[西魏:廃帝二年 北斉:天保四年 梁:承聖二年 梁蜀:天正二年]

●達奚武の凱旋
 この年、西魏の大将軍の達奚武字は成興。十二大将軍の一人。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。去年、漢中を陥とす大功を立てた。552年〈3〉参照)が長安に凱旋した。朝廷は武を柱国大将軍に推した。武はこれを聞くと人にこう言った。
「わしが柱国となったら、元子孝字は季業。元欽の子。義陽王。美男子で話術に長け、学問にも造詣が深かった)〔殿〕の前に出ることになってしまう(子孝は生涯の間に柱国大将軍となったが、この時はまだ就任していなかったのであろう)。それはいかん。」
 かくて固辞して受けなかった。朝廷は武に玉壁(南汾州。対北斉最大の要地)の鎮守を任せた(前任は韋孝寛。孝寛は雍州刺史とされた)。武は周囲の地勢を調査し、要害と見た地に楽昌(《読史方輿紀要》曰く、曲沃県〈玉壁の東〉の七里南にある)・胡営・新城の三防を築いた。のち、北斉の将軍の高苟子が千騎を率いて新城に攻めてくると、武はこれを迎え撃って大破し、全てを捕虜とした《周19達奚武伝》

●山胡、北斉の離石を囲む
 春、正月、乙丑(2日)《梁元帝紀》、梁の司徒・揚州刺史の王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。侯景の大軍から巴陵を守り切って形勢を逆転させ、破竹の進撃を行なって一挙に景を滅ぼした。552年〈4〉参照)が〔陸納去年、上司の王琳を捕らえられた事で身の危険を覚え、湘州にて叛乱を起こした。552年〈4〉参照)を討伐するために〕建康を発った。その際、皇帝の人事権を代行して南徐州刺史の陳覇先字は興国。時に51歳。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。552年〈4〉参照)に代わりに揚州を鎮守させた《陳武帝紀》


 丙子(13日)、山胡が北斉の離石(西汾州。晋陽の西)を包囲した。
 戊寅(15日)、北斉の文宣帝高洋。時に28歳)が自らその討伐に赴いたが、山胡は帝が離石に到る前に逃走した。帝はそこでそのまま三堆戍【魏書地形志曰く、三堆・朔方・定陽県を合併して平寇県とし、永安郡に属させた。〔元和郡県図志曰く、〕隋の雁門郡崞県に平寇県がある。〔嵐州〈宜芳。晋陽の西北〉の東四十五里の地にある静楽県城は、城内に三つの小丘があったため、三堆城とも呼ばれた〕】に赴き、大規模な狩猟を行なってから帰途に就いた《北斉文宣紀》

 梁の元帝蕭繹。時に46歳)が吏部尚書の王褒字は子淵。元帝の親友。552年〈1〉参照)を尚書右僕射(通鑑では『左僕射』)とした。また、〔尚書左丞・御史中丞の〕劉瑴字は仲宝。元帝に古くから仕え、そのブレーンとなった。549年〈4〉参照)を吏部尚書〔・国子祭酒〕とした《梁元帝紀》

●常平五銖銭の鋳造
 己丑(26日)《北斉文宣紀》、北斉が〔北魏の代に作られた永安五銖銭(529年〈3〉参照)を〕廃止し、新たに『常平五銖銭』を鋳造した。重量は銭に刻印されている通り五銖(グラム)とした。この銭の価値は非常に高く、また、非常に精巧に作られていた《隋食貨志》

●宇文泰、大行台を中外府に改む
 この月北史周文帝紀〉、西魏の太師〔・大冢宰・丞相・柱国大将軍・大行台録尚書事・安定郡公〕の宇文泰字は黒獺。時に47歳)が丞相・大行台を辞し、代わりに都督中外諸軍事とされた《周文帝紀》
 泰は大行台を中外府に改めると、尚書を廃した。大行台尚書の王悦字は衆喜。もと大行台左丞。玉壁防衛軍の慰労の使者を務め、侯景が西魏に付いたときにはその叛乱を予測した。隨郡・安陸攻略の際には遠征にも関わらず最後まで兵糧に余裕を持たせ、宇文泰に褒められた。漢中攻略の際には梁の武興城主の楊賢を説得して投降させた。漢中が平定されると、行梁州事とされた。552年〈3〉参照)は儀同三司の身分を以て郷里(京兆藍田)に帰され、そこで郷兵を統率するように命じられた。悦は久しく〔宇文泰の幕僚という〕顕職に就いていたため、この決定を内心喜ばず、郷里に帰ると尊大に振る舞って人々の感情を害した。長子の王康も父の過去の声望を笠に着て、やりたい放題に振る舞った。ある時、康は配下の軍人が結婚すると聞くと、何の理由もなく〔新婦に?〕凌辱を加えた。軍人がこれを朝廷に訴えると、悦と康は除名され、辺遠の地に配流された《周33王悦伝》

 この年、西魏が東南道行台僕射・大都督十五州諸軍事・荊州刺史の長孫倹もとの名は慶明。北魏の名族の出。荊州にて善政を行なった。550年〈4〉参照)を東南道大都督・荊襄等三十三州鎮防諸軍事〔・荊州刺史〕とした《北22長孫倹伝》

