[西魏:大統十六年 東魏:武定八年→北斉:天保元年 梁(侯景):大宝元年 梁(湘東王繹):太清四年]


●西魏、大挙東伐の軍を起こす
 これより前、西魏の丞相の宇文泰は潁川を失うと関中に引き籠り、時機が来るのを待った。のち、高澄が死んだ事を知ると天が高氏を滅ぼそうとしているのだと考え、喜びを抑えきれなかった。のち、高洋が即位した事を知ると左右にこう言った。
「高洋は一豎子(青二才)に過ぎず、その才能は父や兄に遠く及ばぬのに、帝位を簒奪した。これは自ら破滅の道を選び取ったものである。私が大軍を率い、その罪を喧伝して討てば、絶対に勝利できよう!」
 かくて華州より長安に赴き、文帝に謁えてこう言った。
高洋は主君を廃し国家を奪った大逆無道の輩であります。臣は軍を興してこれを討ち、逆臣を誅して再び天下を一統の形にする所存です。」
 帝はこれを聞き入れた。

 この月(7月《周文帝紀》宇文泰字は黒獺)が、北斉の文宣帝高洋)の皇帝僣称を理由に、諸軍を率いて東伐の軍を起こした。
 泰は斉王廓西魏文帝の第四子)に隴右を守備させ、隴右大都督・秦,南()等十五州諸軍事・秦州刺史の宇文導字は菩薩。宇文泰の兄の子。泰に信頼され、よく留守を任された。543年〈2〉参照)を中央に呼んで大将軍・大都督三雍二華等二十三州諸軍事(周文帝紀では『総督留守諸軍事』)とし、咸陽(周文帝紀では『涇北』)に駐屯させて関中の留守を任せた《周10宇文導伝》
 また、柱国大将軍の李弼を別道元帥とした《周35薛端伝》
 また、柱国大将軍の于謹字は思敬。西魏の名将。548年〈2〉参照)を後軍大都督とした《周15于謹伝》
 このとき、泰はもぬけの殻となった西魏領内に柔然が攻めてくることを危惧し、清水県子の楊荐字は承略)を柔然に派遣して説得をさせた。

 梁の益州在住の沙門の孫天英が宗徒数千人を率い、梁の益州刺史の武陵王紀字は世詢。武帝の第八子。550年〈3〉参照)が守る州城(成都)を夜襲したが、敗れて死んだ《出典不明》

○周33楊荐伝
 十六年,大軍東討。文帝恐蠕蠕乘虛寇掠,乃遣荐往更論和好,以安慰之。
○北史演義
 話說宇文泰自潁川失守,師勞無功,只得退守關中,待時而動。一日聞報高澄身喪,以為天敗高氏,不勝大喜。及聞高洋篡位,謂左右曰:「高洋一豎子耳,料其才能不及父兄遠甚,而敢行僭逆,是自取滅亡也。吾以大軍臨之,聲罪致討,何憂不克哉!」乃從同州至京,入見帝曰:「高洋廢君篡國,大逆無道。臣請興兵討之,以誅逆臣之罪,以復一統之模。」帝從其請。

 李弼...字は景和。生年494、時に57歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされた。548年(2)参照。

●湘東王繹、郢州に迫る
 梁の侍中・使持節・仮黄鉞・都督中外諸軍事・大将軍・承制(北斉文宣紀)の邵陵王綸が大いに戦備を整え、侯景を討とうとした。〔梁の侍中・使持節・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒・荊州刺史・承制の〕湘東王繹はこれを聞くと〔、先を越されることに〕強い危機感を抱いた。
 8月、甲午(17日)[1]梁簡文紀)、左衛将軍の王僧弁・信州刺史の鮑泉字は潤岳。550年〈2〉参照)〈梁30鮑泉伝〉・前梁秦二州刺史の陰子春字は幼文。武帝の幼馴染みの子)〈梁46陰子春伝〉らに水軍一万を与えて東のかた江・郢二州を攻撃させた《梁29邵陵王綸伝》。対外的には、任約を破り、邵陵王を江陵に迎えて湘州(治 長沙)刺史とするためと称した《出典不明》

