[西魏:恭帝三年 北斉:天保七年 梁:紹泰二年→太平元年 後梁:大定二年]


●六官の制
 西魏は漢・魏の官制を採用していたが、太師の宇文泰はこれを繁雑だと感じており、大統年間蘇綽盧弁に周を手本として官制を改革するよう命じていた。間もなく西魏は六卿の官(大冢宰・大司徒・大宗伯・大司馬・大司寇・大司空)を置いたが、まだ仔細が整っていなかったため、政治の中心は相変わらず尚書省のままだった。
 現在、ようやく仔細が整った。
 春、正月、丁丑(1日)、西魏が六官の制を始め、宇文泰を太師(再任)・大冢宰とし、李弼を太傅・大司徒とし、趙貴を太保・大宗伯とし、独孤信を大司馬とし、于謹を大司寇とし、侯莫陳崇を大司空とした。また、百官に対しても、周礼に依った官位を授けた《周文帝紀》

 ⑴宇文泰...字は黒獺。西魏の実力者。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手も膝まで届いた。555年(3)参照。
 ⑵大統年間に...大統十四年(548年)5月、西魏は丞相・安定公の宇文泰を太師、大冢宰・中軍大都督の広陵王欣を柱国大将軍・太傅、大尉の李弼を大宗伯、前大尉で司空の趙貴を大司寇、于謹を大司空としていた。
 ⑶蘇綽...字は令綽。宇文泰の腹心で名宰相。戸籍・計帳の創始者。六条詔書を作った。官制改革を行なっていたが、中途にして亡くなった。546年(2)参照。
 ⑷盧弁...字は景宣。西魏の官制改革に大きく貢献した。554年(2)参照。
 ⑸李弼...字は景和。生年494、時に63歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされ、552年に徒河氏の姓を賜った。宇文泰が西方の巡視に赴くと留守を任された。554年(2)参照。
 ⑹趙貴...字は元貴(または元宝)。乙弗の姓を賜った。宇文泰の雄飛に非常な貢献をした。554年(2)参照。
 ⑺独孤信...字は期弥頭。もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、関中西方を任された。美男・おしゃれ好きで、若い時に『独孤郎』と呼ばれた。550年(5)参照。
 ⑻于謹...字は思敬。時に64歳。姓を元の万紐于氏に復した。冷静沈着の名将。梁の首都の江陵を陥とした。554年(4)参照。
 ⑼侯莫陳崇...字は尚楽。北魏末の群雄・万俟醜奴を単騎で捕らえ、西魏に仕えては河橋で随一の功を立てた。550年(5)参照。

●信州の乱

 これより前、蛮酋の向白虎と(周28賀若敦伝向五子王が叛乱を起こし、西魏の信州(白帝)を囲んだ。宇文泰は開府儀同三司の田弘と開府儀同三司・直州刺史の李遷哲、開府儀同三司・金州刺史の賀若敦らに信州を救わせた。
 この月田弘・李遷哲の軍が并州に進んだ。梁の并州刺史の杜満各はこれを知ると戦わずして降伏した。遷哲らは続いて畳州()を囲み、これを陥として刺史の冉助国らを捕らえた。遷哲は常に精鋭を率いて先鋒を務め、陣頭に立って戦った。遷哲らは十八州を抜き、三千余里の地を得た。
 信州を陥としていた向五子王らは遷哲がやってきたのを知ると、狼狽して遁走した。遷哲は信州を取り戻し、賀若敦らがやってくると、共に五子王らを追撃してこれを撃破し、二千の捕虜と首級を得た二千の〜...周28賀若敦伝)。
 宇文泰は田弘を帰還させ、遷哲に千の兵と三百の馬を与えて信州を鎮守させた《周44李遷哲伝》

 ⑴田弘...字は広略。生年510、時に47歳。智勇に優れ、宇文泰に才能を認められてその腹心となった。沙苑・河橋の戦いにて抜群の功を立て、泰に愛用の鎧を与えられ、「皆が弘のようであったら天下を早く平定できるだろう」と絶賛を受けた。紇干氏の姓を与えられ、のち、蜀東部の制圧に活躍した。554年(5)参照。
 ⑵李遷哲...字は孝彦。山南の豪族で、もと梁の東梁州刺史。西魏の侵攻を受けて降伏し、蜀東北部の攻略に活躍した。554年(2)参照。
 ⑶賀若敦...もと東魏の臣。537年に父の統と共に西魏に付いた。蜀東北部の攻略に活躍した。554年(2)参照。
 ⑷并州...白帝の西。隋書地理志曰く、西魏が宣漢の地に并州と永昌郡を置いた。『中国歴史地図集』は南晋郡(位置は宣漢と大体似ている)に置いたとする。
 ⑸信州回復...詳細な時期は不明。李遷哲伝に『及田弘旋軍,太祖(宇文泰)令遷哲留鎮白帝』とあるので、記述を信頼すれば、今年の10月までの出来事となる。
 ⑹黔陽...《読史方輿紀要》曰く、『辰州府(武陵の西南)の西北に黔陽城がある。孫呉が黔陽県を置き、武陵郡に属させた。梁代に廃された。』信州の南の山中にある。