●李洪雅、陸納に推戴される

 これより前、梁の営州刺史の李洪雅は衡州刺史の丁道貴と共に陸納の討伐に赴いていたが、逆に空霊城にて納の部下の呉蔵の包囲を受けていた(552年〈4〉11月参照)。
 2月、庚子(7日)出典不明。梁元帝紀では『3月辛未(9日)』〉、万事休し、洪雅らは遂に城と共に陸納に降った。納は洪雅は生かしたが、道貴は殺害した《梁元帝紀》
 天監年間(502~519)に、僧侶の釈宝誌がこのような予言詩を作っていた。
『太歲龍、将無理。蕭経霜、草応死。余人散、十八子。』
 人々はこれを聞くと、いずれ蕭氏が滅び、李氏(『十八子』の字を組み合わせると『李』になる)が興るのだと考えるようになった。
 甲辰(11日)出典不明〉、納はそこで李洪雅を盟主に推し立てて大将軍とし、平肩大輿(肩で担ぐ輿)に乗せ、繖蓋(絹傘)・鼓吹(楽隊)・羽儀(旌旗)などを付けて長沙に入城させた《南63王僧弁伝》。納は数千の兵を率いてその左右に付き従った《出典不明》

●黄衆宝降る


 これより前(552年8月)、西魏の安康郡の酋帥の黄衆宝が叛乱を起こし、漢中と連結して数万の大軍となり、華陽郡守の柳桧を殺害し、東梁州城を包囲していた。泰はこれに対し、大将軍の可頻雄王雄)・開府儀同三司の宇文虯らを討伐に向かわせていた(552年〈4〉8月参照)。
 城中の兵糧はやがて尽きた。西魏の儀同の陸騰は子午谷(長安〜安康)より東梁州に急行し、到着すると直ちに衆宝と戦ってこれを大破した。
 この月、衆宝は降伏した。泰は衆宝の罪を赦したが、当地の豪族たちは雍州に強制移住させた。
 柳桧の兄の子の柳止戈は、衆宝軍が東梁州の包囲を解いたのを見ると、水中に捨てられていた桧の死体を回収して長安に還した。

 南洛州の要害に拠って自立を維持していた扶猛は、衆宝の乱が平定されたのを聞くと遂に部衆と共に西魏に降った。猛は地元の有力者であることから非常に厚遇され、儀同三司・宕渠県男とされた。西魏は二郡を割いて羅州(房陵郡安城県。東梁州と襄陽の中間)を置き、猛をその刺史とした。

 この前後に、衆宝の乱に乗じて起こっていた巴州蛮の杜清和の乱も討平された。西魏は巴州を改めて洵州とし、〔南洛州刺史の〕泉仲遵漢東攻略に活躍した。南洛州刺史となると善政を行なった。552年〈4〉参照)の統治下に属させた。

 また、豫州伯を名乗って叛乱を起こし、北斉の兵を引き入れていた唐州蛮の田魯嘉も、西魏の開府儀同三司・并安肆郢新応六州諸軍事・兼督江北司二州諸軍事・并州刺史の権景宣字は暉遠。河南を長く守備し、のち荊州以南のことを任された。552年〈4〉参照)に撃破されて捕らえられた。景宣は唐州を郡とした。のち、安州刺史に転じた。

 宇文虯は間もなく大将軍・金州(東梁州。廃帝三年〈554〉に改められた)刺史とされた。

○周文帝紀
 二月,東梁州平,遷其豪帥於雍州。
○周28陸騰伝
 魏廢帝元年,安康賊黃眾寶等作亂,連結漢中,眾數萬,攻圍東梁州。城中糧盡,詔騰率軍自子午谷以援之。騰乃星言就道,至便與戰,大破之。
○周28権景宣伝
 廼授并安肆郢新應六州諸軍事、幷州刺史。尋進驃騎大將軍、開府儀同三司,加侍中,兼督江北司二州諸軍事,進爵為伯,邑五百戶。唐州蠻田魯嘉自號豫州伯,引致齊兵,大為民患。景宣又破之,獲魯嘉,以其地為郡。轉安州刺史。
○周29宇文虬伝
 尋而魏興復叛,虬又與王雄討平之。俄除金州刺史,進位大將軍。
○周44泉仲遵伝
 清和遂結安康酋帥黃眾寶等,舉兵共圍東梁州。復遣王雄討平之。改巴州為洵州,隸於仲遵。先是,東梁州刺史劉孟良在職貪婪,民多背叛。仲遵以廉簡處之,羣蠻率服。
○周44扶猛伝
 魏廢帝元年,魏興叛,雄擊破之,猛遂以眾降。太祖以其世據本鄉,乃厚加撫納,授車騎大將軍、儀同三司,加散騎常侍,復爵宕渠縣男。割二郡為羅州,以猛為刺史。
○周46柳桧伝
 眾寶解圍之後,檜兄子止戈方收檜屍還長安。

 ⑴陸騰…字は顕聖。もと東魏の臣で、邙山の戦いの際、陽城を固守した。陥とされると西魏に降った。543年(1)参照。
 ⑵扶猛...字は宗略。白虎蛮の渠帥。梁の南洛北司二州刺史。侯景の乱が起こると南洛州に割拠した。552年(1)参照。

