[西魏:大統十六年 東魏:武定八年→北斉:天保元年 梁(侯景):大宝元年 梁(湘東王繹):太清四年]


●武陵王紀
 当時、江南ではただ荊州(江陵)・益州(成都)の二州だけが万事整っていた《出典不明》
 益州刺史の地位にあったのは梁の武帝の第八子の武陵王紀字は世詢。生年508、時に43歳。546年〈1〉参照)で、彼は喜怒を表に出さない温和な性格をしており、学問に励み、良い詩文を書いた。その詩文は非常に気骨があり、質実剛健の趣があった。
 天監十三年(514)に武陵王に封じられ、間もなく、揚州刺史とされた。中書省が〔任命の〕詔を作り終わった後、帝はそれに四句を付け加えて言った。
「潔白にして質朴、これを清という。財貨を前にして受け取らない、これを廉という。法律を犯さない、これを慎という。庶事を滞らせない、これを勤という。」
 紀は武帝に特に可愛がられていたため、初任が揚州刺史となったのである。
 のち、寧遠将軍・琅邪彭城二郡太守、軽車将軍・丹陽尹を歴任した。のち、会稽太守とされ、普通五年(524)6月(梁武帝紀)に会稽が東揚州とされると、その刺史とされ、使持節・東中郎将を加えられた。のち、侍中・領石頭戍軍事とされた。中大通元年(529)2月(梁武帝紀)に宣恵将軍・江州刺史とされ、四年(532)2月(梁武帝紀)に使持節・宣恵将軍・都督揚南徐二州諸軍事・揚州刺史とされた。

 大同三年(537)9月(梁武帝紀)に持節・都督益梁等十三州諸軍事・安西将軍・益州刺史とされた。紀が遠方にある益州への赴任を固辞すると、武帝はこう言った。

「天下が乱れても、益州なら逃れることができる。故にお前を益州に行かせるのだ。頑張るのだぞ。」

 紀はこれを聞くと啜り泣いて任命を受けた。のち、益州から朝見に赴くと、帝はこう言った。

「お前は以前わしが年老いたと言ったが、わしはまだこうして生きて、お前が益州に帰るのを再び見ることになった。」(原文『「汝嘗言我老,我猶再見汝還益州也。」』

 紀は益州在任中、建寧・越嶲の地を開拓し、前任者の十倍もの量の特産品を朝廷に献上した。大同十一年(545)、朝廷はその政績を嘉し、紀に散騎常侍・征西大将軍・開府儀同三司の官位を授けた。

 天監年間(502~519)の時、太陽門に雷が当たり、このような文字が表れた。

『梁の帝位を受け継ぐ者は、武王ただ一人である。』

 ある者が武王とは武陵王のことだと言うと、以降、人々は紀に心を寄せるようになった

 太清年間(547~549)に侯景字は万景。もと東魏の臣だったが、叛乱を起こして梁に付き、やがてそこで叛乱を起こして都の建康を陥とし、傀儡政権を立てた。550年〈2〉参照)が乱を起こすと、紀は台城の救援に赴かなかった。

 侯景が台城を陥とすと、上甲侯韶字は徳茂。549年6月に湘東王繹に武帝の密勅を届け、侍中・仮黄鉞・大都督中外諸軍事・司徒・承制とした。550年〈2〉参照)は西上して硤口に到り、武帝の密勅を出して紀に侍中・仮黄鉞・都督征討諸軍事・驃騎大将軍・太尉・承制を加えた。

 辛酉(5月13日)考異曰く、南史には『六月辛酉』とあるが、本年の六月は己卯が1日であり、辛酉は無い。典略には五月とあるので、五月辛酉の誤りかもしれない】、紀は州鎮に檄を飛ばし、世子円照字は明周)に二蜀の精兵三万を与えて荊州刺史・承制の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。550年〈2〉参照)の指揮下に入らせた。円照が巴水【巴郡巴県(今の重慶)にある川】に到った時、繹はこれを信州刺史に任じてその治所の(出典不明)白帝に留まらせ、それ以上東下することを禁じた。


