[西魏:恭帝二年 北斉:天保六年 梁(蕭方智):承聖四年→紹泰元年 梁(蕭詧):大定元年 梁(蕭淵明):天成元年]


●杜龕の挙兵


 梁の震州(呉興)刺史の杜龕は、舅の王僧弁の権勢を笠に〔やりたい放題にふるまっていた。〕陳覇先は寒門の出身で、しかも部下の兵が雑然として下品だったために軽んじられ、その格好の餌食となった。龕が覇先の故郷(呉興郡長城県)の太守となると、そこにいた覇先の一族はちょっとしたことでも容赦の無い制裁を加えられた。このため、覇先は龕の事を深く怨むようになった。
 僧弁を討つ前、覇先は密かに兄の子の陳蒨セン、生年527〈建康実録〉、時に29歳)を故郷の長城県に還し、砦を築いて龕の攻撃に備えるよう命じた。また、府司馬の沈恪に武康(呉興の西南)の守備をさせた。蒨は側近の章昭達を何度も京口に派し、策を仰いだ。
 僧弁が死ぬと(9月27日)、果たして龕は呉興郡に拠って覇先に反抗の態度を示し、精鋭の兵五千を副将の杜泰に与えて長城県を奇襲させた(壬子〈10月5日〉)。このとき長城県には数百人の兵しかおらず、物資も乏しかったため、蒨の将兵たちはみな顔面蒼白となった。しかし蒨が全く動揺の色を見せることなく、いつもどおり談笑し、章昭達に城内の兵事を一任するなど的確な差配を行なうと、落ち着きを取り戻した。泰は長城県の守備兵の数が少ないのを知ると、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。蒨は自ら陣頭に立って指揮を行ない、将兵を励まして数旬に渡って持ちこたえた。
 
 龕が挙兵した時、僧弁の弟で呉郡太守の王僧智も城を占拠して反覇先の態度を明らかにした[1]

○梁敬帝紀
 壬子,以司空陳霸先為尚書令、都督中外諸軍事、車騎將軍、揚南徐二州刺史,司空如故。震州刺史杜龕舉兵,攻信武將軍陳蒨於長城。
○陳武帝紀
 震州刺史杜龕據吳興,與義興太守韋載同舉兵反。
○陳文帝紀
 高祖之將討王僧辯也,先召世祖與謀。時僧辯女婿杜龕據吳興,兵眾甚盛,高祖密令世祖還長城,立柵以備龕。世祖收兵纔數百人,戰備又少,龕遣其將杜泰領精兵五千,乘虛奄至,將士相視失色,而世祖言笑自若,部分益明,於是眾心乃定。泰知柵內人少,日夜苦攻,世祖激厲將士,身當矢石,相持數旬,泰乃退走。
○梁46杜龕伝
 後江陵陷,齊納貞陽侯以紹梁嗣,以龕為震州刺史、吳興太守。又除鎮南將軍、都督南豫州諸軍事、南豫州刺史、溧陽縣侯,給鼓吹一部;又加散騎常侍、鎮東大將軍。會陳霸先襲陷京師,執王僧辯殺之。龕、僧辯之壻也,為吳興太守,以霸先既非貴素,兵又猥雜,在軍府日,都不以霸先經心,及為本郡,每以法繩其宗門,無所縱捨,霸先銜之切齒。及僧辯敗,龕乃據吳興以距之,遣軍副杜泰攻陳蒨於長城,反為蒨所敗。
○陳11章昭達伝
 及高祖討王僧辯,令世祖還長城招聚兵眾,以備杜龕,頻使昭達往京口,稟承計畫。僧辯誅後,龕遣其將杜泰來攻長城,世祖拒之,命昭達總知城內兵事。及杜泰退走,因從世祖東進,軍吳興,以討杜龕。
○陳12沈恪伝
 時僧辯女壻杜龕鎮吳興,高祖乃使世祖還長城,立柵備龕,又使恪還武康,招集兵眾。及僧辯誅,龕果遣副將杜泰率眾襲世祖於長城。恪時已率兵士出縣誅龕黨與,高祖尋遣周文育來援長城,文育至,泰乃遁走。世祖仍與文育進軍出郡,恪軍亦至,屯于郡南。
○陳25裴忌伝
 及高祖誅王僧辯,僧辯弟僧智舉兵據吳郡。

 ⑴杜龕...トガン。勇猛で指揮にも長じ、侯景討伐にて第一の功を挙げた。555年(2)参照。
 ⑵王僧弁...字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。侯景の大軍から巴陵を守り切って形勢を逆転させたのち、破竹の進撃を行なって一挙に景を滅ぼした。強兵を擁して建康に駐屯し、元帝死後はその子の方智を擁立して権力を握った。しかし北斉に敗れ、方智の退位と淵明の即位という屈辱的な条件を呑まされた。555年(2)参照。
 ⑶陳覇先…字は興国。時に53歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。のち、正統でない君主を立てたという名目で権力者の王僧弁を攻め殺した。555年(2)参照。
 ⑷沈恪...字は子恭。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。広州刺史の新渝侯瑛の主簿・兼府中兵参軍となった。覇先とは同郡の生まれだったため非常に仲が良く、覇先が李賁を討つ際、妻子を託されてこれを無事故鄉にまで送り届けた。のち建康の防衛に参加し、陥落すると故郷に逃亡した。覇先が南徐州の鎮守を任されると、そのもとに赴き、即日都軍副とされた。のち、王僧弁襲殺の計画を事前に知らされた、数少ない者の一人となった。555年(2)参照。
 [1]王僧智も城に拠って...考異曰く、『南史〔王僧智伝〕には「任約のもとに逃れた」とある。今は典略の記述に従った。
 
●陳家の英秀
 陳蒨は字を子華といい、覇先の兄の陳道談の長子である。
 道談は東宮直閤将軍にまで昇り、侯景の乱が起こると弩手二千を率いて建康に入り、景軍と戦ったが、その最中、流れ矢に当たって戦死した。
 蒨は幼少の頃より沈着明晰で、優れた見識と度量を備えていた。美男子で読書を好み、立ち居振る舞いが立派で、どんな時でも必ず礼法に遵じた行ないをした。覇先は蒨を可愛がり、いつもこう言っていた。
「この子は我が一族の最優秀だ。」
 梁の太清の初年(547)、大小二つの太陽が戦う夢を見た。暫くして、大きな方の太陽の光が消えて地に墜ちたので、駆け寄って見てみると、その色は真っ黄色で、大きさは升のように大きかった。蒨はその三分の一を取って懐に抱いた。
 侯景の乱が起こると、故郷の人の多くが山湖に拠って盗賊行為を働いた。しかし、蒨だけは家業を守り、人に危害を加えなかった。世の乱れが激しくなると、臨安県の郭文挙郭文。東晋の隠者)の旧宅に避難した。
 覇先が兵を挙げ豫章に到った時、侯景は呉興太守の信都遵に蒨および覇先の妻の章要児、〔覇先の第六子の〕陳昌を捕らえさせた。この時、蒨は密かに小刀を隠し持ち、景と会った時に景を刺し殺そうと図ったが、建康に到ると〔景に引き合わされることなく、〕すぐさま郎中の王翻の監視下に置かれたため、果たせずに終わった。
 覇先が石頭城を包囲すると、景は蒨らを処刑しようとしたが、そのときたまたま戦いが起こり、敗北したため果たせなかった。蒨らは脱出して覇先の陣地に到った。
 仕官して呉興太守となった。この時、宣城の劫帥(盗賊の首領)の紀機・郝仲らがおのおの千余人の兵を集めて郡境を荒らした。蒨はこれを討伐し、平定した。承聖二年(553)に信武将軍となり、南徐州の監督を任された。三年(554)、覇先が北斉の広陵を攻撃した時、蒨はその先鋒を務め、戦うたびに勝利した。

