[西魏:廃帝元年 北斉:天保三年 侯漢:太始二年 梁(湘東王繹):太清六年→承聖元年 梁(武陵王紀):天正元年]


●朝士、王僧弁を迎う
 戊子(3月20日)侯景の残兵が〔梁の征東将軍・江州刺史の〕王僧弁に景の逃亡を告げると、僧弁は台城に向かった。
 これより前、僧弁は東討に赴く際、湘東王繹にこう言われていた。
「建康に辿り着いた時、誰が真っ先に迎えに来るであろうか?」
 僧弁は答えて言った。
周弘正ではないでしょうか。弘正は目端が利き、すぐに駆けつけられる脚力もあり、妻子を見捨てることができる決断力も持ち合わせております。他の者たちはみな平々凡々として無能ですから、彼に先んじることはできないでしょう。」
 現在、僧弁が台城に向かうと、果たして前軍の伝令が弘正とその弟周弘譲がやってきたことを報じてきた。僧弁は早馬を飛ばしてこれを幕中に迎え入れさせた。僧弁は弘正に会うと非常に喜び、こう言った。
「私は最初から王僧達殿が機に遅れる者とは思っておりませんでした。公よ、どうぞ私の膝の上に座ってください。」
 弘正は答えて言った。
「この年寄りには過分の沙汰でございます。」
 僧弁が即日繹にこのことを伝えると、繹は使者に親書を持たせて弘正を迎えに行かせた。繹は朝士にこう言った。
「昔、司馬炎は、呉を平定した時に二陸(陸機・陸雲)を得たことを喜んだものだが、今、私も、賊を討伐した際に両周を得ることができた。」

〔漢の太宰の〕王克・〔太傅の〕元羅らが台城の門を開き、梁朝の旧臣を率いて僧弁を出迎えると、僧弁は克を労ってこう言った。
「さぞ辛かったでしょう。夷狄の君主に仕えるのは。」
 克は何も答えることができなかった。次いで僧弁はこう尋ねて言った。
「璽紱(玉璽)はどこにあるのですか?」
 克はやや時間を空けてから言った。
「趙平原[1]が持っていきました。」
 僧弁は克を責めて言った。
「王氏は百世の卿族でありましたが(先祖に東晋の重臣の王導、劉宋の重臣の王彧がいる)、〔その名声も〕一朝にして地に墜ちましたな。」

 王僧弁が侯景を討って建康を鎮守すると、貴族たちは争ってご機嫌伺いに行ったが、袁枢だけは家に閉じこもり、出世を求めなかった。
 袁枢(生年517、時に36歳)は字を践言といい、梁の呉郡太守の袁君正の子である。美男子で、物静かな性格をしており、読書を好み、片時も本を手離さなかった。先祖たちは代々栄達したので、家には莫大な資産があったが、枢は質素な生活を送り、人と付き合わずに一室に引きこもり、公式な行事でなければ外に出ようとしなかった。名誉や利益を求めず、無欲恬淡としていること、皆このようであった。
 出仕して梁の秘書郎となり、太子舍人、軽車河東王主簿、安前邵陵王・中軍宣城王二府功曹史を歴任した。侯景の乱が起こると呉郡にいる父を頼り、間もなく父の死に遭った。この時、天下は大いに乱れ、人は生き残ることに汲々としていたが、枢はこれに動ずることなく、喪に服して孝行者の評判を得た。

○資治通鑑
 戊子,僧辯命侯瑱等帥精甲五千追景。王克、元羅等帥臺內舊臣迎僧辯於道,僧辯勞克曰:「甚苦,事夷狄之君。」...。
○梁45王僧弁伝
 景之退也,北走朱方,於是景散兵走告僧辯,僧辯令眾將入據臺城。
○陳17袁枢伝
 樞字踐言,梁吳郡太守君正之子也。美容儀,性沈靜,好讀書,手不釋卷。家世顯貴,貲產充積,而樞獨居處率素,傍無交往,端坐一室,非公事未嘗出遊,榮利之懷淡如也。起家梁祕書郎,歷太子舍人,輕車河東王主簿,安前邵陵王、中軍宣城王二府功曹史。侯景之亂,樞往吳郡省父,因丁父憂。時四方擾亂,人求苟免,樞居喪以至孝聞。王僧辯平侯景,鎮京城(建鄴),衣冠爭往造請,樞獨杜門靜居,不求聞達。
○南23王克伝
 臺城陷,仕侯景,位太宰、侍中、錄尚書事。景敗,克迎候王僧辯,問克曰:「勞事夷狄之君」,克不能對。次問「璽紱何在?」克默然良久曰:「趙平原將去。」平原名思賢,景腹心也,景授平原太守,故克呼焉。僧辯乃誚克曰:「王氏百世卿族,便是一朝而墜。」
○南34周弘正伝
 及王僧辯東討,元帝謂僧辯曰:「王師近次,朝士孰當先來?」王僧辯曰:「其周弘正乎。弘正智不後機,體能濟勝,無妻子之顧,有獨決之明,其餘碌碌不逮也。」俄而前部傳云弘正至,僧辯飛騎迎之。及見,歡甚,曰:「吾固知王僧達非後機者,公可坐吾膝上。」對曰:「可謂進而若將加諸膝,老夫何足以當。」僧辯即日啟元帝,元帝手書與弘正,仍遣使迎之,謂朝士曰:「晉氏平吳,喜獲二陸,今我討賊,亦得兩周。」
○三国典略112
 王僧辯平侯景。或謂僧辨曰:「朝士來者,孰當先至?」僧辯曰:「其周孔正乎?」俄而孔正與弟孔讓自拔迎軍。僧辯甚喜,謂之曰:「公可坐膝上。」弘正對曰:「可謂加諸膝也。老夫何足當之。」

