[北周:閔帝元年→明帝元年 北斉:天保八年 梁:太平二年→陳:永定元年 後梁:大定三年]


●敬帝、禅譲を行なう
 冬、10月、戊辰(3日)、梁が相国・陳公の陳覇先の爵位を進めて王とし、封邑を十郡(揚州の会稽・臨海・永嘉・建安、南徐州の晋陵・信義、江州の尋陽・豫章・安成・廬陵)加えて二十郡とした。相国・揚州牧・鎮衛大将軍の官はそのままとした。
 また、十二の旒(珠玉を糸で連ねた飾り)を垂らした冕冠(皇帝用の冠)をかぶること、出入りのさい、天子の旌旗を掲げ、先払いをし、六頭立ての金根車(皇帝用の馬車)に乗ること、五時副車(五色に彩られた立車と安車で構成される儀仗車。共に四頭立て)を従えること、旄頭(旗に付ける唐牛の飾り)・雲罕(罕旗? のぼりのように細長い旗の一種。周の武王が殷の社に入る時、百人の先駆けがこれを背負った)を設け、音楽を奏でるさい八佾(天子の舞楽。六十四人の舞人が踊る豪華な舞)を舞わすこと、宮殿に鐘を吊るす台を設けることを許した。

 辛未(6日)、梁の敬帝が皇帝の位を覇先に譲る詔を下した(梁は502年より56年で滅亡した)。また、兼太保・尚書左僕射の王通、兼太尉・司徒左長史の王瑒字は子璵、或いは子瑛。丹陽尹の王沖の第十二子)に皇帝の璽綬を覇先に届けさせた《陳武帝紀》
 覇先は中書舍人の劉師知と宣猛将軍(二十六階)・監呉興郡事の沈恪に兵を率いて宮殿に入り、帝を別宮に護送するよう命じた。恪はこれを聞くと、覇先の屋敷に闖入して覇先に会い、土下座して言った。
「それがしは蕭氏に仕えてまいった者。かつての主君にそのような真似はできませぬ。それをするくらいなら死んだ方がましでございます!」
 覇先はその心意気に免じて抗命を許し、盪主(突撃隊長? 盪は突くの意)の王僧志に代行させた《陳12沈恪伝》

 劉師知は沛国相県の人である。寒門の出身で、祖父の劉奚之は南斉の晋安王諮議参軍・淮南太守となり、善政を行なったことで武帝から何度も褒賞の詔を賜った。父の劉景彦は梁の尚書左丞・司農卿となった。
 師知は学問を好み、当世の才(国政に当たることのできる才能)があった。多くの書物を読み漁り、巧みな文章を書き、朝廷の儀礼・慣習に通じていたため、王府参軍とされた。紹泰元年(555)に覇先が実権を握ると、中書舍人とされ、詔誥(皇帝の出す文書)の作製を任された。当時は戦乱が起きた直後だったので、儀礼のやり方の多くが分からなくなっていた。そこで、儀礼に詳しい師知の指導のもと、覇先の丞相就任・九錫拝領・受禅が行なわれた。
 師知は勝手気ままな性格で人とよく衝突したため、昇進はしなかった。しかし、その職務は非常に重く、その諫言はどれも国の利益に繋がった《陳16劉師知伝》
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 ⑴陳覇先...字は興国。時に55歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。557年(2)参照。
 ⑵敬帝...蕭方智。元帝の第九子で、梁の六代皇帝。在位555〜557。時に15歳。陳覇先に擁立されて皇帝となった。
 ⑶王通...字は公達。母は梁の初代皇帝・武帝の妹。時に55歳。
 ⑷沈恪...字は子恭。時に49歳。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。広州刺史の新渝侯瑛の主簿・兼府中兵参軍となった。覇先とは同郡の生まれだったため非常に仲が良く、覇先が李賁を討つ際、妻子を託されてこれを故鄉にまで送り届けた。のち建康の防衛に参加し、陥落すると故郷に逃亡した。覇先が南徐州の鎮守を任されるとそのもとに馳せ参じ、即日、都軍副とされた。覇先が王僧弁を襲殺する際事前に計画を知らされた一人となり、武康の守備を任された。555年(3)参照。
 ⑸王僧志...建康の決戦の際、侯景に真っ先に突撃を仕掛けられた。僧志がやや退いた時、徐度率いる二千の弩手が景軍の後衛を横ざまに射、撃退した。552年(1)参照。

●李弼の死
 癸酉(10月8日)、北周の太師・趙国公の李弼が亡くなった(享年64)。明王は即日哀悼の泣き声を上げ、三たび葬儀に赴いた。兵を発して墓穴を掘り、大輅(天子の車)・龍旂(天子の旗)を贈り、墓所に通夜の兵を並べた。武と諡した。
 弼は征討の際、朝に命を受けると直ちに準備を整え、その日の夕方に出発した。もしその時に家庭の用事があっても、家に泊まることは一度も無かった。私を捨てて公に尽くすこと、万事このようであった。また、冷静さと勇猛さを兼ね備え、深い見識(先見性・洞察力・判断力)を有していた。そのため、名声を保持したまま生を終えることができたのだった。

 李弼の次子で開府儀同三司・荊州刺史の李輝がその跡を継いだ。
 輝は宇文泰の娘の義安長公主を娶ったため、長子の李耀を差し置いて後継となった。大統年間(535~551)に出仕して員外散騎侍郎となり、義城郡公に封じられた。のち撫軍将軍・大都督・鎮南将軍・散騎常侍を歴任した。輝は病気がちだったため、泰に心配された。泰は薬代として毎日一千文の銭を輝に与えた。西魏の廃帝が陰謀を企むと、泰は輝を武衛将軍として宿衛を総領させ、〔帝の監視をさせた〕。間もなく〔陰謀が露見して〕帝が廃されると、車騎大将軍・儀同三司とされた。恭帝二年(555)に驃騎大将軍・〔開府〕儀同三司とされ、外勤を命じられて岐州刺史とされた。のち、泰が西方の巡視に赴くと(554年7月? 556年4月?)、公卿子弟を率いて別に一軍を為した。孝閔王が即位すると(557)、荊州刺史とされた。

