[西魏:大統十六年 東魏:武定八年→北斉:天保元年 梁(侯景):大宝元年 梁(湘東王繹):太清四年]

┃忠臣、なお讒言を受く
 己卯(10月3日)、北斉の文宣帝高洋)が金輅(皇帝用の黄金づくりの馬車)に乗って晋陽宮に入り、内殿にて皇太后(婁昭君)に拝謁した。
 この時、并州刺史の段韶字は孝先。段栄と婁昭君の姉の間に生まれた智勇兼備の将。550年〈3〉参照)と仲違いしていた広武王長弼高歓の従祖兄の子で、高永楽〈東魏の猛将の高敖曹を見殺しにした〉の弟。粗暴で辺り構わず人を殴った。550年〈3〉参照)が訴えて言った。
「韶はこの地にて強兵を擁しており、いつ不測の事態を起こすか分かりません。陛下はなぜ早く彼に従われないのですか!」
 帝はこれを聞き入れなかった。帝は韶に会うと、長弼の言葉を伝えてこう言った。
「君のような忠臣ですら讒言をされるのだから、誰だって讒言されるのだろうな!」
 乙酉(9日)、特進の元韶字は世冑。孝荘帝の兄の子。もと彭城王で、北斉建国の際に公に格下げされた。550年〈2〉参照)を尚書左僕射とし、段韶を右僕射とした。

○資治通鑑
 廣武王長弼與幷州刺史段韶不協,齊主將如晉陽,長弼言於帝曰:「韶擁彊兵在彼,恐不如人意【言恐韶為變】,豈可徑往投之!」帝不聽。旣至,以長弼語告之,曰:「如君忠誠,人猶有讒,況其餘乎!」長弼,永樂之弟也【高永樂不內高昂,使之喪元,長弼又讒段韶,高歡父子為失刑矣】。
○北斉文宣紀
 冬十月己卯,備法駕,御金輅,入晉陽宮,朝皇太后於內殿。辛巳,曲赦并州太原郡晉陽縣及相國府四獄囚。癸未,茹茹國遺使朝貢。乙酉,以特進元韶為尚書左僕射,并州刺史段韶為尚書右僕射。丙戌,吐谷渾國遣使朝貢。壬辰,罷相國府,留騎兵、外兵曹,各立一省,別掌機密。

┃侯景、宇宙大将軍を名乗る
 乙未(10月19日)、〔梁の相国・漢王の〕侯景が再び簡文帝蕭綱)に迫り、西州城にて内々の宴を開かせた(4月12日参照)。
 また、帝に詔を下させて言った。
「周軍が殷を牧野に破った際、呂尚は武威を示した事で武王に初めて尚父の号を奉られ、漢(前漢)が烏桓を討った際、范明友は初めて度遼将軍とされた。まして、相国の優れた頭脳は凡人の及ぶ所では無く、この上ない大功は言葉では言い表せないほどであるゆえ、尚更これまでの伝統的な称号を保守すべきでは無いだろう。よって今、相国に宇宙(世界大将軍・都督六合(天地東西南北)諸軍事を加える。相国の他の官はそのままとする。」
 その詔を帝に上呈すると、帝は非常に驚いて言った。
「将軍に『宇宙』を付けるとは⁉」

 また、皇子の蕭大鈞字は仁輔〈博?〉。簡文帝の第十四子。時に12歳)を西陽王、蕭大威字は仁容。簡文帝の第十五子。時に12歳)を武寧王、蕭大球字は仁珽〈玉?〉。簡文帝の第十七子。時に10歳)を建安王、蕭大昕字は仁朗。簡文帝の第十八子。時に10歳)を義安王、蕭大摯字は仁瑛。簡文帝の第十九子。時に9歳)を綏建王、蕭大圜字は仁顕。簡文帝の第二十子)を楽梁王に封じた【考異曰く、太清紀には『十一月十四日』と在る。今は梁帝紀の記述に従った】。

 11月、甲寅(8日)、〔梁の侍中・使持節・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒・荊州刺史・承制の〕湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。550年〈4〉参照)が北斉に使者を派遣した。

