[西魏:大統十六年 東魏:武定八年→北斉:天保元年 梁(侯景):大宝元年 梁(湘東王繹):太清四年]



●非礼
 夏、4月、庚辰朔(1日)、梁の仮黄鉞・都督中外諸軍事・承制・荊州刺史の湘東王繹字は世誠、武帝の第七子。550年〈1〉参照)が皇帝の人事権を代行して上甲侯韶字は徳茂。武帝の兄の長沙宣武王懿の孫。549年6月に建康から繹のもとに逃れ、武帝の密詔を伝えていた。549年〈4〉参照)を長沙王とした【梁書を按ずるに、長沙王は懿の子の淵業(彼の弟の子が韶)が継ぎ、淵業が亡くなると子の孝儼が跡を継ぎ、孝儼が亡くなると子の眘()が跡を継いだ眘は懿の曾孫で、時に建康に在った。しかし湘東王は韶が自分のもとにやってきたということだけでこれを長沙王とした。これは礼にもとる行為だった《出典不明》

 丙戌(7日)、東魏の長広公の高湛丞相の高洋の弟。時に14歳)の妻の隣和公主叱地連。柔然の豆兵可汗の孫娘。544年〈2〉参照)が晋陽にて逝去した(享年13《茹茹公主閭氏銘》

●西州の宴
 辛卯(12日)通鑑では『丙午(27日)』。簡文紀では2月?の丙午(26日)とする〉、梁の丞相の侯景字は万景。時に48歳。東魏から梁に降ったが、叛乱を起こして首都の建康を攻め陥とした。550年〈1〉参照)が簡文帝蕭綱)を連れて西州〔城?〕(建康の西にある城)に遊んだ。
 帝は飾り気の無い輦(手車、人力車)に乗り、四百余人の侍衛に護衛をさせたが、景は〔それを上回る〕数千の浴鉄【鉄騎兵のことを指す。戦馬が鉄甲を着ているのを、鉄を浴びているように喩えたのである】に己の護衛をさせた。帝が西州に到ると、景らはこれに逆拜(迎拝)を行なった。帝は下屋(逆さま)の白色の紗帽(絹紗を用いた帽子)と白布の裙襦(スカート状の礼服)、景は紫色の紬褶(紬糸で織った絹布製の軍服。褶は騎乗に適した服で、下はズボンだった)に帝から下賜された金帯をそれぞれ身につけていた。景の儀同の陳慶549年〈4〉参照)・索超世らは西面して座し、溧陽公主とその母の范淑妃は東面して座した。帝は絲竹(楽曲の演奏)を聞いても、悲しみに打ち沈んでただただ泣くばかりだった。景は立ち上がって謝り、こう尋ねた。
「陛下、どうして楽しまれていないのですか?」
 帝は無理に笑って言った。
「丞相、索超世に何の音楽を流しているか聞いてみてくれぬか?」
 景は答えて言った。
「臣が知らないのですから、超世だって知らないでしょう。」
 帝が景に舞を舞うよう命じると、景は直ちに席を立ち、演奏に合わせて舞を舞い歌を歌った。帝は范淑妃にも舞をするように言ったが、淑妃が固辞したのでやめた。景は帝にお辞儀をしたのち、帝にも舞を舞わせた。宴がお開きになり、人々がいなくなると、帝は牀(寝具・座具)の上で景を抱いて言った。
「わしは丞相を大切に思っておるぞ。」
 景も答えて言った。
「陛下が臣を大切になさらなければ、臣は丞相になれなかったでしょう。」
 帝は筌蹄(払子。説法の時に威儀を正すためのもの)を人に持ってこさせて言った。
「一つ、丞相に説法をしてやろう。」
 かくて景に席を外し、お経を唱えるよう命じた。景は超世に一番短いお経は何か尋ねた。超世は答えて言った。
「観世音(観音経)が一番短こうございます。」
 景はそこで直ちにこれを読んで言った。
「『爾時無尽意菩薩(ちょうどその時、無尽意菩薩は…)』。」
 帝はこれを聞くと大いに笑った。夜になって散会した。

●江南に餓死者相次ぐ
 近年、江南は旱害や蝗害に悩まされていたが、特に江州・揚州が最も酷く(梁簡文紀には『この年の春から夏まで大飢饉〈南史では『大旱魃』〉が起こり、人間同士が相食む惨状となった。その様は、建康が最も酷かった』とある)、年貢は納められず、人民は逃亡し、山谷や江湖に入って草の根や葉っぱ、菱角(沼地に育つヒシの種子。ふかして食べる)や芡(鬼蓮。浮水性の水草)の実を採って〔飢えをしのいだが、〕全て食べ尽くしてしまうと、餓死者が野に満ち満ちるようになった。富裕の者も例外ではなく、みな顔や体が鳥か白鳥のように痩せこけ(原文『鳥面鵠形』)、立派な衣服を着、珠玉を持ちながら、天蓋付きの寝具に倒れ伏して死んでいった。炊煙は千里四方に渡って絶え、足跡を見るのは稀で、白骨は丘陵のように積み重なった。

○梁簡文紀
 自春迄夏,大饑,人相食,京師尤甚。
○南80侯景伝
 時江南大饑,江、揚彌甚,旱蝗相係,年穀不登,百姓流亡,死者塗地。父子攜手共入江湖,或弟兄相要俱緣山岳。芰實荇花,所在皆罄,草根木葉,為之凋殘。雖假命須臾,亦終死山澤。其絕粒久者,鳥面鵠形,俯伏牀帷,不出戶牖者,莫不衣羅綺,懷金玉,交相枕藉,待命聽終。於是千里絕烟,人跡罕見,白骨成聚如丘隴焉。