○陳文帝紀・南史陳文帝紀
 世祖文皇帝諱蒨,字子華,始興昭烈王長子也。少沈敏有識量,美容儀,留意經史,舉動方雅,造次必遵禮法。高祖甚愛之,常稱「此兒吾宗之英秀也」。梁太清初,夢兩日鬭,一大一小,大者光滅墜地,色正黃,其大如斗,世祖因三分取一而懷之。侯景之亂,〔避地臨安縣郭文舉舊宅。〕鄉人多依山湖寇抄,世祖獨保家無所犯。時亂日甚,乃避地臨安。及高祖舉義兵〔南下〕,侯景遣使〔吳興太守信都遵〕收世祖及衡陽獻王〔出都〕,世祖乃密袖小刀,冀因入()見而害景,〔〕至,便〔以付〕屬吏(郎中王翻)〔幽守〕,故其事不行(遂)。高祖大軍圍石頭,景欲加害者數矣,會景敗,世祖乃得出赴高祖營。起家為吳興太守。時宣城劫帥紀機、郝仲等各聚眾千餘人,侵暴郡境,世祖討平之。承聖二年,授信武將軍,監南徐州。三年,高祖北征廣陵,使世祖為前軍,每戰克捷。
○陳7高祖宣皇后伝
 高祖自廣州南征交阯,命后與衡陽王昌隨世祖由海道歸于長城。侯景之亂,高祖下至豫章,后為景所囚。景平,而高祖為長城縣公,后拜夫人。
○陳28始興昭烈王道談伝
 初,高祖兄始興昭烈王道談仕於梁世,為東宮直閤將軍,侯景之亂,領弩手二千援臺,於城中中流矢卒。

 ⑴陳昌...字は敬業。覇先の世子。時に19歳。江陵が陥落した際に関中に連行された。552年(4)参照。

●虧損の要あり
 章昭達は字を伯通といい、呉興郡武康県の人である(時に39歳)。祖父の章道蓋は南斉の広平太守となり、父の章法尚は梁の揚州議曹従事となった。
 昭達はさっぱりとした性格で、財貨よりも気節を重んじた。幼少の頃、昭達は人相見にこう言われた。
「貴卿の容貌は非常にめでたいが、少しく傷つくとなお良い。さすれば富貴が確約されよう。」
 梁の大同年間(535~546)に、昭達は東宮直後となった。あるとき酔いのために馬から落ち、もみあげの辺りに小さな傷を負った。昭達は喜び、人相見に会って富貴になれるか尋ねた。すると人相見はこう言った。
「まだ不十分じゃ。」
 侯景の乱が起こると、昭達は故郷の人々を率いて建康の救援に赴いた。その戦いの最中、昭達は流れ矢が目に当たり、すがめとなった。人相見はこれを見るとこう言った。
「貴卿の相はまことにめでたい。久しからずして必ず富貴となろう。」
 建康が陥落すると、昭達は郷里に還り、蒨と交流を深めて君臣の関係を結んだ。侯景が滅び、蒨が呉興太守となると、昭達は約束通り蒨のもとに馳せ参じた。蒨は大いに喜んで昭達を将軍とし、部下たちの中で一番優遇した。

○陳11章昭達伝
 章昭達字伯通,吳興武康人也。祖道蓋,齊廣平太守。父法尚,梁揚州議曹從事。昭達性倜儻,輕財尚氣。少時,嘗遇相者,謂昭達曰:「卿容貌甚善,須小虧損,則當富貴。」梁大同中,昭達為東宮直後,因醉墜馬,鬢角小傷,昭達喜之,相者曰「未也」。及侯景之亂,昭達率募鄉人援臺城,為流矢所中,眇其一目,相者見之,曰:「卿相善矣,不久當貴。」京城陷,昭達還鄉里,與世祖遊,因結君臣之分。侯景平,世祖為吳興太守,昭達杖策來謁世祖。世祖見之大喜,因委以將帥,恩寵優渥,超於儕等。

●韋載の挙兵
 龕が挙兵した時、義興太守の韋載も郡を挙げてこれに呼応した。覇先は晋陵太守の周文育と曲阿令の胡穎に軽兵を与え、これを攻めさせた。
 載は覇先の攻撃をいちはやく察知し、防備を固めていた。当時、義興郡に属する県の兵士たちはみな、もと覇先の兵士たちであり、その多くが弩の扱いに長けていた。載は彼らを数十人を集めると、長鎖を以て拘束し、近親の者に監視させた。そして、文育軍が攻めてくるとこう言った。
「十発撃って、二発以上命中させられなかった者は殺す!」
 もと覇先の兵士たちは震え上がり、放った矢を全て命中させた。〔これに懲りた〕文育は力攻めを諦め、城外の川に沿って砦を築いた。〔すると載も同じように川に沿って砦を築き〕、両者は数旬に渡って睨み合った。杜龕は従弟の杜北叟に文育軍を攻撃させたが、北叟は敗れて義興に逃れた。文育の苦戦を知った覇先は自ら東討に赴くことを決めた。

○梁敬帝紀
 義興太守韋載據郡以應之。
○陳武帝紀
 震州刺史杜龕據吳興,與義興太守韋載同舉兵反。高祖命周文育率眾攻載于義興,龕遣其從弟北叟將兵拒戰,北叟敗歸義興。
○梁46杜龕伝
 霸先乃遣將周文育討龕,龕令從弟北叟出距,又為文育所破,走義興。
○陳8周文育伝
 高祖誅王僧辯,命文育督眾軍會世祖於吳興。
○陳12胡穎伝
 又隨周文育於吳興討杜龕。
○陳18韋載伝
 高祖誅王僧辯,乃遣周文育輕兵襲載,未至而載先覺,乃嬰城自守。文育攻之甚急,載所屬縣卒竝高祖舊兵,多善用弩,載收得數十人,繫以長鏁,命所親監之,使射文育軍,約曰十發不兩中者則死,每發輒中,所中皆斃。文育軍稍却,因於城外據水立柵,相持數旬。高祖聞文育軍不利,乃自將征之。