○北斉文宣紀
 甲寅,梁湘東王蕭繹遣使朝貢。
○梁簡文紀
 冬十月乙未,侯景又逼太宗幸西州曲宴,自加宇宙大將軍、都督六合諸軍事。立皇子大鈞為西陽郡王,大威為武寧郡王,大球為建安郡王,大昕為義安郡王,大摯為綏建郡王,大圜為樂梁郡王。
○梁56・南80侯景伝
 景又矯詔曰:「…周師克殷,鷹揚創自尚父;漢征戎狄,明友實始度遼。況乃神規叡算,眇乎難測,大功懋績,事絕言象,安可以習彼常名,保茲守固。相國可加宇宙大將軍、都督六合諸軍事,餘悉如故。」以詔文呈太宗,太宗〔大〕驚曰:「將軍乃有宇宙之號乎!」

 ⑴宇宙…宇は『天・空間』、宙は『地・時間』を指す。要するに世界を指す。

●北斉、江西を襲う
 これより前、北斉の東徐州(治 下邳)刺史・行台の辛術字は懐哲。高澄に淮南の経略を任されていた。550年〈1〉参照)は下邳を鎮守していた。
 この月侯景が江西(長江北部)の租税を徴収して建康に運ばせた。術は諸軍を率いて淮河を渡り、その糧道を遮断して数百万石にのぼる稲を焼き払った《北斉38辛術伝》。続いて陽平を包囲すると(2月にも包囲したが、失敗していた)、景は〔北道〕行台・〔総江北諸軍事〕の郭元建1月25日に広陵の乱の平定に赴いた。550年〈1〉参照)に救援に赴かせた《梁56侯景伝》
 壬戌(16日)、術は三千余家を拉致して下邳に帰還した《北斉38辛術伝》

○資治通鑑
 齊東徐州刺史行臺辛術鎭下邳。
十一月,侯景徵租入建康,術帥衆渡淮斷之,燒其穀百萬石,遂圍陽平,景行臺郭元建引兵救之。壬戌,術略三千餘家,還下邳。
○北斉38辛術伝
 

●二藩緊張
 梁の益州刺史の武陵王紀字は世詢。武帝の第八子。550年〈4〉参照)が侯景を討つという名目で(梁55武陵王紀伝)諸将を率いて成都を発った【考異曰く、南史〔武陵王紀伝〕には『十一月壬寅』とある。11月は壬子が1日で、壬寅は無い】。湘東王繹はこれを聞くと、書簡を胡知監に持たせて蜀に派し、こう言った。
「蜀は隔絶した土地で、住民は勇敢であるゆえ(出典不明)、乱が起きやすく平定し難い所だ。弟は鎮守に専念しておればよい。賊徒(侯景)はわしが滅ぼす。」
 また、別紙にてこう言った。
「我らは孫・劉(孫呉・蜀漢)と同じ境界を守って国を成そう。〔ただ、〕我らは魯・衛(建国者は兄弟)と同じく兄弟なのであるから、常に書簡を交わす仲でいよう。」《南53武陵王紀伝》

 甲子(18日)、梁の南平王恪字は敬則。武帝の弟の子で、もと郢州刺史。容姿端麗。東方より逃れてきた綸を受け入れ、皇帝代行としたが、のちに仲違いし、湘東王繹の軍が迫るとこれに降った。550年〈4〉参照)・侍中の臨川王大款もと江夏王。字は仁師。簡文帝の第三子。550年〈4〉参照)・桂陽王大成もと山陽王。字は仁和。簡文帝の第八子。550年〈4〉参照)・散騎常侍の江安侯円正字は明允。武陵王紀の第二子)・侍中,左衛将軍の張綰字は孝卿。549年〈1〉参照)らが文武百官を率いて上書し、湘東王繹を相国に推し、政治の一切を取り仕切るよう求めた。繹はこれを拒否した《梁元帝紀》

