷に四方を囲まれていた。
 [2]坑道...高歓は以前これを鄴攻めに用い、守将の劉誕を捕らえることに成功している(532年正月参照)。ゆえにこれを再び用いたのである。
 ⑶祖珽...字は孝徵。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。本能に忠実な性格でたびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。541年参照。
 [3]考異曰く、『韋孝寬伝には「六十日に渡って激しく戦ったが、傷病死した者は四・五割にも及んだ」とあるが、今は神武紀の記述に従うことにする』。

●斉子嶺の戦い
 これより前、歓は玉壁を攻めるに当たり、河南大行台の侯景に斉子嶺[1]より西魏領内に侵攻させていた。西魏の建州(治 車箱[2])刺史の楊檦はこれを聞くと直ちに騎兵を率い、景が邵郡に侵入してくるよりも先にその前に立ち塞がった。景は檦がやってきたのを知ると、これを恐れ、木を切り倒して道を六十余里に渡って塞いだが、それでも安心できず、とうとう河陽にまで逃げ帰った[3]

○周34楊檦伝
 及齊神武圍玉壁,別令侯景趣齊子嶺。檦恐入寇邵郡,率騎禦之。景聞檦至,斫木斷路者六十餘里,猶驚而不安,遂退還河陽,其見憚如此。

 ⑴侯景…字は万景。高歓の友人。爾朱栄に仕え、滏口の戦いにて先鋒を務めて葛栄を捕らえる大殊勲を立てた。爾朱氏が滅びると高歓に仕え、黄河以南の軍事権を委任された。河橋の戦いでは高歓が来る前に宇文泰を破る活躍を見せた。546年(1)参照。
 [1]斉子嶺...河内郡の王屋県、旧名は長平に、斉子嶺や軹関がある。杜佑の通典171州郡序に曰く、斉子嶺は今(唐)の王屋県の東二十里にあり、東西魏の境界線となっていた。
 [2]車箱...隋・唐の絳州垣県内にある。宋白の続通典に曰く、絳州絳県はもともと県庁が車箱城にあったが、隋代にその北十里に遷されたのである。
 ⑵楊檦...字は顕進。河東の豪族。義侠心が厚く、北魏の城陽王の元徽を匿ったことで名を上げた。西魏に河東一帯を任され、邙山の戦いでは侯景の追撃を退けた。543年(1)参照。
 [3]楊檦は凡将にしか過ぎぬのに、どうして戦上手の侯景がここまで恐れようか! 史家は時に事実と乖離したことを書く。
 ⑶邙山の戦いの際、檦は景の追撃を退けている。その時の記憶がこのような行動を起こさせたのかもしれない。また、これまでの戦いぶりから見るに、楊檦は凡将とは言えない。


 546年(3)に続く