 ⑴韋載...字は徳基。韋叡の孫。都督の王僧弁に従って侯景を討ち、日和見の態度を取っていた魯悉達・樊俊らを説得して兵を出させた。僧弁が建康に向かうと太原・高唐・新蔡三郡の兵を率いて焦湖より柵口に出、梁山にて僧弁と合流した。景を滅ぼすと、冠軍将軍・琅邪太守とされ、間もなく東陽・晋安に自立する留異・陳宝応らの招撫を任された。のち、信武将軍・義興太守とされた。551年(3)参照。
 ⑵周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。552年(2)参照。
 ⑶胡穎...字は方秀。姿形が立派で、寛大・温厚な性格をしていた。陳覇先に早くから仕え、同郷であったために厚遇を受けた。数々の戦いに活躍し、東関の戦いでは覇先に精鋭三千を託され、侯瑱と共に郭元建を破った。王僧弁襲撃の際には騎兵を率いた。555年(2)参照。

●懐柔

 癸丑(10月6日)、太尉の宜豊侯循を太保とし、司徒の建安公淵明を太傅とし、〔前?〕司徒の曲江侯勃を太尉とし、鎮南将軍の王琳を車騎将軍・開府儀同三司とした[1]
 戊午(11日)敬帝の生母の夏貴妃を皇太后とし、妃の王氏を皇后とした。
 また、鎮東将軍・〔東〕揚州刺史の張彪を征東大将軍とし、鎮北将軍・譙秦二州刺史の徐嗣徽を征北大将軍とし、征南将軍・南豫州刺史の任約を征南大将軍とした。

○梁敬帝紀
 癸丑,進太尉蕭循為太保,新除司徒建安公淵明為太傅,司徒蕭勃為太尉。以鎮南將軍王琳為車騎將軍、開府儀同三司。戊午,尊所生夏貴妃為皇太后。立妃王氏為皇后。鎮東將軍、揚州刺史張彪進號征東大將軍。鎮北將軍、譙秦二州刺史徐嗣徽進號征北大將軍。征南將軍、南豫州刺史任約進號征南大將軍。

 [1]敬帝が梁王となった時、僧弁は諸藩をみな昇進させたが、王琳のみ除外した。王琳が己に従わないのを知っていたからか?
 ⑵張彪…侯景が建康を占領すると、東揚州にてこれに粘り強く抵抗した。のち、王僧弁に非常に信任され、東関の戦いの勝利に貢献した。555年(1)参照。
 ⑶徐嗣徽...もと江州刺史の尋陽王大心の部下。もと羅州刺史。552年(2)参照。
 ⑷任約...もと侯景の司空。陸法和の取りなしによって死を免れ、のち、天正帝の大破に貢献した。江陵が西魏に攻められるとその救援に赴いたが、江陵が陥落すると侯瑱と合流して郢州を攻撃した。555年(1)参照。

●陳覇先出陣
 辛未(10月24日)、覇先が高州刺史の侯安都と石州刺史の杜稜に留守を任せ、敬帝を連れて建康を発った。覇先は京口に着くと敬帝をここに残し、〔南合州刺史の〕徐度に近衛兵を統率させ護衛させた。
 甲戌(27日)、義興に到った。
 丙子(29日)、川沿いに築かれていた砦を陥とした。

○梁敬帝紀
 辛未,詔司空陳霸先東討韋載。
○陳武帝紀
 辛未,高祖表自東討,留高州刺史侯安都、石州刺史杜稜宿衞臺省。甲戌,軍至義興。景子,拔其水柵。
○陳8侯安都伝
 紹泰元年,以功授使持節、散騎常侍、都督南徐州諸軍事、仁威將軍、南徐州刺史。高祖東討杜龕,安都留臺居守。
○陳12徐度伝
 紹泰元年,高祖東討杜龕,奉敬帝幸京口,以度領宿衛,幷知留府事。
○陳12杜稜伝
 及僧辯平後,高祖東征杜龕等,留稜與安都居守。
○陳18韋載伝
 高祖聞文育軍不利,乃自將征之,剋其水柵。

 ⑴侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。文武に優れた。王僧弁を討つ際は水軍を任され、長江より石頭に侵入して僧弁を捕らえるのに貢献した。551年(2)参照。
 ⑵杜稜...字は雄盛。呉郡の名家の生まれで、非常な読書好きだったが、幼い頃に家が没落した。覇先に従って書記となり、侯景の乱が起こると将軍とされた。覇先から王僧弁を討つ計画を打ち明けられると難色を示し、漏洩を危惧されて首を絞められ気絶した。552年(2)参照。
 ⑶敬帝...蕭方智。元帝の第九子。時に13歳。陳覇先に擁立されて皇帝となった。555年(2)参照。
 ⑷徐度......字は孝節。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。555年(2)参照。

●徐嗣徽・任約、建康を襲う
 征北大将軍・譙秦二州刺史の徐嗣徽の従弟の徐嗣先は、僧弁の甥だった。僧弁が死ぬと、嗣先は嗣徽の弟の徐嗣宗・徐嗣産と共に建康から逃亡し、嗣徽を頼った。〔僧弁が殺された事を伝えて〕復讐を求めた。
 この時、陳覇先江旰を嗣徽のもとに派して説得したが(征北大将軍に任じた時?)、嗣徽は旰を捕らえて鄴(北斉の都)に送り、州を挙げて北斉に降り、派兵を願った。文宣帝は嗣徽を儀同とし、派兵を約束した。
 
 陳覇先が義興に赴くと、嗣徽は征南大将軍・南豫州刺史の任約と密かに足並みをそろえ、精兵五千を率いて建康を襲った。
 この日(29日)、嗣徽らが石頭を陥とし、その偵察の騎兵は建康の城下にまで到った。侯安都は〔嗣徽らを油断させるために〕門を閉じて旗幟を隠し、弱体のように見せかけた。その際、城中にこう下知を下した。
「城壁に登って賊を窺った者は斬る!」
 嗣徽らは〔静まりかえった城を不気味に思い、攻めるのをやめて〕夕方に石頭に還った。安都は夜間に戦備を整えた。夜が明けると、嗣徽らは再び建康に迫った。安都は三百の兵を率いて〔南門の〕東・西の掖門(脇門)より出撃し、これを大破した。嗣徽らは建康の攻略を諦め、石頭に逃げ帰った。

