[西魏:大統十六年 東魏:武定八年→北斉:天保元年 梁(侯景):大宝元年 梁(湘東王繹):太清四年]



●北伐の開始と南野の戦い
 春、正月、辛亥朔(1日)、梁の簡文帝蕭綱。時に48歳)が大赦を行ない、年号を太清から大宝に改めた。


 この月、梁の始興太守の陳覇先字は興国。時に48歳。李賁の乱を平定した名将。549年〈6〉参照)が侯景字は万景。時に48歳。東魏から梁に降ったが、叛乱を起こして首都の建康を攻め陥とした。549年〈6〉参照)を討伐するため、始興を発って大庾嶺に到った。この時、道中の南康には土豪の蔡路養が曲江令の譚世遠蕭勃〈覇先に担ぎ上げられ、広州刺史となった。549年〈6〉参照〉)の腹心)と組んで割拠しており、路養は覇先がやってきたのを知ると二万の兵を率いて南野(南康の西南)に迎え撃った《陳武帝紀》
 このとき路養軍には蕭摩訶字は元胤)という勇猛果敢な少年がいた。彼は路養の妻の兄弟の息子で、このときまだ19歳(陳書にはこの時13歳とあるが、604年に73歳で亡くなったという記述から考えると、生年は532年で、19歳となる)の若さだったが、単騎覇先軍に突入すると圧倒的な強さを見せた《陳31蕭摩訶伝》
 覇先の主帥の杜僧明字は弘照。時に42歳。覇先の猛将。549年〈6〉参照)は、戦いの最中乗馬が傷ついて〔地に投げ出された。〕覇先はこれを見ると〔危険を冒して〕これを救い、〔安全な所まで避難させたのち〕己の乗馬を授けた。僧明はその馬に乗ると、数十人を率いて再び戦場に舞い戻り、次々と路養軍を撃破した《陳8杜僧明伝》
 また、同じく主帥の周文育字は景德。時に42歳。覇先の猛将。549年〈5〉参照)も戦いの最中、路養軍に二重三重の包囲を受け、雨のような矢石を受けて乗馬が死ぬ窮地に陥ったが、右手に剣を、左手に解いた鞍〔を盾代わりに〕持って奮戦し、重囲を〔見事〕突破した。そして僧明らと合流すると、力を合わせて路養軍に攻撃をかけた《陳8周文育伝》
〔この猛攻に〕路養軍は遂に大敗を喫し、路養は身一つで逃走した。
 覇先が南康に進駐すると【考異曰く、太清紀には二月とある。今は陳武帝紀の記述に従った】、梁の荊州刺史の湘東王繹字は世誠。武帝の第七子。549年〈6〉参照)は皇帝権を代行して、覇先に員外散騎常侍・持節・明威将軍・交州刺史の官位と、南野県伯の爵位を与えた《陳武帝紀》
 戦いが終わると、覇先は上表して文育を府司馬とした《陳8周文育伝》
 摩訶は覇先に降って侯安都字は成師。覇先の呼びかけに応じ、一万余の兵を連れて北伐軍に参加した。549年〈6〉参照)の部隊に配属された。安都は非常に摩訶を厚遇し、常に戦いに連れていった《陳31蕭摩訶伝》

 侯安都は字を成師といい、始興郡曲江県の人である。侯氏は代々郡の名族で、父の侯文捍は若くして州郡に出仕し、真摯に職務に当たったことで称賛を受けた。
 安都は隸書に巧みで、琴を弾くのが上手く、古典を読み漁り、非常に清新で華麗な五言詩を作った。そのうえ、騎射も得意であったため、郷里の指導者となった。梁の始興内史の蕭子範字は景則)に招聘されて主簿となり、侯景の乱が起こると義勇兵を募って三千人を集めた《陳8侯安都伝》

 蕭摩訶は字を元胤といい、蘭陵の人である。祖父の蕭靚は梁の右将軍となり、父の蕭諒は梁の始興郡丞となった。摩訶は父に従って始興に赴いたが、父が数歲の時に亡くなると、南康にいた父の姉妹の夫の路養に引き取られて育てられた《陳31蕭摩訶伝》

