●梁州の攻防

〔これより前、西魏の雍州刺史(元和郡県図志22鳳州)・大将軍の達奚武字は成興。十二大将軍の一人。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。551年〈4〉参照)は三万の兵を率いて梁の梁州の攻略を命じられていた。〕武は陳倉(散関の東北)路より回車戍(唐の鳳州梁泉県の西北六十里にある)を攻略した《元和郡県図志22鳳州》
 このとき、武は大行台尚書・大都督の王悦字は衆喜。もと大行台左丞。玉壁防衛軍の慰労の使者を務め、侯景が西魏に付いたときにはその叛乱を予測した。隨郡・安陸攻略の際には遠征にも関わらず最後まで兵糧に余裕を持たせ、宇文泰に褒められた。550年〈1〉参照)に武興城主の楊賢を説得させた。悦はそこで賢に書簡を送って言った。
「そもそも、徳ある者を輔けるのが天道の常で、機を見て実行するのが人の世の習いであります。梁主(武帝)は内は刑政を乱し、外は藩屏を欠いていたため、匹夫(侯景)が少し袂を払っただけで、国が転覆する騒ぎとなりました。こうなったのは、梁が人民だけでなく、天にすら見放されていたからであります。〔一方、〕我らが相公(宇文泰)は千齢の運を受けて天下三分の大業を始められたお方で、その恩義は国内に行き渡り、武威は国外に振るい、政令を下せば草が風に靡くように、征伐を行なえば雲霧を払うように瞬く間に完了する有様でありますが、そもそもこれは天下の誰しもが耳にしていることでしょうから、これ以上言葉を連ねる必要は無いでしょう。〔また、〕巴漢を屈服させる使命を帯びて出陣した大将軍の高陽公(達奚武)は、韜略(六韜三略。兵法)の奥義を修められた方であり、その統べる兵は熊羆の如く勇ましい者ばかりで、戦う前に降伏した者には褒美を、戦いの後に降伏した者には誅殺を行なわれるのが常です。〔反対に、〕貴君の兵糧は既に少なく、しかも援路は閉ざされております。籠るにしても城が堅固でなく、戦うにしても兵が及び腰であるなら、考えるまでもなく、降伏することこそ安全な道でありませんか。〔もし、貴君が後世の謗りを恐れていますなら、それは間違いです。〕昔、韓信は項羽に背きましたが、史書はこれを美談としました。黄権は〔蜀に背いて〕魏に帰順しましたが、史官はその忠義の盛烈さを褒め称えました。評価というものは、時と場合によって変化するものなのです。そして、今は丁度その評価される時に当たるのです。」
 賢はそこで降伏した。
 悦は武にこう献策して言った。
「白馬【魏書地形志曰く、華陽郡の沔陽県(漢中の西)に白馬城がある(元和郡県図志22梁州曰く、白馬関は梁州西県の西南三十歩にある。のち百牢関に改められた】は要衝で、必争の地であります。今、ここは守りが薄く、容易に奪取できます。もし蜀兵が新たに到れば、攻めるのは非常に難しくなるでしょう。」
 武はそこで悦に軽騎兵七百を与え、直ちに白馬を攻めさせた。悦は白馬に到着すると、戦う前に使者を送って利害を論じた。すると守将の梁深は城と共に降伏した。このとき、果たして武陵王紀字は世詢。武帝の第八子。侯景の乱後、益州に割拠し、皇帝に即位した。552年〈2〉参照)は部将の任奇北69王悦伝では『任珍奇』)に六千の兵を与えて白馬に向かわせていたが、関城(陽平関?)に到った所で白馬が既に降ったことを知ると引き返した《周33王悦伝》
 武は二城に守備兵を置き、進軍を続けた。
 この月(4月)周文帝紀〉、武は梁の梁州刺史の宜豊侯循字は世和。鄱陽王範・武林侯諮の弟。551年〈4〉参照)が守る南鄭を包囲した。循は善く南鄭を守ったが、包囲が数十日にも及ぶと降伏を求めた。武がそこで囲みを解いた時、梁の潼州刺史の楊乾運551年〈4〉参照)らの率いる一万余の援軍が剣閣の北に到った。循はこれを知ると降伏を撤回し、再び城の守りを固めた。
 武は挟撃を受けるのを恐れ、開府・大丞相府司馬(元和郡県図志22鳳州では『行台』とある)の楊寛字は景仁。元天穆・孝武帝の参謀として活躍した。550年〈4〉参照)に開府の王傑賀蘭願徳侯景が西魏に付いた時、その援軍に赴いた。547年〈2〉参照)を率いさせ、これに精騎三千を与えて先んじて乾運を攻撃させた。このとき、魏興方面軍にいた開府の宇文虬字は楽仁。552年〈1〉参照)が寛らの軍に加わった(周29宇文虬伝)。寛らは白馬にて乾運と戦い、これを大破して数千の捕虜と首級を得た(周22楊寛伝)。乾運が堪らず逃走すると、武はその捕虜や首級を南鄭城下に並べ、〔援軍が敗れたことを城内に知らしめた〕《周19達奚武伝》
 西魏の儀同三司の楊紹字は子安)は自軍が敵国内奥深くに遠征している上、何日も城を陥とす事ができず、兵糧が欠乏している事から、梁軍に飽くまで徹底抗戦された場合、最悪壊滅する恐れがあると考え、そこで計略を以て循を誘い出すことを提案した。〔武がこれを聞き入れると、〕紹は伏兵を置いたのち、何度も城下に赴いて戦いを挑んだ。循が相手にしないのを見ると、更に人に循を罵倒させた。循がこれに怒って打って出ると、紹は偽りの退却を行ない《周29楊紹伝》、伏兵がいる所まで誘い込んでこれを大破した。循は殆どの兵を失って〔城に逃げ帰った〕(詳細な時期は不明。これが元で循は一度降伏しかけたのかもしれない。今は通鑑の配置に従った《出典不明》

