[西魏:恭帝二年 北斉:天保六年 梁(蕭方智):承聖四年→紹泰元年 梁(蕭詧):大定元年 梁(蕭淵明):天成元年]



●蕭詧の即位
 これより前、梁の邵陵太守の劉棻が兵を率いて江陵の救援に赴いていた。
 春、正月、壬午朔(1日)、三百里灘にて配下の宋文徹に殺された。文徹は余衆を率いて邵陵に還った《出典不明》

 この年、西魏の梁王の蕭詧が江陵にて帝位に即いた。これが後梁(西梁)の宣帝である[1]。帝は年号を大定に改めた。
 また、父の昭明太子統を追尊して昭明皇帝とし、廟号を高宗とした。また、統の妃の蔡氏を昭徳皇后とし、母の龔氏を皇太后とした。また、妻の王氏を皇后とし、子の蕭巋を皇太子とした。
 賞賜・刑罰の制度は皇帝のそれに準じたが、西魏への書簡には『臣』と称し、その暦と年号を使用した。官爵の制度は梁の制度を受け継いだが、勳官については西魏の柱国などの名称を併用した。
 帝は諮議参軍の蔡大宝を侍中・尚書令とし、人事を司らせた。また、外兵参軍で太原の人の王操を五兵尚書とした。大宝は厳正な性格で智謀があり、政治に精通し、文章を書くのが非常に早かった。そのため、宣帝は心の底から彼を信頼して参謀とした。人々は詧と大宝の関係を、劉備と諸葛亮のそれになぞらえた(周48蔡大宝伝)。操は誠実な性格で、智謀があり、大変な読書家で、勤勉に働いた。操への信任ぶりは、大宝に次ぐものだった(周48王操伝)。
 また、叔父の邵陵王綸に太宰を追贈し、壮武と諡した。また、兄の河東王誉に丞相を追贈し、武桓と諡した《周48蕭詧伝》
 また、莫勇を武州刺史とし、魏永寿を巴州刺史として〔両地を接収しに行かせた。〕《出典不明》

 ⑴劉棻…宣猛将軍。天正帝が東下した際、任約と共にその迎撃に赴いた。陳書では『劉恭』。553年(2)参照。
 ⑵蕭詧…字は理孫。武帝の長子・蕭統の第二子。時に37歳。雍州刺史。元帝と対決したが逆に窮地に追い詰められ、やむなく西魏に服属して梁王に封じられた。554年(4)参照。
 [1]蕭詧即位…考異曰く、周48蕭詧伝には『詧は即位してより八年後の保定二年(562)に亡くなった』とあり、これから類推するに、詧は去年西魏に梁主に立てられはしたものの、実際即位したのは本年だったのであろう。
 ⑶昭明太子統…字は徳施。武帝の長子。聡明だったが父より先に亡くなった。531年(3)参照。
 ⑷蕭巋…字は仁遠、詧の第三子。時に14歳。
 ⑸蔡大宝…字は敬位。551年(2)参照。
 ⑹王操…字は子高。詧の母・龔氏の外弟。
 ⑺邵陵王綸…字は世調。武帝の第六子。侯景の乱の勃発後、郢州に拠ったが元帝に敗れて逃走し、最後は西魏に攻め滅ぼされた。551年(1)参照。
 ⑻河東王誉…字は重孫。蕭詧の兄。侯景の乱の勃発後、湘州に拠ったが元帝に敗れて殺された。550年(2)参照。

●王琳、後梁を攻める
 これより前、梁の湘州刺史の王琳は小桂嶺[1]を北上し、江陵の救援に赴いていた。しかしその途中、〔臨〕蒸城[2]にて《出典不明》江陵陥落の報を聞くと、元帝のために哀悼の儀式を行ない、全軍に喪服を着せ、別将の侯平に水軍を与えて後梁を攻撃させた。琳自身は長沙に留まって四方に檄文を発し、〔江陵〕進行の計画を練った。長沙王韶および長江上流にいた諸将は琳を盟主に戴いた《北斉32王琳伝》

 ⑴王琳…字は子珩。時に30歳。兵戸の出身だったが、姉妹が元帝の側室となったことから重用を受けて将軍とされた。非常に勇猛で侯景討伐に第一の武功を立てたが、帝に疑われて獄に落とされた。天正帝が東進してくると赦され、これを大破するのに貢献した。554年(3)参照。
 [1]小桂嶺…輿地志曰く、『連州の桂陽県は漢の桂陽郡に属した所で、いわゆる小桂である。
 [2]蒸城…衡州にある漢の臨蒸県の古城のことであろう。
 ⑵蒸城…王琳伝には『長沙』とある。
 ⑶長沙王韶…もと上甲侯韶。字は徳茂。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。建康陥落の際脱出し、武帝の密詔を各地に伝えた。『太清紀』の編纂者。554年(1)参照。

●陸法和、北斉に降る
 去年の12月、北斉の太保・西南道大行台の清河王岳は、司徒の潘相楽らを率い、江陵の救援に赴いていた。
 この月(正月、義陽(郢州)に到った所で江陵陥落の報を聞いた。
 壬寅(21日)[1]、岳は方針を変え、梁の郢州(江夏)に兵を進めた。すると刺史の陸法和および儀同三司の宋蒞らは州を挙げて降伏した。長史・江夏太守の王珉はこれに反対したため殺された。
 岳は長江のほとりで軍議を開き、こう言った。
「郢州城は江外(長江の南)にあり、しかも人心はまだ帰服していない。この地を治め得る者は、才略兼備にして忠勇人に過ぐ者だけだ。」
 諸将が口を揃えて開府儀同三司の慕容儼を勧めると、岳はこれに従い、儼を郢州城に派して鎮守させた[2]

