●蕭方智・独孤氏の死
 夏、4月、乙丑(3日)、陳がもと梁の敬帝で江陰王の蕭方智を殺害した。陳は太宰に弔問に行かせ、司空に葬儀を監督させ、必要なものは随時提供した。また、梁の武林侯諮の子の蕭季卿に江陰王の跡を継がせた。
 丙寅(4日、陳の武帝が石頭に赴き、司空の侯瑱を見送った《陳武帝紀》

 己巳(7日)、北周が太師の晋公護を雍州牧とした。また、銅鍾・石磬の楽器を下賜した。
 甲戌(12日)、王后の独孤氏1月19日に王后とされていた)が亡くなった。敬后と諡された(周16独孤信伝)。
 甲申(22日)、昭陵に埋葬した《周明帝紀》
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 ⑴蕭方智...敬帝。梁の四代皇帝の元帝の第九子で、梁の六代皇帝。在位555〜557。時に16歳。陳覇先に擁立されて皇帝となったが、去年禅譲を迫られて位を覇先に譲った。557年(3)参照。
 ⑵武林侯諮...字は世恭。梁の武帝の弟の子で、鄱陽王範の弟。交州にて苛政を行ない、李賁の乱を招いた。のち、簡文帝と交流を続けたことで侯景に睨まれ、殺害された。550年(5)参照。
 ⑶武帝...陳覇先。時に56歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。去年、帝に禅譲を迫って皇帝となり、陳を建国した。557年(4)参照。
 ⑷侯瑱を見送った...陳は2月27日に侯瑱に北斉に侵攻を防ぐよう命じていた。その出発か?

●北斉に大旱魃起こる
 辛巳(19日)、北斉が大赦を行なった。
 この月北史北斉文宣紀)、大旱魃が発生した。文宣帝は西門豹祠にて雨乞いをしたが、雨が降らなかったため、祠を壊し、その墓を暴いた《北斉文宣紀》
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 [1]西門豹は戦国魏の鄴令であり、十二の灌漑水路を開き、住民に多くの利益をもたらした。故に祠も墓も鄴にあるのである。

●南征軍、周迪に迫る
 5月、癸巳(1日)出典不明〉、余孝頃らが工塘に進軍し、八城を連ねて周迪に迫った《陳35周迪伝》。迪はこの勢いに恐れをなし、和を求めると共に、兵糧を送った。樊猛らはこれを受け入れて帰還しようとしたが、孝頃は工塘にある財宝に執着してこれを許さず、柵を築いて包囲を強めた。これ以降、猛らと孝頃の間に不和が生じた《出典不明》

 乙未(3日)、北周が大司空・梁国公の侯莫陳崇を大宗伯とした。
 
 この日、建康で地震があった。

 辛丑(9日)、北斉が尚書令の長広王湛を録尚書事(前任は上党王渙)とし、驃騎大将軍の平秦王帰彦を尚書左僕射とした。
 甲辰(12日)、前左僕射の楊愔を尚書令とした。

 ⑴侯莫陳崇...字は尚楽。北魏末の群雄・万俟醜奴を単騎で捕らえ、西魏に仕えては河橋で随一の功を立てた。557年(1)参照。
 ⑵長広王湛...高歓の第九子で、文宣帝の同母弟。時に22歳。去年の4月に尚書令とされた。557年(2)参照。
 ⑶平秦王帰彦...高歓の族弟。字は仁英。文宣帝に重用を受けた。清河王岳を陥れて死に追い込んだ。556年(3)参照。
 ⑷楊愔...字は遵彦。名門楊氏の生き残り。時に48歳。北斉の政治を取り仕切った。高澄が膳奴に殺された際には助けることもせずに一目散に逃げ出した。557年(4)参照。

●捨身
 癸丑(21日)、北斉の広陵(東広州、建康の東北)南城主の張顕和と長史の張僧那が、配下を連れて陳に降った。
 辛酉(29日)、陳の武帝が大荘厳寺に捨身(出家)した[1]
 壬戌(30日)、群臣が上奏して帰還を求めたため、宮殿に帰った《陳武帝紀》