 一方、成都より南鄭に帰還中だった劉璠字は宝義。梁秦二州刺史の宜豊侯循の右腕。漢中が包囲されると、援軍を求めに益州に赴いた。551年〈4〉参照)は、南鄭が既に包囲されて入城できないのを知ると、白馬の西にて武に降った【宜豊侯循伝では『璠は嶓冢にて降った』とある。嶓冢県は華陽郡に属する。五代志曰く、漢中郡の西県はむかし嶓冢と呼ばれた(嶓冢山という山もある】(通鑑は『捕らえられた』とする)。以前から璠の評判を耳にしていた西魏の太師の宇文泰字は黒獺。西魏の実力者)は、武が出陣する前にこう戒めていた。
「劉璠を死なせてはならぬ。」
 そこで、武は璠を長安に送った。璠がやってくると、泰はこれを旧友のように遇し、〔兼尚書右〕僕射の申徽字は世儀。瓜州に乱が起こるのを五十騎で未然に防いだ。545年〈2〉参照)にこう言った。
「劉璠は佳士(才徳ともに優れた立派な人物)である。古人に勝る者はいるか?」
 徽は答えて言った。
「昔、晋の武帝は呉を滅ぼした際、二陸(陸機・陸雲兄弟)を得ましたが、今、殿が梁漢を平らいで得たのは劉璠一人だけでした。」(晋82習鑿歯伝曰く、苻堅は諸鎮に書簡を送って言った。『昔、晋は呉を滅ぼした際、二陸を得たが、わしが漢南を破った際に得たのは一人(道安)と半分(病人の習鑿歯)だけだった』
 このとき、南鄭はまだ陥落していなかった。達奚武は〔その報復として陥落した際に〕城中の者を皆殺しにすることを求めていた。泰は璠の家族は殺さないという条件付きでこれを許そうとした。璠はこれを知ると、朝廷に参内して反対した。泰が怒っても、璠は涙を流して頑なに反対し続け、どれだけ時が経っても引き下がろうとしなかった。このとき、泰の傍にいた柳仲礼侯景が台城を包囲した時、救援軍の総大将となった。台城が陥ちると侯景に降り、長江中・上流の経略を一任された。司州に帰還すると湘東王繹に従って雍州を攻めたが、救援に来た西魏軍に敗れ捕らえられた。長安に送られると、客礼を以て遇された。551年〈1〉参照)が言った。
「烈士であります。」
 泰はこう言った。
「人に仕える者は、かくのごとくあるべきだ。」
 かくてその訴えを聞き入れた(いつの事か定かでは無いが、南52宜豊侯循伝には『璠が南鄭に到ると、城に向かって降伏を呼びかけた。循は璠の姿を見ると「卿は死んで節義を全うしなかったばかりか、説客にさえなるのか!」と責め立て、矢を射かけさせた』とある《周42劉璠伝》