 この間、安都と共に建康を守備していた杜稜は昼も夜も城内を巡回して警戒を行ない、兵士たちを慰労して回り、一度も休まなかった。

○梁敬帝紀
 丙子,任約、徐嗣徽舉兵反,乘京師無備,竊據石頭。
○陳武帝紀
 景子,…秦州刺史徐嗣徽據其城以入齊,又要南豫州刺史任約共舉兵應龕、載,齊人資其兵食。嗣徽等以京師空虛,率精兵五千奄至闕下,侯安都領驍勇五百人出戰,嗣徽等退據石頭。
○陳8侯安都伝
 徐嗣徽、任約等引齊寇入據石頭,游騎至于闕下。安都閉門偃旗幟,示之以弱,令城中曰:「登陴看賊者斬。」及夕,賊收軍還石頭,安都夜令士卒密營禦敵之具。將旦,賊騎又至,安都率甲士三百人,開東西掖門與戰,大敗之,賊乃退還石頭,不敢復逼臺城。
○陳12杜稜伝
 徐嗣徽、任約引齊寇濟江,攻臺城,安都與稜隨方抗拒,稜晝夜巡警,綏撫士卒,未常解帶。
○南63徐嗣徽伝
 徐州之亡,任秦州刺史。嗣產先在建鄴,嗣宗自荊州滅亡中逃得至都。從弟嗣先即僧辯之甥,復為比丘慧暹藏,得脫俱還。及僧辯見害,兄弟抽刀裂眦,志在立功,俱逃就兄嗣徽,密結南豫州刺史任約與僧辯故舊,圖陳武帝。帝遣江旰說之,嗣徽執旰送鄴乞師焉。齊文宣帝授為儀同,命將應赴。

 ⑴徐嗣徽...もと江州刺史の尋陽王大心の部下。もと羅州刺史。王僧弁が死ぬと、覇先に征北大将軍とされた。555年(2)参照。
 ⑵文宣帝...高洋。高歓の第二子。時に30歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。555年(2)参照。
 ⑶任約...もと侯景の司空。陸法和の取りなしによって死を免れ、のち、天正帝の大破に貢献した。江陵が西魏に攻められるとその救援に赴いたが、江陵が陥落すると侯瑱と合流して郢州を攻撃した。王僧弁が死ぬと、覇先によって征南大将軍とされた。555年(2)参照。
 ⑷三百の兵...陳武帝紀には『驍勇五百人』とある。

●義興攻略

 陳覇先韋載の族弟の韋翽字は子羽)に書簡を持たせ、載を説得させた。
 丁丑(30日)、載および杜北叟が降った。覇先は二人を手厚くもてなし、その罪を赦した。また、翽に義興郡を監察させ、載を参謀とした。
 覇先は杜龕の討伐と長城の救援を周文育に任せ、急いで建康に還った。その途中、京口にて敬帝・徐度と合流した。

 この東行の間、覇先は一族の陳詳字は文幾、時に33歳)に安吉・原郷・故鄣の三県を攻略させた。

○梁敬帝紀
 丙子,任約、徐嗣徽舉兵反,乘京師無備,竊據石頭。丁丑,韋載降,義興平。遣晉陵太守周文育率軍援長城。
○陳武帝紀
 丁丑,載及〔龕從弟〕北叟來降,高祖撫而釋之。〔仍以載兄鼎知郡事。〕以嗣徽寇逼,卷甲還都,命周文育進討杜龕。
○陳12徐度伝
 徐嗣徽、任約等來寇,高祖與敬帝還都。
○陳15陳詳伝
 陳詳字文幾,少出家為桑門。善書記,談論清雅。高祖討侯景,召詳,令反初服,配以兵馬,從定京邑。高祖東征杜龕,詳別下安吉、原鄉、故鄣三縣。
○陳18韋載伝
 高祖聞文育軍不利,乃自將征之,剋其水柵。仍遣載族弟翽賷書喻載以誅王僧辯意,并奉梁敬帝勑,〔勑〕載解兵。載得書,乃以其眾降于高祖。高祖厚加撫慰,即以其族弟翽監義興郡,所部將帥,並隨才任使,引載恆置左右,與之謀議。
○陳18韋翽伝
 載族弟翽。翽字子羽,少有志操。祖愛,梁輔國將軍。父乾向,汝陰太守。 翽 弱冠喪父,哀毀甚至,養母、撫孤兄弟子,以仁孝著稱。高祖為南徐州刺史,召為征北參軍,尋監義興郡。

 [1]建康に還った...考異曰く、『梁書〔敬帝紀〕には「十一月、庚寅(13日)、覇先が建康に還った」とあるが、それでは遅すぎる。それに、庚寅以前に覇先は既に建康にて北斉軍を防いだ形跡がある。よって、今は陳書〔武帝紀〕の記述に従った。
 ⑴安吉…《読史方輿紀要》曰く、『安吉州は湖州府(呉興)の西南百二十里にある。
 ⑵原郷…《読史方輿紀要》曰く、『安吉州の南六十五里、或いは武康県の西百二十里→孝豊県の東にある。
 ⑶故鄣…《読史方輿紀要》曰く、『長興(長城)県の西南八十里にある。

●呉郡攻略
 覇先の部将の黄他が、呉郡に拠る王僧智を攻めた。僧智は西昌門より兵を出してこれを迎え撃った。他は突け入る隙を見出だせず、結果睨み合いとなった。覇先はこれを聞くと、寧遠将軍の裴忌にこう言った。
「三呉の地は我が国の中心地であり、古来から肥沃を称賛されてきた。昨今、侯景によって荒らされはしたものの、まだまだ盛んである。今、賊徒が〔この地に〕集まって天下を動揺させているが、これを平定し得るのは、公以外にいない。よくよく努力せよ。」
 忌は部下の中から精鋭を選り抜き、これに身軽な格好をさせて直ちに呉郡に急行した[1]。夜、城下に到ると、忌軍は軍鼓を鳴らし、閧の声を上げて城に迫った。僧智はこのけたたましい音を聞くや大軍が来たと勘違いし、快速艇に乗って杜龕のもとに逃げこんだ。かくて忌は呉郡の占拠に成功した。覇先は忌の功を褒め、忌を呉郡太守とした。

 裴忌生年521、時に35歳)は字を無畏といい、名将裴邃の兄の孫である。忌は幼い頃より聡明で度量があり、史書に通暁して人々から称賛を受けた。仕官して豫章王法曹参軍となり、侯景の乱が起こると勇士を集め、覇先の指揮下で着々と戦功を上げて寧遠将軍とされた。

