[西魏:大統二年 東魏:天平三年 梁:大同二年]

  江子四、梁の政治を批判す

 梁の尚書右丞で済陽考城の人の江子四武帝に封書を奉り、忌憚なく国政について意見を述べた。
 5月、癸卯(3日)、帝はその内容を褒め称え、詔を下してこう答えた。
「古人が『屋漏(雨漏り)は〔屋根の〕上にて在るも、これを知るは〔屋根の〕下に在り』(後漢の王充が『論衡』答佞にて述べた言葉)と言ったように、朕に過失があっても、なかなか自分で気づくことはできぬ。尚書は江子四らが封書で批判したことについてよく調査し、民に害を与えているような事実があれば、すぐさま詳しく伝えるがよい!」[1]
 尚書左民侍郎の沈炯字は礼明)と少府丞の顧璵が以前に上奏文を握りつぶしていた事が明らかになると、帝は血相を変えて二人を責め立てた。そこで子四が帝の前に走り出、炯らに代わって応対し、〔帝の政治を〕舌鋒鋭く〔糾弾すると〕、帝は怒って人に子四を縛りあげるよう命じた。しかし子四が床に這いつくばって抵抗すると、帝は怒りを解いて子四を釈放したが、免職処分にはした。

 子四は西晋の散騎常侍の江統の七世孫である。父は奉朝請の江法成、兄は江子一字は元貞)。叔母の夫に朱异がいる。
 官職を歴任したのち尚書金部郎とされ、大同元年(535)に右丞とされた。兄弟ともに剛烈な性格で知られた。
 子一は幼い頃から学問を好み、志操堅固だった。幼い頃家が貧しく食事を存分に摂れなかったが、〔のちに出世しても食事を変えることなく、〕終生粗食で通した。出仕して王国侍郎・奉朝請とされた。のち武帝に秘閣(宮中の書庫)の書物の閲覧を申し出て許可され、華林省に宿直することを許された。姑(叔母)の夫で右衛将軍の朱异异が右衛将軍とされたのは大同四年〈538〉)が権勢を得ると、休日はその門前に訪問客がごった返したが、子一は一度も异の家に行くことは無かった。その高潔さは万事このようだった。のち次第に昇進して尚書儀曹郎となり、のち出向して遂昌・曲阿令とされると、どちらでも立派な政績を挙げた。のち通直散騎侍郎とされた。

 また、もと北魏の梁州刺史の元羅去年11月に梁に降っていたを征北大将軍・青冀二州刺史とし、東郡王(北史では『南郡王』)に封じた。

 戊辰(28日)、東魏の大尉・広平公の高盛が逝去した。仮黄鉞・太尉・太師・録尚書事を追贈した。

○魏孝静紀
 戊辰,太尉高盛薨。
○梁・南史梁武帝紀
 先是,尚書右丞江子四上封事,極言政治得失。五月癸卯,詔曰:「古人有言,屋漏在上,知之在下。朕所鍾過,不能自覺。江子四等封事如上,尚書可時加檢括,於民有蠹患者,便即勒停,宜速詳啟,勿致淹緩。」乙巳,以魏前梁州刺史元羅為征北大將軍、青冀二州刺史〔,封東郡王〕。
○北斉14広平公盛伝
 天平三年,薨於位。贈假黃鉞,太尉、太師、錄尚書事。
○北16元羅伝
 孝靜初,梁遣將圍逼,羅以州降,封南郡王。
○梁43江子四伝
〔江子一字元貞,濟陽考城人,晉散騎常侍統之七世孫也。父法成,天監中奉朝請。…〕弟子四,歷尚書金部郎,大同初,遷右丞。兄弟性並剛烈。 子四自右丞上封事,極言得失,高祖甚善之,詔尚書詳擇施行焉。左民郎沈炯、少府丞顧璵嘗奏事不允,高祖厲色呵責之,子四乃趨前代炯等對,言甚激切,高祖怒呼縛之,子四據地不受,高祖怒亦止,乃釋之,猶坐免職。