●龍州平定
 陸騰は帰還すると龍州(治 平武。武都の南)刺史とされた(詳細な時期は不明)。その際、泰は騰にこう言った。
「わしは今、江油(龍州近南)路を打通したいと考えている。ゆえに直ちに南秦に出兵せよ。ついては、そなたがどのように経略を進めていくつもりなのか聞きたい。」
 騰は答えて言った。
「情勢は刻々と変わるもの。私はその都度臨機応変に対応するだけです。ゆえに答えることはできません。」
 泰は答えて言った。
「こたびの一挙は柱国大将軍となる機会だ。努力せよ。」
 かくて直ちに身につけていた金帯を騰に与えた。これより前、州民(龍州民?)の李広嗣・李武らは高く険しい地を拠点とし、不逞の輩を集めて郡県を荒らし回っていたが、歴代のどの刺史も鎮圧することができないでいた。
 騰は密かに多くの飛梯(雲梯。梯子車)を造らせると、夜陰に乗じてその拠点の真下に到り、未明に四方より同時に攻め上った。広嗣らは敗れ、鼓下(処刑場)に引っ立てられた。この時、龍州蛮(隋55和洽伝)の任公忻という者が兵を集めて州城(龍州城?)を囲み、騰にこう言った。
「広嗣と武を解放するなら、軍を解散し、いかような処分も受けよう。」
 騰は自軍にこう言った。
「広嗣らを解放したりなどすれば、弱みを見せて賊をつけ上がらせることになる。こんなことは誰だって分かることだ。このような要求をしてきたのは、公忻が青二才だからだ!」
 かくて直ちに広嗣と武を斬り、その首を城外に見せつけた。〔このような対応をされるとは思っていなかった〕賊徒は意気阻喪した。騰がそこを突くと、賊徒はみな捕虜となった(公忻はのちにも登場してくるので、逃亡したか赦されたかしたのだろう《周28陸騰伝》

●楊辟邪の乱

 この年、西魏の東益州(武興。漢中西部)刺史の楊辟邪大統十一年〈545〉に刺史とされていた)が叛乱を起こし、各地の氐族もこれに呼応した。泰は〔儀同三司・南岐州(固道)刺史・節度東益州戎馬事の〕叱羅協北魏→葛栄→爾朱兆→竇泰→西魏に仕えた。家族は東魏のもとにあったが、河橋で西魏が敗れても東魏に奔らなかった)と〔儀同三司・督成武沙三州諸軍事・成州(南秦州。仇池)刺史(周33趙昶伝では武州〈武都〉刺史)の〕趙昶字は長舒。李鼠仁・梁道顕の乱を弁舌で平定した)に討伐させた《周49氐伝》
 協が涪水(龍州〜潼州などに流れる川)に進軍すると(辟邪は東益州ではなく、龍州付近にいた? もともとそうだったのか、逃亡したのか? そもそも涪水が誤り?)、一千の氐賊が道を遮断し、橋を破壊しているのに出くわした。協は儀同の仇買らを派してこれを撃たせ、賊が道を開くと少しずつ前進を始めた。一千の氐賊が迎撃してくると、協は四百の兵を率いて峡谷の道を守備させ、賊と白兵戦を展開し、これを退けた。辟邪が城を棄てて逃走すると、協はこれを追って首を斬った。すると氐賊はみな降伏した。協はこの功によって開府儀同三司とされた《周11叱羅協伝》
 泰は大将軍・岐州刺史の宇文貴字は永貴。537年の潁川の戦いにて東魏の大軍を大破した。のち、宕昌の乱を平定した。550年〈1〉参照)を大都督興西蓋(西益〈黎州〉?)等〈周19宇文貴伝〉六州諸軍事・興州刺史とした。貴は既に威名が四方に鳴り響いていたため、諸氐は畏服し《周49氐伝》、該地の人心はここにようやく安定した。貴は泰の認可を受けたのち梁州(漢中)に屯田を置いた。それにより、数州の倉庫が満杯になった《周19宇文貴伝》

●柔然の混乱と木杆可汗の即位

 この月、北斉が柔然可汗の鉄伐頭兵可汗が殺害されたのちも柔然に留まり、その跡を継いだ。552年〈1〉参照)の父の登注と兄の庫提を柔然まで護送した。鉄伐が間もなく契丹に殺害されると、柔然人は登注を可汗に立てた。登注が大人の阿富提らに殺害されると、柔然人は庫提を可汗に立てた《北斉文宣紀》

 これより前、突厥の伊利可汗阿史那土門)が死に、子の科羅が跡を継いで乙息記可汗を称した【考異曰く、隋書突厥伝には『弟の逸可汗』とあり、〔北史突厥伝には『弟の阿逸可汗』とある(下文には『乙息記可汗』とある)。〕今は周書及び北史の記述に従った】。
 3月、乙息記が西魏に馬五万頭を献じた。柔然の余衆が頭兵可汗の叔父の鄧叔子を可汗とすると【考異曰く、魏書・北史の蠕蠕伝〔・北斉文宣紀〕にはどちらも『鉄伐を可汗とした』とあり、〔周書・北史の〕突厥伝には『鄧叔子を可汗とした』とある。恐らく、柔然は〔頭兵の死後〕分裂状態にあり、各自が思い思いに可汗を擁立したのだろう】、乙息記はこれを沃野鎮の北の木頼山にて撃破した。〔間もなく、〕乙息記は病の床に就くと(隋49突厥伝)、臨終の際に(北99突厥伝)子の摂図ではなく弟で俟斤(イルキン、官名)【隋書には『俟斗』とある】の燕都を後継に指名した。かくて燕都が跡を継いで木杆ムカン可汗を称した【考異曰く、周書には『木汗』とある。今は〔隋書・〕北史の記述に従った】。木杆は常人と異なる容貌を持ち、顔の広さは一尺余もあり、顔色は非常に赤く、眼は瑠璃色をしていた。剛情粗暴な性格で、才智に溢れ軍事に精通し(北99突厥伝)、戦いを好んだ《周42突厥伝》