●貞女・臧氏
 梁の末期に侯景の乱が起こると、建康は大飢饉に襲われ、八・九割が餓死した
〔太学博士の〕徐孝克生年527、時に24歳)は母の陳氏を養っていたが、とうとう粥すら与えることができなくなった。孝克の妻の臧氏は故・領軍将軍で東莞の人の臧盾の娘で、かなりの美人だった。孝克はそこで臧氏にこう言った。
「今、我が家はご覧の通りの飢饉で、母や君を養うのにも事欠く有り様だ。今もし君〔と別れ、〕裕福な者と再婚させれば、母も君も生き残る事ができるかもしれない。君はどう思う?」
 臧氏は拒否した。
 この時、侯景の将に孔景行という者がいて、裕福だった。孝克は秘密裏に仲立ち人を通して景行に妻を嫁がせる意思があるのを伝えると、景行は多くの従者を引き連れて孝克の家に赴き、臧氏を無理やり妻に迎え入れた。臧氏は涙を流して家を去った。孝克はその引き換えに得た穀物や絹を全て母を養うのに使った。また、剃髪して僧侶となって法整と改名し、托鉢を行なって手に入れた物も母を養うのに使った。一方、臧氏もこれまでにかけられた優しさを忘れず、孝克の家に密かに何度も食物を送ったので、母を養うのに困る事は無くなった。
 のち、景行が戦死すると、臧氏は何日にも亘って道で孝克に会ってこう言った。
「昔、私たちが別れたのは嫌いになったからではありません。景行が死んで自由の身になった今、貴方のもとに帰るのが当然だと思います。」
 孝克は〔嬉しいやら申し訳ないやらで〕言葉が出なかった。孝克はここにおいて還俗し、臧氏と改めて夫婦となった。
 のち、孝克は東方に赴いて銭塘(会稽の西北)の佳義里に住み、僧たちと共に仏典の内容について討論を行ない、かくて三論(《中論》《十二門論》《百論》)に通じるようになった。每日早朝に仏教の、夜に礼記の計二回の講義を行ない、僧俗数百人がこれを聞いた。

 孝克は徐摛の子で、徐陵の第三弟(母は違う。歳も20も離れている。ちなみに陵の母も臧氏)である。若年の頃に〔国子〕周易生(国子学にて周易を学び研究する者)となった。弁才があり、老子・荘子・周易の議論を得意とした。成長すると五経(《易経》《詩経》《書経》《礼記》《春秋》)に精通し、広く史書を読み、優れた文章を書いたが、その文は本質には達していなかった。
 梁の太清年間(547~549)の初めに出仕して太学博士とされた。非常な孝行者で、父の死に遭うと(549~551年の間)喪服の重みにすら堪えられないほどに痩せ細った。その後は生母の陳氏に仕えて孝養を尽くした。

○陳26徐孝克伝
〔徐〕孝克,陵之第三弟也。少為周易生,有口辯,能談玄理。既長,遍通五經,博覽史籍,亦善屬文,而文不逮義。梁太清初,起家為太學博士。性至孝,遭父憂,殆不勝喪,事所生母陳氏,盡就養之道。梁末,侯景寇亂,京邑大飢,餓死者十八九。孝克養母,饘粥不能給,妻東莞臧氏,領軍將軍臧盾之女也,甚有容色,孝克乃謂之曰:「今飢荒如此,供養交闕,欲嫁卿與富人,望彼此俱濟,於卿意如何?」臧氏弗之許也。時有孔景行者,為侯景將,富於財,孝克密因媒者陳意,景行多從左右,逼而迎之,臧涕泣而去,所得穀帛,悉以供養。孝克又剃髮為沙門,改名法整,兼乞食以充給焉。臧氏亦深念舊恩,數私致饋餉,故不乏絕。後景行戰死,臧伺孝克於途中,累日乃見,謂孝克曰:「往日之事,非為相負,今既得脫,當歸供養。」孝克默然無答。於是歸俗,更為夫妻。後東遊,居于錢塘之佳義里,與諸僧討論釋典,遂通三論。每日二時講,旦講佛經,晚講禮傳,道俗受業者數百人。

 ⑴《金陵記》には『梁が建康を都とした時、その人口は二十八万を数えた』とあり、《南80侯景伝》には「侯景の包囲が始まった当初、台城内には十余万の民衆と二(或いは三)万余の兵士がいたが、包囲が長期に亘ると、八・九割が死に、守兵は四千人以下にまで激減した」とあり、《資治通鑑》には『侯景の数ヶ月に亘る建康包囲中に住民は相い食むまでに追い詰められ、餓死を免れ得た者は百人の内一人か二人しかいなかった』とある。
 ⑵臧盾…字は宣卿。478~543。東莞臧氏の出。父は梁の江夏太守の臧未甄母は劉氏。美男で、立ち居振る舞いにも品があった。また、非常な孝行者で、父が亡くなった時には5年も喪に服した。また、聡明で根気があった。徵士の諸葛璩に五経の授業を受け、「王佐の才」と絶賛された。兼中書通事舍人や御史中丞を務めた。533年、四部無遮大会中に象が暴れた時、平然とその場に留まった。武帝に「非常な忠義者で、周到・慎重であり、職務態度は公正で真面目ゆえ、必ず六軍をまとめることができる」と絶賛を受け、兼領軍とされた。536年、中領軍とされると激務を良く処理した。539年~541年に病に臥し、治ると領軍将軍とされた。543年、死去した。忠と諡された。
 ⑶徐摛…字は士秀。471頃~549頃。大変な読書家で、軽艶な詩文を作って『宮体(徐庾体)』という新詩体を確立した。太子綱の昔からの幕僚で、侯景が太子の部屋に乱入してくると恐れることなくその無礼を叱咤した。
 ⑷徐陵…字は孝穆。生年507、時に44歳。名文家の徐摛の子。母は臧氏。文才があり、庾信と並び称された。また、弁舌にも長けた。548年に東魏に使者として派遣され、宴席で魏収をやり込めた。派遣中に梁国内で侯景の乱が勃発すると抑留された。