 段韶はこの間、〔西魏の淯州(魯陽)の東北に〕魯城を築き、新蔡郡に郭黙戍を建てて帰還した。

○資治通鑑
 齊主使清河王岳將兵攻魏安州,以救江陵。岳至義陽,江陵陷,因進軍臨江,郢州刺史陸法和及儀同三司宋蒞舉州降之;長史江夏太守王珉不從,殺之。甲午,齊召岳還,使儀同三司清都慕容儼戍郢州。王僧辯遣江州刺史侯瑱攻郢州,任約、徐世譜、宜豐侯循皆引兵會之。
○北斉文宣紀
 六年春正月壬寅,清河王岳以眾軍渡江,剋夏首。送梁郢州刺史陸法和〔於京師〕。
○梁敬帝紀
 四月,司徒陸法和以郢州附于齊,遣江州刺史侯瑱討之。
○北斉13清河王岳伝
 六年正月,師次義陽,遇荊州陷,因略地南至郢州,獲梁州刺史司徒陸法和,仍剋郢州。岳先送法和於京師,遣儀同慕容儼據郢城。朝廷知江陵陷,詔岳旋師。
○北斉16段韶伝
 清河王岳之克郢州,執司徒陸法和,韶亦豫行,築魯城,於新蔡立郭默戍而還。
○北斉20慕容儼伝
 六年,梁司徒陸法和、儀同宋茝等率其部下以郢州城內附。時清河王岳帥師江上,乃集諸軍議曰:「城在江外,人情尚梗,必須才略兼濟,忠勇過人,可受此寄耳。」眾咸共推儼。岳以為然,遂遣鎮郢城。

 ⑴清河王岳…字は洪略。高歓の従父弟。高歓の死後、たびたび大軍の指揮を任された。554年(2)参照。
 ⑵潘相楽…潘楽。字は相貴。勲貴の一人。553年(3)参照。
 [1]壬寅…考異曰く、『北斉文宣紀には「壬寅(21日)、岳が長江を渡り、夏首(夏口)を陥として法和を〔鄴に〕送った。」とある。典略には「甲午(13日)、北斉が岳を呼び戻した。」とある。今は典略の記述に従った。』今は文宣紀の記述に従った。
 ⑶陸法和…出身不詳の隠者。異術を以て任約の軍を撃破し、侯景を敗走させた。天正帝が東進してくるとこれを峡口にて食い止め、崩壊に導いた。554年(3)参照。
 ⑷宋蒞…北斉20慕容儼伝では『宋茝』。
 王珉…王琳の兄?
 ⑹慕容儼…字は恃德。西魏から東荊州を守り切ったことがある。のち、譙州刺史・膠州刺史を歴任した。545年(1)参照。
 [2]考異曰く、『梁紀には「四月、法和が北斉に降ると、僧弁は侯瑱にその討伐をさせた。」とある。〔梁45王僧弁伝にある〕文宣帝が王僧弁に与えた書簡には「江陵を救うために清河王岳の軍を安陸に派遣したが、間に合わず、非常に悔しい思いをした。朕は西賊が長江の流れに乗って更に江東の地を侵してくるのではないかと危惧し、岳を漢口に転進させ、陸居士(法和)と合流させた。」とある。そうなると、法和は〔四月よりも〕先に北斉に降っていたのである。今は典略の記述に従った。
 ⑺魯城...《元和郡県図志》曰く、『魯城は魯山県(淯州。洛陽と南陽の中間)の東北十七里にある。北斉が北周の攻撃を防ぐために築いたものである。
 ⑻郭黙城...《読史方輿紀要》曰く、『九江府(江州)の東北にある。』侯景の部将の于慶が立て籠もった事がある。551年(3)参照。また曰く、『蘄水県(九江府の西北)の東にある。胡氏曰く、蘄(蘄水県と九江府の中間)・黄(江夏の東)二州の間にある。』今は後者のことか? また、魯悉達伝には『北斉の行台の慕容紹宗(儼?)が三万の兵を率いて魯悉達の治める鬱口諸鎮を攻めた。その軍容は非常に盛んなものがあったが、悉達はこれを撃破し、儼を身一つで逃走させた。』とあり、慕容儼伝には『儼は郭黙・若邪の二城を築いた。』とある。もしかするとこの記事はこの時のことなのかもしれない。

●北斉、淵明を梁主とする
 辛丑(正月20日)、北斉が梁の貞陽侯淵明を梁主とし、尚書右僕射の上党王渙の護衛のもと梁に帰国させた。この時、徐陵湛海珍らにも帰国を許した。

○資治通鑑
 辛丑,齊立貞陽侯淵明為梁主,使其上黨王渙將兵送之,徐陵、湛海珍等皆聽從淵明歸。
○北斉33蕭明伝
 天保六年,梁元為西魏所滅,顯祖詔立明為梁主,前所獲梁將湛海珍等皆聽從明歸,令上黨王渙率眾以送。

 ⑴貞陽侯淵明…547年、北伐の総指揮官として東魏と寒山に戦ったが、大敗を喫して捕虜となった。548年(1)参照。
 上党王渙…字は敬寿。高歓の第七子。文宣帝の弟で、韓氏の子。時に22歳。
 徐陵…字は孝穆。徐摛の子。548年7月に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発したため、帰国できなくなった。548年(2)参照。
 湛海珍…もと梁の東徐州刺史。建康が陥落すると東魏に降った。549年(3)参照。

