●宇文覚の嗣位
 丙子(10月5日)、安定世子の宇文覚宇文泰の後を継いで太師・柱国・大冢宰・安定公となり、同州(もと華州。長安の東にある)の鎮守に赴いた[1]。時に十五歳だった。

 宇文覚は字を陁羅尼といい、泰の第三子である。母は拓跋氏元氏。大統八年(542)に華州の官舍にて産まれた。九歲の時(550)、略陽郡公に封じられた。ある時、〔南朝出身?で〕有名な人相見の史元華が覚に会った。元華は退出すると、親しい者にこう言った。
「彼の公子はこの上なく貴い相を備えている。ただ惜しいことに、寿命が短い。」
 今年の3月に泰の後継者に指名され、4月に大将軍とされた。

○資治通鑑
 丙子,世子覺嗣位,為太師、柱國、大冢宰,出鎭同州,時年十五。
○周孝閔紀
 孝閔皇帝諱覺,字陁羅尼,太祖第三子也。母曰元皇后。大統八年,生於同州官舍。九歲,封略陽郡公。時有善相者史元華見帝,退謂所親曰:「此公子有至貴之相,但恨其壽不足以稱之耳。」魏恭帝三年三月,命為安定公世子。四月,拜大將軍。十月乙亥,太祖崩,丙子,嗣位太師、大冢宰。

 ⑴宇文覚...字は陁羅尼。宇文泰の第三子。母は元氏。生年542、時に15歳。有名な人相見に「この上なく貴い相を備えているが、寿命が短い。」と評された。今年の3月に宇文泰の後継者に指名された。556年(2)参照。
 [1]宇文泰は大体、同州(華州)にて政治を輔佐した。同州を選んだのは、彼の地が潼関と黄河を押さえる要地にあり、北斉が侵攻してきてもすぐに対応できる地にあったからである。
 ⑵元氏...北魏の孝武帝の妹。馮翊長公主。551年に亡くなった。

●諸公、護に従う
 大将軍・小司空・中山公の宇文護は泰の遺託を受けたとはいえ、名声・地位ともに諸公より劣っていた。そのため、諸公は護に従わず、自分たちが政治を見ようとした。護が柱国大将軍・大司寇・常山郡公の万紐于謹于謹に密かに助けを求めると、謹はこう言った。
「私は早くから丞相に目をかけられ、家族に等しい恩義を受けました。〔その御恩返しをするのは今です。どうぞこの于謹にお任せあれ。〕命懸けで事態を収拾してみせましょう。もし諸公が政策を決定してきても、絶対に譲歩してはなりませんぞ。」
 翌日、諸公が会議を開いた。〔太保・柱国大将軍・大宗伯・南陽郡公の〕乙弗貴趙貴が言った。
「丞相亡き今、代わりの宰相を決めねばならぬ。 個人的には、自分が適任だと思っているのだが。」
 人々が口を噤んだ時(北史演義)、謹がこう言った。
「昔、我が朝は高歓に圧迫され、危機に瀕しておりました。しかし、丞相が救国の大志を抱き、自ら身をなげうって戦われたため、中興を得ることができたのです。人民が安寧を得たのも、また丞相のおかげでありました。しかし、今、上天が災いを降し、その丞相を突然を我らから奪ってしまいました。残された跡継ぎは幼く、誰かの輔佐が必須であります。中山公は丞相の兄の子であり、しかも丞相の遺託を受けています。国家の大事は、道理から言って、中山公に託すのが当然でしょう。」
 その声音・顔色は激しく、一座の者はみな竦み上がった。すると護が言った。
「これはそもそも宇文家の問題だ。私は愚鈍だが、辞退する気は毛頭無い。」
 元来、謹は泰と〔建前上〕同輩の身分であったため、護は常に謹に丁重な礼を執っていた。しかしここにいたり、逆に謹が護に小走りの礼を執って前に進み出、こう言った。
「公が国家を統御なされるなら、謹らは直ちに命に服します。」
 そして再拝の礼を執った。諸公も謹に押される形で護に再拝の礼を執った。ここにおいて護の権威は定まった《周15于謹伝》
 当時、西魏の人々は、強敵が存在している中で幼い覚が跡を継いだ事に不安を覚えた。しかし、護が後見人となり、文武百官を安撫すると、人心は落ち着きを取り戻した。
 これより前、宇文泰はよくこう言っていた。
「わしには胡人の加護がある。」
 その時は何の事を言っているのか分からなかったが、ここに至って、人々はそれが護の字を指していたことに気付いた。護は間もなく柱国大将軍の位に就いた《周11晋蕩公護伝》

