●吐谷渾撃破

 閏4月、乙卯(29日)、北周の大司馬・柱国大将軍の賀蘭祥らが開府儀同三司・渭州刺史の于翼と開府儀同三司〔・南夏州刺史?〕の梁台を先鋒とし、吐谷渾と戦った。吐谷渾は広定王・鐘留王らを派してこれを迎撃した。祥らはこれを撃退して洮陽と洪和の二城を攻め陥として帰還した。
 この戦いの功績により、大将軍の楊寛韓果宇文盛は子が県公とされた。
 開府儀同三司の高琳も子が県公とされ、自身は延州(現在の延安)刺史とされた。開府儀同三司の于翼は千二百戸を加増された。開府儀同三司・工部中大夫の盧光は祥の長史として活躍し、燕郡公とされた。
 征南将軍・右金紫光禄大夫の黎季明は驃騎将軍・右光禄大夫とされた。

○周明帝紀
 賀蘭祥攻拔洮陽、洪和二城,吐谷渾遁走。
○周20賀蘭祥伝
 遂與吐渾廣定王、鍾留王等戰,破之。因拔其洮陽、洪和二城,以其地為洮州。撫安西土,振旅而還。
○周22楊寛伝
 從賀蘭祥討吐谷渾,破之,別封宜陽縣公,邑一千戶。
○周27韓果伝
 從賀蘭祥討吐谷渾,以功別封一子縣公。
○周27梁台伝
 武成中,從賀蘭祥征洮陽,先登有功,別封綏安縣侯,邑一千戶。詔聽轉授其子元慶。
○周29宇文盛伝
 仍從賀蘭祥平洮陽、洪和二城,別封一子甘棠縣公。
○周29高琳伝
 武成初,從賀蘭祥征吐谷渾,以勳別封一子許昌縣公,邑一千戶,除延州刺史。
○周30于翼伝
 賀蘭祥討吐谷渾,翼率州兵先鋒深入。以功增邑一千二百戶。
○周45盧光伝
 大司馬賀蘭祥討吐谷渾,以光為長史,進爵燕郡公。
○周47黎景熙伝
 時大司馬賀蘭祥討吐谷渾,詔季明從軍。還,除驃騎將軍、右光祿大夫。
○周50吐谷渾伝
 夸呂遣其廣定王、鐘留王拒戰,祥等破之,廣定等遁走。又攻拔其洮陽、洪和二城,置洮州以還。

 ⑴賀蘭祥...字は盛楽。宇文泰の姉の子で、宇文護の幼少時からの友。時に45歳。小司馬として大司馬の宇文護と共に兵権を握り、泰死後の護の政権樹立に大いに貢献した。558年(1)参照。
 ⑵于翼...字は文若。于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。557年(1)参照。
 ⑶梁台...字は洛都。賀蘭氏を賜った。爾朱天光・賀抜岳に仕え、文武に活躍して信任を受けた。のち宇文泰に仕え、莫折後熾・劉平伏の乱の平定に活躍した。538年(2)参照。
 ⑷洮陽・洪和...『洮陽は洮州衛(河州の南三百十里、岷州衛の西一百五十里)の西南七十里にある。今の臨潭城の地である。』『洪和は岷州衛の西にある。』『北魏は太平真君年間に吐谷渾を破って洪和郡を置き、太和十五年に洮陽城を陥としたが、北魏末に大乱が起こると吐谷渾に取り戻されていた。
 ⑸楊寛...字は景仁(あるいは蒙仁)。名門の生まれで、懐朔鎮将の楊鈞の子。元天穆・孝武帝の参謀として活躍した。のち、漢中攻略に貢献した。552年(3)参照。
 ⑹韓果...字は阿六抜。若くして勇猛で、騎射に長け、並外れた体力を有した。また、抜群の記憶力と智謀を有し、通った所の地勢をつぶさに記憶し、敵の動きを推察し把握することができたため、宇文泰に虞候都督とされ、斥候の騎兵を任された。小関の戦いの勝利に大きく貢献した。のち北山の稽胡族の乱の平定に活躍し、稽胡族から『著翅人』と呼ばれて恐れられた。548年(5)参照。
 ⑺宇文盛...字は保興。趙貴の陰謀を宇文護に告発し、その功により大将軍・忠城郡公・涇州都督とされた。557年(1)参照。
 ⑻高琳...字は季珉。先祖は高句麗人。元天穆に仕えて陳慶之を洛陽に破り、のち爾朱天光に従って万俟醜奴を破るのに大きな功を立てた。河橋の戦いでは先頭に立って奮戦し、宇文泰から「我が韓信・白起」と賞された。
 ⑼盧光...字は景仁。盧弁の弟。温和で真面目な性格で、読書を好み、礼学・易学に精通し、音楽に理解があり、老荘を好んだ。孝武帝が西遷したのち山東にて東魏に抵抗し、大統六年(540)に家族と共に関中に入って丞相府記室参軍とされた。間もなく行台郎中とされ、事務仕事を司った。のち、行台右丞、華州長史、将作大匠、京兆郡守、小匠師下大夫、匠師中大夫、工部中大夫とされた。
 ⑽黎季明...本名は景熙。季明は字。読書好きで、記憶力や理解力に優れたが、会話を苦手とした。字が上手く、陰陽・卜占・暦数などに精通した。仕事をせず、家に引きこもって読書三昧の生活を行ない、生活が困窮しても生き方を変えなかった。のち、親友の盧道源に強く勧められて遂に仕官し、孝武帝が西遷すると侯景に仕えて行台郎中とされたが、景が〔東魏に叛乱を起こして〕懸瓠に逃れた際、これを見限って西魏に付き、王思政に仕え、間もなく関中に入った。大統の末年に著作佐郎とされた。仕事ぶりは真面目だったが、偏屈な所があったため出世できず、十年に渡って一史官のままだった。この時、同輩たちはみな高官となって、車も服も豪勢を極めていたが、季明は一切恥じる所が無かった。のち、六官が建てられると外史上士とされた。

