[北周:閔帝元年→明帝元年 北斉:天保八年 梁:太平二年→陳:永定元年 後梁:大定三年]

●北周の建国

 春、正月、辛丑(1日)、周公の宇文覚が天王の位に即いた(北周の建国。以降、孝閔王、或いは天王と記す)。天王は柴を焚いて即位したことを天に報告し、百官は露門[1]に集って祝賀の意を表した[1]⑶
 天王は父の文公宇文泰)を追尊して文王とし、母の元氏を文后とした。また、大赦を行なった。この日、槐里から赤雀四羽が献上された。百官が意見書を上奏して言った。
「新しい王朝が興った時は、正朔を改め、天命を受けたことを明らかにし、人心を刷新するのが普通です。尼父(孔子)が陰陽の点から夏王朝の暦を使うのが良いと言ってから、後世の王は代々夏暦を用いてきました。今、魏が滅び、周が天命を受けましたうえは、木徳を以て水徳に代わり、書類には夏王朝の暦を用い、聖道に従うべきだと思います。ただ、文王(宇文泰)は黒気の祥を受けて産まれ、黒水(水徳は黒色を尊ぶ)の讖(しるし)がありましたゆえ、服色は魏と同じく黒を用いるべきだと思います。」
 天王はこれを許した。
 また、〔柱国大将軍で、太傅・〕大司徒・趙郡公の李弼を太師とし、〔太保・〕大宗伯・南陽公の趙貴を太傅・大冢宰とし、大司馬・河内公の独孤信を太保・大宗伯とし、〔小司空の〕中山公護を大司馬とした。また、大将軍の、寧都公毓(10)、〔大司寇・〕高陽公の達奚武(11)、武陽公の豆盧寧(12)、小司寇・陽平公の李遠(13)、小司馬・博陵公の賀蘭祥(14)、小宗伯・魏安公の尉遅迥(15)らを柱国大将軍とした。
 もと恭帝の拓跋廓(16)は宋公とされ、皇宮を出て大司馬府に居を移した《周孝閔紀》
 寧都公毓は更に岐州諸軍事・岐州刺史とされた。毓は善政を行ない、州民から高い支持を得た《周明帝紀》
 輔城公邕(17)は大将軍とされ、同州の鎮守を命じられた《周武帝紀》
 李遠はむかし都督義州弘農等二十一郡諸軍事として東方を守備していたが、のち尚書左僕射とされて中央に戻っていた。孝閔王が即位すると、遠は再び弘農の鎮守をするよう命じられた《周25李遠伝》
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 ⑴宇文覚...字は陁羅尼。宇文泰の第三子。母は元氏。時に16歳。有名な人相見に「この上なく貴い相を備えているが、寿命が短い。」と評された。去年の3月に宇文泰の後継者に指名された。556年(4)参照。
 ⑵天王...周の君主の称号。五胡十六国の君主も度々この称号を名乗った。
 [1]露門...いにしえの路門のことである。路は、大の意味である。
 ⑶路門...《大漢和辞典》曰く、『天子は五門(路門・応門・雉門・庫門・皋門)、諸侯は三門ある中、最も内部にある門。路寝の門。』『周代では王朝を内朝と外朝に大別し、外朝の政事は朝士が掌り(朝士の仕事の場)、内朝の政事は天子が掌る。内朝には治朝と燕朝とがあり、治朝は路門の外〔、応門の内〕にあって、天子が毎日臨御して政事を視(天子の政治の場)、燕朝は路寝ともいい、路門内にあって燕居の意(天子の日常生活の場)。』
 ⑷《論語》衛霊公に曰く、『顔淵、邦をおさむるを問う。子曰く、「夏の時を行ない...」』
 ⑸泰が生まれると、黒気が華蓋(古代、天子が乗る車についていた傘状の遮蔽物)のようにその体を覆った。
 ⑹李弼...字は景和。生年494、時に64歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされ、552年に徒河氏の姓を賜った。宇文泰が西方の巡視に赴くと留守を任された。556年、太傅・大司徒とされた。556年(1)参照。
 ⑺趙貴...字は元貴(または元宝)。乙弗の姓を賜った。宇文泰の雄飛に非常な貢献をした。戦いではしばしば敗れた。556年(1)参照。
 ⑻独孤信...字は期弥頭。もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、関中西方を任された。おしゃれ好きの美男子で、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。556年(1)参照。
 ⑼中山公護...宇文護。字は薩保。宇文泰の兄の子。時に45歳。宇文泰に「器量が自分に似ている」と評された。大統九年(543)の邙山の戦いでは敗退して敗戦のきっかけを作り、免官に遭った。大統十五年(549)に河東の鎮守を任じられた。恭帝元年(554)の江陵征討の際に先鋒を務めると、軽騎兵を率いて昼夜兼行の強行軍を行ない、直ちに江陵に到って城内を呆然自失の状態に陥らせた。のち、危篤となった宇文泰に幼い息子の後見を託された。556年(4)参照。
 ⑽寧都公毓...宇文毓。宇文泰の長子。母は姚夫人。時に24歳。隴右の鎮守を任された。556年(2)参照。
 (11)達奚武...字は成興。十二大将軍の一人。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。552年、漢中を陥とす大功を立てた。553年、玉壁の鎮守を任された。553年(1)参照。
 (12)豆盧寧...字は永安。前燕慕容氏の末裔で、八尺の長身の美男子。時に58歳。劉平伏・鄭五醜の乱を平定した。また、侯平の侵攻も撃退した。556年(4)参照。
 (13)李遠...字は万歳。十二大将軍の一人。宇文泰に非常に気に入られ、東方の要地の守備を任された。孝閔帝が宇文泰の後継者となるのにも大きく貢献した。556年(1)参照。
 (14)賀蘭祥...字は盛楽。宇文泰の姉の子。時に43歳。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。特に宇文泰に可愛がられた。宇文泰が入関すると宇文護と共に晋陽に残り、のち、共に関中に赴いた。548年に荊州刺史となると善政を布き、553年には行華州事、554年には同州刺史となった。宇文泰が危篤となるとその看病をした。556年(4)参照。
 (15)尉遅迥...字は薄居羅。泰の姉の子。時に42歳。美男子。早くに父を亡くし、宇文家に引き取られて育てられた。頭脳明晰で文武に才能を発揮し、泰に非常に信任された。553年に蜀制圧という大功を立てた。553年(2)参照。
 (16)拓跋廓...西魏最後の皇帝。在位554〜556。
 (17)輔城公邕...宇文邕。字は禰羅突。宇文泰の第四子。時に15歳。554年(2)参照。