●侯景の虐政
 侯景は疑り深く残忍な性格で殺戮を好み、常に手ずから人を斬って娯楽とした。食事をする時は面前で人を斬らせ、その間いつものように談笑し、飲み食いをやめなかった。ある者はまず手足と舌と鼻を切断し、それから日を置いたのちに殺した。
 また、石頭に大舂碓(大きな杵臼)を置き、法を犯した者がいればこれを臼の中に入れて搗き殺した。また、諸将にいつもこう言いつけていた。
「砦や城を陥としたら、住民を皆殺しにして、わしの威名を天下に知らしめよ。」
 故に、諸将は戦いに勝つたび放火や略奪に勤しみ、人命を軽視し、遊び感覚で人を殺した。この行為に民衆はひどく反発し、死んでも景に付こうとはしなくなった。
 ある時、東陽の人の李瞻は景に対して兵を挙げたが捕らえられ、建康に送られた。すると景はまずこれを市中引き回しにし、それからその手足を切断させ、更に腹をかっさばいて肝や腸を取り出させた。しかし瞻は最後まで泰然自若とし、痛がるそぶりを見せるどころか笑みすら浮かべていた。取り出された肝を見た者は、まるで枡のように大きかったと言い合った。
 また、景は人々が話をすることや酒宴をすること(人が集まる)を禁じ、違反した者は外族(親戚)まで皆殺しにした。
 景は配下の者で辺境で軍務を兼ねている者を『行台』(軍政官)とし、帰順してきた者をみな『開府』とした。また、信任している者を『左右廂公』とし、並外れた勇猛さを持つ者を『庫真部督』とした。

 西魏が皇子の元儒を燕王とし、元公を呉王とした《北史西魏文帝紀》

 この月、侯景が司徒の宋子仙侯景軍随一の猛将。549年〈6〉参照)を〔会稽から〕京口(南徐州、建康の東)に呼び戻した(侯景伝では2月?のこと《梁56侯景伝》

 
○梁56・南80侯景伝
 性猜忍,好殺戮。〔恒以手刃為戲。方食,斬人於前,言笑自若,口不輟飡。〕刑人或先斬手足,割舌鼻劓,經日方死。…〔而景虐於用刑,酷忍無道,〕曾於石頭立大舂碓,有犯法者,皆擣殺之,其慘虐如此。〔東陽人李瞻起兵,為賊所執,送詣建鄴。景先出之市中,斷其手足,刻析心腹,破出肝腸。瞻正色整容,言笑自若,見其膽者乃如升焉。又禁人偶語,不許大酺,有犯則刑及外族。其官人任兼閫外者位必行臺,入附凶徒者並稱開府,其親寄隆重則號曰左右廂公,勇力兼人名為庫真部督。

●郢州内紛

 これより前、梁の邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。550年〈1〉参照)は郢州(治所江夏)刺史の南平王恪字は敬則。武帝の弟の子。550年〈1〉参照)に仮黄鉞・都督中外諸軍事・承制に推戴されると、郢州に百官を置き、州庁を正陽殿と改め、関連する建物の全てに皇宮風の名前を付けていた。綸の部下は郢州の官員たちに威張り散らし、その不興を買った。諮議参軍で恪の参謀の江仲挙南52南平王恪伝には恪の賓客の一人で、賄賂を貪って千万もの財を成したとある)が恪に綸を殺すよう勧めると、恪は驚いてこう言った。
「邵陵王を殺せば、郢州は安寧を得るだろうし、荊(湘東王繹)・益(武陵王紀)兄弟も内心喜ぶことだろう【簡文帝が侯景のもとにある今、次に帝位に即くべきなのは帝の長弟の綸であった。恪が綸を殺せば、帝位は荊・益のもとに転がってくる。ゆえにきっと喜ぶだろうと考えたのである】。しかし、天下が平定された時、二人はきっと私を不義な奴と言って非難してこよう。それに、そもそも巨逆(侯景)が未だ梟首されていない内に王族同士で殺し合うのは、自ら破滅を選ぶようなものでよくない。ゆえに、卿は考えを改めるべきである。」
 仲挙はこれに従わず、配下の諸将を率い、日を定めて行動に移そうとした。しかし事前に計画が漏れ、綸によって壓殺(圧殺)された。恪が狼狽して陳謝しに行くと、綸はこう言った。
「これは有象無象の輩がやったことで、兄は関係ないでしょう。凶徒らは既に除かれましたゆえ、心配することはございません!」《出典不明》