 ⑴侯景...字は万景。もと東魏の名将だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこでも叛乱を起こして都の建康を陥とし、皇帝の位に即いて漢を建国した。552年(1)参照。
 ⑵王僧弁...字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。侯景の乱が起こると、湘東王繹の命に従って湘州の河東王誉と郢州の邵陵王綸を討った。のち、侯景の大軍から巴陵を守り切り、破竹の進撃を行なって侯景を建康から追い払った。552年(1)参照。
 ⑶湘東王繹...字は世誠。武帝の第七子。生年508、時に44歳。幼い頃に片目を失明した。文才に優れたが、性格は陰険なものがあった。侯景の乱が起こると荊州に割拠し、反侯景の最大勢力となった。552年(1)参照。
 ⑷周弘正...字は思行。時に57歳。博識の大学者で、国子博士などを務めた。武帝が蕭綱を太子に立てようとするとこれを非難し、侯景を梁に引き入れようとすると戦乱が起こることを予言した。侯景が建康を陥とすと、その祖父の名を避けて姓を姫に改めた。551年(5)参照。
 ⑸弟...陳書周文育伝には『兄の子』とある。今は陳書周弘正伝と三国典略の記述に従った。
 ⑹周弘譲...周弘正の弟。兄と同じく博学多才だった。仕官したものの意に沿わず、茅山に隠棲した。侯景が建康を陥とすと、これに仕えて中書侍郎とされた。544年(1)参照。
 ⑺王僧達...劉宋の将軍。文帝が太子に殺された時、義兵を挙げた劉駿(孝武帝)を迎えに行き、太子討伐に貢献した。ここでは弘正のことを指す。
 ⑻王克...王導の末裔で、王繢の孫。美男子。文弱の徒であったため侯景の警戒を受けず、簡文帝の居室への出入りを許された。551年(4)参照。
 ⑼元羅...北魏末の権力者・元叉の弟。梁州と共に梁に降った。551年(1)参照。
 [1]趙平原...侯景の侍中の趙思賢(景の腹心の一人)のこと。思賢は平原太守を兼ねていた。
 ⑽袁君正...梁の司空の袁昂の子。梁の呉郡太守。容貌麗しく、立ち居振る舞いも立派だった。ただ臆病な性格で、侯景が建康を陥としたのち呉郡に攻めてくると、配下の諌めも聞かずに降伏した。間もなく後悔して病気となって死んだ。549年(3)参照。

●王僧弁、事後処理を誤る
 僧弁は〔東徐州刺史の〕裴之横字は如岳。もと郴州刺史。東伐のさい常に先鋒を務めた。551年〈2〉参照)と武州刺史の杜崱の二人に(梁28裴之横伝)台城の守備を任せた(通鑑では『裴之横と杜龕に杜姥宅を占拠させ、杜崱に台城を占拠させた』とある)。之横らの兵士たちは宮中に入ると略奪をほしいままにした。その日の夜、兵士が遺棄していた火種によって火災が起こり、太極殿・東西堂・延閣・秘署が焼け落ちた。宝器・羽儀(幟旗)・輦輅(皇帝用の車)はことごとく焼失した。ただ、僧弁が杜崱に消火をさせたため、武徳・五明・重雲殿・門下・中書・尚書省はなんとか焼失を免れた。
 僧弁は簡文帝の棺を朝堂に迎え入れると、全軍を喪服に着替えさせ、胸を打ち足を踏み鳴らして哀悼の意を表した。また、景の作った位牌を宣陽門(建康南門)にて燃やし、新しく作った位牌を太廟に入れた。また、朝廷の蔵書八万巻を江陵に送った。また、侯瑱裴之横に精鋭五千騎(梁45王僧弁伝)を与えて景を追撃させた。
 このとき、建康の人口は往時の百分の一か二にまで激減してしまっており、秦淮河の南岸には民家は一つも無かった。僧弁らの軍がやってきた時、建康の士民は老人を助け、幼児の手を取ってこれを迎えたが、王琳・杜龕らは〔その期待を裏切り、〕秦淮河を渡るなり兵を放って略奪に狂奔した(台城救援軍と同じ。549年〈1〉参照)。その暴虐さは景よりも甚だしく、民は捕らえられると男女の別無く身ぐるみを剥がされ、返してくれるよう訴えると代金を要求された(梁45王僧弁伝)。かくて石頭より東州城に到る秦淮河沿岸の地域は住民の泣き叫ぶ声で満ち溢れ、その大なることは建康をも震わせるほどだった。僧弁は何か異変が起こったのかと思って城壁の上に登り、兵士に訳を問うたが、〔原因が分かっても〕禁ずることができなかった。これ以降、住民たちは官軍に失望し、これなら景の方が良かったと考えるまでになった。知識人たちはここを以て、僧弁が良い最期を迎えぬことを予想した《南80侯景伝》

●北斉、南伐を開始す

 この日、北斉が〔宗師・〕司州()牧の清河王岳字は洪略。文宣帝の父・高歓の従父弟。高歓の死後、多くの戦いで総指揮官を務めた。550年〈3〉参照)を使持節・南道大都督、司徒・河東王の潘相楽潘楽、字は相貴。勲貴の一人。550年〈3〉参照)を使持節・東南道大都督とし、〔東徐州刺史・東南道〕行台の辛術字は懐哲。淮南の経略を任されていた。550年〈5〉参照)、開府・兗州刺史の叱列平、儀同三司・都督の高季式らと共に南方を征伐させた(湘東王繹と長江を境界にして侯景領を分割する取り決めを交わしていたのであろう《北斉文宣紀》