●儀式
 壬寅(2日)、梁が車騎将軍・開府儀同三司の王琳を司空・驃騎大将軍とし、尚書右僕射〔・吏部尚書〕の王通を左僕射とした。
 また、〔江州から〕尋陽・太原・斉昌・高唐・新蔡の五郡を割いて西江州を置いた。治所は尋陽とした《梁敬帝紀》

 北周の孝閔王が円丘にて天を祀った。宇文氏は代々神農氏(三皇五帝の一人)の末裔を自称していたため、神農氏を二丘に配し、始祖の献侯(宇文莫那)を南北郊に配した。また、文王を明堂に配し、廟号を太祖とした。
 癸卯(3日)、方丘にて地を祀った。
 甲辰(4日)、大社にて豊穣神を祀った。また、市門税[1]を廃止した。
 乙巳(5日)、太廟にて祖先を祀った。北周は鄭玄(後漢の大学者。『礼記注』を著した)の学説に従い、太祖と二昭(偶数の祖先。ここでは二世祖・四世祖)・二穆(奇数の祖先。ここでは三世祖・五世祖)の五廟を立てた(通常は七廟)。それ以外の祖先の有徳者には別に祧廟を立て、位牌を保存した。
 辛亥(11日)、南郊にて祭祀を行なった。
 壬子(12日)元氏を王后(皇后)とした《周孝閔紀》。元氏は名を胡摩といい、西魏の文帝の第五女である。むかし晋安公主に封じられ、孝閔王が略陽公となった時(550年)、その妻となった《周9孝閔帝元皇后伝》
 乙卯(15日)、詔を下して言った。
「国家創始の際は、藩国を建てて安定を図るのが常である。ゆえに今、大いに藩国を建て、周の藩屏とすることにする。」
 かくて太師の李弼を趙国公とし、太傅の趙貴を楚国公とし、太保の独孤信を衛国公とし、大司寇の于謹を燕国公とし、大司空の侯莫陳崇を梁国公とし、大司馬の中山公護を晋国公とした《周孝閔紀》

