●侯景説得


 戊子(8月24日)、梁の武州[1]⑴刺史の蕭弄璋が東魏の磧泉・呂梁[2]⑶の二戍を攻め陥とした《出典不明》

 また、大将軍の侯景を録行台尚書事とした《梁武帝紀》


 意見を言う者はみな東魏の大将軍の高澄にこう言った。

「侯景には北帰の志があります。」

〔侯景が叛乱を起こして西魏に付いた時、〕景の将の蔡遵道梁書・北斉書。南史では『道遵』)が逃亡してきてこう言った。

「景はもともと西方に付く意志は無かったため、いざ西方の兵がやってくると非常に後悔し、崤中に私を遣わしてその多寡を調べさせ、少なければこれと力を合わせ、多ければ改めて警戒をすると言っておりました。」

 澄はこれを信じ、景に書簡を送ってこう言った。

「人にとって地位(人爵)は最大の宝だが、これを守るのは容易ではなく、仁義・忠信の徳(天爵)は最も大事な責務だが、終生堅持するのはひどく困難だという。

 先王(高歓)と司徒(侯景)は長期に渡って苦楽を共にした仲ゆえ、私も司徒に対しては親族以上の期待をかけていた。司徒も最上の官爵を受け、恩義に感じていたはずである。しかし今、司徒は期待や恩義に背いて叛逆を起こしてしまった。だが、司徒は力や勢いが足らぬまま実行してしまったため、その状態は累卵のように非常に危うい状態にある。また、救いを求めたのはよいものの、西は黒泰(黒獺、宇文泰の字)、南は蕭氏とどちらともに秋波を送るというどっちつかずの態度を取ったため、結局、秦(西魏)人には容れられず、呉人()にも不信の念を抱かれることになってしまった。

 また、今、我らは取り敢えず一部の兵を先発隊として派遣したのだが、それでも南兗・揚州(項城)を瞬時の内に取り戻してしまった(揚州が陥落したのは来年のこと。嘘をついたものか)。この勢いに乗じて一気に長駆 懸瓠(豫州)を突くことはできたのだが、ちょうど炎暑の時期に当たったので実行しなかった。我らは国威と天意のもと、武器は精良、兵馬は強盛を誇っている。国内はよく治まって上下は一体となっており、軍は命令が徹底されて湯火も恐れず競い進む有り様である。今もし本隊が出発すれば、その挙げる土煙は天を覆い、司徒の軍勢をまるで湯で雪を溶かすように、水で蛍火を消すように(注蛍沃雪)容易に滅ぼすであろう。

 そもそも、賢者は危険を回避して安全に就くものであり、智者は禍いを転じて福と為すものである。今もし司徒が武装を解いて上京してくれば、豫州刺史の身分を終身保証し、囚禁されている愛妻・愛子も帰し、配下の者も罪に問わぬことにする。」

 景は王偉546年〈2〉参照)に返事を書かせて言った。

「私は義とは身を立てて名を揚げることであり、また、個人の最大の宝は生命であると聞いています。義のためであれば節士はその命を惜しまぬのです。しかし、賞罰が乱れていれば、君子は命を惜しみ、義を捨てるのであります。むかし微子(箕子の誤り。箕子は殷の紂王の親族)が狂人を装って殷を去り、陳平(前漢の功臣)が知恵を抱いて楚(項羽)を離れたのは、まことにこのためなのです。

 それがしはもともと田舎の一般人で、これといった才芸も無かったのですが、天柱大将軍(爾朱栄)の抜擢に逢い、大事を預かる身分となり、永熙(532~534)の頃になると軍事の大権を任されるようになりました。二十余年に渡って国家のために身を粉にしてきた結果、とうとう袞衣を着、玉食に口に入れるような(袞〈錦〉衣玉食)富貴な身分となったのです。その私がどうして突如叛旗を翻したのでしょうか? それは身にいわれのない罪を着せられ、生命・名声ともに失うのを恐れたからです。去年の暮れより尊王(高歓)が病気にかかると、その機に乗じて佞臣や宦官が跋扈し、あることないことを将軍(高澄)に吹き込むので、遂に腹心は心を離すようになりました。それがしの妻子が鄴の邸宅にていわれなく包囲されたのは段康? 段孝先?)の計画でありましょうし、廬潜)がそれがしのもとにいきなり査察に赴いてきたのも不可解です。身に覚えもないのにそのようなことをされては、疑うなという方が難しいでしょう。長社(潁川)に包囲されるに及び、それがしは己の苦衷を述べた書簡を出しましたが、返書は無く、斧鉞が答えとして突きつけられるのみでした。城の周囲に堰を築かれて水攻めにされ、三板の高さを残して水没するに至り、座して死を待つに忍びず、遂に城下に出て戦うことになりました。秦人(西魏)に地を割いて救援を求めたのは、禽獸が死を嫌うように、人が生を好むように、仕方のないことだったのです。