●元氏虐殺
 5月、丙辰朔(1日)、日食があった。

 北斉の太史(天文や暦法を司った)が上奏して言った。
「今年は、旧を除き新を布く年であります。」
 文宣帝は特進・彭城公の元韶に尋ねて言った。
「〔後〕漢の光武帝は何故漢を再興できたのか?」
 韶は答えて言った。
「〔王莽が〕劉氏を皆殺しにしなかったからでしょう。」
 帝はそこで、元氏を皆殺しにしてその再興を防ごうと考えた。
 癸未(27日)、始平公の元欽字は世道。孝荘帝の弟の子)・元世哲北魏の任城王澄の弟の子・東平公の元景式北魏の東平王略の子)ら二十五家を皆殺しにし、韶ら十九家を鄴の地下牢に幽閉した。韶は食事を与えられず、衣服の袖を食うまでに追い詰められたのち、遂に餓死した。

○北斉文宣紀
 五月癸未,誅始平公元世〔道?〕、東平公元景式等二十五家,特進元韶等十九家並令禁止。
○陳武帝紀
 五月景辰朔,日有食之。
○北斉28元韶伝
 十年,太史奏云:「今年當除舊布新。」文宣謂韶曰:「漢光武何故中興?」韶曰:「為誅諸劉不盡。」於是乃誅諸元以厭之。遂以五月誅元世哲、景式等二十五家,餘十九家並禁止之。韶幽於京畿地牢,絕食,啗衣袖而死。

 ⑴文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に34歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。しかし六・七年も経つと、己の功業に驕って酒色に溺れ、残虐な行為を繰り返すようになった。559年(1)参照。
 ⑵元韶...字は世冑。北魏の孝荘帝の兄・劭の子。美男子。高歓の娘婿であったことから、高氏に寵遇を受けた。懦弱な性格で、元暉業に「お前はそこらの老婆にも劣る臆病者だと非難され、文宣帝には婦人のような格好をさせられ、皮肉られた。551年(4)参照。
 ⑶文宣紀には『誅始平公元世、東平公元景式等二十五家』とあり、元韶伝には『誅元世哲、景式等二十五家』とある。通鑑は元世哲を始平公としているが、始平王の爵位を受け継ぎ、のち公に降格されていたのは元欽である。もしかするとその後に欽が死に、子どもが無かったので世哲が跡を継ぐようなことがあったのかもしれない。