●河東王誉の死

〔これより前、湘東王繹は信州刺史の鮑泉字は潤岳。549年〈6〉参照)、次いで領軍将軍の王僧弁字は君才。北魏から梁に亡命した王神念の次子。膂力に乏しかったが、そのぶん智謀に優れた。河東王討伐を命じられた際すぐに出発しなかったため繹の怒りを買い、剣で太腿を斬られたうえ牢獄に入れられたが、岳陽王詧の江陵侵攻を防ぐのに大いに貢献したため罪を赦された。549年〈6〉参照)に河東王誉字は重孫。武帝の長子の第二子。550年〈1〉参照)の籠もる長沙を攻撃させていたが、誉が勇敢で兵の心を良く掴んでいたため、久しく陥とせずにいた(549年8月18日頃より包囲開始)。〕
 僧弁がそこで城の近くに土山を築き、日夜間断なく攻め立て、矢石を雨のように降らすと、城内の将兵の大半が死傷した。誉は戦況が逼迫したのを知ると、密かに船を用意し、囲みを突き破って逃げようとした。
 辛巳(4月2日)、〈梁元帝紀では『5月辛未(22日)』、南史梁元帝紀では『4月』〉、それが行なわれる前に、誉の麾下の将軍の慕容華が僧弁の軍を城内に引き入れた。誉は左右の者がみな逃げ散ったのを見ると、大人しく縛に付いた。誉は看守にこう言った。
「七官(湘東王繹のこと。繹は武帝の第七子で、幼名を七符といった)に一目会せてくれ。この讒賊(繹?或いは誉と繹の間を引き裂いた者?)に罪状を述べ立てることができたなら、死んでも心残りは無い。」
 看守は答えて言った。
「殺せとのお達しがありますゆえ、それはできません。」
 かくて誉は斬られ、その首は荊州に送られた。繹はこれを長沙に還し、体と〔繋ぎ合わせて〕埋葬した。
 長沙が陥落する少し前、誉が鏡を見ると、首が映らなかった。また、巨人が天井を覆い、四つん這いになって誉のへそを噛んだ。また、驢馬のように大きい白犬が城から出ていったきり、行方知れずになった。誉はこれらの出来事を〔不吉に思い、〕非常な不快感を示した。長沙が陥ちたのはそれから間もなくのことだった。
 繹は僧弁を左衛将軍とし、侍中・鎮西長史(繹は鎮西将軍)の官を加えた。

○資治通鑑
 王僧辯急攻長沙,辛巳,克之。執河東王譽,斬之,傳首江陵,湘東王繹反其首而葬之【反其首於長沙,與身俱葬】。…繹以僧辯為左衞將軍,加侍中、鎭西長史。
○梁・南史梁元帝紀
 夏五月(四月)辛未,王僧辯克湘州,斬河東王譽,湘州平。
○梁55河東王誉伝
 及被圍既久,雖外內斷絕,而備守猶固。後世祖又遣領軍將軍王僧辯代鮑泉攻譽,僧辯築土山以臨城內,日夕苦攻,矢石如雨,城中將士死傷者太半。譽窘急,乃潛裝海船,將潰圍而出。會其麾下將慕容華引僧辯入城,譽顧左右皆散,遂被執。謂守者曰:「勿殺我,得一見七官,申此讒賊,死亦無恨。」主者曰:「奉命不許。」遂斬之,傳首荊鎮,世祖反其首以葬焉。初,譽之將敗也,私引鏡照面,不見其頭;又見長人蓋屋,兩手據地瞰其齋;又見白狗大如驢,從城而出,不知所在。譽甚惡之,俄而城陷。

●猛将周鉄虎
 これより前、湘東王繹の世子方等が敗死した(549年〈5〉参照)のは、臨蒸(長沙の南。湘東郡の治所)令の周鉄虎の奮戦による所が大きかった。鉄虎は以降、誉に非常に重用されるようになった。僧弁は鉄虎を捕らえると、これを煮殺そうとした。すると鉄虎はこう叫んで言った。
「まだ侯景を滅ぼしていないのに、どうして壮士を殺そうとするのですか!」
 僧弁はその言葉を立派だと思い、直ちに縄を解いて麾下の兵を返し、〔己の配下とした〕。

 周鉄虎は、出身地不詳で、梁の代に江南に渡ってきた者である。どすの利いた声で喋り、筋力は人並み外れ、馬上槍の扱いに長けていた。河東王誉に仕えると勇敢なことで名を知られるようになり、府中兵参軍とされた。誉が広州刺史となると()興寧令とされ、湘州刺史となると(548年)臨蒸令とされた《陳10周鉄虎伝》

●繹、侯景討伐の軍を起こす
 繹は去年、邵陵王綸から武帝の訃報を耳にしていたが、長沙が陥ちるまで知らないふりをしていた。
 壬寅(23日)5月23日?〉、繹はようやく陳瑩に武帝の訃報を伝えさせ、正殿にて号泣した。繹は百福殿に白檀の香木製の武帝の木像を置いて丁重に祀り、何かあるたびにこれに報告をした《出典不明》。繹は侯景が定めた大宝の年号を使用せず、太清の年号をそのまま用い、本年を太清四年と呼称した《梁元帝紀》
 丙午(27日)5月27日?〉、繹が侯景討伐の軍を起こし、天下に檄文を発した《出典不明》