┃高歓死せず

〔西魏の丞相の〕宇文泰字は黒獺)が恒農(陝城)の北に橋を架け、騎兵を分派して建州に到らせた。
 泰は〔柱国大将軍・〕行台の侯莫陳崇字は尚楽。北魏末の群雄万俟醜奴を単騎で捕らえ、西魏に仕えては河橋で随一の戦功を挙げた。また、劉平伏の乱の平定に貢献した。541年参照)に斉子嶺(邵郡と軹関の間にある山)経由で軹関を攻撃させた。
 また、開府儀同三司・建州邵郡河内汲郡黎陽等諸軍事の楊檦字は顕進。邵郡周辺の統治を任された。546年〈2〉参照)を大行台尚書とし、先遣部隊とした。檦は義軍を率いて鼓鐘道より北斉の建州に攻め入り、孤公戍など四戍を陥とした。
 また、帥都督の司馬裔字は遵胤。537年に河内温城と共に西魏に付き、以降その方面の経略を任された。549年〈2〉参照)も志願通り先鋒とした。裔は建州に侵入すると、東魏(北斉の誤り?)の部将の劉雅興を撃破し、五城を陥とした。

 文宣帝は〔司徒・河東王の〕潘楽字は相貴。勲貴の一人。550年〈3〉参照)に大軍を与えてこれを防がせた。楽は昼夜兼行で長子に到り、儀同の韓永興韓鳳の父?)に建州経由で西方にいる崇を攻撃させた。すると崇は逃走した。
 丙寅(20日)文宣帝自ら出陣して城(胡三省は晋陽だとする。建州城ではないか?)の東に陣を布いた。泰はその軍容の一糸乱れぬ様を聞くと(北史では『見ると』。この場合だと宇文泰は自ら建州まで進軍していた事になる)、嘆息してこう言った。
高歓は死んでいなかったか!」
 ここに到るまで、西魏軍は秋冬の〔冷たい〕雨に連日打たれ、軍馬の多くが死んでしまっていた。そこで泰は〔決戦を諦め、〕蒲坂より黄河を渡って長安に帰還した(周34楊檦伝・北史西魏文帝紀には撤退の理由として『北斉軍が出撃して来なかった』ことを挙げている)。
 柱国大将軍の独孤信字は期弥頭。もとの名は如願で、泰の旧友。知勇兼備の名将で、西方を委任された。548年〈2〉参照)はこのとき隴右の兵数万を率いて従軍していたが、崤坂に到った所で引き返した。
 これ以降、河南は洛陽(洛州)、河北は平陽(晋州)から東の地域は完全に北斉のものとなった。
 庚午(24日)文宣帝が晋陽に帰還した。

○周文帝紀
 時連雨,自秋及冬,諸軍馬驢多死。遂於弘農北造橋濟河,自蒲坂還。於是河南自洛陽,河北自平陽以東,遂入於齊矣。
○北斉文宣紀
 十一月,周文帝率眾至陝城,分騎北渡,至建州。甲寅,梁湘東王蕭繹遣使朝貢。丙寅,帝親戎出次城東。周文帝聞(見)帝軍容嚴盛,歎曰:「高歡不死矣。」遂退(班)師。庚午,還宮。
○北史西魏文帝紀
 秋七月,安定公宇文泰東伐,至恒農,齊師不出,乃還。
○周16独孤信伝
 十六年,大軍東討,信率隴右數萬人從軍,至崤坂而還。
○周34楊檦伝
 十六年,大軍東討,授大行臺尚書,率義眾先驅敵境,攻其四戍,拔之。時以齊軍不出,乃追檦還。
○周36司馬裔伝
 十六年,大軍東伐,裔請為前鋒。遂入建州,破東魏將劉雅興,拔其五城。
○北斉15潘楽伝
 周文東至崤、陝,遣其行臺侯莫陳崇自齊子嶺趣軹關,儀同楊檦從鼓鐘道出建州,陷孤公戍。詔樂總大眾禦之。樂晝夜兼行,至長子,遣儀同韓永興從建州西趣崇,崇遂遁。