●東下の経緯

 梁の元帝蕭繹。時に46歳)は梁蜀の天正帝武陵王紀。元帝の弟)の軍が〔侯景梁に叛乱を起こして建康を陥とし、武帝を餓死させて帝位に即いたが、王僧弁らに敗れて死んだ)討伐を理由に益州より〕東下してくるのを聞くと、非常に恐れ、方士に木版に紀の像を彫らせると、自らその全身に釘を打って呪詛を行なった《出典不明》
 天正が兵を挙げたのは、皇太子の円照字は明周。550年〈3〉参照)の企みによるものだった。侯景が滅んだ時、元帝は益州に捕虜を送ってこれを知らせたが、円照はその道中の巴東(信州)にてこれを捕らえ(円照は巴東を鎮守していた)、父にこう言った。
「聞くところによると、侯景はまだ健在で、荊鎮(荊州、元帝)は既に滅ぼされてしまったとか。速やかなる東下を願います。」
 天正はこれを信じ(天正は元帝の実力を侮っていた)、遂に長江に沿って急進を開始した《南53蕭円照伝》

●伐蜀開始

 去年、泰は益州の豪族の任果字は静鸞。南安〈剣閣〉の人。代々梁に仕え、祖父の安東は益州別駕、父の褒は新巴・南安・広漢三郡守、沙州刺史となった)の帰順を受けていた。泰が手厚くもてなすと、恩に感じた果は泰に面と向かって蜀奪取の策を論じた。泰はこれを深く聞き入れ、果を使持節・車騎大将軍・儀同三司・大都督・散騎常侍・沙州刺史・南安県公(邑一千戸)とした《周44任果伝》

 それから時が経って現在、〔梁蜀の脅威にさらされた〕元帝は西魏に書簡を送って言った。
「『子糾(ここでは天正帝のこと)は肉親ゆえ、〔討つのは忍びない。〕どうか貴君の手で処分していただきたい。』」[1]
 宇文泰は書簡を受け取るとこう言った。
「蜀、図るべきなり! 蜀を取り、梁を制するは、全てこの一挙にかかっている!」
 しかし、会議を開くと、諸将はみな難色を示した。ただ、唯一、大将軍・魏安公で鮮卑の人の尉遅迥だけは賛成して言った。
「紀は精鋭をこぞって東下しているはずでありますから、蜀はもぬけの殻のはず。我が軍が赴けば、きっと戦うことなく蜀を制圧できましょう。」
 泰はこれに深く頷き、迥にこう言った。
「伐蜀の事は、お前に一任する。〔そこで、尋ねておきたい。〕お前はどうやって蜀を伐とうと考えているのか?」
 迥は答えて言った。
「蜀は山川の険阻によって百有余年にも渡って中国(中原)の兵を拒み続けてきた地でありますゆえ(北朝が益州を支配下に置いていたのは前秦〈385年4月〉以来無い)、我が軍の進攻を全く警戒しておりません。なれば、精甲鋭騎を引き連れ、夜を日に継いで奇襲するべきでしょう。平坦な道では強行し、険阻な道では緩行し、不意を突き、一気に中枢に進攻するのです。蜀人は官軍の進軍の素早さに度肝を抜かれ、必ずや戦わずに城を棄てて逃げ出すことでしょう。」
 この月周文帝紀)、泰はそこで迥に開府の元珍通鑑では『原珍』)・乙弗亜俟呂陵始北史では『侯呂陵始』)・叱奴興綦連雄宇文昇ら六軍の兵一万二千と騎兵一万を率いさせ、蜀を攻略させた【考異曰く、典略には正月戊辰の事とある。今は周文帝紀に従った】。
 迥は散関〜固道〜白馬を通って蜀の攻略に向かった。
 儀同三司・幽州都督府長史の南安王偉は司録となり、軍府の出す文書の全てを一人で作成した。
 大都督・吏部郎中の柳敏字は白沢)は行軍司馬となり、軍師となった(周32柳敏伝)。

○資治通鑑
 上甚懼,與魏書曰:「『子糾,親也,請君討之。』」
○周文帝紀
 三月,太祖遣大將軍、魏安公尉遲迥率眾伐梁武陵王蕭紀於蜀。
○周21尉遅迥伝
 侯景之渡江,梁元帝時鎮江陵,既以內難方殷,請脩隣好。其弟武陵王紀,在蜀稱帝,率眾東下,將攻之。梁元帝大懼,乃移書請救,又請伐蜀。太祖曰:「蜀可圖矣。取蜀制梁,在茲一舉。」乃與羣公會議,諸將多有異同。唯迥以為紀既盡銳東下,蜀必空虛,王師臨之,必有征無戰。太祖深以為然,謂迥曰:「伐蜀之事,一以委汝,計將安出?」迥曰:「蜀與中國隔絕百有餘年,恃其山川險阻,不虞我師之至。宜以精甲銳騎,星夜襲之。平路則倍道兼行,險途則緩兵漸進,出其不意,衝其腹心。蜀人既駭官軍之臨速,必望風不守矣。」於是乃令迥督開府元珍、乙弗亞、(万)俟呂陵始、叱奴興、綦連〔雄〕、宇文昇等六軍,甲士一萬二千,騎萬疋,伐蜀。以魏廢帝二年春,自散關由固道出白馬,趣晉壽,開平林舊道。

 [1]子糾…左伝荘公九年曰く、『夏、魯の荘公は〔管仲と共に魯に亡命していた〕斉の公子糾を斉君に立てようとして、斉を伐った。秋、魯軍は大敗を喫した。斉の鮑叔は追撃して魯に到り、こう言った。「子糾は肉親ゆえ、〔討つのは忍びない。〕どうか貴君の手で処分していただきたい。管仲は仇敵ゆえ、こちらで思う存分処分させていただく。」〔荘公は斉軍の侵攻を恐れて〕子糾を殺害した。管仲は鮑叔の弁護によって助命された』
 ⑴元偉...字は猷道(または子猷)。拓跋什翼犍(昭成帝)の子孫。元順の子。穏やかで上品な人柄で、学問を好んだ。