 ⑴邵陵王綸...字は世調。武帝の第六子。550年(3)参照。
 ⑵侯景...字は万景。もと東魏の臣だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこでも叛乱を起こして都の建康を陥とし、傀儡政権を立てた。550年(3)参照。
 ⑶湘東王繹...字は世誠。武帝の第七子。550年(3)参照。
 [1]考異曰く、典略には『九月戊申朔』とある。太清紀の記述を見ると八月末のように思われる。今は梁簡文紀の記述に従った。
 ⑷王僧弁...字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。河東王討伐を命じられた際すぐに出発しなかったため繹の怒りを買い、剣で太腿を斬られたうえ牢獄に入れられたが、岳陽王詧の江陵に侵攻してくるとこれを防ぐのに大いに貢献して罪を赦された。のち、湘州に割拠する河東王誉を攻め滅ぼした。550年(2)参照。
 ⑸任約...侯景の南道行台。西進して江州を降していた。550年(3)参照。

●天保の改革
 文宣帝は帝位に即くと、数多くの改革を行なった。
 当時、北斉は政・軍ともに為すべきことが多かったため、〔刑法にまで手が回らず、〕判決は各個人の裁量で為され(原文『相承謂之變法從事』)、律文に沿って行なわれることは非常に稀だった。
 清河の人の房超が黎陽郡守に就いていた時、趙道徳高家の家奴。東魏の孝静帝が宮廷から去る際、牛車の上からその乗車を助ける無礼を犯した。550年〈2〉参照)は超に賄賂を要求する書簡を書き、使者に届けさせた。すると超は書簡を見ることもなく、棍棒を以て使者を殴り殺させた。文宣帝はこれを嘉し、以降、各地の地方長官に棍棒を用意させ、賄賂の要求を伝える使者が来たら、それで殴り殺させるようにした。暫くののち、都官郎中の宋軌が上奏して言った。
「昔、曹操は役所の門に棒を吊り下げさせ、禁令に違反した者がいればそれで殴り殺させました(魏武帝紀注曹瞞伝)が、それは国家が乱れていたために行なった荒療治だったのであって、国家が落ち着いている時にやることではございません(原文『昔曹操懸棒,威於亂時,今施之太平,未見其可。』)また、書簡を届けただけの使者ですら殴り殺されるのなら、その書簡を書いた当人にはどのような重罰を課せばいいのでしょうか?」
 帝はこれを読むと、殴り殺すのをやめさせた。
 それから間もなく、司都功曹【司州の功曹(通典職官曰く、北斉では功曹参軍と呼ばれた。州の官園・祭祀・礼楽・学校・選挙・表疏・医筮・考課・葬送を司った)のことである。時に北斉の都は鄴に置かれ、鄴が司州の治所であった。ただ、北斉の皇帝たちは時々晋陽に居を遷すことがあり、常に鄴にいるわけではなかった】の張老が上書して言った。
「大斉は建国されましたが、律令は魏朝の時のままであります。新しい法制を整備せねば、人の耳目は一新できぬでしょう。」《隋書斉刑法志》
 この日、文宣帝は詔を下して言った。
「魏の時に制定された麟趾格(541年に制定された)は全国の役所で使われる法令となったが、まだ完璧なものとはいえない。百官は新しい格の制定に着手せよ。完成するまでは、麟趾格に従って判決を行なうように。」《北斉文宣紀》
 かくて尚書右僕射の薛琡字は曇珍。沙苑の決戦の際、野戦を挑むより、兵糧攻めをした方が良いと高歓に進言した。537年〈3〉参照)ら四十三人に領軍府にて、東魏の麟趾格の条項の追加・削除についての検討をさせた《北斉30崔昂伝》

 文宣帝は〔父の高歓が洛陽から連れてきた〕六坊の兵士たち【北魏・北斉の時、皇帝の近衛兵は六坊に分けられた】から更に選別を行ない、一人で百人に当たることができ、命懸けの戦いをする覚悟のある者を〔近衛兵に採用し、〕『百保鮮卑』(北斉文宣紀では『百保軍士』)と名付けた【百保とは、『一人で百人に当たることができることが保証された者』という意味である。高氏は鮮卑人の力によって大業を為すことができ、彼らは当時『健闘』と名付けられた。故に近衛兵は全て鮮卑人を用いたのである。今の北人(モンゴル人)は勇士の事を『覇都魯』(バアトル)と言う】。彼らは戦場に行くと矢石を物ともせずに敵と刃を交えた。彼らが恐れるのはただ敵兵が少ないということだけで、身を危険にさらすことを屁とも思わなかった。〔そのため、〕彼らは常に勝利を得た(北斉文宣紀)。
 また、並外れた勇力を持つ華人(漢人)を選んで『勇士』と名付け、辺境の要地に配した。
 