 6月、乙丑(3日)文宣帝が晋陽より北方の視察に向かった。
 この時、帝は太子の高殷を監国(国事代行)とした。殷は大都督府を設け、尚書省と政務を分担した。府には従来の制度通りの役職を置いたが、帝はその人選を慎重を期し、その長史に趙郡王叡を任命した《北斉13趙郡王叡伝》

 己巳(7日)、北周が長安県に万年県を置いた。共に長安を治所とした。

 この日、陳が司空の侯瑱と領軍将軍〔・鎮右将軍(三階)・南豫州刺史〕の徐度に水軍を与えて前軍とし、王琳の討伐に向かわせた《陳武帝紀》

 この日文宣帝が祁連池(晋陽の西北)に到った。
 戊寅(16日)、晋陽に帰った。
 この夏、山東にて蝗が大発生した。北斉は人夫にこれを捕まえさせ、穴に埋めさせた《北斉文宣紀》

 この月、北周が〔儀同三司・黄門侍郎の〕冀儁らを大使として各州郡に派遣し、暮らしぶりの調査や冤罪を訴える囚徒の再審理、野にうち捨てられている遺骨を埋葬などをさせた。

 秋、7月、甲午(3日)、北周が柱国・寧蜀公の尉遅迥に兵を率いさせ、河南に安楽城を築かせた《周明帝紀》

 戊戍(7日)、武帝が石頭にて侯瑱らを見送った《陳武帝紀》

○周明帝紀
 六月...己巳,...分長安為萬年縣,並治京城。辛未,幸昆明池。壬申,...遣使分行州郡,理囚徒,察風俗,掩骼埋胔。
○周47冀儁伝
 世宗二年,以本官為大使,巡歷州郡,察風俗,理冤滯。

 ⑴大荘厳寺...劉宋の孝武帝の大明三年(459)に、宣陽門(建康内城〈他の城でいう外城〉南門)外の太社の西にある薬園に路太后が建てた。七層の仏塔があり、寺の前には市場が設けられた。のち、梁が天監年間(502~519)に同名の寺を建てたため、劉宋の荘厳寺を大荘厳寺、梁の荘厳寺を小荘厳寺と呼んで区別するようになった。
 [1]捨身した...梁の武帝の失敗に学ばなかったのである。帝は梁の武帝が仏教を信じていたことだけを知っていてその真似をしたが、それによる弊害は知っていなかったのである。
 ⑵高殷...字は正道。文宣帝の長子。時に14歳。550年(4)参照。
 ⑶趙郡王叡...高歓の弟の高琛の子。時に24歳。身長七尺、容貌は非常に立派だった。幼くして父の処刑に遭い、歓に引き取られて育てられた。至孝の人で、母が亡くなると痩せ衰えて骨と皮だけになった。常に深夜まで勉学に勤しんで政治に熟達し、人を見る目があった。定州刺史・撫軍将軍・六州大都督とされると、良牧の評価を受けた。のち、長城の建設の監督を命じられた。557年(4)参照。
 ⑷徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好んだ。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。去年、北斉領に侵攻して合肥を攻めた。557年(3)参照。
 ⑸冀儁...字は僧儁。大人しく控え目な性格で、字が上手く、とりわけ写字を得意とした。太昌元年(532)に賀抜岳の墨曹参軍となり、岳が侯莫陳悦に殺されると宇文泰の記室となった。泰が悦の討伐に向かう際、勅書を完璧に偽造して費也頭族から助力を得ることに成功した。のち、次第に昇進して黄門侍郎などを歴任した。明帝に字を教えた。534年(2)参照。
 ⑹尉遅迥...字は薄居羅。泰の姉の子。時に43歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。557年(1)参照。
 