 丁巳(17日)、梁が鎮西将軍・益州刺史の長沙王韶を征南将軍とした《梁敬帝紀》

 辛酉(21日)孝閔王が太廟にて祖先を祀った。
 癸亥(23日)、籍田を耕す儀式を行なった。
 丙寅(26日)、剣南(益州)の陵井(仁寿)に陵州を置き、武康郡に資州を置き、遂寧郡に遂州を置いた《周孝閔紀》

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 ⑴王琳...字は子珩。時に32歳。兵戸出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で侯景討伐に第一の武功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠した。556年(4)参照。
 ⑵王通...字は公達。母は武帝の妹。時に55歳。
 ⑶原文...『即於尋陽仍充州鎮。
 [1]北魏末、叛乱が日ごとに激しくなり、軍事費の増大が国庫を圧迫すると、朝廷は市場に入る人々に入市税として一人一銭を徴収した。
 ⑷侯莫陳崇...字は尚楽。北魏末の群雄・万俟醜奴を単騎で捕らえ、西魏に仕えては河橋で随一の功を立てた。556年(1)参照。
 ⑸長沙王韶...もと上甲侯韶。字は徳茂。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。建康陥落の際脱出し、武帝の密詔を各地に伝えた。『太清紀』の編纂者。元帝が侯景を滅ぼしたのち蜀を攻めたが、江陵が陥落すると退き、王琳を盟主に戴いた。556年(1)参照。
 ⑹武康...隋書地理志曰く、『梁州蜀郡陽安県は、むかし牛鞞といった。西魏の代に陽安と改められ、同時に武康郡が置かれた。』読史方輿紀要曰く、『陽安は成都府の東南百五十里にある。
 ⑺資州...《読史方輿紀要》曰く、西魏が資陽郡に置いた。北周は資州の治所を陽安県から資中県(陽安県の北三里にある)に遷した。北周は資中県を盤石と改めた。
 ⑻遂寧郡...《読史方輿紀要》曰く、『遂寧県は潼川州(北周の新州)の東南二百四十里にある。漢の広漢県の地である。梁は郡治を小溪県に置き、西魏は県名を方義に改めた。北周は郡名を石山に改め、遂州を置いた。』『方義県は遂寧県の南にある。司馬晋の徳陽県の地である。

●吐谷渾の侵攻

 孝閔王が即位すると、開府儀同三司・左宮伯の于翼は渭州刺史とされた。渭州では以前、翼の兄の于寔が刺史を務めて善政を行なっていたが、翼もまた真心を以て政務に当たり、信用を第一とした、寬大・簡明な政治を行なったので、州民は胡漢を問わず感激し、于兄弟を大小馮君になぞらえた。
 この時、吐谷渾が北周領に侵攻し、河西の涼・鄯・河三州を攻囲した。三州が急を告げると、秦州都督[1]は翼に救援に向かうよう命じたが、翼はこれを拒否した。部下の者たちが説得してくると、翼はこう言った。
「攻城戦は蛮族どもの不得手とする所である。ゆえに、此度の侵攻の目的は略奪にしか過ぎぬ。略奪が目的の者たちが、どうして長期の攻囲をしよう! 略奪しても何も得られないようになれば、奴らは自然と退いていく。そのような者たちに攻撃をかけても、空振りになって徒労するだけだ。事は以上のように明々白々である。諸君よ、もう何も言うな。」
 数日後に三州から消息が届くと、果たして翼の言った通りだった(詳細な時期は不明《周30于翼伝》
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 ⑴于翼...字は文若。于謹の子で、于寔の弟。美男子で、宇文泰の娘婿。武衛将軍とされ、西魏の廃帝の監視を任された。554年(1)参照。
 ⑵于寔...字は賓実。于謹の子。東念姐の乱を平定した。555年(3)参照。
 ⑶大小馮君...前漢の名将馮奉世の子の馮野王・馮立のこと。ともに数々の太守を歴任して善政を行なったので、『大馮君』『小馮君』と称された。
 [1]秦州都督...河・渭・涼・鄯諸州を監督しているのであろう。
 