 戊辰(18日)、東魏が尚書令・中書監・京畿大都督の太原公の高洋字は子進。時に25歳)の官爵を、使持節・丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・斉郡王に進めた《魏孝静紀》

●綸も承制す
 庚午(20日)邵陵王綸字は世調。武帝の第六子。台城が侯景に包囲されると武帝の諸子の中でただ一人救援に向かって侯景と戦った。549年〈5〉参照)が江夏(郢州の治所)に到ると、郢州刺史の南平王恪字は敬則。武帝の弟の子)はこれを郊外にまで出迎え、州刺史の官を讓ろうとしたが、綸は受けなかった。そこで恪は綸を仮黄鉞・都督中外諸軍事に推し、皇帝権を代行する(承制)よう求めた【考異曰:太清紀云:「三月,綸逼奪恪州,徙恪於郡廨。」今從梁書、典略】。綸はそこで百官を置き、州庁を正陽殿と改め、関連する建物の全てに皇宮風の名前を付けた《南53邵陵王綸伝》

●漴頭の戦い

 西魏の都督三荊等十五州諸軍事の楊忠字は揜于。549年〈6〉参照)は〔隨郡を降したのち、〕東南に進んで安陸を囲んだ。〔襄陽に進軍していた〕梁の雍州刺史の柳仲礼侯景が台城を包囲した時、救援軍の総大将となった。台城が陥ちると侯景に降り、長江中・上流の経略を一任された。司州に帰還すると、湘東王繹に従って雍州を攻めた。549年〈6〉参照)は隨郡が陥ちたのを知ると、安陸も陥とされるのではないかと危惧し(安陸には妻子を残していた)、遂に馬を飛ばしてその救援に赴いた。西魏の諸将は仲礼がやってくると安陸の攻略が困難になると考え、その前に猛攻を仕掛けて安陸を降すよう忠に求めた。すると忠はこう言った。
「攻める側と守る側では、守る方が圧倒的に有利ゆえ、すぐには陥とせぬ。攻城が長引き兵が疲れ切った所に、仲礼の攻撃を受けたらどうする。南人は水戦が得意だが、野戦は不得手である。〔その上更に、〕南人の油断に乗じて我ら北人が猛攻をかければ、南人の軍などひとたまりもないだろう。〔ゆえに、私は攻城よりも仲礼の軍を優先し、〕仲礼の軍が近くまでやってきた所を奇襲しようと思う。仲礼に勝てば、安陸は士気阻喪して、攻めるまでもなく降ってくる。他の諸城も、檄文を飛ばすまでもなく降ってくるはずだ。」
 かくて忠は選り抜いた二千の騎兵を率い、〔声を立てないよう〕枚(口木)を銜えさせてから、夜陰に紛れて進軍し、漴頭【杜佑曰く、漴の音は崇と同じである。水のぶつかる所を漴という。考異曰く、太清紀には『潼頭』とあり、時期も去年の12月となっている。今は典略の記述に従った】(《読史方輿紀要》曰く、『漴頭鎮は〔永陽〕城(徳安府〈安陸〉の北六十里にある。吉陽)の西北二十里にある。』)にて仲礼軍の陣を見つけると、自ら吶喊してこれを大破し、仲礼およびその配下の兵をみな虜にした(己未〈9日〉辺りの出来事?)。この報が伝えられると、安陸を守っていた馬岫は仲礼の弟の柳子礼と共に城を挙げて降り、竟陵を守っていた別将の王叔孫孫暠梁→西魏→梁と何度も寝返り、宇文泰に酷く恨まれていた。549年〈6〉参照)を斬って城と共に忠に降った《周19楊忠伝》
 ここにおいて、漢水以東の地はことごとく西魏の領土となった。西魏の丞相の宇文泰字は黒獺。時に44歳)は仲礼が送られてくると、客礼を以てこれを遇した《南38柳仲礼伝》