●北斉、淵明を擁して江東に迫る


 北斉の文宣帝が殿中尚書の邢子才を建康に急派し、王僧弁に書簡を与えてこう言った。
『梁国は〔近年〕不幸に遭遇し、禍難が相継いだ。ある時は侯景が建業(建康)を陥とし、ある時は武陵王が巴・漢の地に拠って叛旗を翻した。〔しかしその苦境の中、〕卿は気高き志操と精誠を抱いて国家のために力を尽くし、逆賊をみな討ち滅ぼした。〔その立派な行ないを、〕感嘆して褒め称えぬ者は一人もいなかった。それは隣国の我が国でも周知の事である。しかるに西賊(西魏)はこの機に乗じて江陵に奇襲を行ない、我が救援軍が到る前にこれを陥とした。結果、梁主は落命し、官民はみな賊領に連行され、故郷の南方を望んでは憤り嘆く有り様となった。この報を聞いて、卿は身も心も引き裂かれんがばかりだったであろう。今、卿は梁主の庶子を擁立して江南に号令を下そうとしているが、その歳は十余ばかりで極めて幼く、これに混乱未だやまぬ梁を任せるのは、まことに荷が重いと言わざるを得ぬ。それに、昔、衛の国で主君が祭祀のみを扱い、配下の甯氏が政治を取り仕切ったように、幹根が弱く枝葉が強いのは、古来より忌避されてきたものである。朕は天下を一家と為し、大道を以て苦しむ者を救うのを旨としている。むかし、我が国と梁国は友好の関係にあった。その梁国の危難を救うのは義務である。これは決して名誉を得たいがために行なうものではない。貴国の貞陽侯は長沙王の子で、梁武の甥であり、年齢も血筋も君主となるのに申し分ない。故に、今これを梁主とし、上党王渙に諸将を率いて江東に護送させ、疾風迅雷の如く貴国の逆徒を祓い清めさせることとした。以前、朕は江陵を救うために清河王岳を安陸に向かわせたが、結局間に合わず、非常に悔しい思いをした。朕は西賊が次は長江の流れに乗って江東を侵すのではないかと心配し、岳を漢口(夏口)に転進させ、陸居士(陸法和)と合流させた。卿は我が良計に従い、水軍を率いて新しい梁主を迎え、我が軍と一致協力して西賊に当たるべきである。西羌(西魏)は烏合の衆で、強敵ではない。ただ、湘東王(元帝)が怯弱であったゆえ、破滅に至っただけのことである。故に今、我が軍と卿の軍が戦えば勝たぬことはないのだ。どうかよく判断し、朕の期待に添うように。』
 乙卯(2月4日)貞陽侯淵明が、寿陽に到る前後に僧弁や陳覇先に書を与え、迎え入れを求めた。僧弁は返書を送って言った。
「嗣主(蕭方智)は先帝の子で、高祖の血統を受け継ぐ正統の君主であります。殿下が伊・呂(伊尹・呂尚)の如く王室を補佐することを望むなら、みな喜んで迎えますが、君主の座を欲するというのなら、迎えることはできません。」
 甲子(13日)、北斉が陸法和を使持節・都督荊雍江巴梁益湘万交広十州諸軍事・太尉・大都督・西南道大行台とし、梁の鎮北将軍・侍中・大都督・五州諸軍事・荊州刺史・安湘郡公(大都督〜…北斉32陸法和伝)の宋蒞を使持節・驃騎大将軍・郢州刺史とし、蒞の弟の宋簉を散騎常侍・儀同三司・湘州刺史・義興県公(北斉32陸法和伝)とした《北斉文宣紀》
 甲戌(23日)上党王渙が梁の〔南〕譙郡を陥とした
 己卯(28日)、淵明が再び僧弁に書簡を送ったが、またも拒否された《出典不明》

○資治通鑑
 乙卯,貞陽侯淵明亦與僧辯書求迎。僧辯復書曰:「嗣主體自宸極,受於乂祖。【「乂」,當作「文」。蓋用受終於文祖事。】明公儻能入朝,同獎王室,伊、呂之任,僉曰仰歸;意在主盟,不敢聞命。」…譙郡【梁置合州于合肥,立南譙郡於襄安縣界。襄安,漢之巢縣也,梁置蘄縣,隋改曰襄安,唐復曰巢縣。】…己卯,淵明又與僧辯書,僧辯不從。
○北斉文宣紀
 二月甲子,以陸法和為使持節、都督荊雍江巴梁益湘萬交廣十州諸軍事、太尉公、大都督、西南道大行臺,梁鎮北將軍、侍中、荊州刺史宋茝為使持節、驃騎大將軍、郢州刺史。甲戌,上黨王渙剋譙郡。
○北斉33蕭明伝
 是時梁太尉王僧辯、司空陳霸先在建鄴,推晉安王方智為丞相。顯祖賜僧辯、霸先璽書,僧辯未奉詔。上黨王進軍,明又與僧辯書,往復再三,陳禍福,僧辯初不納。
○梁45王僧弁伝
 時齊主高洋又欲納貞陽侯淵明以為梁嗣,因與僧辯書曰:「梁國不造,禍難相仍。侯景傾蕩建業,武陵彎弓巴、漢。卿志格玄穹,精貫白日,勠力齊心,芟夷逆醜。凡在有情,莫不嗟尚;況我隣國,緝事言前。而西寇承間,復相掩襲,梁主不能固守江陵,殞身宗祏,王師未及,便已降敗,士民小大,皆畢寇虜,乃眷南顧,憤歎盈懷。卿臣子之情,念當鯁裂。如聞權立支子,號令江陰,年甫十餘,極為沖藐,梁釁未已,負荷諒難。祭則衞君,政由甯氏。幹弱枝強,終古所忌。朕以天下為家,大道濟物。以梁國淪滅,有懷舊好,存亡拯墜,義在今辰,扶危嗣事,非長伊德。彼貞陽侯,梁武猶子;長沙之胤,以年以望,堪保金陵,故置為梁主,納於彼國。便詔上黨王渙總攝羣將,扶送江表,雷動風馳,助掃冤逆。清河王岳,前救荊城,軍度安陸,既不相及,憤惋良深。恐及西寇乘流,復躡江左,今轉次漢口,與陸居士相會。卿宜協我良規,厲彼羣帥,部分舟艫,迎接今王,鳩勒勁勇,幷心一力。西羌烏合,本非勍寇,直是湘東怯弱,致此淪胥。今者之師,何往不剋,善建良圖,副朕所望也。」
 貞陽承齊遣送,將屆壽陽。貞陽前後頻與僧辯書,論還國繼統之意,僧辯不納。