○周42劉璠伝
 還至白馬西,屬達奚武軍已至南鄭,璠不得入城,遂降於武。太祖素聞其名,先誡武曰:「勿使劉璠死也。」故武先令璠赴闕。璠至,太祖見之如舊。謂僕射申徽曰:「劉璠佳士,古人何以過之。」徽曰:「昔晉主滅吳,利在二陸。明公今平梁漢,得一劉璠也。」時南鄭尚拒守未下,達奚武請屠之,太祖將許焉,唯令全璠一家而已。璠乃請之於朝,太祖怒而不許。璠泣而固請,移時不退。柳仲禮侍側曰:「此烈士也。」太祖曰:「事人當如此。」遂許之。城竟獲全,璠之力也。

 ⑴王傑...もとの名は文達。生年515、時に38歳。宇文泰に「一万人を相手にすることができる」と評された。邙山の戦いに活躍し、傑の名を与えられた。また、宇文氏の姓を与えられた。552年、漢中攻略に参加した。552年(3)参照。

●侯景梟首
 5月、庚午(3日)、梁(湘東王繹)の司空の南平王恪字は敬則。武帝の弟の子で、もと郢州刺史。容姿端麗で、湘東王繹の軍が迫るとこれに降った。551年〈4〉参照)・宗室王侯・大都督の王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。繹の命に従って湘州の河東王誉を攻め滅ぼし、郢州の邵陵王綸を逃走させ、侯景の大軍から巴陵を守り切り、建康まで破竹の進撃を行なって侯景を滅ぼした。552年〈2〉参照)らが再び相国の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。552年〈2〉参照)に即位を勧めた。繹は依然として受け入れず、ただ侍中(42蕭世怡伝では兼太宰・太常卿。その前は侍中だった)の豊城侯泰字は世怡。鄱陽王範の弟。もと譙州刺史。悪政を行なって民心を失い、早々と侯景に城を陥とされ捕虜とされたが、間もなく江陵に逃走した。548年〈2〉参照)と祠部尚書(周42蕭世怡伝では『中衛長史』)の楽子雲を建康に派遣して、先帝たちの墳墓に参詣させると共に、宗廟を修復させるに留めた【考異曰く、梁書は〔泰らの派遣を〕4月の事とし、泰の官名も兼司空となっている。太清紀はこの月の事とし、官名は太宰になっている《梁元帝紀》

 戊寅(11日)出典不明〉、侯景字は万景。もと東魏の臣だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこでも叛乱を起こして都の建康を陥とし、傀儡政権を立てた。のち、大軍を率いて西上し湘東王繹に戦いを挑んだが敗れ、建康に逃走した。間もなく傀儡の簡文帝を廃し、皇帝の位に即いて漢を建国したが、王僧弁軍に敗れて流浪の身となり、最後は部下に殺された。552年〈2〉参照)の首が江陵に到った。景の首は市場に三日間晒されたのち、〔前漢の簒奪者の王莽と同じように〕煮られて頭蓋骨に漆を塗られ、武器庫に収められた《南80侯景伝》