○南史梁元帝紀
 四月…先是,邵陵王綸書已言凶事,祕之,以待湘州之捷。是月壬寅,始命陳瑩報武帝崩問,帝哭于正寢。

●鄱陽王範の死
 これより前、〔征北将軍・開府儀同三司の〕鄱陽王範字は世儀。武帝の弟の子。550年〈1〉参照)は〔逃亡した先の江州で刺史の〕尋陽王大心字は仁恕。簡文帝の第二子。550年〈1〉参照)から湓城を譲られると、晋熙郡【東晋の安帝の代に廬江郡から分割して立てられた。五代志曰く、同安郡懐寧県に晋熙郡が置かれていた。唐代に同安郡は舒州とされた】(もと西豫州? 江州の東北)を晋州とし、世子嗣字は長胤。鄱陽王範の子。大兵巨漢で、勇猛果敢であり、兵士の心を良く掴んでいた。荘鉄が大心に攻められると、救援するよう父に嘆願した。550年〈1〉参照)をその刺史とした。また、江州の郡県の長官の多くを〔自分の息のかかった者に〕変えた。これにより、大心の政令が行き届く所は尋陽一郡のみとなった。大心は範に疑いを持ち、穀物の援助を取り止めた。範はその仕返しに、侯瑱字は伯玉。鄱陽王範に長く付き従ってきた猛将。550年〈1〉参照)に五千の精鋭を与えて大心に叛いた荘鉄大心に叛旗を翻したが、敗れて逆に豫章に追い詰められていた。550年〈1〉参照)を救わせた(550年3月参照)。これ以降、二藩(範と大心)は憎み合う仲となり、侯景を討つことなど二の次となった(南52鄱陽王範伝)。
 大心は徐嗣徽荘鉄が乱を起こすとこれを撃退した。549年〈6〉参照)に二千を与えて稽亭〔渚〕【江州城(ここでは湓城)の東】に砦を築かせ、〔湓城を遠巻きに取り囲んだ〕(出典不明)。範は穀物を得ることも救援を要請する使者を出すこともできなくなり、配下の数万の兵の多くが餓死した。範は憤りの余り、背中に悪性のできものができた《梁22鄱陽王範伝》
 5月、乙卯(7日)考異曰く、典略には『己酉(1日)』とある。今は太清紀の記述に従った(梁簡文紀には『庚午(22日)』とある】、範は死去した(享年52《太清紀》。残り数千人となっていた範軍はその死を隠し、範の弟の南安侯恬名将の蘭欽を毒殺した。544年参照)を新たな主君とした《南52鄱陽王範伝》

 丙辰(8日)、侯景が元思虔を東道大行台(侯景伝では単に行台)とし、銭唐(呉と会稽の中間)を鎮守させた。
 丁巳(9日)、〔中軍都督の〕侯子鑑水軍八千を率いて広陵を平定した。550年〈1〉参照)を南兗州刺史とした(侯景伝ではどちらも4月の事とする《梁56侯景伝》

○梁簡文紀
 夏五月庚午,征北將軍、開府儀同三司鄱陽嗣王範薨。

●禅譲の可否
 これより前、金紫光禄大夫で丹楊の人の徐之才と北平太守で広宗の人の宋景業はどちらも天文の事象や預言書に精通していることで有名だった。二人は共にこう言った。
「午年(550年は庚午)は、必ず革命が起こる年です。」(北斉33徐之才伝
 また、陳山提高家の家奴。もと爾朱兆の家奴。549年〈6〉参照)の家客の楊子術も預言書を引用して同じようなことを言った。
 高徳政字は士貞。高洋の懐刀。549年〈6〉参照)はこれを洋に上申し、孝静帝元善見。時に27歳)から禅譲を受けるよう勧めた。洋がそこで母の婁太妃婁昭君)に禅譲を受けることを伝えると、太妃はこう言った。
「お前の父は龍の如く、兄は虎の如く〔英邁であったが〕、それでも妄りに帝位に即くことなく、終生北面して臣と称した。お前は〔父や兄に到底及ばぬのに、〕何様のつもりで舜・禹に倣おうとするのか!」
 洋が之才にこのことを告げると、之才は答えて言った。
「父兄に及ばないからこそ、早く帝位に登り、身の安泰を図るべきなのです。」(北史北斉文宣紀
 洋がそこで銅像を鋳造させて可否を占ったところ、たった一度で銅像は無事出来上がった。そこで開府儀同三司の段韶字は孝先。洋の母、婁昭君の姉の子。知勇兼備の将。歓の死後は澄から晋陽の留守を何度も任された。549年〈4〉参照)を肆州刺史の斛律金(字は阿六敦。高歓の盟友。549年〈3〉参照)のもとに派し、禅譲の可否を尋ねさせた。すると金は〔晋陽にいる〕洋のもとに赴くや、断固反対の立場を取ったばかりか、初めに禅譲を提案した鎧曹参軍の宋景業を殺すことまで主張した(北史北斉文宣紀)。洋が勲貴たちと共に太妃の前で禅譲を議論すると、太妃はこう言った。
「我が子は軟弱だが、間違ったことはしない性分ゆえ、このようなことは考えぬ(北史北斉文宣紀)。恐らく災禍を楽しむ高徳政あたりが吹き込んだのに違いない。」
 洋は人心が一つにまとまっていないのを見ると、高徳政を鄴に派して公卿たちの意志を確認させた。

○資治通鑑
 洋以告婁太妃,太妃曰:「汝父如龍,兄如虎,猶以天位不可妄據,終身北面,汝獨何人,欲行舜、禹之事乎!」
○北史北斉文宣紀
 時訛言上黨出聖人,帝聞之,將徙一郡。而郡人張思進上言,殿下生於南宮,坊名上黨,即是上黨出聖人,帝悅而止。先是童謠曰:「一束藁,兩頭然,河邊羖䍽飛上天。」藁然兩頭,於文為高;河邊羖䍽為水邊羊,指帝名也。於是徐之才盛陳宜受禪。帝曰:「先父亡兄,功德如此,尚終北面,吾又何敢當。」之才曰:「正為不及父兄,須早升九五,如其不作,人將生心。且讖云『羊飲盟津角拄天』,盟津水也,羊飲水,王名也,角拄天,大位也。又陽平郡界面星驛傍有大水,土人常見羣羊數百,立臥其中,就視不見,事與讖合,願王勿疑。」帝以問高德正,德正又贊成之,於是始決。乃使李密卜之,遇大橫,曰:「大吉,漢文帝之卦也。」帝乃鑄象以卜之,一寫而成。使段韶問斛律金於肆州,金來朝,深言不可,以鎧曹宋景業首陳符命,請殺之。乃議於太后前。太后謂諸貴曰:「我兒獰直,必自無此意,直高德正樂禍,教之耳。」
○北斉30高徳政伝
 德政與帝舊相昵愛,言無不盡。散騎常侍徐之才、館客宋景業先為天文圖讖之學,又陳山提家客楊子術有所援引,並因德政,勸顯祖行禪代之事。德政又披心固請。帝乃手書與楊愔,具論諸人勸進意。德政恐愔猶豫不決,自請馳驛赴京,託以餘事,唯與楊愔言,愔方相應和。…又先得太后旨云:「汝父如龍,汝兄如虎,〔皆以帝王之重,不敢妄據,〕尚以人臣終,汝何容欲行舜、禹事?此亦非汝意,正是高德政教汝。」