○梁55・南53武陵王紀伝

 武陵王紀字世詢,高祖第八子也。少〔而寬和,喜怒不形於色,〕勤學,有文才,屬辭不好輕華,甚有骨氣。天監十三年,封為武陵郡王,邑二千戶。歷位寧遠將軍、琅邪彭城二郡太守、輕車將軍、丹陽尹。出為會稽太守,尋以其郡為東揚州,仍為刺史,加使持節、東中郎將。徵為侍中,領石頭戍軍事。出為宣惠將軍、江州刺史。徵為使持節、宣惠將軍、都督揚南徐二州諸軍事、揚州刺史。〔中書詔成,武帝加四句曰:「貞白儉素,是其清也;臨財能讓,是其廉也;知法不犯,是其慎也;庶事無留,是其勤也。」紀特為帝愛,故先作牧揚州。〕尋(大同三年)改授持節、都督益梁等十三州諸軍事、安西將軍、益州刺史,加鼓吹一部。〔以路遠固辭,帝曰:「天下方亂,唯益州可免,故以處汝,汝其勉之。」紀歔欷,既出復入。帝曰:「汝嘗言我老,我猶再見汝還益州也。」紀在蜀,開建寧、越嶲,貢獻方物,十倍前人。朝嘉其績,〕大同十一年,授散騎常侍、征西大將軍、開府儀同三司。初,天監中,震太陽門,成字曰「紹宗梁位唯武王」,解者以為武王者,武陵王也,於是朝野屬意焉。及太清中,侯景亂,紀不赴援(及侯景陷臺城,上甲侯韶西上至硤,出武帝密敕,加紀侍中、假黃鉞、都督征討諸軍事、驃騎大將軍、太尉、承制。大寶元年六月辛酉,紀乃移告諸州征鎮,遣世子圓照領二蜀精兵三萬,受湘東王繹節度。繹命圓照且頓白帝,未許東下)。


●文成侯寧の挙兵
 梁の文成侯寧鄱陽王範の弟。去年陸緝が呉郡にて叛乱を起こした際、その盟主に祭り上げられたが、景軍に敗れた。549年〈5〉参照)が呉県の西郷にて反侯景の兵を挙げた。すると旬日の内に兵は一万人にまで膨れ上がった。
 己巳(21日)出典不明〉、寧は西進して呉郡城を攻めた。しかし、迎撃してきた景の廂公(景に信任されている者がこの役職に就けられた)の孟振と行呉郡事(出典不明)の侯子栄の軍に敗れ、殺された。首は景のもとに送られた《梁56侯景伝》。子栄は呉郡内を大いに荒らし回った。
 東晋以降、三呉の地は最も繁栄し、天下の貢賦(年貢)や商旅(行商)は皆ここから出た。しかし侯景が叛乱を起こすと、三呉の地は徹底的な略奪に遭い、金目の物は全て無くなり、人は殆ど食われるか北辺に売られるかして、〔すっかり荒廃してしまった〕《出典不明》

 6月、辛巳(3日)、梁(侯景)が南郡王大連字は仁靖。簡文帝の第五子。もと臨城公。東揚州刺史として会稽にて侯景に抵抗したが敗れた。594年〈6〉参照)を行揚州事とした《梁簡文紀》

 この月、梁の江夏王大款字は仁師。簡文帝の第三子。もと石城公。594年〈4〉参照)・山陽王大成字は仁和。簡文帝の第八子。もと新淦公。594年〈4〉参照)・宜都王大封字は仁叡。簡文帝の第九子。もと臨汝公。594年〈4〉参照)が信安(会稽の西南)の間道を通って江陵(荊州。湘東王繹)に亡命した《梁元帝紀》

