[西魏:廃帝元年 北斉:天保三年 侯漢:太始二年 梁(湘東王繹):太清六年→承聖元年 梁(武陵王紀):天正元年]

●王褒の登場
 春、正月、〔梁の侍中・使持節・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒・荊州刺史・承制の〕湘東王繹が智武将軍・南平内史の王褒を吏部尚書・侍中とした《梁元帝紀》
 王褒は字を子淵といい、琅邪臨沂の人である。
 代々江東にて盛名を馳せた家の生まれであり、博学多識の美男子で、話術に長けたが、特に詩文を得意とした。梁の武帝は褒の才能を認め、弟の鄱陽王恢の娘を嫁がせた。
 初任は秘書郎で、のち太子舍人となり、次第に昇進して安成(江州の約三百キロ南)太守となった。のち、侯景が乱を起こすと、〔上司の〕江州刺史の尋陽王大心はこれに降ったが、褒は郡城に拠ってなおも抵抗を続けた。
 大宝二年(551)、繹が王僧弁に迎えに派してくると、家族と共に江陵に赴いた。繹は褒と親友だったので、会うと大いに喜んだ。智武将軍・南平内史とされた《梁41王褒伝・周41王褒伝》
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 ⑴湘東王繹...字は世誠。武帝の第七子。生年508、時に44歳。幼い頃に片目を失明した。文才に優れたが、性格は陰険なものがあった。侯景の乱が起こると荊州に割拠し、反侯景の最大勢力となった。551年(3)参照。
 ⑵侯景...字は万景。生年503(548年に武帝に上奏した記述に拠る)、時に50歳。もと東魏の名将だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこでも叛乱を起こして都の建康を陥とし、皇帝の位に即いて漢を建国した。551年(4)参照。
 ⑶王僧弁...字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。侯景の乱が起こると、湘東王繹の命に従って湘州の河東王誉と郢州の邵陵王綸を討った。のち、侯景の大軍から巴陵を守り切り、破竹の進撃を行なって建康に迫った。551年(4)参照。

●侯景、合肥を攻撃

 これより前、北斉はしばしば侯景の領土に侵攻していた。景は湘東王繹の東進に乗じて北斉が侵攻してくるのを恐れ、その前に北斉を撃ち、余力があることを示してこれを抑止しようとした。
 甲戌(5日)出典不明〉、景は〔総江北諸軍事・北道行台・大尉・南兗州(広陵)刺史の〕郭元建景が簡文帝を廃したのを非難した。551年〈4〉参照)と侯子鑑呉興の攻略・広陵の平定に貢献した。551年〈4〉参照)に北斉領の合肥(合州)を攻撃するよう命じた。
 郭元建はそこで陸路小峴山【合肥の東】(建康の約70キロ西)から、侯子鑑は水路濡須口(建康の約100キロ西南)からそれぞれ合肥に向かった。
 己卯(10日)出典不明〉、元建らは合肥に到った。
 元建らは羅城(外城)を攻めてこれを陥としたが、間もなく繹の軍が進撃を開始したのを聞くと(2月)、合肥の住民の住居を焼き払ったのち撤退し、子鑑は姑孰の守備に就き、元建は広陵に帰還した(通鑑では『元建らは合肥に到ったが、北斉軍が出撃してこなかったため撤退した』とだけある《梁56侯景伝》

●北斉の庫莫奚討伐と奇才・唐邕
 丙申(27日)、北斉の文宣帝高洋、時に27歳)が庫莫奚族の討伐に赴き、代郡においてこれを大破した。北斉は四千人の捕虜(出典不明)と家畜十余万頭を得た。帝は捕虜を山東の各地に強制移住させた《北斉文宣紀》

 帝は連年北辺に軍事行動を行なったが、その際常に連れて行ったのが給事中・兼中書舍人(北55唐邕伝)の唐邕字は道和。記憶力抜群の能吏。549年〈6〉参照)だった。唐邕は人並み外れた理解力を持っており、督将から軍吏に至るまで、誰がどのような功績を挙げてきたか全て把握していた。また、軍隊の移動の状況、各地の兵力・兵器・兵糧の充実具合なども全て把握していた。ある時、帝が観閲式を行なった時、邕は名簿無しで数千人の兵士たち全ての官位姓名を言い当てることができた。
 天保七年(556年)、帝が羊汾堤にて兵の訓練を行なった時、邕はその総指揮を任され、それが済むと今度は宴射の礼の幹事を任された。この日、帝は邕の手を取って婁太后の前に連れて行き、丞相の斛律金字は阿六敦。高歓の盟友。550年〈3〉参照)よりも上座に座らせ、太后にこう言った。
「唐邕の敏腕は、千人に匹敵します。」
 かくて邕に錦綵銭帛を与えた。
 邕は事務能力に優れていただけでなく、帝の意思を上手に汲み取ることもできたため、日に日に気に入られ、重要な職務を任されるようになった。ある時、帝は邕の面前で太后にこう言ったことがあった。
「唐邕は判断力・記憶力に優れ、軍務を処理する際、文書を書くこと、命令を言うこと、報告を聞くことを同時に行なうことができます。まさに天下の奇才であります。」
 かくて一日の間に六度も邕に下賜を行なった。群臣の中で、邕以上の待遇を受けたものはいなかった《北斉40唐邕伝》