●徐嗣徽、再度派兵を求む
 戊寅(2日)、梁が大赦を行ない、任約徐嗣徽らと通じた者の罪を一切不問とした。
 また、簡文帝の諸子に追贈諡(諡...南史梁敬帝紀)を行なった。また、故・永安侯確の子に、蕭綸の死後空位となっていた邵陵王の爵位を継がせた。
 癸未(7日)《梁敬帝紀》、司空の陳覇先が従事中郎の江旰徐嗣徽のもとに派し、南に帰るよう説得したが、 嗣徽はこれを聞かず、逆に旰を捕らえて鄴に送り、再度派兵を求めた《南63徐嗣徽伝》

○資治通鑑
 癸未,陳霸先使從事中郎江旰說徐嗣徽使南歸,嗣徽執旰送齊。

 ⑴任約...もと侯景の司空。陸法和の取りなしによって死を免れ、天正帝の大破に貢献した。江陵が陥落すると侯瑱と合流して郢州を攻撃した。王僧弁が死ぬと北斉に付いて陳覇先を攻めたが、撃退された。555年(3)参照。
 ⑵徐嗣徽...もと江州刺史の尋陽王大心の部下。もと羅州刺史。軍才があり、王僧弁に重用された。僧弁が死ぬと北斉に付いて陳覇先を攻めたが、撃退された。555年(3)参照。
 ⑶簡文帝...蕭綱。梁二代皇帝。侯景に傀儡として立てられ、用済みとなると殺害された。551年(4)参照。
 ⑷永安侯確...字は仲正。邵陵王綸の子。文武に優れた。侯景の暗殺を図ったが失敗し、殺害された。549年(5)参照。
 ⑸蕭綸...字は世調。武帝の第六子。幾度も犯罪を犯した問題児。侯景が乱を起こすと武帝の息子たちの中で唯一建康へ救援に赴いたが、鍾山にて敗れた。のち、弟の湘東王繹に攻められて敗走し、最後は西魏の侵攻を受けて殺された。551年(5)参照。
 ⑹陳覇先...字は興国。時に54歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で権力者の王僧弁を攻め殺した。555年(3)参照。
 ⑺江旰...王僧弁の記室参軍。謀反を起こす前の覇先のもとに使者として赴き、監禁された。555年(2)参照。
 ⑻旰を捕らえて鄴に送り...徐嗣徽伝では去年の所にこの記事を置いている。通鑑がここにこの記事を置いた理由は不明。
 
●杜龕の死

 この日(7日)杜龕が項王寺[1]の前にて斬首された[2]。また、その弟の杜翕南史陳武帝紀)・従弟の杜北叟・司馬の沈孝敦も処刑された《陳武帝紀》。杜一門はことごとく殺害され、王氏は髪を切って尼となった《南64杜龕伝》。覇先は呉興に大赦を行なった《梁敬帝紀》

 [1]項王寺…呉にて挙兵した項羽を偲び、呉興に建てたものである。
 ⑴杜北叟…去年、義興にて覇先に降っていた。555年(3)参照。

●蕭勃討伐軍の退却
〔これより前、僧弁の弟で譙州刺史の王僧愔は江州(豫章)刺史の侯瑱と共に広州の曲江侯勃討伐に赴いていたが、その途中で僧弁の死を知ると軍を返した。この時、僧愔の部下で僧愔に恨みを持っていた呉州刺史の羊亮は一計を案じ、まず僧愔に瑱を襲って配下の兵を奪うよう説き、〔僧愔がこれに頷くと、〕亮は瑱にこれを密告した。瑱が〔怒って〕僧愔を攻めると、僧愔は配下たちと共に捕らえられた。僧愔が名義(僧弁の恩)を持ち出して瑱を責めると、瑱は罪を〔東晋州刺史の〕羊鯤羊鵾)に着せて斬首した(享年28)。

 王僧弁の弟で龕のもとに逃れていた王僧智は(陳武帝紀)、弟の王僧愔と共に北斉に亡命した[1]