●封王
 壬午(4日)、北斉の文宣帝高洋)が詔を下して言った。
『故太傅の孫騰字は龍雀。高歓の懐刀で、四貴の一人。548年〈2〉参照)・故太保の尉景字は士真。高歓の姉の夫で、幼くして孤児となった歓の世話をした。545年〈1〉参照)・故大司馬の婁昭字は菩薩。歓の正室の同母弟。548年〈2〉参照)・故司徒の高昂字は敖曹。高歓配下の猛将。538年〈1〉参照)・故尚書左僕射の慕容紹宗字は紹宗。侯景が乱を起こすとこれを大破し、梁に追い払った。549年〈3〉参照)・故領軍の万俟干洛。字は受洛干。河橋の戦いで大いに活躍した。539年参照)・故定州刺史の段栄字は子茂。高歓の正室の姉の夫。539年参照)、故御史中尉の劉貴歓の旧友の一人。539年参照)、故御史中尉の竇泰字は世寧。高歓配下の猛将。537年〈1〉参照)・故殷州刺史の劉豊字は豊生。河橋の戦いにて大いに活躍し、のち慕容紹宗と共に侯景を撃ち破った。549年〈3〉参照)・故済州刺史の蔡儁字は景彦。高歓の腹心の一人。536年〈2〉参照)らはみな先帝の側近で、建国の基礎を築くのに貢献したが、不幸にして早くに病死・戦死してしまった。今建国に当たり、使者を派してその墓を祀ると共に、かつその妻子を慰問し、その生活を保証することとする(原文『慰逮存亡』)。』
 また、一族で太尉の高岳字は洪略。高歓の従父弟。四貴の一人。梁の北伐軍の迎撃・侯景討伐・王思政攻めの総大将となった。549年〈6〉参照)を清河王、太保の高隆之字は延興。高歓の義弟。四貴の一人。550年〈2〉参照)を平原王、開府儀同三司の高帰彦字は仁英。高歓の族弟。549年〈1〉参照)を平秦王、徐州刺史の高思宗高歓の従子)を上洛王、営州刺史の高長弼高歓の従祖兄の子で、高永楽〈河橋の戦いの際、高敖曹を見殺しにした〉の弟)を広武王、兼武衛将軍の高普字は徳広。帰彦の兄の子)を武興王、兼武衛将軍の高子瑗高歓の従叔祖の高盛〈536年〈2〉参照〉の子)を平昌王、兼北中郎将の高顕国高歓の従祖兄)を襄楽王、前太子庶子の高叡高歓の弟の高琛の子)を趙郡王、揚州県開国公の高孝緒高思宗の第二子。高永楽の養子となった)を修城王とした。
 また、功臣で太師の厙狄干高歓の妹の夫。547年〈1〉参照)を章武王、大司馬〔・肆州刺史の〕の斛律金字は阿六敦。高歓の盟友。550年〈2〉参照)を咸陽王、并州刺史の賀抜仁字は天恵。勲貴の一人。550年〈2〉参照)を安定王、殷州刺史の韓軌字は百年。高歓の側室の兄。549年〈6〉参照)を安徳王、瀛州刺史の可朱渾道元本名は元。劉豊と共に西魏から東魏に寝返った。549年〈3〉参照)を扶風王、司徒の彭楽字は興。高歓配下の猛将。邙山の戦いにて西魏の大軍を大破した。549年〈6〉参照)を陳留王、司空の潘相楽潘楽。字は相貴。勲貴の一人。549年〈6〉参照)を河東王とした。
 癸未(5日)、帝は更に弟で青州刺史の高浚字は定楽。高歓の第三子。母は王氏)を永安王とし、尚書左僕射の高淹字は子邃。高歓の第四子。母は穆氏)を平陽王とし、定州刺史の高浟字は子深。高歓の第五子。母は爾朱栄の娘の大爾朱氏。高歓は一時高澄に代えて浟を世子にしようとした。生年532、時に19歳。535年〈1〉参照)を彭城王とし、儀同三司の高演字は延安。高歓の第六子。文宣帝の同母弟)を常山王とし、冀州刺史の高渙字は敬寿。高歓の第七子。母は韓氏。生年534、時に17歳)を上党王とし、儀同三司の高淯高歓の第八子。文宣帝の同母弟)を襄城王とし、儀同三司の高湛高歓の第九子。文宣帝の同母弟)を長広王とし、高湝高歓の第十子。母は爾朱兆の娘の小爾朱氏)を任城王とし、高湜高歓の第十一子。母は遊氏)を高陽王とし、高済高歓の第十二子。文宣帝の同母弟)を博陵王とし、高凝正しくは氵疑。高歓の第十三子。母は大爾朱氏)を新平王とし、高潤字は子沢。高歓の第十四子。母は鄭氏。歓に『我が家の千里の駒だ』と称賛を受けた)を馮翊王とし、高洽字は敬延。高歓の第十五子。母は馮氏。生年542、時に9歳)を漢陽王とした《北史北斉文宣紀》

●江州の争いと荘鉄の死
 梁の鄱陽王範字は世儀。武帝の弟の子。合州刺史として合肥を守備していたが、西方に退避し、尋陽王大心から湓城を譲られた。しかしやがて大心と仲違いし、争うようになった。550年〈2〉参照)が亡くなったのち、その部将の侯瑱字は伯玉。鄱陽王範に長く付き従ってきた猛将。尋陽王大心に反抗して窮地に陥っていた荘鉄を救った。550年〈2〉参照)は豫章(尋陽の南)の荘鉄尋陽王大心の部下だったが、叛乱を起こして豫章に拠った。550年〈2〉参照)を頼ったが、次第に疑われ邪険にされるようになり、身に不安を覚えるようになった。
 丙戌(8日)出典不明〉、瑱は相談したいことがあると言って鉄を呼び、機を見てこれを斬殺し、豫章を占拠した《陳9侯瑱伝》

 江州(尋陽柴桑)刺史の尋陽王大心字は仁恕。簡文帝の第二子。550年〈2〉参照)の部将の徐嗣徽荘鉄が乱を起こすとこれを撃退した。のち湓城の東にある稽亭渚に駐屯し、鄱陽王範を兵糧攻めにした。550年〈2〉参照)が湓城(鄱陽王範の残党が拠る城。尋陽の東)を夜襲した。しかし、南安侯恬鄱陽王範の弟。範が死ぬとその跡を継いだ。550年〈2〉参照)・裴之横字は如岳。548年〈5〉参照)らに撃退された《出典不明》