 また、『力や勢いが足らぬのに叛乱を起こしたため、その身は累卵のように非常に危うい状態にある。』と仰いますが、億兆の夷人を率いていた紂王が十人の能臣がいるだけの周王に敗れましたのを、桀王が百戦百勝の兵を率いて湯王に敗れましたのをご存じないのですか。潁川の戦いの結果は、これをよく表すものです。大事なのは軍勢の多寡ではなく、徳があるかどうかなのです。まして、いまそれがしが救援を求めた梁は政治が徳に合致しているばかりか、その率いる呉楚の兵は剽悍で、その数は千隊もあり、騎兵・弓兵は十万を数えているのです。彼らが義を奮い、機を逸せずに進発すれば、大風が枯木を必ず倒すように、厳寒が秋葉を落とすように、鎧袖一触となるでしょう。これでどうして我らを弱といい、自分を強と言えるのでしょうか!

 将軍はただ北方の強さのみを知って、西(西魏)・南()が合従したときの恐ろしさを知りません。今すでに引き入れた二国の兵は共に北討の旗を掲げ、熊や虎のように一斉に奮い立って中原を平定しようとしています。荊・襄・広・潁は既に関右(西魏)のものとなり、項城・懸瓠も南朝()のものとなっており、その功により恩賞は選び放題でありますのに、どうして今わざわざ将軍から恩賜を受けたりしましょうか。

 今、将軍にできることは、領土を割譲して両国と和し、三国鼎立の状態を保つことです。自立するには燕・衛・晋・趙の地(河北)だけで充分であり、斉・曹・宋・魯の地(河南東部)は全て大梁に与えてしまったほうがよろしいでしょう。それからそれがしに南朝との橋渡しをさせ、北方とは厚く婚姻を結び、礼品を交換し合えば、兵を動かすこともなく、無事その身を保つことができるのです。さすれば、それがしは当世一代の功を立てることができ、将軍も父王の業を保つことができ、人民も平和を享受することができるのです。

 また、それがしの妻子をみな捕らえていると脅して、改心を促そうとしておられますが、それは全くの無意味であり、ただ将軍の見識の無さを示すだけであります。将軍は王陵が母のいる楚を捨てて漢に付いたのを、劉邦が項羽に父を煮られようとしても、逆に泰然自若としてその煮汁を求めたのを知らぬのですか! まして妻子なら尚更のこと! もしこれを殺して利益があると考えておられるなら、おやめになったほうが身のためです。殺してもそれがしには何の損も無く、将軍に無辜を虐殺した汚名が付くだけだからであります。妻子の生死は将軍にあり、それがしには何の関わり合いもございませぬ!」《梁56侯景伝》

 澄はこれを読むと、誰が書いたものか尋ねた。ある者が行台郎の王偉だと言うと、こう言った。

「偉の才、かくのごとくであるのに、なぜ誰もわしに知らせなかったのだ。」

 澄は景と梁の仲を引き裂こうと考え、景に書を送ってこう言った。

「もともと我らは景に偽りの叛乱を起こさせ、南方の兵を引き入れた所を西方の兵もろとも殲滅しようとしたのだ。西人はこれを知っているからこそ、景を自分から叛かせ、南方に付かせたのだ。」