○北斉17斛律金伝
 帝征奚賊,金從帝行。軍還,帝幸肆州,與金宴射而去。
○北斉41皮景和伝
 後從襲庫莫奚,加左右大都督。
○北斉41元景安伝
 三年,從破庫莫奚於代川,轉領左右大都督,餘官並如故。

●西魏、魏興を攻略

 西魏の大将軍の王雄字は胡布頭。十二大将軍の一人。551年〈4〉参照)が梁の上津(南洛州)・魏興(東梁州)に侵攻した。
 この春《周文帝紀》、〔持節・信武将軍・散騎常侍・都督東梁洵興等七州諸軍事・〕東梁州(安康→548年魏興)刺史で安康の人の李遷哲字は孝彦。生年510、時に43歳。豪族の家の生まれ)は敗れて降伏した(周44李遷哲伝では『達奚武に降った』とあるが、武は漢中を攻めていて魏興に赴いた形跡は無い。恐らく王雄の間違いであろう。或いは漢中付近に逃走した末の降伏だったのかもしれない)。しかしなおも意気軒昂として屈する様子を見せなかったため、長安に送られた。西魏の太師の宇文泰字は黒獺。時に46歳)は遷哲にこう言った。
「どうして戦う前に帰順せず、いたずらに官軍を疲れさせたのか。捕虜となったのを恥ずかしいとは思わないのか。」
 遷哲は答えて言った。
「私は代々梁の恩を受けてきた者。なのに、その御恩に功を立てて報いることも、死んで節義を全うすることもできませんでした。恥じるのは、その二点だけであります。」
 泰はその心意気を気に入り、即座に遷哲を使持節・車騎大将軍・散騎常侍・沌陽県伯(邑千戸)とした《周44李遷哲伝》

 この時、梁の南洛北司二州刺史で上甲の人の扶猛字は宗略)は西魏に対して密かに兵糧を送りはしたものの、天険を恃みに降ることはせず、自立を維持した。

 扶猛、字は宗略は、上甲黄土(? 江州柴桑の東?)の人である。代々白虎蛮という集落の酋長を務めた家系に生まれた。大同年間(535~546)に直後(侍衛官)から持節・厲鋒将軍・青州刺史となり、のち上庸新城二郡守・南洛北司二州刺史・宕渠県男となった。侯景が乱を起こすと自衛に専念して中央の争いに加わらず、一帯に割拠した《周44扶猛伝》

 西魏は魏興に東梁州を、上津に南洛州をそのまま置き、今次の戦いに参加して功を立てていた開府儀同三司・三荊二廣南雍平信江隨二郢淅等十三州諸軍事・行荊州刺史の泉仲遵549年〈6〉参照)を南洛州刺史とした《周44泉中遵伝》

〔東梁州の攻略が終わると、王雄は長安に帰還した。開府儀同三司の宇文虬字は楽仁。独孤信の部将として多くの戦いに参加し活躍した)は漢中方面軍の応援に向かった。〕

●頭兵可汗の死
 この月北斉文宣紀では『二月』)、突厥部酋長の阿史那土門ブミン、トゥメン。突厥を強盛に導いた。去年柔然に婚姻を求めたが拒否されたため、断交していた。551年〈3〉参照)が柔然を襲撃し、懐荒(北京の西北約二百里)の北において大破した《周文帝紀》
 柔然の頭兵可汗郁久閭阿那瑰。521年より柔然の酋長を務めた。551年〈3〉参照)は自殺し、その太子の菴羅辰と従弟の登注俟利俟利は柔然の官名。一方の軍政を司る。周文帝紀では叔父で、表記も『鄧叔』となっている)、登注の子の庫提らは残兵を伴って北斉に亡命した。北方に残った者たちは登注の次子の鉄伐を可汗とした《北斉文宣紀》