●文宣帝、漢人の娘を皇后とする
 これより前、文宣帝は趙郡の李希宗字は景玄。北魏の揚州刺史の李憲〈527年(2)参照の子で、高道穆に選任された御史の一人。のち高歓に抜擢されて中外府長史となった。人望と容姿を兼ね備えていたため、非常に礼遇されたの次女の李氏諱は祖娥。容姿・性格共に抜群の美女だった。549年〈5〉参照)を正室として、高殷字は正道。生年545、時に6歳)と高紹徳を産ませていた。また、段韶字は孝先。段栄と婁昭君の姉の子。智勇兼備の将。550年〈2〉参照)の妹を側室にしていた。
 現在、皇后を立てるに当たって、高隆之高徳政字は士貞。文宣帝の懐刀。550年〈2〉参照)はこう言って反対した。
「漢人の婦人を天下の母にすべきではありません。どうか〔鮮卑人の〕美人を皇后となさいますように。」
 これに対し、楊愔字は遵彦。名門楊氏の生き残り。550年〈2〉参照)はこう言った。
「漢・魏以来、禅譲を受けて即位した者は正室をそのまま皇后としました。どうか先例に倣われますように。」
 徳政はなおも、勲貴の支持を得るためにも李氏を廃して段氏を皇后に立てた方がいいと強く主張したが、帝は聞き入れなかった《北斉9文宣李后伝》
 丁亥(9日)考異曰く、典略には『五月乙丑(17日)』とある。今は北斉文宣紀の記述に従った】、北斉が李氏を皇后とし、段氏を昭儀(第一等の側室)とし(出典不明)、高殷を皇太子とした。
 帝は妃嬪を鞭打つのが好きで、酷いときには殺してしまうこともあったが、李氏だけには最後まで丁重な態度を取り続けた(北斉9文宣李后伝)。
 庚寅(12日)、太師の厙狄干を太宰とし、司徒の彭楽を太尉とし、司空の潘相楽を司徒とし、開府儀同三司の司馬子如字は遵業。高歓の親友で四貴の一人。550年〈2〉参照)を司空とした。
 辛卯(13日)、前大尉の清河王岳を使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・宗師(北斉13清河王岳伝)・司州()牧とした《北斉文宣紀》

●羊鴉仁の死
 これより前、侯景が台城を陥とした時、前司州刺史の羊鴉仁字は孝穆。549年〈3〉参照)はこれに降り、五兵尚書とされていた。鴉仁は常に〔忠義の心を〕奮い立たせ、親しい者にこう言っていた。
「私は凡人の輩の一人にしか過ぎなかったのに、国家は私をお引き立てくださった。また、大した功績も挙げていなかったのに、国家は私に重い恩賞をお授けになった。いま、その国家が危殆に陥っているというのに、私は国家のために死ぬこともできず、のうのうと生きながらえてしまっている。これでは死んでも死にきれぬ。」
 そう言って涙を流すと、これを見た者はみな心を傷めた。
 庚子(22日)考異曰く、太清紀には『十月』とある。今は梁簡文紀・典略の記述に従った】、鴉仁は尚書省を抜け出し、江西(合肥・寿春方面。梁簡文紀では『西州〔城〕』)に逃亡した。鴉仁はその地でもと部下数百人に迎えられ、江陵に向かった。しかし東莞【南兗州に東莞郡があるが、江西には無い。恐らく東関の誤りでは無いか?】に到ったところで、故北徐州刺史の荀伯道の息子たちに殺されてしまった(通鑑では『金目の物を持っていると考えていた盗賊に待ち伏せを受け、殺された』とある《梁39羊鴉仁伝》

●詧も承制す
 西魏の都督三荊等十五州諸軍事の楊忠字は揜于。550年〈1〉参照)が梁の雍州刺史の柳仲礼侯景が台城を包囲した時、救援軍の総大将となった。のち司州に帰還すると湘東王繹に従い、雍州を攻めた。550年〈1〉参照)を捕らえ、漢水東部を平定すると、梁の岳陽王詧字は理孫。昭明太子統の第二子。湘東王繹によって窮地に追い詰められ、やむなく西魏軍を梁国内に引き入れた。549年〈6〉参照)はようやく安寧を得た。
 この時、西魏は詧に喪を発して帝位を嗣ぐべきだと言ったが、詧は玉璽や遺詔が無いことを理由に辞退した。このとき詧のもとにいた〔西魏の丞相府東閤祭酒の〕栄権去年、詧のもとに使者として赴いていた。549年〈6〉参照)が馬を飛ばして関中に還り、このことを詳しく報告すると、西魏の丞相の宇文泰字は黒獺)は仮散騎常侍の鄭道邕字は孝穆。岐州にて西魏一の治績を挙げ、宇文泰に称賛された。今回栄誉ある使者に選ばれたのは、泰の一声があったからだった。547年〈4〉参照)と栄権に旌節(使者の証明)と策命(封建の命令文書)を持たせて襄陽に赴かせ、詧を梁王に封じた(北史西魏文帝紀ではこれを去年の十二月の事としている。通鑑がここにこの記事を置いている理由は不明)。詧はそこで皇帝を代行して襄陽に朝廷を建て、百官を置いた《周48蕭詧伝》
 
