┃孝荘帝の逃亡
「関中の地は連年の戦乱によって荒れ果てておりますから、避難の場所として適当ではありません。
そもそも臣が考えますに、元顥が寡兵にして深く畿内の地に辿り着けた所以は、我が軍の将帥に人物がいなかったからであります。ここでもし、陛下が御自ら宿衛の兵や高禄重賞賞で募った勇士をお率いになって、城を背に一戰なさるなら、臣らは皆奮い立ち、孤軍寡兵の顥軍など必ずたちどころに撃破するでありましょう。
しかし、戦いというのは、博打のようなもので予測がつかず、万が一の事態になる可能性もあります。それを心配なさるのなら、黄河を渡って河北に一旦お避けになり、大将軍の元天穆と大丞相の爾朱栄に呼びかけ、顥を挟み撃ちにさせるのが宜しいかと思います。さすれば、一月も経たず必ず成功を見るでしょう。これこそ、万全の策であります」
帝は言った。
「高舎人の言う通りである。」
これより前、岐州刺史の楊侃(長孫稚と共に蕭宝寅の乱を平定した)は都督とされて大梁の守備を任されたが、出発する前に再び詔が下されて北中郎将(河橋の北中城を守備する)とされていた。
孝荘帝が河北に蒙塵した時、帝は随行していた侃の手を取って言った。
「朕がそなたを北中郎将にしたのは、まさに今日の様な事態を想定してのことであった。しかしそなたの一門は天下におり、朕に随行すれば家族への災いは甚大なものとなるであろう。そのようなことになるのは忍びない。そなたは洛陽に還るのだ。」
侃は答えて言った。
「陛下、それはいらぬお節介というものであります。臣が一族などのために、君臣の義を犠牲にすることは決してありません!」
かくて頑として随行することを希望したので、帝は遂にこれを許した。
甲戌(5月23日)、帝は城陽王徽以下およそ十人の従者(朱瑞など)と共に北に向けて出発し、夜に河内郡の南に辿り着いた。そこで帝は高道穆に命じて燭下に詔書数十枚を作らせ、遠近に己の所在を告げ知らせた。ここに至って四方は初めて帝がどこにいるのかを知った。
●元顥入洛
孝荘帝が洛陽を脱出すると、〔尚書令の〕臨淮王彧と〔侍中・大司馬の〕安豊王延明は府庫に鍵をかけて中身を保存したのち、百官を従え、法駕を用意して顥を出迎えた【『考異』曰く、『魏書』の彧伝にこの記述は無く、『梁書』32陳慶之伝・『北斉書』39宋遊道伝にはある。恐らく北魏の史官が彧に遠慮したのであろう】。
丙子(25日)(梁武帝紀では24日)、顥は洛陽の皇宮に入り、年号を孝基から建武に改め、大赦を行なった。また、陳慶之を侍中・車騎大将軍・左光禄大夫とし、封邑を加増して一万戸とした。
この時、〔北魏の太保の〕楊椿は洛陽に残っていたが、子の楊昱は滎陽にて激しく抵抗して捕らえられ、弟の楊順は冀州刺史、順の子の楊仲宣は正平太守、兄の子の楊侃と弟の子の楊遁は孝荘帝に付き従ってそれぞれ河北に在ったため、顥に嫌疑をかけられた。しかし顥は名門の楊氏を害して人望を失うのを恐れ、なかなか誅を下せずにいた。ある者が椿に逃亡を勧めると、椿は答えて言った。
┃北魏の反撃
子昇は答えて言った。