 また、初めて戸籍を九等【上中下の三等があり、その三等も更にそれぞれ上中下に分けられた】に分類し(人民を九等に分けるのは、西晋が初めである〈『初学記』晋故事〉。北魏は434年に人民を三級九品に分けた。また、469年3月には輸租三等九品の制を定めた。これは、上三品の家庭には都の平城の倉庫に税を運ばせ、中三品の家庭には他州〈隣の州?〉の重要な倉庫に税を運ばせ、下三品の家庭には本州の倉庫に税を運ばせるものだった)、裕福な家庭からは銭貨を徴収し、貧しい家庭からは人手を徴発することとした《隋書魏食貨志》

 9月、丁巳(10日)、西魏軍が長安を発った《周文帝紀》

○北史演義
 乃召秦州刺史宇文導為大將軍,都督二十三州諸軍事,鎮守長安。泰自引軍十萬,上將千員,往關東進發。

●郢州陥落

 王僧弁の軍が鸚鵡洲【江夏江に在る中洲で、昔、黄祖〔の子の黄射?〕がこの中洲にて禰衡に鸚鵡賦を作らせたことから、鸚鵡洲と名付けられたのである。鸚鵡洲を下ると、すぐ黄鵠磯が在る】に到ると、郢州司馬の劉龍虎らは密かに人質を僧弁に送り、〔内通した。〕邵陵王綸はこれを知ると、子の威正侯躓礩?)に龍虎らを攻撃させた。すると龍虎らは敗れ、僧弁のもとに逃れた。綸は僧弁に書簡を送り、こう責めて言った。
「将軍は去年、主人の甥【河東王誉】を殺し、今年は更に主人の兄【邵陵王綸】をも討とうとしているが、このような手段で栄達を得ても、非難の的になるだけであるぞ!」
 僧弁はこの書簡を湘東王繹のもとに送り、〔このまま進軍してよいかどうか尋ねた。〕繹は続行を命じた。
 辛酉(14日)、綸は西園【郢城の西側にある庭園。東園は城の東の湖上にある】に部下を集め、泣いてこう言った。
「わしは最初から帝位など全く眼中に無く、賊徒を滅ぼして国を救うことしか頭に無かった。しかるに、湘東はわしが帝位を狙っていると勘繰り、とうとう戦いを仕掛けてきた。今日、防衛に徹すれば糧道を絶たれて敗北は必至であり、出撃しても〔すぐに敗れて〕千載の笑いものとなるだけだろう。罪無くして捕らえられるのは、本意では無い。ここは下流に逃れて難を避けるべきだろう。」
 壮士たちは口々に戦うことを求めたが、綸は聞き入れず、子の礩と共に倉門【郢州城の北門】より城を出、船に乗って北方に発った《出典不明》
 僧弁は〔空城となった〕郢州を占拠した。繹は南平王恪字は敬則。武帝の弟の子で、郢州刺史。東方より逃れてきた綸を受け入れ、皇帝代行とした。550年〈2〉参照)を中衛将軍・尚書令・開府儀同三司とし、中撫軍将軍で世子の蕭方諸字は智相。繹の第二子)を郢州刺史とし、信州刺史の鮑泉をその長史・行府州事とし(梁30鮑泉伝)、左衛将軍の僧弁を領軍将軍とした《梁元帝紀》

 綸は道すがら、〔繹の呼びかけに応じて江州から荊州に赴く途中だった〕鎮東将軍の裴之高字は如山。西豫州刺史で、鄱陽王範の指揮下に在った。549年〈3〉参照)と出会い、その子の裴畿に武器を奪われた《出典不明》。綸は躓ら十余人と共に小舟に乗って武昌の澗飲寺(出典不明)に逃れ、旧交のあった僧侶の法磬馨?)によって岩石の下に匿われた。綸の長史の韋質550年〈3〉参照)と司馬の姜律らは綸の存命を聞くとそのもとに馳せ参じ《南53邵陵王綸伝、付近七ヶ所に砦を築いて生活していた流民(難民)を説得して食糧と武器を供出させた。綸が巴水(武昌の北の西陽付近に流れる川)に進駐すると、八・九千人の流民がこれに従った《出典不明》
 綸はようよう残兵を収容しつつ斉昌[1]⑴に到り《南53邵陵王綸伝》、前西陵(梁56侯景伝では『西陽』)太守の羊思達もと殷州刺史。548年〈1〉参照)と共に隨(隨郡?)・陸(安陸?)の土豪の段珍宝・夏侯珍洽を招き入れ、彼らと共謀して北斉に人質を送り、その傘下に入った(この時のことかどうかは不明《周19楊忠伝》
 丁卯(20日)北史北斉文宣紀〉、文宣帝は綸を梁王に封じた《北斉文宣紀》

