[北周:明帝二年 北斉:天保九年 陳:永定二年 後梁:大定四年 梁:天成四年→天啓元年]

●宇文護、太師となる
 春、正月、乙未(1日)、陳が車騎将軍(一階)・開府儀同三司の侯瑱を司空とした。また、中権将軍(二階)・開府儀同三司・左光禄大夫の王沖を太子少傅とし、左衛将軍(二千石)の徐世譜を護軍将軍(中二千石)とし、安東将軍・南兗州刺史の呉明徹を安南将軍(四階)とし、使持節・通直散騎常侍・都督衡州諸軍事・安南将軍(四階)・衡州刺史の欧陽頠を都督広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州諸軍事・鎮南将軍(三階)・平越中郎将・広州刺史とし、持節・常侍・侯爵はそのままとした。

 この日、北周が大冢宰・柱国大将軍の晋公護を太師とし、輅車(天子の車)・冕服(天子の冠と服)を下賜した。また、子の宇文至字は乾附)を崇業郡公に封じた

○周明帝紀
 二年春正月乙未,以大冢宰、晉公護為太師。
○陳武帝紀
 二年春正月乙未,…車騎將軍、開府儀同三司侯瑱進位司空,中權將軍、開府儀同三司、新除左光祿大夫王沖為太子少傅。左衞將軍徐世譜為護軍將軍,南兖州刺史吳明徹進號安南將軍,衡州刺史歐陽頠進號鎮南將軍。
○周11晋蕩公護伝
 二年,拜太師,賜輅車冕服。封子至為崇業郡公。
○陳9欧陽頠伝
 仍進廣州,盡有越地。改授都督廣交越成定明新高合羅愛建德宜黃利安石雙十九州諸軍事、鎮南將軍、平越中郎將、廣州刺史,持節、常侍、侯並如故。

 ⑴侯瑱...字は伯玉。時に49歳。梁の猛将。侯景が乱を起こすと豫章に拠った。のち、侯景討伐の先鋒となり、建康から逃げる景を追撃して破った。のち、東関にて郭元建の軍を大破し、北斉が郢州を陥とすとこれを攻めた。王僧弁が死ぬと豫章と湓城に拠って自立し、周文育の軍を撃退したが、部下の叛乱に遭って万事休し、遂に覇先に降った。556年(4)参照。
 ⑵王沖...字は長深。生年492、時に67歳。名門王氏の出。母は梁の武帝の妹。早くに孤児となり、梁の武帝に手厚い養育を受けた。温和で人に逆らわず、音楽や歌舞に通じ、人付き合いが良かったので社交界で好評を博した。また、法律に通じ、公平な政治を行なった。南郡太守を務め、梁の湘東王繹(元帝)が荊州刺史となるとその鎮西長史を兼ねた。侯景の乱が起こると南郡太守の座を王僧弁に譲り、更に女妓十人を繹に献じて軍賞の助けとした。のち衡州刺史→行湘州事・長沙内史とされ、陸納が湘州にて乱を起こすと捕らえられたが、納が降ると解放された。557年(3)参照。
 ⑶徐世譜...字は興宗。水戦に長じ、赤亭湖にて侯景の将・任約の水軍を大破した。のち、侯瑱の指揮のもと郢州攻撃に参加した。のち武帝の配下となると、水戦の兵器の製造を一手に任された。557年(3)参照。
 ⑷呉明徹...字は通炤。時に46歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。幕府山南の勝利に大きく貢献した。沌口の決戦では、なんとか逃走に成功していた。557年(3)参照。
 ⑸欧陽頠...字は靖世。生年498、時に61歳。梁の名将蘭欽の親友。曲江侯勃の部下だが、一時仲が険悪になったことがある。蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げるとその前軍を務めたが、敗れて降伏した。去年、広州の攻略を命じられていた。557年(2)参照。
 ⑹晋公護...宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。時に46歳。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。大統九年(543)の邙山の戦いでは敗退して敗戦のきっかけを作り、免官に遭った。大統十五年(549)に河東の鎮守を任じられた。恭帝元年(554)の江陵征討の際に先鋒を務めると、軽騎兵を率いて昼夜兼行の強行軍を行ない、直ちに江陵に到って城内を呆然自失の状態に陥らせた。のち、危篤となった宇文泰に幼い息子の後見を託された。宰相となると瞬く間に権力を強固なものとし、北周を安定に導いた。557年(2)参照。
 ⑺宇文護の子には世子の宇文訓のほか、宇文深、宇文会らがいる。