 己亥(23日)、梁が太保の宜豊侯循に〔父や兄が就いていた〕鄱陽王の位を受け継がせた《梁敬帝紀》

○資治通鑑
 王僧智與其弟豫章太守僧愔俱奔齊。
○資治通鑑考異
 《典略》:「魏恭帝三年正月,初,僧愔與瑱共討曲江侯勃,至是,吳州刺史羊亮說僧愔襲瑱,而翻以告瑱,瑱攻之,僧愔奔齊。」凡此諸說,莫知孰是。今約其梗槪言之。
○陳9侯瑱伝
 僧辯使其弟僧愔率兵與瑱共討蕭勃,及高祖誅僧辯,僧愔陰欲圖瑱而奪其軍,瑱知之,盡收僧愔徒黨,僧愔奔齊。
○南63王僧愔伝
 僧智弟僧愔位譙州刺史,征蕭勃,及聞兄死,引軍還。時吳州刺史羊亮隸在僧愔下,與僧愔不平,密召侯瑱見禽。僧愔以名義責瑱,瑱乃委罪於將羊鯤斬之。僧愔復得奔齊。
○南63羊鵾伝
 從王僧愔征蕭勃於嶺表,聞僧辯敗,乃還,為侯瑱所破,遇害,年二十八。

 ⑴王僧智…王僧弁の弟。呉郡太守。僧弁が殺されると覇先に抵抗したが、敗れて杜龕のもとに逃れていた。555年(3)参照。
 ⑵王僧愔...王僧弁の弟。555年(2)参照。
 [1]考異曰く、『梁書・南史の王僧弁伝には「僧弁の弟で譙州刺史の王僧愔は蕭勃征伐の途中に僧弁の死を知ると、軍を返した。僧愔の部下で僧愔に恨みを持っていた呉州刺史の羊亮は密かに侯瑱を呼び入れ、僧愔を捕らえさせた。僧愔が名義(僧弁の恩)を持ち出して瑱を詰ると、瑱は罪を〔東晋州刺史の〕羊鯤(羊鵾)に着せて斬首した(享年28)。僧愔は北斉に亡命した」とあり、陳書・南史の侯瑱伝には「僧弁が弟の僧愔に瑱と共に蕭勃を討つよう命じた。僧弁が殺されると、僧愔は陰かに瑱を殺し、配下の兵を奪おうとした。しかし瑱に気づかれて逆に配下をみな捕らえられ、身一つで北斉に亡命した」とあり、典略には「僧愔が瑱と共に曲江侯勃の討伐に赴いた。西魏の恭帝三年、正月の初め、呉州刺史の羊亮が僧愔に瑱を襲うように説いた。〔僧愔がこれに頷くと、〕亮はこれを瑱に密告した。瑱が〔怒って〕僧愔を攻めると、僧愔は北斉に亡命した」とある。どの説が正しいか分からないため、今は簡略に結果だけを記した。
 ⑶宜豊侯循...字は世和。武帝の弟の子。梁州刺史として西魏の漢中侵攻に一ヶ月余りも抵抗した末、降伏した。梁に帰還すると巴州にて陸納軍を撃退し、湘州刺史とされると善政を行なった。江陵包囲の報を受けると直ちに船に乗って救援に赴いたが、巴陵の西にて陥落の報を聞くと、侯瑱と合流して郢州を攻撃した。555年(2)参照。

●張彪討伐
 王僧弁は生前、杜龕と征東大将軍・東揚州刺史の張彪の二人の武勇を非常に頼りにし、厚遇していた。人々は二人を『張・杜』と並び称した。彪は東揚州刺史とされると巨万の富を築き、日夜宴会を開いて楽しんだ。僧弁が殺されると、彪は覇先に抵抗の意志を示した。臨海(会稽の遠東南にある)太守の王懐振が叛乱を起こすと、彪は長史の謝岐に留守を任せ、自らその討伐に赴いた《南64張彪伝》
 この日(23日)、彪が懐振を剡巖に囲んだ。懐振は震沢(呉郡の傍にある太湖のことか)に駐屯していた周文育・陳蒨に(南64張彪伝)助けを求めた。