 土門は自らを伊利可汗イリグ・ハーン)と称し《周文帝紀》、妻を可賀敦(ハートゥン)と称し、可汗の子弟を特勤(テギン)と称し、可汗とは別に部衆を率いる特勤を設(シャド)と称した。官職は葉護(ヤブグ)・屈律啜(キュルチュル・キョリチュル)・阿波(アパ)・俟利発(イルテベル)・吐屯(トゥドゥン)・俟斤(イルキン)・閻洪達・頡利発(イルテベル)・達干(タルカン)など二十八等に分かれており、どれも代々受け継いでいくもので、員数に限りは無かった《新唐215上突厥伝》

●王僧弁と陳覇先の合流



 この月、〔梁の使持節・都督会稽東陽新安臨海永嘉五郡諸軍事・平東将軍・東揚州刺史・領会稽太守,豫章内史の〕陳覇先字は興国。時に50歳。交州の乱の平定に活躍し、一昨年、嶺南の地から北伐を開始した。551年〈3〉参照)が強弩五千張を装備した三万(梁45王僧弁伝では『五万』)の兵を二千の艦船に乗せ、豫章(侯景の部将の王伯醜が守備していたが、覇先の部将の周文育字は景徳。陳覇先自慢の猛将。551年(3)参照〉が追い払った)を発って南江【贛水。彭沢県を通って西から彭蠡湖に注ぐ】を遡上した(梁45王僧弁伝《陳武帝紀》

 梁の湘東王繹が〔侍中・征東将軍・開府儀同三司・江州刺史・尚書令の〕王僧弁らに東伐を命じた。
 2月、庚子(2日)、僧弁が諸軍を率いて尋陽(江州)を発った。その艦船は数百里に渡って続いた。
 この月陳覇先が桑落洲【長江の小島で、湓城(江州)の東北にある。杜佑曰く、桑落洲は江州の都昌県(江州の東南約五十キロ)にある。都昌県は漢の彭沢県である】(『元和郡県志』曰く、もと漢の皖県だった宿松県から南百九十里の地点にある。鄂陵より九つに分かれた川はここにて一つとなる。故にこの地を九江江口という)に到り(陳武帝紀)、白茅湾【桑落洲の西にある】(梁45王僧弁伝では『白茅洲』)にて僧弁軍と合流した。二人は祭壇を築いて〔白馬の〕血を啜り合い、頬を涙で濡らしながら語気強く誓約書を読み上げた《梁45王僧弁伝》

 覇先は白茅湾に到ると、中記室参軍の江元礼を江陵に派して(陳武帝紀湘東王繹に上表文を奉り、王僧弁に軍事について論じた書簡を送ったが、その文章はどちらも趙知礼が作製したものだった。
 趙知礼は、字を斉旦といい、天水隴西の人である。父の趙孝穆は梁の候官(晋安、今の福州)令となった。
 知礼は相当な読書家で、巧みな字を書いた。陳の武帝元景仲を討った時(549年〈5〉参照)、ある者に推挙されて帝の記室参軍とされた。知礼は文章を作るのが速く、〔帝が〕軍書(檄文など)の内容を述べると、知礼はたちどころにそれを立派な文章に仕立て上げた。以降、非常に信任され、常に帝の傍に近侍し、そのはかりごとの全てに関与した。また、多くの諫言を行なった《陳16趙知礼伝》

●東伐の開始
 癸卯(5日)出典不明〉、僧弁が武臣将軍・南兗州刺史の侯瑱字は伯玉。鄱陽王範に長く付き従ってきた猛将。侯景の部将の于慶に敗れて投降したが、のち湘東王繹に付いた。その際、景に家族を皆殺しにされた。551年〈3〉参照)に精鋭と軽舸(快速船)を与え、南陵(『通典』曰く、漢の宣城県があった地。梁はここに南陵郡を置き、陳はここに北江州を置いた)・鵲頭(南陵郡南陵県〈漢の春穀県があった地〉の西百十里にある)の攻略を命じた。この時、陳覇先も〔東揚州長史の〕杜僧明字は弘照。陳覇先自慢の猛将。551年〈3〉参照)と〔義州刺史の〕周文育を先鋒として進軍させた〈陳8周文育伝〉。侯瑱らの軍が迫ると、二戍はたちどころに陥落した《梁45王僧弁伝》
 戊申(10日)出典不明〉、僧弁軍が大雷(『元和郡県志』曰く、大雷池は、宿松県から東南に流れる川(雷水)の水が溜まってできた池である。東晋はこの地に大雷戌を置き、長江防衛の要とした)に到った《陳武帝紀》
 丙辰(18日)出典不明〉、鵲頭を発った《南63王僧弁伝》
 戊午(20日)出典不明〉、侯子鑑が〔合肥より〕帰還し、戦鳥山【杜佑曰く、宣州の南陵県に戦鳥山がある。ぽつねんと江中に〔飛び出て〕あることから、もともと孤圻と呼ばれていた。昔、桓温が赭圻(濡須口の対岸)の賊徒の討伐をしに山下に赴いた際、夜中に鳥の群れが驚いて飛び立った。賊はこれを見て官軍がやってきたと思い、瞬時に四散した。この故事から、戦鳥山と呼ばれるようになったのである】(明地理志曰く、蕪湖〈姑孰と鵲頭の中間〉の西南にある)に到った。子鑑はそこで西軍がやってきたのを知ると、仰天し、急いで淮南(姑孰)に逃げ帰った《出典不明》