●南征軍の壊滅

 信武将軍(十階),高州刺史の黄法氍・壮武将軍(十六階),監会稽郡の沈恪・〔信武将軍?,〕寧州[1]刺史の周敷・飆猛将軍(二十二階),豫章太守,領豊城令の熊曇朗が兵を合わせて周迪の救援に向かった(沈恪は山を越えて工塘に向かった《陳11黄法氍伝・陳12沈恪伝・陳13周敷伝・陳35熊曇朗伝》。敷は臨川故郡より出撃して江口を封鎖し、兵を分けて余孝頃の築いた八城を攻めた。孝頃に反感を持っていた樊猛・李孝欽らがその救援に赴かなかったので、城はみな陥ちた。
 己亥(8日)、孝頃らは船を捨て、陸路をとって逃走を図ったが、迪の追擊を受けて(孝頃に反感を持っていた〜...出典不明)みな捕虜となった《陳35周迪伝》劉広徳は先に川を下っていたので逃れることができた《出典不明》。迪は陸山才に孝頃らを建康にまで送らせた。山才は都陽の楽安嶺の東道を通って建康に帰還した《陳18陸山才伝》。途中、樊猛は脱走に成功し、王琳のもとに帰った《陳31樊猛伝》。孝頃らの大量の軍需品と兵馬はみな迪のものとなった《陳35周迪伝》

○陳12沈恪伝
 永定二年,徙監會稽郡。會余孝頃謀應王琳,出兵臨川攻周迪,以恪為壯武將軍,率兵踰嶺以救迪。余孝頃聞恪至,退走。

 ⑴沈恪...字は子恭。時に50歳。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。覇先と同郡の生まれだったため非常に仲が良く、覇先が南徐州の鎮守を任されるとその配下となり、王僧弁を襲殺する時に事前に計画を知らされた一人となった。のち、敬帝を別宮に遷す役を涙ながらに拒否し、許された。557年(3)参照。
 [1]寧州...恐らく、臨川故郡に寧州が置き、敷をその刺史としたのであろう。〔或いは名ばかりのものかもしれない。〕
 ⑵周敷...字は仲遠。臨川の豪族の出。短躯痩身で、衣服の重さにも耐えられないような弱々しい体をしていたが、心の強さは誰にも負けなかった。男気のある性格で、財貨よりも仁義を重んじたため、郷里の不良少年から絶大な支持を得た。また、梁の王族たちの多くを匿い、無事江陵に送り届けた。周迪が勢力を拡大するとこれと連合し、臨川故郡城を鎮守した。556年(5)参照。
 ⑶熊曇朗...豫章郡南昌県の名家の出身。自由気ままな性格で独立心が強く、立派な肉体と容貌を有していた。侯景の乱が起こると県の若者を集め、豊城県を占拠して砦を築いた。のち、侯瑱が豫章の鎮守にやってくると上辺だけ従うふりをし、やがて瑱を湓城に敗走させてその馬や武器・家族の多くを奪取した。557年(4)参照。
 ⑷江口...《読史方輿紀要》曰く、『汝水と南江(贛江が合流する所を江口という。』『或いは、臨水と汝水の合流する所のことを言う。』この江口は恐らく後者のことであろう。
 ⑸都陽の楽安嶺...不明。鄱陽郡に楽安県がある。

┃河北疲弊
 甲辰(7月13日)、陳が吏部尚書の謝哲王琳を説得させた。

 去年、北斉の趙・燕・瀛・定・南営五州および司州の広平・清河二郡の農地は螽澇(蝗害・水害)によって大きな被害を出していた(557年〈2〉参照。今年の夏にも蝗害は発生していた。水害の詳細は不明)。それに加え、今年、更に春夏に旱魃が起こった(558年〈1〉参照)ため、該地の農地は殆ど作物が育たない有様となっていた。
 戊申(17日)、北斉が詔を下し、該地の年貢を今年に限って免除した。