 湘東王繹が、簡文帝の皇子のうち、自分のもとに亡命していた江夏王大款字は仁師。簡文帝の第三子。もと石城公。550年〈3〉参照)を臨川王に、山陽王大成字は仁和。簡文帝の第八子。もと新淦公。550年〈3〉参照)を桂陽王に、宜都王大封字は仁叡。簡文帝の第九子。もと臨汝公。550年〈3〉参照)を汝南王に封じた(今年の6月に亡命していた《梁元帝紀》

○北斉文宣紀
〔丁卯,詔〔以〕梁侍中、使持節、假黃鉞、都督中外諸軍事、大將軍、承制、邵陵王蕭綸為梁王。

 [1]梁の北江州に属す。北江州の治所は義陽郡の鹿城関で、斉昌・新昌・梁安・斉興・光城郡を管轄した。五代志曰く、黄州の木蘭県(江夏の北)は、梁のとき梁安郡と呼ばれた。義陽郡には梁のときに湘州、のちに北江州が置かれ、〔東魏がこれを継承した。〕則ち、斉昌は木蘭県域に在る。
 ⑴斉昌…《読史方輿紀要》曰く、『黄州府(西陽。武昌の北岸)の東二百十里の蘄州に南斉が斉昌郡を置き、梁はこれを踏襲した。梁の大宝の初め(550年)に、邵陵王綸がここに斉州を置いたが、間もなく廃止された。』

●西魏軍、潼関に到る
 癸亥(16日)《出典不明》、西魏軍が潼関に到った。
 この時、泰は大丞相府右長史の鄭孝穆・左長史の長孫倹・司馬の楊寛・尚書の蘇亮字は景順。能吏で、蕭宝寅や賀抜岳に重用された)・諮議の劉孟良北魏の時に大司農卿となった)らに職務を分担させた。孝穆は関東より帰順してきた人士の接待と鑑定を任された。孝穆のもてなし方や任用はどれも理に適ったものだった《周35鄭孝穆伝》。また、尚書右丞の柳慶を大行台右丞とした。
 慶は立ち居振る舞いが荘重で、話しぶりが明瞭だったため、泰は軍に号令を下す際、常に慶に文章を読み上げさせた。また、慶は生まれつき剛直な性格で、誰であろうと遠慮なく物を言ったので、泰に気に入られ、深く頼りにされた。

○周22柳慶伝
 十六年,太祖東討,以慶為大行臺右丞,加撫軍將軍。...慶威儀端肅,樞機明辨。太祖每發號令,常使慶宣之。天性抗直,無所回避。太祖亦以此深委仗焉。
○周35鄭孝穆伝
 是年,太祖總戎東討,除大丞相府右長史,封金鄉縣男,邑二百戶。軍次潼關,命孝穆與左長史長孫儉、司馬楊寬、尚書蘇亮、諮議劉孟良等分掌眾務。仍令孝穆引接關東歸附人士,并品藻才行而任用之。孝穆撫納銓敘,咸得其宜。

 ⑴鄭孝穆...本名は道邕。孝穆は字。名門の滎陽鄭氏の出身。実直・温厚な人柄で、無欲だった。岐州にて随一の治績を挙げて宇文泰に気に入られ、岳陽王詧を梁王に封ずる大任を任された。550年(3)参照。
 ⑵長孫倹…生年491、時に60歳。もとの名は慶明。北魏の名族の出。容貌魁偉で、非常に堅物な性格をしていた。夏州時代からの宇文泰の部下で、飛躍に大きく貢献した。540~546年、549年以降の長期に渡って荊州を統治した。549年(7)参照。
 ⑶楊寛...字は景仁(或いは蒙仁)。生年501?、時に約50歳。名門弘農の楊氏の出身。懐朔鎮将の楊鈞の子。文才があり、武芸にも優れた。六鎮の乱中に父が死ぬと、その跡を継いで懐朔鎮を守備した。のち、太宰の元天穆に従って陳慶之と戦った。爾朱世隆や高歓が洛陽に迫ると防戦の指揮を執った。のち、宇文泰に従った。544年(2)参照。
 ⑷柳慶...字は更興。生年517、時に34歳。名門河東の柳氏の出身。北魏の孝武帝が高歓に圧迫を受けた時、宇文泰を頼るよう進言した。のち、無実の身の王茂を殺さぬよう宇文泰に諫言した。550年(4)参照。