○周明帝紀
 冬十月癸酉,太師、趙國公李弼薨。
○周15李弼伝
 弼每率兵征討,朝受令,夕便引路,不問私事,亦未嘗宿於家。其憂國忘身,類皆如此。兼復性沉雄,有深識,故能以功名終。元年十月,薨於位,年六十四。世宗即日舉哀,比葬,三臨其喪。發卒穿冢,給大輅、龍旂,陳軍至于墓所。諡曰武。
○周15李輝伝
 次子輝,尚太祖女義安長公主,遂以為嗣。輝大統中,起家員外散騎侍郎,賜爵義城郡公,歷撫軍將軍、大都督、鎮南將軍、散騎常侍。輝常臥疾朞年,太祖憂之,日賜錢一千,供其藥石之費。及魏廢帝有異謀,太祖乃授輝武衞將軍,總宿衞事。尋而帝廢,除車騎大將軍、儀同三司。魏恭帝二年,加驃騎大將軍、儀同三司,出為岐州刺史。從太祖西巡,率公卿子弟,別為一軍。孝閔帝踐阼,除荊州刺史。尋襲爵趙國公。

 李弼...字は景和。生年494、時に64歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされ、552年に徒河氏の姓を賜った。宇文泰が西方の巡視に赴くと留守を任された。556年、太傅・大司徒とされた。北周が建国されると太師・趙国公とされた。557年(1)参照。
 ⑵李輝...李弼の次子。宇文泰の娘婿。武衛将軍となって西魏の廃帝の企みを阻止した。554年(1)参照。

●陳の建国
 梁の敬帝が禅譲を行なうと、覇先は再三に渡ってこれを辞退した。しかし群臣から強い求めにあうと、遂にこれを受け入れた。
 乙亥(10月10日)、覇先は建康の南郊にて皇帝の位に即いた。これが陳の武帝である。帝は皇宮に赴き、天下に大赦を行なって、年号を太平から永定に改めた。
 また、もと敬帝の蕭方智を江陰王とし、その母の夏太后を江陰国太妃とし、妻の王皇后を江陰国妃とした。


○陳武帝紀
 永定元年冬十月乙亥,高祖即皇帝位于南郊,…先是氛霧,晝夜晦冥,至于是日,景氣清晏,識者知有天道焉。禮畢,輿駕還宮,…「…可大赦天下,改梁太平二年為永定元年。賜民爵二級,文武二等。鰥寡孤獨不能自存者人穀五斛。逋租宿債,皆勿復收。其有犯鄉里清議贓汙淫盜者,皆洗除先注,與之更始。長徒敕繫,特皆原之。亡官失爵,禁錮奪勞,一依舊典。」又詔曰:「…其以江陰郡奉梁主為江陰王,行梁正朔,車旗服色,一依前準,宮館資待,務盡優隆。」又詔梁皇太后為江陰國太妃,皇后為江陰國妃。又詔百司依位攝職。

●抑留と供御囚
 陳は北斉に藩と称し、中書侍郎の袁憲を兼散騎常侍として正使とし、黄門侍郎の王瑜を副使とした朝貢使節を派遣した。
 しかし、北斉は王琳と同盟関係にあったため、二人は捕らえられ抑留を受けた。北斉の文宣帝は外出するたびに死刑囚を載せた車を従え、人々はこれを『供御囚』と呼んだ。帝は怒ると彼らを呼び出して殺し、鬱憤を晴らした。憲と瑜も〔供御囚とされ、〕何度も死にそうになったが、そのつど境遇を憐れんでいた僕射の楊遵彦)によって助けられた。

 王瑜王瑒の第十三弟で字を子珪といい、美男で、早くから出世街道を歩き、三十歳にして〔早くも〕侍中とされた。

○北斉文宣紀
 冬十月乙亥,陳霸先弒其主方智自立,是為陳武帝,遣使稱藩朝貢。
○陳23王瑜伝
〔王〕瑒第十三弟瑜,字子珪,亦知名,美容儀,早歷清顯,年三十,官至侍中。永定元年,使於齊,以陳郡袁憲為副,齊以王琳之故,執而囚之。齊文宣帝每行,載死囚以從,齊人呼曰「供御囚」,每有他怒,則召殺之,以快其意。瑜及憲並危殆者數矣,齊僕射楊遵彥憫其無辜,每救護之。
○陳24袁憲伝
 永定元年,授中書侍郎,兼散騎常侍。與黃門侍郎王瑜使齊,數年不遣。

 ⑴文宣帝は酔っている時に少しでも不快を感ずると、必ず剣を抜くか、弓に矢をつがえるか、槊を手に取るかして、手ずから人を殺した。これに手を焼いた楊愔は、鄴の死刑囚の中から何人か選んで帝の傍に置き、帝が殺人の衝動に駆られた際の生贄とした。彼らは『供御囚』と呼ばれ、三ヶ月殺されなかった場合、死刑を免じられた。556年(3)参照。