●広陵義挙

 広陵の人の来嶷字は徳山)が、前広陵太守の祖皓祖暅之の子。526年〈1〉参照)にこう説いて言った。
董紹先侯景の南兗州刺史。549年〈6〉参照)は侯景の腹心ではありますが、軽はずみで不用心であり、しかもその治める州も新たに得たばかりなので、州民も心からこれに従っているわけではありません。ゆえに、これを襲撃して殺害するのは、一人の壮士がいればできることであります。いま義勇の士を募れば、立ち所に二・三百人を得ることができますが、府君を奉戴して賊徒を討つ意志を示せば、更に天下の義徒が相次いで馳せ参じてくることでしょう。その結果侯景を討てば、桓・文が立てたような大勲を打ち立てることができますし、たとえ失敗したとしても、忠臣であることを世に表すことができます。いかがでしょうか?」
 皓は答えて言った。
「それはそれがしの望む所である。死んでも恨みは無い。」
 かくて勇士を糾合し、耿光ら百余人を得た。
 癸酉(23日)梁簡文紀〉、嶷らが広陵を襲撃し、董紹先を殺害した。嶷らは城を占拠すると、前太子舍人の東郷侯勔ベン。字は文祗。曲江侯勃の兄)を刺史に推し立てた。また、東魏に援軍を求め、各地に檄を飛ばし、景を討たんとした。
 乙亥(25日)出典不明〉、景はこの報を聞くと大いに恐れ、即日〔中軍都督の〕侯子鑑劉神茂と共に呉興を攻略した。549年〈6〉参照)・郭元建通鑑。北道行台・総江北諸軍事として秦郡に駐屯していた。のち尚書左僕射とされた)らを派遣してこれを攻撃させた。皓は城に籠もってこれを防いだ。邵陵王綸は任命権を代行して嶷を步兵校尉・秦郡太守・永寧県侯とした《梁56侯景伝・南72祖皓・来嶷伝

●繹、西魏に服属す
 2月、西魏の都督三荊等十五州諸軍事の楊忠が勝ちに乗じて石城【隋書地理志曰く、北周が竟陵郡の長寿県に置いた】(竟陵)に到り、江陵にまで攻め込もうとする意志を示した。湘東王繹は中書舍人の庾恪を派して忠にこう説いた。
「叔父を攻めた〔極悪人を〕魏は助けるのか! それでどうして天下の人々が従おうか!」
 忠はこれを聞くと湕水(武寧の北百三十里。襄陽と江陵の中間)の北にて進軍を停止した《出典不明》。繹は子の蕭方略周文帝紀では『方平』。周19楊忠伝には『方略』とある。南54蕭方略伝には方略が人質として西魏に送られた記述がある。ゆえに、ここは楊忠伝の記述に従った。方略は元帝の第十子で、母は王氏。このときまだ数歳の幼子で、繹にとてもかわいがられた)を人質とし、中書舍人の王孝祀ら(出典不明)に西魏まで送らせた。また、書簡を送ってこう言った。
「魏の南境は石城まで、梁の北境は安陸までとする。梁は魏の藩国となり、人質を送る。両国は貿易を行ない、永久に続く友好関係を樹立する(出典不明)。」
 西魏はこれを許した。しかし方略が長安に到ると、西魏は手厚い贈り物と共にこれをすぐに繹のもとに返し(南54蕭方略伝)、〔属国ではなく、〕兄弟という形(恐らく宇文泰が兄で繹が弟)で盟約を交わすことにした《南史梁元帝紀》
 忠はそこで軍を帰還させた。西魏は忠を陳留郡公とした《周19楊忠伝》

 楊忠の遠征は敵領奥深くに侵攻したものだったため、竟陵に到った頃には殆どの軍が兵糧に欠乏を来していた。しかし都督の王悦字は衆喜。大行台左丞。玉壁防衛軍の慰労の使者となったり、侯景が西魏に付いたときその叛乱を予測したりした。547年〈2〉参照)の軍だけは、悦が出発前に行程を計算して兵糧を充分用意していたことや、消費を節約していたこともあって、諸軍に六百石の米を分け与えるほど余裕があった。宇文泰はこれを聞くと悦を褒め称えた《周33王悦伝》