●文宣帝、鄴を発つ
 西魏が東伐軍を起こすと、北斉の国境を守る者は急いでこの事を鄴に伝え、こう言った。
「西兵は百万の大軍で、黄河を素早く押し渡り、日ならずして晋陽に到ると思われます!」
 朝廷の人々はみな非常に驚き、文宣帝は群臣を集めて対策を諮った。ある者が言った。
「長年に亘って鋭気を養ってきた黒獺(宇文泰)が国を挙げて攻め込んできたからには、その鋭鋒に真正面からぶつかるのは宜しくありません。採るべき方策は唯一つ、堅壁清野(国境地帯を焦土とし城を固く守って決戦しない)だけであります。この方策を採れば、黒獺めは何も獲る事ができず、疲弊して退く事でしょう。昔、先帝(高歓)が玉壁を包囲した時、西師が出撃してこなかったのと同じ事です。」
 帝は言った。
「これは臆病者の考えである!」
 ある者が言った。
「昔、黒獺が洛陽に侵攻してきた時、先帝は一大将(侯景)を派遣して迎撃させ、大勝利を得ました。〔これに倣い、〕今、諸方面の兵を集め、一大将を派遣して敵を迎え撃たせますれば、陛下は安穏としたまま賊軍を退却させる事ができます。」
 帝は言った。
「これも黒獺を制する策とは言えぬ。諸卿は過去の事は良く知っているが、今と過去は事情が異なっているのは知らぬようだ。黒獺が今敢えて深入りしてきているのは、朕が年少で、即位したばかりで、一度も戦いを経験した事が無いことを以て侮っているからだ。そこで朕が自ら打って出ずに将軍だけを寄越したりなどすれば、彼奴に怯えている事を天下に知らせる事になるではないか。そんな事をすれば西師の勢いは手がつけられない物となり、我が軍は戦わずして総崩れとなるだろう。ゆえに、ここはすぐに朕自らが出撃するほか無いのだ。さすれば、彼奴らは必ずや驚いて意気阻喪するだろう。これこそ、いわゆる『先制して敵の意気を挫け』(《軍志》)、という物である。劣勢を優勢に転じる行ないとは、まことにこの一挙である!」
 高徳政が言った。
「各地にいる兵が全て集まってから出撃すべきであります。」
 帝は聞き入れず、直ちに〔僅かな兵を引き連れて〕昼夜兼行で晋陽に向かう事に決した《北史演義》。

 庚午(23日)文宣帝が山陵に暇乞いを告げ、晋陽に赴いた。その際、太子の高殷字は正道。文宣帝の長子で、時に6歳の少年だった。550年〈3〉参照)に涼風堂【北史北斉楽陵王百年伝に拠ると、鄴宮の玄都苑に在る】にて留守中の政務を執らせた《北斉文宣紀》

○北斉文宣紀
 庚午,帝如晉陽,拜辭山陵。是日皇太子入居涼風堂監總國事。
○北史演義
 邊臣飛報至鄴,聲言西兵百萬,飛渡黃河,不日將到晉陽。舉朝大驚,齊主集群臣問計。或曰:「黑獺蓄銳有年,今傾國而來,其鋒不可當。唯堅壁清野以待之,使之前無所獲,力倦自退。昔先帝圍玉壁,西師不出,亦此意也。」齊主曰:「此懦夫之計也。」或曰:「昔黑獺侵犯洛陽,先帝遣將拒之,皆獲大捷。今宜調集諸路之兵,命一上將迎敵,賊兵自退,陛下可以高枕無憂也。」齊主曰:「此未足以制黑獺也,諸卿之言但守成法,未識機宜。黑獺之敢於深入者,以朕年少新立,未經戰陣,有輕我心。若斂兵遣之,示之以怯,益張其燄,吾兵將不戰自亂。須乘其初至,朕猝然臨之,彼不虞騰出,見朕必驚,彼勢自沮。所謂先聲有奪人之氣也。轉弱為強,實在此舉。」高德政請待各路兵齊集,然後出師。齊主不許,連夜馳往晉陽。