●曲江侯勃の挙兵

 2月、庚午(1日)、梁の太保・広州刺史の曲江侯勃が広州(南海)にて挙兵し、〔大庾〕嶺(始興と南康の間にある山脈)を越えた。勃は南康に到ると、部将で衡州(陽山)刺史の欧陽頠傅泰・甥[1]蕭孜を前軍として先行させ、豫章の各要害に布陣させた。
 南江州(新呉)刺史[2]余孝頃はこれを聞くと呼応して兵を挙げた。
 梁は平西将軍(五階)の周文育と平南将軍(五階)の侯安都らに諸軍を率いてこれを討つように命じた《陳武帝紀》

 癸酉(4日)、周の孝閔王が東郊にて朝日を拝した。
 戊寅(9日)、太社にて豊穣神を祀った《周孝閔紀》
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 ⑴曲江侯勃...武帝の従父弟の子。侯景の乱後、広州に割拠した。去年の12月に太保とされていた。556年(4)参照。
 ⑵欧陽頠...字は靖世。生年498、時に60歳。梁の名将蘭欽の親友。曲江侯勃の部下だが、一時仲が険悪になったことがある。556年(4)参照。
 [1]従子...考異曰く、『陳書・南史周文育伝にはみな「子」とある。今は梁敬帝紀の記述に従った。
 [2]南江州刺史...考異曰く、『典略には「南康州刺史」とある。今は梁書の記述に従った。
 ⑶余孝頃...新呉洞主。梁が侯景を攻めると、一万の兵を率いてこれに合流した。去年、侯瑱の侵攻を撃退した。556年(4)参照。
 ⑷周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。呉興・会稽の攻略に活躍し、のち南豫州刺史とされ、江州の攻略を行ない、北斉が侵攻してくるとその大破に大きく貢献した。556年(2)参照。
 ⑸侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らし回り、幕府山南の決戦では別働隊を率いて北斉軍の後軍の横腹を突き、梁軍が大勝する大きな一因となった。556年(2)参照。

●趙貴誅殺
 北周の太傅・大冢宰・楚公の趙貴と太保・大宗伯・衛公の独孤信は国家の元勲であり、西魏時代に宇文泰と〔建前上〕同等の身分(柱国大将軍)にあったが、孝閔王が即位すると、〔自分たちよりも低い身分(大将軍)にあった〕晋公護の命令を受けるようになった。これに大きな不満を抱いた二人は、やがて護の殺害を企てた。約束の日、貴が事を起こそうとすると、信はこう言った。
「やはり護を殺すのはいかん。護が摂政となったのは先王のご意志であるし、しかも護は先王の近親である。我らがこれを殺すのは良くないだろう。」
 貴はそこで決行を取り止めた《北史演義》。開府儀同三司〔・塩州(もと西安州。黄河屈曲部にある)刺史・漁陽県公〕の宇文盛字は保興)が長安に到って陰謀を護に密告すると、護はこう言った。
「先手を打たねば、必ず後悔することになろう!」
 丁亥(18日)護は壮士を宮殿内に潜ませ、貴が参内してきた所を捕らえて殺した。
 天王は詔を下して言った。
『朕の父・文王(宇文泰)は、昔、諸公および文武百官と協力して天下を統治した。二十三年の間、諸公たちは何の不満も持たずに代わるがわる父を補佐し、遂には余を天王の位に即けるまでに至った。朕は不徳の身であるが、この経緯は重々承知している。ゆえに、朕は諸公に対し、同姓の者なら兄弟と思い、異姓の者なら舅甥と思い、いずれ天下を平定したら、子々孫々に至るまで共に富貴を享受しようと考えていた。しかし朕は不明ゆえ、国家をよくまとめることができなかった。楚公貴はそんな朕に不満を感じ、万俟幾通叱奴興王龍仁・長孫僧衍らに密かに不正な授官を行なって〔仲間に引き入れ、〕国家の転覆を図った。しかし、彼らは事を起こす前に、開府の宇文盛らの告発を受けた。そこで彼らに詳しく問い質してみた所、みな素直に罪を認めた。ここに至り、朕は深く同情の念を覚えた。ただ、法は天下の法であり、朕はそれを執行する立場にある。その朕が、どうして私情を挟んで法を蔑ろにする事ができようか。ただ、書に「善を褒める場合は子孫にまで及ぼし、悪を罰する場合は犯人一人だけに留めるべき」とあるゆえ、貴・通・興・龍仁の罪は一家に、僧衍は一房(妻妾)のみに留め、他は不問とすることにする。文武百官は、朕の心中をよくよく理解せよ。』
 ただ、独孤信は国内に非常な影響力があったため(周16独孤信伝)、殺すことはせず、免官のみに留めた[1]。また、信の第二子で河州(天水の西)刺史の独孤善も免官とした(長子の羅は北斉に抑留中)。
 善は字を伏陁といい、幼い頃から利発で、馬と弓の扱いに長けた。父の勲功大なるを以て魏寧県公に封ぜられた。西魏の廃帝元年(552)に再び父の勲功大なるを以て驃騎大将軍・開府儀同三司とされ、侍中を加えられ、長安郡公に進められた。北周が建国されると河州刺史とされた。
 