「主上が虎牢の守りを失って、動揺して蒙塵されたのち、元顥が新しく洛陽の主となりましたが、人心はまだ彼に懐いているとは言えず、その地盤は極めて不安定な状態にあると言えます。ここで今大王が機を逃さず都に攻撃をかけなされば、まず勝利は疑いありません。その上で都に主上をお迎えなされば、大王は古の桓・文に匹敵する行ないを致すことになるのです。その千載一遇の機会を打ち捨てて河北に行かれるとおっしゃいますのは、ただただ残念としか言いようがありません!」
天穆はこの言をもっともだと思ったが、採用することはできず、遂に十余騎のみを連れて石済〔津〕より河北に逃れた。爾朱兆⑴と共に後軍を率いていた寬は夜間に道に迷い、約束の時間に間に合わなかった。諸将は寛がやって来ないのを見ると、口を揃えてこう言った。
慶之はその勢いに乗って大梁・梁国に進撃し、どちらも奪取した。梁の武帝はこれを聞くと、賞賛の言葉を綴った手製の詔を以て功に報いた。
慶之は数千の兵を以て、銍県から洛陽に至るまでの140日間に凡そ三十二城を攻略し、四十七の戦いに尽く勝利した。
慶之麾下の兵たちは皆白袍(白いマント)を着、戦えば必ず勝った。慶之がこの挙を起こす前、洛陽ではこのような童歌が流行ったものだった。
「名師大将自らを牢(まも)る無く、千兵万馬、白袍を避く。」(どんな立派な兵隊や大将さまでも、彼らには敵わない。どんな大軍でも、白袍には敵わない)
「朕が泣いてまで梁に派兵を求めたのは、ただ元氏の仇である爾朱氏を討ち、そなたをその桎梏(束縛)から解き放ってやりたかったからであった。なのに、そなたは朕を野心家と見て信用せず、洛陽から逃れ、おのが命や身体を進んで豺狼や虎口に委ねてしまった。
そなたがこれから仮に頽勢を挽回したとして、土地や人民を手に入れても、それはただ栄の物となるだけで、そなたの物となるわけではない。それでどうして皇帝と言えようか。
今、国家の興廃は、ひとえにそなたと朕にかかっている。もしそなたが正道に立ち返って朕と手を携えてくれるなら、魏朝は再興できよう。そうでなければ、栄に幸いが訪れ、そなたに禍いが降りかかるだろう。
そなたは今一度、富貴を保ち安楽に暮らせる道がどちらにあるかよく考えて、悔いを残さないようにすべきである。」
○魏82祖瑩伝
累遷國子祭酒,領給事黃門侍郎,幽州大中正,監起居事,又監議事。元顥入洛,以瑩為殿中尚書。
○洛陽伽藍記
顥與莊帝書曰:「大道旣隱,天下匪公。禍福不追,與能義絕。朕猶庶幾五帝,無取六軍。正以糠粃萬乘,錙銖大寶,非貪皇帝之尊,豈圖六合之富?直以尒朱榮往歲入洛,順而勤王,終為魏賊。逆刃加於君親,鋒鏑肆於卿宰。元氏少長,殆欲無遺。已有陳恒盜齊之心,非無六卿分晉之計。但以四海橫流,欲篡未可;暫樹君臣,假相拜置。害卿兄弟,獨夫介立。遵養待時,臣節詎久?朕覩此心寒,遠投江表,泣請梁朝,誓在復恥。風行建業,電赴三川,正欲問罪於尒朱,出卿於桎梏;恤深怨於骨肉,解蒼生於倒懸。謂卿明眸擊節,躬來見我,共敘哀辛,同討凶羯。不意駕入成臯,便爾北渡。雖迫於兇手,勢不自由;或貳生素懷,棄劍猜我。聞之永歎,撫衿而失。何者?朕之於卿,兄弟非遠。連枝分葉,興滅相依。假有內鬩,外猶禦侮;況我與卿,睦厚偏篤,其於急難,棄親卽讐,義將焉據也?且尒朱榮不臣之跡,暴於旁午,謀魏社稷,愚智同見。卿乃明白疑於必然,託命豺狼,委身虎口,棄親助賊,兄弟尋戈。假獲民地,本是榮物;若克城邑,絕非卿有。徒危宗國,以廣寇仇。快賊莽之心,假卞莊之利。有識之士,咸為慚之。今家國隆替,在卿與我。若天道助順,誓茲義舉,則皇魏宗社與運無窮。儻天不厭亂,胡羯未殄,鴟鳴狼噬,荐食河北,在榮為福,於卿為禍。豈伊異人?尺書道意,卿宜三復。義利是圖,富貴可保,狥人非慮,終不食言,自相魚肉。善擇元吉,勿貽後悔。」此黃門郎祖瑩之詞也。時帝在長子城,太原王、上黨王來赴急難。