●宕昌動乱

 この年、宕昌王の梁弥定541年参照)が宗人の梁獠甘に王座を追われ、西魏に亡命した。
 これより前、梁仚定弥定の兄で前宕昌王)が西魏に叛乱を起こした時(541年)、羌族の酋長の傍乞鉄怱が数千家の部落を擁して渠株川(周49宕昌羌伝では『渠林川』)に自立し、渭州民の鄭五醜と共に羌族を扇動して、十余ヶ所の要害に砦を築き、西魏に叛乱を起こしていた。獠甘はこの鉄怱らと手を組んだ。
 西魏の丞相の宇文泰はここに至り、大将軍の宇文貴字は永貴。537年の潁川の戦いにて東魏の大軍を大破する大功を立てた。537年〈4〉参照)・豆盧寧字は永安。前燕慕容氏の末裔。劉平伏の乱を平定した。541年参照)、大都督・涼西涼二州諸軍事・涼州刺史の史寧字は永和。涇州の莫折後熾の乱・涼州の宇文仲和の乱を平定した。546年〈1〉参照)に討伐を命じた《周19宇文貴伝・周28史寧伝・周49宕昌羌伝》
 これより前、西魏は大都督の趙剛字は僧慶。河南にて侯景と熱戦を繰り広げた。543年〈2〉参照)に鉄怱・五醜らを討伐させていた。剛が出立しようとした時、西魏の文帝はこれを寝室まで招き入れ、盃を手渡してこう言った。
「昔、侯景が東方(東魏)にいた時、卿はこれを良く苦戦させた(542年・543年〈2〉参照)。その卿なら、小羌など赤子の手をひねるようなものだろう。」
 この時、五醜は既に定夷鎮()を陥とし、到る所に砦を築いていた。剛はこれをみな攻め陥とし、五醜の部下たちを散りぢりにさせた。 五醜はここに至って西方の鉄怱のもとに逃れた。剛は更に西進し、鉄怱が置いた広寧郡を攻め陥とした。宇文貴らが西討にやってくると、剛は行渭州事とされ、〔西討軍の〕兵糧の輸送の任を任された。
 宇文貴らは鉄怱と五醜を捕らえて斬った(周19宇文貴伝)。羌兵の捕虜千人は剛の軍中に配属された。剛はこれに訓練を施し、みな精鋭に育て上げた《周33趙剛伝》
 史寧は更に別行動を取って獠甘を攻めた。その進軍路の山道は非常に険しく、一頭の馬が通るのがやっとなほどだった。獠甘はその険しい山道に砦を築いていたが、寧はそれを突破した。寧は獠甘が三万を率いて迎撃してきたのも大いに撃ち破り、逃げるのを追って遂に〔獠甘の本拠の〕宕昌にまで到った。獠甘はわずか百騎のみを連れて生羌の鞏廉玉のもとに逃れた。ここにおいて弥定は王位に復した。西魏は渠株川に岷州を置いた。西魏はその功績を讃え、粟坂に顕彰の石碑を立てた(周19宇文貴伝)。
 寧は獠甘を捕らえるため一計を案じ、帰還すると周囲に言い触らした。獠甘はこれを聞くと、叛羌を再び糾合して〔宕昌付近の〕山に拠点を置き、弥定を攻撃しようとした。寧はこれを聞くと諸将にこう言った。
「羌賊、我が術中に入れり! 捕らえに行くぞ!」
 しかし、諸将はみな帰りたがってこう言った。
「生羌(未開の羌族)は集散常無く、山谷のあちらこちらに出没して戦いを挑んできますゆえ、今もし追討をしても、徒労に終わるだけでしょう。そもそも、将軍は弥定を王位に復させるという大功を既に立てておられるのです〔から、獠甘を捕らえずに帰還したとしても、とやかく言われないでしょう。〕また、獠甘の勢いは弱まっているため、弥定一人の力でも充分これを制することができます。ここは帰還するのが上策です。」
 寧は答えて言った。
「『一日敵を縦(ゆる)せば、数世の患い』(左伝僖公三十三年)とか。瀕死の敵を捨て置いて再挙の機会を与える者がどこにいる。それに、そもそも〔国家の心配の種を除くのは、〕臣下として当然の務めである。以上の理由を以て、私は諸君の意見を却下する。これ以上止めだてするなら、諸君といえども斬って捨てるぞ!」
 かくて討伐を続行した。獠甘はこれを聞くと兵を率いて再び寧に攻めかかった。寧はこれを大破し、獠甘を生け捕りにした。寧はこれを晒し者にしたのち斬首した。また、鞏廉玉も捕らえて都に送った。寧は戦利品に一つも手を付けず、全て将兵に分け与えた。帰還すると、手勢を率いて河陽(略陽隴城、秦州の北)を守備するよう命じられた。涼州の異民族はみなその威恵に服し、寧が河陽に遷った後も慕い続けた《周28史寧伝》