●女傑・洗夫人

 この月、梁(湘東王繹)の明威将軍・交州刺史の陳霸先字は興国。時に48歳。李賁の乱を平定した名将。今年より建康に向かって北上を開始し、道中の南康に割拠していた蔡路養を撃破した。550年〈1〉参照)が、崎頭の古城【湾曲している岸を崎という。九域志曰く、〔南宋の〕南安軍の治所は大庾県で、これは古の南野の地に当たる。ここに南康古城があり、また、峽頭鎮があった】を修築して居城とした《陳武帝紀》劉恵騫)らは古城の上空が常に紫気(皇帝の気)に覆われているのを見ると、大いに驚き、心から覇先に従った《南史陳武帝紀》


 これより前、北燕の昭成帝馮弘)が北魏に敗れて高句麗に逃亡した時(436年5月参照)、その族人の馮業は帝に命じられて、三百人を連れて海を渡り、劉宋に亡命した。業は新会郡【広州の西南】に安置された。業より孫の馮融の代に至るまで、馮氏は代々羅州刺史【五代志曰く、高涼郡(高州の治所。新会の西南)の石龍県(高涼の西)に置かれた】を務め、融の子の馮宝は高涼太守とされた。
 高涼の洗氏【考異曰く、典略には『沈氏』とある。今は隋書の記述に従った】は代々南越族の首領(通鑑では『蛮族の酋長』)を務め、多くの山洞を併せ領し、十余万家もの部落を従えていた。洗氏には娘がいたが、彼女は幼い頃から賢く、権謀術数に長け、父母の家に在って良く部衆を手懐け、見事に指揮して越族を屈服させた。彼女は〔信義を固く守り、〕親族に対して常に善行を行なうよう勧めた。ここにおいて、高涼の越族は彼女に心から服した。越人は同族を攻撃するのを好む習性があり、洗娘の兄で南梁州刺史の洗挺は自らの富強を恃みに近辺の郡を襲い、嶺表(嶺南。現在の広東省)の越族を苦しめた(南梁州は509年に北巴西郡に置かれた。越族の居住地とはかけ離れているので、名ばかりの任命か、誤りなのかもしれない)。洗娘が何度も挺を諌めると、越族の怨みは止み、海南島の儋耳郡(海南島西部)の千余洞が彼女のもとに付き従った。
 梁の大同の初め(535年)、馮融は彼女の志行が立派なのを聞くと、招いて子の宝の妻とした。馮氏は代々刺史の任を務めてはきたものの、地元の人間では無かったため人々から受け入れられず、命令が行き届かなかった。洗夫人がそこで実家に対し馮氏に平民の礼をとるように約束させ、訴訟は宝と一緒に判決をし、〔越族の〕首領に法を犯す者がいれば、たとえ親戚であったとしても容赦無く罰すると、馮氏の政令はようやく領内に行き届くようになった。