 ⑴鼓鐘(鼓鍾)…《読史方輿紀要》曰く、『鼓鐘鎮は平陽府の南百五十里→絳州の東南二百三十里→垣曲県の北六十里にある。《水経注》曰く、「教水は垣県の北の教山より湧き出で、南に流れて鼓鐘上峽を経る。鼓鐘上峽は流れが速く両岸が断崖絶壁となっている。更に南に流れて鼓鐘川を経る。そこで二つの谷川に分かれ、一つは西北に流れ、百六十里先に聞喜東北の乾河口がある。一つは冶官の西を経る。川の西南に冶官があり、世間はこれを鼓鐘城という。のち南に流れて黄河に入る。南下して下峽に到る。」』『三錐山は垣曲県の北六十里にある。三峰は錐(キリ)に似て、古くは銅を産出した。一番〔県に〕近い峰を鼓鐘山、またの名を瞽塚山という。瞽瞍(コソウ。舜の父)が埋葬された場所という伝承がある。もう一つは折腰山、もう一つは清廉山である。

●河南の攻防

 この年、西魏が大都督・撫軍将軍・宜陽郡守の陳忻を車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍とした。
 忻は北斉の武将の東方老を石泉にて大破し、非常に多くの捕虜を得た。
 この時、東魏〔・北斉〕は毎年宜陽(西魏の宜陽とは別)に兵を派して兵糧を送り込んでいた。忻は諸軍と共にこれを迎撃し、常に多くの戦利品を得た。

 この年、西魏の洛安()郡民の雍方雋が叛乱を起こし、郡城を占拠した。方雋は千の兵を率い、行台を自称し、近隣の郡県を攻撃して郡守や県令を捕らえた。大都督・河南(澠池)郡守の魏玄は恒農・九曲・孔城・伏流四城の兵馬を率いてこれを討伐し平定した。

○周43陳忻伝
 十六年,進車騎大將軍、儀同三司、散騎常侍。與齊將東方老戰於石泉,破之,俘獲甚眾。時東魏每歲遣兵送米饋宜陽,忻輒與諸軍邀擊之,每多剋獲。
○周43魏玄伝
 十六年,洛安民雍方雋據郡外叛,率步騎一千,自號行臺,攻破郡縣,囚執守令。玄率弘農、九曲、孔城、伏流四城士馬討平之。

 ⑴陳忻...《北史》では陳欣。字は永怡。宜陽の人。堂々とした容姿と体躯をしていた。気前のいい性格で、人々に慕われた。北魏が東西に分裂すると兵を挙げて西魏に味方し、立義大都督とされた。以後、河南の地にて東魏と戦い続けた。去年、宜陽郡守とされた。547年(2)参照。
 ⑵東方老...七尺の長身で、怪力の持ち主。南兗州刺史。韓陵の戦い・東関の戦いに参加した。553年(3)参照。
 ⑶石泉...《読史方輿紀要》曰く、『石泉水は、河南府(洛陽)の東百三十里→鞏県の東南二十里にある。』石泉はこの事か?
 ⑷澠池…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の西百六十里にある。北周はここに河南郡を置いた。』
 ⑸魏玄…字は僧智。祖先は南朝に仕えたが、景明年間(500~504)に北魏に付き、新安(洛陽の西)に居を構えた。梁と戦って征虜将軍とされ、北魏が東西に分裂すると関南にて西魏に付き、東魏将の高敖曹と何度も戦った。西魏が邙山にて大敗を喫すると、宜陽にいた母や弟が東魏に捕らえられたが、西魏に忠義を貫き、関南を鎮守した。547年、東魏将の侯景が叛乱を起こすと李義孫と共に東魏の伏流城と孔城を陥とし、伏流を鎮所とした。のち、河南郡守・大都督とされた。
 ⑹九曲…《読史方輿紀要》曰く、『河南府の西南七十里→宜陽県の東三十里にある。』
 ⑺孔城…《読史方輿紀要》曰く、『もと東魏の北荊州。伊闕県の東南にある。』『伊闕県は新城のことで、河南府の南七十五里にある。』