 侯景が〔南道行台・領軍将軍の〕任約もと西魏の将軍。549年〈6〉参照)・〔開府の〕于慶549年〈6〉参照)らに二万の兵を与えて〔長江上流の〕梁の諸藩を攻撃させた《出典不明》

●二人の承制、書簡を交わす
〔皇帝権を代行して夏口に身を置く〕邵陵王綸は〔湘東王繹に攻められている湘州刺史の〕河東王誉字は重孫。武帝の長子の第二子。549年〈6〉参照)を助けようとしたが、兵糧が不足していることからこれを諦め、代わりに繹に書簡を送ってこう言った。
「『天の時、地の利は、人の和に如かず』【孟子公孫丑上】と言うように、〔協和こそがいちばん重要なのである〕。まして、身内が相争うことなど尚更もってのほかである。現在、国家は危殆に瀕し、恥辱を蒙っている。その受けた傷は大きく、痛みは非常に深いものがある【礼記三年問曰く、『傷が大きい者は治るのに日にちがかかり、痛みが甚だしい者は癒えるのに時間がかかる』】。〔今我らは、〕ただ胸を裂けさせながら肝を嘗め、血涙を流しながら戈を枕にし、〔国家の危難を救い、恥辱を雪ぐことに専念すべきであって、〕その他のつまらぬ怨みごとは大目に見て捨て去るべきである。古今を通じ、外敵を除かない内に身内同士で争って、滅ばなかった例しは無い。そもそも戦いというのはただ勝利だけが求められるものであるが、身内同士で行なわれる戦いでは、勝てば勝つほど非難を受け、勝っても勲功とならず、負ければ当然犠牲が出るわけで、〔どちらにしろ、〕兵をいたずらに疲れさせ、非道の名を得るだけで、失うものが多い。侯景の軍が江外(長江上流)にまだ侵攻していないのは、藩屏の軍が強大で守りが強固だからである。弟(湘東王繹のこと。綸は武帝の第六子で、繹は第七子)が洞庭(湘州)を陥としても、戦いは終わらず、今度は自分の番と身の危険を感じた雍州(岳陽王詧)が、魏軍という新たな外敵を我が国に引き入れる結果になるだけである。〔藩屏の中心である〕弟が不安定になるようなことがあれば、国家は滅ぶ。湘州の包囲を解き、〔諸藩が一致協力することだけが、〕国家を生き残らせる唯一の方法である。」
 繹は返書を送り、誉の罪が大きく、とても容赦できぬことを述べると共に、こう言った。
「詧が楊忠を引き入れて侵攻してきても、私は魯仲連(戦国斉の弁舌家)が弁舌を以て秦の大軍を退けたように、容易に撃破するでありましょう。どちら(誉と?)が是か非かは分かりきったことでありますので、多くは述べません。臨湘(湘州)が陥ちたら、直ちに侯景を討伐しに東に赴くつもりです。」(出典不明
 綸は返書を読むと机に投げ捨て(出典不明)、悲憤の涙を流して言った。
「天下の趨勢は決まった! 湘州が敗れれば、私が滅ばされるのも時間の問題だ!(出典不明)」《梁29邵陵携王綸伝》