●劉神茂降る
 漢の儀同三司の謝答仁叛乱を起こした劉神茂の討伐を命じられ、12月8日に建徳を守備していた元頵らを撃破して捕らえた。551年〈4〉参照)が東陽の劉神茂もと侯景が東魏に敗れて寄る辺を失っていた時、これを寿陽に導いた。のち景によって東道行台とされたが、景が巴陵にて敗走すると湘東王繹に寝返った。551年〈4〉参照)を攻めた《南80侯景伝》。兼新安太守の程霊洗字は玄滌。劉神茂が侯景に叛くと、呼応して新安を陥とした。551年〈4〉参照)・張彪550年に会稽の若邪山にて侯景に対して兵を挙げた。551年〈4〉参照)は神茂を救いに行こうとしたが、神茂は戦功の独占を目論んでこれを拒否し、一人、下淮()に陣を布いた。このとき、ある者が神茂にこう言った。
「賊は野戦に長じておりますゆえ、平地の下淮では不利です。〔地勢の険しい〕七里瀬【桐廬県にあり、建徳から四十余里離れた所にある。厳陵瀬と接している】(『元和郡県志』曰く、建徳県の東北十里の地にある)に陣を布けば、賊はきっと攻めあぐねるでありましょう。」
 神茂はこれを聞き入れなかった。このとき、神茂の部将の大半を占めていたのは北人であり、彼らは神茂に従うふりだけをしていた《出典不明》。〔果たして討伐軍がやってくると、〕別将の王曄神茂と共に侯景に叛乱を起こした。551年〈4〉参照)・酈通は真っ先に降伏し、劉帰義・尹思合神茂と共に侯景に叛乱を起こした。551年〈4〉参照)らは城を放棄して逃走した。
 辛未(?)出典不明〉、孤立した神茂は敗北を悟り、降伏した。答仁はこれを建康に送った《梁56侯景伝》
 景の偏帥の呂子栄が新安に侵攻してくると、霊洗は〔西方の〕黟・歙県(海寧付近)に退き、守りを固めた《陳10程霊洗伝》