●貝磯の戦い

 丁卯(21日)、梁(湘東王繹)の左衛将軍の徐文盛の軍が貝磯(江夏の東北?)に到った。梁(侯景)の南道行台の任約は水軍を率いてこれを迎え撃ったが、大敗を喫した《梁56侯景伝》。文盛軍は侯景の儀同の叱羅子通・湘州刺史の趙威方⑷⑸を斬り、首を江陵に送った《梁46杜幼安伝》。文盛軍は大挙口(武昌・西陽の北[1]に進んだ。侯景は司徒の宋子仙らに二万の兵を与えて約の助勢に向かわせ、約には西陽の守備をさせた。しかし、子仙軍は〔文盛軍を恐れて〕久しく進むことができなかった《出典不明》
 この冬、〔業を煮やした〕景は、遂に自ら出陣して晋熙(建康と西陽の間にある)に進んだ[2]
____________________
 ⑴徐文盛...字は道茂。もと寧州刺史(長史?)。湘東王繹に東方の経略を命じられていた。550年(4)参照。
 ⑵任約...西進して江州を降していた。550年(4)参照。
 ⑶叱羅子通...鉄騎二百を率いて馬柵に拠る邵陵王を破った。550年(4)参照。
 ⑷趙威方...前譙州刺史の趙伯超の子。寒山の戦いの際、父が逃げようとする中あくまで戦い続けようとした。武帝が侯景と和議を結んだ時も戦い続けようとしたが、景の策略によって台城に入城させられた。549年(2)参照。
 ⑸陳7周炅伝には『趙迦婁』とある。
 ⑹陳13周炅伝には『任約が樊山(武昌の西三里にある)を占拠すると、周炅は寧州長史の徐文盛と共に約を撃破し、その部将の叱羅子通・趙迦婁(威方)らを討ち取った。炅は勝利の勢いに乗って追撃を行ない、連勝して約軍を殆ど壊滅状態に陥らせた』とある。
 周炅は字を文昭といい、汝南郡安成県の人である。祖父の周彊は南斉の太子舍人・梁州刺史となり、父の周霊起は梁の通直散騎常侍・廬桂二州刺史・保城県侯となった。炅は幼い頃から男気があって心の赴くままにふるまい、将才を有していた。梁の大同年間(535~546)に通直散騎侍郎・朱衣直閤とされ、太清元年(547)に弋陽太守とされた。侯景の乱が起こると元帝によって西陽太守・西陵県伯とされた。侯景が兄の子の侯思穆に斉安を占拠させると、炅は勇士を率いてこれを奇襲して撃破し、その首を斬った。この功によって持節・高州刺史とされた。この時、炅は武昌・西陽二郡にて大軍勢を擁していた。
 [1]水経註曰く、江水(長江)は崢嶸洲を東して邾県(梁の斉安郡南安県、隋唐の黄州)の南を過ぎ、更に東して白虎磯の北を過ぎ、更に東して貝磯の北を過ぎ、更に東して黎磯の北を過ぐ。〔黎磯の〕北岸に烽火洲がある。即ち挙洲の事であり、北に挙口がある。挙水は亀頭山より出で、梁の定州城の南を過ぎ、更に梁の司・豫州城の東を過ぎ、南して斉安郡の西を過ぎ、東南(西南?)して赤亭を過ぎ、下流にて二つの川に分かれ、南して長江に注ぐ。これを挙口と言う。南に挙洲がある。江水は更に東して邾県の故城(西陽)の南を過ぎる。
 ⑺宋子仙...侯景軍随一の猛将。550年(2)参照。
 [2]考異曰く、典略には『7月、景が濡須(梁56侯景伝には『皖口』とある)に出陣し、梁仲宣を知留府事とした。』とある。しかし、典略には『9月、景が梁の妃主と酒宴をすることを求めた』とあり、梁帝紀には『乙未(19日)、侯景が再び簡文帝に迫って、西州城にて内々の宴を開かせた』とあるため、7月に濡須に在るのはおかしい。ゆえに、今は南康王会理伝の記述に従った。また、太清紀・梁書・典略には『晋熙』ではなく『皖口』だとしている。今は南史の記述に従った。
 