 天王は宇文盛を大将軍・忠城郡公・涇州都督とし、鎧一領と奴婢二百人、馬五百頭を下賜し、牛・羊・田地・食器類などもこれに比例する形で下賜した。
 また、盛の弟で大都督・臨邑県子の宇文丘字は胡奴)も、密告に関係したことで車騎大将軍・儀同三司・安義県侯とされた。

 長孫僧衍は荊州総管・荊襄等五十二州諸軍事・行荊州刺史の長孫倹の長子である。護は倹を朝廷に呼び戻し、小冢宰とした。

○周孝閔紀
 丁亥,楚國公趙貴謀反,伏誅。詔曰:
 朕文考昔與羣公洎列將眾官,同心戮力,共治天下。自始及終,二十三載,迭相匡弼,上下無怨。是以羣公等用升余於大位。朕雖不德,豈不識此。是以朕於羣公,同姓者如弟兄,異姓者如甥舅。冀此一心,平定宇內,各令子孫,享祀百世。而朕不明,不能輯睦,致使楚公貴不悅于朕,與万俟幾通、叱奴興、王龍仁、長孫僧衍等陰相假署,圖危社稷。事不克行,為開府宇文盛等所告。及其推究,咸伏厥辜。興言及此,心焉如痗。但法者天下之法,朕既為天下守法,安敢以私情廢之。書曰「善善及後世,惡惡止其身」,其貴、通、興、龍仁罪止一家,僧衍止一房,餘皆不問。惟爾文武,咸知時事。
 太保獨孤信有罪免。
○周11宇文護伝
 趙貴、獨孤信等謀襲護,護因貴入朝,遂執之,黨與皆伏誅。
○周16趙貴伝
 初,貴與獨孤信等皆與太祖等夷,及孝閔帝即位,晉公護攝政,貴自以元勳佐命,每懷怏怏,有不平之色,乃與信謀殺護。及期,貴欲發,信止之。尋為開府宇文盛所告,被誅。
○周16独孤信伝
 趙貴誅後,信以同謀坐免。
○周16独孤善伝
 善字伏陁,幼聰慧,善騎射,以父勳,封魏寧縣公。魏廢帝元年,又以父勳,授驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,進爵長安郡公。孝閔帝踐阼,除河州刺史。以父負舋,久廢於家。保定三年,乃授龍州刺史。
○周29宇文盛伝
 宇文盛字保興,代人也。曾祖伊與敦、祖長壽、父文孤,竝為沃野鎮軍主。盛志力驍雄。初為太祖帳內,從破侯莫陳悅,授威烈將軍,封漁陽縣子,邑三百戶。大統三年,兼都督。從擒竇泰,復弘農,破沙苑,授都督、平遠將軍、步兵校尉,進爵為公,增邑八百戶。除馮翊郡守,加帥都督、西安州大中正、通直散騎常侍、撫軍將軍,增邑三百戶。累遷大都督、車騎大將軍、儀同三司、驃騎大將軍、開府儀同三司、鹽州刺史。及楚公趙貴謀為亂,盛密赴京告之。貴誅,授大將軍,進爵忠城郡公,除涇州都督,賜甲一領、奴婢二百口、馬五百疋,牛羊及莊田、什物等稱是。
○周29宇文丘伝
 盛弟丘。丘字胡奴,起家襄威將軍、奉朝請、都督,賜爵臨邑縣子。稍遷輔國將軍、大都督。預告趙貴謀,拜車騎大將軍、儀同三司,進爵安義縣侯,邑一千戶。
○北22長孫倹伝
 後移鎮荊州,總管荊襄等五十二州諸軍事、行荊州刺史。及周閔帝初,趙貴等將圖晉公護,儉長子僧衍預其謀,坐死。護乃徵儉,拜小冢宰。
○北史演義
 有楚公趙貴、衛公獨孤信,二人功勞勛望,群臣莫及,太祖嘗倚為腹心。及護專政,威福自由,二人怏怏不服。貴謀殺護,信止之曰:「不可。此乃先王之意,又其至親,吾等殺之不祥。」貴乃止。其時二人密語室中,有帝幼弟宇文盛自窗外聞之,遂以告護。護曰:「事不先發,必貽後悔。」乃伏壯士於殿內,貴入朝,擒而殺之。免獨孤信官。