●周文育の死


 周迪余孝頃を破って捕らえた後も、孝頃の子の余公颺と弟の余孝勱はなお新呉(豫章の西)の旧柵に拠って南土を扇動し、〔抵抗を続けていた。〕陳はそこで鎮南将軍・開府儀同三司の周文育周迪黄法氍らにその討伐を命じていた(10月10日)。
 周文育らの軍は北江州刺史・豫章太守の熊曇朗の軍と合流し、兵数は約一万に達した。文育は安南将軍の呉明徹周迪に水軍を率いさせ、兵糧の輸送を任せた。文育は象牙江に入って金渓口に城を築いた。陳は陸山才を貞威将軍・鎮南長史・豫章太守とした。
 余公颺は〔劣勢を挽回するため〕五百の兵を連れて偽りの降伏をし、〔隙を見て〕文育を捕らえようとしたが、文育に事前に察知され、 捕らえられて建康に送られた。文育は公颺の兵を諸軍に分配し、陸路を進んで三陂に陣を構えた。
 梁の丞相の王琳は〔孝励の苦境を聞くと、〕部将の曹慶に二千の兵を与えて救援に向かわせた。慶は主帥の常衆愛に文育と対峙させ、自らは迂回して周迪呉明徹の水軍を攻め、これを大破した。周迪は船を棄てて逃走し、行方知れずになった。文育は〔これを聞くと〕金渓口に退いた。
 熊曇朗は味方の劣勢を知ると、文育を殺して衆愛に内応しようとした。文育の監軍の孫白象はその企みを知ると、文育に先手を打って曇朗を討つように勧めたが、文育は聞き入れず、こう言った。
「それはいかん。いま我が手勢は少なく、多勢の客軍(友軍)に頼っている状態なのだぞ。そのような時にそんなことをすれば、軍は瓦解して一気に破滅に陥る。真心を以て説得していくほかあるまい。」
 乙酉(29日)、文育のもとに、行方知れずになっていた周迪の書状が届いた。文育は〔大いに〕喜び、〔これを〕曇朗に見せに行った。曇朗はこれを機に文育を殺害し(享年51)、その将兵を全て捕らえた。それから豫章を占拠し、太守の陸山才らを捕らえて王琳のもとに送った。

 陳の武帝(11)周文育の死を知ると、即日泣いて哀悼の意を示し、侍中・司空の官を追贈し、忠愍と諡した。
 これより前、文育が三陂に拠った時、流星が雷鳴の如き大音をたてて地に落ちた。落ちた所は一丈(約3メートル)四方ほど地面が抉れており、その穴の中には粉々になった木炭が数斗ほどあった。また、ある時、突如軍市(兵士のための臨時市場)中に幼児の泣き声が響き渡ったことがあった。市中の人々が驚いてその声の出所を探すと、なんと地中から発されていることが分かった。兵士たちが地面を掘ると、中から三尺の長さの棺が現れた。文育はこれを不吉に感じた。この後間もなく周迪は敗北し、文育は殺されることとなった。

 曹慶は梁(王琳)の左衛将軍・呉州刺史で、潘純陁に次ぐ数の兵を率いた。

○陳武帝紀
 乙酉,北江州刺史熊曇朗殺都督周文育于軍,舉兵反。王琳遣其將常眾愛、曹慶率兵援余孝勱。
○陳8周文育伝
 及周迪破余孝頃,孝頃子公颺、弟孝勱猶據舊柵,扇動南土,高祖復遣文育及周迪、黃法氍等討之。豫章內史熊曇朗亦率軍來會,眾且萬人。文育遣吳明徹為水軍,配周迪運糧,自率眾軍入象牙江,城於金口。公颺領五百人偽降,謀執文育,事覺,文育囚之,送于京師,以其部曲分隸眾軍。乃捨舟為步軍,進據三陂。王琳遣將曹慶帥兵二千人以救孝勱,慶分遣主帥常眾愛與文育相拒,自帥所領徑攻周迪、吳明徹軍。迪等敗績,文育退據金口。熊曇朗因其失利,謀害文育,以應眾愛。文育監軍孫白象頗知其事,勸令先之。文育曰:「不可,我舊兵少,客軍多,若取曇朗,人人驚懼,亡立至矣,不如推心以撫之。」初,周迪之敗也,棄船走,莫知所在,及得迪書,文育喜,賷示曇朗,曇朗害之於座,時年五十一。高祖聞之,即日舉哀,贈侍中、司空,諡曰忠愍。
 初,文育之據三陂,有流星墜地,其聲如雷,地陷方一丈,中有碎炭數斗。又軍市中忽聞小兒啼,一市竝驚,聽之在土下,軍人掘得棺長三尺,文育惡之。俄而迪敗,文育見殺。
○陳18陸山才伝
 除中書侍郎。復由樂安嶺綏撫南川諸郡。文育重鎮豫章金口,山才復為貞威將軍、鎮南長史、豫章太守。文育為熊曇朗所害,曇朗囚山才等,送于王琳。
○陳20曹慶伝
 曹慶本王琳將,蕭莊偽署左衛將軍、吳州刺史,部領亞於潘純陁。
○陳35熊曇朗伝
 及周文育攻余孝勱於豫章,曇朗出軍會之,文育失利,曇朗乃害文育,以應王琳,事見文育傳。於是盡執文育所部諸將。