 これより前、梁の豊城侯泰王琳に郢州を譲って去った後、陳覇先に侍中に任じられ、招聘を受けた。しかし泰は覇先を疑ってこれに応じなかった。
 11月、辛丑(1日)出典不明〉、泰が北斉に亡命した。北斉は泰を車騎大将軍・散騎常侍とし、間もなく永州刺史とした《周42蕭世怡伝》
 また、王琳を司空として朝廷に呼んだが、琳はこれを断って行かず、部将の潘純陁を監郢州事とし、長沙(湘州)に帰還した。
 西魏が琳に妻子を返した《出典不明》

○周11晋蕩公護伝
 時嗣子冲弱,彊寇在近,人情不安。護綱紀內外,撫循文武,於是眾心乃定。先是,太祖常云「我得胡力」。當時莫曉其旨,至是,人以護字當之。尋拜柱國。
○周15于謹伝
 及太祖崩,孝閔帝尚幼,中山公護雖受顧命,而名位素下,羣公各圖執政,莫相率服。護深憂之,密訪於謹。謹曰:「夙蒙丞相殊睠,情深骨肉。今日之事,必以死爭之。若對眾定策,公必不得辭讓。」明日,羣公會議。謹曰:「昔帝室傾危,人圖問鼎。丞相志在匡救,投袂荷戈,故得國祚中興,羣生遂性。今上天降禍,奄棄庶寮。嗣子雖幼,而中山公親則猶子,兼受顧託,軍國之事,理須歸之。」辭色抗厲,眾皆悚動。護曰:「此是家事,素雖庸昧,何敢有辭。」謹既太祖等夷,護每申禮敬。至是,謹乃趨而言曰:「公若統理軍國,謹等便有所依。」遂再拜。羣公迫於謹,亦再拜,因是眾議始定。
○北史演義
 次日,群公會議。太傅趙貴對眾曰:「丞相亡,誰主天下事?蓋陰以自命也。」眾莫發言。
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 ⑴万紐于謹(于謹)…字は思敬。時に64歳。姓を元の万紐于氏に復した。冷静沈着の名将。梁の首都の江陵を陥とした。556年(1)参照。
 ⑵乙弗貴(趙貴)…字は元貴(または元宝)。乙弗の姓を賜った。宇文泰の雄飛に非常な貢献をした。戦いではよく敗北した。556年(1)参照。
 ⑶護の字は薩保。薩保は胡人(西方人)の管理者、或いはゾロアスター教の司祭の意。
 ⑷永州...隋書地理志曰く、『汝南郡(豫州)城陽県(汝南郡の西南)に北魏は城陽郡を、梁は楚州を、東魏は西楚州を、北斉は永州を置いた。
 ⑸潘純陁...侯平と共に後梁を攻めた。555年(3)参照。

●州郡県の整理
 壬子(12日)文宣帝が詔を下して言った。
「魏の末に、多くの豪傑が人々を糾合して郷里に拠り、〔朝廷が苦しんでいるのを〕利用して該地を州郡としてもらった。その結果、州郡は乱立し、官民ともに費用が嵩むようになり、〔長い戦乱によって〕人口は昔より減少したのに、郡県の長官の数は倍増する有り様となった。また、帰順を促すために、前の所属では州だったと言われれば確認もせずに州にしたため、百戸の村でも州とされ、三戸の村でも郡とされる結果となった。ゆえに今、州郡の名と実際を照らし合わせ、実態と乖離した物を廃することにする。」
 かくて三州と百五十三郡[1]・五百八十九県・三鎮・二十六戍を廃した《北斉文宣紀》

 この年、梁が江州(湓城)の四郡を割いて高州を置き[2]、明威将軍(十一階)の黄法氍を使持節・散騎常侍・都督高州諸軍事・信武将軍(十階)・高州刺史とし、巴山[3]⑵を鎮守させた《陳11黄法氍伝》