●王琳軍の停頓

 王琳が兵を率いて長江を東下し、湓城に到り、白水浦にて十万の兵の調練を行なった。琳は軍中を巡視してこう言った。
「〔諸君たちは〕勤王を成し得る軍となった! これなら、温太真温嶠)も物の数ではないぞ!」
 この時、長江中流にある新蔡郡には魯悉達が割拠していた。王琳が〔悉達の勢力を憚って〕鎮北将軍(三階)とすると、陳も趙知礼を派して悉達を征西将軍(二階)・江州刺史とし、両方共に楽隊・歌女を送って〔懐柔を図った〕。悉達は両方とも受け取ったが、依然として日和見の態度を取り続けた。陳は安西将軍(四階)の沈泰にこれを襲わせたが、勝つことができなかった。琳は〔湓城に到ると〕使者を送って味方に付くよう説いたが、拒絶された。そのため、琳はこれ以上東下ができずにいた。
 己亥(5日)、琳は記室の宗虩ケキ、キャク)〈己亥・宗虩ともに出典不明〉を北斉に派して援軍を求めた。また、〔旗頭とするために、〕梁の永嘉王荘の返還を求めた。北斉はこれを許し、揚州行台の慕容儼王貴顕侯子監に荘を護送させた。

○北斉20慕容儼伝
 十(九?)年,詔除揚州行臺,與王貴顯、侯子監將兵衞送蕭莊。
○北斉32王琳伝
 琳乃移湘州軍府就郢城,帶甲十萬,練兵於白水浦。琳巡軍而言曰:「可以為勤王之師矣,溫太真何人哉!」
○北斉33蕭明伝
 梁將王琳在江上與霸先相抗,顯祖遣兵納梁永嘉王蕭莊主梁祀。
○陳13魯悉達伝
 敬帝即位,王琳據有上流,留異、余孝頃、周迪等所在鋒起,悉達撫綏五郡,甚得民和,士卒皆樂為之用。琳授悉達鎮北將軍,高祖亦遣趙知禮授征西將軍、江州刺史,各送鼓吹女樂,悉達兩受之,遷延顧望,皆不就。高祖遣安西將軍沈泰潛師襲之,不能克。
 ...王琳欲圖東下,以悉達制其中流,恐為己患,頻遣使招誘,悉達終不從。琳不得下,乃連結於齊,共為表裏,齊遣清河王高岳(慕容儼?)助之。
○資治通鑑
 己亥,琳遣記室宗虩求援於濟,且請納梁永嘉王莊以主梁祀。

 ⑴王琳...字は子珩。時に32歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、一昨年、更に郢州に勢力を広げた。去年、沌口にて陳軍に完勝を収めた。557年(3)参照。
 ⑵白水浦...《読史方輿紀要》曰く、『九江府(湓城の東一里)の西にある。』
 ⑶温太真...温嶠。東晋の名将。蘇峻が建康を陥とすと、尋陽に拠って陶侃らと共に平定した。諡は王琳と同じく忠武。
 ⑷魯悉達...字は志通。侯景の乱が起こると郷里の人々を糾合して新蔡を守り、耕作に努めて食糧を蓄え、多くの流民の命を救った。次第に悉達の勢力は晋熙など五郡に広がった。551年(3)参照。
 ⑸趙知礼...字は斉旦。陳の武帝のブレーンの一人。相当な読書家で、巧みな字を書いた。帝が元景仲を討った時(549年)、ある者に推挙されて帝の記室参軍とされた。知礼は文章を作るのが速く、帝が軍書(檄文など)の内容を述べると、知礼はたちどころにそれを立派な文章に仕立て上げた。以降、非常に信任され、常に帝の傍に近侍し、そのはかりごとの全てに関与した。また、多くの諫言を行なった。帝が宰相となると(555年)、給事黄門侍郎・兼衞尉卿とされた。552年(1)参照。
 ⑹沈泰...東揚州に割拠していた張彪の司馬。覇先に寝返り、彪を死に追い込んだ。のち、幕府山南の勝利に大きく貢献した。沌口の戦いの際には漢曲を守備を任され、本隊が大敗を喫すると逃走した。557年(3)参照。
 ⑺永嘉王荘...梁の四代皇帝・元帝の嫡孫。時に10歳。555年に人質として北斉に送られた。555年(3)参照。
 ⑻慕容儼...字は恃德。西魏から東荊州を守り切ったことがある。555年に郢州の鎮守を任され、半年に渡って梁の攻撃を防いだ。555年(2)参照。
 ⑼王貴顕...梁書では『王顕貴』。侯景の外弟。景が建康を攻める際寿陽の留守を任されたが、東魏の攻撃に屈して降伏した。549年(1)参照。
 ⑽侯子監...梁書では『侯子鑑』。侯景の部将。南洲にて王僧弁らの軍を迎え撃ったが大敗した。のち、建康の決戦にも敗北すると広陵に逃走し、北斉に降った。552年(1)参照。