○陳25裴忌伝
 裴忌字無畏,河東聞喜人也。…忌少聰敏,有識量,頗涉史傳,為當時所稱。解褐梁豫章王法曹參軍。侯景之亂,忌招集勇力,隨高祖征討,累功為寧遠將軍。及高祖誅王僧辯,僧辯弟僧智舉兵據吳郡,高祖遣黃他率眾攻之,僧智出兵於西昌門拒戰,他與相持,不能克。高祖謂忌曰:「三吳奧壤,舊稱饒沃,雖凶荒之餘,猶為殷盛,而今賊徒扇聚,天下搖心,非公無以定之,宜善思其策。」忌乃勒部下精兵,輕行倍道,自錢塘直趣吳郡,夜至城下,鼓譟薄之。僧智疑大軍至,輕舟奔杜龕,忌入據其郡。高祖嘉之,表授吳郡太守。

 [1]〔裴忌伝には『銭塘を経由して呉郡に向かった』とある。陳霸先は、義興より建康に帰る際に、裴忌を呉郡に向かわせたのである。銭塘を経由する道は呉郡への最短経路では無い。ゆえに、絶対に誤りである。

●北斉軍、長江を渡る

 11月、己卯(2日)、北斉が徐嗣徽・任約の求めに応じ、五千の兵を派した。北斉軍は長江を渡り、姑孰(南豫州)に進んだ。
 石頭城が陥ちると、建康の人々は〔秦淮河の?〕南に避難した。その地は建康より遠く、嗣徽らがこれを襲った場合対応できそうに無かった。そこで覇先はその進路を遮断するため、〔南〕合州刺史の徐度に冶城寺(建康の西南から南の秦淮渚まで砦を築かせた。
 庚辰(3日)、北斉の安州[1]刺史の翟子崇・〔西〕楚州(鍾離)刺史の劉士栄・淮州(淮陰。鍾離の東北)刺史の柳達摩ら率いる一万の兵が胡墅[2]より長江を渡り、石頭に米三万石・馬千頭を運び入れた。
 癸未(6日)侯安都が水軍を率いて胡墅を夜襲し[3]、北斉の船千余艘を焼き払った。また、仁威将軍の周鉄虎が北斉の糧道を断つため、板橋浦にて北斉の水軍を破り、北斉の北徐州(琅邪)刺史の張領州を捕らえ、数千石の兵糧など軍需物資をことごとく奪取した。

 覇先が韋載に策を問うと、載はこう言った。
「斉軍に三呉との連絡を断たれ、東方を制圧されますと、我らの敗北は決定的なものとなります。ゆえに今、我らが早急に為すべきことは、三呉との連絡路を死守することです。そのためには、むかし侯景が秦淮河以南に築いた砦を再利用して城を築くことが必要です。それから軽兵を派して斉軍の糧道を断てば、斉軍は寄る辺を失います。さすれば、十日も経ずして大将首を得られましょう。」
 覇先はこれに従い、韋載侯景が朱雀大航に築いていた砦を改修させ、杜棱にこれを守備させた。北斉軍は〔石頭城の〕倉門水の南岸に二つの砦を築き、梁軍と対峙した。
 壬辰(15日)、北斉の大都督の蕭軌率いる軍勢が長江の北岸に到着した。また、東南道行台の趙彦深が秦郡(秦州)など五城を接収し、二万余戸の住民を安撫した。

○北斉文宣紀
 十一月丙戌,高麗遣使朝貢。梁秦州刺史徐嗣輝、南豫州刺史任約等襲據石頭城,並以州內附。壬辰,大都督蕭軌率眾至江,遣都督柳達摩等渡江鎮石頭。東南道行臺趙彥深獲秦郡等五城,戶二萬餘,所在安輯之。
○梁敬帝紀
 十一月庚辰,齊安州刺史翟子崇、楚州刺史劉仕榮、淮州刺史柳達摩率眾赴任約,入于石頭。庚寅,司空陳霸先旋于京師。
○陳武帝紀
 十一月己卯,齊遣兵五千濟渡據姑熟(孰)。高祖命合州刺史徐度於冶城寺立柵,南抵淮渚。齊又遣安州刺史翟子崇、楚州刺史劉仕榮、淮州刺史柳達摩領兵萬人,於胡墅渡米粟三萬石馬千匹,入于石頭。癸未,高祖遣侯安都領水軍夜襲胡墅,燒齊船千餘艘,周鐵武率舟師斷齊運輸,擒其北徐州刺史張領州,獲運舫米數千石。仍遣韋載於大航築城,使杜稜據守。齊人又於倉門水南立二柵以拒官軍。
陳8侯安都伝
 及高祖至,以安都為水軍,於中流斷賊糧運。
○陳10周鉄虎伝
 徐嗣徽引齊寇渡江,鐵虎於板橋浦破其水軍,盡獲甲仗船舸。又攻歷陽,襲齊寇步營,竝皆克捷。
○陳12徐度伝
 時賊已據石頭城,市鄽居民,竝在南路,去臺遙遠,恐為賊所乘,乃使度將兵鎮于冶城寺,築壘以斷之。
○陳18韋載伝
 徐嗣徽、任約等引齊軍濟江,據石頭城,高祖問計於載,載曰:「齊軍若分兵先據三吳之路,略地東境,則時事去矣。今可急於淮南即侯景故壘築城,以通東道轉輸,別命輕兵絕其糧運,使進無所虜,退無所資,則齊將之首,旬日可致。」高祖從其計。

 [1]安州...安州とは鍾離郡にある定遠県(鍾離の南)に置かれたものである。〔安州は侯景の乱ののちに廃され、北斉は定遠を広安に改めた。
 [2]胡墅...長江の北岸にあり、石頭城の対岸にある。
 [3]侯安都の胡墅夜襲...考異曰く、『典略には「己巳」とある。長暦によると、この月の1日は戊寅であり、己巳の日は存在しない。ゆえに、今は陳書の記述に従った。
 ⑴冶城…《読史方輿紀要》曰く、『応天府(建康)の西の石城門内にある。』《読史方輿紀要》曰く、『石城は旧西門で、またの名を大西門という。
 ⑵周鉄虎...どすの利いた声で喋り、筋力は人並み外れ、馬上槍の扱いに長けた。もと河東王誉配下の猛将で、誉が滅ぼされると僧弁に降った。のち、僧弁の指揮のもと、侯景の猛将の宋子仙を捕らえるなど数々の戦功を挙げた。僧弁が死ぬと覇先に降った。551年(3)参照。
 ⑶板橋浦…《読史方輿紀要》曰く、『応天府(建康)の西南三十里にある。
 ⑷蕭軌...儀同三司。梁の晋州を陥とした。555年(1)参照。
 ⑸趙彦深...本名隠。東魏の名臣の陳元康と共に機密のことを司り、『陳・趙』と並び称された。潁川包囲戦では王思政の説得に当たった。550年(2)参照。