●神童・袁憲


 袁憲生年529、時に29歳)は字を徳章といい、〔故・呉郡太守の袁君正の子で、〕呉興太守の袁枢の弟である。幼い頃から利発で、学問を好み、度量が大きかった。梁の武帝は庠序(地方の学校)を再建し、別に五館を設立したが、その内の一館が憲の屋敷の西にあった。憲はいつもそこに通う学生たちを屋敷に招いて談論したが、そのたびに新しい見解を出し、人の意表を突いたので、名士の人々に一目置かれる存在となった。
 大同八年(542)に武帝が《孔子正言章句》を編纂した時、詔を国子学に下し、これを学ばせるよう命じた。憲はこの十四歳だったが、招かれて国子正言生とされた。この時、祭酒(国子学の校長)の到溉に謁見した。帰る際、溉はその姿を〔いつまでも〕見送って、その優れた容姿と心根を愛おしんだ。在学して一年が経った頃、国子博士の周弘正が憲の父の袁君正に言った。
「賢子に今年、策試(官吏登用試験の一つ。経義や政治、時事に関する問題を与えて意見を求めるもの。対策)に挑戦させてみる気は無いでしょうか?」
 君正は言った。
「まだ経義の理解が浅いので、挑戦させるつもりはありません。」
 数日後、君正は食客の岑文豪と憲を弘正に会わせた。この時、弘正はちょうど弟子たちを集めて講座に登ろうとしていた所だったので、憲を入室させて麈尾(払子。細長い木または象牙などの両横と上端に毛をはさんだもの。講師が威儀を整える目的で持った)を持たせ、憲に代わりに講義をさせた。この時、弘正はその場にいた謝岐何妥にこう言った。
「二賢は経義に精通しているが、きっとこの若年の者に恐れを抱く事になるだろう!」
 何・謝はそこで代わるがわる非常に難しい質問をぶつけてみたが、憲は全てに流れるように答えてみせた。弘正は妥に言った。
「もっと自由に質問せよ。相手が童子だからといって手加減する必要は無いぞ。」
 この時、講堂には学生たちが満員で、足の踏み場もない有り様だったが、憲は臆することなく泰然自若とし、その弁論には余裕が感じられた。弘正も何度も論難してみたが、とうとう論破することができなかったので、岑文豪にこう言った。
「卿は帰ったら袁呉郡(君正)にこう言うといい。『この若君は既に博士に取って代われる才能を備えています』と。」
〔そこで君正は憲に策試を受けさせる事にした。〕
 当時、生徒が策試を受ける時は、試験官に賄賂を贈るのが習慣となっていた。文豪が賄賂を持っていくよう求めると、君正は言った。
「私がどうして銭で子の合格を買ったりしようか!」
〔果たして〕試験官たちは機嫌を悪くし、試験の際、競って席を立って激しく論難したが、憲はまたしても流れるように答えてみせた。到溉は憲に言った。
袁君正どのは立派な跡継ぎを得た。」
〔試験が終わり、〕君正が呉郡に帰ると、溉は征虜亭にて道祖神を祀って道中の安全を祈り、送別の宴を開いてた。この時、君正にこう言った。
「昨年の受験生の蕭敏孫・徐孝克憲より2歳年上はどちらも経義は解しておりましたが、風格や度量に関しては賢子に遠く及びません。」
 間もなく高第(成績優秀者)に名前を挙げられた。のち貴公子を以て太子綱のちの簡文帝)の娘の南沙公主の婿に選ばれた。
〔中〕大同元年(546)に出仕して秘書郎とされ、太清二年(548)に太子舍人とされた。
 侯景の乱が起こると(548年)〔兄の枢と共に〕東方の呉郡にいる父を頼り、間もなく父の死に遭うと、礼の規定以上に嘆き悲しみ、痩せ細った。
 敬帝が皇帝権を代行すると(554年)、建康に呼ばれて尚書殿中郎とされた。陳覇先が丞相となると(556年)、司徒戸曹とされた。
 今年、中書侍郎とされた。

○陳24袁憲伝
 袁憲,字德章,尚書左僕射樞之弟也。幼聰敏,好學,有雅量。梁武帝修建庠序,別開五館,其一館在憲宅西,憲常招引諸生,與之談論,每有新議,出人意表,同輩咸嗟服焉。大同八年,武帝撰《孔子正言章句》,詔下國學,宣制旨義。憲時年十四,被召為國子《正言》生,謁祭酒到溉,溉目而送之,愛其神彩。在學一歲,國子博士周弘正謂憲父君正曰:「賢子今茲欲策試不?」君正曰:「經義猶淺,未敢令試。」居數日,君正遣門下客岑文豪與憲候弘正,會弘正將登講坐,弟子畢集,乃延憲入室,授以麈尾,令憲樹義。時謝岐、何妥在坐,弘正謂曰:「二賢雖窮奧賾,得無憚此後生耶!」何、謝於是遞起義端,深極理致,憲與往復數番,酬對閑敏。弘正謂妥曰:「恣卿所問,勿以童稚相期。」時學眾滿堂,觀者重沓,而憲神色自若,辯論有餘。弘正請起數難,終不能屈,因告文豪曰:「卿還咨袁吳郡,此郎已堪見代為博士矣。」時生徒對策,多行賄賂,文豪請具束脩,君正曰:「我豈能用錢為兒買第耶?」學司銜之。及憲試,爭起劇難,憲隨問抗答,剖析如流,到溉顧憲曰:「袁君正其有後矣。」及君正將之吳郡,溉祖道於征虜亭,謂君正曰:「昨策生蕭敏孫、徐孝克,非不解義,至於風神器局,去賢子遠矣。」尋舉高第。以貴公子選尚南沙公主,即梁簡文之女也。大同元年,釋褐秘書郎。太清二年,遷太子舍人。侯景寇逆,憲東之吳郡,尋丁父憂,哀毀過禮。敬帝承制,徵授尚書殿中郎。高祖作相,除司徒戶曹。永定元年,授中書侍郎。