 その書簡の内容を梁にわざと漏らすと、梁人は侯景に不信の念を抱くようになった《北斉文襄紀》


 [1]武州…隋書地理志曰く、梁は下邳県を帰政県に改め、そこに武州を置いた。

 ⑴武州…《読史方輿紀要》曰く、『徐州の東百八十里にある。

 ⑵磧泉…《読史方輿紀要》曰く、『恐らく呂梁の東にある。

 [2]呂梁…魏書地形志曰く、彭城郡呂県に呂梁城がある。水経註曰く、呂梁と名付けられたのは、呂県の、石梁(石造りの橋。呂県には泗水がある)があった所だからである。

 ⑶呂梁…《太平寰宇記》曰く、『彭城県の東南五十七里にある。


●高歓父子と孝静帝

 東魏の孝静帝は容貌美しく、しかも人並み外れた筋力を持ち、石造りの獅子を脇に挟みながら宮殿の塀を乗り越えることができ、弓を射れば百発百中の腕前を見せた。また、吉日の日に開いた宴会では大体群臣に対して詩を吟じさせた。ゆったりとしていて落ち着きがあり、学問があって上品なさまはまさしく孝文帝の風があった。大将軍の高澄はこれを非常に不快に思った《魏孝静紀》

 生前、高歓は主君を追放した事(孝武帝を関中に逐った事)を気に病んでおり、〔非難を少しでもやわらげるため、〕孝静帝に対しては非常に恭しく接し、どんなことでも必ずその判断を仰いでから決定した。帝の開いた酒宴に参加した時は、帝の前に平伏して酒を奉り、健在を祝うのが常だった。帝が法要を営み、輦(レン、天子の車)に乗って焼香に行く際は、香爐を持って步いてこれに付き従った。歓が小心翼々として帝に接するので、自然その家臣たちも帝に敬意を払うようになった《出典不明》

 しかし、澄はそのような父とは違い、政権の座に就くと途端に帝に対して無礼な態度を示し、中書黄門侍郎(中書郎・黄門侍郎)の崔季舒澄の腹心で、孝静帝にも信頼され、「我が乳母である」と言わしめた。545年〈1〉参照に帝を監視させ(544年参照)、些細なことでも自分に報告させた。澄は季舒にたびたび書簡を送って言った。

「あの馬鹿(孝静帝)の様子は最近どうだ? 馬鹿の程度は薄らいでいないか? よくよく注意するのだぞ。」(原文『「癡人復何似?癡勢小差未?」』

 壬申(8月8日)、帝が澄と共に(北斉文襄紀)鄴東にて狩りを行なった。その際、馬を風のように走らせると、後ろについていた監衛都督【高氏が孝静帝を護衛・監視するために置いた官である】の烏那羅受工伐が慌ててこれを追いかけ、こう叫んだ。

「陛下、そう馬を走らせてはなりません! 大将軍が怒りますぞ!」

酒盛りの最中、〕(北史演義)澄が大きな盃を持って帝に酌をして言った。

「臣澄が陛下に酒をお勧めします。」

 帝は憤懣に堪えず(平伏もせずに酌をしたのを怒ったのである)、こう言った。

「いにしえより滅ばなかった国は無い。朕はとうに死を覚悟しているぞ!」

 澄は激怒して言った。

「朕? 何が朕だ! この狗脚の朕が!」(犬の足は食べずに捨てるだけなので、不要・役立たずを意味するか

 かくて崔季舒に帝を三発殴らせたのち、さっと裾を払って退出した。翌日、澄は〔酔いが醒めると後悔し、〕(北史演義)季舒に謝罪に行くように命じた。〔季舒は言った。

「臣澄は酔いが回って理性を失っていたため、誤って陛下に不敬を働いてしまいました。どうかご寛恕を願い申し上げます。」

 帝は答えて言った。

「朕もあの時はひどく酔っておったから、何があったか殆ど覚えておらぬ。」〕(北史演義

 かくて季舒に綾絹を与えた。しかし季舒はこれをすぐには受け取らず、まず澄に打診の書簡を送った。そして一段なら良いという許可を得ると、帝にその量を所望した。すると帝は四(北斉文襄紀)百疋の絹を季舒に与えて言った。

「これも一段であるぞ!」


●高澄暗殺計画

 帝は憂慮と恥辱に耐え切れず、あるときふと謝霊運劉宋の詩人)の詩を口ずさんで言った。

「韓亡びて子房(張良。韓の貴族で祖国の滅亡に憤激し、始皇帝を暗殺しようとしたが失敗した。しかし、のちに劉邦と共に秦を滅ぼした)奮い、秦 帝たらんとして(帝号を称する)魯連(魯仲連。戦国の遊説家)恥ず(秦が趙の都邯鄲を囲んだとき、趙は震え上がって秦王が帝号を称するのを認めようとした。仲連はそうなれば自分は東海に入って死ぬだけだと反駁した)。もとより江海の人なるも(彼らはもともと隠遁を志向する者たちだったが、それでもこのような忠義を行なった)、忠義 君子を感ぜしむ(その行ないは、君子の心を奮い立たせるものだった)。」(原文『韓亡子房奮、秦帝魯連恥。本自江海人、忠義感君子。』433年12月参照