 甲辰(28日)、北斉の文宣帝が晋陽より鄴に帰還した。帝は鄴城の西に多くの庶民を集め、騎射を披露した。

 2月、庚戌(5日)陳蒨らが沈恪に呉興郡を任せ、軽兵を率いて会稽を奇襲した。
 これより前、彪は司馬の沈泰と軍主の呉宝真を先に帰還させ、会稽の守りを固めさせていた(南64張彪伝)。
 癸丑(8日)、泰らが謝岐と共に蒨に降った《陳武帝紀》
 泰は言った。
「彪の兵たちの家族はみな〔北郭にある〕香巖寺におります。行って捕らえるべきです。」
 蒨はこれに従い、〔文育を派して〕家族をみな虜とした。
 彪は城内の人心がまだ定まっていないと見て、夜陰に紛れて(陳20韓子高伝)城壁を乗り越え、城内に攻め入った《南64張彪伝》。〔予想外の奇襲に〕蒨は〔仰天し、〕北門より逃走した。夜陰の奇襲に蒨軍は混乱を極め、香巖寺にいた文育も蒨の所在を掴めずにいた。蒨はただ一人傍に付き従っていた韓子高を文育のもとに派して連絡を取り、また、乱軍の中に派して兵たちの混乱を収拾させた。蒨は散り散りになった兵を集めると、子高の案内のもと文育の陣地に逃れた。蒨は文育と協力して陣地を築き、〔張彪の攻撃に備えた〕。
 翌日、彪が戦いを仕掛けてくると《陳20韓子高伝》、文育は力を尽くしてこれを防いだ《陳8周文育伝》。かくて彪が勝てないでいる内、彪の部将で、実は泰と親友だった申縉が叛乱を起こした。彪は敗走し、城の西にある松山(陳20韓子高伝)の楼閣に逃げ込んだ。それから、そこで密かに弟の張崑崙と妻の楊氏と合流すると、楼閣を去った。この時まだ数人の側近が彪に付き従っていたが、彪は彼らを信じることができず、みな追い払った。彪は〔妻と弟、それから〕愛犬の黄蒼だけを連れて〔会稽の南にある〕若邪山(会稽の東南四十五里。昔、張彪はこの地にて兵を挙げた)に入った。沈泰は蒨に章昭達に千余兵を与えて彪を討伐させること、彪に莫大な懸賞金をかけること、彪の妻を捕らえることを求めて許された
 夜、〔懸賞金につられた〕村人たちが彪の寝込みを襲った。黄蒼はこれに気づくと、村人に吠えたのち、その一人の喉笛に噛み付いて即死させた。〔目を覚ました〕彪が刀を抜いて村人たちを追い払い、松明で照らして何者かを知ると、こう言った。
「どうして悪党どもに付いたのか。さっさとわしの首を取れ。生きて陳蒨に会うことは絶対にせぬぞ。」
 村人は言った。
「私たちは決してここを去りません。どうか山を下りてきてください。」
 彪は逃れられないことを知ると、妻の楊氏を郷里と呼んでこう言った。
「わしは死ぬ覚悟を決めた。ただ、郷里をあやつらの手に渡したくない。郷里よ、先に死んでくれるか。」
 楊氏はこれを聞くと、全く恐れる様子を見せずに首を差し伸べ、刀が下ろされるのを待った。彪は楊氏を斬ることができず、遂に村人たちと一緒に山を下り、こう言った。
「わしの首は持っていってもいいが、体は持っていくな。」
 かくて楊氏を呼ぶと別れの挨拶をして言った。
「今生の別れだ。沈泰・申縉らに会ったら、『功名を立てる前に道連れにしてやる』と言ってやるぞ。」
 丙辰(11日)、村人たちは彪を生け捕りできないことを悟ると、遂に彪と弟の首を斬って昭達に渡した。黄蒼は彪の遺体の傍らで鳴きわめき、血の中をのたうち回った。それはまるで、悲しみの感情があるかのようだった。
 昭達は軍を進め、楊氏に会うと拝礼をし、蒨が妻に迎えようとしている事を告げた。楊氏はこれを聞くと泣くのを止めて笑顔となり、〔行く前に〕昭達に彪の埋葬をしてくれるよう求めた。墓ができると、黄蒼は墓の傍に伏せ、鳴き叫んで離れようとしなかった。楊氏は彪の屋敷に帰ると、昭達にこう言った。
「私は容貌に自信があるのですが、辛苦の日が長かったため、〔いささか衰えてしまっています。〕暫く化粧をしてきてもよろしいでしょうか。」
 昭達はこれを許した。楊氏は屋敷に入ると、即座に〔小〕刀を以て髪を斬り、顔を傷つけ泣き叫び、蒨のもとに行かないことを固く誓った。蒨はこれを聞くと嘆息してやまず、遂に尼となることを許した。のち、陳覇先が楊氏のもとに兵を派し、無理矢理自分のもとに連れてこさせようとした。すると楊氏は井戸に身を投げて自殺を図った。兵士はすぐに楊氏を救い出したが、厳寒の時であったので、瀕死の状態だった。そこで薪を積んで温めると、楊氏は蘇生したが、目を覚ますとすぐに火に身を投げて亡くなった。
 彪は若邪山にて〔盗賊として〕身を起こし、若邪山にて〔兵を挙げて〕栄達し、若邪山にて命を落とした。その妻や犬はどちらも優れたみさおを示した。楊氏は天水の人で、散騎常侍の楊曒の娘だった。美貌の持ち主で、河東の人の裴仁林の妻となったが、侯景の乱の混乱の中で彪の妻となった《南64張彪伝》

 蒨は彪の首を建康に送った。覇先は東揚州に大赦を行なった《梁敬帝紀》
 覇先は会稽平定の功を以て、蒨を持節・都督会稽等十郡諸軍事・宣毅将軍(八階)・会稽太守とした《陳文帝紀》

 この一連の戦いの間、張彪配下の部将の沈泰・呉宝真・申縉らはみな寝返ったが、呉郡の人の陸子隆字は興世)のみ力戦した末に捕らえられた。蒨はその忠義心を気に入り、兵を返して中兵参軍とした《陳22陸子隆伝》