●王琳、南川討伐軍を発す
 陳の江州刺史の周迪は南川[1]に割拠せんとし、管轄区域の八郡[2]の太守県令を総集して盟約を行なった。表向きの理由は、陳を助けに行くためのものと称した。陳は迪が事変を起こすことを恐れ、手厚い慰撫を行なった。
 新呉洞主の余孝頃が沙門(僧侶)の道林を琳に派してこう言った。
周迪・黄法氍はみな金陵(建康。陳)に付いて〔将軍の〕隙を窺っており、〔将軍の〕大軍が東下すれば、必ず後顧の憂いとなりましょう。まず南川を平らげ、それから東下をするに越したことはありません。私は全兵力を挙げて将軍の下で戦います。」
 琳はこれを聞き入れ、軽車将軍(十一階)の樊猛・平南将軍(五階)の李孝欽・平東将軍(五階)の劉広徳中書舎人の劉之亨の子。生年527、時に32歳)に八千の兵を与えて南川の地に赴かせた。孝頃らは合流して二万の軍となった。総指揮は孝頃が執った。孝頃らが新林より豫章を攻めると、監江州事の陸山才は周迪のもとに逃れた。孝頃らは次いで臨川故郡[3]に駐屯し、迪に兵糧を求めてその出方を窺った。

○資治通鑑
 新吳洞主餘孝頃遣沙門道林說琳曰:「周迪、黃法氍皆依附金陵,陰窺間隙,大軍若下,必為後患;不如先定南川,然後東下,孝頃請席卷所部以從下吏。」琳乃遣輕車將軍樊猛、平南將軍李孝欽、平東將軍劉廣德將兵八千赴之,使孝頃總督三將,屯於臨川故郡,徵兵糧於迪,以觀其所為。
○陳18陸山才伝
 及文育西征王琳,留山才監江州事,仍鎮豫章。文育與侯安都於沌口敗績,余孝頃自新林來寇豫章,山才收合餘眾,依于周迪。
○陳35周迪伝
 高祖受禪,王琳東下,迪欲自據南川,乃總召所部八郡守宰結盟,聲言入赴,朝廷恐其為變,因厚慰撫之。琳至湓城,新吳洞主余孝頃舉兵應琳。琳以為南川諸郡可傳檄而定,乃遣其將李孝欽、樊猛等南徵糧餉。猛等與余孝頃相合,眾且二萬。