 ⑴文宣帝...高洋。時に30歳。風采上がらず、肌は浅黒く、頬は広く顎鋭かった。よく考えてから行動を決定し、遊ぶのを好まず、落ち着きがあって度量が広かった。兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国し、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。554年(2)参照。
 ⑵邢子才...邵。名文家。麟趾新制の制定に貢献した。547年(1)月参照。
 ⑶王僧弁...字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。侯景の大軍から巴陵を守り切りって形勢を逆転させたのち、破竹の進撃を行なって一挙に景を滅ぼした。554年(4)参照。
 ⑷侯景...東魏→梁に仕え、侯景の乱を起こして建康を占拠し、漢を建国したが、王僧弁に敗れて死んだ。552年(2)参照。
 ⑸武陵王...武陵王紀。天正帝。武帝の第八子。侯景の乱後、益州に割拠したが、元帝と戦って敗死した。553年(2)参照。
 ⑹隣国の我が国でも...原文『況我隣國,緝事言前。
 ⑺宋簉...万州刺史? 蘆洲で侯景の水軍を破り、峡口では天正帝の軍を撃破した。553年(2)参照。
 ⑻譙郡…《読史方輿紀要》曰く、『譙郡城は合肥の東南百八十里→巣県(蘄)の東南二十里にある。東晋の太元年間に僑郡として南譙郡が置かれ、山桑を治所とした。』『恐らく〔桑根〕山から取って名付けたのだろう。梁は譙州と南譙郡を置き、蘄を治所とした。今の巣県界にあるのを北譙といい、渦陽の譙を南譙といった。』『後魏(東魏?)は治所を蘄県に置いた。
 ⑼吉川忠夫氏の《侯景の乱始末記》では『23日に譙郡に進み、さらに寿春に進んで…』とある。それだと『剋譙郡』の記述と矛盾する。恐らく渦陽の譙郡と誤解して曲筆したのだろう。
 
●勤勉清廉・申徽
 西魏が右僕射の申徽を襄州刺史とした。
 徽は仕事熱心で素早く事務を処理し、どの官職においても全ての書類に目を通した。そのため業務は万事滞りなく進み、官吏は不正をする隙が無かった。この真摯な態度は、彼が高官の身分になった後もついぞ変わらなかった。
 襄州刺史となった時、南人たちは従来の慣習に従って賄賂を贈ってきた。しかし清廉で慎み深い性格の徽は、楊震の絵を寝室に飾って自分を戒め、〔賄賂を受け取らなかった〕。離任する際、〔徽を慕って〕見送りする吏民たちの列は数十里に渡って続いた。しかし徽は彼らに何もしてやれなかったと思っていたので、ため息をついて恥じ入り、清水亭にて詩を書いた。人々はこれを聞くと争ってそれを読み、こう言い合った。
「これが申使君の筆跡か。」
 かくて各自詩を写し取り、郎誦した《周32申徽伝》

〔王琳の部将の〕侯平が後梁の巴・武二州を攻めた。
 もと劉棻の主帥の趙朗宋文徹正月1日参照)を殺し、邵陵郡と共に王琳に付いた《出典不明》

 ⑴申徽...字は世儀。もと瓜州刺史。瓜州に乱が起こるのを五十騎で未然に防いだことがある。善政を行ない、西方の人々から信頼を得た。550年に中央に召されて兼右僕射・開府儀同三司とされた。553年に公爵・正右僕射とされ、宇文氏の姓を賜った。552年(1)参照。
 ⑵楊震...後漢の名臣。清廉で知られた。

●郢州城の激戦
 陸法和が北斉に降ったのを知ると、梁は江州刺史の侯瑱に郢州を攻撃させた。〔巴陵にいた〕任約徐世譜らも兵を率いてこれに加わった。しかし守将の慕容儼の臨機応変な守備に阻まれ、勝つことができなかった。そこで瑱は上流の鸚鵡洲付近に数里に渡って荻洪(障害物)を設置し、船路を塞いだ。外界との連絡を遮断され、孤立した城内では動揺が広がったが、儼が忠義を説いてこれを激励すると沈静化した。城内には、俗に『城隍神』(都市の守護神)と呼ばれる神を祀る祠が一つ在った。その祠に、郢州の住民は官民問わず祈りを捧げていた。儼は兵たちの心に従い、彼らと共にこれに祈りを捧げ、加護を願った。するとたちまち強風が吹き荒れ、それによって発生した高波が荻洪をばらばらにした。任約はこれを見ると、今度は鉄鎖を用いて船路を塞いだ。儼がそこで再び祠に祈りを捧げると、夜間に再度強風が吹き荒れ、荒波が鉄鎖を断ち切った。このような事が何度も繰り返されたので、城内の人々は自分たちが神に助けられていると感じ、大いに士気が上がった。
 瑱は城北に軍を移して陣地を築き、坊郭を焼き払って郢州城の産業を全て破壊した。また、約は一万余の兵にそれぞれ攻城の道具を持たせ、城南に陣地を築き、南北より挟撃の態勢を取った。すると儼は城を出て奮戦し、梁軍を大破して五百余人を捕虜とした。
 当初、郢州城は〔雨水のたまりやすい〕低地にあり、更に土の質が粗悪だったため、城壁が崩れやすかった。儼はそこで〔梁軍が来る前に〕城壁の修理を行ない、多くの大櫓を築いていた。また艦船を建造し、水陸の攻撃に備えた。これらは昼夜兼行の突貫作業であった。
 のち、宜豊侯循が五万の兵を率いて瑱・約の軍と合流し、夜陰に乗じて攻擊をかけた。儼は将兵とともに一夜中戦い続け、夜が明けると約たちは退いた。儼は追撃して瑱の驍将の張白石の首を斬った。瑱は千金を以てその首の返還を求めたが、儼はこれを拒否した《北斉20慕容儼伝》
 北斉は〔儀同三司の〕暴顕を水軍大都督とし、郢州の救援に向かわせた。顕は灄口(郢州の北)より長江に入った。