 ⑴周迪...山谷育ちで狩猟を生業とし、並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。質素を好み、口数は少なかった。侯景の乱が起こると臨川の工塘(臨汝の東南)に拠り、善政を行なった。陳覇先と蕭勃との間に戦争が起こると、初めは日和見態度を取ったが、やがて覇先に付いた。去年、王琳の遠征軍を大破した。558年(2)参照。
 ⑵余孝頃...新呉洞主、南江州刺史。長く新呉に割拠して陳覇先に抵抗し、去年、王琳の派遣軍と共に親覇先の周迪を攻めたが敗れ、捕らえられた。558年(1)参照。
 ⑶周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行ない、北斉が侵攻してくるとその大破に大きく貢献した。蕭勃が挙兵するとその前軍を撃破し、勃を死に追い込んだ。のち沌口にて王琳と戦って大敗を喫し、捕虜となったが、脱走に成功した。558年(2)参照。
 ⑷黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。巴山新建の人。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里に割拠した。のち、陳覇先の軍を助け、556年、高州刺史とされた。去年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。のち、王琳の南征軍を破るのに貢献した。558年(2)参照。
 ⑸熊曇朗...豫章郡南昌県の名家の出身。自由気ままな性格で独立心が強く、立派な肉体と容貌を有していた。豊城県に割拠し、大勢力の間を上手く渡り歩いた。去年、王琳の南征軍の撃退に貢献した。558年(2)参照。
 ⑹呉明徹...字は通炤。時に47歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。幕府山南の勝利に大きく貢献した。沌口の決戦に参加して敗北したが、なんとか逃走に成功した。558年(1)参照。
 ⑺象牙江...《読史方輿紀要》曰く、『豫章の西(胡三省注)南八十里(豫章〜豊城は百六里なので、その半分の距離)にあり、章江の屈曲部にある。
 ⑻金渓口...《読史方輿紀要》曰く、『象牙江の下流にある。
 ⑼陸山才...字は孔章。時に51歳。幼少の頃から自立心が強く、書籍を愛好した。王僧弁→張彪→陳覇先に仕え、周文育の軍師となって政治・軍事を補佐した。文育が王琳の討伐に向かうと豫章の留守を任されたが、文育が敗れると中央に帰還し、中書侍郎とされた。558年(2)参照。
 ⑽王琳...字は子珩。時に33歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が梁の元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、更に郢州に勢力を広げた。沌口にて陳軍に完勝を収め、江州を占拠したが、間もなく南征の失敗・西境の失陥によって窮地に陥り、陳と和を結んで西方に引き返した。559年(1)参照。
 (11)武帝...陳覇先。時に57歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。557年、帝に禅譲を迫って皇帝となり、陳を建国した。559年(1)参照。

●魯悉達の降伏
 去年、北斉の揚州行台の慕容儼は梁の永嘉王荘天啓帝)を王琳のもとに送ると同時に、新蔡(江州の北)に拠る魯悉達に攻撃をかけていた。
 儼軍が大蛇洞にて悉達軍を撃破した。
 悉達の部将の梅天養らは処罰を恐れ、北斉軍を新蔡城中に引き入れた。悉達は麾下の兵数千と共に長江を渡り、陳に降った。
 武帝は悉達に会うと、いたく喜んでこう言った。
「何故やってくるのが遅かったのだ?」
 悉達は答えて言った。
「臣は〔長江〕上流の鎮撫をしている間、常に陛下の藩屏とならんと考えておりました。〔その想いに応えてくださるかのように、〕陛下は臣に官位を授けてくださるなど、非常に厚い御恩をかけてくださいました。しかし、一方で沈泰に臣を襲撃させるなど、威圧もまた深いものがございました。〔ゆえに、帰順するのが遅れてしまったのです。〕それでも臣が陛下のもとにこうして帰順いたしましたのは、陛下の度量が漢の高祖劉邦)の如く大きいと信じたからであります。」
 帝は感嘆してこう言った。
「卿の言うことは実にもっともだ。」
 かくて悉達の遅参の罪を赦し、平南将軍・散騎常侍・北江州刺史・彭沢県侯とした。

○北斉20慕容儼伝
 十年,詔除揚州行臺,與王貴顯、侯子監將兵衞送蕭莊。築郭默、若邪二城。與陳新蔡太守魯悉達戰大蛇洞,破走之。
○陳13魯悉達伝
 相持歲餘,會裨將梅天養等懼罪,乃引齊軍入城。悉達勒麾下數千人,濟江而歸高祖。高祖見之,甚喜,曰:「來何遲也?」悉達對曰:「臣鎮撫上流,願為蕃屏,陛下授臣以官,恩至厚矣,沈泰襲臣,威亦深矣,然臣所以自歸於陛下者,誠以陛下豁達大度,同符漢祖故也。」高祖嘆曰:「卿言得之矣。」授平南將軍、散騎常侍、北江州刺史,封彭澤縣侯。

