[北周:閔帝元年→明帝元年 北斉:天保八年 梁:太平二年→陳:永定元年 後梁:大定三年]



●合肥攻撃
 これより前、北斉は合州(合肥)刺史の封子絵を大使とし、艦船の建造を監督させていた《北斉21封子絵伝》
 庚午(2月1日)、梁の〔鎮右将軍(三階)・〕領軍将軍・〔南徐州縁江諸軍事〕の徐度が軽船を率いて柵口(濡須口)より東関(合肥の東南)を経て巣湖(合肥の南にある湖)に入り(北斉21封子絵伝)、北斉領を侵した。
 戊子(19日)の初更(19~20時)に、夜陰に紛れて合肥に到り、北斉の艦船三千艘を焼き払った《梁敬帝紀》
 子絵が将兵を率いて白兵戦を行なうと、陳軍は撤退した《北斉21封子絵伝》
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 ⑴封子絵...字は仲藻。高歓の挙兵に大きく貢献した封隆之の子。気遣いが上手く、器量があった。邙山の戦いで勝利した際、長安まで攻め込むことを主張したが聞き入れられなかった。高歓の臨終の際、山東の巡撫を託された。去年合州刺史とされると、直ちに防備を完璧なものとし、遠征軍の大敗によって動揺した州の人心を落ち着けた。556年(2)参照。
 ⑵徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好み、いつも召し使いに肉や酒の商いをさせた。始興の諸山洞を討って以降、驍勇なことで世に知られるようになり、覇先から丁重な招きを受けてその配下となった。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。556年(2)参照。

●高州保全
 歐陽頠が豫章の苦竹灘に、傅泰は蹠口城にそれぞれ駐屯した。余孝頃は弟の余孝励に郡城の留守を任せ、豫章の石頭に拠り、蕭孜の軍と合流した《陳8周文育伝》

 巴山太守の熊曇朗は頠の軍に合流し、高州(巴山)刺史の黄法氍を襲った。この時、曇朗は法氍に共に頠を破ることを約束し、こう言った。
「勝利したら、頠の馬匹・兵器は私が貰います。」
 曇朗は頠と掎角の勢を取って進軍した。この時、頠にこう言った。
「聞く所によると、余孝頃が〔味方のふりをして〕我らを奇襲しようとしているとか。ゆえに、〔私は〕兵を分けてここに留め、奇兵としようと思うのですが、奇兵の鎧武器が少なければ、我らを助けることができないでしょう。」
 頠はそこで鎧三百領を曇朗に送った。
〔巴山〕城下に到り、戦いが行なわれようとした時、曇朗は打ち合わせ通り逃走を始め、法氍はこれに乗じて頠に攻撃をかけた。援護を失った頠は狼狽して退却した。すると曇朗は約束通り頠の馬匹・兵器を手に入れて帰った《陳35熊曇朗伝》
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 ⑴苦竹灘...《読史方輿紀要》曰く、『豊城県(豫章の百六十里南にある)の南にある。また苦竹洲ともいい、竹が群生している。《一統志》曰く、県の東南に苦竹村がある。《名勝志》曰く、苦竹洲は豊城県の約十里上流にある。
 ⑵蹠口城...陳2周文育伝では『墌口城』とある。《読史方輿紀要》曰く、『蹠口城は南昌府(豫章)の七十里西南にある。
 ⑶石頭...《読史方輿紀要》曰く、『石頭駅は章江(贛江)門外十里にある。石頭渚がある。《水経注》曰く、贛水は豫章郡の北を過ぎる。その西岸に磐石があり、その渡し場を石頭津という。
 ⑷熊曇朗...豫章郡南昌県の名家の出身。自由気ままな性格で独立心が強く、立派な肉体と容貌を有していた。侯景の乱が起こると(548年)県の若者を集め、豊城県を占拠して砦を築いた。のち、元帝の代に巴山太守とされたが、荊州(江陵)が陥ちると(554年)兵力の強大さを頼みに隣県を荒らすようになった。曇朗は山賊の中で一番の勢力を誇った。侯瑱が豫章の鎮守にやってくると(555年)上辺だけ従うふりをし、やがて瑱を湓城に敗走させてその馬や武器・家族の多くを奪取した。556年(4)参照。
 ⑸黄法氍(コウホウク)...字は仲昭。巴山新建の人。幼い頃から剽悍で度胸があり、一日に三百里を歩き、三丈ほども飛び上がることができた。また、書簡の書き方が上手く、簿記にも精通していたため、〔州〕郡の役所に出入りすることを許されるようになり、郷里の人々から敬憚されるようになった。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里を守り、太守の賀詡が江州に下ると(追い出した?)監郡事とされた。のち、陳覇先の軍を助け、去年、高州刺史とされた。556年(5)参照。
 ⑹鎧三百領...南史には『二百領』とある。