 散騎常侍・侍講で潁川の人の荀済はこれを聞いて帝の意志を知ると、祠部郎中の元瑾広陽王淵〈北魏末の名将の一人だったが、叛乱を疑われて死に追い込まれた。526年〈2〉〉の子)・長秋卿(内廷長官)の劉思逸宦官。元叉排斥を企てた。525年〈2〉参照)・華山王大器鷙〈爾朱兆が孝荘帝を攻めた際、これに内応した。540年6月に亡くなった〉の子)・淮南王宣洪敬先〈元顥の洛陽侵攻の際、河橋にて抵抗したが戦死した〉の子。529年〈2〉参照)・済北王徽高陽王雍〈丞相を努めたが、河陰の虐殺にて殺された。528年〈3〉参照〉の子)らと共に澄の暗殺計画を練った。帝は偽りの内容の勅を済に下し、こう尋ねた。

「いつ開講(開溝を暗示?)するのか?」

 そこで済らは宮中に土山を作るのだと言って澄の目を欺きつつ、密かに城の北まで地下道を掘り〔、武士を宮内に入れたのち、澄を呼んで誅殺しようとした〕(北史演義)。しかし工事が千秋門の下までに到ったところでその門衛に地響きを気づかれ、澄に通報されてしまった。澄は兵を率いて入宮し、帝に会うと、拝礼することなくどっかと座ってこう言った。

「陛下はどうして謀反など企んだりしたのですか? 臣が叛くとお考えになったからでしょうか? しかし、陛下は臣父子が心を尽くして国家を守ってきたのを重々ご承知なはず。となれば、こたびの挙は必ず妃嬪たちが起こしたものに相違ありませぬ。」

 かくて胡夫人および李嬪出典不明)を殺そうとした。すると帝はさっと顔色を変えて言った。

「古来より、臣下が君主に叛くことはあっても、君主が臣下に叛いたというためしは無い。王が叛こうとしたのに、どうして今あべこべにわしが叛いたと言って非難したりするのか! わしが王を殺せば国家は安寧となり、殺さなければすぐに滅亡する。その覚悟はとうにあり、自分の命すら惜しんでいないのに、どうしていまさら妃嬪の命を惜しもうか!妃嬪を殺しても全く無意味であるぞ!  殺すならわしをさっさと殺せばいいのだ! わしの命はとっくに王の手中にあるのだからな!」

 これを聞くと、澄は床に叩頭して号泣し、無礼を謝った(澄がこのようなことをするだろうか? もし本当にやったとしても、そういうふりをしただけだろう)。かくて和解の酒宴を行ない、深夜になってからようやく宮殿の外に出た。その三日後、澄は帝を含章堂に幽閉した。

 壬辰(28日)、済らを市場にて煮殺した《魏孝静紀》


●硬骨荀済

 済は若いとき江東に住んでおり、博学で文章が上手いことで知られていた。武帝とは即位以前からの友人であり、武帝に大志があることを知っていたが、己の気骨が邪魔をしてこれに協力することができず、人によくこう言った。

「彼が兵を起こしたら、私は〔これを討伐する軍に加わり、〕盾の上に硯を置いて、彼を非難する檄文を書こう。」

 武帝はこれを聞いていたく気を害した。のち即位すると(出典不明)、済を登用するよう勧める者がいたが、武帝はこれを断って言った。

「才能があっても、乱を好む者は用いることはできぬ。」

 のち、済は上書して、武帝が仏教を妄信し、仏塔寺院を濫造して国庫を浪費していることを非難した。帝は激怒し、百官を集めてこれを斬ることを諮った。中書舍人の朱异武帝の寵臣、547年〈1〉参照)が済にこのことを密かに告げると(出典不明)、済は東魏に亡命し、崔㥄532年〈1〉参照)に匿われた。澄が中書監となると(544年)、済を侍読にしようとしたが、歓にこう止められた。