 己丑(21日)王僧弁らが上表して〔梁の相国・荊州刺史の〕湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。552年〈1〉参照)に即位を勧め【考異曰く、梁元帝紀には『戊子、繹は賊が平定されたことを明堂・太社に告げた。己丑、僧弁らが上表して即位を勧めた』とある。上表文には『大軍、戊子に建康に集結し』とあり、この日に勝利を報告したと考えられる。その報が即日江陵に届くわけがない!】、同時に都を建康に遷すよう求めた。すると繹はこのように答えた。
「淮海【揚州】の長鯨【侯景】の首を取ったとはいえ、襄陽の短狐【岳陽王詧(字は理孫。武帝の長子・統の第二子。雍州刺史。湘東王繹と対決したが逆に窮地に追い詰められ、やむなく西魏に服属して梁王に封じられた。551年〈2〉参照)。短狐は蜮(伝説上の怪物)のこと】(単にちび狐?)はまだ改心しておらぬ。天下が泰平となってから、改めて議論するようにせよ。」《梁元帝紀》

 庚寅(22日)、漢の〔総江北諸軍事・北道行台・大尉・〕南兗州(広陵)刺史の郭元建景が簡文帝を廃したのを非難した。552年〈1〉参照)・秦郡(西兗州)戍主の郭正買・陽平(北兗州)戍主の魯伯和・行南徐州事の郭子仲らがみな城を挙げて梁に降った《出典不明》

○北斉20叱列平伝
 三年,與諸將南討江淮,克陽平郡。
○北斉21高季式伝
 仍為都督,隨司徒潘樂征討江、淮之間。為私使樂人於邊境交易,還京,坐被禁止,尋而赦之。

 ⑴叱列平…字は殺鬼。生年504、時に49歳。代々西部高車の領民酋長を務めた家柄の出。美しい髭を持つ美男で馬と弓の扱いに長けた。北魏→爾朱氏に仕え、河陰の虐殺の際には彭城王・覇城王を殺害した。のち右衛将軍・京畿大都督とされた。高歓が挙兵するとこれに従い、550年に兗州刺史とされた。

●弑逆
 これより前、王僧弁は江陵を出立する際、湘東王繹にこう尋ねていた。
「賊を平定した時に嗣君(簡文帝)がご存命だった場合、どうすればよろしいのでしょうか。」
 繹は答えて言った。
「六門【台城六門のこと。大司馬門・万春門・東華門・西華門・太陽門・承明門がある】内の事は、何事も武力を以て解決するように。」
 僧弁は答えて言った。
「討伐の任に関しては臣が喜んで引き受けますが、成済がやったような事(弑逆。成済は曹魏の高貴郷公曹髦を弑逆した)に関しては、どうか別の者にお任せくださいますよう。」
 繹はそこで宣猛将軍の朱買臣宦官で、古くから繹の側に仕えた)に弑逆の密命を下した。
 景が敗れた時、簡文帝は既に景に殺されており、新たに皇帝とされた豫章王棟字は元吉。武帝の長子・昭明太子統の孫。551年〈4〉参照)は、二人の弟たち(蕭橋・蕭樛)と共に宮廷の一室に監禁されていた。棟らは助け合って密室から脱出すると、道中杜崱武州刺史。台城の守備を任された。552年〈1〉参照)に出会い、鎖を解かれた。二弟は喜び合って言った。
「やっと死の恐怖から解放された!」
 しかし、棟は冷静にこう言った。
「禍福というのは予測しがたいものだ。安心はできぬぞ!」
 辛卯(23日)、朱買臣が棟らを船上の酒宴に招いた。買臣は酒宴が終わらぬ内に棟らを川に投げ込み、溺死させた《南53豫章王棟伝》

○南53豫章王棟伝
 未幾,行禪讓禮,棟封淮陰王,及二弟橋、樛,並鎖於密室。景敗走,兄弟相扶出,逢杜崱於道,崱去其鎖。弟曰:「今日免橫死矣。」棟曰:「倚伏難知,吾猶有懼。」初,王僧辯之為都督,將發,諮元帝曰:「平賊之後,嗣君萬福,未審有何儀注?」帝曰:「六門之內,自極兵威。」僧辯曰:「平賊之謀,臣為己任,成濟之事,請別舉人。」由是帝別敕宣猛將軍朱買臣使行忍酷。會簡文已被害,棟等與買臣遇見,呼往船共飲,未竟,並沈于水。

●侯子鑑・郭元建、北斉に降る
 僧弁が〔平東将軍・東揚州刺史の〕陳覇先字は興国。時に50歳。交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。552年〈1〉参照)に郭元建らの受け入れを命じた。また、同時に慰撫の使者を派遣した。この時、諸将の多くが密かに元建らに対し、馬と武器を差し出すよう要求した。この時ちょうど広陵に辿り着いていた侯子鑑南洲にて王僧弁らの軍を迎え撃ったが大敗し、更に建康でも敗れると広陵に逃走していた。552年〈1〉参照)は、元建らにこう言った。
「我々は梁の仇敵だぞ! その我らがどんな顔をして梁の主君に会うのか! ここは斉に降った方が良い。斉に降れば、故郷に還ることだってできるかもしれないのだぞ。」
 そこで元建らは揃って北斉に投降した(南80侯景伝には『郭元建は皇太子妃を丁重に扱ったことから、投降しても命は保証されると考えた。しかし、侯子鑑は反論して言った。「それは小恩に過ぎぬ。小恩では命は賄えぬぞ。」そこで北斉に亡命した』とある)。覇先が道中の欧陽(広陵の西南)に到った時、広陵は既に北斉の行台の辛術によって占拠された後だった《出典不明》。覇先はそこで元建の残兵三千人を収容して引き返した《陳武帝紀》