 ⑴袁君正…梁の司空の袁昂の子。梁の呉郡太守。容貌麗しく、立ち居振る舞いも立派だった。ただ臆病な性格で、侯景が建康を陥としたのち呉郡に攻めてくると、配下の諌めも聞かずに降伏した。間もなく後悔して病気となって死んだ。549年(3)参照。
 ⑵袁枢…字は践言。生年517、時に41歳。名門陳郡袁氏の出身で、梁の呉郡太守の袁君正の子。美男子で、物静かな性格をしており、読書を好み、片時も本を手離さなかった。質素な生活を送り、交際をせず、無欲恬淡としていた。王僧弁が侯景を討って建康を鎮守すると、貴族たちが争ってご機嫌伺いに行く中、一人家に閉じこもり、出世を求めなかった。陳覇先が僧弁を討って実権を握ると兼侍中とされ、556年、兼吏部尚書→呉興太守とされた。552年(2)参照。
 ⑶到溉…字は茂灌。477~548。彭城武原の人。母は魏氏。絵に描いたような色白の美男で、美髯・八尺(196cm)の長身。立ち居振る舞いに華があった。清廉潔白でつましい生活を送り、音楽や女色を好まなかった。若年の頃に父を亡くし貧しい生活を送った。頭が良く学識もあった。御史中丞・都官・左戸二尚書を歴任し、539年に吏部尚書とされた。のち国子祭酒とされると、武帝の編纂した《孔子正言章句》を学校に置いて正言助教二人・学生二十人を置くことを求めて許された。帝と非常に仲が良く、よく一緒に碁を打った。朱异・劉之遴・張綰と親しく交際した。のち失明し、548年に死去した。
 ⑷周弘正…字は思行。生年496、時に62歳。博識の大学者で、国子博士などを務めた。武帝が侯景を梁に引き入れた際、戦乱が起こることを予言した。のち、元帝に都を建康に戻すよう勧めた。江陵が西魏に攻められると、包囲をかいくぐって建康に逃走した。のち大司馬の王僧弁長史・行揚州事とされ、556年に侍中・國子祭酒→太常卿・都官尚書とされた。陳が建国されると太子詹事とされた。555年(1)参照。
 ⑸謝岐…名門・会稽謝氏の出。若年の頃から頭の回転が速く、学問を好み、高い評判を得た。梁に仕えて尚書金部郎・山陰令とされ、侯景の乱が起こると東陽に避難した。乱が平定されると張彪を頼り、彪が呉郡および会稽を治めた際、諸々の事務を一任され、彪が征討に出かけるたびに留守を任された。彪が敗れると陳覇先に用いられて兼尚書右丞とされた。この時、戦争が何度も繰り返された事で兵糧がよく欠乏したが、岐がそのつど何とかしてみせたので、非常に信任されるようになった。557年、給事黄門侍郎・中書舍人とされ、兼右丞はそのままとされた。556年(1)参照。
 ⑹何妥…字は栖鳳。西域の人。父は梁の武陵王紀に仕え巨万の富を築き、『西州大賈(西域の大商人)』と呼ばれた何細胡(北史では『何細脚胡』)。若年の頃から頭が良く、八歲の時に国子学に赴いて勉強した。のち学問の造詣の深さを認められて湘東王繹(のちの元帝)に仕え、書籍の朗読を任された。同じく俊才の蕭眘と「世に両俊あり。白楊の何妥に、青楊の蕭眘」と並び称された。江陵が陥ちると(554年)長安に連行された。
 ⑺徐孝克…生年527、時に31歳。

●中書省の権勢
 帝は即位すると、給事黄門侍郎・兼掌相府記室の蔡景歷時に39歳を秘書監・兼中書通事舍人とし、詔誥(皇帝の命令書・告諭書)の作製を司らせた《陳16蔡景歷伝》
 陳の政治はみな中書省の手によった。中書省には舍人五人、領主事十人、書吏二百人がおり、書吏が不足すれば助書から選抜した。中書省には二十一局が置かれ、それぞれ尚書省の諸曹の上司となり、尚書省はただ中書省の決定を追認するだけの存在に成り果てた。中書に任命された者は大体権勢をほしいままにした《隋書百官志》

 蔡景歴、字は茂世は、済陽郡考城県の人である。幼い頃から賢く、よく孝行をした。家は貧しかったが学問に励み、巧みな字と文章を書くようになった。仕官して諸王府佐となり、のち海陽令となって能吏の評判を得た。侯景の乱が起こり、梁の簡文帝が景に幽閉されると、南康王会理と共に簡文帝を連れて逃げることを謀った(550年〈5〉参照)が、事前に露見して捕らえられた。しかし賊党の王偉侯景の軍師)の口利きによって助かることができた。のち京口(南徐州)に寓居した。
 侯景の乱が平定された時(552年)、武帝は朱方(京口)の鎮守を任された。その時、帝はかねてより評判を聞いていた景歴に書簡を送って配下となるよう誘った。景歴は使者から書簡を渡されるとその返書を一気呵成に書き上げた。帝はその書の内容に非常に感嘆し、すぐさま返書を送って、即日、征北府中記室参軍とし、のち〔掌府〕記室とした。
 帝の第六子の陳昌が呉興太守とされた時(552年)、帝は昌が年少(時に16歳)〔で分別が無いことから〕、故郷の父老や友人に無礼を働くのではないかと心配し、景歴を派してその補佐をさせた。
 帝が王僧弁を襲殺しようとした時、その計画を事前に知らせたのは侯安都ら数人のみだけで、景歴には知らせなかった。全ての準備が整ったのち、帝は〔ようやく景歴に計画を伝えて〕檄文を起草させたが、景歴は〔いきなりのことに慌てることなく、〕あっという間に文章を書き上げた。その文章は人の心を動かすに足るもので、内容は全て帝の意にかなっていた。紹泰元年(555)に給事黄門侍郎・兼掌相府記室とされた《陳16蔡景歷伝》

 また、この時、呉郡太守の裴忌を中央に呼び戻して左衛将軍とし(陳25裴忌伝)、駙馬都尉の沈君理を代わりに呉郡太守とした。
 この時、江南の戦乱はまだ収まらず、人民は疲弊し、陳の領内で収入が期待できるのは、ただ東境(呉・会稽の地)のみだった。君理は呉郡太守となると軍備を整え、住民を懐け、能吏としての評判を得た。

 沈君理は字を仲倫といい、呉興(武帝の故郷)の人である。祖父の沈僧畟は梁の左民尚書となった。父の沈巡は武帝と親交があり、梁の太清年間(547~549)に東陽太守とされた。侯景の乱が平定されると(552年)、江陵に召されて少府卿とされた。江陵が西魏に陥とされると(554年)、後梁に仕え、金紫光禄大夫とされた。
 君理は風貌が美しく、読書家で、鑑識眼があった。初官は湘東王法曹参軍。武帝が南徐州を鎮守した時、父の巡の命によって東陽より帝のもとに赴いた。帝はその才能を見抜き、娘(会稽長公主)を娶らせ、府西曹掾とした。のち、次第に昇進して中衛豫章王従事中郎となり、間もなく明威将軍を加えられ、兼尚書吏部侍郎とされた。のち、給事黄門侍郎・監呉郡とされた。帝が即位すると、駙馬都尉とされ、永安亭侯に封じられた《陳23沈君理伝》