○北斉文宣紀
 七年春正月甲辰,帝至自晉陽。於鄴城西馬射,大集眾庶而觀之。
○梁敬帝紀
 己亥,以太保、宜豐侯蕭循襲封鄱陽王。東揚州刺史張彪圍臨海太守王懷振於剡巖。二月庚戌,遣周文育、陳蒨襲會稽,討彪。癸丑,彪長史謝岐、司馬沈泰、軍主吳寶真等舉城降,彪敗走。以中衞將軍臨川王大款即本號開府儀同三司,中護軍桂陽王大成為護軍將軍。丙辰,若耶村人斬張彪,傳首京師,曲赦東揚州。
○陳文帝紀
 東揚州刺史張彪起兵圍臨海太守王懷振,懷振遣使求救,世祖與周文育輕兵往會稽以掩彪。後彪將沈泰開門納世祖,世祖盡收其部曲家累,彪至,又破走,若邪村民斬彪,傳其首。以功授持節、都督會稽等十郡諸軍事、宣毅將軍、會稽太守。山越深險,皆不賓附,世祖分命討擊,悉平之,威惠大振。
○陳12沈恪伝
 及龕平,世祖襲東揚州刺史張彪,以恪監吳興郡。
○南64張彪伝
 及侯景平,王僧辯遇之甚厚,引為爪牙,與杜龕相似,世謂之張、杜。貞陽侯踐位,為東揚州刺史,幷給鼓吹。室富於財,晝夜樂聲不息。剡令王懷之不從,彪自征之。留長史謝岐居守。會僧辯見害,彪不自展拔。時陳文帝已據震澤,將及會稽,彪乃遣沈泰、吳寶真還州助岐保城。彪後至,泰等反與岐迎陳文帝入城。彪因其未定,踰城而入。陳文帝遂走出,彪復城守。沈泰說陳文帝曰:「彪部曲家口並在香巖寺,可往收取。」遂往盡獲之。彪將申進密與泰相知,因又叛彪,彪復敗走,不敢還城。據城之西山樓子,及暗得與弟崑崙、妻楊氏去。猶左右數人追隨,彪疑之皆發遣,唯常所養一犬名黃蒼在彪前後,未曾捨離。乃還入若邪山中。沈泰說陳文帝遣章昭達領千兵重購之,幷圖其妻。彪眠未覺,黃蒼驚吠劫來,便嚙一人中喉即死。彪拔刀逐之,映火識之,曰:「何忍舉惡。卿須我者但可取頭,誓不生見陳蒨。」劫曰:「官不肯去,請就平地。」彪知不免,謂妻楊呼為鄉里曰:「我不忍令鄉里落佗處,今當先殺鄉里然後就死。」楊引頸受刀,曾不辭憚。彪不下刀,便相隨下嶺到平處。謂劫曰:「卿須我頭,我身不去也。」呼妻與訣,曰:「生死從此而別,若見沈泰、申進等為語曰,功名未立,猶望鬼道相逢。」劫不能生得,遂殺彪幷弟,致二首於昭達。黃蒼號叫彪屍側,宛轉血中,若有哀狀。昭達進軍,迎彪妻便拜,稱陳文帝教迎為家主。楊便改啼為笑,欣然意悅,請昭達殯彪喪。墳冢既畢,黃蒼又俯伏冢間,號叫不肯離。楊還經彪宅,謂昭達曰:「婦人本在容貌,辛苦日久,請暫過宅莊飾。」昭達許之。楊入屋,便以刀割髮毀面,哀哭慟絕,誓不更行。陳文帝聞之,歎息不已,遂許為尼。後陳武帝軍人求取之,楊投井決命。時寒,比出之垂死,積火溫燎乃蘇,復起投於火。彪始起於若邪,興於若邪,終於若邪。及妻犬皆為時所重異。楊氏,天水人,散騎常侍曒之女也。有容貌,先為河東裴仁林妻,因亂為彪所納。彪友人吳中陸山才嗟泰等翻背,刊吳昌門為詩一絕曰:「田橫感義士,韓王報主臣,若為留意氣,持寄禹川人。」