●王偉、虜囚となる
 景が敗れた後、〔漢の尚書左僕射の〕王偉侯景の軍師。552年〈1〉参照)は侯子鑑らと共に逃亡していたが、途中ではぐれ、草むらに隠れていた所を直瀆【孫盛の『晋陽秋』曰く、直瀆は方山(建康東南にある山?)にある。胡三省曰く、侯子鑑・王偉は既に長江を渡ったはずなので()、方山の直瀆ではないように思われる。宋書州郡志曰く、盱眙郡(建康と下邳の中間にある)に直瀆県がある】戍主の黄公喜に捕らえられた。偉は僧弁の前に引っ立てられたが、ただ会釈をしただけで跪こうとしなかった。側の兵士が跪くよう促すと、偉はこう言った。
「同じ臣下の身分の者に、どうしてそこまでせねばならんのだ。」
 僧弁は偉にこう言った。
「卿は宰相であったにも関わらず、どうして最後まで主君を助けることをせず、のうのうと生きながらえようとしたのか。君主の危機を助けぬ者は、宰相ではない(論語季氏1曰く、『危うくして持せず、顛れて扶けずんば、則ちはた彼の相を用いん』宇野哲人氏は『』を盲人の手引きをする者とする)。」
 偉は答えて言った。
「興廃は時の運だが、事が上手く行くか行かないかは人の責任だ。漢帝がそれがしの献言を早く用いていれば、貴公の今は無かったはず。〔そのような君主に義理立てする必要はない。〕」
 僧弁は大笑いしたが、内心面白くなく、そこで偉の背に『賊臣王偉』と大書し、六門の間を歩かせてこれを辱めようとした(南史演義)。すると偉はこう言った。
「わしは昨日から八十里も歩いて疲れた。驢馬に乗せてくれ。」
 僧弁は答えて言った。
「お前の首はこれから万里を行く(繹のいる江陵に送られることを指す)というのに、八十里ごときで何を言うのか。」
 偉はこれを聞くと笑って言った。
「今日は本当に愉快だ。」
 この時、偉に侮辱を受けていた前尚書左丞の虞騭が偉の顔に唾を吐いてこう罵った。
「この死に損ないが! これでもまだ悪事を働けるか!」(原文『「死虜,庸復能為惡乎!」』
 偉は答えて言った。
「読書をせぬ輩と話しても無駄だ。」
〔図星を突かれた〕騭はぐっと言葉に詰まり、恥じ入って引き下がった(南史演義では「読書をしても、賊になってはな。」と言い返している《南80王偉伝》

 僧弁は羅州(岳陽)刺史の徐嗣徽もと江州刺史の尋陽王大心の部下。551年〈2〉参照)に朱方(丹徒。南徐州の東南)を鎮守させた《出典不明》

 壬辰(24日)侯景が晋陵(建康と呉郡の中間)に到った。景はそこで田遷侯景が東魏と渦陽にて戦った際、斛律光の馬に二度も矢を射当てた。552年〈1〉参照)の部隊と合流すると【田遷は軍司として劉神茂の討伐に赴き、それを果たすと景に建康に呼び戻されていた】、住民と(出典不明)太守の徐永を連行して東方の呉郡に向かった《梁56侯景伝》

 癸巳(25日)、北斉が湘東王繹の称号を梁王から梁主に進めた《北斉文宣紀》

●破竹の進撃
 夏、4月、北斉の大都督の潘楽郭元建と共に五万の兵を以て梁の陽平郡(石鼈。建康と下邳の中間)を攻め、これを陥とした《出典不明》
 潘楽が更に百余里に渡って南下すると、淮南の人々は大軍の到来に恐れおののき、次々と城を棄てて逃げ出した(通志152潘楽伝)。楽は梁の涇州(石梁。侯景はこれを淮州と改めていた)を攻略して涇州を置き、更に安州(定遠。鳳陽府〈楚州〉の南九十里→定遠県の東南五十里にある)も陥とした《北斉15潘楽伝》

 王僧弁陳覇先に京口(南徐州)を鎮守させた【このとき徐嗣徽が南徐州刺史となっているので、覇先は刺史とされたのではなく、ただ京口の守備を任されただけであろう《出典不明》
 沈恪字は子恭。もと広州刺史の新渝侯瑛の主簿・兼府中兵参軍。覇先とは同郡の生まれだったため非常に仲が良く、覇先が李賁を討つ際、妻子を託されてこれを故鄉にまで送り届けた。のち建康の防衛に参加し、陥落すると故郷に逃亡した。545年(1)・548年(5)参照)は覇先が南徐州の鎮守を任されたことを聞くとそのもとに馳せ参じ、即日、都軍副とされた《陳12沈恪伝》