┃青州付かず
元顥の入洛後、黄河以南の諸郡の多くがこれに付き従った。
斉州刺史の沛郡王欣⑴もまた文武諸官を集めてこう言った。
「北海王(元顥)も長楽王(孝荘帝)も、いとこ同士の関係であり、どちらも元氏の宗室であることに変わりはない。であれば、私が北海の大赦(25日)を受け入れ、これに従っても特に問題はないであろう。諸君はこれについて何か意見はあるか?」
この発言に一同は皆色を失って押し黙ってしまった。しかしその時、ただ一人、東道軍司の崔光韶(528年の邢杲の乱から青州を守り切り、その功により東道軍司に任じられていた)のみが敢然と反対の声を上げて言った。
「元顥は梁の傀儡にすぎぬばかりか、仇敵の兵を引き込んで祖国を転覆させた魏の賊臣乱子であります! このような逆賊は、大王一家や魏朝に恩を受けてきた我らにとって、歯ぎしりして憎む相手にはなり得ても、主君と仰ぐ相手には絶対になり得ませぬ!」
ここに至って青州長史の崔景茂・前瀛州刺史の張烈・前郢州刺史の房叔祖・徵士の張僧皓らもみな口を揃えて言った。
「軍司の言う通りであります!」
欣はそこで改心し、顥の使者を斬った。
一方、もと東益州刺史で衛尉卿の魏子建も親友の盧義僖にこう言った。
「北海は自ら国家を断絶させ、蕭衍に従属した。私は老いた(魏子建は471年生まれで、時に59歳)が、陪臣(家臣の家臣)などになりたくはない。」
かくて家族を連れて洛〔水の〕南に移り住み、距離を置いた。
○資治通鑑
齊州刺史沛郡王欣集文武議所從。…軍司崔光韶獨抗言曰:「元顥受制於梁,引寇讎之兵以覆宗國,此魏之亂臣賊子也;豈唯大王家事所宜切齒,未敢仰從!」
○魏21沛郡王欣伝
出為冠軍將軍、荊州刺史,轉征虜將軍、齊州刺史。欣在二州,頗得人和。
○魏24崔景茂伝
模孫景茂 ,冀州別駕、青州長史。
○魏66崔光韶伝
尋為東道軍司。及元顥入洛,自河以南,莫不風靡。而刺史、廣陵王欣集文武以議所從。欣曰:「北海、長樂俱是同堂兄弟,今宗祏不移,我欲受赦,諸君意各何如?」在坐之人莫不失色,光韶獨抗言曰:「元顥受制梁國,稱兵本朝,拔本塞源,以資讎敵,賊臣亂子,曠代少儔,何但大王家事所宜切齒,等荷朝眷,未敢仰從。」長史崔景茂、前瀛州刺史張烈、前郢州刺史房叔祖、徵士張僧皓咸云:「軍司議是。」欣乃斬顥使。
◯魏104自序
還洛後,俄拜常侍、衞尉卿。初,元顥內逼,莊帝北幸,子建謂所親盧義僖曰:「北海自絕社稷,稱藩蕭衍,吾老矣,豈能為陪臣?」遂攜家口居洛南。
この時、襄州(孝昌年間〈525〜528〉に襄城に設置)刺史の賈思同・広州(永安年間〈528〜〉に魯陽に設置)刺史の鄭先護・広州防蛮別将の裴景顔・南兗州刺史の元暹らもまた顥に従わぬことを表明した。
賈思同は、賈思伯の弟である。
また、冀州刺史の元孚(葛栄に徹底抗戦して捕らえられたが、葛栄が平定されると再び冀州刺史に任じられていた)も、元顥から送られてきた東道行台・彭城郡王の任命書に封をして孝荘帝に転送し、二心の無いことを示した。
義陽⑴郡守の裴協は顥の使者を捕らえ、その赦免の書状を焼いた。
