●新三台の完成
○北斉文宣紀
 先是,發丁匠三十餘萬營三臺於鄴下,因其舊基而高博之,大起宮室及遊豫園。至是,三臺成,改銅爵曰金鳳,金獸曰聖應,氷井曰崇光。十一月甲午,帝至自晉陽,登三臺,御乾象殿,朝讌羣臣,並命賦詩。以新宮成,丁酉,大赦,內外文武普汎一大階。丁巳,梁湘州刺史王琳遣使請立蕭莊為梁主,仍以江州內屬,令莊居之。
○北斉37魏収伝
 三臺成,文宣曰:「臺成須有賦。」愔先以告收,收上皇居新殿臺賦,其文甚壯麗。時所作者,自邢卲已下咸不逮焉。收上賦前數日乃告卲。卲後告人曰:「收甚惡人,不早言之。」

〔これより前(556年)、北斉は三十余万の人民と工匠を動員し、鄴城の三台に拡張工事を行ない、宮殿と遊豫園を造営した。〕
 ここに至り、新しい三台が完成した。北斉は銅爵(銅雀)台を金鳳台に、金虎台を聖応台に、冰井台を崇光台にそれぞれ改めた[1]
 11月、甲午(5日)文宣帝が晋陽より鄴に帰った。帝は早速三台に登り、乾象殿に入った。それから群臣を呼び寄せて祝宴を張り、こう言った。
「台(高殿)が完成したのだから、賦を作るべきであろう。」
 かくて群臣に賦を作らせた。
〔太子少傅の〕魏収楊愔に事前にこの事を伝えられていたため、『皇居新殿台賦』という非常に立派な賦を上呈することができた。邢卲たちも賦を上呈したが、収の賦に及ぶものはなかった。実は、卲も収から事前に賦を作ることを知らされていたが、それはたった数日前のことだった。卲はのちに人にこう言った。
「収は人が悪すぎる。早く知らせてこなかった。」

 丁酉(8日)、新宮殿の完成を祝し、大赦を行なった。また、文武百官の官階を一大階特進させた。
 ある時、帝は三台の大光殿(北史では『太光殿』とある)にて都督の穆嵩をノコギリで挽き殺した。
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 [1]曹操が鄴城の西北に築いた。中心に銅爵台があり、十丈(約25〜30メートル。ビル八〜十階に相当する)の高さがあった。石虎が更に二丈(約5〜6メートル)高くした。金虎台はその南に、冰井台は北にあり、どちらも八丈(約20〜24メートル)の高さがあった。
 ⑴魏収...字は伯起。名文家。中書令などを務めた。魏書を編纂したが、記述に問題があり、『穢史』と糾弾された。去年、太子少傅とされた。558年(1)参照。
 ⑵楊愔...字は遵彦。名門楊氏の生き残り。時に48歳。北斉の政治を取り仕切った。高澄が膳奴に殺された際には助けることもせずに一目散に逃げ出した。558年(1)参照。
 ⑶邢卲...字は子才。名文家。魏収と文才を競い、『大邢小魏』と評された。中書侍郎・給事黄門侍郎・中書監などを歴任した。