○梁敬帝紀
 四月,司徒陸法和以郢州附于齊,遣江州刺史侯瑱討之。
○北斉20慕容儼伝
 六年,梁司徒陸法和、儀同宋茝等率其部下以郢州城內附。時清河王岳帥師江上,乃集諸軍議曰:「城在江外,人情尚梗,必須才略兼濟,忠勇過人,可受此寄耳。」眾咸共推儼。岳以為然,遂遣鎮郢城。始入,便為梁大都督侯瑱、任約率水陸軍奄至城下。儼隨方禦備,瑱等不能克。又於上流鸚鵡洲上造荻洪竟數里,以塞船路。人信阻絕,城守孤懸,眾情危懼,儼導以忠義,又悅以安之。城中先有神祠一所,俗號城隍神,公私每有祈禱。於是順士卒之心,乃相率祈請,冀獲冥祐。須臾,衝風欻起,驚濤涌激,漂斷荻洪。約復以鐵鎖連治,防禦彌切。儼還共祈請,風浪夜驚,復以斷絕,如此者再三。城人大喜,以為神助。瑱移軍於城北,造柵置營,焚燒坊郭,產業皆盡。約將戰士萬餘人,各持攻具,於城南置營壘,南北合勢。儼乃率步騎出城奮擊,大破之,擒五百餘人。先是郢城卑下,兼土疏頹壞,儼更修繕城雉,多作大樓。又造船艦,水陸備具,工無暫闕。蕭循又率眾五萬,與瑱、約合軍,夜來攻擊。儼與將士力戰終夕,至明,約等乃退。追斬瑱驍將張白石首,瑱以千金贖之,不與。
○北斉41暴顕伝
 于時梁將蕭循與侯瑱等圍慕容儼於郢州,復以顯為水軍大都督,從攝口入江救之。【[四]從攝口入江救之 錢氏孝異卷三一云:「『攝』當作『灄』。」
○陳9侯瑱伝
 司徒陸法和據郢州,引齊兵來寇,乃使瑱都督眾軍西討,未至,法和率其部北度入齊。齊遣慕容恃德鎮于夏首,瑱控引西還,水陸攻之。

 ⑴侯瑱…字は伯玉。時に46歳。梁の猛将。侯景討伐の先鋒となり、建康から逃げる侯景を追撃して破った。のち、東関にて郭元建の軍を大破した。554年(3)参照。
 ⑵郢州攻撃…梁敬帝紀はこれを4月のこととする。北斉20慕容儼伝はこれを正月のこととする。梁敬帝紀の2月に方智が建康に到ったという記述と、侯瑱伝の敬帝を連れて帰ったという記述を信じれば、郢州攻撃は2月以降のこととなる。陳武帝紀の去年12月に方智が建康に到ったという記述を信じれば、陳9侯瑱伝の『瑱が方智を連れて帰る(12月)→陸法和が北斉に降る→瑱が西討に赴く→到着する前に法和(+岳)が北方に行き、慕容儼が郢州を鎮守(正月)→瑱が郢州攻撃』という順番に合致し、慕容儼伝の記述にも合致する。後者が正しいように思われるが、今は通鑑の2月方智到着説に従った。
 ⑶任約...もと侯景の司空。陸法和の取りなしによって死を免れた。のち、天正帝の大破に貢献した。554年(4)参照。
 ⑷徐世譜...字は興宗。水戦に長じ、赤亭湖にて侯景の将・任約の水軍を大破した。554年(4)参照。
 ⑸暴顕...字は思祖。生年503、時に54歳。馬と弓の扱いに長け、ある時は一度の猟で73の鳥獣を仕留めた。晋州車騎府長史とされ、高歓が旗揚げするとこれに付き従い、544年に広州刺史とされ、侯景が叛乱を起こすと捕らえられたが、のち脱走に成功した。548年(1)参照。

●東関の陥落
 これより前、渙軍が南下を始めた時、僧弁は散騎常侍・呉興太守の裴之横を使持節・鎮北将軍・徐州刺史とし、蘄城を守備するよう命じていた。
 3月、渙軍が〔蘄城の東南四十里の〕東関に到った。北斉軍が到った時、之横の陣地はまだ完成していなかった。
 渙は之横に何度も書簡を送り、〔抵抗の〕無益さを論じたが、之横は傲慢無礼な言辞を以て返答し、渙軍に非常な衝撃を与えた。
 丙戌(6日)、渙は〔やむなく〕淵明を守るため戦闘態勢を取りつつ、再び戦いの無益さについて述べて説得しようとしたが、その前に突然攻撃を受けた。しかし、前軍が全て戦闘に移る前に、早くも之横軍は総崩れとなり、之横は刀折れ矢尽きて戦死し(享年41歳)、東関は陥落した。渙軍は数千人を捕虜とした。
 渙は驚きつつ之横の死を悼んで憐れみ、首級を鄴に送らず、装飾した棺に収めてもがりの葬儀儀礼を行ない、土を盛り樹を植えて墓を作って埋葬した。
 梁は之横に侍中・司空を追贈し、忠壮と諡した。
 王僧弁はこれを聞くと大いに恐れ、姑孰(南豫州)に駐屯し、淵明を迎え入れることを謀るようになった。

○北斉文宣紀
 三月丙戌,上黨王渙剋東關,斬梁將裴之橫,俘斬數千。
○梁敬帝紀
 三月,齊遣其上黨王高渙送貞陽侯蕭淵明來主梁嗣,至東關,遣吳興太守裴之橫與戰,敗績,之橫死。太尉王僧辯率眾出屯姑孰。
○北斉10上党剛肅王渙伝
 六年,率眾送梁王蕭明還江南,仍破東關,斬梁特進裴之橫等,威名甚盛。
○北斉33・南51蕭明伝
 既而上黨王破東關,斬裴之橫,江表(僧辯)危懼。
○梁28裴之横伝
 後江陵陷,齊遣上黨王高渙挾貞陽侯攻東關,晉安王方智承制,以之橫為使持節、鎮北將軍、徐州刺史,都督眾軍,給鼓吹一部,出守蘄城。之橫營壘未周,而齊軍大至,兵盡矢窮,遂於陣沒,時年四十一。贈侍中、司空公,諡曰忠壯。
○梁45王僧弁伝
 及貞陽、高渙至于東關,散騎常侍裴之橫率眾拒戰,敗績,僧辯因遂謀納貞陽,仍定君臣之禮。
 …「近軍次東關,頻遣信裴之橫處,示其可否。答對驕凶,殊駭聞矚。上黨王陳兵見衞,欲敘安危,無識之徒,忽然逆戰,前旌未舉,即自披猖,驚悼之情,彌以傷惻。上黨王深自矜嗟,不傳首級,更蒙封樹,飾棺厚殯,務從優禮,齊朝大德,信感神民。