 ⑴慕容儼...字は恃德。西魏から東荊州を守り切ったことがある。555年に郢州の鎮守を任され、半年に渡って梁の攻撃を防いだ。558年(1)参照。
 ⑵天啓帝...もと永嘉王荘。梁の四代皇帝・元帝の嫡孫。時に11歳。555年に人質として北斉に送られた。558年、王琳の求めによって南還し、皇帝に即位した。559年(1)参照。
 ⑶魯悉達...字は志通。侯景の乱が起こると郷里の人々を糾合して新蔡を守り、耕作に努めて食糧を蓄え、多くの流民の命を救った。次第に悉達の勢力は晋熙など五郡に広がった。陳覇先と王琳のどちらにも付かず、日和見の態度を取り続けた。558年(1)参照。
 ⑷官位...陳は魯悉達に征西将軍・江州刺史の官位を授けていた。
 ⑸沈泰...もと東揚州に割拠していた張彪の司馬だったが、覇先に寝返り、彪を死に追い込んだ。のち、幕府山南の勝利に大きく貢献した。沌口の戦いの際には漢曲を守備を任されたが、本隊が大敗を喫すると逃走した。のち魯悉達の討伐を命じられたが敗北し、北斉に亡命した。558年(1)参照。
 ⑹北江州...新蔡、あるいは南陵(揚州と江州の中間)。熊曇朗が就いていた。

●楽遜の諫言
 これより前、北周領内では雨が降り続いていた。
 6月戊子(3日)明王は〔自分の政治に落ち度があるためだと考え、〕百官に詔を下し、忌憚ない意見を直接自分のもとに提出させた。そこで左光禄大夫の楽遜は十四条の意見を提出した。その内の五条は、実に政治の要諦に触れたものだった。

 一、崇治方(政治は寛大にせよ)。
 今の官吏は、清廉によって名声を博することだけに頭が行き、人民の愛護に注意が行っていない者が殆どであります。それは何故でしょうか? それは近来の地方長官の任期が短く、しかも一年ですぐ結果を求められるからであります。ゆえに、長官たちは民に厳しく当たることを賢いと考え、寛容に当たろうとしないのです。この風気は既に伝統のものとなっており、後任の者も同じように厳しい政治を行なっています。そもそも民は、政治が急に過ぎれば厳しさに耐えられなくなって乱を起こし、緩に過ぎても勝手気ままになって乱を起こすものです。周が滅んだのは後者が原因で、秦が滅んだのは前者が原因でありました。ゆえに、民は赤子(嬰児)ではありませんが、赤子に対するように〔叱り、あやさ〕なければならないのです。政治は緩急を折衷し、民に無用な苦労をかけないことが重要です。我が国が魏の衰政を受け継いだ時、民は法を守ろうとしませんでしたが、先王の優れた制度を整備して施行すると、民はみな法を守るようになりました。良く訓導して風俗を矯正するだけで、民はきちんと法令を守るようになるのです。そもそも軍隊でもないのですから、民に厳しく接する必要はないのです。国家が興隆し、天下が良く治まるのは、民の道徳心の成熟如何に因りますが、それは時間のかかるもので、一朝一夕に成るものではありません。姫周は大徳の王朝でしたが、それは文王・武王が制度を整え、成王・康王が寛容な政治を行なったからでした。しかしそれ以降、その気風が失われると、国は大いに乱れてしまいました。昔、〔楚の〕申侯が〔鄭に〕亡命しようとした時、楚子文王)は彼に対し「小国には行ってはならぬ」と注意しました。これは小国は政治が狭量で法律が厳しいから、行ってもいずれ殺されることを言ったものでした。〔また、陳の〕敬仲公子完)は斉に入国する際、〔用意された高官の職を辞し、〕「寛大にお取り計らってくださるだけで充分でございます」と言いました。現在、関東諸州は賊どもの手に陥って久しく、人々は困窮してその苛政から逃れることをひたすら願っております。我らが寛大な政治を行わなければ、関東の疲民が帰順してくることはまず無いでしょう。