 丙子(11日)、武帝が鍾山に赴き、蒋帝廟を祀った《陳武帝紀》

 己卯(14日)、北周が大将軍・昌平公の尉遅綱を柱国大将軍とした《周明帝紀》

 庚辰(15日)、武帝が杜姥宅より仏牙(ブッダの歯)を取り出し、無遮大会を開いた。帝は宮門の前に出て膜拜(跪き、額の前で両手を合わせる礼)〈出典不明〉を行なった。

 ⑴蔡景歷...侯瑱の説得に赴き、降伏させた。556年(4)参照。
 ⑵陳昌...字は敬業。覇先の世子。時に21歳。江陵が陥落した際に関中に連行された。555年(3)参照。
 ⑶裴忌...字は無畏。生年521、時に37歳。名将裴邃の兄の孫。幼い頃より聡明で度量があり、史書に通暁していた。陳覇先に仕え、555年に覇先がクーデターを起こして王僧弁を殺害し、僧弁の弟の王僧智が呉郡に挙兵すると、これを奇襲して陥とし、呉郡太守とされた。去年、北斉軍に対するために梁山の守備に就いた。556年(2)参照。
 ⑷蒋帝廟...蒋子文を祀る廟。蒋子文は後漢、広陵の人。秣陵尉となった。鍾山中に賊を追った時、額に傷を負って死んだ。生前、子文は酒色を好み、事あるごとに自分の骨相が貴く、死ねば神になると吹聴していた。孫権が皇帝となると建業に現れ、神として祀らないと災いを起こすと脅した。権がこれを無視すると、その都度災異が起こったので、遂に子文を中都侯に封じて廟を立て、鍾山を蒋山に改めた。
 ⑸尉遅綱...字は婆羅。生年517、時に41歳。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍→中領軍となって西魏の廃帝や趙貴・独孤信・孝閔王の企みを阻止した。今年、小司馬とされた。557年(3)参照。

●章要児
 辛巳(16日)、父の陳文讃を景帝と諡し、廟号を太祖とした。また、母の董氏を安皇后と諡し、前夫人の銭氏を昭皇后、世子の陳克を孝懐太子と諡した。
 また、夫人の章氏時に52歳)を皇后とした《陳武帝紀》

 章后は諱を要児といい、呉興郡烏程県の人である。本姓は鈕といったが、父の景明が章氏の養子となったので章になったのである。景明は散騎侍郎にまで昇った。
 母の蘇氏は章后を産む前、ある道士から五色に光る小亀を渡され、こう言われた。
「三年後に霊験を起こそう。」
 約束の年、蘇氏は后を産んだ。その時、紫色の光が部屋中を照らし出した。それっきり、亀は行方知れずとなった。
 后は知性と美貌を兼ね備え、手の爪の長さが五寸(約10cm)もあり、みな綺麗な桃色をしていた。家族が亡くなる前、決まってそのうちの一つが湾曲した。覇先は先に同郡の銭仲方の娘を娶っていたが、早くに亡くなり、そこで新たに后を娶った。后は読み書き・計算が達者で、詩経と楚辞を暗誦することができた。
 覇先が広州より交阯の討伐に向かうと、后は子の陳昌と共に陳蒨陳14衡陽献王伝では『沈恪』とある)に従って海路より長城県に帰った。侯景の乱が起こり、覇先が豫章に到った際、后は景に捕らえられた。乱が平定され、覇先が長城県公に封じられると、后は夫人とされた《高祖章皇后伝》

 癸未(18日)、景帝の墓を瑞陵、昭皇后の墓を嘉陵と名付けた。
 また、刪定郎[1]を置き、律令を整備させた。
 辛卯(26日)、中権将軍・開府儀同三司・丹陽尹の王沖を左光禄大夫とした《陳武帝紀》

 ⑴陳蒨...字は子華。覇先の兄の陳道談の長子。時に31歳(建康実録)。幼少の頃より沈着明晰で、優れた見識と度量を有した。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派で、どんな時でも必ず礼法に遵じた行ないをした。覇先が王僧弁の討伐に赴くと、長城県の守備を任され、杜龕軍の攻撃を数旬に渡って凌いだ。のち、東方の制圧に成功し、会稽等十郡諸軍事・会稽太守とされた。556年(2)参照。
 [1]刪定郎...晋・宋以来、多くこれを置いた。
 ⑵王沖...字は長深。生年492、時に66歳。名門王氏の出。母は梁の武帝の妹。早くに孤児となり、梁の武帝に手厚い養育を受けた。温和で人に逆らわず、音楽や歌舞に通じ、人付き合いが良かったので社交界で好評を博した。また、法律に通じ、公平な政治を行なった。南郡太守を務め、梁の湘東王繹(元帝)が荊州刺史となるとその鎮西長史を兼ねた。侯景の乱が起こると南郡太守の座を王僧弁に譲り、更に女妓十人を繹に献じて軍賞の助けとした。のち衡州刺史→行湘州事・長沙内史とされ、陸納が湘州にて乱を起こすと捕らえられたが、納が降ると解放された。556年(4)参照。
 