3月(?)、〕その徳政が還らない内に、洋は兵を率いて東方の平都城(《読史方輿紀要》曰く、『太原府(晋陽)の東南三百四十里→遼州(楽平郡遼陽)の西北七十里』)に赴き、勲貴たちを呼び出して禅譲の可否を尋ねたが、誰も答える者はいなかった。ただ、長史の杜弼字は輔玄。澄の幕僚の一人。549年〈6〉参照)だけが口を開いて言った。
「関西(西魏)は国家の強敵であります。魏から禅譲を受けた場合、彼らはきっと天子(西魏文帝)を奉戴して東進し、義戦を挑んでくることでございましょう。王はこれをどうやって防ぐおつもりですか!〔関西より〕先に禅譲を行なってはなりません。」(北斉33徐之才伝では婁太妃や勲貴らが言ったことになっている
 これに徐之才が答えて言った。
宇文泰が王と争っているのは、皇帝になりたいからに他ありません。しかし、兎が市に満ち満ちていても、誰かがこれを買い占めてしまえば他の者はみな諦めるように(慎子逸文曰く、『一兔走街,百人追之,貪人具存,人莫之非者,以兔為未定分也。積兔滿市,過而不顧。非不欲兔也,分定之後,雖鄙不爭。』)、今もし魏の禅を先に受ければ、泰は皇帝になることを断念し、戦う心を失うはずです。また、もし泰が王の即位を認めなかったとしても、王に続いて皇帝を称するだけでありましょう。何事も物事は機先を制して行なうのが良く、後追いになることは絶対に避けねばなりません。」(原文『「今與王爭天下者,彼意亦欲為帝,譬如逐兔滿市,一人得之,眾心皆定。今若先受魏禪,關西自應息心。縱欲屈強,止當逐我稱帝。必宜知機先覺,無容後以學人。」』
 弼は反論することができなかった《北斉30高徳政伝》
 一方、鄴に着いていた高徳政は公卿たちに禅譲の事をそれとなく匂わせて反応を見たが、誰も賛同しなかった。
 司馬子如字は遵業。高歓の親友。四貴の一人。549年〈6〉参照)は遼陽【遼陽県は漢末以来、楽平郡に属していたが、隋の開皇十一年に遼山県と改められた。遼山県は元の遼州の治所である】にて洋を迎え、まだ禅譲を受ける時ではないと言った。杜弼も〔洋の乗っている〕馬の首を抱えて強く諫止した。洋はそこでやむなく引き返そうとした。すると尚食丞(通鑑では『倉丞』)の李集が言った。
「王は何のためにここまで来たのですか? それを果たさずに帰っていいのですか?」
 洋は李集に用事を言いつけて東門に向かわせ、そこで殺害した。しかし実はそんな事はなく、逆に密かに絹織物十疋を褒美として与えた。かくてそのまま晋陽に引き返した《北史北斉文宣紀》。この時、賀抜仁字は天恵。并州刺史。勲貴の一人。549年〈6〉参照)らはこう言った。
宋景業は王を誤らせようとしました。彼を斬って天下に謝するべきであります。」
 洋は答えて言った。
「景業は帝王の師となるべき者だ。殺すべき者ではない。」《北斉49宋景業伝》
 洋は晋陽に帰ってからというもの、怏怏として楽しまなかった。徐之才・宋景業らは毎日陰陽などを引き合いに出して早く皇帝に即くように勧めた。高徳政も同じように帝位に即くよう強く強く勧めた。洋が術士の李密に占わせてみると、『大横』の卦が出た。李密はこれを受けて言った。
「大吉です。漢文(前漢の文帝)の卦(文帝が皇帝に推された時、即位するべきか悩んだ。そこで亀の甲を焼いて占ってみたところ、『大横』の卦が出た。これは『お前は夏朝の啓のように天子になる』という意味だった)であります。」《北史北斉文宣紀》
 更に宋景業に占わせてみた所、『乾之鼎』の卦が出た。景業はこれを説明して言った。
「乾とは君主の事であり、鼎とは五月の事であります。仲夏(五月)の吉日に禅を受けるべきだという事であります。」
 ある人がこう言った。
「陰陽の書には、五月に新しい官位に就いた者は、その官位で死ぬとあり、不吉です。」【陰陽家の説では、正月・五月・九月の就任を忌む
 景業は答えて言った。
「それは非常に良いことではないか。王は天子となるのだ。天子というものは、一度即位すれば死ぬまで天子である。どうしてその位で死なぬことがあろう!」(原文『「此乃大吉,王為天子,無復下期,豈得不終於其位。」』
 洋はこれを聞くと大いに喜んだ《北斉49宋景業伝》
 辛亥(5月3日)北斉30高徳政伝では『五月の初め』とある〉、洋は再び晋陽を発って鄴に赴いた《北斉文宣紀》。この時、洋は左右にこう言った。
「逆らう者は斬る。」《北史北斉文宣紀》