 ⑴周迪...山谷育ちで狩猟を生業とし、並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。質素を好み、口数は少なかった。侯景の乱が起こり、同族の周続が挙兵すると、郷里の人々と共にこれに加わり、戦うたびに軍中一の武勇を示した。続が死ぬとその跡を継ぎ、臨川の工塘(臨汝の東南)に拠り、善政を行なった。陳覇先と蕭勃との間に戦争が起こると、初めは日和見態度を取ったが、やがて覇先に付いた。557年(4)参照。
 [1]南川...南康〜豫章の地を南川と言う。南江(贛江)の流れる地だからである。
 [2]管轄区域の八郡...南康・宜春・安成・廬陵・臨川・巴山・豫章・豫寧のことである。
 ⑵余孝頃...新呉洞主、南江州刺史。梁が侯景を攻めると、一万の兵を率いてこれに合流した。去年、侯瑱の侵攻を撃退し、蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げると兵を率いてこれに合流した。のち、息子を人質に差し出して覇先に屈したが、王琳が東下を開始するとこれに寝返った。557年(2)参照。
 ⑶黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。巴山新建の人。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里を守り、太守の賀詡が江州に下ると(追い出した?)監郡事とされた。のち、陳覇先の軍を助け、556年、高州刺史とされた。去年、蕭勃が攻めてくると高州を守り切った。557年(1)参照。
 ⑷樊猛...字は智武。建康が包囲されると救援に赴き、青溪の戦いにて活躍した(549年〈1〉参照)。天正帝が東下してくるとこれを迎え撃ち、自らその首を斬った(553年〈2〉参照)。その後、蜀東部に兵を進めてこれを平定した。のち王琳の配下となり、武昌を守備したが、陳軍が攻めてくると城を捨てて逃走した。のち、江州を攻略した。557年(3)参照。
 ⑸李孝欽...もと宣猛将軍(二十六階)。侯景の乱が起こると建康の救援に赴いた。548年(5)参照。
 ⑹陸山才...字は孔章。時に50歳。幼少の頃から自立心が強く、書籍を愛好した。王僧弁→張彪→陳覇先に仕え、周文育が南豫州刺史となるとその長史とされ、政治の一切を取り仕切った。文育が蕭勃の討伐に向かうと、多くの献策を行ない、その勝利に貢献した。文育が王琳の討伐に向かうと、豫章の留守を任された。557年(3)参照。
 [3]臨川故郡は周敷の駐屯する所である。琳は兵を派して迪を攻めると共に、敷を脅したのである。

●前線の州の細分化
 癸丑(19日)、北周が独孤氏を王后とした(天王の明王の即位は去年の9月28日)。独孤氏は〔晋公護と対立して殺された〕独孤信の長女である(周9明帝独孤皇后伝)。
 丁巳(23日)、雍州に十二郡を置いた。また、河東(泰州)に蒲州を置き、河北に虞州を置き、弘農(義州)に陝州を置き、正平に絳州を置き、宜陽に熊州を置き、邵郡に邵州を置いた。


 2月、壬申(9日)、陳の南豫州刺史の沈泰が北斉に亡命した[1]
 辛卯(28日)、車騎将軍・司空の侯瑱に北斉の侵攻を防がせた《陳武帝紀》

 去年の冬から、北周では雨が降っていなかった
 この月、ようやく大雪が降った《周明帝紀》

 この月、梁の永嘉王荘が北斉の護送のもと(1月5日参照)、湓城の北より長江を渡った。

 北斉の揚州行台の慕容儼が三万の兵を率いて魯悉達の治める鬱口諸鎮を攻めた。その軍容は非常に盛んなものがあったが、悉達はこれを撃破し、儼を身一つで逃走させた。儼はそこで()郭黙・若邪の二城を築いて長期戦に移行した(詳細な時期は不明)。

○周明帝紀
 癸丑,立王后獨孤氏。丁巳,雍州置十二郡。又於河東置蒲州,河北置虞州,弘農置陝州,正平置絳州,宜陽置熊州,邵郡置邵州。
○北斉20慕容儼伝
 十(九?)年,詔除揚州行臺,與王貴顯、侯子監將兵衞送蕭莊。築郭默、若邪二城。
○北斉33蕭明伝
 九年二月,自湓城濟江,三月,即帝位於郢州,年號天啟,王琳總其軍國,追諡明曰閔皇帝。
○陳13魯悉達伝
 齊遣行臺慕容紹宗(儼?)以眾三萬來攻鬱口諸鎮,兵甲甚盛,悉達與戰,敗齊軍,紹宗僅以身免。

 ⑴独孤信...字は期弥頭。もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、関中西方を任された。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。去年、宰相の宇文護と対立し、自殺に追い込まれた。557年(1)参照。
 [1]恐らく、沈泰は侯安都を救うことも、魯悉達を討つこともできなかったため、処罰を恐れて亡命したのであろう。考異曰く、『北斉文宣紀には「八月、陳の江州刺史の沈泰が三千の兵と共に帰順した」とある。今は陳武帝紀の記述に従った。
 ⑵去年の冬、北周領内では大旱魃が起こっていた。557年(3)参照。
 ⑶郭黙城...《読史方輿紀要》曰く、『九江府(江州)の東北にある。』侯景の部将の于慶が立て籠もった事がある。551年(3)参照。また曰く、『蘄水県(九江府の西北)の東にある。胡氏曰く、蘄(蘄水県と九江府の中間)・黄(江夏の東)二州の間にある。』555年頃に段韶が郭黙戍を築いていた。555年(1)参照。この記事はもしかするとその時のことなのかもしれない。