●義挙失敗
 これより前、南康王会理字は長才。武帝の孫。もと南兗州刺史だったが、景に敗れて降った。549年〈5〉参照)は侯景の軍門に下りはしたものの、常に国家を救うことばかりを考え、太子左衛将軍の柳敬礼柳仲礼の弟。侯景が兄の見送りに来た際に、身を張ってこれを殺そうとした。549年〈3〉参照)・西鄉侯勧字は文粛。武帝の従父弟の子で、呉平侯勱の弟)・東鄉侯勔ベン。字は文祗。勧の弟。祖皓らが広陵にて乱を起こした時、南兗州刺史に祭り上げられた。550年〈1〉参照)らと共に密謀し、勇士と渡りをつけていた。
 祖皓が侯景の南兗州刺史の董紹先を斬って広陵に拠り、反景の兵を挙げた時(1月23日〜2月3日)、皓は会理の内応を期待し、敗れると供述の際に会理の名を挙げた。景はこれを訊くと会理を免官処分にしたが、なお白衣(平民)の資格を以て尚書令の任を継続させた(白衣領職。或いは平民の服を着たまま職務を行なわせる罰なのか、無給の罰なのかも知れない)。
 そして現在、侯景が出陣して建康が手薄になると、会理は敬礼と共に、兵を起こして王偉侯景の軍師。549年〈4〉参照)を誅殺する計画を練った。すると敬礼はこう言った。
「大事を起こすには必ず元となる物が必要ですが、今、我らには僅かな兵すらおりません。これでどう動けばいいのでしょうか?」
 会理は答えて言った。
「湖熟(建康の近東南)にいるもと部下たち三千余人に、昨日既に計画を伝えてある。彼らは期日になれば、すぐさま集まって挙兵し、都に進軍する。賊徒の守兵は千人にも満たないから、〔ひとたまりもないはずだ。その上、〕我らが城内より呼応して直ちに王偉侯景の軍師。549年〈4〉参照)を捕らえれば、義挙は成功したも同然だ。たとえ景が引き返してきたとしても、何もできまい。」
 敬礼はこれを聞いて計画に賛成した。
 当時、丹陽から京口一帯の住民は、侯景に従ってはいたものの心の中では嫌悪しており、みな梁のために命を尽くそうと考えていた。
 建安侯賁字は世文。侯景に皇帝に擁立されたことがある臨賀王正徳の弟の子)と中宿世子子邕邕? 549年〈3〉参照。通鑑によれば、蕭憺〈武帝の弟〉の孫であるらしい)はこの企みを察知すると、偉に密告した《南51蕭賁伝》。偉は会理・敬礼・北兗州司馬の成欽・勧・勔および会理の弟の祁陽侯通理字は仲宣)を捕らえ、殺害した【考異曰く、典略には『十二月癸未(8日)に建安侯賁らが密告した』とあり、梁帝紀には『十月壬寅(26日)、会理を殺害した』とあるが、今は太清紀の記述に従った《梁56侯景伝》
 敬礼は死の直前にこう叫んで言った。
「女の腐ったような兄のせいで、国家は賊徒の手に落ちた。その責任はまことに余りある。今、私が処刑されるのは、天命だ!」《南38柳敬礼伝》
 この時、銭塘の人の褚冕という者も捕らえられ、首謀者について問い詰められたが、彼は旧友の会理に義理立てをし、杖で千回打たれても吐こうとはしなかった。別室にいた会理はこれを聞くと、こう叫んで言った。
「褚郎よ、卿はどうして本当のことを言わないのだ! 卿は命を賭してまで私の無実を証明しようとしてくれているのだろうが、〔もうやめよ!〕私は心の底から賊徒を殺したいと思っていたのだ!」(一部出典不明
 偉が会理を殺しても、冕はとうとう屈さなかったので、偉は〔その義心に免じて〕これを解放した《南53南康王会理伝》
 会理の弟の安楽侯乂理字は季英。会理の第六弟。549年〈3〉参照)は、祖皓の乱の際、建康から長蘆【今の真州六合県に長蘆鎮と長蘆寺がある。淳熙十二年(1185年)に寺は滁口山の東に移された。張舜民曰く、長蘆鎮は滁河の西南にある】に逃れ、千余人の兵を集めて〔期日に備えて〕いたが、景に内通していた側近が計画を偉に密告し、それによって会理が捕らえられると、兵は驚いて四散し、乂理は殺害された(享年21《梁29蕭乂理伝》