●泥溪の戦い

 周文育は軍船をあまり持っていなかったため、余孝頃の艋三百艘・艦百余隻が上牢にあるのを知ると、軍主の焦僧度羊柬にこれを奇襲させ、その全てを拿捕した。それから豫章に砦を築いてそこに駐屯した。
 やがて兵糧が底をつくと諸将は退却を求めたが、文育は聞き入れなかった。文育はそこで日和見の態度を取っている(陳35周迪伝周迪を味方に引き入れ、そこから兵糧の援助を受けようと考えた。そこで迪と義兄弟となることを約する書簡を作って長史の陸山才に与え(陳35周迪伝)、周迪のもとに派遣した。山才が間道を通って迪のもとに到り、書簡を渡すと、迪は大いに喜んで大量の兵糧を文育に送った。
 ここに至り、文育は豫章の砦を焼き払い、老弱を古い船に乗せて贛江を下らせ、あたかも自軍が遁走したかのように見せかけた。孝頃はこれを見ると大いに喜び、警戒をしなくなった。文育はその油断を突いて間道を昼夜兼行で走り、二晩の行軍で芊韶(センショウに到った。芊韶の上流には欧陽頠・蕭孜〔のいる苦竹灘など諸営〕があり、下流には傅泰・余孝頃〔のいる蹠口城・石頭の諸営〕があった。文育はその中間にある芊韶を占拠して城を築き、酒食をふるまって将兵を労った。頠らは〔突如前方に現れた文育軍を見て〕仰天し、泥溪に退いて城を築き、守りを固めた。文育は厳威将軍(九階)の周鉄虎陸山才を派してこれを襲わせた。
 癸巳(24日)、鉄虎らが頠を捕らえた。文育は続いて旗鼓堂々として蹠口城下に到り、頠と一緒に船に乗って酒盛りをし、城下をぐるりと回って〔頠が敗れたことを城内に知らしめた〕《陳8周文育伝》

 陸山才は字を孔章といい、呉郡呉県の人である(時に49歳)。祖父は尚書水部郎、父は散騎常侍にまで昇った。
 山才は幼少の頃から自立心が強く、書籍を愛好した。はじめ王僧弁に仕えたが、僧弁が陳覇先に殺されると会稽の張彪(11)のもとに逃れた。しかし間もなく彪が敗れると、覇先に従った。のち、周文育が南豫州刺史となるとその長史とされ、書簡の書き方を知らなかった文育に代わって政治の一切を取り仕切った。文育が蕭勃の討伐に向かうと、その作戦の多くを案出した《陳18陸山才伝》

 甲午(25日)、北周が、柱国大将軍で、大司寇・燕国公の于謹を太傅(もと趙貴の官)・大宗伯(もと独孤信の官)とし(周15于謹伝)、大司空・梁国公の侯莫陳崇を太保(もと独孤信の官)とし、大司馬の晋公護を大冢宰(もと趙貴の官)とし、小司馬・博陵公の賀蘭祥を大司馬とし、高陽公の達奚武を大司寇とし、大将軍で化政公の宇文貴を柱国大将軍とし《周孝閔紀》、中領軍の尉遅綱(12)を小司馬とした《周20尉遅綱伝》
 晋公護は、親戚で、しかも幼少の頃に親しい仲だった賀蘭祥を〔非常に信頼し、〕大事はみな祥と相談して決めた。趙貴を誅殺できたのは、祥の力が大きく関わっていた《周20賀蘭祥伝》
 これより前、宇文泰は丞相となると、左右十二軍を設立して丞相府に所属させた。泰の死後、十二軍はみな護の命に従い、護の命令書が無ければ動こうとしなかった。また、護は自分の屋敷に衛兵を置いたが、それは皇宮のそれよりも規模が大きかった。護は大小となく、国家のことは全て李弼・于謹・侯莫陳崇ら(周15于謹伝)と相談しつつ自分で決め、それから天王に報告をして追認を得た《周11晋蕩公護伝》