●司馬消難

 北斉の上党王渙が済州に逃亡した時、朝廷の人々は密かにこう噂し合った。
「上党王は成臯(北豫州。虎牢)に逃げたらしい。上党王が司馬北豫州(北豫州刺史の司馬消難のこと)と共謀したら、一大事になるのは必至である。」
 文宣帝はこの噂を聞くと、消難をひどく疑うようになった。 消難はこれを知ると身の危険を感じ、遂に側近で中兵参軍の裴藻に偽りの休暇を取らせ(偽りの休暇...出典不明)、密かに北周領内に赴かせて、帰順することを伝えさせた。

 司馬消難は字を道融といい、司馬子如の長子である。幼い頃より聡明で、歴史書を読み漁り、風格があった(北斉18司馬消難伝)。ただ見栄っ張りで、名誉を求める所があった。出仕して著作郎となった。このとき、父の子如は既に顕貴の地位にあったため、邢子才王元景魏収陸卬崔贍ら多くの名士が屋敷を訪れた。消難は彼らと交流するのを楽しみとした。間もなく高歓の娘の高氏を娶って(高歓の娘〜...北斉18司馬消難伝)駙馬都尉とされ《周21司馬消難伝》、中書郎・黄門郎・光禄少卿を歴任し、次いで外勤を命じられて北豫州刺史とされた。消難はそこで汚職を働いた《北斉18司馬消難伝》。御史中丞の畢義雲は消難の従弟で尚書左丞の司馬子瑞司馬子如の兄の子)と仲が悪かったため、意趣返しとして、御史の張子階を北豫州に派遣し、その典籤(目付)や食客らを軟禁して調査を行なった《北斉47畢義雲伝》。また、消難は高歓の娘と仲が悪く、その讒訴を受けていた(11)《北斉18司馬消難伝》
 消難は文宣帝の近年の凶暴さを鑑み、身の危険を覚えると、人心の収攬に努めて支持を集め、〔いざという時の助けにしようとした〕《周21司馬消難伝》

 裴藻は字を文芳といい、幼い頃から弁舌に長け、独立心に富んでいた。子如の太傅主簿となり、消難が北豫州刺史となるとその中兵参軍となった《北54裴藻伝》
____________________
 ⑴上党王渙...字は敬寿。高歓の第七子。文宣帝の弟で、韓氏の子。時に25歳。東関の戦いで梁軍を大破した。去年、帝に疑われて投獄された。557年(4)参照。
 ⑵文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に33歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。しかし六・七年も経つと、己の功業に驕って酒色に溺れ、残虐な行為を繰り返すようになった。557年(4)参照。
 ⑶司馬子如...字は遵業。文宣帝の父・高歓の親友。尚書令や司空・大尉を歴任した。551年(3)参照。
 ⑷邢子才...邢卲子才は字。名文家。中書侍郎・給事黄門侍郎・中書監などを歴任した。
 ⑸王元景...王昕。元景は字。名文家。前秦の苻堅の丞相の王猛の子孫。北魏末の混乱時、邢卲を身を以てかばった。
 ⑹魏収...字は伯起。名文家。中書令などを務めた。魏書を編纂したが、記述に問題があり、『穢史』と糾弾された。557年(1)参照。
 ⑺陸卬...字は雲駒。美男子、名文家。中書舍人・中書侍郎・給事黄門侍郎・吏部郎中などを歴任した。
 ⑻崔贍...字は彦通。美男子、名文家。并省吏部郎中・中書侍郎などを務めた。
 ⑼高歓...字は賀六渾。文宣帝の父。爾朱栄横死後の混乱に乗じて華北東部を制圧し、東魏を建国した英雄。
 ⑽畢義雲...酷吏。文宣帝が即位すると治書侍御史、次いで御史中丞となり、勲貴にも容赦なく弾劾を行なった
 (11)高氏と仲が悪く...周21司馬消難伝には『消難は鄴に在る時は高氏を敬っていたが、入関するとすぐに捨て去った』とある。また、『消難は浮気性だった』とある。