 12月、壬申(2日)、太尉・鎮南将軍(三階)の曲江侯勃を太保・驃騎将軍(一階)とした。また、左衛将軍の欧陽頠を安南将軍(四階)・衡州刺史とした《梁敬帝紀》

 [1]考異曰く、『北史には「百五十六郡」とある。今は北斉書の記述に従った。
 [2]四郡とは、思うに臨川・安成・豫寧・巴山の事であろう。南江州の西にあり、高い山と深い川を擁することから、高州と名付けたのだと思われる。
 ⑴黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。巴山新建の人。幼い頃から剽悍で度胸があり、文武に優れた。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里を守り、太守の賀詡が江州に下ると(追い出した?)監郡事とされた。のち、陳覇先の軍を助けた。550年(3)参照。
 [3]宋白曰く、梁の大同二年(535)に廬陵の興平・臨川の新建の二県を分けて西寧・巴山の二県を立て、その二県を合わせて巴山郡を立てた。巴山郡は撫州の崇仁県の巴山の北にある。
 ⑵隋書地形志曰く、『巴山郡は大豊・新安・ 巴山・新建・興平・豊城・西寧の七県を管轄した。隋は郡県ともに廃止し、崇仁県(豫章の南)を置いた。
 ⑶曲江侯勃...武帝の従父弟の子。侯景の乱後、広州に割拠した。555年(2)参照。
 ⑷欧陽頠...字は靖世。梁の名将蘭欽の親友。曲江侯勃の部下だが、一時仲が険悪になったことがある。554年(2)参照。

●宇文覚、周公となる
 甲申(14日)、西魏が宇文泰の亡骸を成陵(長安の東北)に埋葬し、文公と諡した《北史周文帝紀》
 埋葬が終わると、宇文護は天命が既に宇文氏に帰した事を以て、西魏の恭帝拓跋廓)のもとに人を派し、禅譲するよう示唆した《周11晋蕩公護伝》
 丁亥(17日)宇文覚を周公とし、岐陽[3]を封邑として与えた《周孝閔紀》
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 [1]岐陽は、扶風の地である。

●周迪の登場
 これより前、侯景の乱が起こった時、臨川(豫章の東南。治所は臨汝)民の周続は賊を討つという名目で郡中にて兵を挙げた。すると、臨川内史の始興王毅はこれに郡を譲って豫章に去った(賊を討つという〜...陳13周敷伝)。続の部将たちはみな郡の豪族の出で、勝手な振る舞いが目についた。そこで続が彼らの行動に厳しく制限を加えると、部将たちは逆恨みし、協力して続を殺害した。それから続の宗人の周迪を代わりに盟主とした。
 周迪は、臨川郡南城県(臨川郡の東南)の人である。山谷育ちで狩猟を生業とした。並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。侯景の乱が起こり、同族の周続が挙兵すると、郷里の人々と共にこれに加わり、戦うたびに軍中一の武勇を示した。
 迪は名家の出では無かったため、求心力が無かった。迪がそこで己に箔を付けるために、郡の名族の周敷に配下となってくれるよう頼み込むと、敷はこれに応じ、迪に丁重な礼をとった。すると、迪に従う者は次第に増えていった《陳35周迪伝》
 周敷は字を仲遠といい、臨川の豪族の出である。短躯痩身で、衣服の重さにも耐えられないような弱々しい体をしていたが、心の強さは誰にも負けなかった。男気のある性格で、財貨よりも仁義を重んじたため、郷里の非行少年から絶大な支持を得た。
 始興王毅が郡から追い出された時、続の部下たちは毅に危害を加えようとした。敷はこれを知ると、私兵を率いて毅を護衛し、無事豫章に送り届けた。この時、観寧侯永長楽侯基豊城侯泰らはさすらいの身となっていたが、敷が信義に厚いのを知ると、みなこれに身を寄せた。敷は彼らの窮状に同情し、丁重な礼をとって迎え入れ、手厚い援助をして西方(江陵)に送り出した。
 迪は臨川の工塘(臨汝の東南四十里)に城を築き、敷は臨川故郡城を鎮守した《陳13周敷伝》。元帝は迪を持節・通直散騎常侍・壮武将軍(十六階)・高州刺史(名ばかり)・臨汝県侯とし、敷を使持節・通直散騎常侍・信武将軍(十階)・寧州刺史(名ばかり)・西豊県侯とした(敷を〜...陳13周敷伝)。
 この年、梁は迪を臨川内史とした。間もなく、更に使持節・散騎常侍・信威将軍(九階)・衡州刺史・領臨川内史とした。
 侯景の乱が起こると、農民は〔生活が窮迫し、〕田畑を棄てて群盗となった。ただ、迪だけは農民に収奪を加えなかったばかりか、田畑を分け与えて耕作に勤しませたので、みな蓄えができた。政令は厳格で、税は期限内に必ず納めさせたが、他郡にて生活に窮乏した者はみな迪を頼った。迪は質素を好んで華美を嫌い、冬は短めの布の服を、夏は紫紗(紫色の薄絹)の腹掛けを身につけるだけで、足は常に裸足で、門外にて衛士が、室内にて踊り子が居並んでいても、迪は気にせずに黙々と藁で縄を作り、竹を裂いてヒゴを作った。〔かといってケチなわけではなく、〕財貨は惜しみなく施しに使った。彼の施しは、どれも公平で妥当であった。口数は少なく、〔一見不人情に見えたが、〕心根は誠実であったため、臨川の人々はみな彼に懐き従った《陳35周迪伝》
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 ⑴観寧侯永…武帝の甥の鄱陽王範の弟。豫章太守だったが、愚鈍で決断力に乏しく、軍主の文重に叛乱を起こされて江陵に逃れた。553年(2)参照。
 ⑵臨川故郡城...読史方輿紀要曰く、『臨川郡の治所は臨汝県に在ったが、南斉の時に南城(臨汝の東南百四十里)に移された。梁の時に再び臨汝県に移された。』『臨川城は一名を古城といい、撫州府の治所の西岸の赤岡にある。すなわち六朝の故郡城である。