 北周がもと西魏の恭帝で宋公の拓跋廓を殺した《出典不明》

 3月、庚子(1日)周文育の前軍〔都督?〕の丁法洪が蹠口城を陥とし、傅泰を捕らえた。蕭孜・余孝頃は敗走した《梁敬帝紀》。文育は欧陽頠・傅泰の身柄(傅泰...出典不明)を建康に送った。丞相の陳覇先は頠と旧交があったため[1]、罪を赦して手厚くもてなした《陳9欧陽頠伝》
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 ⑴軍船をあまり持っていなかった...水軍を率いていた侯安都はこの時、まだ到着していなかった。
 ⑵上牢...《読史方輿紀要》曰く、『上牢水は奉新県(豫章の西百二十里)の東北百里にあり、南康府建昌県の県境にある。』
 ⑶焦僧度...侯瑱の副将。海に逃げる侯景を追撃した。江陵が陥落したのち、江州の匡俗山(盧山)に拠った。556年(4)参照。
 ⑷周迪...臨川郡南城県(臨川郡の東南)の人。山谷育ちで狩猟を生業とした。並外れた筋力を有し、強弩を引くことができた。質素を好み、口数は少なかった。侯景の乱が起こり、同族の周続が挙兵すると、郷里の人々と共にこれに加わり、戦うたびに軍中一の武勇を示した。続が死ぬとその跡を継ぎ、臨川の工塘(臨汝の東南)に拠り、善政を行なった。556年(4)参照。
 ⑸芊韶...《読史方輿紀要》曰く、芊韶鎮は南昌府(豫章)の百里南にある。
 ⑹芊韶の上流に蕭孜...蕭孜は余孝頃と石頭(芊韶の下流)にいたと思われるので、誤りか? それともこの後に孝頃と合流したのか?
 ⑺泥溪...《読史方輿紀要》曰く、泥溪城は新淦県(臨江府南七十里)南四十里にあり、贛江に接する。』また曰く、『泥江水は新淦県の南十里を流れる。一名を泥溪という。水源は撫州の楽安県界で、県境を二百里流れて清江に入る。泥溪城はここから名付けられた。
 ⑻周鉄虎...どすの利いた声で喋り、筋力は人並み外れ、馬上槍の扱いに長けた。もと河東王誉配下の猛将で、誉が滅ぼされると僧弁に降った。のち、僧弁の指揮のもと、侯景の猛将の宋子仙を捕らえるなど数々の戦功を挙げた。僧弁が死ぬと覇先に降り、北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らした。556年(1)参照。
 ⑼王僧弁...字は君才。侯景の乱を平定し、君主の元帝死後はその子の方智を擁立して権力を握った。しかし北斉に敗れ、方智の退位と淵明の即位という屈辱的な条件を呑まされた。のち、同僚の陳覇先の奇襲を受け、殺された。555年(3)参照。
 ⑽陳覇先...字は興国。時に55歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。556年(4)参照。
 (11)張彪...侯景が建康を占領すると、東揚州にてこれに粘り強く抵抗した。のち、王僧弁に非常に信任され、東関の戦いの勝利に貢献した。僧弁が死ぬと陳覇先に抵抗したが、敗れて殺された。556年(1)参照。
 (12)尉遅綱...字は婆羅。生年517、時に41歳。宇文泰の姉の子で、尉遅迥の弟。膂力があり、騎射に長けた。528年に宇文泰が関中に赴いた後も晋陽に留まり、のちに合流した。河橋の戦いにて宇文泰を救う大功を挙げた。のち、領軍将軍となって廃帝の企みを阻止した。554年(1)参照。
 [1]頠と旧交があった...覇先はむかし嶺南にいたため、頠と旧交があったのである。
 