 これより前、侯景の乱が平定された時、太極殿は焼失してしまっていた。承聖年間(552~554)に再建の提議が為されたものの、一本の柱の元となる大木が調達できなかったため、沙汰やみとなっていた。ここに至り、円周十八囲・全長四丈五尺の樟(クスノキ)の大木が陶家後渚に流れ着いていることが、監軍の鄒子度の報告によって分かった。
 甲寅(23日)、中書令の沈衆を兼起部尚書、少府卿の蔡儔を兼将作大匠とし、太極殿を再建させた。

 8月甲子(3日)、北周が順陽(南陽の西)から三足の烏が献上された(7月5日)ことを祝い、大赦を行なった。

 乙丑(4日)、北斉の文宣帝が鄴に帰った。

 丙寅(5日)、陳が広梁郡を陳留郡とし、広梁太守の陳詳を陳留太守とした。
 辛未(10日)、陳が臨川王蒨に水軍五万を率いて王琳を討つよう命じた。武帝は冶城寺(建康西南)まで出向いてその出発を見送った。

 甲戌(13日)文宣帝が晋陽に赴いた。

○周明帝紀
〔七月〕丙申,順陽獻三足烏。八月甲子,羣臣上表稱慶。大赦天下,文武官普進二級。

○北斉文宣紀
〔七月〕戊申,詔趙、燕、瀛、定、南營五州及司州廣平、清河二郡去年螽澇損田,兼春夏少雨,苗稼薄者,免今年租賦。八月乙丑,至自晉陽。甲戌,帝如晉陽。是月,陳江州刺史沈泰以三千人內附。

○陳武帝紀
 〔七月〕甲辰,遣吏部尚書謝哲諭王琳。初,侯景之平也,火焚太極殿,承聖中議欲營之,獨闕一柱,至是有樟木大十八圍,長四丈五尺,流泊陶家後渚,監軍鄒子度以聞。甲寅,詔中書令沈眾兼起部尚書,少府卿蔡儔兼將作大匠,起太極殿。八月景寅,以廣梁郡為陳留郡。辛未,詔臨川王蒨西討,以舟師五萬發自京師,輿駕幸冶城寺親送焉。

 ⑴謝哲...字は穎豫。風儀が美しく、一挙一動に趣があり、社交的な性格だったので、士君子たちに重んじられた。広陵太守となり、のち南徐州刺史の陳覇先の配下となってその長史とされた。554年(4)参照。
 ⑵王琳...字は子珩。時に32歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、一昨年、更に郢州に勢力を広げた。去年、沌口にて陳軍に完勝を収め、江州を占拠した。558年(1)参照。
 ⑶王僧弁の兵の火の不始末により、太極殿・東西堂・延閣・秘署が焼け落ちていた。552年(2)参照。
 ⑷陶家後渚...《読史方輿紀要》曰く、『《実録》曰く、秦淮河の南岸・石頭城の近西に陶家渚がある。』『《金陵記》曰く、陶家渚の西に蔡洲がある。六朝時、常にここで北朝の使者の見送りを行なった。
 ⑸沈衆...字は仲師。祖父は沈約。侯景の乱の際には宗族と郷里の人々を率いて防衛に活躍した。のち、侯景に降り、右司馬とされた。のち陳の武帝に仕えると、故郷の名士であることを以て重用を受けた。550年(4)参照。
 ⑹文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に33歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。しかし六・七年も経つと、己の功業に驕って酒色に溺れ、残虐な行為を繰り返すようになった。558年(1)参照。
 ⑺広梁郡...陳詳伝曰く、『呉興郡の故鄣・宣城郡の広德県に広梁郡(隋書では大梁)を置いた。』《読史方輿紀要》曰く、『故鄣城は〔呉興の〕西北七十里→西南八十里にある。』『広徳県は広徳州(湖州府〈呉興〉の西百六十里)の治所である。』
 ⑻陳詳...字は文幾。時に36歳。武帝の親族で、帝が杜龕の討伐に赴いた際、安吉・原郷・故鄣の三県を攻略した。555年(3)参照。
 ⑼臨川王蒨...字は子華。覇先の兄の陳道談の長子。時に32歳(建康実録)。幼少の頃より沈着明晰で、優れた見識と度量を有した。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派で、どんな時でも必ず礼法に適った行ないをした。覇先が王僧弁の討伐に赴くと、長城県の守備を任され、杜龕軍の攻撃を数旬に渡って凌いだ。のち、東方の制圧に成功し、会稽等十郡諸軍事・会稽太守とされた。周文育らが捕らえられると建康の守備を任された。557年(3)参照。
 ⑽武帝...陳覇先。時に56歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。去年、帝に禅譲を迫って皇帝となり、陳を建国した。558年(1)参照。