 高徳政が〔晋陽に帰り、〕鄴の様子について書き留めたものを洋に進呈した。洋は陳山提に徳政の書き留めたものと密書を持たせて鄴に急行させ、楊愔字は遵彦。名門楊氏の生き残り。高澄殺害の際逃げ出した。549年〈6〉参照)のもとに届けさせた。
 癸丑(5日)、山提が鄴に到ると、楊愔は直ちに太常卿の邢邵字は子才。名文家。547年〈1〉参照)・七兵尚書の崔㥄字は長孺。名門崔氏の出身。547年〈3〉参照)・度支尚書の陸操字は仲志。もと廷尉卿、御史中丞。美貌の人妻・元氏の処罰を拒否した。538年〈2〉参照)・太子詹事の王昕字は元景。539年に梁に使者として派遣された。539年参照)・給事黄門侍郎の陽休之字は子烈。549年〈6〉参照)・中書侍郎の裴讓之字は士礼。538年〈2〉参照)ら(北31高徳正伝)を召して禅譲の法式について研究させた。また、秘書監の魏收字は伯起。魏書の編纂者。549年〈5〉参照)に九錫を与える詔や禅譲を行なう詔、帝位に即くよう勧進する上奏文などをあらかじめ作らせておかせた。また、太傅の咸陽王坦字は延和。咸陽王禧の第七子。549年〈6〉参照)・録尚書事の済陰王暉業字は紹遠。549年〈5〉参照。北31高徳正伝)ら元氏の諸王を全て北宮に集め、その東齋(東の脇部屋?)に監禁した《北斉30高徳政伝》
 甲寅(6日)、東魏が洋の位を相国に進め、政治の一切を取り仕切らせた。また、九錫の最高待遇を与えた《魏孝静紀》
 洋が前亭【晋陽の東、平都城の西にある】に到った時、突然乗馬が倒れた。洋はこれをいたく不吉に感じて思い惑い、平都城に到った所で動かなくなった。高徳政・徐之才らは何度も洋に早く鄴に行くよう催促をして言った。
「先に鄴〔の工作に〕に派遣していた山提はどうしているでしょうか(原文『若為形容』。『若為』は『如何』と同じ意味で、『どんな』という意味。『形容』は『様子』)。不注意で機密を〔太妃ら反対派に?〕漏らして、計画を台無しにしていたりしないでしょうか?」
 洋はそこで直ちに司馬子如・杜弼を鄴に派し、人々の反応を観察させた(北斉42陽休之伝には、『〔武定八年(550)、〕東魏が陽休之を兼侍中・持節とし、璽書を持たせて并州の洋のもとに到らせ、洋を相国・斉王とした。この時、洋は禅譲を受けようとして晋陽を発ち、平都城にまで到っていたが、人心がまだ定まっていないのを見て并州に帰ろうとした。洋は計画が漏れるのを恐れ、〔休之に〕人と接することを禁じた。しかし、休之はだらしない性格で、鄴に帰ると禅譲の事について辺り構わず喋りまくったため、計画は鄴中の人々全員の知る所となってしまった。のち、洋は高徳政からこのことを知らされると、内心怒ったが、それを表に出すことはしなかった』とある。洋が斉王に封じられたのは今年の3月11日で、相国が5月6日なので、陽休之の派遣がどちらの時のことだったのかよく分からない。一度目の晋陽出立の時期について、北史北斉文宣紀は四月の前のことだったように述べている。二度目の出立の時にこの出来事が起こったなら、日程的にやや苦しいものがあるが、絶対無かったとも言い切れない)。
 乙卯(7日)、子如らが鄴に到った。この時既に鄴の人々の意見は禅譲に賛成することで一致しており、禅譲に反対する者はいなかった。

○北斉30高徳政伝
 德政還未至,帝便發晉陽,至平都城,召諸勳將入,告以禪讓之事。諸將等忽聞,皆愕然,莫敢答者。時杜弼為長史,密啟顯祖云:「關西是國家勁敵,若今受魏禪,恐其稱義兵挾天子而東向,王將何以待之?」顯祖入,召弼入與徐之才相告。之才云:「今與王爭天下者,彼意亦欲為帝,譬如逐兔滿市,一人得之,眾心皆定。今若先受魏禪,關西自應息心。縱欲屈強,止當逐我稱帝。必宜知機先覺,無容後以學人。」弼無以答。帝已遣馳驛向鄴,書與太尉高岳、尚書令高隆之、領軍婁叡、侍中張亮、黃門趙彥深、楊愔等。岳等馳傳至高陽驛。帝使約曰:「知諸貴等意,不須來。」唯楊愔見,高岳等並還。帝以眾人意未協,…又說者以為昔周武王再駕盟津,然始革命,於是乃旋晉陽。自是居常不悅。徐之才、宋景業等每言卜筮雜占陰陽緯候,必宜五月應天順人,德政亦勸不已。仍白帝追魏收。收至,令撰禪讓詔冊、九錫、建臺及勸進文表。
 