●独孤信の死
 北周の晋公護独孤信を殺したかったが、高い名声を憚り、誅殺という形を取ることはできなかった。
 己酉(10日)、信を自殺させた(享年55)。
 信は人品骨柄卑しからず、更に奇謀大略を有していた。宇文泰が西魏の実権を握った時、その威権はただ関中の地にしか及んでいなかった。泰は隴右(天水周辺の地)が形勝(要害)の地であることを以て、信にその鎮守を任せた。すると間もなく隴右の人々は信に懐き、その声威は隣国にまで及んだ。東魏の将軍の侯景が梁に亡命した時、魏収は梁を牽制するために梁に檄文を送り、偽ってこう言った。
『独孤信が隴右に拠って宇文氏に叛いているゆえ、関西(西魏)方面の憂いは無く、〔全力を以て梁に当たることができるぞ〕。』
 信が秦州(天水)にいた時、ある日、日暮れまで猟をして帰ってきたことがあった。その時、その帽子がわずかに傾いていた。帽子をかぶっていた秦州の住民は、これを見ると、翌朝、官民を問わずみな信を真似て帽子を傾けた。隴右の官民に愛されたこと、万事このようであった《周16独孤信伝》

 甲辰(5日)、梁が司空の王琳を湘・郢二州刺史とした《梁敬帝紀》
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 ⑴信はおしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎(独孤の若君)』と呼ばれた。
 ⑵540~541年頃に隴右十〔一?〕州大都督・秦州刺史とされ、547年に河陽(天水の北)に鎮所を遷し、秦州には隴右大都督・秦南等十五州諸軍事・秦州刺史の宇文導が着任したものの、その後も変わらず隴右を鎮守し続けた(550年頃に尚書令となって中央に帰還?)。
 ⑶侯景...字は万景。もと東魏の臣だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこでも叛乱を起こして都の建康を陥とし、傀儡政権を立てた。のち、大軍を率いて西上し湘東王繹に戦いを挑んだが敗れ、建康に逃走した。間もなく傀儡の簡文帝を廃し、皇帝の位に即いて漢を建国したが、王僧弁に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。552年(2)参照。
 ⑷魏収...字は伯起。魏書を編纂したが、記述に問題があり、『穢史』と糾弾された。556年(3)参照。
 ⑸魏98島夷蕭衍伝曰く、『蠕蠕(柔然)は豳・夏を、吐谷渾は河・鄯を窺い、これに加えて、独孤如願が秦中(関中)に兵を擁し、訓練を行なって威嚇をしている。黒獺は北に備え西に憂い、あちらこちらを助け回ってすっかり疲れ果ててしまった。

●曲江侯勃の死
 曲江侯勃の本軍がいる南康に欧陽頠らの敗報が届くと、将兵たちは大いに動揺を来した《陳8周文育伝》
 甲寅(15日)、勃の部将で徳州(日南)刺史の陳法武と前衡州刺史の譚世遠が始興に勃を攻め、殺害した《梁敬帝紀》

 この月、〔鄴は?〕猛暑になり、熱中症で死ぬ者も現れた。

○北斉文宣紀
 八年春三月,大熱,人或暍死。

 ⑴譚世遠...もと曲江令。蕭勃の腹心。南康の土豪の蔡路養と手を組んでいたことがある。550年(1)参照。

●北斉、梁に和平を求める

 夏、4月己巳(1日)、北周が大将軍・少師・平原公の侯莫陳順を柱国大将軍とした。

 庚午(2日)、北斉がエビ・カニ・シジミ・ハマグリを取る事を禁じ、ただ魚だけを捕る事を許した(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の一部の教派ではヒレやウロコを持つもの以外の水の生き物を食べることは禁止されている。当時の仏教もこのような戒律があったものか?)。

 壬申(4日)、北周が死罪以下の罪人の罪を一等減じた《周孝閔紀》

 癸酉(5日)、梁が江・広・衡三州(もと蕭勃の勢力圏)に恩赦を下した。
 己卯(11日)、四柱銭[1]を鋳造した。その一文の価値は、従来の銭貨の二十文に相当した

 この日、北斉が梁に和平を求めた(北斉は今年の2月に合肥を攻撃されていた《梁敬帝紀》

 壬午(14日)、北周の孝閔王が成陵(宇文泰の墓)に参拝した。
 乙酉(17日)、皇宮に帰った《周孝閔紀》

 この日、北斉が官民に鷹やハイタカを捕る事を禁じた。

 北斉が太師・咸陽王の斛律金を右丞相とし、前大将軍(胡三省は『車騎大将軍』とする)・扶風王の可朱渾道元を太傅とし、開府儀同三司の賀抜仁を太保とし、尚書令の常山王演を司空・録尚書事とし、長広王湛を尚書令とし、尚書右僕射の楊愔を開府儀同三司(北斉34楊愔伝)・尚書左僕射とし、并省[2]の尚書右僕射の崔暹(10)を尚書右僕射とし、〔尚書左僕射の〕上党王渙(11)を録尚書事とした《北斉文宣紀》
 