豫州刺史の源子恭は顥から車騎将軍の任命書を受け取りはしたが、裏では孝荘帝のもとに使者を遣わし、繋がりを保っていた。
東(?)濮陽太守の崔巨倫も顥に従わない事を表明した。
陽平王敬先は叔父の元均らと共に河橋にて兵を挙げて顥を討とうとしたが、失敗して死んだ。
任城(兗州の西南)太守の李湛は大学者の徐遵明と共に義兵を挙げようとしたが、夜に民間に到った所で乱兵に殺害された(徐遵明、享年55)。
○魏16元敬先伝
〔世遵〕子敬先,襲。歷諫議大夫、散騎常侍,領主衣都統。元顥入洛,莊帝北巡。 敬先與叔父均等於河梁起義,為顥所害。追贈侍中、車騎大將軍、太尉公、定州刺史。
○魏18元孚伝
除冀州刺史。元顥入洛,授孚東道行臺、彭城郡王,孚封顥逆書送朝廷,天子嘉之。
○魏19元暹伝
仲景弟暹,字叔照。莊帝初,除南兗州刺史,在州猛暴,多所殺害。元顥入洛,暹據州不屈。
○魏41源子恭伝
元顥之入洛也,加子恭車騎將軍,子恭不敢拒之,而頻遣間使參莊帝動靜。
○魏56鄭先護伝
尋除前將軍、廣州刺史、假平南將軍、當州都督。時妖賊劉舉於濮陽起逆,詔先護以本官為東道都督討舉平之。還鎮。後元顥入洛,莊帝北巡,先護據州起義兵,不受顥命。
○魏56崔巨倫伝
莊帝即位,假節、中堅將軍、東〔郡、〕濮陽太守,假征虜將軍、別將。時河北紛梗,人士避賊,多住郡界,歲儉飢乏,巨倫傾資贍恤,務相全濟,時類高之。元顥入洛,據郡不從。
○魏69裴景顔伝
景顏,頗有學尚。起家汝南王開府行參軍。孝莊初,為廣州防蠻別將,行漢廣郡事。元顥入洛,與刺史鄭先護據州起義,事寧,賜爵保城子。
○魏72賈思同伝
〔賈〕思伯弟思同,字士明。少厲志行,雅好經史。釋褐彭城王國侍郎,五遷尚書考功郎,青州別駕。久之,遷鎮遠將軍、中散大夫、試守滎陽太守。尋即真。後除平南將軍、襄州刺史。雖無明察之譽,百姓安之。及元顥之亂也,思同與廣州刺史鄭先護並不降。
○魏84徐遵明伝
二年,元顥入洛,任城太守李湛將舉義兵,遵明同其事。夜至民間,為亂兵所害,時年五十五。
○周35裴侠伝
義陽郡守。元顥入洛,俠執其使人,焚其赦書。魏孝莊嘉之,授輕車將軍、東郡太守,帶防城別將。…俠本名協。
⑴義陽…《読史方輿紀要》曰く、『汝寧府(汝南)の南百二十里の真陽県に北魏は永安三年に郢州を置き、天平四年(537)に州を廃し、義陽郡を置いた。』
┃制圧捗らず
顥が東郡に兵を派遣すると、太守の崔庠は郷里に逃亡した。
顥は舅の范遵に滑台(東郡の治所)を守備させ、孝荘帝の黎陽太守の鄭輯之と黄河を隔てて対峙させた。遵は夜陰に紛れて渡河し、これを奇襲せんとした。輯之は城民を率い、水際で迎撃して退却させた。
また、中書令の裴粲を西兗州刺史としたが、粲は間もなく濮陽太守の崔巨倫の攻撃に遭い、州城を放棄して嵩山に逃げ込む羽目になった。
また、穆紹を兗州刺史とした。紹は東郡にまで進んだ。
また、顥は河南尹の李奨を兼尚書右僕射とし、徐州の懐柔を命じたが、徐州の羽林および城民はこれを拒否し、奨を殺害した。
また、元邃を東徐州(下邳)刺史とした(この時、東徐州刺史は韋朏?が就いており、本当に赴任できたかは不明)。邃は申徽を主簿とした。
また、尚書令の臨淮王彧に広州の鄭先護を攻めさせたが、先護は城から出撃してこれを防いだ。