○梁29南康王会理伝
 至京,景以為侍中、司空、兼中書令。雖在寇手,每思匡復,與西鄉侯勸等潛布腹心,要結壯士。時范陽祖皓斬紹先,據廣陵城起義,期以會理為內應。皓敗,辭相連及,景矯詔免會理官,猶以白衣領尚書令。
 是冬,景往晉熙,京師虛弱,會理復與柳敬禮謀之。敬禮曰:「舉大事必有所資,今無寸兵,安可以動?」會理曰:「湖熟有吾舊兵三千餘人,昨來相知,克期響集,聽吾日定,便至京師。計賊守兵不過千人耳,若大兵外攻,吾等內應,直取王偉,事必有成。縱景後歸,無能為也。」敬禮曰「善」,因贊成之。于時百姓厭賊,咸思用命,自丹陽至于京口,靡不同之。後事不果,與弟祁陽侯通理並遇害。
 
●忠臣、広莫門外に死す
 簡文帝が即位して以来、侯景は帝を厳重な監視下に置き、外部の者との接触を厳しく禁じた。ただ、武林侯諮字は世恭。武帝の弟の子で、鄱陽王範の弟。交州にて苛政を行ない、李賁の乱を招いた。544年参照)と尚書左僕射の王克550年〈1〉参照)・中書舍人の殷不害字は長卿。台城陥落時、太子綱〈簡文帝〉の傍を離れなかった。549年〈3〉参照)だけは、文弱の徒であることを以て、私室への出入りを許されていた。彼らは朝から晩まで帝の傍にいたが、帝は彼らと六経の事について論ずるのみで、時事について話そうとはしなかった。
 会理が処刑されると、克・不害は災いを恐れ、次第に帝と距離を置くようになった。しかし、諮だけは帝の傍から離れようとせず、帝に会い続けた。これを不快に思った偉は、諮に恨みを抱いていた刁戍を広莫門(建康北門)外に遣り、諮を刺殺させた【考異曰く、太清紀では会理の死の前の事となっている。今は南史の記述に従った《南52武林侯諮伝》

 帝が即位した時、景は帝と共に重雲殿【梁紀の記述に拠ると、重雲殿は華林園に在る(南史梁武帝紀に重雲閣の名で現れ、華林園に在ることが分かる)。項安世曰く、梁の華林園の重雲殿の前には銅儀(渾天儀)が置かれていた】に登り、仏像に拝礼をし、こう誓って言った。
「今より、陛下と臣は互いに疑いを持たず、裏切らないことを誓います。」
 しかし会理の計画が露見すると、景は帝がこれに関与していたのではないかと疑うようになり、武林侯諮を殺すことでこれに警告を加えたのだった(出典不明)。
 帝は自分の命がそう長くないことを知ると、住んでいる建物を指差して殷不害にこう言った。
「龐涓はきっとあそこで死ぬ。」(龐涓は戦国魏の将軍。馬陵の戦いの際、斉の孫臏が予め『龐涓はきっとこの木の下で死ぬ。』と書いておいた木の下で戦死した。龐涓は簡文帝のことか《梁56侯景伝》

●宣城陥落

 侯景自ら宣城を攻めた。守将の楊白華楊華、本名白花。北魏の名将楊大眼の子。筋力に優れ、容貌は魁偉だった。胡太后に迫られて関係を持ったが、災いを恐れ、父が死ぬとその遺体と部下を連れて梁に亡命した。このとき名を華に改めた。550年〈1〉参照)は敗れてその軍門に降った(梁56侯景伝では侯景の部将の李賢明に攻められて降伏したことになっている)。景は彼が〔自分と同じ〕北人であることを以て罪を赦し、左民尚書とした。ただ、部下の来亮宣城を攻めたが、白華に謀殺された。549年〈4〉参照)を殺された怨みを晴らすため、その兄の子の楊彬を代わりに殺害した《出典不明》

 12月、丙子朔(1日)侯景建安侯賁を竟陵王に、中宿世子子邕を隨王にそれぞれ封じ、また、子邕に侯の姓を賜与し(南51建安侯賁伝)、会理の計画を密告した功に報いた《梁56侯景伝》