●賢王高演
○北斉孝昭紀
 孝昭皇帝演,字延安,神武皇帝第六子,文宣帝之母弟也。幼而英特,早有大成之量,武明皇太后早所愛重。魏元象元年,封常山郡公。及文襄執政,遣中書侍郎李同軌就霸府為諸弟師。帝所覽文籍,源其指歸而不好辭彩。...遂篤志讀漢書,至李陵傳,恒壯其所為焉。聰敏過人,所與遊處,一知其家諱,終身未嘗誤犯。同軌病卒,又命開府長流參軍刁柔代之,性嚴褊,不適誘訓之宜,中被遣出。帝送出閤,慘然斂容,淚數行下,左右莫不歔欷。其敬業重舊也如此。天保初,進爵為王。五年,除并省尚書令。帝善斷割,長於文理,省內畏服。七年,從文宣還鄴。文宣以尚書奏事,多有異同,令帝與朝臣先論定得失,然後敷奏。帝長於政術,剖斷咸盡其理,文宣歎重之。八年,轉司空、錄尚書事。
 九年,除大司馬,仍錄尚書。時文宣溺於遊宴,帝憂憤表於神色。文宣覺之,謂帝曰:「但令汝在,我何為不縱樂?」帝唯啼泣拜伏,竟無所言。文宣亦大悲,抵盃於地曰:「汝以此嫌我,自今敢進酒者,斬之!」因取所御盃盡皆壞棄。後益沉湎,或入諸貴戚家角力批拉,不限貴賤。唯常山王至,內外肅然。帝又密撰事條,將諫,其友王晞以為不可。帝不從,因間極言,遂逢大怒。順成后本魏朝宗室,文宣欲帝離之,陰為帝廣求淑媛,望移其寵。帝雖承旨有納,而情義彌重。帝性頗嚴,尚書郎中剖斷有失,輒加捶楚,令史姦慝,便即考竟。文宣乃立帝於前,以刀環擬脅。召被帝罰者,臨以白刃,求帝之短,咸無所陳,方見解釋。自是不許笞箠郎中。後賜帝魏時宮人,醒而忘之,謂帝擅取,遂以刀環亂築,因此致困。皇太后日夜啼泣,文宣不知所為,先是禁友王晞,乃捨之,令侍帝。帝月餘漸瘳,不敢復諫。
 ...身長八尺,腰帶十圍,儀望風表,迥然獨秀。
○北斉9孝昭元后伝
 孝昭皇后元氏,開府元蠻女也。初為常山王妃。
○北斉31王晞伝
 及文宣昏逸,常山王數諫,帝疑王假辭於晞,欲加大辟。王私謂晞曰:「博士,明日當作一條事,為欲相活,亦圖自全,宜深體勿怪。」乃於眾中杖晞二十。帝尋發怒,聞晞得杖,以故不殺,髠鉗配甲坊。居三年,王又固諫爭,大被敺撻,閉口不食。太后極憂之。帝謂左右曰:「儻小兒死,奈我老母何?」於是每問王疾,謂曰:「努力強食,當以王晞還汝。」乃釋晞令往。王抱晞曰:「吾氣力惙然,恐不復相見。」晞流涕曰:「天道神明,豈令殿下遂斃此舍。至尊親為人兄,尊為人主,安可與校計。殿下不食,太后亦不食,殿下縱不自惜,不惜太后乎?」言未卒,王強坐而飯。晞由是得免徒,還為王友。
 王復錄尚書事,新除官者必詣王謝職,去必辭。晞言於王曰:「受爵天朝,拜恩私第,自古以為干紀。朝廷文武,出入辭謝,宜一約絕。主上顒顒,賴殿下扶冀。」王納焉。常從容謂晞曰:「主上起居不恒,卿耳目所具,吾豈可以前逢一怒,遂爾結舌。卿宜為撰諫草,吾當伺便極諫。」晞遂條十餘事以呈。切諫王曰:「今朝廷乃爾,欲學介子匹夫輕一朝之命,狂藥令人不自覺,刀箭豈復識親疏,一旦禍出理外,將奈殿下家業何,奈皇太后何!乞且將順,日慎一日。」王歔欷不自勝,曰:「乃至是乎?」明日見晞曰:「吾長夜九思,今便息意。」便命火對晞焚之。後王承間苦諫,遂至忤旨。帝使力士反接,拔白刃注頸,罵曰:「小子何知,欲以吏才非我,是誰教汝!」王曰:「天下噤口,除臣誰敢有言。」帝催遣捶楚,亂杖抶數十,會醉臥得解。爾後褻黷之好,遍於宗戚,所往留連,俾晝作夜,唯常山邸多無適而去。
○北斉30崔暹伝
 天保末,為右僕射。帝謂左右曰:「崔暹諫我飲酒過多,然我飲何所妨?」常山王私謂暹曰:「至尊或多醉,太后尚不能致言,吾兄弟杜口,僕射獨能犯顏,內外深相感愧。」