 ⑴武帝…蕭衍。梁の初代皇帝。生年464、時に73歳。博学多才で、弓馬の扱いにも長けた。南斉の時に雍州刺史として襄陽を守っていたが、500年に叛乱を起こして建康を陥とし、502年に梁を建国した。以後長きに亘って江南に平和をもたらした。
 [1]江子四が武帝に封書で述べたことに、帝が仏教に入れ込んでいること、広範に兵を起こして民を苦しめていること、法を用いるに権臣や貴族には緩く、貧しい者に苛烈であることは、恐らく必ず触れていなかったであろう。これらに明確に抵触しないような、至極細かいことに批評を加えただけだったのではないかと思われる。
 ⑵朱异…字は彦和。生年483、時に54歳。寒門の出身。読書家で、読み書き計算はもちろん博奕など雑芸にも通じた。梁の武帝に気に入られて兼中書通事舍人とされ、宰相の周捨が亡くなると(524年)その代わりとなり、類稀な事務処理能力を示した。
 ⑶元羅…本名は羅剎。字は仲綱。北魏の江陽王継の子で、権臣の元叉の弟。質素で、父や兄が栄達したのちも謙虚だったため名士から称賛を受けた。青州刺史や尚書右僕射を務め、孝武帝の時(532~534)に尚書令→梁州刺史とされた。535年に梁の侵攻を受けると州城と共に降伏した。
 ⑷高盛…高歓の従叔祖。寛大で温厚な性格。歓が信都にて挙兵した時に中軍大都督・広平郡公とされた。532年に北道行台尚書僕射、534年に司徒、535年に太尉とされた。

  万俟普撥出奔

 この月、西魏の司空の越勒肱が逝去した。
 また、西魏の秦州(天水)刺史・建忠王の万俟普撥が、子で太宰の万俟受洛干寿楽干、豳州(安定の東南百五十里)刺史の叱干宝楽、右衛将軍の破六韓常や督将三百余人と共に東魏に出奔した[1]。丞相の宇文泰は自ら軽騎を率いてこれを追い、河の北[2]千余里にまで到ったが、捕捉することができずに引き返した[3]⑹

 6月、辛巳(12日)、東魏の〔大司馬の〕趙郡王諶が薨去した。仮黄鉞・侍中・都督・冀州刺史を追贈し、孝懿と諡した。
 この夏、洛陽から鄴への遷民に四十日間穀物を支給した。
 秋、7月、庚子(1日)、東魏が大赦を行なった。
 また、梁の夏州刺史の田独鞞・潁川防城都督の劉鸞慶が州と共に東魏に降った。

○魏孝静紀
 六月辛巳,趙郡王諶薨。秋七月庚子,大赦天下。蕭衍夏州刺史田獨鞞、潁川防城都督劉鸞慶並以州內附。

○魏食貨志
 三年夏,又賑遷民稟各四十日。

○周文帝紀
 夏五月,秦州刺史、建中王万俟普撥率所部叛入東魏。太祖勒輕騎追之,至河北千餘里,不及而還。
○北斉神武紀
 六月甲午,普撥與其子太宰受洛干、豳州刺史叱干寶樂、右衞將軍破六韓常及督將三百餘人擁部來降。
○北史西魏文帝紀
 夏五月,司空越勒肱薨。秦州刺史、建忠王万俟普撥及其子太宰壽樂干率所部奔東魏。
○魏21趙郡王諶伝
 三年薨,贈假黃鉞、侍中、都督、冀州刺史,諡曰孝懿。

 ⑴越勒肱…もと開府儀同三司。去年の7月に司空とされた。
 ⑵万俟普撥…匈奴の別種の出。勇猛果断だった。破六韓抜陵が叛乱を起こすとこれに加わり、太尉とされた。のち部下と共に北魏に降り、後将軍・第二領民酋長とされた。のち鎮北将軍・大都督・秦州刺史・清水郡公とされ、533年、儀同三司とされた。宇文泰が侯莫陳悦を攻めた際には泰に付いてこれを支援した。西魏が建国されると司空(?)・秦州刺史とされ、覆靺城を鎮守した。
 ⑶万俟受洛干…豪気な性格で騎射に優れた。初め破六韓抜陵の乱に加わったが、のち父と共に北魏に帰順し顕武将軍とされた。のち爾朱栄に従って戦功を立て、汾州刺史・驃騎将軍とされた。のち撫軍将軍・霊州刺史とされ、高歓の側に立って爾朱天光と対立した。西魏が建国されると尚書左僕射→司空→司徒とされ、今年の3月、太宰とされた。
 ⑷破六韓常…字は保年。匈奴単于の末裔。代々領民酋長を務めた家の出。父の孔雀は破六韓抜陵の大都督・司徒・平南王→北魏(爾朱栄)の平北将軍・第一領民酋長・永安県公。冷静・聡明で度胸・知略があり、騎射に優れ、平西将軍とされた。爾朱栄が死ぬと河西の地に帰り、高歓が挙兵すると附化太守とされた。
 [1]阿至羅部の兵が近くに迫っていたため、普撥らは出奔したのである。
 ⑸宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。生年507、時に30歳。匈奴宇文部(鮮卑化)の出。八尺の長身で、額は角ばって広く、ひげ美しく、髪は地にまで届き、手は膝まで届いたとされる。武川鎮に生まれた。母は王氏。末っ子として気ままに暮らし、度量が大きかった。破六汗抜陵→鮮于修礼→葛栄→爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍して行原州事とされた。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。のち関西大行台とされ、孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを受け入れて西魏を建国し、柱国大将軍・丞相・安定郡公とされた。
 [2]河の北…龍門西河の北のことである。
 [3]北斉神武紀では6月甲午(25日)としている。今は周文帝紀・北史魏紀の記述に従う。
 ⑹西魏を出奔したのが5月で、東魏に着いたのが6月なのかもしれない。
 ⑺趙郡王諶…字は興伯。趙郡王幹の子、趙郡王謐の兄。温和な性格。黄門侍郎→相州刺史→都官尚書とされ、孝荘帝が即位すると尚書左僕射・魏郡王とされ、530年に趙郡王に改められた。531年に司空、532年に太保・司州牧、533年に太尉→太師、録尚書事とされた。東魏が建国されると(534年)、大司馬とされた。