●広陵の虐殺

 侯景が歩兵一万を率いて陸から、〔中軍都督の〕侯子鑑が水軍八千を率いて水上から、広陵を三日に渡って攻めた。
 癸未(2月3日)、広陵が陥ちた。景は祖皓を捕らえると、これを〔木の柱に〕縛りつけて全身に矢を射かけさせ、次いで車裂きの刑に処して見せしめとした。また、来嶷も捕らえて、その兄弟子姪十六人と共に殺害した。また、城内の人民も、老いも若きもみな地に〔半身を〕埋めて〔身動きを取れなくさせたのち、〕騎射の的にして殺した【考異曰く、太清紀には『城中数百人』とあり、典略には『死者八千人』とある。今は南史(南72祖皓伝)の記述に従った】。景は子鑑を南兗州刺史(梁56侯景伝では『監南兗州事』)とし、広陵を守備させたのち《梁56侯景伝》、建康に帰還した。

 この時、兼中書舍人の姚僧垣侯子鑑が広陵の鎮守を任されると、これに随行して江北に到った。

○資治通鑑
 侯景遣侯子鑒帥舟師八千,自帥徒兵一萬【徒兵,步兵也】,攻廣陵,三日,克之,執祖皓,縛而射之,箭徧體,然後車裂以徇;城中無少長皆埋之於地,馳馬射而殺之【《考異》曰:《太清紀》曰:「城中數百人」,《典略》曰:「死者八千人」,今從《南史》】。以子鑒為南兗州刺史,鎭廣陵【廣陵之人旣殲矣,子鑒所鎭者空城耳】。景還建康。
○梁簡文紀
 二月癸未,景攻陷廣陵,皓等並見害。
○周47姚僧垣伝
 子鑒尋鎮廣陵,僧垣又隨至江北。
○南72祖皓伝
 馳檄遠近,將討景。景大懼,即日率侯子鑒等攻之。城陷,皓見執,被縛射之,箭遍體,然後車裂以徇。城中無少長,皆埋而射之。
○南72来嶷伝
 及皓敗,幷兄弟子姪遇害者十六人。子法敏逃免,仕陳為海陵令。

●戒厳令解かれる
 丙戌(6日)安陸王大春字は仁経。簡文帝の第六子。去年の7月15日に呉州刺史とされていた)を東揚州(会稽)刺史とした。
 また、呉州を廃して呉郡に戻した(去年の7月15日に置かれていた)。
 また、詔を下させて言った。
「近来、江東の地に擾乱が起き、賊徒どもがはびこっていたが、上宰(侯景)が智謀をめぐらし、猛士たちが勇を奮ってくれたおかげで、呉・会(会稽)の地は静粛となり、済(済陰〈鍾離の東〉? もしくは斉郡〈建康の北〉の誤り?)・兗(広陵)の地は静謐となり、京師(建康)や畿内の地から戦いが無くなった。朝廷の高官たちや近臣たち(原文『齋內左右』)は戒厳令を解除するように。」

 庚寅(10日)、東魏が尚書令の高隆之字は延興。高歓の義弟。四貴の一人。549年〈6〉参照)を太保とした《魏孝静紀》

 乙巳(25日)侯景が尚書僕射の王克549年〈2〉参照)を左僕射とした。
 梁の宣城(建康の南)内史の楊白華北魏の名将楊大眼の子。549年〈4〉参照)が安呉県(宣城の西南)を占拠した。侯景の部将の于子悦549年〈4〉参照)がこれを攻撃したが勝てなかった。

 東魏の東徐州刺史・淮南経略使(通鑑では『行台』)の辛術字は懐哲)が侯景の陽平(建康の北。台城陥落後に侯景に降伏していた。北滄州。549年〈3〉参照)を包囲したが、陥とせなかった。