 二、省造作(土木工作を慎め)。
 昔、魏の都であった洛陽は、一時非常に繁栄し、貴族・勢族はおのおの邸宅を造営し、その車馬や衣服・器物・愛玩物はどれも奢靡な物ばかりでした。世の人々がみな贅沢を競い、浮薄に染まった結果、遂に大乱を呼び起こし、天下の瓦解を招いてしまいました。近年、我が国の高官たちの器物・衣服はだんだんと華美になり、職人が作る物もことごとく奇巧を凝らした物になってきております。このような嗜好の変化は、政治や風俗を乱すもととなると思われます。ゆえに、このような贅沢は禁止、或いは制限を加えるべきだと思います。《礼記》には『奇巧の物を作って、君主の心を乱してはいけない』(月令)とあり、《左伝》には『宮殿が豪奢なため、民力は凋落してしまった』(昭公八年)とあります。〔また、前〕漢の景帝は「黄金・珠玉は餓えても食べることができず、寒くても着ることができないものだ。」「精巧な細工を施した器物を作らせると農業の妨げになり、華美な刺繍を施した衣服を作らせると女性の仕事の妨げとなる。」(漢書景帝紀)と言いましたが、この二つの言こそ、民が飢え凍える原因を的確に表した言葉なのであります。戦争や政治に必要な物を作らず、不必要な物を作るのに精を出すのは、国を損ない、民を害するもととなります。〔ゆえに、民に無駄な物を作らせるよりも、〕農耕と養蚕の支援を大規模に行なって衣食の生産に専念させた方がよろしいでしょう。さすれば、国の蓄えは豊かとなり、大事業の成就も容易となります。

 三、明選挙(人事は公開せよ
 官位の昇降・賞賜の厚薄・禄秩の加増は必ず人々とよく協議し、納得を得てから行なうべきであります。〔そもそも〕州郡ですら官吏を任免する際、当地の名士を集めて協議するのですから、国家の場合は尚更そうで、人事を決める際は必ず天下の名士を集めて協議するべきなのであります。人事は非公開にするというのが伝統だという意見もありましょうが、そもそも人事というのは国家の機密の事では無いのですから、どんどん公開していくべきなのであります。〔それに、そもそも〕人というのは、名誉と生活の安定の二つを重視し、日々研鑽を重ねてこれを得ようと考えているものです。しかし、その機会というのは得難く、失い易いものでありますので、〔人々は人事に非常に敏感となり、慎重を期さないと大いに不満を抱くのであります〕。ゆえに、人事は必ず人々とよく協議し、納得を得てから上奏し、陛下のご裁可を仰ぐようにしなければならないのです。

 四、重戦伐(戦いを慎め
 魏が衰えて以降、天下の人々は徳のある者の登場を待望しております。現在、天子を僭称している高洋文宣帝)は愚昧でありますが、まだ敗滅せず、山東に割拠し続けております。この一事は非常に重大な事であります。現在の状況は例えれば囲碁のようなもので、一手でも打つ手を誤れば、相手に利益を与えかねない〔難しい〕状況にあります。〔ゆえに、我々は〕目先の小さな利益を棄てて将来の大きな利益を優先し、領土の保全を第一とし、一地を狙うような軽挙妄動は絶対に控えねばならないのです。なぜなら、もし戦争を起こして勝ち一地を得たとしても、兵は疲れ、しかもその地に新たに兵を置く負担が増えることになり、負ければ当然大きな損失となるからです。我が国は強大でありますが、かといって高洋が弱小というわけでもないのです。〔であれば、いったいどうすればいいのでしょうか。〕《詩経》には『徳の面で並ぶ者がいなければ、何も気に病む必要はない』とあります。〔つまり、〕ただ徳政のみが民を助けるのであり、兵の強力さは二の次なのであります。そもそも、力が等しい者同士であれば、徳が高い者が勝つものです。『君子の道が盛んになれば、小人の道は自然と衰える』(《易経》地天泰)と言います。ゆえに昔の戦上手は侵攻しても勝つことができないと察すると、防衛に徹して勝利を得たのです。相手が暴政を行なえば、我らは寬政を行ない、天下の人々に我らが有道の国であると知らせたのち、隙を見て征伐の軍を起こせば、成功は間違いないと思われます。

 五、禁奢侈(贅沢を禁じよ
 礼制に依れば、人には貴賤の区別があり、物には等級の差別があり、貴賤によって使用に節度があり、種類に限度があるといいます。馬皇后馬援の娘で、後漢の明帝の妻)は天下の母の身分となっても大練(粗糸で作った厚手の衣服)の服しか着ませんでしたが、これは人々の模範となるためでした。魯の季文子は三人の主君(宣公・成公・襄公)に宰相として仕えても、妾に絹の衣服を着せませんでしたが、これは風俗を匡正するためでした。〔しかし、〕近来の富貴の家は次第に贅沢になり、奴隷の女性に着飾った格好をさせて車の後ろを歩かせ、人々の注意をひき、行く者を立ち止まらせ、人だかりを作らせるほどになっております。彼らが国家に行なった貢献の度合いは軍人に及ばないのに、彼らへの賞賜は軍人以上となっております。彼らの贅沢は、その品格をおとしめます。彼らの贅沢は財産が余っているから為せるもの。どうしてそれを兵士たちに分け与えてやらぬのでしょうか。魯の荘公は「余った衣食は一人占めにせず、いつも人に分け与えている」(左伝荘公十年)と言い、詩経は「着るものが無いと言うなら、この半纏を共有しよう」(秦風)と言っています。これらはみな兵の団結心を高めるために行なわれたものでした。