 丁亥(19日)孝閔王が太廟にて祖先を祀った《周孝閔紀》

 壬辰(24日)、梁が四柱銭を改鋳し、一文の価値を従来の銭貨の〔二十文から〕十文とした。
 丙申(28日)、細銭[3]の使用を禁止した《梁敬帝紀》

○北斉文宣紀
 夏四月庚午,詔諸取蝦蟹蜆蛤之類,悉令停斷,唯聽捕魚。乙酉,詔公私鷹鷂俱亦禁絕。以太師、咸陽王斛律金為右丞相,前大將軍、扶風王可朱渾道元為太傅,開府儀同三司賀拔仁為太保,尚書令、常山王演為司空,錄尚書事、長廣王湛為尚書令,尚書右僕射楊愔為尚書左僕射,以并省尚書右僕射崔暹為尚書右僕射,上黨王渙錄尚書事。

 侯莫陳順...侯莫陳崇の兄。河橋の敗戦ののち長安で起こった叛乱に良く対処した。550年(5)参照。
 [1]〔《隋書》食貨志曰く、〕『梁末には〔鉄銭の他に〕両柱銭と鵝眼銭があり、人々はこれらを混じえて使用した。二種類の銭の価値は同等だったが、ただ両柱銭は〔重量が〕重く、鵝眼銭は軽かった。
 ⑵梁では私鋳が相次いだ結果、銭貨の価値が暴落してインフレが進んでおり、交易する者は車に銭貨を載せて運ぶほどになっていた。546年(1)参照。
 ⑶孝閔王...宇文覚。字は陁羅尼。宇文泰の第三子。母は元氏。時に16歳。有名な人相見に「この上なく貴い相を備えているが、寿命が短い。」と評された。北周の初代天王。557年(1)参照。
 ⑷斛律金...字は阿六敦。時に70歳。敕勒族の長老で、咸陽王。文宣帝の父・高歓の盟友。帝に非常な寵遇を受けた。556年(3)参照。
 ⑸可朱渾道元...可朱渾元。劉豊と共に西魏から東魏に寝返った。554年(2)参照。
 ⑹賀抜仁...字は天恵。勲貴の一人。太保・安定王だったが、554年に文宣帝の勘気を蒙り、髪を抜き取られて庶民の身分に落とされ、晋陽宮にて炭の運搬をするよう命じられていた。554年(1)参照。
 ⑺常山王演...字は延安。高歓の第六子で、文宣帝の同母弟。時に23歳。555年(2)参照。
 ⑻長広王湛...高歓の第九子で、文宣帝の同母弟。時に21歳。556年(3)参照。
 ⑼楊愔...字は遵彦。名門楊氏の生き残り。時に47歳。556年(3)参照。
 [2]并省...高歓の代に、并州に行台を置いて尚書令・僕射などの官を置いた。文宣帝は即位すると并州行台を并省とし、地位・権限は鄴省のそれに次ぐものとした。
 (10)崔暹...字は季倫。高澄の腹心。勲貴を容赦なく弾劾し、その怨みを受けて一時流刑に遭った。554年(2)参照。
 (11)上党王渙...字は敬寿。高歓の第七子。文宣帝の弟で、韓氏の子。時に24歳。東関の戦いで梁軍を大破した。555年(1)参照。
 [3]細銭...私鋳銭の事である。当時、私鋳銭は細小で、車に載せて運ぶほどになっていた。

●嶺南乱る

 譚世遠曲江侯勃を殺害したのち覇先に降ろうとしたが、その前にもと勃の主帥で前直閤の蘭敱に殺された。しかし、敱も逃亡先にて世遠の軍主の夏侯明徹に殺害された。明徹は勃の首を持って覇先に降った《陳8周文育伝》
 もと勃の記室の李宝蔵懐安侯任を擁立して広州に拠った。
 覇先は嶺南が乱れているのを知ると、南方に名望高い欧陽頠を使持節・通直散騎常侍・都督衡州諸軍事・安南将軍(四階)・衡州(治 含洭。広州の北)刺史・始興県侯とし、その経略を任せた