 侯景が乱を起こして〔建康を陥とすと〕、広州都督の曲江侯勃武帝の従父弟の子。陳覇先に盟主に祭り上げられた。550年〈1〉参照)は兵を集めてこれを救おうとした。高州刺史の李遷仕台城が侯景に包囲された際その救援に赴き、青溪の戦いにて活躍したが、結局大敗した。その後、当陽に拠って馬や武器を奪っていたという。549年〈6〉参照)が大皋口(陳8周文育伝では『大㞕』。大㞕は陳12胡穎伝に『穎を巴丘(豫章の西南)県令として大㞕を守備させた』とあるので、巴丘にあると思われる。《読史方輿紀要》曰く、『大皋城は吉安府(盧陵の南)の南二十里にある。』)に進駐し、宝を呼び寄せた。宝がこれに応えて行こうとすると、洗夫人が諫止して言った。
「刺史が何の理由も無く太守を呼ぶわけがありません。きっとあなたを叛乱に巻き込もうとして呼んだのでしょう。」
 宝は尋ねて言った。
「お前はどうやってそれを知ったのだ?」
 洗夫人は答えて言った。
「刺史は、〔広州都督が北伐を命じても〕病気だと称して動かず、軍備を整えることに腐心していました。その刺史が〔今になっていきなり〕あなたを呼んできたのですから、〔怪しいに決まっているではありませんか。〕刺史はきっと〔叛乱を企んでおり、〕あなたを人質にして、あなたの兵を自軍に取り込もうとしているのです。その意志は誰の目にも明らかであります。どうか刺史の元に赴かず、その出方を見られますよう。」
〔宝はこれに従った。〕
 数日後、遷仕は果たして叛乱を起こした。遷仕は主帥の杜平虜に千人の兵を与え(陳武帝紀)、灨石(南康〜魚梁にある難所)の魚梁(南康の北)に城を築かせ、南康を圧迫した。梁(湘東王繹)の員外散騎常侍・持節・明威将軍・交州刺史・南野県伯の陳覇先は府司馬の周文育字は景徳。覇先配下の猛将。550年〈1〉参照)にこれを攻撃させた。
 宝がこれを聞いて慌てて洗夫人に知らせると、夫人はこう言った。
「平虜は驍将ですが、今灨石にて官軍と対峙しているため、我らが、州にいる(?)遷仕を攻めてもすぐには引き返してこれません。〔ただ、平虜抜きでも、遷仕は油断できない相手であります。〕ゆえに、ここは辞を低くし、多くの貢ぎ物を送って、使者にこう伝えさせてください。『自分はまだ行くことがかないませぬゆえ、代わりに妻を向かわせます。』と。遷仕はこれを聞けば必ず喜び、警戒を解くでしょう。私は勇士千余人をに諸物を担がせ、『貢ぎ物をお納めします』(原文『輸賧』)と呼ばわらせながら、その軍営に近づきます。辿り着くことができれば、勝ったも同然であります。」
 宝はこれに従った。すると果たして遷仕は大いに喜び、夫人の兵たちが諸物を担いでいる姿を見ると、安心しきって何の警戒もしなかった。夫人がこれを攻めると、遷仕は大敗し、寧都【孫呉が贛県を割いて陽都県を立て、西晋の武帝が太康元年にそれを寧都に改めた。五代志曰く、南康の虔化県は、むかし寧都といった】に逃げ込んだ。
 文育もまた平虜を敗走させ、魚梁城を占拠した。
 荊州刺史・承制の湘東王繹はそこで覇先を通直散騎常侍・使持節・信威将軍・豫州刺史・領豫章内史・長城県侯とした。間もなく更に散騎常侍・使持節・都督六郡諸軍事・軍師将軍・南江州【新呉(豫章の西)?】(南康?)刺史とした。
 夫人は灨石にて覇先と会見し、〔高涼に〕還ると宝にこう言った。
「陳都督は恐るべき人物であり(通鑑では『非常の人』)、非常に兵の心を摑んでおります。彼が賊徒(侯景)を撃ち平らぐは必定。あなたは彼に手厚い援助をなさるべきです。」(陳8周文育伝には、『李遷仕は大㞕(屑)に拠ると、部将の杜平虜に灨石に入らせ、魚梁に城を作らせた。覇先が文育にこれを攻撃させると、平虜は城を棄てて逃走し、魚梁城は文育が占拠した。遷仕は平虜が敗れたのを聞くと、老弱を大㞕に留め、選りすぐった精兵を率いて文育を攻めた。その攻撃は非常に鋭く、文育の兵はこれと戦うのを憚った。文育〔がそこで自ら出撃して〕これと戦うと、遷仕はやや退いて、睨み合いとなった。覇先が杜僧明(字は弘照。覇先配下の猛将。550年〈1〉参照)を援軍に送り、別に遷仕の水軍を撃ち破ると、遷仕軍は総崩れとなり、遷仕は大㞕に寄ることもせず、一目散に新淦(豫章の西南)まで逃亡した。湘東王繹は文育を仮節・雄信将軍・義州(治 義城、汝南の東南)刺史とした。』とある。杜平虜が敗れた後に李遷仕が敗れたり、寧都ではなく新淦に逃げたりと、陳武帝紀や隋80譙国夫人伝の記述と合わない所が多い。今は通鑑の記述に従った《隋80譙国夫人伝》

 

 辛丑(23日)、南安侯恬の部将の裴之横が稽亭(湓城の東)を攻めたが、尋陽王大心の部将の徐嗣徽に撃退された(6月8日頃では逆に嗣徽が湓城を攻めたものの之横に撃退されていた《出典不明》

 秋、7月、辛亥(3日)文宣帝が兄の高澄の妃だった元氏馮翊長公主。549年〈5〉参照)を文襄皇后とし、その住居を静徳宮と名付けた。また、高澄の子の高孝琬高澄の第三子。母は元氏。541年参照)を河間王、高孝瑜字は正徳。澄の長子。母は北魏の吏部尚書の宋弁の孫娘)を河南王とした。
 乙卯(7日)、尚書令の平原王隆之高隆之)を録尚書事、尚書左僕射の平陽王淹を尚書令とした《北斉文宣紀》