 ⑴王僧弁...字は君才。侯景を滅ぼし、君主の元帝死後はその子の方智を擁立して権力を握った。しかし北斉に敗れ、方智の退位と淵明の即位という屈辱的な条件を呑まされた。のち、同僚の陳覇先の奇襲を受け、殺された。555年(3)参照。
 ⑵張彪...侯景が建康を占領すると、東揚州にてこれに粘り強く抵抗した。王僧弁に非常に信任され、東関の戦いの勝利に貢献した。555年(2)参照。
 ⑶臨海太守の王懐振...南64張彪伝には『剡令の王懐之』とあり、梁敬帝紀・陳文帝紀には『臨海太守の王懐振』とある。王鳴盛の十七史商榷六三には『会稽と臨海は非常に遠いため、征討する際に岐に留守を任せたのである。もし剡県であれば、会稽とは近く、僧弁の存命中だった頃であるため、県の長官などそんなに手強いものではないだろう。それをわざわざ自ら討伐しに行くものだろうか? ゆえに、ここは陳書の記述に従い、臨海太守とすべきである』とある。陳20韓子高伝には『張彪自剡県夜還襲城』とある。
 ⑷文宣帝…高洋。高歓の第二子。526~559。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。
 ⑸申縉...南64張彪伝には『申進』とある。今は陳20韓子高伝・陳22陸子隆伝の記述に従った。
 ⑹章昭達...字は伯通。時に39歳。さっぱりとした性格で、財貨よりも気節を重んじた。福相の持ち主。戦いで片目を失明した。陳蒨配下の中で最も厚遇を受けた。555年(3)参照。
 ⑺原文...『沈泰說陳文帝,遣章昭達領千兵,重購之,幷圖其妻』。
 ⑻原文...『「何忍舉惡。卿須我者但可取頭,誓不生見陳蒨」』。「誓不生見陳蒨は、生かして帰さないの意?

●美童・韓子高
 韓子高は、会稽山陰の人である(生年538〈537?〉、時に19〈20?〉歳)。本名は蛮子といい、微賤の家の生まれだった。容姿端麗で、女性のような顔立ちをしていた。
 侯景の乱が起こった時、建康に仮住まいをしていた。乱が平定され、陳蒨が呉興太守とされた時、蛮子は十六の少年だった(553〈552?〉年)。蛮子は秦淮河の小島にて陳蒨の行列に会うと、その車の一つに乗って(忍び込んで?)故郷に帰ろうとした〔が、失敗した。〕この時、蒨は蛮子にこう聞いて言った。
「私に仕えないか?」
 蛮子はこれに頷いた。蒨は蛮子の名を子高に改めさせた。子高は殊勝な性格で、熱心に仕事に取り組み、常に蒨の傍にいて蒨を護衛し、酒食を運んだ。蒨は短気な性格だったが、いつも意にかなう事をする子高には〔怒ることは無かった〕。蒨は子高を非常に寵愛し、一度たりとも傍から離さなかった。蒨はある時、馬に乗って山を登る夢を見た。その道は非常に険しかったため、蒨は諦めそうになったが、子高の助けがあったために、無事山頂に登ることができた。
 やがて子高は騎射を習い、将軍になることを願うようになった。蒨はこれを聞き入れ、杜龕を討伐したのちにその士卒を率いさせた。張彪を討伐すると、麾下の兵の多くを子高に与えた。子高は施しを好み、才能を愛する性格だったため、非常に多くの者が子高に懐き従った《陳20韓子高伝》

●猛将・駱牙
 陳蒨の部将の駱牙は、杜龕・張彪らとの戦いの際、常に先陣を切って敵陣を陥とし、軍中随一の武勇を示した。戦いが終わると直閤将軍とされた。
 駱牙(生年528、時に29歳。《南史》では『駱文牙』)は字を旗門といい、呉興郡臨安県(会稽の西)の人である。祖父の駱秘道は梁の安成王田曹参軍となり、父の駱裕は鄱陽嗣王中兵参軍事となった。牙が十二歳の時、一族に人相を観るのが得意な者がいて、その人が牙の顔を見てこう言った。
「この子の容貌は並外れたものがある。きっと大成するだろう。」
 太清の末年(549)のある時、蒨は臨安県に避難した。牙の母の陵氏は蒨が並外れた容貌の持ち主であることを知ると(蒨は美男子だった)、非常に手厚くもてなした。のち、蒨は呉興太守となると(553年)、牙を将軍とした。

○陳22駱牙伝
 駱〔文〕牙字旗門,吳興臨安人也。祖祕道,梁安成王田曹參軍。父裕,鄱陽嗣王中兵參軍事。牙年十二,宗人有善相者,云「此郎容貌非常,必將遠致」。梁太清末,世祖嘗避地臨安,牙母陵,覩世祖儀表,知非常人,賓待甚厚。及世祖為吳興太守,引牙為將帥,因從平杜龕、張彪等,每戰輒先鋒陷陣,勇冠眾軍,以功授直閤將軍。

●能吏・謝岐
 謝岐は名門会稽山陰の謝氏の出で、父は梁の太学博士の謝達
 若年の頃から頭の回転が速く、学問を好み、高い評判を得た。梁に仕えて尚書金部郎・山陰令とされ、侯景の乱が起こ〔り、会稽が陥とされると〕東陽に避難した。乱が平定されると張彪を頼った。彪が呉郡および会稽を治めた際、諸々の事務を一任された。彪が征討に出かけるたびに岐を留めて監郡とし、留守を取り仕切らせた。
 彪が敗れると陳覇先に引き続き用いられて機密に関わることを許され、兼尚書右丞とされた。この時、戦争が何度も繰り返された事で兵糧がよく欠乏したが、岐はそのつど何とかしてみせたので、非常に信任されるようになった。