●宇文泰の甥、尉遅迥
 尉遅迥生年516、時に38歳)は字を薄居羅といい、先祖が北魏皇族の支流の尉遅部の出身だったため、代々尉遅氏を名乗るようになった。父の尉遅俟兜シトウ)は度量が大きく、鑑識眼があった。妻は泰の姉(昌楽大長公主)で、迥と尉遅綱字は婆羅。河橋にて李穆と共に宇文泰の窮地を救った。538年〈1〉参照)を生んだ。迥が七歳、綱が六歳の時に(522年)俟兜は病気にかかって亡くなった。その際、俟兜は二子を呼び、二人の頭を撫でてこう言った。
「お前たちはどちらも貴相があり、栄達する。その晴れ姿を見ることができないのが残念だ。二人とも、頑張るのだぞ。」
 迥兄弟は母の実家の宇文家に引き取られ、育てられた。宇文泰が関中の討伐に赴いた時(528~530年頃)、迥と綱は母と共に晋陽に留まり、のち(531年?)入関した。
 迥は幼い頃から聡明で、端正な顔立ちをしていた。長じると、大志を抱き、施しと人材を好む青年となった。
 次第に昇進して大丞相帳内都督となり、西魏の文帝廃帝の父)の娘の金明公主を娶って駙馬都尉・西都侯とされた。恒農・沙苑の戦いに参加して功を挙げ、大統十一年(545)に侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・魏安郡公、十五年(549)に尚書左僕射・兼領軍将軍とされた。迥は頭脳明晰であったため、文武の官を兼任することになっても、両方で絶賛を受けた。そのため、泰に頗る信任されるようになった。十六年(550)に大将軍とされた。

 また、大都督・中外府司馬の達奚寔字は什伏代)を行南岐州事・兼都軍糧とした。これより前、山氐は野蛮で統治に従わず、賦税・力役の義務に服さなかった。しかし、寔が道徳を以て指導すると、氐人は感激し、賦役に服するようになった。ここにおいて大軍の兵糧は確保された《周29達奚寔伝》

○周20尉遲綱伝
 尉遲綱字婆羅,蜀國公迥之弟也。少孤,與兄迥依託舅氏。太祖西討關隴,迥、綱與母昌樂大長公主留于晉陽,後方入關。
○周21尉遅迥伝
 尉遲迥字薄居羅,代人也。其先,魏之別種,號尉遲部,因而姓(氏)焉。父俟兜,性弘裕,有鑒識,尚太祖姊昌樂大長公主,生迥及綱。〔迥年七歲,綱年六歲,〕俟兜病且卒,呼二子,撫其首曰:「汝等並有貴相,但恨吾不見爾(耳),各宜勉之。」〔武成初,追贈柱國大將軍、太傅、長樂郡公,諡曰定。〕
 迥少聰敏,美容儀。及長,有大志,好施愛士。稍遷大丞相帳內都督。尚魏文帝女金明公主,拜駙馬都尉。〔封西都侯。〕從太祖復弘農,破沙苑,皆有功。〔大統十一年,拜侍中、驃騎大將軍、開府儀同三司,進爵魏安郡公。十五年,〕累遷尚書左僕射,兼領軍將軍。迥通敏有幹能,雖任兼文武,頗允時望。太祖以此深委仗焉。後(十六年,)拜大將軍。

 ⑴北62王秉伝には『魏廢帝二年(553),隨尉遲迥征蜀,鎮天水郡』とある。前島佳孝氏は《西魏北周政権史の研究》において、王秉の鎮天水を伐蜀の時の事としているが、この時、天水(秦州)は宇文導が鎮守していた。導は翌年の554年12月に亡くなっており、556年に宇文毓が隴右の鎮守に赴いてくるまで約1年間秦州には空白が生じる。恐らく『魏廢帝二年』は『隨尉遲迥征蜀』までにしかかかっておらず、『鎮天水郡』は555年の出来事だったのではないか(或いは554年に病気になっていた導の代わりに556年まで鎮守の任に就いたか)。


●誓い
 これより前、尉遅迥が伐蜀に旅立った時、宇文泰はこれを城西にて見送った。この時、泰は一羽の兎が走っているのを見ると、迥の弟で中領軍の尉遅綱字は婆羅。泰のお気に入りで、河橋の戦いの際には泰の命を救う大功を挙げた。553年〈1〉参照)にこれを射させた。綱はこう誓って言った。
「この兎を仕留められたなら、必ずや蜀を破れるでしょう。」
 間もなく綱は兎を獲て帰った。すると泰は喜んでこう言った。
「蜀を平定した暁には、汝に美女を与えよう。」《周20尉遅綱伝》