●長城の完成

 これより前、北斉は西河〜総秦戍から海に至る三千余里に長城を築いていた
 この月、長城が完成した。長城には大体十里ごとに戍が設けられ、要害には州鎮が置かれたが、その数はおおよそ二十五箇所あった《北斉文宣紀》
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 ⑴西河...南朔州の西河の事である。
 ⑵総秦戍...読史方輿紀要曰く、『総秦戍は大同府の西北境にある。』根拠は不明。西河にあるのかもしれない。
 ⑶543年8月に文宣帝の父の高歓が馬陵戍から土隥に長城を築き、文宣帝が天保三年(552)10月に黄櫨嶺から社干戍に到る四百余里に長城を築き、三十六戍を置いた。更に去年の6月、幽州の北の下口より恒州に至る九百余里に長城を築いていた。
 
●氐族の乱
 この年、武興(興州。漢中の西)に住む氐族が叛乱を起こし、西魏の利州(晋寿。漢中の西南)を包囲した。鳳州固道(鳳州の治所。もと南岐州。漢中の西北)に住む氐族の魏天王らもこれに呼応して叛乱を起こした。西魏は大将軍の豆盧寧らにこれを討伐させ、平定した《周49氐伝》
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 ⑴周19豆盧寧伝では『魏大王』とある。
 ⑵豆盧寧...字は永安。前燕慕容氏の末裔で、八尺の長身の美男子。時に57歳。劉平伏・鄭五醜の乱を平定した。また、侯平の侵攻も撃退した。555年(3)参照。

●蜀、大いに動揺す

 宇文泰が薨去すると、始・利・沙・興、信・合・開・楚などの諸州にて叛乱が起こった。ただ、開府儀同三司・都督梁利等十二州白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史の崔猷の治める梁州(漢中)だけは静謐を保った《周35崔猷伝》
 蜀人の賈晃遷が叛乱を起こし、利州城を包囲(前述のものか?)すると、開府儀同三司・利州刺史の崔謙は直ちにこれに対応し、千余ばかりの兵を集めて防衛を行なった。崔猷は謙から援軍の要請を受けると六千の兵を送った(周35崔猷伝)。援兵が到着すると、晃遷は捕らえられ、余党は四散した。謙は渠帥(首魁)だけを処断し、他はみな赦した。すると十日の間に州内は落ち着きを取り戻した《周35崔謙伝》
 また、黔陽に住む蛮族の田烏度・田都唐らが長江にて盗賊行為を働き、交通を遮断した。信州(白帝)はこのとき回復したばかりで備蓄が無かったため、たちまち兵糧が不足した。白帝の鎮守を任されていた開府儀同三司の李遷哲は葛の根を砕いて葛粉を作り、米と共に兵に支給した。また、兵と同じ食事を摂り、珍味が手に入るとすぐさま分け与えた。また、病人が出れば自ら看病した。兵たちはこれに感激し、遷哲に力を尽くすことを誓った。崔猷は信州の兵糧が尽きたと聞くと、四千斛の米を送った(周35崔猷伝)。〔これに息を吹き返した〕遷哲は機を見て賊を討ち、非常に多くの首級・捕虜を得た。これ以降、蛮族はその武威を恐れ、各自食糧を献上してくるようになった。また、千余家が子弟を人質に送ってきた。遷哲は白帝城の外に城を築き、そこに人質を住まわせた。また、四鎮を置いて峽路を監視させた。以後、水賊はぴたりと鳴りを潜め、〔補給は順調に進み、〕兵糧は充足するようになった《周44李遷哲伝》
 利・信二州が助かったのは、実に崔猷の力によるものだった。猷は固安県公とされた。宇文護は猷を非常に重用し、猷の第三女を引き取って養女とし、富平公主とした《周35崔猷伝》