 辛酉(13日)《出典不明》、西魏の梁王詧梁の岳陽王詧)が尚書僕射(北93蕭詧伝)の蔡大宝字は敬位。詧が江陵を攻めた際にも襄陽の留守を任された。549年〈6〉参照)に襄陽の留守を任せ、西魏の朝廷に参内した。宇文泰は詧に会うとこう言った。
「王がここに来てくださったのは、栄権詧の承制を参照)に依る所が大きいと思います。彼に会いたくはありませんか?」
 詧は答えて言った。
「会うことができるなら、幸甚の至りに存じます。」
 泰は権を呼んで詧に会わせ、こう言った。
「栄権は立派な人物で、一度も私の信頼を裏切ったことがありません。」
 詧は答えて言った。
「栄常侍は二国の間を往来する際、一つも私情を混じえませんでした。だからこそ、私は〔何の疑念も持たずに、〕今こうして参内したのであります。」《周48蕭詧伝》

●晋州陥落

○顔氏家訓養生
 鄱陽王世子謝夫人,登屋詬怒,見射而斃。夫人,謝遵女也。

 これより前、梁の鄱陽王範字は世儀。武帝の弟の子。侯景が建康を陥とした後、江州にて尋陽王大心と争い合った。550年〈2〉参照)は晋熙(治 懐寧)に晋州を置き、世子の蕭嗣字は長胤。大兵巨漢で、勇猛果敢であり、兵士の心を良く掴んでいた。550年〈2〉参照)にその守備を任せていた。範が死ぬと(5月7日)、嗣は依然として晋熙に留まり続けたが、城中の食糧は尽き、兵も殆ど死に果ててしまった《梁22鄱陽世子嗣伝》。東魏(5月10日に滅亡。北斉?)は儀同で武威の人の牒云洛らにを迎えに行かせ、嗣に対し晋熙から皖城【旧唐書によれば、懐寧・宿松・望江・太湖などの県は、みな漢の皖県の地である。思うにこの皖城は皖県の古城であろう】に駐屯地を遷すよう要請した。
 この月梁56侯景伝)、嗣がまだ皖城に行かない内に侯景が任約もと西魏の将軍。2月頃に于慶と共に梁の諸藩を攻略するよう命じられていた。550年〈1〉参照・盧暉略建康攻略の際、侯景に東府城の守備を任された。548年〈4〉参照)〈梁56侯景伝〉の軍を派遣してくると、洛らは〔直ちに〕兵を退き、嗣は孤立無援となった《出典不明》
 嗣は甲冑を身に着けると、出城に出てこれを迎撃した。この時、侯景軍の勢いは非常に盛んであったため、部下たちはみな制止したが、嗣は剣に手をかけ、叱りつけて言った。
「どうして退くことがあろうか? 今こそ、私が命を賭して国に尽くす時なのだ!」《梁22鄱陽世子嗣伝》
 戦いが始まると、嗣の喉首に流れ矢が当たったが、嗣は周囲に抜くことを断固として許さず、矢が刺さったまま手ずから景兵数人を殺した。そして景軍が退却したのを見てからようやく周囲に矢を抜くよう命じたが、その刹那、息絶えた。〔任約らはこれを知ると引き返して晋熙を陥とし、〕嗣の妻子を虜とした《南52鄱陽世子嗣伝》。嗣の妻の謝夫人は屋根の上に登って景兵を罵倒し、射殺された。謝夫人は、謝遵の娘である。