 裴之横...字は如岳。梁の名将裴邃の兄の子。侯景討伐の際には常に先鋒を務めて活躍し、陸納討伐の際には王僧弁の危機を救った。また、郭元建の東関侵攻も撃退した。553年(3)参照。
 ⑵東関…《読史方輿紀要》曰く、『巣県の東南四十里にある。

┃衝天王にならんと欲す
 丙申(3月16日)文宣帝が晋陽から鄴に帰った(去年の8月以来)。
 また、〔亡き兄の〕高澄の二子の高孝珩を広寧王に高延宗を安徳王に封じた。

 延宗(生年544、時に12歳)は高澄の第五子である。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育された。
 この年、帝は十二歳の延宗を腹の上に跨がらせ、臍に向かって小便をさせた。それから延宗を抱きかかえると、こう言った。
「この世で可憐と言える者は、この子だけだ。」
 帝が延宗に何王になりたいか聞くと、延宗はこう答えて言った。
「衝天王になりたい。」
 帝が楊愔に可否を諮ると、愔は言った。
「天下に衝天という郡名はありません。どうか徳に安んぜしめられますよう。」
 かくて安徳郡王とした。

〔去年、王琳に代わって広州に駐屯していた〕孫瑒は、江陵が陥落したことを聞くと、城を棄てて北方に還った《出典不明》。〔王琳を避けて始興に居を移していた〕曲江侯勃は、これを聞くと再び広州に還った《南51蕭勃伝》

○北斉文宣紀
 三月…丙申,帝至自晉陽。封世宗二子孝珩為廣寧王,延宗為安德王。戊戌,帝臨昭陽殿聽獄決訟。
○北斉11安徳王延宗伝
 安德王延宗,文襄第五子也。母陳氏,廣陽王妓也。延宗幼為文宣所養,年十二,猶騎置腹上,令溺己臍中,抱之曰:「可憐止有此一箇。」問欲作何王,對曰:「欲作衝天王。」文宣問楊愔,愔曰:「天下無此郡名,願使安於德。」於是封安德焉。

 ⑴孝珩...高澄(高歓の長子)の第二子。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。
 ⑵孝珩は何故か560年にも広寧王とされている。
 ⑶安徳王…もと韓軌の爵位。軌は554年頃に亡くなり、子の晋明が爵位を継いでいた。その後、天統年間(565~569年)に東萊王に改められたという。そうなると安徳王が天統年間まで二人存在していた事になる。天統は天保(550~559)の誤りではないか?
 ⑷楊愔...字は遵彦。生年511、時に45歳。名門楊氏の生き残り。高歓の娘婿。北斉の政治を取り仕切った。高澄が膳奴に殺された際はこれを助けることもせず、一目散に逃げ出した。清廉・謙虚で記憶力が抜群だったが、とても太っており、文宣帝に『楊大肚』と呼ばれた。554年(2)参照。
 ⑸孫瑒...字は徳璉。王琳の同門で副将。554年(2)参照。

●梁臣の解放
 西魏の太師の宇文泰が〔もと梁臣の〕王克沈炯らを梁に帰国させた《時期の出典不明》
 これより前、泰は庾季才を得ると非常に厚遇し、太史の仕事を司らせた。また、戦いに行く際には常に供として連れていった。また、一区画の邸宅と水田十頃、奴婢・牛羊・什物(食器・家具類)などを与え、季才にこう言った。
「卿は南人であるから、北土は居心地が悪いであろう。故に、この下賜品を与え、卿の南望の心を絶とうと考えたのだ。どうか私に忠誠を尽くしてくれ。さすれば、私も富貴の身分を以て応えよう。」
 これより前、江陵が陷ちた時、そこにいた士大夫の多くが奴隷に身を落としていた。そこで季才は下賜品を以て奴隷となっていた親類や旧友を救った。泰は尋ねて言った。
「どうして斯様なことをするのか?」
 季才は答えて言った。
「昔、魏は襄陽を陥として異度(蒯越)を得たことを喜び、晋は建業を陥として士衡(陸機)を得たことを喜びました。国を滅ぼしてその地の賢人を敬うのは、古来からの常道であります。今、公は江陵を陥とされましたが、〔公を討伐に至らせた〕罪は主君にあり、士大夫らにはありませんでした。それなのに皆を奴隷とするのは、なんという了見でしょうか! 私は客分の身なので敢えてこのことを申し上げませんでしたが、彼らがあまりに可哀想であったので、内々に解放することにしたのです。」
 泰はこれを聞いて自分が誤っていたことに気づき、こう言った。
「私が間違っていた! 貴君がいなかったら、私は天下からそっぽを向かれる所であった!」
 かくて奴隷となっていた数千人の士大夫を解放した《隋78庾季才伝》

 夏、4月、庚申(10日)文宣帝が晋陽に赴いた。
 丁卯(17日)《北斉文宣紀》、北斉の軍司の尉瑾と儀同三司の蕭軌が皖城を攻めた。梁の晋州刺史の蕭恵は州城と共にこれに降った。北斉は晋熙郡を江州に改め[1]北斉は〜…北斉文宣紀〉、尉瑾をその刺史とした《出典不明》

 この月、梁にて李山花が天子を自称して叛乱を起こし、北斉の魯山城(郢州の西)に迫った。
 5月乙酉(6日)、鎮城の李仲侃がこれを撃破し、首を斬った《北斉文宣紀》

 庚辰(1日)、〔王琳の部将の〕侯平らが〔後梁の刺史の〕莫勇魏永寿を捕らえた《出典不明》
 江陵が陥落した時、〔元帝の長子方等の子の〕永嘉王荘時に7歳)は尼の法慕出典不明)に匿われていた。王琳は荘を迎え入れ、建康に送った《南54永嘉王荘伝》