「わしは済の才能を愛し、その生を全うさせてやりたいと思っている。だからこそ、済を用いることができぬのだ。済が皇宮で働くようになれば、必ず身を滅ぼすだろう。」

 しかし澄はそれでも諦めずに登用を求め続けたので、歓は遂に折れ、これを許した【歓の鑑識眼は、澄の及びもつかないものだった】(出典不明)。

 そして現在、果たして済は澄の暗殺を企て、処刑される身となった。その前に侍中の楊愔名門楊氏の生き残り。544年参照が済にこう言った。

「もう歳も歳でありますのに、何故かようなことをされたのですか?」

 済は答えて言った。

「黙れ! わしの気骨がそうさせたまで、歳など関係ないわ!」(原文『楊愔謂曰:「遲暮何為然?」濟曰:「叱叱,氣耳,何關遲暮!」』

 愔は澄にこう言った。

「荀済は老年となったのに功名を立てられていないことを悔やみ、こたびの一挙を起こしたのです。」

 澄は済の死刑を取りやめようとして、自らこう尋ねて言った。

「荀公はどうして謀反など起こしたのだ?」

 済は言った。

「詔を奉じて賊臣を誅するのが、なんで謀反か!」

 澄はやむなく死刑を命じた。係役人は済が年老いていることや病気であることを以て、刑場までとうてい歩いていけないことだろうと考え、これを鹿車(手押しの一輪車。鹿一頭しか入れられないことからこの名がある)に乗せて東市まで運び(出典不明)、車もろとも焼いて殺した《北83荀済伝》


●名文家・温子昇の死

 澄は大将軍府諮議参軍の温子昇名文家。爾朱栄誅殺に貢献したのち、麟趾格の制定に携わった。541年参照)が荀済・元謹らの陰謀に加担していたのではないかと疑った。このとき子昇はちょうど歓の墓碑に書く文章を書いている所だったが、それが出来上がると直ちに捕らえられて晋陽の獄舎に入れられた。子昇は何日も食事を与えられず、空腹に耐えかねてぼろぼろになった衣服まで食べたのちとうとう餓死した(原文『乃餓諸晉陽獄,食弊襦而死。』衣服をわざと喉につまらせて自殺した?)。遺体は道端に捨てられ、家族はみな官の奴隷とされた。太尉長史の宋遊道崔暹と共に勲貴を弾圧したが、その反撃に遭った。544年参照)が遺体を収めて埋葬すると《魏85温子昇伝》、澄はこれにこう言った。

「わしは最近、都にいる諸貴たち【司馬子如や孫騰らのことを言う】と書簡のやり取りをして、朝士について議論する機会を持ったが、卿については、良くない者たちと付き合っているため、将来必ず悪事を起こすという意見があった(原文『云卿僻於朋黨,將為一病。』)。しかし今、卿は本当の友情や節義というものを見せてくれた。〔その卿をなんで害せようか。それに、〕わしはもともと子昇を殺す気は無かったのだから、卿がその遺体を供養しても何の差し障りもない。天下の人は卿に代わってどんな裁きが卿に下るか恐れおののいているが、これらはみな我が心を知らぬ輩である。」《北斉47宋遊道伝》


●段韶好色

 元謹の兄で黄門郎の元瑀の妻に皇甫氏という者がいたが、謹が誅されると、皇甫氏も連座によって官の奴婢とされた。武衛将軍・姑臧県公の段韶歓の妻、婁昭君の姉の子。韓陵山の戦いでは歓を勇気づけ、邙山の戦いでは賀抜勝に追われた歓を助けた。歓の死後は晋陽の留守を託された。547年〈1〉参照は皇甫氏の容貌を気に入っていたので、何度も上奏してその身請けを求めた。澄は韶の意に逆らい難く、遂にこれを許可した。韶は皇甫氏を別宅に置いたが、待遇は正妻と同等とした。韶はこのように好色に過ぎた所があった。


 9月、辛丑(7日)、澄は晋陽に還った(8月7日頃に鄴を訪れていた《北斉文襄紀》


 この年の秋、東魏領内にて大雨が七十余日に亘って降り続いた。元瑾・劉思逸高澄の暗殺を謀ったことに天が応じたものだった。


○北斉16・北54段韶伝

 有皇甫氏,魏黃門郎元瑀之妻,弟謹謀逆,皇甫氏因沒官。韶美其容質,上啟固請,世宗重違其意,因以賜之。〔別宅處之,禮同正嫡。

○隋五行常雨水

 東魏武定五年秋,大雨七十餘日,元瑾、劉思逸謀殺後齊文襄之應也。



 547年(4)に続く