●南洲の戦い
 癸酉(?)出典不明〉、僧弁軍が蕪湖(鵲頭の東北約五十キロ)に到った。城主の張黒陳武帝紀)は夜陰に紛れて逃走した《梁56侯景伝》。景はこれを聞くと非常に恐懼し、湘東王繹と王僧弁の罪を赦す詔を下し〔て和睦を図っ〕た。人々はこれを聞くと嘲笑した《出典不明》
 侯子鑑は姑孰の南洲にて僧弁軍を迎え撃った。景は史安和侯景の爪牙の一人。549年〈6〉参照)・宋長貴に二千の兵を付け、その助勢に赴かせた。また、〔劉神茂の討伐に赴いていた〕田遷侯景が東魏と渦陽にて戦った際、斛律光の馬に二度も矢を射当てた。のち、趙伯超と共に張彪を撃退した。551年〈4〉参照)らを建康に呼び戻した。
 3月、己巳朔(1日)南80侯景伝〉、景は姑孰に赴き、自ら陣地を視察したのち、子鑑にこう警告した(通鑑では『景は親征を行なう詔を下すと共に、使者を派して子鑑にこう警告した』とある)。
「西人は水戦に慣れておるゆえ、水上で戦ってはならぬ。去年、任約が敗れたのはまさに水戦によってであった【任約が敗れた以外に、景自身も梁将の徐文盛と水戦をして敗れている(551年〈1〉参照)。故に水戦を恐れたのである】。〔だが、得意の〕陸戦に持ち込めれば必ず勝てる。ゆえに、お前は船を港に入れ、陸上に陣を布いて敵を待ち受けるのだ。」
 そう言い終えると、建康に引き返した(南北史演義)。
 子鑑はそこで艦船から下りて陸に上がり、砦に立て籠った。僧弁は〔これを見ると〕十余日も進軍を停止した。子鑑らは〔これを聞くと〕大いに喜び、景にこう告げ知らせた。
「西軍は我らの強さにおののき、遁走しようとしております。いま攻撃をかけねば好機を逸してしまいましょう。」
 景はそこで子鑑に水戦の準備をさせた。
 丁丑(9日)出典不明〉、子鑑は一万の兵を率いて南洲に渡り、岸辺から挑戦すると共に《梁56侯景伝》、鵃[舟了](チョウリョウ)船[1]⑴千艘に兵士を載せて僧弁軍に攻撃をかけた。この船の漕ぎ手は〔その道に達者な〕越人が用いられ、両舷には八十もの棹が備えられていたため、風電の如き速さを誇った。
 僧弁はこれを見ると全ての小船に退くよう下知を下した。一方で、大艦は左右に散らせて両岸に留まらせた。子鑑の兵は退く小船を見ると僧弁軍が退却しようとしていると思い、争ってこれを追った。その時、僧弁軍の大艦が素早くその背後に進んで退路を断ち、攻撃をかけた。小船もぐるりと向きを変え、陣太鼓を打ち鳴らし、閧の声を上げながら子鑑軍を攻撃した。挟撃を受けた子鑑軍は大敗し、長江に溺れ死んだ者は数千人(出典不明)に及んだ《梁45王僧弁伝》
 子鑑はほうほうのていで逃れ、残兵を収容しながら建康に帰り、東府城の守備に就いた。
 この時、梁の諸将は一旦休息することを求めた。すると僧弁はこう言った。
「賊どもは肝を潰しておる! この機を逃さず急追せよ!」(南史演義)
 かくて虎臣将軍の荘丘恵達もと邵陵王綸の司馬。鍾山の戦いで侯景に敗れ、捕らえられた。548年〈4〉参照)に姑孰の守備を任せると、鎧も解かず、麾下の兵を率いて直ちに進軍を始めた。諸将がこれに続くと(南史演義)、歷陽(姑孰の西北)は風を望んで降伏した《出典不明》
 景は子鑑が敗れたことを知ると大いに恐れ、涙で顔をくしゃくしゃにし、布団にくるまった。それから暫くしてようやく起き上がると、嘆息してこう言った。
「ああ!ああ!(南80侯景伝) 天、誤ってわしを殺せり!」《梁56侯景伝》

 [1]鵃[舟了](チョウリョウ)船…類篇曰く、全長が長い船のことである。玉篇曰く、小船のことである。胡三省曰く、恐らく、現在の水哨馬(快速艇)に当たるものだろう。考異曰く、典略には『烏鵲舫(カササギ船)』とある。今は梁書の記述に従った。
 ⑴《太平寰宇記》泉州風俗曰く、『船首と船尾が尖って高く、真ん中が平らで、荒波にも動じない船を了鳥船と呼ぶ。