 崔謙は聡明で政術に通暁した。また、政務に精励し、訴訟が相次いでも全く疲れの色を見せなかった。官民はその姿勢に敬愛の念を抱いた《周35崔謙伝》
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 ⑴崔猷...字は宣猷。宇文氏の姓を賜った。北魏の吏部尚書の崔孝芬の子。高歓に父を殺され、関中に逃れた。孝武帝と会うと非常な悲しみようを見せ、帝に忠孝心を褒められた。宇文泰には『智略抜群で、臨機応変の才覚を有している』と絶賛された。王思政が潁川に鎮所に遷すのに反対した。また、漢中までの車路を整備した。554年(2)参照。
 ⑵崔謙...字は士遜。宇文氏の姓を賜った。荊州刺史となった賀抜勝をよく補佐した。534年(5)参照。
 ⑶黔陽...《読史方輿紀要》曰く、『辰州府(武陵の西南)の西北に黔陽城がある。孫呉が黔陽県を置き、武陵郡に属させた。梁代に廃された。』『彭水県は涪州(重慶府の東三百四十里にある)の東南三百四十里にあり、西晋の時には涪陵郡に属したが、永嘉以後、蛮族の手に帰した。保定四年(564)に北周の地となり、奉州が置かれた。間もなく、黔州に改められた。』信州の南の山地一帯のことであろう。
 ⑷李遷哲...字は孝彦。山南の豪族で、もと梁の東梁州刺史。西魏の侵攻を受けて降伏し、蜀東北部の攻略に活躍した。556年(1)参照。
 ⑸《北史》では『第二女』とある。

●荊州蛮の乱

 この年、西魏の荊州の蛮帥の文子栄が仁州刺史を自称し、汶陽郡にて叛乱を起こした。子栄は当陽・臨沮(共に汶陽郡の近南)など数県に侵攻した(汶陽郡にて〜...周44陽雄伝)。西魏は開府・金州刺史の賀若敦と開府の潘招にこれを討伐させた《周28賀若敦伝》
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 ⑴賀若敦...もと東魏の臣。537年に父の統と共に西魏に付いた。山南の叛乱の平定・蜀東北部,信州の攻略・信州の回復に活躍した。556年(1)参照。

●斛律光、西魏領を侵す
 北斉の晋州(平陽。長安と晋陽の中間にある)の東には、天柱・新安・牛頭という西魏の砦が三つあり、北斉の人々の投降を誘ったり、北斉領を攻めたりするための格好の拠点になっていた。
 この年、北斉の開府儀同三司・晋州刺史の斛律光が五千の兵を率いてこれを奇襲して陥とし、更に北周の儀同三司の王敬俊らの軍を大破し、五百余の捕虜と千余頭の家畜を得て帰った《北斉17斛律光伝》
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 ⑴斛律光...字は明月。時に42歳。斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、ある時一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれた。556年(3)参照。

●恭帝、禅譲を行なう
 周公の宇文覚は幼かったため、人心が安定しなかった。柱国大将軍の宇文護はそこで覚を早く帝位に即けることで動揺を鎮めようとした《出典不明》
 庚子(30日)、西魏の恭帝が詔を下して帝位を覚に譲った[1]。帝は大宗伯の趙貴に符節と詔書を、民部中大夫の済北公迪に皇帝の璽紱を持たせて覚に送ったが、覚は固辞した。百官が帝位に即くよう勧進を行ない、太史が瑞兆があることを述べると、覚は遂に禅譲を受けることを決めた《周孝閔紀》
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 [1]北魏は道武帝が東晋の太元二十一年(396)に皇始と改元して始まり、十二代後の孝武帝の時に東西に分裂した(534年)。その後、西魏の三代を経て、計十五代百六十年で滅んだ。


 557年(1)に続く