○資治通鑑
 宣城內史楊白華進據安吳【孫吳立安吳縣,屬宣城郡;隋省安吳入涇縣】,侯景遣于子悅帥衆攻之,不克。東魏行臺辛術將兵入寇,圍陽平,不克。
○梁簡文紀
 丙戌,以安陸王大春為東揚州刺史。省吳州,如先為郡。詔曰:「近東垂擾亂,江陽縱逸。上宰運謀,猛士雄奮,吳、會肅清,濟、兗澄謐,京師畿內,無事戎衣。朝廷達官,齋內左右,並可解嚴。」乙巳,以尚書僕射王克為左僕射。
○南72祖皓伝
 結東魏為援。

●僭上の沙汰
 侯景が簡文帝の娘の溧陽公主を娶り、非常に寵愛した《梁簡文紀》
 3月、甲申(? 壬子〈3日〉?)、景が簡文帝に楽遊苑【玄武湖の南にある】にて禊宴(三月三日に行なう厄払いの宴会)を開くよう求め、帳幕の中で三日間酒を飲んで楽しんだ。景の部下たちはみな妻子を連れてこれに参加した。景は皇太子(大器)以下全員に騎射をするよう命じ、良く的に射当てた者には金銭を褒美として与えた。翌日(2日目?)の早朝、帝は皇宮に帰った。景は拝伏して留まるよう懇請したが、聞き入れられなかった。帝がその場を離れると、景はすぐに溧陽公主と共に御牀(皇帝用の座具・寝具)に南面して座り、正面の東西に文武百官を列座させて宴に同席させた《梁56侯景伝》

 庚申(11日)、東魏が丞相・斉郡王の高洋を斉王とした(1月17日に斉郡王とされていた《魏孝静紀》

●侯瑱の登場
〔梁の江州刺史の尋陽王大心字は仁恕。簡文帝の第二子。549年〈6〉参照)の部下の〕臨川内史で、始興の人の王毅らが豫章に拠る荘鉄大心に叛旗を翻したが、敗れて逆に豫章に追い詰められていた。549年〈6〉10月15日参照)を攻めたが、鄱陽王範字は世儀。合州刺史だったが西方に退避し、尋陽王大心から湓城を譲られていた。549年〈6〉参照)が救援として送ってきた巴西の人の侯瑱に敗れ戦死した(梁44尋陽王大心伝には『荘鉄が韋約に攻められると、鄱陽王範は侯瑱に精兵五千を与えてこれを救わせた。瑱は韋約らの軍営に夜襲を行なってこれを撃破した。大心は約らの敗北を聞くと仰天し、以降、二藩(鄱陽王範と尋陽王大心)は決裂し、人心は離れた』とある《出典不明》

 侯瑱は字を伯玉といい、巴西充国の人で、先祖は代々西蜀の酋豪(部落の酋長)だった。父は侯弘遠といい、当時益州刺史だった鄱陽王範に白崖山にて叛徒一万を率いる蜀賊の張文萼ガク)を攻めるよう命じられたが、敗れて戦死した。
 瑱は範に復讐の機会をくれるよう強く求めて許されると、常に先陣を切って敵陣を陥とし、遂に仇の文萼を斬って、以降名を知られるようになった。範はそのまま瑱を将軍として用い、山中の夷・獠族で従わぬ者がいれば、常に瑱にその討伐をさせた。戦功を重ねたことで軽車府中兵参軍・晋康太守とされ、範が雍州刺史となると(541年)、超武将軍・馮翊太守とされた。範が合肥に赴任するとこれにも付き従い、侯景が台城を囲むと、鄱陽世子嗣字は長胤。鄱陽王範の子。大兵巨漢で、勇猛果敢であり、兵士の心を良く掴んでいた。荘鉄が大心に攻められると、救援するよう父に嘆願した。549年〈6〉参照)の補佐役としてその救援に赴いた。建康が陥ちると、嗣と共に合肥に還り、範に従って湓城に赴いた《陳9侯瑱伝》

 鄱陽世子嗣が三章(濡須の東)にて任約と戦い、これを敗走させた。嗣は鎮所を三章に遷し、砦の名を安楽柵と名付けた【去年、鄱陽王範が西上(東下)した際、鄱陽世子嗣に安楽柵を守らせた(549年〈5〉参照)が、今、三章の砦にも安楽と名付けたのであった《出典不明》


 550年(2)に続く