●上陸

 庚辰(12日)出典不明〉、僧弁軍が張公洲【蔡洲(建康の直近にある長江の小島】に到った【考異曰く、典略は『戊寅(10日』の事とする。今は太清紀の記述に従った《梁56侯景伝》
 景は石頭城の烽火楼(南80侯景伝)に登って官軍の盛んさを眺めると、実際よりも十倍の数に見えて不安を覚えたが、強がってこう言った。
「あのような小勢、物の数ではないわ。」
 しかし、周囲の者には密かにこう弱音を吐いた。
「彼奴らの軍の上には紫気(帝王の気)が立ち上っておる。並の相手ではないぞ。」《南史陳武帝紀》
〔これより前、〕景は盧暉略侯景の爪牙の一人。江州の守備を任されたが、僧弁に敗れた。551年〈3〉参照)に石頭城の、〔太子太傅の〕紇奚斤551年〈1〉参照)に捍国城(景が朱雀大航の両岸に築いた城。551年〈1〉参照)の守備を命じていた。また、住民と兵士の家族を尽く台城の中に入れて〔人質にしていた〕。また、石頭津主の張賓を呼んで、秦淮河に在った大小の艦船に石を詰めて沈ませ、秦淮河の入り口を塞いでいた。また、石頭から朱雀航(陳武帝紀では『青溪』、通鑑では『朱雀街』)に到る秦淮河沿いの十余里に長城を築いた。
 辛巳(13日)、〔東揚州長史の〕杜僧明の部隊が水門の大艦を焼き払うと(陳8杜僧明伝。梁56侯景伝にも『水柵を焼いて』とある)、僧弁軍は満潮(満潮の時には川が逆流することもあるという)に乗じて秦淮河に入り、禅霊寺(南斉の武帝が489年に建てた。建康の西南にある。台城の戦いの際、侯景がこの門楼に登って救援軍の様子を偵察した。549年〈1〉参照)渚にまで到った。
 しかし、ここからの攻め方について諸将の内から良案が出なかったため、僧弁は〔武州刺史の〕杜崱551年〈2〉参照)を派して陳覇先に策を尋ねた。すると覇先はこう言った。
「以前、柳仲礼551年〈1〉参照)は数十万の大軍を率いて台城の難を救おうとしましたが、結局、韋粲が青溪にて敗死した時を除き(549年〈1〉参照)、最後まで自ら渡河しようとはしませんでした。その結果、救援軍の一挙一動は、高所に陣取る敵から筒抜けとなり、何をやっても失敗し、結局降伏する羽目に陥ったのです。今、我らが為すべきことは石頭城(高所にある)を包囲する事です。そのためには、必ず秦淮河を渡らねばなりません。諸将が怖がって行かぬのなら、それがしが先陣を切って橋頭堡を築いてご覧にいれましょう。」
 壬午(14日)、覇先は〔秦淮河を渡河し、〕石頭城の西の落星山に砦を築いた【考異曰く、陳書には『横隴立柵』とある。今は典略の記述に従った】。僧弁はこれを知ると諸軍を率いて後に続き、長江に沿って八城を築きながら石頭城の西北(出典不明。陳武帝紀では『東北』。梁56侯景伝では『落星墩〈墩は『土の山』の意。落星山に同じ〉』、梁45王僧弁伝では『石頭の斗城』に到ったとある)に到った。景は石頭城〜西州城(建康城の西にある城)〜建康の連絡が断たれるのを恐れ、侯子鑑・于慶・史安和・王僧貴らを率いて石頭城の東北の果林に五城を築き(梁45王僧弁伝には横嶺上に五城を築いたとある。果林は小高い地形だったのだろう)、その進路を塞いだ。また、王偉侯景の軍師)・索超世・呂季略に台城を、宋長貴に延祚寺(建康城内西北にある?)を守備させた。また、王僧弁の父(王神念)の墓を暴き、その屍を焼き払わせた。

○資治通鑑
 庚辰,僧辯督諸軍至張公洲,〔《考異》曰:《典略》作「戊寅」。今從《太清紀》。〕辛巳,乘潮入淮,進至禪靈寺前。〔禪靈寺,齊武帝所建。〕景召石頭津主張賓,使引淮中舣䑰及海艟,〔《方言》:船短而深謂之䑰。〕以石縋之,塞淮口;緣淮作城,自石頭至於朱雀街,十餘里中,樓堞相接。…壬午,霸先於石頭西落星山築栅,衆軍次連八城,直出石頭西北。
○陳武帝紀
 仍次蔡洲。侯景登石頭城觀望形勢,意甚不悅,謂左右曰:「此軍上有紫氣,不易可當。」乃以䑡䑰貯石沈塞淮口,緣淮作城,自石頭迄青溪十餘里中,樓雉相接。諸將未有所決,僧辯遣杜崱問計於高祖,高祖曰:「前柳仲禮數十萬兵隔水而坐,韋粲之在青溪,竟不渡岸,賊乃登高望之,表裏俱盡,肆其凶虐,覆我王師。今圍石頭,須渡北岸。諸將若不能當鋒,請先往立柵。」高祖即於石頭城西橫隴築柵,眾軍次連八城,直出東北。賊恐西州路斷,亦於東北果林作五城以遏大路。
○梁45王僧弁伝
 僧辯即督諸軍沿流而下,進軍于石頭之斗城,作連營以逼賊。賊乃橫嶺上築五城拒守。
○梁56侯景伝
 僧辯進軍次張公洲。〔至是登烽火樓望西師,看一人以為十人,大懼。〕景以盧暉略守石頭,紇奚斤守捍國城。悉逼百姓及軍士家累入臺城內。僧辯焚景水柵,入淮,至禪靈寺渚,景大驚,乃緣淮立柵,自石頭至朱雀航。僧辯及諸將遂於石頭城西步上連營立柵,至于落星墩。景大恐,自率侯子鑒、于慶、史安和、王僧貴等,於石頭東北立柵拒守。使王偉、索超世、呂季略守臺城,宋長貴守延祚寺。遣掘王僧辯父墓,剖棺焚屍。

●方諸ら殺害
 乙酉(17日)、景が湘東王世子方諸字は知相〈或いは明智〉。繹に江夏の守備を託されていたが、侯景の奇襲に遭って捕らえられた。551年〈1〉参照)と前平東将軍の杜幼安551年〈1〉参照)を殺した(方諸については、その伝に『僧弁軍が蔡洲に到った時』とある)。幼安は郢州が陥落したさい侯景に降伏したが、反復常無い(岳陽王詧から湘東王繹に寝返ったことがある。549年〈6〉参照)のを睨まれ、殺されたのだった《梁46杜幼安伝》