○梁敬帝紀
 蕭勃故主帥前直閤蘭敱襲殺譚世遠,敱仍為亡命夏侯明徹所殺。勃故記室李寶藏奉懷安侯蕭任據廣州作亂。
○陳9欧陽頠伝
 蕭勃死後,嶺南擾亂,頠有聲南土,且與高祖有舊,乃授頠使持節、通直散騎常侍、都督衡州諸軍事、安南將軍、衡州刺史,始興縣侯。

 譚世遠...もと曲江令、衡州刺史。蕭勃の腹心。南康の土豪の蔡路養と手を組んでいたことがある。蕭勃が落ち目になったと見るや、これを殺害した。557年(1)参照。
 ⑵曲江侯勃...武帝の従父弟の子。侯景の乱後、広州に割拠した。兵を起こして陳覇先と対決したが、前軍が敗れて劣勢になった所で部下に叛かれ、殺害された。557年(1)参照。
 ⑶欧陽頠…字は靖世。生年498、時に60歳。梁の名将蘭欽の親友。曲江侯勃の部下だが、一時仲が険悪になったことがある。蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げるとその前軍を務めたが、敗れて降伏した。557年(1)参照。
 ⑷陳武帝紀に558年正月に『衡州刺史歐陽頠進號鎮南將軍』とあり、559年正月に『以鎮南將軍、廣州刺史歐陽頠即本號開府儀同三司』とある。広州平定は558年正月~559年正月の間の事か?

●豫章平定
 この時、蕭孜余孝頃はなおも石頭(豫章付近)に拠り、川の両岸に二つの城を築き、多数の艦船を建造して抵抗の意志を見せていた。〔梁の丞相の〕陳覇先は平南将軍(五階)の侯安都を派遣し、周文育の助勢に向かわせた。
 安都は石頭に到ると、兵に枚を銜えさせ、夜陰に紛れて孜らの艦船を焼き払った。文育は水軍を、安都は陸軍を率いて孜らを攻めた。孝頃が文育らの退路を断つと、安都は兵士に多数の松の木を伐採させて防護柵を造り、〔それを兵士に持たせて〕少しずつ前進し、連戦連勝した。
 戊戌(30日)梁敬帝紀〉、孜は城を出て降り、孝頃は新呉に逃げ帰った《陳8侯安都伝》
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 蕭孜...蕭勃の甥。蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げるとその前軍を務めた。557年(1)参照。
 ⑵余孝頃...新呉洞主、南江州刺史。梁が侯景を攻めると、一万の兵を率いてこれに合流した。去年、侯瑱の侵攻を撃退し、蕭勃が陳覇先討伐の兵を挙げると兵を率いてこれに合流した。557年(1)参照。
 ⑶陳覇先...字は興国。時に55歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、王僧弁の軍と共に建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で僧弁を攻め殺し、敬帝を立てた。間もなく北斉軍の侵攻を受けたものの、大破して四十六将を斬った。557年(1)参照。
 ⑷侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らし回り、幕府山南の決戦では別働隊を率いて北斉軍の後軍の横腹を突き、梁軍を大勝に導いた。557年(1)参照。
 ⑸周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行ない、北斉が侵攻してくるとその大破に大きく貢献した。蕭勃が挙兵するとその前軍を撃破し、勃を死に追い込んだ。557年(1)参照。

●文宣帝騎射
 この月、北斉の文宣帝が城東にて騎射を行なった。帝は京師()の女性全員に見に来るように命じ、来ない者があれば軍法を以て処断した。騎射は七日に渡って続けられた《北斉文宣紀》

 5月、乙巳(7日)、梁が平西将軍(五階)〔・南豫州刺史〕の周文育を鎮南将軍(三階)・開府儀同三司・都督江広衡交等州諸軍事・江州刺史(陳8周文育伝)とし、平南将軍〔・南徐州刺史〕の侯安都を鎮北将軍(三階)・開府儀同三司とした。
 丙午(8日)、鎮軍将軍の徐度を南豫州(姑孰。建康の西南)刺史とした《梁敬帝紀》