 北斉の〔大司馬・録尚書事の〕常山王演は、高歓の第六子で、文宣帝の同母弟である(生年535)。幼い頃から非凡な才能を示し、大器の片鱗を見せたので、婁皇太后に非常に可愛がられた。長じると身長八尺・腰回り十囲の大男に育ち、その容姿・立ち居振る舞いは人並外れたものがあった。
 東魏の元象元年(538)に常山郡公に封じられた。〔盧景裕が死ぬと(539~542の間)、〕高歓は中書侍郎の李同軌にその跡を継がせて諸子の教育をさせた。演は本を読む際、要点だけを追究し、文章の装飾を嫌った。漢書を好み、李陵伝の所に至ると、いつもその行ないを立派だと思い、感心していた。演は非常に頭が良く、人と交遊した時その祖父や父親の諱を知る事があると、終生その人の前で彼らの諱を言わなかった。
 同軌が病死すると(546年)、歓は永安公(高浚)府長流参軍の刁柔に跡を継がせた。しかし、柔は厳格で心が狭かったため、教師には不適とされ、中途にて解任された。それでも演はこれを見送る際、悲痛の面持ちをしてはらはらと涙を流した。左右の者はこれを見ると啜り泣きした。演が教師を敬い旧交を重んじること、皆このようであった。
 天保元年(550)に王に進められた。五年(554)、并省尚書令とされた。演は物事の条理に通じていて、流れるように決裁を行なったため、省中から敬服を受けた。七年(556)、文宣帝に従って鄴に帰った。帝は尚書省が言ってくることに多々異同がある事から、以降、何か上奏する時は、まず演と朝臣に利害を議論させ、意見を煮詰めてから行なうように命じた。演は政治に明るく、その判断はどれも理にかなっていたので、帝は感嘆し、演を尊重した。八年(557)、司空・録尚書事とされた。
 演は、帝が酒色に耽溺していることに対し、心配と不満を露わにしていた。帝はこれに気づくとこう言った。
「お前がいると面白くない!」
 演は何も言わず、ただ泣いて拝伏するだけだった。すると帝はひどく感傷的になり、盃を地に叩きつけてこう言った。
「酒を飲んでいるわしがそんなに嫌なのか。〔なら、わしはもう酒を飲まぬ。〕今より、わしに酒を持ってきた者はみな斬ることにする!」
 かくて自分用の盃を全て壊棄させた。しかし、間もなく帝〔は再び酒を飲むようになり、〕その耽溺ぶりは以前よりも酷くなった。ある時は皇族の家で貴賤を問わず力比べをした。しかし演がやってくると、〔人々は襟を正し、〕粛然となるのだった。
 ある時、演は密かに〔帝の悪行を〕列挙し、諫めに行こうとした。王友[1]⑺王晞字は叔朗。名文家の王元景の弟。美男子。時に49歳)はこれを止めたが、演はこれを聞き入れず、折を見て直諌した。すると帝は激昂した。演の妻の元氏は開府の元蛮北魏の太師の江陽王継の子。兄に元叉がいる)の娘で、北魏の高貴な血筋を受けた者だった。帝は二人の仲を引き裂こうとし、演に多くの美女をあてがった。演は彼女たちを受け入れたが、元氏への愛は揺らがないどころか一層情熱的なものとなった。演は非常に厳格な性格で、尚書郎中たちを調査し、何か過失が見つかると、直ちに鞭や杖を以て処罰した。また、令史に不正を行っている者を見つけると、直ちに拷問を加えて死に至らしめた。ある時、帝は演に刀の柄を突きつけたのち、演に処罰されたことのある者たちを呼びつけ、白刃で脅して無理矢理演の過失を申告させた。しかし、誰も口を噤んで喋ろうとしなかったので、やむなく釈放した。以後、演は郎中たちが過失を犯してもこれを鞭打たなくなった。
 帝は演の諫奏が王晞の入れ知恵によって書かれたものだと考え、晞を大辟(死刑)に処そうとした。演は〔これを知ると、〕密かに晞にこう言った。
「王博士、明日、一つの諌書を書いてください。二人が生き残る術は、これしかないのです。どうか私の真心を疑わないでください。」
 かくて〔翌日、〕演は公衆の場にて晞に二十の杖打ちを加え〔たのち、諌書を帝に提出した〕。帝は怒を発して〔晞を殺そうとしたが、〕晞が演に杖で打たれていたことを聞くと〔無関係だったことに気づき、〕処刑は取り止め、剃髪と鞭打ちを加えて甲坊(鎧製作所)送りにするに留めた。
 三年後、演は帝に強く諫言を行ない、激怒した帝に滅多打ちにされ、重体に陥り、喉に何も通らなくなった[3]。太后がこれをひどく心配して日夜涙に暮れると、帝は狼狽し、こう言った。
「あの餓鬼が死んだら、母ちゃんはどうなるんだ!」
 かくて演のもとに何度も見舞いに行き、こう言った。
「とにかく頑張って食え。さすれば王晞を返す!」
 かくて晞を釈放し、演の見舞いに行かせた。演は晞と抱き合ってこう言った。
「私の命もそう長くはありません。恐らく、もう二度と会うことはないでしょう!」
 晞は涙を流して言った。
「天は善を助け、悪を糾すものです。その天がどうして殿下を死なせましょう! 〔ただ、〕至尊は殿下の兄かつ主君でもありますゆえ、論争できる相手では無かったのです。〔殿下、気を取り直して食事を摂られませ。〕殿下が食事を摂らなければ、太后も食事を摂りません。殿下は自分だけでなく、太后のお命も捨てるつもりなのですか!」
 その言葉を言い終わらぬ内に、演は頑張って起き上がり、食事を摂った。晞はこの功によって徒刑を免じられ、再び演の王友とされた。演は一ヶ月余りしてようやく傷が癒えたが、諫言することは無くなった。