●江州陥落
 約らはそのまま侵攻を続け、湓城に到った。梁の江州刺史の尋陽王大心は司馬の韋質邵陵王綸の長史)に迎撃をさせたが大敗した。この時、大心の手元にはなお勇士千余人が残っており、彼らはみな大心にこう説いて言った。
「兵糧が既に尽きていますので、固守することは難しゅうございます。軽騎を率いて建州【五代志曰く、弋陽郡(光州の治所。義陽の東)殷城県(もと苞信県)に梁は義城郡と建州を置いた。大心の部下たちは大心に北斉領内に逃げるよう勧めたのである】(梁武帝紀曰く、523年に梁は広州を割いて成州・南定州・合州・建州を立てた。隋書地理志曰く、梁は永熙郡安遂県〈広州の西、高州の北〉に建州と広熙郡を置いた。郡は間もなく廃されたが、州は隋代まで残された。また曰く、梁は蘄春郡羅田県(晋熙の西、殷城の南)に義州と義城郡を置いた。以上によると、建州は殷城か広熙の二つが存在することになる。北建州・南建州が存在していたのか、殷城が建州ではなく義州であったのか。江州尋陽からみて地理的に近いのは殷城ではある)に赴き、再起を図るのが上策でしょう。」
 大心が決しかねていると、母の陳淑容が言った。
「ただいま、陛下はご高齢(簡文帝は48歳)であらせられ、子どもたちが傍にいてお助けしなければならない時でありますのに、お前は久しく陛下に会うことも、朝廷に参内することも考えず、その上、老いている母に、食糧も無しに遠く険しい道を歩かせようというのですか。このような子を孝子と言えましょうか。私は絶対に付いていきませんよ。」(原文『「即日聖御年尊,儲宮萬福,汝久奉違顏色,不念拜謁闕庭,且吾已老,而欲遠涉險路,糧儲不給,豈謂孝子,吾終不行。」』
 そう言って胸を叩き、慟哭すると、大心は建州行きを諦めた《梁44尋陽王大心伝》
 戊辰(20日)、大心は江州と共に約に降った《梁簡文紀》
 これより前、大心は太子洗馬の韋臧字は君理。青塘の戦いで戦死した韋粲の長子。侯景が建康を攻めた際、西華門を守備した。建康が陥ちると江州に逃れた)に建昌(尋陽と豫章の間にある)を守備させており、五千の兵がその指揮下にあった。尋陽(江州の治所)が失陥したのを聞くと、臧は兵を連れて江陵に逃亡しようとしたが(出典不明)、出発する前に部下に殺された《梁43韋臧伝》

●豫章陥落
 侯景の将の于慶2月頃に任約と共に梁の諸藩を攻略するよう命じられていた。550年〈1〉参照)が南侵して豫章郡に迫り、その城邑をみな攻め陥とした。追い詰められた侯瑱6月8日に荘鉄を斬って豫章に割拠していた)は、鄱陽王範の子十六人と共に慶に降伏した(南52鄱陽王範伝)。慶は瑱と範の諸子を建康に送った。景は自分と同姓である瑱を一族のように優遇し、その妻子と弟を人質にしてから、慶と共に蠡南【彭蠡湖(鄱陽湖)以南の地(豫章以南)を指す】諸郡を攻略させた《陳9侯瑱伝》。また、湘州刺史【考異曰く、太清紀には11月とあるが、今は典略の記述に従った】とした《出典不明》
 範の諸子はみな石頭(建康の西にある城)にて穴埋めにされて殺された《南52鄱陽王範伝》

●黄法氍
 巴山新建【五代志曰く、臨川郡の崇仁県(豫章の南)に梁が置いた。旧唐書曰く、孫呉が臨汝県(臨川郡の治所)を割いて新建県を置き、梁がそれを巴山県に改め、巴山郡を置いた】の人の黄法氍コウホウク。字は仲昭)は、幼い頃から剽悍で度胸があり、一日に三百里(南史では『二百里』)を歩き、三丈ほども飛び上がることができた。また、書簡の書き方が上手く、簿記にも精通していたため、〔州〕郡の役所に出入りすることを許されるようになり(原文『出入郡中』。南史では『出入州郡中)、郷里の人々から敬憚されるようになった。侯景が乱を起こすと兵を集めて郷里を守り、太守の賀詡が江州に下る際(法氍が追い出した?)に監郡事とされた。
 この時、陳覇先は李遷仕と戦っており、周文育を西昌に進駐させていた。法氍は兵を派して文育を助けた。法氍は新淦に駐屯した(周文育伝で李遷仕が逃げこんだ場所。この説を取るなら、このとき遷仕は既に新淦から寧都に逃亡していたことになる? あるいはこの時に遷仕を破って寧都に敗走させた?)。
 于慶が豫章より兵を分けて新淦を襲わせると、法氍はこれを破った。この時、覇先は文育に慶を攻撃させたが、文育は慶軍の強力さを憚り、進軍を躊躇った。法氍はそこで兵を率いてこれと合流した《陳11黄法氍伝》

 任約の軍が〔郢州に迫った。〕邵陵王綸字は世調)が司馬の蒋思安に精兵五千を与えて奇襲させると、約の軍は総崩れとなった。〔間もなく、〕約が敗残兵を集めて思安に奇襲を仕掛け返すと、〔勝利に酔っていて〕警戒を全くしていなかった思安は敗れて逃走した。

 湘東王繹が宜都(江陵の西。治所は夷道)を宜州とし、王琳字は子珩。兵戸の出身だったが、姉妹が湘東王繹の側室となったことから、重用を受けて将軍とされた。549年〈3〉参照)をその刺史とした《出典不明》

 この月、梁(侯景)が南郡王大連6月3日に侯景によって行揚州事とされていた)を江州刺史とした《梁簡文紀》


 550年(4)に続く