●清河王岳の死
 昔、北斉の平秦王帰彦は幼くして親を無くし、清河王岳に引き取られた。岳は幼いという理由で帰彦を侮り、邪険に扱った。帰彦は恨みに思ったが、口に出すことはしなかった。文宣帝が皇帝となると、帰彦は領軍大将軍とされ、非常に重用された。岳は帰彦が自分に感謝しているものと思っていたので、以後、これ幸いと何かにつけて帰彦を頼るようになった。帰彦はこれを受け入れる素振りを見せつつ、裏で岳に何か落ち度は無いか探りを入れ続けた。
 これまで岳は、寒山にて梁の大軍を大破し、長社にて西魏の大将軍の王思政を捕らえ、江夏を陥とすなど、多くの功績を挙げ、その威名は非常に重々しいものがあった。ただ、贅沢好きで、酒と女を好み、あちこちから集めた選り抜きの歌姫や舞女に、食事中歌い踊らせた。その豪華さはどの王よりも勝っていた。
 ある時、岳は鄴城の南に広大な屋敷を建てた。その屋敷には後宮のような施設が後方に備え付けられていた。帰彦はこれを帝に告げ口して言った。
「清河王は後宮のような物を作るなど、邸宅を皇宮に似せています。違いはただ、立派な門の有無だけであります。」
 のち、ある夜、帝がこれを見に行った所、果たして帰彦の言うとおり、非常に壮麗だった。これ以後、帝は岳を疎んずるようになった。
 ある時、帝は妓女の薛氏姉妹を後宮に入れ、非常に寵愛した。しかし、のちに、妹の方がむかし十四、五歳の頃に姉の手引きによって岳の情婦となっていた事を知ると、〔非常な嫉妬心に駆られた〕。また、姉の方も自分の父を司徒にするよう求めるなど不遜であった。そこで帝はまず姉を鋸で殺し、次いで妊娠していた妹の方も、出産した後に斬首した。帝は民間の娘と姦淫した(結婚しないのに関係を持った)という罪状を以て岳を責め立てた。すると岳はこう答えて言った。
「私はもともと彼女を妻にする気でおりました。ただ、軽薄な所が目につくようになったために、結局娶らなかっただけのことで、姦淫したわけではありません。」
 帝はこれを聞くとますます怒った。
 己亥(11月22日)、帰彦を岳の屋敷に送り、毒を飲むよう命じた。岳は言った。
「私は無実であります。」
 帰彦は答えて言った。
「飲めば家族は助ける。」
 帰彦が屋敷に赴いてから数日後、岳はやむなく毒を飲み、亡くなった(享年44)。人々はその死を悼んだ。帝は大鴻臚に葬儀を監督させ、使持節・都督冀定滄瀛趙幽済七州諸軍・太宰・太傅・定州刺史・仮黄鉞を追贈し、遺体を轀輬車(温度を調節できる車)に載せ、二千段の絹を遺族に贈り、昭武と諡した。また、残された邸宅を荘厳寺とした。

○資治通鑑
 乙亥,使歸彥鴆岳。岳自訴無罪,歸彥曰:「飲之則家全。」飲之而卒,葬贈如禮。
○北斉・北史北斉文宣紀
 己亥,太保、司州牧、清河王岳薨。〔…所幸薛嬪,其被寵愛,忽意其經與高岳私通,無故斬首,藏之於懷。
○北斉13・北51清河王岳伝
 岳自討寒山、長社及出隨、陸,並有功績,威名彌重。而性華侈,尤悅酒色,歌姬舞女,陳鼎擊鐘,諸王皆不及也。初,高歸彥少孤,高祖令岳撫養,輕其年幼,情禮甚薄。歸彥內銜之而未嘗出口。及歸彥為領軍,大被寵遇,岳謂其德己,更倚賴(仗)之。歸彥密構其短。岳於城南起〔大〕宅,聽事後開巷。歸彥奏帝曰:「清河造宅,僭擬帝宮,制為永巷,但唯無闕耳。」顯祖聞而惡之,〔帝後夜行,見壯麗,意不平。〕漸以疏岳。仍屬顯祖召鄴下婦人薛氏入宮,而岳先嘗喚(迎)之至宅,由其姊也。帝懸薛氏姊而鋸殺之,讓岳以為姦民女。岳曰:「臣本欲取之,嫌其輕薄不用,非姦也。」帝益怒。六年十一月,使高歸彥就宅切責之。〔岳曰:「臣無罪。」彥曰:「飲之!」〕岳憂悸不知所為,數日〔飲〕而薨,故時論紛然,以為賜鴆也。朝野歎惜之。時年四(三)十四【[六]北齊書卷一三清河王岳傳作「四十四」。張森楷云:「案岳從高歡起兵在魏永安末年,距齊天保六年凡二十六年,若岳卒年三十四,則起兵時只八歲,無是理也。北史蓋誤。」按高歡起兵實在普泰元年六月,張說誤提前一年,但結論不錯,當從北齊書作「四十四」】。詔大鴻臚監護喪事,贈使持節、都督冀定滄瀛趙幽濟七州諸軍、太宰、太傅、定州刺史,假黃鉞,給轀輬車,賵物二千段,諡曰昭武。〔敕以城南宅為莊嚴寺。
○北14薛嬪伝
 薛嬪者,本倡家女也。年十四五時,為清河王岳所好。其父求內宮中,大被嬖寵。其姊亦俱進御。文宣後知先與岳通,又為其父乞司徒公,帝大怒,先鋸殺其姊。薛嬪當時有娠,過產亦從戮。

 ⑴平秦王帰彦...高歓の族弟。字は仁英。555年(2)参照。
 ⑵清河王岳...字は洪略。高歓の従父弟。高歓の死後、たびたび大軍の指揮を任された。555年(1)参照。
 ⑶薛氏姉妹を後宮に入れ...通鑑には『帝が夜に薛氏の家に遊びに行った際、薛氏の姉が父を司徒にするよう求めた』とある。これだと、姉は薛氏の家に居て、後宮には行かなかったように読める。
 
●佳人、再び得難し

 間もなく、帝は薛氏)を殺したのを〔非常に後悔した。〕帝は薛氏の首を懐に入れ、東山に赴いて酒宴を開いた。帝は乾杯をしたのち突然薛氏の首を盤上に置き、薛氏の太ももの骨で作った琵琶を奏でた。一同はこれを見ると一様に戦慄した。帝は薛氏の首を掻き抱き、涙を流してこう言った。
「斯様な美女にまた出会えようか![1] まことに惜しいことをした!」
 帝は薛氏の遺体を車に載せ、埋葬場に送った。その際、帝は髪を振り乱し、泣きながら歩いてこれに付き従った。

○北史北斉文宣紀
 所幸薛嬪,其被寵愛,忽意其經與高岳私通,無故斬首,藏之於懷。於東山宴,勸酬始合,忽探出頭,投於柈上。支解其屍,弄其𩪖為琵琶。一座驚怖,莫不喪膽。帝方收取,對之流淚云:「佳人難再得,甚可惜也。」載屍以出,被髮步哭而隨之。