○陳16謝岐伝
 謝岐,會稽山陰人也。父達,梁太學博士。岐少機警,好學,見稱於梁世。為尚書金部郎,山陰令。侯景亂,岐流寓東陽。景平,依于張彪。彪在吳郡及會稽,庶事一以委之。彪每征討,恆留岐監郡,知後事。彪敗,高祖引岐參預機密,以為兼尚書右丞。時軍旅屢興,糧儲多闕,岐所在幹理,深被知遇。

●臨海郡の乱
 蒨は張彪を討平し、会稽を鎮守すると、〔側近の〕庾持を監臨海郡(会稽の遠東南)とした。しかし持は汚職の限りを尽くしたため住民から反感を買い、山賊に拉致監禁された。百日後、蒨は劉澄を派して山賊を討平し、持を救出した。
 庾持生年508、時に49歳)は字を允(または元)得といい、潁川鄢陵の人である。祖父の庾佩玉は劉宋の長沙内史、父の庾沙弥は梁の長城令だった。
 持は非常な孝行者で、若くして父の死に遭うと、度を外れた悲しみようを見せた。学問に熱心に励み、筆記を得意とし、才能と技芸に優れていることで評判となった。出仕して梁の南平王国左常侍・軽車河東王府行参軍・兼尚書郎・尚書郎・安吉令・鎮東邵陵王府限外記室・兼建康令を歴任した。文帝と旧交があり、帝が呉興太守となると郡丞とされ、書翰の作成を任された。これ以降、常に帝のもとに属した。

○陳34庾持伝
 庾持字允(元)德,潁川鄢陵人也。祖佩玉,宋長沙內史。父沙彌,梁長城令。
 持少孤,性至孝,居父憂過禮。篤志好學,尤善書記,以才藝聞。解褐梁南平王國左常侍、輕車河東王府行參軍,兼尚書郎,尋而為真。出為安吉令,遷鎮東邵陵王府限外記室,兼建康令。天監初,世祖與持有舊,及世祖為吳興太守,以持為郡丞,兼掌書翰,自是常依文帝。文帝剋張彪,鎮會稽,又令持監臨海郡。以貪縱失民和,為山盜所劫,幽執十旬,世祖遣劉澄討平之,持乃獲免。

●群雄割拠
 東陽に割拠していた太守の留異は、彪が討伐されたのを知ると、蒨に兵糧を送った。覇先は〔その心がけを褒め、〕異を持節・通直散騎常侍・信武将軍(十階)・縉州[1]刺史・領東陽太守・永興県侯とした。間もなく更に散騎常侍・信威将軍(九階)とした。また、蒨の長女を異の第三子の留貞臣に嫁がせた《陳35留異伝》

 己未(14日)、梁が震州を廃し、呉興郡に戻した《梁敬帝紀》

 この年、覇先は江州刺史の侯瑱を開府儀同三司とした。
 この時、瑱は長江中流に拠って非常に強力な軍隊を擁していた。また、もともと王僧弁の部下であったため、僧弁を殺害した覇先に良い感情を持っていなかった。そのため、表面上は官位を受け取って覇先に臣従しているように見せかけたものの、参内の命には頑なに応じずにいた。
 ここに至って、覇先は周文育を都督南豫州諸軍事・厳威将軍(九階)〈冊符元亀・南豫州刺史とし、湓城(江州)を攻撃させた。

◯周8周文育伝
 高祖以侯瑱擁據江州,命文育討之,仍除都督南豫州諸軍事、武威將軍、南豫州刺史,率兵襲湓城。
◯陳9侯瑱伝
 紹泰二年,以本號加開府儀同三司,餘並如故。是時,瑱據中流,兵甚彊盛,又以本事王僧辯,雖外示臣節,未有入朝意。

 ⑴留異...もと南郡王大連の配下で東揚州の軍事を一任されたが、侯景軍が攻めてくると降伏し、東陽太守に任じられた。侯景死後は自立した。552年(1)参照。
 [1]縉州...縉雲山があるため、そう名付けたのである。五代志曰く、処州永嘉郡栝蒼県(東陽の東南)に縉雲山がある。
 ⑵侯瑱...字は伯玉。時に45歳。梁の猛将。侯景討伐の先鋒となり、建康から逃げる侯景を追撃して破った。のち、東関にて郭元建の軍を大破し、郢州を攻めた。555年(2)参照。
 ⑶厳威将軍...陳8周文育伝では『武威将軍(十三階)』とある。文育は智武将軍(十階)であり、そこから下げられるとは思えない。ゆえに、今は元亀の記述に従った。