●消難叛す

 3月、 甲午(1日)、北周は柱国大将軍の達奚武と大将軍の楊忠辛威、帥都督の楊敷に五千騎を与え、消難を迎えに行かせた。兵士は乗っている馬とは別に一頭の馬(乗り換え用の馬)を連れて行き、間道を通って一気に北斉領まで五百里の地点にまで到った。この間、武は三たび消難に使者を送ったが、返事が返ってくることは無かった。武は何か変事があったのではないかと疑い、虎牢まで三十里の地点に到った所で引き返そうとした。すると忠が言った。
「私は前進して死ぬことを選びます。退いて生を得ようとは思いません!」
 かくて忠は千騎を率い、夜陰に紛れて城下に到った。虎牢城は四面が断崖絶壁の堅城で、〔警備はあまり必要なかったのに、今、城はしんと静まり返り、〕ただ歩哨の鳴らす擊柝(拍子木)の音だけが響いていた。忠を追ってきた武は〔これを見て変事が起こったことを確信し、〕忠が率いていた兵士のうち数百騎を連れて西に去った。忠はそれでも頑としてその場を動かなかった。そのうち城門が開いて中に迎え入れられると、早馬を出して武を呼び戻した。
 このとき、虎牢の東城は鎮城(防城大都督)の伏敬遠が二千の兵を率いて守備していた。敬遠は変を察知すると守りを固め、狼煙台に火をともして周囲に急を告げた。武はこれを見ると虎牢城を保持することを諦め、多くの財貨を略奪し、消難およびその部下を連れて一足先に帰還した。忠は三千騎を率いて殿軍を務めた。忠らは洛水の南に到った所で〔安心し、〕馬から下りて休息した。そのとき、北斉の追撃軍が洛水の北に到ったとの報が届いた。すると忠は将兵にこう言った。
「安心して腹一杯食べよ。今、我らは死地に在る。賊どもは〔我らの必死の抵抗を恐れ、〕絶対に渡河してこないだろう!」
 北斉軍は洛水を押し渡る素振りを見せたが、忠が直ちに攻撃の態勢を整えると、北斉軍は渡河を諦め、徐々に退いていった。武はこれを聞くと感嘆して言った。
「わしは自分のことを天下の英雄だと考えていたが、今日、忠に敵わぬことを知った!」《周19楊忠伝》
 北周は消難を小司徒(出典不明)・大将軍・滎陽公とした。楊忠は消難と義兄弟となり、非常に親密な間柄となった。忠の子の楊堅も消難を叔父のように敬った《周21司馬消難伝》

○周19楊忠伝
 孝閔帝踐阼,入為小宗伯。齊人寇東境,忠出鎮蒲坂。及司馬消難請降,忠與柱國達奚武援之。於是共率騎士五千,人兼馬一疋,從間道馳入齊境五百里。前後遣三使報消難而皆不反命。去〔北〕豫州三十里,武疑有變,欲還。忠曰:「有進死,無退生。」獨以千騎夜趨城下,四面峭絕,徒聞擊柝之聲。武親來,麾數百騎以西。忠勒餘騎不動,候門開而入,乃馳遣召武。時齊鎮城伏敬遠勒甲士二千人據東陴,舉烽嚴警。武憚之,不欲保城,乃多取財帛,以消難及其屬先歸。忠以三千騎為殿,到洛南,皆解鞍而臥。齊眾來追,至於洛北。忠謂將士曰:「但飽食,今在死地,賊必不敢渡水當吾鋒。」齊兵陽若渡水,忠馳將擊之,齊兵不敢逼,遂徐引而還。武歎曰:「達奚武自是天下健兒,今日服矣!」進位柱國大將軍。

 ⑴達奚武...字は成興。時に55歳。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。552年、漢中を陥とす大功を立てた。553年、玉壁の鎮守を任された。去年、柱国大将軍とされた。557年(1)参照。
 ⑵楊忠...字は揜于。時に52歳。美髯で七尺八寸の長身。素手で虎を倒す怪力の持ち主。普六如氏を賜った。梁に二度身を置いたことがある。梁から漢水東部を奪取し、邵陵王綸を攻め殺した。江陵攻めでは先鋒を務めた。のち、穣城(荊州)を鎮守し、孝閔王が即位すると呼び戻されて小宗伯とされた。北斉が東境を侵すと、蒲坂の鎮守を命じられた。554年(4)参照。
 ⑶辛威...普屯氏の姓を賜った。宇文泰が賀抜岳の兵を受け継いだとき、優秀さを認められてその帳内とされ、数々の戦いに活躍した。のち、鄜州刺史・河州刺史を務めた。
 ⑷楊敷...字は文衍。北魏の華山公の楊寬の兄の子。尚書左士郎中・祠部郎中・大丞相府墨曹参軍・廷尉少卿などを歴任した。
 [1]考異曰く、『北斉文宣紀には「四月、消難が叛いた。」とある。今は周明帝紀・典略の記述に従った。