●孝静帝、皇宮から去る
 丙辰(8日)襄城王旭字は顕和。548年〈1〉参照)・司空の潘楽字は相貴。勲貴の一人。549年〈6〉参照)・侍中の張亮字は伯徳。爾朱兆に最後まで付き従い、邙山の決戦では西魏が河橋を焼き払おうとするのを阻止した。侯景が叛乱を起こし、西魏が河南を制圧すると、その経略を任された。549年〈4〉参照)・黄門郎の趙彦深本名隠。陳元康と共に機密のことを司り、『陳・趙』と並び称された。潁川包囲戦では王思政の説得に当たった。549年〈4〉参照)らが申し上げたき儀があると言って孝静帝に謁見を求めた。帝は〔これを許し、〕昭陽殿にてこれと会った。そこで旭(通鑑では張亮)が言った。
「五行(水→木→火→土→金→水〈相生説〉。北魏は水徳)は代わる代わる盛衰するもので、始まりがあれば終わりもございます。斉王は慎み深く聡明な徳を備えており、万民に懐き慕われております。ゆえに、臣らは死を覚悟して申し上げます。どうか陛下、堯が舜に位を譲った先例に倣って、斉王に禅譲なされますよう。」
 帝は色を正して言った。
「朕は長らく帝位を譲りたいと考えていた。謹んで譲位いたそう。」
 また、こう言った。
「そうと決まれば、禅譲を伝える詔書を作らねばならんな。」
 中書侍郎の崔劼字は彦玄)・裴讓之はこれに答えて言った。
「詔書は既に出来上がっております。」
 侍中の楊愔が十条に渡る詔書を渡すと、帝はその全てに署名をし、それからこう尋ねて言った。
「朕はどこに身を置けばよいか。また、どうやってそこまで行けばよいか。」
 愔は答えて言った。
「北城にお住まいを用意してあります。そこまでは、いつものように、儀仗兵に先払いさせながら、皇帝用の車に乗って向かえばよろしゅうございます。」
 そこで帝は玉座から下り、東の脇部屋に向かって歩いた。この時、帝は范蔚宗(范曄)の後漢書にある、〔献帝紀の〕賛を口ずさんで言った。
「献帝時を得ず、身は流浪し国は艱難に陥つ。四百(前漢・後漢通じて四百年)にして国を終わらせ、身を永く虞賓(虞は舜。舜は堯の子の丹朱を賓客として手厚くもてなした)に落とす(禅譲した後、十四年に渡って曹魏の山陽公として暮らしたことを指す)。」
 係役人が出立を促すと、帝はこう言った。
「古人は使い古した簪や靴を惜しんで捨てなかったという。朕は最後に妃嬪たちと別れの挨拶をしたいのだが、よいだろうか。」
〔太保の〕高隆之字は延興。高歓の義弟。四貴の一人。550年〈1〉参照)が答えて言った。
「今日の天下はまだ陛下の天下であります。妃嬪たちなら尚更のことでございます。」
 帝は步いて後宮に行き、妃嬪以下と別れの挨拶をした。彼女たちの中で泣かぬ者はいなかった。趙国の人の李嬪は陳思王(曹植)の詩を吟じて言った。
「王よ、その玉体〈お体〉を愛おしめ。俱に黄髪の期(とき)を享()けん〈老人になるまで一緒に生きよう〉。」
〔尚乗〕直長(尚乗局は殿内省六尚局の一つ。尚は掌で、皇宮の車馬を掌る。奉御が長官で、直長が次官)の趙道徳高徳政伝。魏孝静紀では『趙徳』とある。高家の家奴。549年〈5〉参照)が帝の愛用の牛車を御して東閤門に停め、皇宮から出てきた帝を迎えた。帝は牛車に乗る際、道徳に車上からその手助けをされたのを不快に思い、これに肘打ちをして言った。
「朕は天命や人心に従って相国に禅譲をするとは決めたが、どこの馬の骨とも知れぬ奴隷風情に、このような真似をされる覚えはない(原文『何物奴敢逼人如此』)!」
 しかし、それでも道徳は牛車から下りようとしなかった。帝が雲龍門を通って皇宮から出ると、王公百官は集まってそれを見送った。帝はこれを見て言った。
「今日の様子は、常道郷公(曹奐)や漢の献帝のそれに劣らぬものであろう。」
 王公百官はみな悲痛な面持ちをし、高隆之裴讓之北斉35裴讓之伝)は滂沱と涙を流した。帝は北城に入ると、司馬子如の南宅【太原(晋陽)にある屋敷を北宅、鄴城にある屋敷を南宅と言ったのだろう】に身を置き《魏孝静紀》、兼太尉(太保?)の彭城王韶字は世冑。孝荘帝の兄の子。542年参照)・兼司空の敬顕儁字は孝英)らに天子の印璽と綬を持たせ、高洋のもとに届けさせた。また、尚書令の高隆之に百官を連れて即位の勧進に行かせた。禅譲の法式は堯舜・漢魏の故事に倣った《北斉文宣紀》
 丁巳(9日)、洋が鄴に到った。洋は城南に人夫を集め、工具を支給した(出典不明)。高隆之が尋ねて言った。
「彼らを集めて一体何をなさるおつもりですか?」
 洋は色をなして言った。
「わしのやっていることに口出しをするな!(原文『我自有事,君何問為!』) 族滅にされたいのか!」
 隆之は陳謝して引き下がった。洋は〔禅譲の儀式に用いる〕円丘(祭壇)と器具を用意した北史北斉文宣紀

●北斉の建国

 戊午(10日)、斉王の高洋時に25歳)が祭壇に登り、皇帝の位に即いた。〔これが北斉[1]文宣帝である。〕【東魏は十六年にして滅亡した】帝は柴を焼いて即位したことを天に報告した。儀式が終わると大極前殿に入り、大赦を行なって年号を武定から天保に改めた。
 北魏の孝荘帝以来(528年)、百官には俸禄が与えられていなかったが、ここに至って再び支給されるようになった(北史北斉文宣紀)。
 己未(11日)、もと孝静帝の元善見時に27歳)を中山王とし、上書の場合に『臣』と名乗らずともよいことを認めた。また、その息子たちを県公とした。また、父の高歓を献武皇帝と追尊し、廟号を太祖とした。後に高祖と改めた。また、兄の高澄を文襄皇帝と追尊し、廟号を世宗とした。
 辛酉(13日)、母の婁氏昭君)を皇太后とした。
 乙丑(17日)、東魏の時に皇族や百官たちに与えられていた爵位を、それぞれ差をつけて降格した。ただ、建国の功臣や、西魏・梁から帰順してきた者(梁からの者は武定六年〈548〉以降に限る)の爵位については不問とした《北斉文宣紀》

 [1]北斉…高洋が斉王であった事と、高氏の出自が勃海で、勃海が斉の地であった事から、国号を斉としたのである。


 550年(3)に続く