 演が再び録尚書事とされると、任官された者はみな演の屋敷を訪れて拝謝し、〔任地に赴く際にも〕必ず演の屋敷を訪れて別れの挨拶を述べた。晞は演に言った。
「朝廷からいただいた官職を利用して私恩を売るのは、古人が忌避したものです[2]⑻。どうか一切官吏の訪問を断られますよう。さすれば、陛下は殿下を信頼するようになるでしょう。」
 演はこれに従った。暫くして、演は徐に晞にこう言った。
「陛下が情緒不安定なことは、先生もよくご存知のはずです。私だって、帝の怒りを買って以降、諫言するのをやめたことを忘れたわけではありません。〔しかし、もう我慢することができないのです。〕先生、どうか私のために諫書を書いてください。私はそれを持って陛下を諌めてまいります。」
 晞はそこで十余条の諌書を書いて演に渡したが、そのときこう諌めて言った。
「現在、朝廷で信頼できる者は殿下だけです。〔その殿下が〕匹夫のように馬鹿正直に突進して命を失うようなことをしていいものでしょうか! 〔そもそも、〕陛下は現在、狂薬()によって理性を失っており、親疎に関わらず凶刃を振るっている状態なのです。一旦箍が外れれば、殿下はきっと命を失うことになります。そうなったら、皇太后は〔悲しみの余り〕死を選ぶでしょう! どうか大に従い、日々慎重を心がけられますよう。」
 演は思わず涙を流し、こう言った。
「事態はもうそこまで至ってしまったのか!」
 翌日、演は晞に会ってこう言った。
「一夜中熟考してみたが、〔やはり先生の言うとおりだということが分かった。〕諫言はやめることにしよう。」
 かくて直ちに人に火を用意させ、晞の面前で諌書を焼いた。〔しかし、結局演は我慢できず、〕機を見てきつく諫言を行ない、帝の逆鱗に触れた。帝は力士に演を後ろ手に縛らせ、それから刃を抜いて演の首に当て、こう罵って言った。
「お前のような頭の悪い餓鬼がこんなものを書けるわけがなかろう! 誰がお前に入れ知恵したのだ!」
 演は言った。
「天下の人々みな〔陛下を恐れて〕口を噤んでいるのです。どうして入れ知恵などできましょうか!」
 帝は激怒し、すぐさま杖を持ってこさせ、演を数十回も打ちまくった。しかしたまたま酔いが回って眠りに落ちたため、演は命拾いすることができた。
 以後、帝はますますだらしがなくなり、皇族の屋敷に遊びに行っては、何日も帰らないのはざらとなった。ただ、演の屋敷に赴いた際には、楽しみを尽くすことなく、程々のところで帰るのが常だった。
 この時、ただ一人、尚書右僕射の崔暹だけがしばしば帝に諫言を行なっていた。帝は左右にこう言った。
「崔暹はいつもわしに飲酒の度が過ぎると言ってくるのだが、飲み過ぎて何か悪いことがあるのか?」
 演は暹にこう言った。
「今の陛下には我が兄弟や太后ですら口を閉ざすというのに、僕射は一人恐れず諌言を行ない続けておられる。天下の人々はみな恥じ入らざるを得ません。」[4]
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 ⑴常山王演...字は延安。高歓の第六子で、文宣帝の同母弟。時に24歳。557年(2)参照。
 ⑵高歓...字は賀六渾。496~547。爾朱栄の部将だったが、その死後急速に台頭し、爾朱氏を滅ぼして東魏を建国した。
 ⑶婁皇太后...諱は昭君。高歓の正妻で、高澄・文宣帝・常山王演・長広王湛の母。
 ⑷盧景裕...字は仲儒。北魏・東魏の大学者。周易・尚書・孝経・論語・礼記・老子・毛詩・春秋左氏伝の注釈を行ない、仏教にも通暁した。高歓に息子たちの教育を任された。興和年間(539~542)に死去した。557年(4)参照。
 ⑸李同軌...北魏・東魏の大学者。仏教や医術にも通じた。天平年間(534~537)に中書侍郎とされ、興和年間(539~542)に梁への使者に指名された。盧景裕の死後、高歓の子どもたちの教師役に任じられた。546年に死去した。
 ⑹刁柔...字は子温。学識があり、魏収と共に魏書の編纂に携わったが、強情な所が収に嫌われた。また、親族の伝に美辞麗句を連ねたため非難を受けた。556年に死去した。
 [1]王友...王国の官職には、王師・王友がある。
 ⑺王友...隋書職官志曰く、『王友は、従五品の地位にある。
 [2]晋書羊祜伝曰く、『拝爵公朝,謝恩私門,吾所不取。
 ⑻漢書王莽伝曰く、拜爵王庭,謝恩私門者,祿去公室,政從亡矣。
 [3]考異曰く、『北史孝昭紀には「ある時、文宣帝は酔っ払っている時に東魏の宮女を演に与えたが、酔いが醒めるとこれを綺麗さっぱり忘れ、演が勝手に奪い取ったものと勘違いし、人に命じて刀の柄で演を滅多打ちにさせた。演は重傷を負い、床に臥せった」とある。今は王晞伝の記述に従った。
 ⑼崔暹...字は季倫。高澄の腹心。勲貴を容赦なく弾劾し、その怨みを受けて一時流刑に遭った。557年(2)参照。
 [4]常山王は北斉の賢王であり、酒色に耽溺する文宣帝を何度も諌めた。ただ、常山王はのちに皇帝となった者であるので、北斉の史臣から忖度を受けている。歴史書を読む者は、行間にある忖度を良く見抜き、要点のみを見るようにしなければならない。