 ⑴宇文泰...字は黒獺。天王宇文覚の父。西魏の実力者。去年亡くなった。556年(4)参照。
 ⑵叱奴興...開府儀同三司。伐蜀に参加し、蜀で起きた叛乱の鎮定にも活躍した。554年(4)参照。
 ⑶《春秋公羊伝》昭公二十年に曰く、『悪悪止其身,善善及子孫。』
 [1]これはいわゆる『国君年少にして国人安んぜず、大臣懐かざる』(《史記》呉起伝)時である。趙貴を殺したことで、護の威権は確立したのである。
 ⑷長孫倹…生年491、時に66歳。もとの名は慶明。北魏の名族の出。容貌魁偉で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、その飛躍に大きく貢献した。のち、540~546年、549年以降の長期に渡って荊州を統治し、江陵攻略を進言した。554年(4)参照。
 
●宿将動揺
 これより前、護が宰相となった時、侯伏侯龍恩はその信任を受けた。
 現在、趙貴が誅殺されると、宿将たちの多くが身に不安を覚えた。この時、龍恩の従弟で開府の賀屯植侯植)が龍恩にこう言った。
「今、主上は幼く、国家の安危は諸公の団結如何にかかっていますが、〔外敵は強敵でありますので、〕団結がいくら強固なものであってもなお不安が残ります。まして、関係が薄弱で、殺し合っているようなら尚更です! 私は今回のことで人心がばらばらになってしまわないか心配しています。兄上は晋公に信任されているのに、どうしてこの事を忠告しないのですか。」
 しかし、龍恩はとうとう忠告することができなかった。
 植はまた、機を見て護にこう言った。
「主上と明公の関係は父子の関係に等しく、終生、運命を共にする間柄であります。その上、宰相の重任を受けておりますゆえ、国家の命運は実に明公の手にかかっております。どうか、明公は伊尹・周公のように主上に忠誠を尽くし、国家を泰山のように不動のものとされますよう。さすれば、明公の子孫は永く富み栄え、国民もみな幸せとなるでしょう。」
 護は答えて言った。
「私は太祖(宇文泰)の甥で、大恩も蒙っている身ゆえ、はなから国に身を捧げる覚悟はできている。賢兄(龍恩?)も私のこの心を当然知っている。〔それなのに、〕どうして卿は私に二心があるかのような物言いをするのか。」
 護は先に龍恩から植の言葉を聞いていたのもあり、以降、植を遠ざけるようになった。

 植(生年506、時に52歳)は字を仁幹(永顕?)といい、上谷の人で、後漢の司徒の侯覇の後裔で、〔前〕燕の散騎常侍の侯龕の八世孫である。高祖父の侯恕が北魏の北地郡守とされると、侯家は代々北地の三水(長安と安定の中間)に住むようになり、州郡の名士となった。父の侯欣は泰州刺史・奉義県公とされた。
 植は若年の頃から優秀で、志操正しく、容貌も武芸の腕前も並み外れていた。正光年間(520~524)に出仕して奉朝請とされ、間もなく天下が大いに乱れると、家財をなげうって勇士を募り、賊徒を討った。その功により統軍とされ、のち清河郡守とされた。のち、賀抜岳に従って万俟醜奴らを討伐し、功によって義州(恒農の南。義州は西魏が置いた)刺史とされた。州に赴任すると非常な政績を挙げ、州民に慕われた。
 のち、高歓が洛陽に迫って孝武帝が関中に逃れると、これに付き従って入関し、大統元年(535)に驃騎将軍・都督とされ、侯伏侯の姓を与えられた。のち沙苑・河橋の戦いにて功を挙げ、大都督・左光禄大夫とされた。涼州刺史の宇文仲和が叛乱を起こすと(546年)開府の独孤信の指揮のもとこれを討平し、その功によって車騎大将軍・儀同三司・肥城県公(邑千戸)とされた。廃帝二年(553年)の十二月にこれまでの功績が評価され、更に賀屯の姓を与えられた。恭帝元年(554)に万紐于謹于謹)の指揮のもと江陵を平定し、その功によって驃騎大将軍・開府儀同三司とされ、百人の奴隷を与えられ、息子一人が汧源県伯とされた。六官が建てられると(556年)司倉下大夫とされ、北周が建国されると肥城郡公(邑二千戸)とされた。