●王僧弁、巴陵に到る

 僧弁らの湘水からの侵入を阻むため、陸納が部将の呉蔵・潘烏黒・李賢明もと侯景配下。551年〈4〉参照)ら(出典不明)を派して車輪を占拠させ《梁元帝紀》、その両岸に城を築かせた【僧弁が車輪を陥としてから長沙に到るまで一日しか経っていない所を見るに、車輪の地は恐らく長沙から遠くない所で、湘江の要地にあるのだろう。考異曰く、梁紀には『二月丙子』とある。長暦を按ずるに、この歳の2月に丙子は無い。梁紀は誤っている《梁45王僧弁伝》
 陸納の兵はみな百戦錬磨の猛者揃いで、武具も精良で、蒙衝・闘艦は川を埋め尽くすほど多く、山を凌ぐほど大きかった。
 この時、雲一つない晴天だったが、納軍が出発する際に突然風雨が強くなった。人々はこれを『泣軍』と言い、敗北の予兆だと噂し合った。
 庚寅(28日)、二匹の龍が長沙城の西の川の中から躍り上がって天に昇り、五色の光を発して遥か遠くの川面を照らした。住民たちは皆これを目撃した。父老の一部は集まり、こう言って悲しんだ。
「地龍が去ったからには、この国()は滅ぶだろう。」

 王僧弁が巴陵(巴州)に到った【考異曰く、典略には『三月辛酉』とある。長暦を按ずるに、この月は癸亥が1日で、辛酉の日は存在しない。典略は誤っている】。〔驃騎将軍・湘州刺史の〕宜豊侯循字は世和。鄱陽王範・武林侯諮の弟。梁州刺史として西魏の漢中侵攻に一ヶ月余りも抵抗した末、降伏した。のち梁に帰還すると巴州にて陸納軍を撃退した。552年〈4〉参照)は《出典不明》都督の座を僧弁に譲った【考異曰く、僧弁伝には『陳覇先が都督を譲った』とある。今は典略の記述に従った】。僧弁はこれを拒否した。元帝はそこで僧弁を都督東上諸軍事・循を西上都督諸軍事とした《梁45王僧弁伝》
 夏、4月、丙申(4日)、僧弁軍が車輪に到った【考異曰く、典略は『甲子』としているが、これは間違っている。今は梁紀の記述に従った】。

 戊戌(6日)文宣帝が鄴に帰還した《北斉文宣紀》

○梁45王僧弁伝
 時納等下據車輪,夾岸為城,前斷水勢。時納等下據車輪,夾岸為城,前斷水勢,士卒驍猛,皆百戰之餘,〔器甲精嚴,徒黨勇銳,蒙衝鬬艦,亘水陵山。時天日清明,初無雲霧,軍發之際,忽然風雨,時人謂為泣軍,百姓竊言知其敗也。三月庚寅,有兩龍自城西江中騰躍升天,五色分明,遙映江水。百姓咸仰面目之,父老或聚而悲,竊相謂曰:「地龍已去,國其亡乎。」

 ⑴車輪…《読史方輿紀要》曰く、『車輪洲は長沙府の東北百二十里→湘陰県の北にある。湘江の要所である。

●吐谷渾討伐
 これより前、吐谷渾は大統初年(535)に宇文泰が儀同の潘濬を送って以降、西魏に朝貢を行なうようになったが、それでも依然として略奪をやめず、辺境の多くに被害を与えていた《北96吐谷渾伝》
 この月宇文泰は〔吐谷渾を討伐するために〕精鋭の騎兵三万を率いて隴山(秦州と岐州の間にある山脈)を越え、金城河(黄河)を渡って姑臧(涼州武威)に到った。可汗の慕容夸呂カロ。545年参照)は恐れおののき、貢ぎ物を送った《周文帝紀》
 この時(?)、〔姉の子で大将軍の〕賀蘭祥を行華州事として華州の留守を任せた。

 この年、夸呂は北斉に使節を送った。〔開府儀同三司・涼甘瓜三州諸軍事・〕涼州刺史の史寧字は永和。賀抜勝と共に梁に亡命したことがある。復帰後は行涇州事として涇州の莫折後熾の乱を平定し、東義州刺史を務めたのち、涼州刺史として涼州の宇文仲和の乱・宕昌の乱を平定した。のち北秦州刺史となったが、その後に再び涼州刺史とされた。552年〈4〉参照)はその使節が帰ってきたのを探知すると、軽騎兵を率いてこれを州西の赤泉【新唐書地理志曰く、涼州姑臧県に赤水軍がある。赤水軍はむかし赤烏鎮が置かれた所で、赤青泉があった。ためにそう名付けられたのである】にて襲い、僕射の乞伏触扳・将軍の翟潘密・商胡(イラン系商人)二百四十人・駞騾(駝騾。ラクダ・ロバ)六百頭・絹一万疋を得た《周50吐谷渾伝》
 史寧は大将軍とされた。のち、寧が泰に決裁を仰ぐと(原文『請事』)、泰は即座に自分が所持していた冠・靴・服・弓矢・鎧・矟(馬上槍)などを寧に与え、使者にこう言った。
「わしに代わって史涼州にこう言え。『わしが衣服を脱いで公に着せるのは、心の底から公を信頼して任せているのを示すためだ。〔だから、公はいちいち決裁をわしに仰がずともよい。〕公は今まで通り立派に刺史の任を務め、功名を損なうことの無いようにせよ』とな。」《周28史寧伝》

○周文帝紀
 夏四月,太祖勒銳騎三萬西踰隴,度金城河,至姑臧。吐谷渾震懼,遣使獻其方物。
○周20賀蘭祥伝
 魏廢帝二年,行華州事。

●天正帝、巴郡に到る
 この月、蜀梁の天正帝武陵王紀)が巴郡(楚州)に到着した。
 西魏軍の侵入を聞くと、南梁州刺史(通鑑では『前梁州刺史』)で巴西の人の譙淹に三万の兵を与えて援軍に向かわせた。