●武陵王紀の即位
 益州刺史・太尉の武陵王紀字は世詢。武帝の第八子。侯景の乱後、益州に割拠した。551年〈4〉参照)は頗る軍才があり、益州刺史となってから十七年の間に、その領土は南は寧州・越雟、西は資陵()・吐谷渾にまで拡大した。また、内では農耕・養蚕・鋳鉄を奨励し、外では貿易を振興したため、財政は潤い、武器鎧の備蓄は充実して軍馬は八千頭を数えた。また、武芸にも秀で、騎射を得意としたが、特に槊(馬上槍)の腕前が抜群だった。
 侯景が台城を陥とし、繹がその討伐に向かったことを聞いた時、紀は幕僚にこう言った。
「七官【繹のこと。繹が七男だったためである】は文士だ。まず失敗するだろう!」
 この時、王宮の柏殿の柱に巻きついていたつるに花が咲いた。紀はこれを瑞兆と考えた。
 乙巳(8日)梁元帝紀。南53武陵王紀伝には『二年(承聖だと翌年の事になる)四月乙丑(28日)』とある〉、紀は皇帝の位に即き、年号を〔太清から〕天正に改めた。また、子の円照を皇太子とし、円正を西陽王とし、円満を竟陵王とし、円普を南譙王(通鑑では『譙王』)とし、円肅(字は明恭)を宜都王とした。また、巴西・梓潼二郡太守・領益州刺史軍防事の永豊侯撝字は智遐。武帝の弟の安成王秀の子。当時蜀に唯一いた宗室だった。兄弟に東府城を枕に討ち死にした南浦侯推がいる)を尚書令(周42蕭撝伝)・征西大将軍・都督益梁秦潼安瀘青戎寧華信渠万江新邑楚義十八州諸軍事(周42蕭撝伝)・益州刺史・秦郡王とした(周42蕭撝伝ではこの時、侍中・中書令・秦郡王とされており、のち今の官職が与えられたことになっている)。司馬の王僧略と直兵参軍の徐怦は即位を何度も思い止まらせようとしたが、聞き入れられなかった。憎略は、僧弁の弟である。怦は、徐勉【梁初の賢相】の甥である《南53武陵王紀伝》

 これより前、台城が侯景によって包囲された時、怦は紀にすぐさま救援に赴くよう勧めたが、もともと救うつもりの無かった紀は以後怦を鬱陶しく感じるようになった。
 ある時、怦は諸将に書簡を送ったことがあったが、その中に以下のような文言があった。
『事の詳細については、口頭で説明する(原文『事事往,人口具』)。』
 蜀人の費合がこれを証拠に怦に叛志ありと訴え出ると、紀は怦に死刑を宣告した。その際、こう言った。
「旧交に免じて、子どもたちは殺さないでおく。」
 怦は答えて言った。
「我が子たちがもしみな殿下のようであったら、生かされたとて嬉しくもなんともございませぬ!」【紀が父の武帝を救おうとしなかったのを謗ったのである
 紀はこれを聞くと激怒し、怦を子もろとも皆殺しにして市場に首を晒した《出典不明》。同時に僧略も殺害した。永豊侯撝はこれを聞くと嘆息して言った。
「王の事業は必ず失敗する! 人材は国の基であるというのに、今先だってこれを殺してしまった。これでどうして滅ぶ以外に道があろう!」
 また、親しい者にこう言った。
「昔、桓玄が年号を大亨に改めたことがあったが、識者は大亨には『二月了』(2月で終わる。大亨の文字を解体するとそうなる)という文字が含まれていると考えた。すると、果たして玄は仲春(2月)に敗北した(404年2月参照)。今、王は年号を天正に改めたが、天正には『一止』(一年で終わる)の文字が含まれている。どうして長続きしようか。」《梁55武陵王紀伝》
 また、天正という年号は奇しくも豫章王棟が用いた年号と同じであったため、識者はこう考えた。
「天正の『天』は『二人』、『正』は『一止』の文字で作られている。つまりこの年号は、両者の在位年が一年を越えずに(二年にならずに)終わることを予言しているのだ。」(豫章王棟は551年8月~11月、天正帝は552年4月~553年7月《南53武陵王紀伝》

○梁元帝紀
 四月乙巳,益州刺史、新除假黃鉞、太尉武陵王紀竊位於蜀,改號天正元年。世祖遣兼司空蕭泰、祠部尚書樂子雲拜謁塋陵,脩復社廟。
○梁55・南53武陵王紀伝
 初,天監中,震太陽門,成字曰「紹宗梁位唯武王」,解者以為武王者,武陵王也,於是朝野屬意焉。及太清中,侯景亂,紀不赴援。高祖崩後,〔二年四月乙丑,〕紀乃僭號於蜀。改年曰天正。〔暗與蕭棟同名。識者尤之,以為於文「天」為二人,「正」為一止 ,言各一年而止也。紀又〕立子圓照為皇太子,圓正為西陽王,圓滿竟陵王,圓普南譙王,圓肅宜都王。以巴西、梓潼二郡太守永豐侯撝為征西大將軍、益州刺史,封秦郡王。司馬王僧略、直兵參軍徐怦並固諫,紀以為貳於己,皆殺之。〔僧略,僧辯弟;怦,勉從子也,以諫,且以怦與將帥書云「事事往人口具」,以為反於己,誅之。〕永豐侯撝歎曰:「王不免(克)矣!夫善人、國之基也,今反(乃)誅之,不亡何待!」又謂所親曰:「昔桓玄年號大亨,識者謂之『二月了』,而玄之敗實在仲春。今年曰天正,在文為『一止 』,其能久乎?」〔丁卯,元帝遣萬州刺史宋簉襲圓照於白帝,圓照弟圓正時為西陽太守,召至,鎖于省內。