○周29侯植伝
 侯植字仁幹,上谷人也。燕散騎常侍龕之八世孫。高祖恕,魏北地郡守。子孫因家于北地之三水,遂為州郡冠族。父欣,泰州刺史、奉義縣公。
 植少倜儻,有大節,容貌奇偉,武藝絕倫。正光中,起家奉朝請。尋而天下喪亂,羣盜蜂起,植乃散家財,率募勇敢討賊。以功拜統軍,遷清河郡守。後從賀拔岳討万俟醜奴等,每有戰功,除義州刺史。在州甚有政績,為夷夏所懷。
 及齊神武逼洛陽,植從魏孝武西遷。大統元年,授驃騎將軍、都督,賜姓侯伏侯氏。從太祖破沙苑,戰河橋,進大都督,加左光祿大夫。涼州刺史宇文仲和據州作逆,植從開府獨孤信討擒之,拜車騎大將軍、儀同三司,封肥城縣公,邑一千戶。又賜姓賀屯。魏恭帝元年,從于謹平江陵,進驃騎大將軍、開府儀同三司,賜奴婢一百口,別封一子汧源縣伯。六官建,拜司倉下大夫。孝閔帝踐阼,進爵郡公,增邑通前二千戶。
 時帝幼冲,晉公護執政,植從兄龍恩為護所親任。及護誅趙貴,而諸宿將等多不自安。植謂龍恩曰:「今主上春秋既富,安危繫於數公。共為唇齒,尚憂不濟,況以纖介之間,自相夷滅!植恐天下之人,因此解體。兄既受人任使,安得知而不言。」龍恩竟不能用。植又乘間言於護曰:「君臣之分,情均父子,理須同其休戚,期之始終。明公以骨肉之親,當社稷之寄,與存與亡,在於茲日。願公推誠王室,擬迹伊、周,使國有泰山之安,家傳世祿之盛,則率土之濱,莫不幸甚。」護曰:「我蒙太祖厚恩,且屬當猶子,誓將以身報國,賢兄應見此心。卿今有是言,豈謂吾有他志耶。」又聞其先與龍恩言,乃陰忌之。植懼不免禍,遂以憂卒。贈大將軍、平揚光三州諸軍事、平州刺史,諡曰節。子定嗣。
○周故開府儀同賀屯公之墓志
 公諱植,字永顯,建昌郡人也。其先侯姓,漢司徒霸之后。…公…孝敬基於自然,仁讓發於天性。不競邑里之華,而存倜儻之節。至如揮戈跨馬,氣籠六郡之奇;嘱矢控弦,妙奪楼煩之術。加以胆氣兼人,才武絶世。故能戰必有功,陣無不捷。平竇賊於小関,克恒農于陕虢。戮河橋之封豕,摧沙苑之長蛇。騁驍悍於洛陽,效武績于隋陸。其餘功戰,難得詳言。而公忠簡帝心,勲德諧懋,賞禄既当,寵榮斯及。歷位衛大将軍、右光禄大夫、太子中舍人、河陽郡守。稍遷使持節、驃騎大将軍、開府儀同三司、大都督義州諸軍事、義州刺史、司倉大夫、肥城縣開國公,食邑一千七百。公率禮讓以總民,總威惠以御衆,供出納於儲宫,秉綸于玉府。褰帷三載,民興五葱之謡;拥鉞十周,士懷赴火之節。魏前二年十二月中,太祖文皇帝以公忠效累彰,宜加旌异,爰命史官,賜姓贺屯氏。時推姓首,實主宗祀。

 ⑴侯伏侯龍恩…宇文護に早くから仕え、邙山の戦いの際に護が東魏軍に包囲されると、身を挺してこれを守った。


 557年(2)に続く