●徐嗣徽動く
〔北斉軍が江東に迫った。〕
 庚申(2月15日)、覇先はこれに備えるため(陳8侯安都伝侯安都周鉄虎に水軍を与え、梁山(和州の南六十里)に砦を築かせた《陳武帝紀》
 癸亥(18日)徐嗣徽・任約が采石(歴陽の対岸)を襲い、戍主で明州[1]刺史(名ばかり?)の張懐鈞を捕らえて鄴に送った《梁敬帝紀》

 ⑴北斉に備えるため...陳武帝紀には『江州に備えるため』とある。
 ⑵侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。北斉が攻めてくると建康を守り、覇先が帰還した後は水軍を率いて北斉の兵站を荒らし回った。555年(3)参照。
 ⑶周鉄虎...どすの利いた声で喋り、筋力は人並み外れ、馬上槍の扱いに長けた。もと河東王誉配下の猛将で、誉が滅ぼされると僧弁に降った。のち、僧弁の指揮のもと、侯景の猛将の宋子仙を捕らえるなど数々の戦功を挙げた。僧弁が死ぬと覇先に降り、北斉が攻めてくると水軍を率いてその兵站を荒らした。555年(3)参照。
 [1]明州...五代志曰く、梁が日南郡交谷県(交州の南)に置いた。


┃後梁、公安を攻める
 後梁が公安(江陵の南)を攻めた。守将の侯平長沙王韶と共に長沙に逃げ帰った。王琳は平に巴州を守備させた《出典不明》

 この月、北斉が梁に使者を送った。梁は侍中の王廓を答礼の使者として北斉に派遣した《南史梁敬帝紀》
 辛未(26日)文宣帝常山王演らに凉風堂にて尚書省の上奏文を読ませて良いか悪いか審議させたのち、帝自ら最終的に決裁した。

○北斉文宣紀
 二月辛未,詔常山王演等於凉風堂讀尚書奏按,論定得失,帝親決之。

 ⑴侯平...王琳の部将。水軍を与えられ、後梁を攻めた。555年(1)参照。
 ⑵長沙王韶...もと上甲侯韶。字は徳茂。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。建康陥落の際脱出し、武帝の密詔を各地に伝えた。『太清紀』の編纂者。元帝が侯景を滅ぼしたのち蜀を攻めたが、江陵が陥落すると退き、王琳を盟主に戴いた。555年(1)参照。
 ⑶王琳...字は子珩。時に31歳。兵戸出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で侯景討伐に第一の武功を立てた。江陵が陥落すると湘州に割拠した。555年(3)参照。
 ⑷常山王演…字は延安。生年535、時に22歳。高歓の第六子で、文宣帝の同母弟。母は婁昭君。身長八尺・腰回り十囲の大男で、容姿・立ち居振る舞いは人並み外れたものがあった。政治に優れた手腕を示して文宣帝に重用された。

┃東揚州の廃止

 3月、丙子(1日)、梁が東揚州を廃し、会稽郡に戻した。
 壬午(7日)、古銭の使用を許可した(546年7月に禁止していた《梁敬帝紀》


●後継者選び
 宇文泰の子は十三人いた。嫡子は孝武帝北魏最後の皇帝)の妹の馮翊公主が産んだ略陽公の宇文覚だったが、まだ幼かった。長子は姚夫人の産んだ寧都公の宇文毓で、既に優れた人格を備え、しかも大司馬の独孤信の長女を娶っていた。泰は跡継ぎを決める際、諸公たちを集めてこう言った。
「私は嫡子を跡継ぎにしようと思っている。だが、そうすると大司馬にあらぬ疑いをかけられてしまうだろう。一体どうしたものだろうか?」
 諸公たちはこれに何も言えなかった。その時、尚書左僕射の李遠がこう言った。
「そもそも跡継ぎというのは、血筋で選び、年齢で選ばぬものです[1]。嫡子の略陽公を世子とするのをどうして躊躇うのですか! 信の不興を買うのがお嫌なら、私が斬ってご覧に入れましょう!」
 かくて刀を抜いて立ち上がった。すると泰も立ち上がってこう言った。
「そのような事をする必要は無い!」
 信もすぐ弁解すると、遠は斬るのをやめた。ここにおいて、諸公は遠の意見に従うことを決めた。遠が部屋の外に出ると、信に謝って言った。
「国の大事だったので、やむを得なかったのです!」
 すると、信も遠に謝って言った。
「公のおかげで、大事を決めることができたのです。」
 この月周孝閔紀)、泰は覚を世子とした《周25李遠伝》

 ⑴宇文覚...字は陀羅尼。宇文泰の第三子。時に15歳。
 ⑵宇文毓...宇文泰の長子。時に23歳。
 ⑶李遠...字は万歳。十二大将軍の一人。宇文泰に非常に気に入られ、東方の要地の守備を任された。555年(3)参照。
 [1]跡継ぎというのは...春秋公羊伝隠公元年曰く、『立適以長不以賢,立子以貴不以長。』


 556年(2)に続く