 [1]前漢の李延年の歌に曰く、『北方に佳人有り、絶世にして独立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾かす。寧んぞ傾城と傾国〔の害〕を知らざらんや、〔しかるに〕佳人、再び得難し!』

●徐嗣徽大破
 甲辰(27日)徐嗣徽らが冶城の砦を攻めた。しかし、なかなか陥とせないでいる内、陳覇先が精鋭を率い、西明門より出擊してこれを大破した。嗣徽らは〔方針を転換し、〕柳達摩らに石頭の留守を任せ、親類や腹心を連れて采石に赴き、北斉の援軍と合流した。

○梁敬帝紀
 十二月庚戌,徐嗣徽、任約又相率至采石,迎齊援。
○陳武帝紀
 甲辰,嗣徽等攻冶城柵,高祖領鐵騎精甲,出自西明門襲擊之,賊眾大潰。嗣徽留柳達摩等守城,自率親屬腹心,往南州採石,以迎齊援。
○陳12徐度伝
 賊悉眾來攻,不能克。高祖尋亦救之,大敗約等。

●西魏、王琳に派兵
 この年《周文帝紀》王琳の部将の侯方児侯平?)・潘純陁が後梁に迫った。
 この月周文帝紀)、西魏の大将軍の豆盧寧が開府の蔡祐鄭永らを率い、その討伐に赴いた《周19豆盧寧伝》

 ⑴王琳...字は子珩。時に30歳。兵戸出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受け将軍とされた。非常に勇猛で侯景討伐に第一の武功を立てた。のち広州刺史とされ、西魏が江陵を攻めると救援に赴いたが間に合わなかった。555年(2)参照。
 ⑵豆盧寧...字は永安。前燕慕容氏の末裔。劉平伏・鄭五醜の乱を平定した。550年(1)参照。
 ⑶蔡祐...字は承先。宇文泰に我が子のように遇された。河橋の戦いの際に敵に包囲されたが奮戦して脱出し、泰にまみえて安堵させた。邙山の戦いでは明光の鎧を着て奮戦し、『鉄の猛獣』と恐れられた。543年(1)参照。

●秦淮河の戦い

 12月、癸丑(7日)侯安都が水軍を率いて秦郡を奇襲し、徐嗣徽が挙兵時にいた砦を陥として数百人を虜とした。また、嗣徽の家族と馬・驢馬・輜重を手に入れた。また、嗣徽愛用の琵琶と鷹を得ると、これを嗣徽に送って言った。
「昨日、卿が住んでいた所に行ってこれを手に入れた。今、共に返す。」
 嗣徽らはこれを見ると大いに恐れた。
 丙辰(10日)陳覇先が冶城の前にある〔秦淮河に〕浮き橋を架けて全軍を渡河させ、倉門水の南岸にある北斉の二つの砦を攻めた。この時、柳達摩らも〔連絡路を確保するために?〕秦淮河を〔南に?〕渡って陣を布いていた。覇先は兵を督促して速攻をかけ、火を放って北斉の砦を焼いた。その煙塵は天に漲った。北斉軍は大敗し、逃げるために船を争って落とし合い、千人が溺死した。この時、人民たちは秦淮河を挟んで戦いの成り行きを見守っていたが、〔覇先軍の勝利が決まると、〕天地を震わすほどの歓声を上げた。覇先兵は勝ちに乗じて追撃し、百人力の力を発揮して北斉軍の艦船を全て拿捕した。この勢いに北斉兵は戦意を喪失した。

○陳武帝紀
 十二月癸丑,高祖遣侯安都領舟師,襲嗣徽家口于秦州,俘獲數百人。官軍連艦塞淮口,斷賊水路。先是太白自十一月景戌不見,乙卯出于東方。景辰,高祖盡命眾軍分部甲卒,對冶城立航渡兵,攻其水南二柵。柳達摩等渡淮置陣,高祖督兵疾戰,縱火燒柵,煙塵張天,賊(齊人)〔大〕潰,爭舟相排擠,溺死者以千數。時百姓夾淮觀戰,呼聲震天地。軍士乘勝,無不一當百,盡收其船艦,賊軍懾氣。
○陳8侯安都伝
 又襲秦郡,破嗣徽柵,收其家口並馬驢輜重。得嗣徽所彈琵琶及所養鷹,遣信餉之曰:「昨至弟住處得此,今以相還。」嗣徽等見之大懼。

●江寧浦の戦い
 この日徐嗣徽任約と共に北斉兵一万余人を率いて水・陸より石頭に帰ろうとした。覇先は兵を江寧に派し、先んじて要害を押さえさせた。そのため、 嗣徽らは江寧浦口より先に進むことができなくなった。覇先は猛烈将軍の侯安都に水軍を与えてこれを奇襲・撃破させた。嗣徽らは一艘の船に乗って命からがら逃走した。覇先軍は嗣徽らの軍需物資を全て鹵獲した。

○梁敬帝紀
 丙辰,遣猛烈將軍侯安都水軍於江寧邀之,賊眾大潰,嗣徽、約等奔于江西。
○陳武帝紀
 是日嗣徽、約等領齊兵水步萬餘人,還據石頭,高祖遣兵往江寧,據要險以斷賊路。賊水步不敢進,頓江寧浦口,高祖遣侯安都領水軍襲破之,嗣徽等乘單舸脫走,盡收其軍資器械。

●石頭城の戦い
 丁巳(12月11日)、覇先が秦淮河南岸の砦を陥とした。覇先は次いで北岸に渡って砦を築き、石頭城兵が秦淮河から水を汲むことを不可能にさせた。
 己未(13日)、覇先が四方より石頭城に攻撃を仕掛けた。覇先は辰の刻(約8時)より酉の刻(約18時)まで攻め続け、東北の小城を占拠し、東門故城内にある井戸群を全て埋め立てた。水源を失った城内は、一合の水が米一升、絹一疋で取り引きされるようになり、水を手に入れられなかった者は生米を炒めて食べた。柳達摩は兵にこう言った。
「先頃、中原ではこのような歌が流行った。『石頭()、両襠(衣服)を擣つ。青を擣ち、また黄を擣つ』。青の服を着た侯景たちは、石頭にて敗北を喫した。そして今、黄の衣服を着る我らも、石頭で敗れようとしている。かの歌はこれを予言していたのだ。」。
 覇先は夜になっても攻撃を継続した。