南冀州(武泰元年〈528〉に済州の平原・相州の陽平・冀州の清河を割いて設置し、永安年間に廃止された。あるいは済州刺史)の元仲景は顥に付き、あくまで孝荘帝に従った平原相の辛子馥とその家族を捕らえた。
また、兼黄門の刁整を滄州(冀州の東)刺史とした。
○魏27穆紹伝
元顥入洛,以紹為兗州刺史。行達東郡。
○魏38刁整伝
二年,兼黃門。元顥入洛,用為滄州刺史。
○魏45辛子馥伝
長子子馥,字元穎,早有學行。孝昌初,釋褐南司州龍驤府錄事參軍。丁父艱,居喪有禮。後除給事中、南冀州防城都督。素為莊帝所知識,及即位,除宣威將軍、尚書右主客郎中,持節為南濟、冀、濟、青四州慰勞使。尋除寧朔將軍、員外散騎常侍,仍領郎中。太宰元天穆征邢杲,引為行臺郎中。尋除平原相。子馥父子並為此郡,吏民懷安之。元顥入洛,子馥不受其赦。刺史元仲景附顥,拘子馥,并禁家口。
○魏56鄭輯之伝
仲衡弟輯之,解褐奉朝請,領侍御史,以軍功賜爵城臯男。稍遷黎陽太守。屬元顥入洛,令其舅范遵鎮守滑臺,與輯之隔岸相對。遵潛軍夜渡,規欲掩襲,輯之率厲城民,拒河擊之,遵遂遁走。
○魏56鄭先護伝
顥遣尚書令、臨淮王彧率眾討之【[六]諸本「尚」作「上」。按卷一八臨淮王譚附彧傳以北史補,不載此事,但云彧於元子攸即位後,自梁還,「累除位尚書令」云云。元顥入洛,當仍居此官。這裏「上」顯為「尚」之訛,今改正。】,先護出城拒戰。
○魏65李奨伝
孝莊初,為散騎常侍、鎮東將軍、河南尹。奬前後所歷,皆以明濟著稱。元顥入洛,顥以奬兼尚書右僕射,慰勞徐州。羽林及城人,不承顥旨,害奬,傳首洛陽。
○魏67崔庠伝
長文從弟庠,字文序。有幹用。初除侍御史、員外散騎侍郎、給事中。頻使高麗,轉步兵校尉,又轉司空掾,領左右直長。出除相州長史,還,拜河陰、洛陽令,以強直稱。遷東郡太守。元顥寇逼郡界,庠拒不從命,棄郡走還鄉里。
○魏71裴粲伝
世宗末,除前將軍、太中大夫、揚州大中正,遷安南將軍、中書令。肅宗釋奠,以為侍講。轉金紫光祿大夫。後元顥入洛,以粲為西兗州刺史。尋為濮陽太守崔巨倫所逐,棄州入嵩高山。
○周32申徽伝
元顥入洛,以元邃為東徐州刺史,邃引徽為主簿。
┃河東動乱
また、河東の薛修義(527年10月に蕭宝寅の乱に呼応して挙兵したが、のち北魏に降伏した)・薛永宗・降蜀の陳双熾(526年6月に乱を起こしたが、薛修義の説得を受け降伏した)らが顥に呼応して再度乱を起こした。このとき修義・永宗の宗人の薛孝通(527年〈4〉参照)が河東郡城(蒲坂)にいたので、彼らはこれに内応を求めた。すると孝通は親しい者にこう言った。
「北海王は虛に乗じて洛陽に侵入できただけで、しかもその本拠は遥か遠くにある。呉兵(梁軍)は必ず長く保たないであろう。いま永宗らと共に叛乱を起こすのは、一族を滅ぼす道である。」
かくて近親者を引き連れ、河東太守の元襲と共に城を固く守った。〔そこで〕修義らは矛先を変えて晋州(唐州が建義元年〈528年〉に名を改められたもの)の州城(平陽)を襲ったが、刺史の樊子鵠(爾朱栄の入洛に際し唐州を攻め陥とした)の反撃に遭って大敗し、更に土門においても敗北を喫してしまった。
○魏80樊子鵠伝
建義初,拜平北將軍、晉州刺史,封永安縣開國伯,食邑千戶,又兼尚書行臺。治有威信,山胡率服。元顥入洛,薛脩義及降蜀陳雙熾等受顥處分,率眾攻州城。子鵠出與戰,大破之,又破脩義等於土門。
○北36薛孝通伝