●張彪の乱

 もと南郡王大連字は仁靖。簡文帝の第五子。もと臨城公。東揚州刺史として会稽にて侯景に抵抗したが敗れた。550年〈3〉参照)の中兵参軍の張彪南郡王大連が東揚州刺史として会稽を治めた時に、中兵参軍とされたのである】らが会稽の若邪山【会稽の東南四十里にある】にて反侯景の兵を挙げ(梁簡文紀ではこの年の事と記していて、具体的な時日は無い。通鑑がここにこの記事を置いている理由は不明)、上虞県(会稽の東)を攻め破った。景の太守の蔡台楽がその討伐に赴いたが、失敗した。ここに至り、彪は更に諸暨(会稽の西南)・永興(会稽の西北)など浙江以東の諸県を陥とし、数万の大軍を率いるまでに成長した。
 呉郡の人の陸令公・潁川の人の庾孟卿らが呉郡太守の南海王大臨字は仁宣。簡文帝の第四子。549年〈5〉参照)に対し、彪に付くよう説くと、大臨はこう答えて言った。
「彪が成功すれば、私に見向きもしなくなるだろう。もし失敗すれば、私に全ての責任をかぶせて降伏するだろう。それなら、行かない方が良い。」

 張彪は自称襄陽の人である。或いは、左衛将軍・衡州刺史の蘭欽梁の名将。544年参照)の外弟だという。若い時に若邪山に亡命して盗賊となり、非常に多くの部下を抱えた。大連が東揚州刺史となると(547年)、彪は部下を率いてこれに付き従い、非常な厚遇を受けた。初め防閤に任じられ、のち中兵参軍とされた。太清三年(549)に会稽山の山賊の田領群が数万の兵を率いて東揚州に来攻してくると、大連の命を受けてこれを撃破し、領群の首を斬った。

○資治通鑑
 南郡王中兵參軍張彪等【南郡王大連之鎭會稽也,以張彪為中兵參軍】,起兵於若邪山【若邪山,在今越州東南四十里】,攻破浙東諸縣,有衆數萬。吳郡人陸令公等說太守南海王大臨往依之,大臨曰:「彪若成功,不資我力;如其橈敗【杜預曰:橈,曲也,勢屈為橈】,以我自解【言將歸罪於大臨以自懈於侯景】,不可往也。」
○梁簡文紀
 南郡王前中兵張彪起義於會稽若邪山,攻破浙東諸縣。
○梁44南海王大臨伝
 又除安東將軍、吳郡太守。時張彪起義於會稽,吳人陸令公、潁川庾孟卿等勸大臨走投彪。大臨曰:「彪若成功,不資我力;如其撓敗,以我說焉,不可往也。」
○梁44南郡王大連伝
 太清…三年,會稽山賊田領羣聚黨數萬來攻,大連命中兵參軍張彪擊斬之。
○南64張彪伝
 張彪不知何許人,自云家本襄陽,或云左衞將軍、衡州刺史蘭欽外弟也。少亡命在若邪山為盜,頗有部曲。臨城公大連出牧東揚州,彪率所領客焉。始為防閤,後為中兵參軍,禮遇甚厚。及侯景將宋子仙攻下東揚州,復為子仙所知。後去子仙,還入若邪舉義。

┃邵陵流浪

 邵陵王綸は北斉からの援軍を待っていたが、なかなか来なかったため、〔斉昌から〕馬柵(西陽から八十里の地点にある)に陣を遷した。任約はこれを聞くと、儀同の叱羅子通549年〈6〉参照)ら(出典不明)に鉄騎二百を与えて奇襲させた。綸軍は警戒を全くしていなかったため総崩れとなり、綸は馬に鞭をくれて急いで逃亡した。北斉が援軍を送らなかったのは、綸の敵の湘東王繹とも手を結んでいたからであった(出典不明)。
 綸は定州(治 弋陽郡蒙籠城)刺史の田龍祖通鑑では『祖龍』)に迎え入れられたが、龍祖は繹によって任命された者であったので(通鑑では『繹に重用されていた』とある)、身の危険を感じ、再び斉昌に帰った。西魏の汝南[1]⑴城主の李素孝は綸の故吏(もと部下)であったので、城門を開いてこれを中に迎え入れた。