○陳武帝紀
〔丁巳,拔石頭南岸柵,移度北岸起柵,以絕其汲路。〕己未,官軍四面攻城,自辰訖酉,得其東北小城,〔又堙塞東門故城中諸井。齊所據城中無水,水一合貿米一升,一升米貿絹一匹,或炒米食之。達摩謂其眾曰:「頃在北,童謠云,『石頭擣兩襠,擣青復擣黃』。侯景服青,已倒於此,今吾徒衣黃,豈謠言驗邪。」〕及夜兵不解。庚申,達摩遣使侯子欽、劉仕榮等詣高祖請和,高祖許之,乃於城門外刑牲盟約,其將士部曲一無所問,恣其南北。辛酉,高祖出石頭南門,陳兵數萬,送齊人歸北者。〔及至,齊人殺之。〕
 壬戌,齊和州長史烏丸遠自南州奔還歷陽。江寧令陳嗣、黃門侍郎曹朗據姑熟(孰)反,高祖命侯安都、徐度等討平之,斬首數千級,聚為京觀。石頭、採石、南州悉平,收獲馬仗船米不可勝計。

●停戦
 庚申(12月14日)柳達摩侯子欽劉士栄を覇先のもとに派遣し、停戦を求めた。一方で、覇先の親族を人質に寄越すことも求めた[1]
 この時、四方の州郡の多くが覇先に従わず、物資を送っていなかった。その上、建康には備蓄がなかったため、覇先は次第に戦いの継続が困難になっていた。配下がみな北斉と和議を結ぶことを求めると、覇先はこれに難を示したが、かといって衆議の意見に背くわけにもいかず、遂にこう言った。
「私は王室をよく輔佐することができず、蛮夷に中華への侵攻を許してしまった。そればかりか、これを討滅することもできなかった。その私がどの顔して和議を結ぶことができようか。〔しかるに〕今、諸君はみな北斉と和を結び、国境を安寧にすることを主張している。もし諸君の意見に違い、親類を人質に送らなければ、諸君はきっと私が国家よりも家族を優先したと思うであろう。〔ゆえに〕今、私は〔涙を呑んで〕甥の曇朗を人質に送ろうと思う。〔しかし、〕斉人は信用できぬ者たちで、いつも我らの隙を窺っているゆえ、我らを弱体と見れば、必ず盟約に背いて戦いを仕掛けてこよう。斉軍がやって来たら、諸君は必ず私のために力闘するのだぞ!」
 覇先は陳曇朗が人質に行くのを嫌がって東方に逃げ隠れるのを心配し、自ら軍を率いて京口に迎えに行き(曇朗は京口の留守を任されていた)、曇朗を連れて建康に還った。
 かくて曇朗および永嘉王荘南54永嘉王荘伝、丹楊尹の王沖の子の王珉を人質に差し出し(出典不明)、 北斉と石頭城外にて生贄の血を啜り、盟約を行なった。覇先は北斉に付いた南人の将兵に、南方か北方どちらに行くか自由に選択させた。
 辛酉(15日)、覇先は石頭城の南門に数万の兵を整列させ、北に還る将兵たちを見送った。徐嗣徽・任約は共に北斉に赴いた。文宣帝柳達摩を処刑した。
 壬戌(16日)、北斉の和州長史の烏丸遠が南洲より歴陽に還った。
 梁の江寧令の陳嗣と黄門侍郎の曹朗が姑熟に拠って覇先に抵抗した。覇先は侯安都・徐度らにこれを討伐させた。侯安都らは平定に成功し、数千の首を得た。覇先はこれを積み上げて京観()を作り、記念碑とした。
 かくて石頭城・采石・南洲はみな覇先のもとに帰し、そこにあった無数の馬匹・武器・艦船・糧米もみな覇先の手に帰した。

 梁の交州刺史の劉元偃が、数千の兵と共に王琳に付いた《出典不明》

○資治通鑑
 齊主誅柳達摩。
○北斉文宣紀
 是月,柳達摩為霸先攻逼,以石頭降。
○梁敬帝紀
 庚申,翟子崇等請降,並放還北。
○陳武帝紀
 庚申,達摩遣使侯子欽、劉仕榮等詣高祖請和,高祖許之,乃於城門外刑牲盟約,其將士部曲一無所問,恣其南北。辛酉,高祖出石頭南門,陳兵數萬,送齊人歸北者。〔及至,齊人殺之。〕
 壬戌,齊和州長史烏丸遠自南州奔還歷陽。江寧令陳嗣、黃門侍郎曹朗據姑熟(孰)反,高祖命侯安都、徐度等討平之,斬首數千級,聚為京觀。石頭、採石、南州悉平,收獲馬仗船米不可勝計。
○陳8侯安都伝
 尋而請和,高祖聽其還北。及嗣徽等濟江,齊之餘軍猶據採石,守備甚嚴,又遣安都攻之,多所俘獲。
○陳14南康愍王曇朗伝
 二年,徐嗣徽、任約引齊寇攻逼京邑,尋而請和,求高祖子姪為質。時四方州郡竝多未賓,京都虛弱,粮運不斷,在朝文武咸願與齊和親,高祖難之,而重違眾議,乃言於朝曰:「孤謬輔王室,而使蠻夷猾夏,不能戡殄,何所逃責。今在位諸賢,且欲息肩偃武,與齊和好,以靜邊疆,若違眾議,必謂孤惜子姪,今決遣曇朗,弃之寇庭。且齊人無信,窺窬不已,謂我浸弱,必當背盟。齊寇若來,諸君須為孤力鬭也。」高祖慮曇朗憚行,或奔竄東道,乃自率步騎往京口迎之,以曇朗還京師,仍使為質於齊。

 [1]人質に寄越すよう求めた...手ぶらで帰っては処罰されると考えたからであろう。
 ⑴陳曇朗...覇先の同母弟の陳休先の子。生年529、時に27歳。幼い頃に父が亡くなると覇先に引き取られ、溺愛を受けた。胆力があり、兵の統率を得意とした。東方光が宿豫にて北斉に叛き、梁に付くとその救援に赴いた。覇先が王僧弁を討ちに赴いた時、京口の留守を任された。555年(2)参照。
 ⑵永嘉王荘...元帝の長子の子。555年(1)参照。
 ⑶王沖...字は長深。生年492、時に64歳。名門王氏の出。母は梁の武帝の妹。早くに孤児となり、梁の武帝に手厚い養育を受けた。温和で人に逆らわず、音楽や歌舞に通じ、人付き合いが良かったので社交界で好評を博した。また、法律に通じ、公平な政治を行なった。南郡太守を務め、梁の湘東王繹(元帝)が荊州刺史となるとその鎮西長史を兼ねた。侯景の乱が起こると南郡太守の座を王僧弁に譲り、更に女妓十人を繹に献じて軍賞の助けとした。のち衡州刺史→行湘州事・長沙内史とされ、陸納が湘州にて乱を起こすと捕らえられたが、納が降ると解放された。549年(4)参照。
 

 555年(5)に続く