●太極殿落成
○周明帝紀
 十二月辛酉,突厥遣使獻方物。
○陳武帝紀
 丁酉,以仁威將軍、高州刺史黃法氍為開府儀同三司,進號鎮南將軍。甲寅,太極殿成,匠各給復。
 十二月壬申,割吳郡鹽官、海鹽、前京三縣置海寧郡,屬揚州。以安成所部廣興六洞置安樂郡。

11月(?)、〕丁酉(8日)、陳が仁威将軍・高州刺史の黄法氍を開府儀同三司・鎮南将軍(黄法氍伝では『平南将軍』)とした。
 甲寅(25日)、太極殿が落成した(7月23日着工)。工匠たちの賦役を免除した。

 12月、辛酉(2日)、突厥が北周に特産品を献上した。

 壬申(13日)、呉郡から塩官・海塩・前京の三県を割いて海寧郡を置き、揚州に属させた。また、安成郡にある広興県の六洞に安楽郡を置いた。

●叙任
○周明帝紀
 壬午,大赦天下。
○北斉文宣紀
 十二月癸酉,詔梁王蕭莊為梁主,進居九派(廬山、江州?)。戊寅,以太傅可朱渾道元為太師,司徒尉粲為太尉,冀州刺史段韶為司空,錄尚書事、常山王演為大司馬,錄尚書事、長廣王湛為司徒。
○陳武帝紀
 景戌,以寧遠將軍、北江州刺史熊曇朗為開府儀同三司,進號平西將軍。