 楽遜生年500、時に60歳)は字を遵賢といい、河東猗氏の人である。幼くして既に成人のような志操を有していた。弱冠(20歳)の若さで〔河東?〕郡の主簿となった。正光年間(520~525)に大学者の徐遵明字は子判)が弟子たちを連れて趙・魏の地にやってきているのを知ると、直ちにそのもとに赴いて弟子となり、孝経・喪服・論語・詩経・書経・礼記・易経・左氏春秋の大義を学んだ。間もなく山東が乱れると学者たちは〔黄河の南に〕逃げ去ってしまったが、遜の学究心は衰えることを知らなかった。
 永安年間(528~530)に仕官して安西府長流参軍とされ、大統七年(541)に子都督とされた。九年(543)、太尉の李弼に請われてその子どもたちの家庭教師となった。間もなく宇文泰が大規模に人材を登用し、地方長官に就ける運動を行なうと、相府戸曹の柳敏・行台郎中の盧光・河東郡丞の辛粲らは相次いで遜を推挙し、遜には治世の才能があると称賛した。しかし、弼が家庭教師を続けてくれるよう頼み込んできたため、長官となることは無かった。十六年(550)に建忠将軍・左中郎将とされ、のち輔國将軍・中散大夫・都督に昇進し、更に弼の軍府の西閤祭酒・功曹諮議参軍を歴任した。
 廃帝二年(553)に泰の子どもたちの家庭教師とされた。六年の間、他の儒学者たちと分担して経典の授業を行なった。遜は孝経・論語・毛詩および服虔後漢の学者)が注を付けた春秋左氏伝(《春秋左氏伝解誼》)の講義を行なった。恭帝二年(555)に太学の助教(国子祭酒・博士を助ける)とされた。〔教え子の〕孝閔王が即位すると(557)、遜は政治の才能があると認められ、秋官府(刑獄を司る)上士とされた。この年、太学博士とされ、更に〔地官府(教育を司る)〕小師氏下大夫とされた。譙公倹字は侯幼突。宇文泰の第八子)以下、みな遜に弟子の礼をとった。遜は経学を以て講義を行ない、倹らを非常に良く教え導いた。秦公直が蒲州の鎮守を任されると(559年3月)、遜はその府の主簿とされ、車騎将軍・左光禄大夫とされた。

○周明帝紀
 六月戊子,大雨霖。詔曰:「昔唐咨四嶽,殷告六眚,覩災興懼,咸寘時雍。朕撫運應圖,作民父母,弗敢怠荒,以求民瘼。而霖雨作沴,害麥傷苗,隤屋漂垣,洎于昏墊。諒朕不德,蒼生何咎。刑政所失,罔識厥由。公卿大夫士爰及牧守黎庶等,今宜各上封事,讜言極諫,罔有所諱。朕將覽察,以答天譴。其遭水者,有司可時巡檢,條列以聞。」
○周45楽遜伝
 樂遜字遵賢,河東猗氏人也。年在幼童,便有成人之操。弱冠,為郡主簿。魏正光中,聞碩儒徐遵明領徒趙、魏,乃就學孝經、喪服、論語、詩、書、禮、易、左氏春秋大義。尋而山東寇亂,學者散逸,遜於擾攘之中,猶志道不倦。
 永安中,釋褐安西府長流參軍。大統七年,除子都督。九年,太尉李弼請遜教授諸子。既而太祖盛選賢良,授以守令。相府戶曹柳敏、行臺郎中盧光、河東郡丞辛粲相繼舉遜,稱有牧民之才。弼請留不遣。十六年,加授建忠將軍、左中郎將,遷輔國將軍、中散大夫、都督,歷弼府西閤祭酒、功曹諮議參軍。
 魏廢帝二年,太祖召遜教授諸子。在館六年,與諸儒分授經業。遜講孝經、論語、毛詩及服虔所注春秋左氏傳。魏恭帝二年,授太學助教。孝閔帝踐阼,以遜有理務材,除秋官府上士。其年,治太學博士,轉治小師氏下大夫。自譙王儉以下,並束脩行弟子之禮。遜以經術教授,甚有訓導之方。及衞公直鎮蒲州,以遜為直府主簿,加車騎將軍、左光祿大夫。