●沌口の決戦


 これより前(陳武帝紀では8月、通鑑では6月11日の事とする)、武帝(陳覇先)は〔鎮北将軍(三階)・開府儀同三司・南徐州刺史の〕侯安都を西道都督、〔鎮南将軍(三階)・開府儀同三司・都督江広衡交等州諸軍事・江州刺史の〕周文育を南道都督とし、二万の水軍を率いて(二万...出典不明)武昌(郢州の東)に合流し、連合して王琳を討つように命じていた《陳8周文育伝》
 覇先は二将にこう言った。
「王琳は叛乱を企むこと久しく、何年にも渡って兵を訓練し続けてきたゆえ、そのもとには屈強な者たちばかりが揃っている。決して侮るでないぞ。」
 しかし二人は「琳などどうせ〔蕭勃と同じような〕梁の残党の一人に過ぎず、討つのは掌を返すように容易い」と考えていたため、覇先の言葉を全く意に介さなかった《南史演義》。
 出発する際、安都は新林にて百官総出の華々しい見送りを受けた。安都が見送りを受けつつ、馬に鞭を当てて橋を渡ろうとした時、誤って人馬もろとも水中に落ちてしまった。また、大艦の中でも、櫓井(井楼〈見張り台〉?)より落ちてしまった。人々はこれを不吉だとした。
 安都が武昌に到ると、王琳の部将の樊猛は城を捨てて逃走した。安都はこの勝利にますます驕りの色を深くした(南史演義)。この時、周文育が安都の軍に合流した(豫章の留守は部下の陸山才を監江州事として任せた)。両将はどちらとも対等な立場にあったので、主導権を争い合い、次第に確執が生じた。
 郢州(江夏)に到ると、琳の部将〔で監郢州事〕の潘純陁強弓・硬矢を用いて(南北史演義)城内より遠射してきた。これにより、安都の前衛の步兵の多くが傷ついた(南北史演義)。安都は怒り、兵を進めてこれを包囲した。すると裨将の周鉄虎が言った。
「堅城を攻めるのはよくありません。〔救援に来ている〕王琳を破れば、郢城は自然と屈するはず。ゆえに、王琳を先に討つべきであります。」
 安都はこれを聞き入れなかった(南史演義)。しかし数日に渡って攻め立てても、果たして城を陥とすことはできなかった。そうこうする内に王琳の大軍が弇口にやって来ると、安都はやむを得ず郢州の包囲を解き、沈泰に一軍を与えて漢曲(11)を守備させたのち(沈泰〜...出典不明)、ほぼ全軍を以て沌口(12)に進んだ。しかしそこで激しい向かい風に遭い、それ以上進めなくなった。琳は長江の東岸に拠り、安都は西岸に拠り、数日に渡って対峙した。
〔この時?〕、安都らのもとに陳が建国された報が届いた。安都はこれを聞くと嘆息して言った。
「これは負ける。大義名分が無くなってしまった!」[1]
 この月[2]、合戦が始まると、琳は平肩輿(肩に乗せて運ぶ輿)に乗り、鉞(まさかり)を持って兵を指揮した。安都らは大敗を喫し(13)、安都・文育および徐敬成(14)周鉄虎陳10周鉄虎伝)・程霊洗陳10程霊洗伝(15)らはことごとく琳の捕虜となった《陳8侯安都伝》。〔平北将軍(五階)の〕馬明(16)は力戦して戦死した《陳10馬明伝》沈泰は敗報を聞くと建康に逃げ帰った《出典不明》。安東将軍の呉明徹(17)はなんとか逃走するを得た《陳9呉明徹伝》
 琳が夜明けに本陣に帰ると、諸将はこぞって祝辞を述べた。琳は安都らを引見すると、こう言った。
「お前たちはみな無敵と豪語しておった。なのに、どうして今わしの捕虜となったのだ?」
 安都らは黙然として何も答えなかったが(南史演義)、ただ一人、鉄虎のみは語気激しく琳を罵った《陳10周鉄虎伝》。琳は鉄虎が恩に背いた(18)のも加味し、遂にこれを殺した《北斉32王琳伝》。安都・文育らは一本の長鎖に数珠繋ぎにして乗艦に監禁し、お気に入りの宦官の王子晋にその監視をさせた《陳8侯安都伝》。琳は本拠を湘州(長沙)から郢州城に遷し《北斉32王琳伝》樊猛に江州(湓城)を襲撃させ、これを占拠した《出典不明》武帝は敗報を聞くと非常に驚愕した(南史演義)。武帝が即位してから直ちに一軍が覆没するに至ったのは、天がその悪逆に怒り、戒めようとしたからであった(南北史演義)。
 武帝は王琳に捕らえられた諸将の子弟に手厚い待遇を与えた。
 文育の子の周宝安は日頃から素行が悪かったが、父が捕らえられた事を知ると直ちに更生し、書物を読み、士君子(教養人)と交遊するようになった。また、父の残した兵を良く統率した。員外散騎侍郎とされた。
 宝安(生年538、時に20歳)は字を安民といい、十余歳にして早くも騎射に習熟した。わがままなどら息子で、狩猟をしたり馬を乗り回したり、贅沢をしたりして楽しんだ。父が晋陵太守となると、征討に忙しい父の代わりに監知郡事となったが、不良少年を集めていっそう非行を働くようになったので、武帝の悩みの種となっていた。
 程霊洗の子の程文季は捕らえられた諸将の子弟の中で最も礼儀正しかったので、武帝に非常に称賛された。永定年間(557~559)に次第に昇進して通直散騎侍郎・句容(建康の東南)令となった。
 文季は字を少卿といい、幼少の頃から騎射に巧みで武略があり、果断な所は父によく似ていた。弱冠(二十歳)にして父の征討に従い、戦うたびに先んじて敵陣を陥とした。

 また、左衛将軍の徐世譜(19)に水戦の兵器の製造を一任した。世譜は頭の回転が速く、更にこれまでの水戦の兵器に知悉していたので、その作る兵器はみな良く合理化されており、当時の人々の考えの先を行っていた《陳13徐世譜伝》

 甲午(29日)、北周が柱国大将軍・陽平公の李遠を自死させた《周明帝紀》


 11月、丙申(1日)、陳が帝の兄(陳道談)の子で都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍(八階)・会稽太守の長城侯蒨を臨川王(二千戸)とし、陳頊(20)を始興王とした。また、弟の子の陳曇朗(21)を南康王とした(既に北斉に殺されていたのを知らなかったのである)。
 丙辰(21日)、鎮西将軍(三階)・南豫州刺史の徐度(22)を鎮右将軍(三階)・領軍将軍とした。
 庚申(25日)、建康で大火災が起こった《陳武帝紀》

 12月、庚辰(16日)、北周が大将軍の輔城公邕(23)を柱国大将軍とした(その後、559年までに蒲州諸軍事・蒲州〈河東〉刺史とされた《周明帝紀》
 この冬、北周で大旱魃が起こった《隋天文志》