○資治通鑑
 乙酉,景殺湘東王世子方諸、前平東將軍杜幼安。

●劉神茂惨死
 丙戌(18日)出典不明〉、劉神茂の身柄が建康に送られてくると、景は大剉碓(北魏の汝南王悦も使用した刑具。悦は泥棒の手を斬るのに用いた。剉は切り刻むの意、碓は臼、或いは円筒状の物を指す。大舂碓〈臼の中に入れて搗き殺す刑。550年(2)参照〉もある)を用いてこれを殺すよう命じた。神茂は足から頭まで順々に切り刻まれた《南80侯景伝》
〔東陽太守の〕留異もと南郡王大連の配下で東揚州の軍事を一任されたが、侯景軍が攻めてくると降伏し、東陽太守に任じられた。551年〈4〉参照)は神茂の乱に加わっていたが、景に内通していたため、一人処刑を免れた《陳35留異伝》

●決戦
 丁亥(19日)、僧弁軍が招提寺【石頭城の北にある】の北に進軍した。すると侯景は歩兵一万余と鉄騎八百余を引き連れて戦いを挑んだ(通鑑にはこのとき『西州城の西に布陣した』とある)。陳覇先は僧弁にこう言った。
「逆賊侯景は悪逆の限りを尽くし、その罪は死しても余りあるほどでありますから、赦されることは絶対にありません。それは景も重々承知のはず。であれば、追い詰められた此度の戦いでは、必ず死を賭して戦ってくるでしょう。兵法書によりますれば、用兵に優れた者とは、常山の蛇の如く自由自在に軍を動かし、敵を撹乱して力を発揮させないようにする者であるとか(『孫子』九地篇)。今、彼此を顧みますに、我らは多勢、賊徒は無勢であります。であれば、我らはその利を活かし、軍勢を各所に分散して配置し、賊の力を一点に集中させないようにすべきであります。むざむざ敵の主力を集中させて、死力を尽くさせるような事をしてはなりません。」
 僧弁はそこで諸軍を分散して配置した。
 戦いが始まると、景は王僧志の軍が最も弱体と見て(南史演義)、これに真っ先に突撃を仕掛けた。僧志がやや退くと、覇先は〔合州刺史の〕徐度字は孝節。智勇兼備の将。551年〈1〉参照)率いる弩手二千を動かし、景軍の後衛を横ざまに射させた。放たれた矢は必ず景兵の胸を貫き(南史演義)、景兵はこの猛攻に堪らず退却した(梁46杜崱伝では、『両軍は横嶺にて対峙した。景が精鋭を率いて突撃すると、杜崱が嶺の背後よりこれを横ざまに突き、大敗させた』とある)。覇先はこれを見ると、〔宣州刺史の〕王琳字は子珩。兵戸の出身だったが、姉妹が湘東王繹の側室となったことから、重用を受けて将軍とされた。勇猛で東伐に活躍した。551年〈2〉参照)・〔定州刺史の〕杜龕勇猛で指揮にも長じ、東伐に活躍した。551年〈3〉参照)らと共に鉄騎を率いて追撃した。盪主(別将)の戴冕・曹宣覇先の譜代の将)らが果林の一城を攻め陥とすと、僧弁も諸軍を率いて残りの四城を陥とした。しかし、間もなく引き返してきた景軍の必死の反撃に遭い、全ての城を喪った。覇先はこれを知ると激怒し、自ら軍を率いて城を攻め立てた。覇先兵が柵を乗り越えて次々と城に侵入すると、景軍は再び敗走した。景は百余騎と共に矟(馬上槍)を棄て、刀を持って覇先の陣地に突撃したが、覇先の陣は毫も揺らがなかった。ここにおいて景軍は総崩れとなり、僧弁らはこれを追って西明門【建康外城の西の中門】にまで到った。
 盧暉略は景が敗退したのを見ると、石頭城の北門を開けて降伏した《陳武帝紀》。また、捍国城を守備していた紇奚斤も降伏した。

 景の愛馬の白馬は、景が勝つ前には必ず足を踏み鳴らして嘶き、意気軒昂な様を示したが、負ける前には必ず項垂れて前に進もうとしなかった《梁56侯景伝》。この戦いの際、白馬は全く意気沮喪し、うつ伏せになって一歩も動こうとしなかった。景は左右の者を白馬の前に跪かせ、起き上がるよう請わせてみたり、白馬に鞭をくれて無理矢理起き上がらせようとしてみたりしたが、結局最後まで動こうとしなかった《南80侯景伝》景はそこでやむなく馬を替えた《南史演義》
 また、景の左足には亀〔の頭〕のようなコブがあり、景が戦いに勝ったときには飛び出、負けた時には低くなった。この日景が負けると、コブは〔低くなりすぎて〕左足の中に没し、無くなってしまった《南80侯景伝》