○周21尉遅迥伝
 初,紀至巴郡,聞迥來侵,遣譙淹回師,為撝外援。
○周28賀若敦伝
 巴西人譙淹據南梁州。
○周44任果伝
 蕭紀遣趙拔扈等率眾三萬來援成都。
○梁55武陵王紀伝
 太清五年夏四月,紀帥軍東下至巴郡,以討侯景為名,將圖荊陝。聞西魏侵蜀,遣其將南梁州刺史譙淹迴軍赴援。

●車輪・長沙の戦い
 これより前、納は大艦を建造し、『三王艦』と名付け、元帝によって死に追い込まれた邵陵王綸元帝の兄。侯景の乱勃発後、郢州に割拠したが、元帝に敗れて逃亡し、最後は西魏の手によって殺害された。551年〈1〉参照)・河東王誉元帝の兄の子。侯景の乱勃発後、湘州に割拠したが、元帝に敗れて死んだ。550年〈2〉参照)・桂陽王慥元帝の父の兄の孫。元帝によって殺害された。549年〈3〉参照)三人の像を艦上に立て、太牢を以て祭り、節蓋・羽儀・鼓吹を用意し、戦うたびに像を祀って加護を求めた。更に納は二艦を建造し、それぞれ『青龍艦』『白虎艦』と名付けた。これらはどれも牛皮によって防護され、十五丈(約37メートル)の高さがあり、乗員には軍中の最精鋭が選ばれた。
 僧弁は納軍を警戒して軽々しく戦うことはせず、城を築きながら少しずつ車輪に迫った。納兵は僧弁の腰抜けぶりを見て、警戒をしないようになった。
 5月、甲子(3日)梁元帝紀〉、僧弁はその無警戒ぶりを知ると、水陸両面から猛攻を仕掛けさせた。僧弁は自ら軍旗と戦鼓を手にし、前進後退を指示した。ここにおいて諸軍は競い合うように出撃し、車輪にて大規模な戦闘を展開した。驃騎の宜豊侯循は陣頭に立ち、矢石を受けながら二城を陥とした。納軍は徒歩で長沙に逃走し、住民を駆り立てて城に立て籠った。

 乙丑(4日)梁元帝紀〉、僧弁はこれを追って長沙に到ると、周囲に土塁や柵を築いて包囲を開始した。僧弁は自ら丘の上に出向き視察した。その傍には杜崱梁の勇将。北斉が秦郡を攻めた際、陳覇先と協力して撃退した。552年〈4〉参照)・杜龕トガン。勇猛で指揮にも長じ、侯景討伐にて第一の功を挙げた。552年〈4〉参照)と百余の護衛しかいなかった。呉蔵・李賢明はこれを望見すると、千の精鋭を引き連れて出撃し、楯で身を覆いながらひたすら僧弁のもとに向かった。杜崱・杜龕は力戦してこれを防いだ。賢明は鎧馬に乗り、十騎を引き連れ、絶叫しつつ突撃を仕掛けた。しかし、僧弁は胡牀から全く動かず、冷静に指揮を行なった。裴之横字は如岳。東伐のさい常に先鋒を務めて活躍した。552年〈4〉参照)が側面より蔵らに攻撃を仕掛けると、賢明は捕らえられて斬られ、蔵は城に逃げ戻った。
 この時、鎮西外兵記室参軍の司馬申字は季和。巴陵城の防衛に大きく貢献し、王僧弁に賞賛を受けた。551年〈2〉参照)は盾を持ち、身を挺して僧弁を庇った。戦いののち、僧弁は申に笑いかけて言った。
「『仁者(教養人)必ず勇有り』とは、空言では無いな!」《陳29司馬申伝》

 庚午(9日)文宣帝が林慮山(鄴の西南)にて巻狩を行なった《北斉文宣紀》

○資治通鑑
 五月甲子,僧辯命諸軍水陸齊進,急攻之,僧辯親執旗鼓,宜豐侯循親受矢石,拔其二城;納衆大敗,步走,保長沙。乙丑,僧辯進圍之。僧辯坐壟上視築圍壘,吳藏、李賢明帥銳卒千人開門突出,蒙楯直進,趨僧辯。時杜崱、杜龕並侍左右,甲士衞者止百餘人,力戰拒之。僧辯據胡牀不動,裴之橫從旁擊藏等,藏等敗退,賢明死,藏脫走入城。
○梁45・南63王僧弁伝
 初,納造大艦,一名曰三王艦者,邵陵王、河東王、桂陽嗣王三人並為元帝所害,故立其像於艦,祭以太牢,加其節蓋羽儀鼓吹,每戰輒祭之以求福。又造二艦,一曰青龍艦,一曰白虎艦,皆衣以牛皮,並高十五丈,選其中尤勇健者乘之。〕僧辯憚之,不敢輕進,於是稍作連城以逼賊。賊見不敢交鋒,並懷懈怠。僧辯因其無備,命諸軍水步攻之,親執旗鼓,以誡進止。於是諸軍競出,大戰於車輪,與驃騎循並力苦攻,陷其二城。賊大敗,步走歸保長沙,驅逼居民,入城拒守。僧辯追躡,乃命築壘圍之,悉令諸軍廣建圍柵,僧辯出坐壟上而自臨視。賊望識僧辯,知不設備,賊黨吳藏、李賢明等乃率銳卒千人,開門掩出,蒙楯直進,逕趨僧辯。時杜崱、杜龕並侍左右,帶甲衞者止百餘人,因下遣人與賊交戰。 李賢明乘鎧馬,從者十騎,大呼衝突,僧辯尚據胡牀,不為之動,於是指揮勇敢,遂獲賢明,因即斬之。賊乃退歸城內。