┃周文育らの帰還
 王琳が白水浦(江州の近西)に到った時、〔もと陳の部将で琳の捕虜となっていた〕周文育侯安都徐敬成は監視役の王子晋王琳のお気に入りの宦官)に甘言を弄し、多くの賄賂を贈って〔逃がしてくれるよう頼んだ。〕子晋はそこで琳に釣りに行ってくると嘘をつき、夜、文育らを小船に載せて王琳の船を出た。岸辺に着くと、文育らは上陸して草中を進み、陳の軍中に逃げ帰った。文育らは建康に帰ると、上書して処罰を求めた。武帝は即日彼らに会い、〔大敗の〕罪を赦した。
 戊寅(17日)、文育らを原職に復帰させた。

○陳武帝紀
 前開府儀同三司、南豫州刺史周文育,前鎮北將軍、南徐州刺史、新除開府儀同三司侯安都等於王琳所逃歸,自劾廷尉,即日引見,竝宥之。戊寅,詔復文育等本官。
○陳8周文育伝
 及周迪破余孝頃,孝頃子公颺、弟孝勱猶據舊柵,扇動南土,高祖復遣文育及周迪、黃法氍等討之。
○陳8侯安都伝
 琳下至湓城白水浦,安都等甘言許厚賂子晉。子晉乃偽以小船依䑽而釣,夜載安都、文育、敬成上岸,入深草中,步投官軍。還都自劾,詔竝赦之,復其官爵。

 ⑴周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行ない、北斉が侵攻してくるとその大破に大きく貢献した。蕭勃が挙兵するとその前軍を撃破し、勃を死に追い込んだ。のち沌口にて王琳と戦って大敗を喫し、捕虜となった。557年(3)参照。
 ⑵侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らし回り、幕府山南の決戦では別働隊を率いて北斉軍の後軍の横腹を突き、梁軍を大勝に導いた。のち沌口にて王琳と戦って大敗を喫し、捕虜となった。557年(2)参照。
 ⑶徐敬成...徐度の子。幼い頃から聡明で読書を好み、当意即妙な受け答えができた。文人と交流し、人を見る目に優れていることで評判となった。父の兵を率いて王琳討伐軍に加わったが、敗れて捕虜となった。557年(3)参照。

┃後梁の侵攻
 この年、後梁の大将軍の王操が、王琳の領土である長沙・武陵・南平などの諸郡を攻略した[1]

○周48蕭詧伝
 詧之四年,詧遣其大將軍王操率兵畧取王琳之長沙、武陵、南平等郡。

 ⑴王操...字は子高。誠実な性格で智謀があり、大変な読書家で勤勉に働いた。宣帝から二番目の重用を受けた。555年(1)参照。
 [1]王琳が東下した隙を突いたのである。


┃和議の成立
 謝哲が建康に帰還し(7月13日参照)、王琳に湘州(長沙)に軍を返す意志のあることを武帝に報告した。そこで帝は詔を下し、討伐軍を引き返させた。
 癸未(22日)、討伐軍が大雷(湓城の東北より帰還した。
 丁亥(26日)、信威将軍・江州刺史の周迪を開府儀同三司・平南将軍とした。また、南徐州(京口。建康の東)の治所の南蘭陵郡を東海郡に改めた。