 庚辰(13日)、梁が征南将軍・湘州刺史・司空の南平王恪を鎮東将軍・揚州刺史とした。他の官職はそのままとした。
 甲申(17日)、尚書令・征東将軍(第二位)・開府儀同三司・江州刺史の王僧弁を司徒・鎮衛将軍【梁が制定した二百四十の将軍号の一つで、その最上位に当たる(他に驃騎将軍・車騎将軍がある】・長寧県公とした《梁元帝紀》。また、陳覇先字は興国。時に50歳。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。552年〈2〉参照)を征虜将軍・開府儀同三司・長城県侯【覇先は長城県出身】とした《出典不明》

 ⑴宋74臧質伝に『使依漢王莽事例,漆其頭首,藏于武庫』とある。

●王偉の最期

 乙酉(18日)、漢の左民尚書の呂季略・少府の周石珍・中書舍人の厳亶を市場にて腰斬の刑(南77厳亶伝)に処した《梁元帝紀》趙伯超伏知命は監獄にて餓死させた。謝答仁簡文帝に礼を以て接したことで特別に赦された《南80趙伯超伝》
 尚書僕射の王偉は生きる望みを捨てず、獄中にて五百言詩を作り、それを繹に献上して〔才のあることを示した〕。果たして繹はその才能に目がくらみ、赦そうと考えるようになった。偉を嫌う者はこれを阻止しようとして繹にこう言った。
「昔、偉が作った檄文も非常に良い出来ですぞ。」
 繹がそこでそれを持ってこさせると、檄文にはこのような文句が書かれていた。
「重瞳(一つの目に二つの瞳があること。貴人の相)の項羽ですら烏江にて敗滅の悲運に遭ったのだ。片目の湘東なら(繹は生まれつき目に障害があり、治療の甲斐無く片目を失明していた。妻の徐妃は自分の顔の半分にだけ化粧をしてこれを馬鹿にした。548年〈5〉参照)尚更である。どうして天下を取れようぞ!」(『項羽重瞳なるも、なお烏江の敗あり。湘東一目なれば、いずくんぞ赤県(天下)の帰する所とならんや。』烏〈黒〉と赤で対句にしている
 繹はこれを読むと激怒し、釘を以て偉の舌を柱に打ち付け、刀を以て腸をえぐり出したが、偉はなお泰然自若としていた。偉に恨みを持っていた者は偉の肉を徐々に切り刻んだが、その間、偉はその様子をうつむきながらじっと見つめていた(或いは恨みを持つ者がうつむかせて見させた?)。
 骨に達すると煮殺された。偉に怨みを持っていた者たちは偉の肉を切り分け、焼き肉にして食らった。
 また、繹は石珍と亶の三族も皆殺しにした《南80王偉伝》

○梁56王偉伝
 及囚送江陵,烹於市。百姓有遭其毒者,並割炙食之。
○南80王偉伝
 及呂季略、周石珍、嚴亶俱送江陵,偉尚望見全,於獄為詩贈元帝下要人曰:「趙壹能為賦,鄒陽解獻書,何惜西江水,不救轍中魚。」又上五百字詩於帝,帝愛其才將捨之,朝士多忌,乃請曰:「前日偉作檄文,有異辭句。」元帝求而視之,檄云:「項羽重瞳,尚有烏江之敗;湘東一目,寧為赤縣所歸。」帝大怒,使以釘釘其舌於柱,剜其腸。顏色自若。仇家臠其肉,俛而視之,至骨方刑之。石珍及亶並夷三族。

┃歴陽攻略
 丙戌(19日)、北斉の合州刺史の斛斯顕通鑑では『斛斯昭』)が歴陽を攻め陥とした(北斉41暴顕伝には『清河王岳と〔鄭州刺史の〕暴顕が歴陽を陥とした』とある。また、北斉文宣紀ではこの記事を去年の5月に置いているが、その時期に歴陽を陥としているのはおかしいので、通鑑に従った《北斉文宣紀》

 丁亥(20日)、梁の湘東王繹は令を下して言った。
王偉周石珍らは誅殺したが、その他の、やむなく侯景の配下となっていた者たちについてはみな不問とする。」《梁元帝紀》