 戊寅(19日)、北斉が太傅の可朱渾道元を太師とし、司徒の尉粲高歓の姉の子)を太尉とし、冀州刺史の段韶を司空とし、録尚書事の常山王演を大司馬とし、録尚書事の長広王湛を司徒とした。

 壬午(23日)、北周が大赦を行なった。

 丙戌(27日)、陳が寧遠将軍・北江州刺史の熊曇朗を開府儀同三司・平西将軍とした。
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 ⑴可朱渾道元...可朱渾元。劉豊と共に西魏から東魏に寝返った。557年(2)参照。
 ⑵段韶...字は孝先。婁太后の姉の子。知勇兼備の将。邙山の戦いで高歓の危機を救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。556年(3)参照。
 ⑶長広王湛...高歓の第九子で、文宣帝の同母弟。時に22歳。今年の5月に録尚書事とされた。558年(2)参照。
 ⑷熊曇朗...豫章郡南昌県の名家の出身。自由気ままな性格で独立心が強く、立派な肉体と容貌を有していた。豊城県に割拠し、大勢力の間を良く渡り歩いた。去年、王琳の南征軍の撃退に貢献した。558年(1)参照。

●永安王と上党王の死
 この年文宣帝は北城に赴き、左右の者と共に地下牢にいる永安王浚上党王渙の様子を見に行った。帝は二人のいる穴に向かって歌を歌い、二人に唱和するよう命じた。浚らは帝の命令どおり唱和したが、恐怖のあまり、思わず声が震えてしまった。帝はこれを聞くと二人に同情して涙を流し、釈放しようとした。その時、浚と仲が悪かった長広王湛が帝の前に進み出てこう言った。
「猛虎を穴から出していいのですか!」
 帝は黙りこくった。浚らは湛の言葉を聞くと、湛を幼名で呼んで言った。
「步落稽! 天は見ているぞ!」
 帝の左右の者は、これを聞くとみな心を痛めた。浚と渙は共に雄才大略を有していて、諸王から尊敬を受けていた。帝はその二人を解放するといずれ必ず面倒なことになると思い、自ら槊を持って渙を刺し、次いで壮士の劉桃枝に鉄籠の中を滅多刺しにさせた。しかし、何回やっても二人に槊を掴まれてへし折られてしまう結果になったため、方法を変え、火の付いた薪を大量に投げ込んで焼き殺し、土石で埋めた。のちに死体を掘り出して見てみると、死体はどちらも丸焦げになっていて、炭のようになっていた。人々はこれを聞くと心を痛め、憤りを覚えた。
 帝は浚を殺した儀同三司の劉郁捷に浚の妃の陸氏を、渙を殺した馮文洛に渙の妃の李氏を与えた。郁捷・文洛は共に帝のもと家奴だった。数日後、陸氏が浚と疎遠だったことが分かると、帝は陸氏と郁捷を離縁させた。

○北斉文宣紀
 是年,殺永安王浚、上黨王渙。
○北斉10永安王浚伝
 明年,帝親將左右臨穴歌謳,令浚和之。浚等惶怖且悲,不覺聲戰。帝為愴然,因泣,將赦之。長廣王湛先與浚不睦,進曰:「猛獸安可出穴。」帝默然。浚等聞之,呼長廣小字曰:「步落稽,皇天見汝!」左右聞者,莫不悲傷。浚與渙皆有雄略,為諸王所傾服,帝恐為害,乃自刺渙,又使壯士劉桃枝就籠亂刺。槊每下,浚、渙輒以手拉折之,號哭呼天。於是薪火亂投,燒殺之,填以石土。後出,皮髮皆盡,屍色如炭,天下為之痛心。後帝以其妃陸氏配儀同劉郁捷,舊帝蒼頭也,以軍功見用,時令郁捷害浚,故以配焉。後數日,帝以陸氏先無寵於浚,勑與離絕。
○北斉10上党王渙伝
 以其妃李氏配馮文洛,是帝家舊奴,積勞位至刺史,帝令文洛等殺渙,故以其妻妻焉。