●松江の戦い


 これより前、漢の儀同三司の謝答仁劉神茂の討伐を命じられてこれを果たし、〔任地の呉へ〕帰還して富陽にまで到っていた。そこで侯景が敗走したことを聞くと、一万の兵を率いて北に向かい、これを迎えようとした《出典不明》。しかしその時、銭塘にいた〔漢の行台の〕趙伯超騎射に優れたが、寒山の決戦や鍾山の決戦では怖気づき、戦わずに逃走した。台城陥落後は侯景に積極的に従い、会稽を攻略した。551年〈4〉参照)が叛乱を起こしてその合流を防いだ《梁56侯景伝》。答仁は銭塘に到ると、〔城下から〕伯超にこう尋ねた。
「公は何故それがしを拒むのですか? 何か聞いたのですか?」
 伯超は答えて言った。
「貴君の耳は頬か鼻に付いているのか? 〔いいか、よく聞け。〕侯王は既に死に、遠近はことごとく平定されたのだ。貴君は兵を率いてどこに行くつもりなのだ?」
 答仁は〔これを聞くと驚いて〕言った。
「本当にそのとおりであるなら、感謝いたします。」《三国典略367》
 侯景はこのとき嘉興【呉郡の南百五十五里の所にある】にまで進んでいたが、伯超が叛いたことを知ると、呉郡に引き返した。
 癸酉(12日)出典不明〉、〔景の追撃を任されていた梁の南兗州刺史の〕侯瑱字は伯王。鄱陽王範に長く付き従ってきた猛将。侯景の部将の于慶に敗れて投降したが、のち湘東王繹に付いた。その際、景に家族を皆殺しにされた。王僧弁が東伐を行なうと、精鋭を率いてその先鋒を務めた。552年〈1〉参照)が松江(陳9侯瑱伝では呉松江)【呉県の南四十里にある川で、一名を笠沢という(今の呉淞江】にて景を捕捉した。景はこのときまだ二百艘の船と数千の兵を擁していたが、突然のことだったため全く対処できなかった。〔敗北を悟った〕兵士たちは景の制止を振り切り、次々と白旗を挙げて降伏した。景は腹心の数十人と共に三艘(梁39羊鵾伝)の小船に乗って逃走した《梁56侯景伝》。侯瑱は景軍の軍需物資を全て鹵獲すると共に《陳9侯瑱伝》、〔漢の衛尉卿の〕彭儁侯景政権の刑罰を司った。簡文帝の殺害にも関与した。551年〈4〉参照)・行台の田遷・儀同三司の房世貴・蔡寿楽・領軍の王伯醜豫章を守備したが、陳覇先に敗れた。552年〈1〉参照)らを虜とした《南80侯景伝》。瑱は儁の腹を生きたまま割き、肝臓を取り出したが(通鑑では『その腸をはみ出させたが、儁はまだ死なず、己の腸を掴んで腹中に戻した』とある)まだ生きていたため、そこで首を斬り落とした(彭儁は衛尉卿で、景政権の刑罰を司っていた。侯瑱は景から繹に寝返った際、家族を皆殺しにされていた。瑱がここまで儁を憎んだのは、その関係なのだろう《南80趙伯超伝》

●侯景の最期
 景は〔逃走の邪魔になった〕二子を水中に沈め、滬瀆(松江の下流のこと)より海(東シナ海)に出ようとした《梁56侯景伝》。瑱は副将の焦僧度にこれを追撃させた《出典不明》
 これより前、景は〔台城陥落後に?〕羊侃台城が侯景に包囲された時、その守将となって良く攻撃を防いだが、その最中に病死した。548年〈5〉参照)の娘を小妻(側室)としており、その兄の羊鵾字は子鵬。羊侃の第三子。侯景伝では『羊鯤』。建康陥落後、陽平に逃れていたが、景の呼びかけに応じて建康に戻った)も庫真都督として非常に厚遇していた。景が敗れると、鵾は景の側近の王元礼・謝葳蕤謝答仁の弟)と共に一計を案じ、その東走に付き従った。
 景は海に出ると、蒙山【魏書地形志曰く、東安郡の新泰県(泰山の東南)に蒙山がある。景は海路山東に赴き、再び華北に入ろうとしたのである】に進路を取った。
 己卯(乙卯の誤り。4月18日)、景は疲れから昼寝をした。その時、鵾は海師【海路に周知した者】(船頭)にこう言った。
「この海のどこに蒙山がある! お前は黙ってわしの指示に従え。」
 かくて進路を京口(南徐州)に取らせた。胡豆洲(梁56侯景伝では『壺豆洲』)に到った時、景は目を覚ました。〔景は眼前の景色が眠る前に通った場所のように感じ、〕大いに驚いて岸壁の上にいた人に〔ここはどこかと尋ねた。人が胡豆洲だと答えると景は大いに怒ったが、人が次の言葉を言うと、〕大いに喜んだ。
「郭元建がまだ広陵にいるので、〔危ないですよ〕。」
 景はそこで元建を頼ろうと考え、海師に広陵に向かうよう指示した。その時、鵾が刀を抜き放って海師に京口に向かうよう脅し【考異曰く、典略には『船頭の李横文が景を欺いて南徐州に向かわせた』とある。今は梁書の記述に従った】、それから王元礼・謝葳蕤と共に景にこう言った。
「我らは百戦して百勝し、まさに無敵でありましたのに、結局このようなザマとなりました。これは、天意でなくてなんでありましょうか。我らはその天意に従い、王の首を貰い受けて富貴を得ようと思います。」
〔突然のことに〕景がまだ何も言えないでいる内に、白刃は次々と振り下ろされた。景は水中に逃げようとしたが、鵾に斬られて果たせなかった。景はそこで船倉に走り、小刀(通鑑では『佩刀』)で船底に穴を開け、そこから水中に逃れようとした。その時、鵾が矟を用いて景を刺し殺した(享年50。548年に侯景が上奏した文章に『行年四十六』とある《梁39羊鵾伝》
 尚書右僕射の索超世王偉と共に台城の守備を任された。552年〈1〉参照)はこのとき景とは別の船に乗っており、景が殺されたことを知らなかった。葳蕤はそこで景の命令と偽って超世を呼びつけ、やってきた所を捕らえた《南63羊鵾伝》。南徐州刺史の徐嗣徽は超世の首を斬り【王偉・索超世は景の参謀だった】、景の腹中に五斗の塩を〔腐敗防止のために〕詰めて建康に送った。