 この月(9月考異曰く、梁簡文紀は『十一月』の事とする。今は太清紀の記述に従った】、〔侯景の南道行台・領軍将軍の〕任約が西陽【今の黄州黄岡県であり、古の邾城の事である】・武昌を占拠した


 これより前、邵陵王綸衡陽王献を斉州刺史として(出典不明)斉昌を守らせていた。任約は一部隊を派遣してこれを撃破し、虜とした。献は建康に送られ、そこで殺された【考異曰く、梁帝紀には『十一月』とある。今は太清紀の記述に従った】。
 献は、衡陽王暢武帝の弟)の孫である《出典不明》

○梁簡文紀
 十一月,任約進據西陽,分兵寇齊昌,執衡陽王獻送京師,害之。
○梁元帝紀
 九月…是月,任約進寇西陽、武昌。
○梁29邵陵王綸伝
 侯景將任約聞之,使鐵騎二百襲綸,綸無備,又敗走定州。定州刺史田龍祖迎綸,綸以龍祖荊鎮所任,懼為所執,復歸齊昌。行〔收兵〕至汝南,西魏所署汝南城主李素〔孝〕者,綸之故吏,聞綸敗,開城納之。

 [1]魏書地形志曰く、郢州に汝南郡が在り、その治所は上蔡県に在る。隋書地理志曰く、竟陵郡(江夏・襄陽・江陵の中間にある)に郢州が置かれ、そこに属する漢東県(竟陵郡の北)は、南斉のころ上蔡県と言った。則ち、汝南城は漢東県城の事である。
 ⑴隋書地理志曰く、『安陸郡の吉陽県(安陸の東北)は、梁代に平陽県と汝南郡が置かれた。西魏はこれを董城郡に改めた』とある。梁簡文紀にも綸は『安陸董城』に逃れたとある。汝南城は吉陽県のことで間違いないだろう。

┃徐文盛の登場
 これより前(太清二年〈548〉)、前寧州(治 建寧。益州の南)刺史の徐文盛は、建康が危機に瀕しているのを聞くと、寧州にて募兵を行なって数万人を集め、救援に赴いていた。
 湘東王繹はその心がけを褒め、文盛を持節・散騎常侍・左衞将軍・督梁南秦沙東益巴北巴六州諸軍事・仁威将軍・秦州刺史に任じ、右衛将軍の陰子春・太子右衛率の蕭慧正・嶲州(治 越嶲。益州の西南)刺史の席文献らと共に(梁元帝紀)東伐に赴かせた《梁46徐文盛伝》
 繹は廬陵王応を江州刺史とすると、文盛をその長史・行江州事として〔補佐をさせ、〕任約軍の迎撃の指揮を執らせた《出典不明》

 徐文盛は、字を道茂といい、彭城の人である。先祖は代々北魏の将軍となったが、父の徐慶之は北魏に叛き、天監の初め(502)に千余人を率いて梁に帰順した。しかし、その中途で亡くなった。
 文盛は父の兵を受け継ぎ、梁で次第に功績を立てた。武帝は文盛を非常に厚遇し、大同の末(546)に持節・督寧州刺史とした。寧州は僻遠の地に在ったので、管内の蛮族は礼節を知らず、賄賂や強盗は日常的に行なわれ、刺史がこれを禁じても状況は変わらなかった。文盛は刺史となると、親身になって彼らに生活の支援を行ない、同時に犯し難い威厳も示したので、夷獠はこれに感服し、遂に風俗を改めた。

 廬陵王応陵王続字は世訴。武帝の第五子。547年に亡くなった。547年〈1〉参照)の次子である。応は愚かで、父の没後に蔵に行って金鋌(金の延べ棒)を見ると、左右にこう尋ねた。
「これは食べられるのか?」
 左右は答えて言った。
「食べられません。」
 すると応は答えて言った。
「食べられないのなら、全部お前たちにやろう。」
 彼のやることは、万事こんな風であった。

 鎮東将軍の裴之高が子弟・部曲(私兵)千余人を率いて夏首【夏口(江夏)の事である】に到った。湘東王繹蕭慧正を派して(梁28裴之高伝)これを呼び寄せ、新興(江陵の近東)・永寧(江陵の北)二郡太守とした。