 武成元年六月,以霖雨經時,詔百官上封事。遜陳時宜一十四條,其五條切於政要。
 其一,崇治方,曰:
 竊惟今之在官者,多求清身克濟,不至惠民愛物。何者?比來守令年期既促,歲責有成。蓋謂猛濟為賢,未甚優養。此政既代,後者復然。夫政之於民,過急則刻薄,傷緩則弛慢。是以周失舒緩,秦敗急酷。民非赤子,當以赤子遇之。宜在舒疾得衷,不使勞擾。頃承魏之衰政,人習逋違。先王朝憲備行,民咸識法。但可宣風正俗,納民軌訓而已。自非軍旅之中,何用過為迫切。至於興邦致治,事由德教,漸以成之,非在倉卒。竊謂姬周盛德,治興文、武,政穆成、康。自斯厥後,不能無事。昔申侯將奔,楚子誨之曰「無適小國」。言以政狹法峻,將不汝容。敬仲入齊,稱曰「幸若獲宥,及於寬政」。然關東諸州,淪陷日久,人在塗炭,當慕息肩。若不布政優優,聞諸境外,將何以使彼勞民,歸就樂土。
 其二,省造作,曰:
 頃者魏都洛陽,一時殷盛,貴勢之家,各營第宅,車服器玩,皆尚奢靡。世逐浮競,人習澆薄,終使禍亂交興,天下喪敗。比來朝貢,器服稍華,百工造作,務盡奇巧。臣誠恐物逐好移,有損政俗。如此等事,頗宜禁省。記言「無作淫巧,以蕩上心」。傳稱「宮室崇侈,民力彫弊」。漢景有云:「黃金珠玉,饑不可食,寒不可衣。」「彫文刻鏤,傷農事者也。錦繡纂組,害女功者也。」以二者為饑寒之本源矣。然國家非為軍戎器用、時事要須而造者,皆徒費功力,損國害民。未如廣勸農桑,以衣食為務,使國儲豐積,大功易舉。
 其三,明選舉,曰:
 選曹賞錄勳賢,補擬官爵,必宜與眾共之,有明揚之授。使人得盡心,如覩白日。其材有升降,其功有厚薄,祿秩所加,無容不審。即如州郡選置,猶集鄉閭,况天下選曹,不取物〔望。若方〕州〔列〕郡,自可內除。此外付曹銓者,既非機事,何足可密。人生處世,以榮祿為重,修身履行,以纂身為名。然逢時既難,失時為易。其選置之日,宜令眾心明白,然後呈奏。使功勤見知,品物稱悅。
 其四,重戰伐,曰:
 魏祚告終,天睠在德。而高洋稱僭,先迷未敗,擁逼山東,事切肘腋。譬猶棊劫相持,爭行先後。若一行非當,或成彼利。誠應捨小營大,先保封域,不宜貪利在邊,輕為興動。捷則勞兵分守,敗則所損已多。國家雖彊,洋不受弱。詩云:「德則不競,何憚於病!」唯德可以庇民,非恃彊也。夫力均勢敵,則進德者勝。君子道長,則小人道消。故昔之善戰者,先為不可勝,以待敵之可勝。彼行暴戾,我則寬仁。彼為刻薄,我必惠化。使德澤旁流,人思有道。然後觀釁而作,可以集事。
 其五,禁奢侈,曰:
 按禮,人有貴賤,物有等差,使用之有節,品類之有度。馬后為天下母,而身服大練,所以率下也。季孫相三君矣,家無衣帛之妾,所以勵俗也。比來富貴之家,為意稍廣,無不資裝婢隸,作車後容儀,服飾華美,昡曜街衢。仍使行者輟足,路人傾蓋。論其輸力公家,未若介冑之士;然其坐受優賞,自踰攻戰之人。縱令不惜功費,豈不有虧厥德。必有儲蓄之餘,孰與務恤軍士。魯莊公有云:「衣食所安,不敢愛也,必以分人。」詩言:「豈曰無衣,與子同袍。」皆所以取人力也。

 ⑴明王...宇文毓。宇文泰の長子で、北周の二代天王。時に26歳。優れた人格を備え、独孤信の長女を妻とした。行華州事・宜州刺史・岐州刺史を歴任し、岐州で善政を行なって州民から高い支持を得た。556年、天王となった。559年(1)参照。
 ⑵李弼...字は景和。徒河の姓を賜った。西魏随一の猛将。沙苑の戦いにて大きな殊勲を立てた。557年に死去した。557年(3)参照。
 ⑶宇文泰...字は黒獺。北周の初代天王・孝閔王と二代天王・明王の父。西魏の実力者。556年(4)参照。
 ⑷柳敏...字は白沢。河東解県の人。尉遅迥の伐蜀に行軍司馬として従い、その軍師となった。宇文氏の姓を賜った。553年(1)参照。
 ⑸秦公直...宇文泰の第六子。字は豆羅突。母は叱奴氏。559年(1)参照。


 559年(3)に続く