 庚寅(11日)文宣帝が鄴に還った《北斉文宣紀》

 ⑴宇文泰...字は黒獺。西魏の権力者。身長八尺、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手も膝まで届いた。554年(4)参照。
 ⑵王克…王導の末裔で、王繢の孫。美男子。文弱の徒であったため侯景の警戒を受けず、簡文帝の居室への出入りを許された。554年(4)参照。
 ⑶沈炯…字は礼明。袁君正の代わりに呉郡を治めていたが、建康が陥落すると侯景の部将の宋子仙の書紀となった。のち、王僧弁の配下となり、檄文や盟文の作製を行なった。554年(4)参照。
 ⑷庾季才...字は叔弈。天文に通じ、元帝に建康に都を遷すよう進言したが聞き入れられなかった。554年(2)参照。
 ⑸通鑑はこれを3月のこととする。
 ⑹尉瑾...字は安仁。北魏の肆州刺史の尉慶賓の子。梁に使者として派遣されたことがある。545年(1)参照。
 [1]晋熙郡を江州に改め...北斉には既に平陽を治所とする晋州が在ったため、新たに得た晋州を江州に改めたのである。

●郢州未だ陥ちず
 この月侯瑱・任約らが総力を結集して郢州を攻めた。
 この時、城内の兵糧は乏しくなっていたが、糧道が遮断されているためどうすることもできず、ただ槐楮・桑葉、紵根・水萍・葛・艾などの草、皮靴・皮帯・觔角(動物の筋や角。弓に使われる)などの物を煮て飢えをしのぐ有り様となっていた。〔そのため、城内で〕死人が出ると人々は争ってその肉を焼いて食べ、骨だけにした。しかし、〔そのような極限の状況下にあっても、〕儼が整然とした統率を行ない、厳正に賞罰を実施し、兵士と同じ暮らしに甘んじて生死を共にしたので、正月より現在に至るまで、人々は異志を抱かなかった。

○北斉20慕容儼伝
 夏五月,瑱、約等又相與並力,悉眾攻圍。城中食少,糧運阻絕,無以為計,唯煑槐楮、桑葉並紵根、水萍、葛、艾等草及靴、皮帶、觔角等物而食之。人有死者,即取其肉,火別分噉,唯留骸骨。儼猶申令將士,信賞必罰,分甘同苦,死生以之。自正月至於六月,人無異志。

●天成帝の即位
 王僧弁貞陽侯淵明に員外常侍の姜暠を派し、君臣の礼を取った。
 淵明は答えて言った。
姜暠が持ってきた書簡を読み、公の忠義の心をとくと理解した。今、私は東関に駐屯し、改めて公の書簡を待ち、水・陸のどちらより迎えが来るかを知りたいと思う。また、盟約を交わすからには、人質を出す事が必要である。公や諸将の忠義の気持ちが本当であるなら、斉軍は撤退し、長江を侵す事はしないが、もし嘘であったとしたら撤退しないであろう。また、〔公の使者の〕曹沖が斉都に上奏をしたら、すぐさま護送して返すつもりである。」
 暠が帰ると、僧弁は吏部尚書の王通を遣わし、第七子の王顕と顕の母の劉氏、弟の子の王世珍を人質として鄴に送ること[1]、左民尚書の周弘正を奉迎の使者として歴陽(和州)に送ることを伝えた。また、晋安王方智を皇太子とすることを求めた。淵明はこれを許した。
 淵明は衛士三千と共に渡江することを求めたが、僧弁は衛士たちが事変を起こすことを警戒し、散兵(非正式の兵)千人に留めさせた。
 庚子(21日)三国典略〉、僧弁が淵明に龍舟と法駕(皇帝用の乗り物)を送った《梁45王僧弁伝》。淵明は上党王渙と江北にて盟約を行なった《出典不明》
 辛丑(22日)《三国典略》、北斉の侍中の裴英起の護送の下、淵明が長江を渡り、采石(歴陽の対岸)に到った。北斉軍は北方に帰還した《北斉33蕭明伝》。この時、北斉を信用していなかった僧弁は長江の真ん中に留まり、〔北斉軍のいる〕西岸に近付かなかった。間もなく、僧弁は江寧浦(采石と建康の中間)にて淵明と合流した《梁45王僧弁伝》
 癸卯(24日)、淵明が建康に入った《三国典略》[2]⑶。淵明は朱雀門(朱雀航の近くにある門)を遥かに望むと暫くの間慟哭した。宮殿への道中に人々がご機嫌伺いにやってくると、どの者にも涙を流して応対をした《南51蕭明伝》
 丙午(27日)《南史梁敬帝紀》、淵明は皇帝の位に即き(以降、淵明を天成帝とする)、年号を承聖から天成に改め、天下に大赦を行なった。ただ、宇文泰と後梁の宣帝は例外とした《北斉33蕭明伝》。また、晋安王方智を皇太子とし《梁敬帝紀》王僧弁を大司馬・領太子太傅・揚州牧とし《梁45王僧弁伝》陳覇先を侍中とした《出典不明》