 北斉が散騎常侍の曹文皎らを繹に派遣した。繹は散騎常侍の柳暉らを答礼の使者として送り、同時に侯景を滅ぼしたことを伝えた(梁元帝紀によると、7月20日に鄴に到着したという《出典不明》。また、西魏にも中書舍人の魏彦を派して報告した《周文帝紀》

○北斉41暴顕伝
 天保元年,加衞大將軍,刺史如故。三年,與清河王高岳襲歷陽,取之。

●士林の戦い

 この月、〔北斉の司徒・東南道大都督・河東王の〕潘楽字は相貴。勲貴の一人。552年〈2〉参照)と郭元建もと侯景の総江北諸軍事・北道行台・南兗州刺史。侯景が梁軍に敗れると北斉に降った。552年〈2〉参照)〈梁46杜崱伝〉が梁の秦郡を包囲した《梁元帝紀》。このとき、〔東徐州刺史・東南道〕行台尚書の辛術字は懐哲。淮南の経略を任されていた。552年〈2〉参照)が楽を諫めて言った。
「陽平は侯景の領土であったため取っても何の問題もありませんでしたが、秦郡は既に〔湘東王の配下の〕厳超達梁46杜崱伝のみ『厳超遠』)が守備している所。湘東王は朝廷が間断なく使者を通じている相手です。その配下が守る城を攻めるのは不義ではないでしょうか! それに、今は雨期に入る頃で、〔作戦には不向きです〕。以上の理由から、私は兵を返した方が良いと考えます。」
 楽は聞き入れなかった《出典不明》
 陳覇先はこれを聞くと、別将の徐度字は孝節。智勇兼備の将。石頭の戦いにて強弩兵を率い、侯景の大破に大いに貢献した。552年〈1〉参照)を秦郡に派して固守させた。間もなくやってきた北斉軍七万は、城の堀を埋め、付近に土山を築き、地下に坑道を掘るなどして激しく攻め立てた《陳武帝紀》王僧弁は左衛将軍の杜崱武州刺史。石頭の戦い後、台城の守備を任された。552年〈2〉参照)を援軍に向かわせた。覇先はこれを聞くと、一万の兵を率いて(陳武帝紀)欧陽よりこれに合流した。元建と覇先らは士林にて激突した。戦いが始まると覇先兵がまず強弩を放ち、元建兵が怯んだ所を崱兵が突撃して大破した。元建は一万の死者と千余の捕虜を出して逃走した梁46杜崱伝。梁は北斉と事を構えたくなかったため、追撃しなかった《出典不明》

 ⑴士林…《読史方輿紀要》曰く、『士林館は六合県(秦州)の西北にある。

●東魏・北斉の吏部尚書たち
 北斉が辛術を吏部尚書とした(詳細な時期は不明)。
 東魏が都を鄴に遷して以降(534年10月)、吏部尚書に就いて知名度があった者は四名ほどいたが、それぞれ一長一短あり、完全ではなかった。高澄在位538~?)は若さゆえの闊達さがあったが、そのぶん大雑把な所があった。袁叔徳在位574~577)は反対に生真面目だったが、そのぶん細か過ぎる所があった。楊愔在位546~552)は風流で弁舌に優れていたが、表面の華やかさだけを重視する所があった。ただ辛術在位552~559)だけは公明正大を旨とし、任命の際には必ず才器を重視し、名声がある者に対しても実務能力があるかきちんと確かめ、新人の者も古参の者も平等に登用し、倉庫番のような者でも才能があれば必ず抜擢したが、門閥の者たちの登用も忘れずに行なった。この四名の内、術が最も釣り合いが取れていて、当時の人々から非常な称賛を受けた。

○北斉38辛術伝
 遷鄴以後,大選之職,知名者數四,互有得失,未能盡美。文襄帝少年高朗,所弊者疏;袁叔德沉密謹厚,所傷者細;楊愔風流辨給,取士失於浮華。唯術性尚貞明,取士以才器,循名責實,新舊參舉,管庫必擢,門閥不遺。考之前後銓衡,在術最為折衷,甚為當時所稱舉。天保末,文宣嘗令術選百員官,參選者二三千人,術題目士子,人無謗讟,其所旌擢,後亦皆致通顯。