○資治通鑑
 侯安都至武昌,王琳將樊猛棄城走,周文育自豫章會之。安都聞上受禪,歎曰:「吾今茲必敗,戰無名矣!」【始者以王琳不應梁召而討之,猶是挾天子以令諸侯。今旣受梁禪,則安都之師為無名】時兩將俱行,不相統攝,部下交爭,稍不相平。軍至郢州,琳將潘純陀於城中遙射官軍,安都怒,進軍圍之;未克,而王琳至弇口【弇口,弇水入江之口,正對北岸大軍山】,安都乃釋郢州,悉衆詣沌口【沌,柱兗翻】,留沈泰一軍守漢曲【漢曲,漢水之曲】。安都遇風不得進,琳據東岸,安都據西岸,相持數日,乃合戰,安都等大敗【《考異》曰:《典略》云:「乙亥,安都敗。」《陳書》云是月敗績。按高祖以乙亥受禪,安都聞之而歎,豈同日乎!今從《陳書》】。安都、文育及裨將徐敬成、周鐵虎、程靈洗皆為琳所擒,沈泰引軍奔歸。琳引見諸將與語,周鐵虎辭氣不屈,琳殺鐵虎而囚安都等,總以一長鏁繫之【鏁,蘇果翻】,置琳所坐䑽下【䑽,音榻,大船也】,令所親宦者王子晉掌視之。琳乃移湘州軍府就郢城,又遣其將樊猛襲據江州。
○陳武帝紀
 是月,西討都督周文育、侯安都於郢州敗績,囚于王琳。十一月景申,詔曰:「東都齊國,義乃親賢,西漢城陽,事兼功烈。散騎常侍、使持節、都督會稽等十郡諸軍事、宣毅將軍、會稽太守長城縣侯蒨,學尚清優,神㝢凝正,文參禮樂,武定妖氛,心力謀猷,為家治國,擁旄作守,朞月有成,辟彼關河,功踰蕭、寇,萑蒲之盜,自反耕農,篁竹之豪,用稟聲朔。朕以虛寡,屬當興運,提彼三尺,賓于四門,王業艱難,賴乎此子,宜隆上爵,稱是元功。可封臨川郡王,邑二千戶。兄子梁中書侍郎頊襲封始興王,弟子梁中書侍郎曇朗襲封南康王,禮秩一同正王。」己亥,甘露降于鍾山松林,彌滿巖谷。庚子,開善寺沙門採之以獻,勑頒賜羣臣。景辰,以鎮西將軍、南豫州刺史徐度為鎮右將軍、領軍將軍。庚申,京師大火。十二月庚辰,皇后謁太廟。
○北斉32王琳伝
 陳武帝遣將侯安都、周文育等誅琳,仍受梁禪。安都歎曰:「我其敗乎,師無名矣。」逆戰於沌口,琳乘平肩輿,執鉞而麾之,禽安都、文育,其餘無所漏。唯以周鐵虎一人背恩,斬之。鎖安都、文育置琳所坐艦中,令一閹竪監守之。
○陳8周文育伝
 王琳擁據上流,詔命侯安都為西道都督,文育為南道都督,同會武昌。與王琳戰於沌口,為琳所執。
○陳8周宝安伝
 寶安字安民。年十餘歲,便習騎射,以貴公子驕蹇遊逸,好狗馬,樂馳騁,靡衣媮食。文育之為晉陵,以征討不遑之郡,令寶安監知郡事,尤聚惡少年,高祖患之。及文育西征敗績,縶於王琳,寶安便折節讀書,與士君子遊,綏御文育士卒,甚有威惠。除員外散騎侍郎。
○陳8侯安都伝
 仍率眾會於武昌,與周文育西討王琳。將發,王公已下餞於新林,安都躍馬渡橋,人馬俱墮水中,又坐䑽內墜於櫓井,時以為不祥。至武昌,琳將樊猛棄城走。文育亦自豫章至。時兩將俱行,不相統攝,因部下交爭,稍不平。軍至郢州,琳將潘純陁於城中遙射官軍,安都怒,進軍圍之,未能克。而王琳至于弇口,安都乃釋郢州,悉眾往沌口以禦之,遇風不得進。琳據東岸,官軍據西岸,相持數日,乃合戰,安都等敗績。安都與周文育、徐敬成並為琳所囚。琳總以一長鎖繫之,置于䑽下,令所親宦者王子晉掌視之。
○陳10程文季伝
 文季字少卿。幼習騎射,多幹略,果決有父風。弱冠從靈洗征討,必前登陷陣。靈洗與周文育、侯安都等敗於沌口,為王琳所執,高祖召陷賊諸將子弟厚遇之, 文季最有禮容,深為高祖所賞。永定中,累遷通直散騎侍郎、句容令。