●潼州降る
 これより前、梁蜀の潼州【元和郡県志曰く、梁が梓潼郡に置いた。治所は涪城】刺史の楊乾運字は玄邈。もと北魏の臣。氐族の酋長の楊法深が黎州で叛乱を起こすとこれを破り、再び山地に追いやった。のち、西魏が漢中を攻めると援軍として派遣されたが敗れた。552年〈3〉参照)は、梁州(治 漢中)刺史にしてくれるよう天正帝に求めたが、拒否されたことがあった。以降、乾運は帝に不満を抱くようになっていた。のち、帝が即位すると、乾運は巴・渝を威服していることを理由に、北方を任され、車騎将軍・十三州諸軍事・梁州刺史(名目上。任地はそのまま潼州)・万春県公とされた。
 乾運の兄の子の楊略が乾運にこう説いて言った。
「侯景の乱が起きてより、江東の地は乱れ、人民は離散しました。なれば、その大賊の平定成った今は、一致協力して国を守り、民を落ち着ける事に専念するべきでしょう。なのに、今、皇室は〔それを捨て置いて〕争い合っています。これは、自滅の道です。朽ちた木が彫刻に使えぬように【論語公冶長9曰く、「朽木は雕るべからざるなり。」】、梁はもはやどうしようもない所に至ったのです。古人は『君子は危邦に入らず、乱邦に居らず』(論語泰伯13)と言い、また『君子は機(ささいな前兆)を見て作()し、日を終うるを俟()たず』(易経繋辞下)と言いました。今もし関中に款を通じ、彼の楽土に行けば(詩経魏風碩鼠)、必ずや功業も名声も全うでき、子孫に余慶を残すことができましょう。」
 乾運はこれに頷き、略に二千人の兵を与えて剣閣を、娘婿の楽広に安州【南安】を押さえておかせた。この時、乾運は略らにこう戒めて言った。
「わしは関中に帰附しようと思っているのだが、問題はつてが無いことだ。もし関中から使者が来たら、直ちに礼を尽くしてお迎えするように。」
 この時、ちょうど宇文泰は乾運の孫の楊法洛と使者の牛伯友らを乾運のもとに派していた。略はこれを迎えると、直ちにその夜に乾運のもとに送った。 乾運は使者の李若らを入関させ、西魏と款を通じた。泰は密かに乾運に鉄券(誓約の割符)を与え、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中・梁州刺史・安康郡公とした。
 尉遅迥は開府儀同三司の俟?呂陵始を先鋒とし(周36裴果伝では儀同・司農卿の裴果も先鋒とされている)、晋寿(黎州。漢中と剣閣の中間にある)を攻略し、平林旧道を切り開いて(周21尉遅迥伝)剣閣に到った。すると略は〔打ち合わせ通りに〕直ちに楽広のもとに逃げ、不安分子の任電ら部将たちを捕らえてから安州城と共に西魏に降った。始は略らの出迎えを受けて安州に入ると、略らを乾運のもとに送った《周44楊乾運伝》。 
 乾運は西魏に款を通じていたものの、部下たちの反発が怖く、やむなく潼水の別営(李〈季〉慶堡?)に拠って抵抗の姿勢を示していた。迥が元珍侯呂陵始らを派してこれを襲わせると、乾運は潼州に逃げ帰った。
 甲戌(13日)梁元帝紀。南史では甲申(23日)〉、珍らがこれを囲むと、乾運はようやく降伏した《北62尉遅迥伝》

 庚辰(19日、梁の巴州刺史の余孝頃新呉洞主。551年〈3〉参照)が、一万の兵を率いて王僧弁の軍と合流した。

 戊子(27日)文宣帝が鄴に帰還した《北斉文宣紀》

○周21尉遅迥伝
 以魏廢帝二年春,自散關由固道出白馬,趣晉壽,開平林舊道。前軍臨劍閣,紀安州刺史樂廣,以州先降。紀梁州刺史楊乾運時鎮潼州,又降。六月,迥至潼州,大饗將士,引之而西。
○周44楊乾運伝
 時紀與其兄湘東王繹爭帝,遂連兵不息。乾運兄子畧說乾運曰:「自侯景逆亂,江左沸騰。今大賊初平,生民離散,理宜同心戮力,保國寧民。今乃兄弟親尋。取敗之道也。可謂朽木不雕,世衰難佐。古人有言『危邦不入,亂邦不居』,又云『見機而作,不俟終日』,今若適彼樂土,送款關中,必當功名兩全,貽慶於後。」乾運深然之,乃令畧將二千人鎮劍閣。又遣其婿樂廣鎮安州。仍誡畧等曰:「吾欲歸附關中,但未有由耳。若有使來,即宜盡禮迎接。」會太祖令乾運孫法洛及使人牛伯友等至,畧即夜送〔之〕。乾運乃令使人李若等入關送款。太祖乃密賜乾運鐵券,授使持節、驃騎大將軍、開府儀同三司、侍中、梁州刺史、安康郡公。及尉遲迥令開府侯呂陵始為前軍,至劍南,畧即退就樂廣,謀欲翻城。恐其軍將任電等不同,先執之,然後出城見始。始乃入據安州,令廣、畧等往報乾運。乾運遂降迥。迥因此進軍成都,數旬尅之。
○南53武陵王紀伝
 初,楊乾運求為梁州刺史不得,紀以為潼州刺史。楊法深求為黎州刺史亦不得,以為沙州刺史。二人皆憾不獲所請,各遣使通西魏。及聞魏軍侵蜀,紀遣其將譙淹回軍赴援,魏將尉遲迥逼涪水,楊乾運降之。迥即趨成都。
 

 553年(2)に続く