●梁州、遂に降る
 これより前、西魏の大将軍の達奚武は〔4月より〕梁の梁州を包囲していたが、未だに陥とせずにいた。武は守将の宜豊侯循にこう言った。
「梁は既に侯景に滅ぼされたというのに、王はどうして孤城を守り続けるのか?」
 循は答えて言った。
「死を賭して城を守り、陥ちれば断頭将軍(三国志の厳顔の言葉)となるまでだ。」
 そこで武は行台左丞の柳帯韋字は孝孫。民部尚書の柳慶〈王茂を殺さぬよう宇文泰に諫言した。548年(5)参照〉の子)を南鄭城内に派し、循を説得させた。帯韋は言った。
「貴殿が降ろうとしないのは、要害・援軍・領民が守ってくれるという期待感からでありましょうが、要害については、官軍は桟道の険を難無く突破し、一気に漢川の地に到達する事ができましたゆえ、頼むに足りず、また、援軍についても、武興・白馬既に陥ち、山谷の酋豪たちもろくに進むことができぬ有様ゆえ、これも期待できません。また、人というのは、家族を気にかけ、連座を恐れ、名声と利益に目が無いものゆえ、我らが大軍を以て城を取り囲み、その上で逃亡者を罰して生活を保護し、投降者を賞して第二の投降を誘っているため、領民は既に心揺らぎ、おのおの保身を図るようになっております。これでは領民も頼みにはできぬでしょう。また、貴殿の国は乱れて君主不在の状況となっているため、忠を尽くすべき相手はおらず、死んで節義を全うしても主君がいないので名を成すに足りません。忠を尽くし、義に死すことは、貴殿にとって良くないことであります。また、それがしはこう聞いております。『賢者は時勢を観て動き、智者は変化に従って功を立てる』(陸賈『新語』思務曰く、『聖人因其勢而調之...聖人因變而立功』)と。今、貴殿が取るべき道は、城を挙げて我が軍門に降る道しかありませぬ。さすれば、領民を塗炭の苦しみから救ってやることができるばかりか、自らも親から授かった体を全うして不孝の名を避けることができるのです。降れば、貴殿は必ずや高い官位と封土を授かり、名を後世に輝かすことができるのです。でなければ、貴殿は身・名共に滅びることになるでしょう。」
 循はそこで遂に降伏を申し入れた《周19柳帯韋伝》。武が諸将にこれを受け入れるかどうか諮ると、開府儀同三司の賀蘭願徳は城中の兵糧が尽きているのを理由に、飽くまで攻撃の続行を求めた。すると大都督・儀同三司の赫連達元の名は杜朔周。賀抜岳の横死後、宇文泰がその跡を継ぐのに大きな貢献をした。534年〈2〉参照)が反論して言った。
「戦わずして城を獲るのが上策であります。子女や財帛に眩んで本質を見失ってはなりません。仁者は戦いを好まぬものです。それに、それがしが観ますに、城中の兵馬はなお強く、防備もまだ堅固であります。たとえ勝ったとしても、必ずや双方に甚大な被害を出すでしょう。それに、獣は追い詰められるとかえって必死に戦うとか【左伝宣公十二年の呉の文公の言葉】。そうなりますと、勝敗の行方はまだまだ分かりません。そもそも、用兵の道は、軍を全うするのを上策とするのですぞ。」
 これを聞くと、武はこう言った。
「その通りだ。」
 武が諸将らにそれぞれ意見を述べさせると、開府の楊寬らはみな達の意見に賛成したため、遂に循の降伏を受け入れた《周27赫連達伝》。武は三万(通鑑では『二万』)の住民を連行して帰還の途に就いた。ここにおいて、剣閣の北は全て西魏のものとなった《周19達奚武伝》