 侯景が敗れる前、〔建康に〕僧通という法名の僧侶がいた。狂人のような性格をしており、俗人と同じように酒を飲み肉を食らった。数十年も生きているのに、誰もその本当の姓名や郷里を知らなかった。その予言は初め意味が分からず、暫くしてから的中した事が分かるものだった。人々はみな彼の事を『闍梨』(弟子たちの模範となる高僧の敬称)と呼んで〔尊び〕、侯景も非常に信じ敬った。
 景が後堂にて家臣と共に競射した時、僧通は景の弓を奪って景陽山(劉宋の元嘉二十三年〈446〉に華林園に築かれた)を射、こう叫んだ。
「奴を得たり!」(景陽山に『景』がある事から、侯景がいずれ仕留められる事を指すか
 景はのち、家臣たちと共に宴会をすると、また僧通を呼んだ。このとき僧通は肉を塩まみれにして景に進め、こう言った。
「お口に合いましたでしょうか?」
 景は答えて言った。
「塩が多すぎたのが残念だな。」
 僧通は言った。
「塩が無ければ腐ってしまいます。」
 果たしてその言葉通りになったのだった。

 僧弁は景の首を江陵に送り、両手を葳蕤に与えて(出典不明)北斉に届けさせた。
 屍は建康の市場に晒され、士民の争って食する所となった。溧陽公主簡文帝の娘。父や兄弟を侯景に殺され、更に自身も妾とされて陵辱を受けていた)もその行列に参加して景の肉を食べた【考異曰く、典略には『更に溧陽公主も煮て殺した』とある(この場合、享年不明。李商隠の詩には『溧陽公主十四歳』として、侯景に嫁いだ時十四だったとしているが、典拠は不明であり、恐らく『若かった』という意味の『十四歳』だと思われる)。今は南史の記述に従った(南史演義では『侯景の妃たちはみな斬られ、溧陽公主も斬られた』とある。南北史演義では『景の陽物(男性器)を渡され、それを食べた』とある】。景の骨は灰になるまで焼かれた。景に何かしら被害を受けていた者たちはこれを酒に混ぜて飲んだ。
 景は身長七尺に満たず、胴長短足で、整った容姿を持ち、額は広く頬骨は高く、赤ら顔で髭薄く、眼は下を向いてしばしば左右に揺れ動き、声はしわがれていた。識者は言った。
「しわがれ声は豺狼の声である。故に、人を食い、また人に食われる所となろう。」
〔果たして、その予言の通りになったのだった。〕

 これより前、北斉に残された景の妻子は文宣帝高洋)の兄の高澄によって顔を剥ぎ取られたのち、大量の油が入った大鉄釜に投げ込まれて煎殺されていた。また、娘たちは宮中に入れて下女とされ、三歳以下の四子(出典不明)はみな生殖器を切り取られていた。のち、文宣帝は夢に獼猴()が玉座に座った夢を見て〔不快になり(猴に『侯』の字が入っているからか)、〕四子をことごとく煮殺した。

○梁39羊鵾伝
〔第三子〕鵾字子鵬。隨侃臺內,城陷,竄於陽平,侯景〔以其妹為小妻,〕呼還,待之甚厚。及景敗,鵾密圖之,乃隨其東走。景於松江戰敗,惟餘三舸,下海欲向蒙山。會景倦晝寢,鵾語海師:「此中何處有蒙山!汝但聽我處分。」遂直向京口。至胡豆洲,景覺,大驚,問岸上人,云「郭元建猶在廣陵」,景大喜,將依之。鵾拔刀叱海師,使向京口。〔鵾與王元禮、謝答仁弟葳蕤,並景之昵也,三人謂景曰:「我等為王百戰百勝,自謂無敵,卒至於此,豈非天乎。今就王乞頭以取富貴。」〕景欲透水,鵾抽刀斫之,景乃走入船中,以小刀抉船,鵾以矟入刺殺之。〔景僕射索超世在別船,葳蕤以景命召之,斬于京口。
○梁56侯景伝
 景不能制,乃與腹心數十人單舸走,推墮二子於水,自滬瀆入海。至壺豆洲,前太子舍人羊鯤殺之,送屍于王僧辯。傳首西臺。曝屍於建康巿,百姓爭取屠膾噉食〔盡,并溧陽主亦預食例〕,焚骨揚灰。曾罹其禍者,乃以灰和酒飲之。及景首至江陵,世祖命梟之於巿〔三日〕,然後煑而漆之,付武庫。
〔…景長不滿七尺,長上短下,眉目疏秀,廣顙高顴,色赤少鬢,低眡屢顧,聲散,識者曰:「此謂豺狼之聲,故能食人,亦當為人所食。」既南奔,魏相高澄悉命先剝景妻子面皮,以大鐵鑊盛油煎殺之。女以入宮為婢,男三歲者並下蠶室。後齊文宣夢獼猴坐御牀,乃並煮景子於鑊,其子之在北者殲焉。〕
 …及景將敗,有僧通道人者,意性若狂,飲酒噉肉,不異凡等,世間遊行已數十載,姓名鄉里,人莫能知。初言隱伏,久乃方驗,人並呼為闍梨,景甚信敬之。景嘗於後堂與其徒共射,時僧通在坐,奪景弓射景陽山,大呼云「得奴已」。景後又宴集其黨,又召僧通,僧通取肉搵鹽以進景。問曰:「好不?」景答:「所恨太鹹。」僧通曰:「不鹹則爛臭。」〔及景死,僧辯截其二手送齊文宣,傳首江陵,〕果以鹽〔五斗〕封(置)其屍(腹中)。