 9月、辛卯(1日)、北周が大将軍の楊忠王雄を柱国大将軍とした。
 甲辰(14日)、少師の元羅を韓国公とし、北魏の祭祀を続けさせた。
 丁未(17日)明王が同州(長安の東北。もと宇文泰の居城)に赴いた。
 冬、10月、辛酉(1日)、長安に帰った。
 乙丑(5日)、柱国大将軍の尉遅迥に隴右の鎮守をさせた。

○周明帝紀
 九月辛卯,以大將軍楊忠、大將軍王雄並為柱國。甲辰,封少師元羅為韓國公,以紹魏後。丁未,幸同州。冬十月辛酉,還宮。乙丑,遣柱國尉遲迥鎮隴右。
○陳武帝紀
 壬午,謝哲反命,王琳請還鎮湘川,詔追眾軍緩其伐。癸未,西討眾軍至自大雷。丁亥,以信威將軍、江州刺史周迪為開府儀同三司,進號平南將軍。改南徐州所領南蘭陵郡復為東海郡。

○陳15陳詳伝
 割故鄣、廣德置廣梁郡,以詳為太守。高祖踐祚,改廣梁為陳留,又以為陳留太守。


 ⑴大雷...《読史方輿紀要》曰く、『安慶府の西南百十里(望江県)にある。』
 ⑵周迪...山谷育ちで狩猟を生業とし、並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。質素を好み、口数は少なかった。侯景の乱が起こると臨川の工塘(臨汝の東南)に拠り、善政を行なった。陳覇先と蕭勃との間に戦争が起こると、初めは日和見態度を取ったが、やがて覇先に付いた。今年、王琳の遠征軍を大破した。557年(4)参照。
 ⑶楊忠..字は揜于。時に52歳。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏を賜った。梁に二度身を置いたことがある。梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。北斉で乱を起こした司馬消難の保護に大きく貢献した。558年(1)参照。.
 ⑷王雄...字は胡布頭。可頻氏の姓を賜った。十二大将軍の一人。時に53歳。魏興・上津を攻略した。553年(1)参照。
 ⑸元羅...字は仲綱。北魏の権力者・元叉の弟。梁州刺史だったが、535年11月に梁に攻められて降伏し、536年に東郡王(南史梁武帝紀。魏書では『南郡王』)とされた。侯景が権力を握ると西秦王(魏書では『江陽王』)とされ(549年)、梁の元帝が侯景を滅ぼすと、宇文泰の求めによって西魏に帰国し、江陽王→固道郡公とされていた。552年(2)参照。
 ⑹明王...宇文毓。宇文泰の長子で、北周の二代皇帝。時に25歳。優れた人格を備え、独孤信の長女を妻とした。行華州事・宜州刺史・岐州刺史を歴任し、岐州で善政を行なって州民から高い支持を得た。去年、天王となった。557年(3)参照。
 ⑺尉遅迥...字は薄居羅。宇文泰の姉の子。時に44歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。558年(1)参照。


┃余孝頃討伐
 周迪余孝頃を破って捕らえた後も、孝頃の子の余公颺と弟の余孝勱はなお新呉(豫章の西)の旧柵に拠って南土を扇動し、〔抵抗を続けていた。〕
 庚午(10日)、陳が鎮南将軍・開府儀同三司の周文育・周迪・黄法氍らにその討伐をさせた。

○陳武帝紀
 冬十月庚午,遣鎮南將軍、開府儀同三司周文育都督眾軍出豫章,討余孝勱。

 ⑴余孝頃...新呉洞主、南江州刺史。陳覇先に反抗し続け、王琳が東下を開始するとこれに従い、南方討伐軍指揮を任されたが、工塘の戦いに敗れて捕虜となった。558年(1)参照。
 ⑵黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。巴山新建の人。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里を守り、太守の賀詡が江州に下ると(追い出した?)監郡事とされた。のち、陳覇先の軍を助け、556年、高州刺史とされた。去年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍を破るのに貢献した。558年(1)参照。


 558年(3)に続く