●仇討ち
 これより前、循は降伏を申し入れた際、中直兵参軍の杜叔毗字は子弼)を長安に派遣していた。泰は叔毗を丁重にもてなした。その間、循の中直兵参軍の曹策と参軍の劉曉が城を挙げて武に降らんと図った。この時、叔毗の兄の杜君錫は循の中記室参軍、甥の杜映は録事参軍、映の弟の杜晰は中直兵参軍を務めており、みな文武に優れ、各自数百人の私兵を率いていた。策らは彼らが計画の妨げになると考え、遂に謀叛の罪を着せて勝手に殺害した。二人は間もなく循の攻撃を受けて捕らえられたが、斬られたのは曉のみで、策は放免された。
 循が降伏すると、策は長安に送られた。叔毗は朝夕号泣し、家族を策に冤罪で殺されたことを西魏に訴えたが、帰順する前に起きたこととして棄却された。叔毗は憤懣やる方無く、遂に自らの手で策を討つことを考えたが、それは違法であり、それによって母が連座で処刑されるのかと思うと、どうしても実行できなかった(叔毗は早くに父を無くし、女手一つで育てられていた。ゆえに、尚更母を大事にしていたのである)。母は息子の悩みを悟ると、こう言った。
「お前の兄は無実の罪で殺され、その無念は私の骨髓に入っている。もし曹策が死ねば、私は喜んで死を受け入れる。疑うんじゃないよ。」
 叔毗は母の言葉を聞くと発奮し、遂に白昼堂々長安城内にて策を斬り殺し、その首を断ち腹を割き、体をばらばらにした。それから自らを縛って出頭し、死刑を求めた。しかし、泰はその心意気に感じて特別に罪を赦した。

 叔毗は字を子弼といい、先祖は京兆杜陵に住んでいたが、のち襄陽(雍州)に移住した。祖父の杜乾光は南斉に仕えて司徒右長史となり、父の杜漸は梁に仕えて辺城太守とされた。
 叔毗は早くに父を喪い、母に孝行を尽くした。気概があり、志節堅固だった。努力家で学問を好み、春秋左氏伝に最も通暁した。梁に仕えて宜豊侯循の府の中直兵参軍とされた。

○周46杜叔毗伝
 杜叔毗字子弼。其先,京兆杜陵人也,徙居襄陽。祖乾光,齊司徒右長史。父漸,梁邊城太守。叔毗早歲而孤,事母以孝聞。性慷慨有志節。勵精好學,尤善左氏春秋。仕梁,為宜豐侯蕭循府中直兵參軍。大統十七年,太祖令大將軍達奚武經略漢州。明年,武圍循於南鄭。循令叔毗詣闕請和。太祖見而禮之。使未反,而循中直兵參軍曹策、參軍劉曉謀以城降武。時叔毗兄君錫為循中記室參軍,從子映錄事參軍,映弟晰中直兵參軍,竝有文武材略,各領部曲數百人。策等忌之,懼不同己,遂誣以謀叛,擅加害焉。循尋討策等,擒之,斬曉而免策。及循降,策至長安。叔毗朝夕號泣,具申冤狀。朝議以事在歸附之前,不可追罪。叔毗內懷憤惋,志在復讎。然恐違朝憲,坐及其母,遂沉吟積時。母知其意,謂叔毗曰:「汝兄橫罹禍酷,痛切骨髓。若曹策朝死,吾以夕歿,亦所甘心。汝何疑焉。」叔毗拜受母言,愈更感勵。後遂白日手刃策於京城,斷首刳腹,解其肢體。然後面縛,請就戮焉。太祖嘉其志氣,特命赦之。

 ⑴563年に施行された大律に『これまで復讐をした者は赦していたが、これからは自殺させることにした。ただ、連座は無しとした』とある。その年の4月25日に『復讐を禁止し、殺人と同列に扱うこととした』とある。『遂に自らの手で策を討つことを考えたが、それは違法であり、それによって母が連座で処刑されるのかと思うと』の文章は大律と矛盾してしまっている?


 552年(4)に続く