●残党平定
 侯瑱が銭塘に兵を向けると、趙伯超・謝答仁・呂子栄新安の程霊洗を攻めた。552年〈1〉参照)らはみな降伏した(銭塘を攻撃していた?陳9侯瑱伝。瑱は田遷らと共に建康に送った《出典不明》。伯超は僧弁に会うとこう言った。
「殿、どうか私をお救いください。」(南80趙伯超伝
「趙公、あなたは国から大恩を受けながら逆賊に与しました。もはや某にはどうすることもできません。」
 かくて江陵に送った。
 僧弁は更に謝答仁にこう言った。
「聞く所によると、卿は侯景軍の梟将(猛将)であるとか。卿と戦えなかったのが残念です。」
 答仁は答えて言った。
「公の武勇は天下一。敵となれる者がどこにおりましょうか。」
 僧弁はこれを聞くと大いに笑った(南80趙伯超伝)。
 伯超が連行されていった後、僧弁は座客を顧みて言った。
「朝廷は昔、ただ趙伯超だけを知るのみで、私の事は知らなかった。しかしいざ国家が危機に瀕すると、これを救ったのは私だった。人の将来は予測のつかぬものだ。」
 賓客たちはみな僧弁の前に進み出てその大功と恩徳を褒め称えた。僧弁はそこで自分が調子に乗りすぎていたことに気付き、慌ててこう取り繕って言った。
「これも全ては聖上()が威徳を以て諸将を奮い立たせたから成せたことで、この老いぼれは何もしておらぬ。」
 かくて侯景の乱の平定は成った《梁45王僧弁伝》。僧弁は市場にて房世貴を斬首し《南80侯景伝》王偉・呂季略侯景の爪牙の一人。王偉と共に台城の守備を任された。552年〈1〉参照)・周石珍もと梁の制局監。侯景が叛乱を起こした時、除くべき君側の奸の一人に挙げられた。台城が陥ちると景の統治を積極的に支えた。551年〈4〉参照)・厳亶もと梁の内監。台城が陥ちると景の統治を積極的に支えた。551年〈1〉参照)・伏知命もと梁の邵陵府記室。台城が陥ちると景の統治を積極的に支えた。551年〈1〉参照)らを江陵に送った(なぜ房世貴だけ斬ったのかは不明《出典不明》

 また、羊鵾を持節・通直散騎常侍・都督青冀二州諸軍事・明威将軍・青州刺史・領東陽太守・昌国県公(邑二千戸。《南史》では侯)とし、銭五百万・米五千石・布と絹各千疋を褒美として与えた。

 丁巳(20日)湘東王繹が戒厳令を解除した《梁元帝紀》
 乙丑(28日)簡文帝を荘陵に埋葬し、廟号を太宗とした《梁簡文紀》

 これより前、侯景は建康から脱出する時、伝国の玉璽を侍中・兼平原太守の趙思賢に手渡してこう言っていた。
「わしが死んだら長江に沈めて、呉児どもの手に渡さぬようにせよ。」
 思賢は玉璽を従者に持たせ、京口より長江を渡って〔広陵に向かった。〕その道中盗賊に遭うと、従者は玉璽を近くの草むらに捨てた《出典不明》。広陵に着いてから郭元建にそのことを伝えると、元建はその場所に行って玉璽を手に入れ、〔広陵を接収しにやってきた北斉の東南道行台の〕辛術に渡した《北斉38辛術伝》
 壬申(5月5日?)、術はこれを自ら鄴に送り届けた。

 甲申(5月17日?)、北斉が吏部尚書の楊愔字は遵彦。名門楊氏の生き残り。550年〈3〉参照)を右僕射とした《北斉文宣紀》。愔はまた太原長公主文宣帝の父・高歓の次女。551年〈4〉参照)を妻とした。長公主はもと東魏の孝静帝元善見。文宣帝に禅譲したのち毒殺された。551年〈4〉参照)の后である《北斉34楊愔伝》

○梁39羊鵾伝
 世祖以鵾為持節、通直散騎常侍、都督青冀二州諸軍事、明威將軍、青州刺史,封昌國縣公(侯),邑二千戶,賜錢五百萬,米五千石,布絹各一千匹,又領東陽太守。

●禍敗久しからず
 湘東王繹は侯景の乱を平定すると、〔名医の〕姚僧垣を荊州に呼び、晋安王府諮議とした。当時、繹は大乱は平定したものの、人事はめちゃくちゃで、無軌道な政治を行なっていた。僧垣はこれを非常に憂い、旧友にこう言った。
「今の形勢を見るに、禍敗は遠からず訪れるだろう。今一番採るべき策は、家に閉じこもって〔政治に関わらない事だ〕。」
 これを聞いた者たちはみな口を覆ってくすくすと笑って〔馬鹿にした〕。

○周47姚僧垣伝
 梁元帝平侯景,召僧垣赴荊州,改授晉安王府諮議。其時雖剋平大亂,而任用非才,朝政混淆,無復綱紀。僧垣每深憂之。謂故人曰:「吾觀此形勢,禍敗不久。今時上策,莫若近關〔[八]今時上策莫若近關 冊府明本卷七九六 九四六二頁「近關」作「杜門」,宋本作「近門」。按「近關」不可解,疑「近」是「閉」之訛〕。」聞者皆掩口竊笑。

 
 552年(3)に続く