 ⑴永安王浚...字は定楽。高歓の第三子。文宣帝の弟で、母は王氏。豪快な性格で精気に溢れ、騎射を得意とした。また、聡明で思いやりが深かったため、青州刺史となると州民に慕われた。文宣帝に何度も諫言を行なって怒りを買い、投獄された。557年(4)参照。
 ⑵上党王渙...字は敬寿。高歓の第七子。文宣帝の弟で、母は韓氏。時に25歳。東関の戦いで梁軍を大破したが、嫌疑に遭って投獄された。557年(4)参照。
 ⑶劉桃枝...高歓の時からいる高家の家奴。声相見から、非常に富貴な身分となるが多くの王侯将相を殺すと予言された。556年(3)参照。
 ⑷馮文洛...高家の家奴。邙山の戦いの際、危機に陥った高歓を助けた。543年(1)参照。

┃斛律光の侵攻

 この年、北斉の開府儀同三司・晋州刺史の斛律光が北周の絳川・白馬・澮交・翼城の四戍を攻め陥とした。光は〔この功により〕朔州刺史とされた。

○北斉17斛律光伝
 九年,又率眾取周絳川、白馬、澮交、翼城等四戍。除朔州刺史。

 ⑴斛律光...字は明月。時に44歳。斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれた。556年、晋州の東にある西魏の砦を陥とした。556年(4)参照。
 ⑵絳川・白馬・澮交・翼城の四戍...《読史方輿紀要》曰く、『絳水は絳県(絳州東南百里)の西南二十五里を流れる。』『絳県の東北に白馬山がある。』『澮水は曲沃(絳州の東五十六里)の南五里を流れ、汾水に注ぐ。』『翼城県は平陽府の東南百三十里にある。孝昌三年に北絳郡の治所とされた。

┃嶺南平定
 これより前、陳覇先は嶺南が乱れているのを知ると、南方に名望高い欧陽頠を使持節・通直散騎常侍・都督衡州諸軍事・安南将軍(四階)・衡州(治 含洭。広州の北)刺史・始興県侯とし、その経略を任せていた。
 頠の子の欧陽紇字は奉聖)は父が嶺南に来る前に始興(東衡州)を陥とし、頠が嶺南に到ると、諸郡はみな頠に降った。頠はそのまま広州に入城し、嶺南全土を平定した
 陳は頠を持節・通直散騎常侍・都督広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州諸軍事・鎮南将軍・平越中郎将・広州刺史とした。

○陳9欧陽頠伝
 蕭勃死後,嶺南擾亂,頠有聲南土,且與高祖有舊,乃授頠使持節、通直散騎常侍、都督衡州諸軍事、安南將軍、衡州刺史,始興縣侯。未至嶺南,頠子紇已克定始興。及頠至嶺南,皆懾伏,仍進廣州,盡有越地。改授都督廣交越成定明新高合羅愛建德宜黃利安石雙十九州諸軍事、鎮南將軍、平越中郎將、廣州刺史,持節、常侍、侯並如故。

 ⑴欧陽頠…字は靖世。生年498、時に61歳。梁の名将蘭欽の親友。曲江侯勃の部下だが、一時仲が険悪になったことがある。蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げるとその前軍を務めたが、敗れて降伏した。557年(1)参照。
 ⑵陳武帝紀に558年正月に『衡州刺史歐陽頠進號鎮南將軍』とあり、559年正月に『以鎮南將軍、廣州刺史歐陽頠即本號開府儀同三司』とある。広州平定は558年正月~559年正月の間の事か?