○梁45王僧弁伝
 仍定君臣之禮。啟曰:「自秦兵寇陝,臣便營赴援,纔及下船,荊城陷沒,即遣劉周入國,具表丹誠,左右勳豪,初並同契。周既多時不還,人情疑阻;比冊降中使,復遣諸處詢謀,物論參差,未甚決定。始得侯瑱信,示西寇權景宣書,令以真跡上呈。觀視將帥,恣欲同泰,若一朝仰違大國,臣不辭灰粉,悲梁祚永絕中興。伏願陛下便事濟江,仰藉皇齊之威,憑陛下至聖之略,樹君以長,雪報可期,社稷再輝,死且非吝。請押別使曹沖馳表齊都,續啟事以聞,伏遲拜奉在促。」
 貞陽答曰:「姜暠至,枉示具公忠義之懷。家國喪亂,于今積年。三后蒙塵,四海騰沸。天命元輔,匡救本朝。弘濟艱難,建我宗祏。至於丘園板築,尚想來儀,公室皇枝,豈不虛遲,聞孤還國,理會高懷,但近再命行人,或不宣具。公既詢謀卿士,訪逮藩維,沿泝往來,理淹旬月,使乎屆止,殊副所期。便是再立我蕭宗,重興我梁國,億兆黎庶,咸蒙此恩,社稷宗祧,曾不相愧。近軍次東關,頻遣信裴之橫處,示其可否。答對驕凶,殊駭聞矚。上黨王陳兵見衞,欲敘安危,無識之徒,忽然逆戰,前旌未舉,即自披猖,驚悼之情,彌以傷惻。上黨王深自矜嗟,不傳首級,更蒙封樹,飾棺厚殯,務從優禮,齊朝大德,信感神民。方仰藉皇威,敬憑元宰,討逆賊於咸陽,誅叛子於雲夢,同心協力,克定邦家。覽所示權景宣書,上流諸將,本有忠略,棄親向讎,庶當不爾,防奸定亂,終在於公。今且頓東關,更待來信,未知水陸何處見迎。夫建國立君,布在方策,入盟出質,有自來矣。若公之忠節,上感蒼旻,羣帥同謀,必匪攜貳,則齊師反斾,義不陵江,如致爽言,誓以無克。韜旗側席,遲復行人。曹沖奉表齊都,即押送也。渭橋之下,惟遲敘言;汜水之陽,預有號懼。」
 僧辯又重啟曰:「員外常侍姜暠還,奉敕伏具動止。大齊仁義之風,曲被隣國,卹災救難,申此大猷,皇家枝戚,莫不榮荷,江東冠冕,俱知憑賴。今歃不忘信,信實由衷,謹遣臣第七息顯,顯所生劉并弟子世珍,往彼充質;仍遣左民尚書周弘正至歷陽奉迎。艫舳浮江,俟一龍之渡;清宮丹陛,候六傳之入。萬國傾心,同榮晉文之反;三善克宣,方流宋昌之議。國祚既隆,社稷有奉。則羣臣竭節,報厚施于大齊,勠力展愚,效忠誠於陛下。今遣吏部尚書王通奉啟以聞。」
 僧辯因求以敬帝為皇太子。貞陽又答曰:「王尚書通至,復枉示,知欲遣賢弟世珍以表誠質,具悉憂國之懷。復以庭中玉樹,掌內明珠,無累胸懷,志在匡救,豈非劬勞我社稷,弘濟我邦家,慚歎之懷,用忘興寢。晉安王東京貽厥之重,西都繼體之賢,嗣守皇家,寧非民望。但世道喪亂,宜立長君,以其蒙孽,難可承業。成、昭之德,自古希儔;沖、質之危,何代無此。孤身當否運,志不圖生。忽荷不世之恩,仍致非常之舉。自惟虛薄,兢懼已深。若建承華,本歸皇冑;心口相誓,惟擬晉安。如或虛言,神明所殛。覽今所示,深遂本懷。戢慰之情,無寄言象。但公憂勞之重,既稟齊恩;忠義之情,復及梁貳。華夷兆庶,豈不懷風?宗廟明靈,豈不相感?正爾迴斾,仍向歷陽。所期質累,便望來彼。眾軍不渡,已著盟書。斯則大齊聖主之恩規,上黨英王之然諾,得原失信,終不為也。惟遲相見,使在不賒。鄉國非遙,觸目號咽。」僧辯使送質于鄴。貞陽求渡衞士三千,僧辯慮其為變,止受散卒千人而已,并遣龍舟法駕往迎。貞陽濟江之日,僧辯擁檝中流,不敢就岸,後乃同會于江寧浦。

 [1]考異曰く、『典略には「三月辛卯、廷尉の張種らを人質として鄴に派した。」とある。淵明は五月に建康に入ったのであるから、三月では早すぎる。誤りではないか。』
 周弘正...字は思行。博識の大学者で、国子博士などを務めた。武帝が侯景を梁に引き入れた際に戦乱が起こることを予言した。のち、元帝に建康に都を戻すよう勧めた。554年(4)参照。
 ⑵晋安王方智…字は慧相、小字は法真。生年543、時に13歳。梁の元帝の第九子。母は夏貴妃。承聖二年(553)に平南将軍・江州刺史とされた。
 [2]考異曰く、『梁敬帝紀には「七月辛丑(23日)、淵明が長江を渡河した。甲辰(26日)、建康に入った。」とある。北斉紀には「五月、淵明が建業に入った。」とある。典略には「五月庚子、僧弁が淵明を迎え入れた。辛丑、長江を渡った。癸卯、建康に到った。」とある。今はこの典略の記述に従った。
 ⑶陳武帝紀も五月とする。
 ⑷陳覇先…字は興国。時に53歳。身長七尺五寸。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。554年(4)参照。

蔵拙


〔これより前、〕斉主(文宣帝?)はあるとき北朝きっての文人の魏収にこう尋ねて言った。
「卿の〔文?〕才は徐陵に比べてどうか?」
 収は言った。
「臣は大国の文才を有し、典雅で上品でありますが、徐陵は亡国の文才の持ち主で、艶麗で下品であります。」
〔現在、〕天成帝と共に梁に帰国した徐陵は、その前に魏収にこう言われた。
「私の文集を贈る。帰国したら広めて回ってくれ。」
 陵は梁へ帰る途中、長江にてこの文集を沈めてしまった。従者が〔驚いて〕その訳を問うと、陵はこう言った。
「魏公の拙さを知らせないためだ。」(南朝は北朝より文化が進んでいた

○三国典略
 一五五、齊主嘗問於魏收曰:「卿才何如徐陵?」收時曰:「臣大國之才,典以雅;徐陵亡國之才,麗以艷。」(卷五八五)
○隋唐嘉話
 梁常侍徐陵聘於齊,時魏收文學北朝之秀,收錄其文集以遺陵,令傳之江左。陵還,濟江而沉之,從者以問,陵曰:「吾為魏公藏拙。

 ⑴徐陵は548年と556年に東魏・北斉に使いしている。この出来事がどちらの時の事なのかは分からない。


 555年(2)に続く