 辛丑(26日)文宣帝が晋陽から鄴に帰還した《北斉文宣紀》

●邵陵、安陸を狙う

 汝南(安陸の東北)の邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。湘東王繹に攻められ、郢州から汝南に退避していた。550年〈4〉参照)が、城を修築し、兵を集めて安陸(邵陵王綸伝では『竟陵』)を攻めようとした。西魏の安州【五代志曰く、安陸郡に、梁は南司州を置き、西魏は安州を置いた。今の徳安府である】刺史の馬岫漴頭の戦いののち、安陸と共に西魏に降った。550年〈1〉参照。通鑑では『馬祐』)が宇文泰にこのことを知らせると(周19楊忠伝では湘東王繹が知らせたことになっている)、泰は大将軍の楊忠字は揜于。都督三荊等十五州諸軍事に任じられて漢水東部を制圧した。550年〈3〉参照)と儀同の侯幾通ら率いる一万の軍(出典不明)に安陸を救援させた《梁29邵陵王綸伝》

○周19楊忠伝
 梁元帝密報太祖,太祖乃遣忠督眾討之。

●楊法深討伐

〔梁の益州刺史の〕武陵王紀が、潼州刺史の楊乾運550年〈4〉参照)と南梁州刺史の譙淹に〔黎州で叛乱を起こし、西魏に付いた〕楊法深を討伐させた。二万の兵が迫ると、法深は剣閣に拠ってこれを防いだ《出典不明》

 侯景が〔晋熙より〕建康に帰還した《出典不明》

●西魏の軍制改革
 これより前、北魏の孝荘帝元子攸。在位528〜530)が丞相の上に柱国大将軍を置き【431年に北魏の太武帝が太尉の長孫嵩を柱国大将軍としたことがある】、爾朱栄字は天宝。類稀なる統率力で北魏末の混乱を一気に収束させた名将。530年8月に孝荘帝に誅殺された)をこれに任じたが、のち栄を誅殺すると廃止していた(のち、532年2月29日に高歓が任命されている)。大統三年(537)〔10月〕、西魏の文帝元宝炬)が再びこの官を置き、宇文泰を柱国大将軍とした。以後、国家に大きな貢献をした、名声と才能を兼ね備えている者をこれに任ずることにした。柱国大将軍に任ぜられたのは安定公宇文泰広陵王欣・趙郡公李弼・河内公独孤信・南陽公趙貴・常山公于謹・隴西公李虎・彭城公侯莫陳崇ら八名で、彼らは八柱国と並び称された。
 泰の任務は国政を取り仕切ることと全軍の総指揮を執ることであり、欣は帝室の中で一番名望があったために選ばれただけのお飾りだった。他の六名は各自二名の大将軍を率いた。十二大将軍は廣平王賛淮安王育斉王廓・章武公宇文導・平原公侯莫陳順・高陽公達奚武・陽平公李遠・范陽公豆盧寧・化政公宇文貴・博陵公賀蘭祥・陳留公楊忠・武威公王雄で、彼らは各自二名の開府を統べ、二十四名の開府は各自一軍を率いた《周16史臣曰》。一軍は二名の儀同と一団があった《北60論曰》
 宇文泰は国民を六軒ごとに分け、六軒の中で中等以上、正丁が三人以上いる家庭から才能や体力に溢れた者一名を選抜して府兵とした《鄴侯家伝》。府兵は租庸調の税を一切免除される代わりに、農閑期に儀杖警衛と訓練を半分ずつ行なう義務と、弓・刀(鄴侯家伝では武器・衣服・軍馬・兵糧とする。これらは六軒単位で用意することになっていたという)を自弁する義務が課された。用意した弓・刀は一ヶ月に一度点検を受け、鎧・槊・戈・弩などの重兵器は必要な時に国家から支給を受けた《北60論曰》
 府は全部で百府あり《後魏書》、一人の郎将が一府の兵を指揮した《出典不明》
 以後、柱国大将軍・開府儀同三司・儀同三司に任ぜられた功臣は数知れず、〔価値は次第に下落して〕散官(名誉職。格付けのための職)と化し、軍を率いることは無くなった。また、この時と同じように軍を率いることがあったとしても、その名望は八柱国家の下風に立った《周16史臣曰

 文宣帝が散騎侍郎の宋景業天象や預言書に通じ、高洋〈文宣帝〉に禅譲を受けるよう勧めた。550年〈2〉参照)に天保暦を造らせ、これを施行した《隋律暦志》


 550年(6)に続く