 己酉(11日)孝閔王が昆明池にて漁を見物しようとしたが、博士の姜須に諫められ、取り止めた《周孝閔紀》

 辛酉(23日)、北斉の冀州民の劉向が鄴にて叛逆を謀ったが、露見し、一味と共に誅殺された《北斉文宣紀》

 戊辰(30日)余孝頃が息子を人質に差し出して(陳8侯安都伝)覇先に和を求めた《梁敬帝紀》

○北斉文宣紀
 是月,帝在城東馬射,勑京師婦女悉赴觀,不赴者罪以軍法,七日乃止。

 ⑴文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に32歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。しかし六・七年も経つと、己の功業に驕って酒色に溺れ、残虐な行為を繰り返すようになった。556年(4)参照。
 ⑷文宣帝は去年の8月に晋陽に赴いていた。それから鄴に帰った記述は無いので、脱落があるのかもしれない。或いは、晋陽を『京師』としたものか?
 ⑸徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好んだ。始興の諸山洞を討って以降、驍勇なことで世に知られるようになり、覇先から丁重な招きを受けてその配下となった。次々と巧みな術策を考え出して覇先の勝利に貢献しただけでなく、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。今年、北斉領に侵攻して合肥を攻めた。557年(1)参照。
 ⑹昆明池...前漢の武帝が元狩四年(前119年)に長安の西南に豊水の水を引いて作った人工湖。周囲四十里あり、本来は水軍の訓練用に作ったものだったが、次第に遊興の場所に変化した。

●覇先、王琳討伐の軍を発す
 これより前、陳覇先は湘・郢に割拠する王琳を侍中・司空とし(1月2日参照)、建康に呼び寄せていたが、琳はこれに従わず、逆に楼船を多数建造して覇先を討つ準備を始めた。琳は千余隻の戦艦を『野猪』と名付けた《北斉32王琳伝》。これは、部将の張平の座乗する戦艦が勝ち戦の前に、常に猪の鳴き声のような音を発したのにあやかったのである《南64王琳伝》
 6月、戊寅(11日)出典不明。陳武帝紀では8月の事とする〉、覇先は開府儀同三司の侯安都を西道都督、周文育を南道都督とし、二万の水軍を率いて(二万...出典不明)武昌(郢州の東)に合流し、連合して琳を討つように命じた《陳8周文育伝》

 秋、7月、辛亥(14日)孝閔王が太廟にて祖先を祀った《周孝閔紀》
 8月、丁卯(1日)、梁の元帝の屍と諸将の家族千余人を王琳に返した《出典不明》
 戊辰(2日)、太社にて豊穣神を祀った《周孝閔紀》
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 王琳...字は子珩。時に32歳。賤しい兵戸の出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で、侯景討伐に第一の功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠し、去年、更に郢州に勢力を広げた。557年(1)参照。
 ⑵元帝...蕭繹。梁の四代皇帝。在位552~554。武帝の第七子。侯景を討って皇帝の位に即いたが、最後は西魏に都の江陵を陥とされ、処刑された。554年(4)参照。

●陳覇先、相国となる
 甲午(28日)、梁が丞相の陳覇先に太傅を兼任させた。また、黄鉞を与え、剣や靴を身に着けたまま昇殿すること(剣履上殿)、謁見の際に小走りをしないこと(入朝不趨)、謁見の際に姓名を言わず、官職名だけを言うこと(賛拝不名)を許し、また、羽葆・鼓吹(楽隊《梁敬帝紀》一部も与えた。侍中・都督・録尚書・鎮衛大将軍(一階)・揚州牧・義興郡公の官爵、班剣(555年2月・甲仗(555年10月・油幢皁輪車(556年7月の権利はそのままとした。
 丙申(30日)、更に前後〔二〕部の羽葆・鼓吹を送った《陳武帝紀》
 9月、辛丑(5日)、更に位を進めて相国とし、国政の一切を取り仕切らせ、十郡を封邑として与えて陳公(覇先の名字に因んだのである)に封じ、九錫の礼遇を加え、また、璽紱(官印と首にかける紐)・遠遊冠・相国緑綟綬を与え、身分を諸侯王の上に置いた。また、陳国の百官を置くことを許した《梁敬帝紀》。鎮衛大将軍・揚州牧はそのままとした《陳武帝紀》
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 羽葆...鳥の羽で作った花傘。車に使用する。親王または大勲功のある者などが用いた。葆は飾りの意。
 ⑵班剣...儀仗兵。覇先は二十→三十人(557年正月2日)の班剣を引き連れることを許されていた。
 ⑶甲仗...覇先は武装した兵士百人を引き連れて朝廷に出入りすることを許されていた。
 ⑷油幢皁輪車...青油(梓油、もしくは漆)で塗った(防水目的)幔幕で覆われた、黒い車輪の車。赤色の手綱を用い、四頭の牛で牽く。西晋以降、諸王・三公および勲徳のある者が用いた《晋輿服志》。
 ⑸遠遊冠...皇太子や諸侯王がかぶる冠。皇帝がかぶる通天冠から山述(額辺りにある金の飾り)をとったもの。展筩(中が空洞となっている直角の飾り)が冠の前に横たわる《後漢書・晋書輿服志》。
 ⑹緑綟綬...後漢書輿服志下曰く、『相国は緑綬を付ける。』注曰く、『綟は草の名であり、これを用いて染めると緑に似た色になる。』大漢和辞典では綟綬を『かりやす草で染め〔てでき〕た萌黄色の〔綾〕絹で作った丞相の服飾(ひも)』とする。
 