○資治通鑑
 丁亥,王僧辯進軍招提寺北。侯景帥衆萬餘人、鐵騎八百餘匹陳於西州之西。
○陳武帝紀
 景率眾萬餘人、鐵騎八百餘匹,結陣而進。高祖曰:「軍志有之,善用兵者,如常山之蛇,首尾相應。今我師既眾,賊徒甚寡,應分賊兵勢,以弱制彊,何故聚其鋒銳,令必死於我?」乃命諸將分處置兵。賊直衝王僧志,僧志小縮,高祖遣徐度領弩手二千橫截其後,賊乃却。高祖與王琳、杜龕等以鐵騎悉力乘之,賊退據其柵。景儀同盧輝略開石頭北門來降。盪主戴冕、曹宣等攻拔果林一城,眾軍又剋其四城。賊復還,殊死戰,又盡奪所得城柵。高祖大怒,親率攻之,士卒騰柵而入,賊復散走。景與百餘騎棄矟執刀,左右衝陣,陣不動,景眾大潰,逐北至西明門。景至闕下,不敢入臺,遣腹心取其二子而遁。高祖率眾出廣陵應接,會景將郭元建奔齊,高祖納其部曲三千人而還。僧辯啟高祖鎮京口。
○梁45王僧弁伝
 侯景自出,與王師大戰於石頭城北。霸先謂僧辯曰:「醜虜遊魂,貫盈已稔,逋誅送死,欲為一決,我眾賊寡,宜分其勢。」即遣強弩二千張攻賊西面兩城,仍使結陣以當賊,僧辯在後麾軍而進,復大破之。盧暉略聞景戰敗,以石頭城降,僧辯引軍入據之。

●逃走
 景は宮門の前に到ったが敢えて中に入らず、宮城の留守を任せていた王偉を呼び出し、こう責めて言った。
「お前が皇帝などに即かせたから、こんな目に遭ったのだ!」
 偉は答えることができなかった〈出典不明〉。景が残兵を集めて逃げようとすると、偉は剣に手をかけ、景の馬の轡を取ってこう諫めて言った。
「古来より、都から逃亡した天子などおりませぬ! 台城にはまだ衛士がおり、一戦するだけの余力はございます!それなのに、 どうして都を捨てようとなどされるのですか!」
 景は答えて言った。
「わしは昔、賀抜勝字は破胡。北魏・西魏に仕えた名将。荊州に赴任した際には梁軍を連破し、西魏に仕えては高歓を追いかけ回し、あと一歩の所まで追い詰めた。544年参照)を江南に逐い(534年〈5〉参照)、葛栄北魏末の群雄の一人。百万の兵を擁したが、爾朱栄に敗北して捕らえられ、処刑された。528年〈5〉参照)の大軍を破り(528年〈5〉参照)、河朔の地にて高王(高歓)と等しい名声を得た。長江を渡ったのちは、たなごころを返すように容易く邵陵王蕭綸。台城の救援に赴いた)を北山(鍾山)に破り(548年〈4〉参照)、柳仲礼猛将。台城の救援に赴いた)を南岸に降し、台城を陥とした(549年3月参照)。これはお前もその目で直に見た事であろう。そのわしが今日、かような惨敗を喫したのは、天がわしを滅ぼそうとしているからに他ならぬ!〔それでは台城に籠ったとて、命運は変わらぬだろう。〕お前は台城を守るが良い。わしはもう一度彼奴らと決戦し、華々しく散るつもりだ。〔どうせ死ぬなら、その方が良かろう。〕」
 景はそう言ったのち、石闕(宮殿の前に建てられた、一対の石柱)を仰ぎ見ると、暫くの間溜め息を漏らした。それから腹心の者を派して、江東にて産ませた二子(最低でも五歳。胡三省は建康を陥としてから産ませた子だとし、それなら四歳になる。華北で産ませた子どもたちは叛乱を起こした時に離ればなれになった)を連れてこさせると、皮袋で包んで鞍の後ろ(出典不明)に掛け、儀同の田遷・范希栄・房世貴出典不明)ら百余騎と共に、謝答仁の守る呉郡に落ちのびた。王偉も台城を放棄して逃亡し、侯子鑑・陳慶出典不明)らは広陵(通鑑では『朱方』)に落ちのびた《梁56侯景伝》

 
 552年(2)に続く