●永嘉王荘の即位
 この日)、北周が雍州刺史を雍州牧に、京兆郡守を京兆尹に改めた。また、広業・修城二郡に康州(広業郡同谷県を置き、葭蘆郡に文州(盧北郡曲水県を置いた《北周明帝紀》

 丁酉(4日)文宣帝が晋陽より鄴に帰った[1]《北斉文宣紀》

 これより前、〔北魏の譜代の部族である〕三十六国・九十九姓の子孫は、北魏の南徙に伴い、みな河南の人を称していた。
 庚申(27日)、北周が詔を下し、都が関中にあることを理由に、これを改め、京兆の人と称するようにさせた《周明帝紀》

 この月、北斉が護送していた梁の永嘉王荘が江南に到着した。北斉は兼中書令の李騊駼に任命書を持たせ、王琳を梁の丞相・都督中外諸軍事・録尚書事とした。また、中書舍人の辛慤游詮之らに璽書を持たせて琳らの労をねぎらわせ、全員に賞賜を与えた。琳は兄の子の王叔宝に領内の十州の刺史の子弟を連れて鄴に赴くように命じた。
 琳は荘を皇帝の位に即け、年号を〔天成から〕天啓に改めた以後、蕭荘を天啓帝と称すまた、建安公淵明を閔帝と諡した(年号を〜...北斉33蕭明伝)。天啓帝は琳を侍中・使持節・大将軍・中書監・安城郡公とし、その他は北斉の任命した通りとした[2]《北斉32王琳伝》

 ⑴康州...《隋書地理志》曰く、『隋の河池郡同谷県は、むかし白石県と呼ばれ、広業郡が置かれた。西魏はこれを同谷県に改め、北周は康州を置いた。
 ⑵文州...《隋書地理志》曰く、『隋の武都郡長松県に西魏は建昌県を、〔北周は〕文州と盧北郡を置いた。』《旧唐書地理志》曰く、『隋の武都郡曲水県に置かれた。』『西魏(北周)が氐・羌の乱を平定して始めて文州を置いた。
 [1]考異曰く、『北斉文宣紀には「天保七年(556)八月、晋陽に赴いた」と記しながら、その帰還を書かず、「八年(557)四月、城(鄴)東にて騎射を行なった。帝は京師(鄴)の女性全員に見に来るように命じた」と書いた。そしてまた今、晋陽に赴いたとの記述も無いのに、「晋陽より帰った」と書いた。また、この後、「六月乙丑、晋陽より北の巡視に赴いた」とあり、いつの間にか晋陽に赴いている。脱落があるのだろうが、今は敢えて記述を補わなかった。』
 ⑶李騊駼...州刺史・行鄭州事・行梁州事・陽夏太守などを歴任した李義深の子。
 ⑷辛慤...吏部尚書の辛術の一族。北海太守・行平州事などを歴任した辛珍之の子。
 ⑸建安公淵明...もと貞陽侯淵明、天成帝。梁の武帝の兄の子。547年、梁の北伐の総指揮官として東魏と戦ったが、大敗を喫して捕虜となった。のち、北斉に傀儡として擁立され、梁に送られて皇帝となったが、これに反発した覇先に退位させられた(555年)。のち、北斉に返還される途中、急死した。556年(2)参照。
 [2]考異曰く、『北斉文宣紀には「11月乙巳(28日)、琳が使者を派して荘を梁主に立てることを求めた。北斉は王琳が江州を挙げて北斉に帰順したことを以て、荘にそこに居を構えることを許した。12月癸酉(14日)、荘を梁主とし、九派(湓城)に住まわせた。」今、陳書および典略の記述に従った。ただ、陳書・典略ともに「郢州にて荘を立てた」とある。琳は時に湓城にいる。思うに、初めは江州に居り、のちに郢州に遷っただけであろう。

 
 558年(2)に続く