●北斉、大蝗害に遭う
 夏より九月に至るまで、北斉の河北六州・河南十二州・畿内八郡にて蝗(イナゴ)が大量に発生し、作物を食い荒らした。畿内の人々はみなこれを祭り、〔退散を祈った。〕
 文宣帝は魏尹丞の崔叔瓚に尋ねて言った。
「イナゴが大発生したのは何故か?」
 叔瓚は答えて言った。
「漢書の五行志に、『農繁期に土木工事を行なうと、蝗害が発生する。』とあります。陛下は今、外では長城(556年〈4〉参照)を、内では三台(556年〈2〉参照)を築いておられます。故に発生したのであります!」
 帝はこれを聞くと激怒し、左右に叔瓚を殴らせ、髪を抜かせ、顔に糞尿を塗りたくらせた。それからその足を持たせ、宮殿外に引きずり出した。叔瓚は久しくの間床に臥し、立ち上がれなかった。
 叔瓚は崔仲哲の子である。非常に学識が高く、直言を好んだ。妻は李皇后の姉で、〔東魏の代に〕司徒田曹参軍となり(魏49崔叔瓚伝)、のち帝に抜擢されて魏尹丞に任じられた《北32崔叔瓚伝》
 この月、京師(鄴?)の上空をイナゴの群れが覆った。その鳴き声はまるで嵐がやってきたかのようだった。
 甲辰(5日)、詔を下し、今年に蝗害に遭った地の租税を免除した。

○北斉文宣紀
 自夏至九月,河北六州、河南十二州、畿內八郡大蝗。是月,飛至京師,蔽日,聲如風雨。甲辰,詔今年遭蝗之處免租。
○北32崔叔瓚伝
 長瑜弟叔瓚,頗有學識,性好直言。其妻即齊昭信皇后姊也,文宣擢為魏尹丞。屬蝗蟲為災,帝以問叔瓚。對曰:「案漢書五行志:『土功不時,蝗蟲作厲。』當今外築長城,內興三臺,故致此災。」帝大怒,令左右毆之,又擢其髮,以溷汁沃其頭,曳以出,由是廢頓久之。
○隋聴咎志蟲妖
 後齊天保八年,河北六州、河南十二州蝗。畿人皆祭之。帝問魏尹丞崔叔瓚曰:「何故蟲?」 叔瓚對曰:「五行志云:『土功不時則蝗蟲為災。』今外築長城,內修三臺,故致災也。」帝大怒,毆其頰,擢其髮,溷中物塗其頭。役者不止。

 ⑴原文...『与東作(春の田畑を耕す時期)争,茲謂不時,蟲食節。
 ⑵崔仲哲...北魏の燕州刺史の崔秉の第二子。孝行息子で、反乱軍に包囲されている父の助けに赴いたが、そこで戦死した。526年(1)参照。
 ⑶通鑑には『崔季舒の兄』とある。季舒の父は崔瑜之といい、子に孟舒・仲舒・季舒がいる。叔瓚はいない。
 ⑷李皇后...諱は祖娥。文宣帝の正室。容姿・性格共に抜群の美女で、帝に丁重に遇された。556年(3)参照。
  

 557年(3)に続く