 また、南平王恪を武州刺史とし、武陵を鎮守させた。


○資治通鑑
 任約進寇西陽、武昌。初,寧州刺史彭城徐文盛募兵數萬人討侯景,湘東王繹以為秦州刺史,使將兵東下,與約遇於武昌。繹以廬陵王應為江州刺史,以文盛為長史行府州事,督諸將拒之。應,續之子也。
○梁簡文紀
 十一月,任約進據西陽,分兵寇齊昌,執衡陽王獻送京師,害之。湘東王繹遣前寧州刺史徐文盛督眾軍拒約。
○梁元帝紀
 是月,任約進寇西陽、武昌,遣左衞將軍徐文盛 、右衞將軍陰子春、太子右衞率蕭慧正、嶲州刺史席文獻等下武昌拒約。以中衞將軍、尚書令、開府儀同三司南平王恪為荊州刺史,鎮武陵。
○梁46徐文盛伝
 徐文盛字道茂,彭城人也。世仕魏為將。父慶之,天監初,率千餘人自北歸款,未至道卒。文盛仍統其眾,稍立功績,高祖甚優寵之。大同末,以為持節、督寧州刺史。先是,州在僻遠,所管羣蠻不識教義,貪欲財賄,劫篡相尋,前後刺史莫能制。文盛推心撫慰,示以威德,夷獠感之,風俗遂改。
 太清二年,聞國難,乃召募得數萬人來赴。世祖嘉之,以為持節、散騎常侍、左衞將軍、督梁南秦沙東益巴北巴六州諸軍事、仁威將軍、秦州刺史,授以東討之略。於是文盛督眾軍東下,至武昌,遇侯景將任約,遂與相持久之。
○南53廬陵王応伝
 世子憑以罪前誅死,次子應嗣。應不慧,王薨,至內庫閱珍物,見金鋌,問左右曰:「此可食不?」答曰:「不可。」應曰:「既不可食,並特乞汝。」他皆此類。

 ⑴原文『「既不可食,並特乞汝。」』乞には「与える」という意味がある。


┃侯景、相国となる

 乙亥(9月28日)、梁が侯景の位を相国に進め、泰山など二十郡を与えて漢王に封じ、〔前漢の〕蕭何の如く、謁見の際に姓名を呼ばれず官職名だけを呼ばれること(賛拝不名)、謁見の際に小走りをしないこと(入朝不趨)、剣や靴を身に着けたまま昇殿することを許した(剣履上殿)。
 景は姜詢義を相国府左長史に、徐洪を左司馬に、陸約を右長史に、沈衆を右司馬に任じた。

 梁の岳陽王詧字は理孫。昭明太子統の第二子。湘東王繹によって窮地に追い詰められ、西魏に服属し、梁王に封じられた。550年〈3〉参照)が長安から襄陽に帰還した(7月13日に長安に赴いていた《出典不明》

○梁・南史梁簡文紀
 八月…〔九月〕乙亥,侯景自進位相國,封二十郡為漢王。邵陵王綸棄郢州走。
○梁56侯景伝
 景又矯詔自進位為相國,封泰山等二十郡為漢王,入朝不趨,讚拜不名,劍履上殿,如蕭何故事。
景以柳敬禮為護軍將軍,姜詢義為相國左長史,徐洪為左司馬,陸約為右長史,沈眾為右司馬。


●黎州の乱

 梁の黎州(成都と漢中の中間。もと北魏の益州。535年〈2〉参照)の民衆が叛乱を起こし、刺史の張賁を攻めた。賁が城を捨てて逃げると、州民は氐族の酋長で北益州刺史の楊法深陰平王。通鑑では『琛』)を引き入れて黎州の主とした【北魏は武興を東益州とし、氐王の楊氏をその刺史とした。梁は楊氏を北益州刺史とした。下巻の内容から考えるに、楊法深の治所は平興で、梁は平興に北益州を置いたように思われる】。法深は黎州の二大豪族の王・賈氏を武陵王紀のもとに派して、自分を刺史とするよう求めたが、紀は拒絶して激しく詰り、人質に取ってあった法深の子の楊崇顒楊崇虎を監禁した(南53武陵王紀伝にはこの記述は無く、『黎州刺史ではなく沙州刺史とした』とある)。法深はこの処置に深い恨みを抱いた(南53武陵王紀伝)。
 冬、10月、丁丑朔(1日)、法琛が西魏に付いた《出典不明》


 550年(5)に続く