 ⑴侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らし回り、幕府山南の決戦では別働隊を率いて北斉軍の後軍の横腹を突き、梁軍を大勝に導いた。557年(2)参照。
 ⑵周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行ない、北斉が侵攻してくるとその大破に大きく貢献した。蕭勃が挙兵するとその前軍を撃破し、勃を死に追い込んだ。557年(2)参照。
 ⑶王琳...字は子珩。時に32歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、去年、更に郢州に勢力を広げた。557年(2)参照。
 ⑷新林...《読史方輿紀要》曰く、『新林浦は応天府(建康)の西南十八里にあり、長江の傍にあり、大勝河(朱元璋命名)が流れ込む地にある。新林港ともいう。新林浦は梁の武帝が新亭より運河を掘って新林浦と繋げ、更に新林浦の西に大道を造り、〔その先に〕江潭苑を建てたが、完成する前に侯景の乱が起こった。今(明)、府の西南十五里に新林橋がある。』
 ⑸樊猛...字は智武。建康が包囲されると救援に赴き、青溪の戦いにて活躍した(549年〈1〉参照)。天正帝が東下してくるとこれを迎え撃ち、自らその首を斬った(553年〈2〉参照)。その後、蜀東部に兵を進めてこれを平定した。554年(1)参照。
 ⑹陸山才...字は孔章。時に49歳。幼少の頃から自立心が強く、書籍を愛好した。王僧弁→張彪→陳覇先に仕え、周文育が南豫州刺史となるとその長史とされ、政治の一切を取り仕切った。文育が蕭勃の討伐に向かうと、多くの献策を行ない、その勝利に貢献した。557年(1)参照。
 ⑺潘純陁...侯平と共に後梁を攻め、のち監郢州事とされた。556年(5)参照。
 ⑻周鉄虎...どすの利いた声と並外れた筋力を有し、馬上槍の扱いに長けた。もと河東王誉配下の猛将で、誉が滅ぼされると僧弁に降った。のち、僧弁の指揮のもと、侯景の猛将の宋子仙を捕らえるなど数々の戦功を挙げた。僧弁が死ぬと覇先に降り、北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らした。556年(1)参照。
 ⑼弇口...《読史方輿紀要》曰く、『弇水が長江に流れ込む地のこと。長江の南岸にある。対岸に大軍山がある。』『大軍山は武昌府(江夏)の西南六十里にある。』
 ⑽沈泰...東揚州に割拠していた張彪の司馬。覇先に寝返り、彪を死に追い込んだ。556年(2)参照。
 (11)漢曲...《読史方輿紀要》曰く、『胡氏曰く、漢水が長江に流れ込む所を、漢曲という。』
 (12)沌口...《読史方輿紀要》曰く、『武昌府の西南四十里にある。』
 [1]大義名分が無くなってしまった...陳覇先が王琳に兵を向けた時、覇先にはまだ『敬帝の召還命令に応じなかった叛臣の琳を討つ』という名分があった。しかし、禅譲を受けた今では、その名分が無くなってしまったのである。〔むしろ、王琳の方に『帝位を簒奪した逆賊を討つ』という名分を与えてしまった。覇先の即位は、まったくタイミングの悪い失策であった。55歳という高齢に焦ったのかもしれないが、その挙は殆ど侯景のそれと似る野蛮なものがあった。一つ間違えば、覇先は侯景と同じ運命を辿ることになったのである。〕
 [2]この月...考異曰く、『典略には「乙亥,安都敗。」とある。陳武帝紀はこの月大敗したとある。思うに、武帝は乙亥の日に禅を受けたのであって、その日の内に報が届いて安都が嘆くわけが無い。よって、今は陳武帝紀の記述に従った。』〔安都が嘆いたのは単なる風説にしか過ぎない(推定)。ゆえに、この論はあまり説得力が無い。〕
 (13)《南史演義》曰く、『琳は諸将にこう言った。「彼奴らは非常に驕り高ぶっているゆえ、警戒をしていないはずだ。奇襲して破ることができるぞ。」かくて老弱を陣地の守備に充て、夜、密かに精兵を率いて長江を下り、上陸して安都らの陣地の背後に出た。そしてその熟睡している頃を見計らって一気に攻めかかった。安都らは果たして警戒しておらず、驚いて目を醒ました時には陣地は既に琳軍の蹂躙下にあった。安都らの兵士はみな狼狽して逃走し、逃げ遅れた者はみな斬り殺された。安都・文育らは勇猛であったが、四方を隙間なく囲まれ、麾下の兵士たちも殆ど死傷したとあっては、もはやどうすることもできなかった。』
 《南北史演義》曰く、『両軍が艦船を並べてまさに一戦交じえようとした時、突如激しい東風が吹き荒れ、発生した高波が西岸にいた安都らの船に襲いかかった。安都らの船の帆や檣楼(見張り台)は折れ、舵は壊れて動きが一定しなくなった。一方、琳は追い風に乗って猛攻を仕掛けることができた。』
 (14)徐敬成...徐度の子。幼い頃から聡明で読書を好み、当意即妙な受け答えができた。文人と交流し、人を見る目に優れていることで評判となった。今年、父の兵を率いて王琳討伐軍に加わった。
 (15)程霊洗...字は玄滌。時に44歳。新安にて粘り強く侯景に抵抗した。江陵が包囲されると、侯瑱の指揮のもとその救援に向かったが、間に合わなかった。王僧弁が陳覇先の襲撃に遭うとその救出に向かったが敗退し、降伏した。のち、采石の鎮守を任された。555年(2)参照。
 (16)馬明...字は世朗。鄱陽王範に仕え、侯景の乱が起こると廬江の東境に拠ってこれを防いだ。のち、元帝に平北将軍・北兗州刺史・兼廬江太守とされ、江陵が陥ちると陳覇先に付いた。
 (17)呉明徹...字は通炤。時に45歳。周弘正に天文・孤虚・遁甲の奥義を学んだ。幕府山南の決戦の勝利に大きく貢献した。556年(2)参照。
 (18)恩に背いた...詳細は不明。鉄虎はむかし王僧弁に命を助けられたことがあったが、今、その恩人を殺した陳覇先に従っていた。
 (19)徐世譜...字は興宗。水戦に長じ、赤亭湖にて侯景の将・任約の水軍を大破した。のち、侯瑱の指揮のもと郢州攻撃に参加した。555年(1)参照。
 (20)陳頊...字は紹世。長城侯蒨の弟。時に28歳。552年に江陵に送られ、のち江陵が陥落すると西魏によって関中に拉致された。552年(4)参照。
 (21)陳曇朗...覇先の同母弟の陳休先の子。幼い頃に父が亡くなると覇先に引き取られ、溺愛を受けた。胆力があり、兵の統率を得意とした。東方光が宿豫にて北斉に叛き、梁に付くとその救援に赴いた。去年、覇先が王僧弁を討ちに赴くと京口の留守を任された。のち、人質として北斉に送られ、覇先が北斉の将軍たちを殺害すると報復として殺された。556年(2)参照。
 (22)徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好んだ。始興の諸山洞を討って以降、驍勇なことで世に知られるようになり、覇先から丁重な招きを受けてその配下となった。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。今年、北斉領に侵攻して合肥を攻めた。557年(2)参照。
 (23)輔城公邕...宇文邕。字は禰羅突。宇文泰の第四子。生年543、時に15歳。557年(1)参照。

 
 557年(4)に続く