北海王元顥入洛,宗人薛永宗、脩義等又聚徒作亂,欲以應之。孝通與所親計曰:「北海乘虛遠入,吳兵不能久住,事必無成。今若與永宗等同舉,滅族道也。」乃率其近親,與河東太守元襲嬰城固守。
┃元顥の敗は旦夕に在り
孝荘帝が洛陽を脱出した際、事は密かに、そして突然だったため、侍衛の兵や後宮の女官たちはそっくりそのまま元顥のものとなった。
顥は洛陽の主となると、詔は全て自らが書いて発布するなど精励した。その様を見て天下の人々は彼の政治に期待するようになった。しかし間もなく、顥は今回の成功は天が私に与えたもうたものと思い上がるようになり、政務を怠るようになっていった。
かくて政治は彼の近臣たちの手に委ねられるようになったが、彼らはその寵信をいいことに国政を私物化して混乱させた。顥は彼らと共に日夜飲酒して国家の大事を疎かにした。
また、慶之の率いる南兵も洛陽のあちこちで市民に暴行を加えるようになっていたが、元顥政権はこれを放置して取り締まらなかった。
このような有様となると、朝野の期待は一転して失望に変わった。
高道穆の甥の高子儒は、道穆が孝荘帝に従って河北に赴いたのに同行せず、一旦時を置いてから行宮に赴いた。帝は彼に会うと、洛中の様子について詳しく尋ねた。子儒は言った。
「顥の失敗は旦夕に迫っております。心配するに及びません。」
帝は道穆に尋ねて言った。
「そなたは何故子儒と共にやってこなかったのだ?」
道穆は言った。
「臣の一門は洛陽にあり、その差配をさせるために残してきたのです。また、今日のように都がどうなっているか伝えに来てくれることも期待しておりました。」
帝は言った。
「子儒はそなたの期待に背かなかっただけでなく、朕の心も大いに安らげさせてくれたぞ。」
そこで子儒を秘書郎中とした。
○魏21元顥伝
顥以數千之眾,轉戰輒克,據有都邑,號令自己,天下人情,想其風政。而自謂天之所授,頗懷驕怠。宿昔賓客近習之徒咸見寵待,干擾政事,又日夜縱酒,不恤軍國。所統南兵,凌竊市里。朝野莫不失望。時又酷斂,公私不安。
○魏77高子儒伝
謙之長子子儒 ,字孝禮。元顥入洛,其叔道穆從駕北巡,子儒後踰河至行宮,莊帝見之,具訪洛中事意,子儒備陳元顥敗在旦夕。帝謂道穆曰:「卿初來日,何故不與子儒俱行?」對曰:「臣家百口在洛,須其經營。且欲其今日之來,知京師後事。」帝曰:「子儒非直合卿本懷,亦大慰朕意。」仍授祕書郎中,轉通直郎。
○魏104自序
還洛後,俄拜常侍、衞尉卿。初,元顥內逼,莊帝北幸,子建謂所親盧義僖曰:「北海自絕社稷,稱藩蕭衍,吾老矣,豈能為陪臣?」遂攜家口居洛南,顥平乃歸。
○梁32陳慶之伝
初,元子攸止單騎奔走,宮衞嬪侍無改於常,顥既得志,荒于酒色,乃日夜宴樂,不復視事。
┃費穆の死
己丑(6月9日)、虎牢にて投降した費穆が洛陽に到ると、元顥はこれを引見し、河陰の虐殺に関与したことを責めて殺害した(享年53)。
王老生も疑われて殺され、甥の王則は広州の鄭先護のもとに逃れた。
また、于暉⑴を殺害した(詳細な時期は不明)。
○魏孝荘紀
六月己丑,儀同三司費穆為顥所害。
○魏44費穆伝
以河陰酷濫事起於穆,引入詰讓,出而殺之,時年五十三。
○魏83于暉伝
元顥入洛,害之。
○北斉20王則伝
元顥入洛,則與老生俱降顥,顥疑老生,遂殺之。則奔廣州刺史鄭先護,與同拒顥。