┃百越混乱
 これより前、陳の高涼太守の馮宝が死ぬと、嶺南一帯は大混乱に陥った。しかし、宝の妻の洗氏が百越の部落を集めて説得すると、数州は再び落ち着きを取り戻した。
 この年、洗氏は子の馮僕時に9歳)に諸部落の酋長たちを連れて建康に赴かせた。陳は僕を陽春(広州の西南三百四十里)太守とした。

○隋80譙国夫人伝
 及寶卒,嶺表大亂,夫人懷集百越,數州晏然。至陳永定二年,其子僕年九歲,遣帥諸首領朝于丹陽,起家拜陽春郡守。

 ⑴馮宝...代々羅州刺史を務めた家柄の出。南越族に信望のある洗氏を妻としてその支持を得た。陳覇先が李遷仕を討つのに貢献した。550年(3)参照。
 ⑵洗氏...代々南越族の首領を務めた家柄の出。幼い頃から賢く、権謀術数に長け、良く部衆を手懐けた。550年(3)参照。

●北周の防壁・韓雄

 この年、北周が〔開府儀同三司・河南尹・東徐州(東垣?)刺史の〕韓雄宇文雄を使持節・都督・中徐虞(河北。弘農の近北)洛四州諸軍事・中州(東垣)刺史とした。
 雄は久しく国境にいて東魏・北斉と接し、その内情を良く知悉していた。出撃すると常に敵領内奥深くまで侵入し、危険をものともしなかった。通算四十五度戦い、時には敗北することもあったが、その時は挫けるどころか却ってますます闘志を燃やした。そのため、東魏・北斉人から非常に恐れ憚られた。

○周43韓雄伝
 世宗二年,除使持節、都督、中徐虞洛四州諸軍事、中州刺史。雄久在邊,具知敵人虛實。每率眾深入,不避艱難。前後經四十五戰,雖時有勝負,而雄志氣益壯。東魏深憚之。

 ⑴韓雄...字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。537年、脱走して恒農にいた宇文泰に拝謁した。間もなく郷里に帰って再び兵を集め、洛陽に迫ってこれを陥とした。その後も東垣の地にて戦い続けた。のち開府儀同三司・東徐州刺史とされ、北周が建国されると宇文氏の姓を与えられた。

●神君
 この年、陳が太子中庶子の孔奐を晋陵(建康と呉の中間)太守とした。
 晋陵は劉宋・南斉以来の大郡で、近年の戦乱を経てもまだ富裕を維持していた。そのため、歴代の太守から大体収奪を受けた。ただ、奐は清廉を貫き、妻子を任地に連れて行かず、一艘の舟に乗って郡に赴き、給料が入れば直ちに孤児や寡婦に分け与えた。そのため、郡の人々から大いに慕われ、『神君』と称された。
 ある時、曲阿の富豪の殷綺という者が奐の質素な暮らしぶりを見て、衣服一かさねと布団一そろいを贈った。すると奐はこう言った、
「高給取りの太守が衣服や布団を用意できぬわけがない。ただ、住民全員の生活が豊かにならない限りは、ぬくぬくとした生活をするのが嫌なだけなのだ。卿の厚意は嬉しいが、心配しないでくれ。」

○陳19・南27孔奐伝
 高祖受禪,遷太子中庶子。永定二(三)年,除晉陵太守。晉陵自宋、齊以來,舊為大郡,雖經寇擾,猶為全實,前後二千石多行侵暴,奐清白自守,妻子竝不之官,唯以單舩(船)臨郡,所得秩俸,隨即分贍孤寡,郡中大悅,號曰「神君」。曲阿富人殷綺,見奐居處素儉,乃餉衣一襲,氈被一具。奐曰:「太守身居美祿,何為不能辦此,但民有未周,不容獨享溫飽耳。勞卿厚意,幸勿為煩。」

 ⑴この年...《南史》では翌年の事となっている。どちらが正しいかは分からない。陳18王質伝では558?~559年まで王質が晋陵太守を務めている。
 ⑵孔奐...字は休文。生年514、時に45歳。生真面目な性格。博覧強記で、文才があった。侯景が建康を陥とすとその重臣の侯子鑑に仕え、多くの住民を兵の乱暴から救った。侯景が滅ぶと揚州刺史とされ、陳覇先が実権を握ると司徒右長史・給事黄門侍郎とされた。建康令とされた時に北斉軍の侵入に遭うと、多くの麦飯のおむすびを用意し、勝利に貢献した。556年(2)参照。
 ⑶陳17王勱伝では、侯景の乱平定から江陵陥落(554年)までの事として、『戦乱により、郡中は疲弊していた』とある。戦禍を受けてもなお富裕を維持していたのであろう。


 559年(1)に続く