  賀抜勝の北還


 これより前(534年8月頃)、北魏の南道大行台・荊州刺史の賀抜勝、南郢州刺史の史寧盧柔らは侯景の攻撃を避けて梁に亡命していた。武帝は彼らを非常に手厚くもてなしていた。
 帝は建康の表氏県が本貫の史寧を連れ、香磴(『北史』では香蹬〈寺院の高僧が説法をする時に座る高椅子〉)の前に到ったところでこう言った。
「卿は姿形が立派で、いずれ富貴の身分となるべき人物である。朕は卿に故郷へ錦を飾らせようと考えているのだが、どうであろうか。」
 寧は答えて言った。
「臣は代々魏朝に大恩を蒙り、自らも将軍とされた身でありますので、天下に動乱が続き、国家が滅亡の危機に瀕しましても、逆賊(高歓)に仕えることは頑として受け入れられず、有道のお方(武帝)のお許しを得たのをさいわい、この地に肩を預けに来たのです。今もし、そのお言葉通りにしてくださるなら、臣は大変嬉しくは思うのです。しかし…。」
 寧がそう言って涙を溢れさせると、帝はその忠心に感じ入り、これ以上誘いをかけるのをやめた。
 一方、勝は何度も帝に兵を率いて高歓を討ちたいと求めていたが、その都度断られていた。そこで勝は次第に関中に帰参することを考えるようになった。このことを史寧(533年参照)に相談すると、寧はこう言った。
朱异武帝の寵臣)の言うことならば、梁主も必ず聞き入れます。异のご機嫌を取り、彼の口から北還を切り出させるのがよろしいと思います。」
 勝がこれに頷くと、寧は异に会い、彼の興味を惹くような話をしつつ(原文『申以投分之言』)、さりげなく北に還りたいという意志をほのめかした。その語り口の風雅さに、异は感傷的になってこう言った。
「望郷の念というのは抑え難いものです。私は今より陛下に上奏し、卿の願いを必ず叶えてみせましょう。」
 すると、果たして間もなく勝や寧・盧柔らはみな北還を許された(周32盧柔伝では『勝が頻りに北還を求めて上表すると、帝は文章の美しさを褒め称えた。のち盧柔の書いたものと知ると、中書舎人を派遣してこれを労うとともに、固織りの平織りの絹を下賜した』とある。史寧伝ではこの計画は密かにされており、齟齬がある。もしかすると、この頻りの上表の後に朱异への工作があったのかもしれない)。北還の日、帝は自ら南苑にてこれを餞別した。勝はこれまでの帝の恩義を思い、以降、狩りの際に南へ行く鳥獸を射なくなった《周28史寧伝》
 勝らが襄陽(『資治通鑑』では襄城)に着くと、歓はその関中入りを危惧し、侯景に軽騎を率いて迎え撃つように命じた。勝らはその襲撃を恐れて船を棄て、僅かな食糧を手に険しい山道を行くことにしたが、時に秋の霜降る季節であったので、百里を行く内に従者(徒侶)の大半が飢えや凍えによって死んでしまった。盧柔は豊陽郡に入ったところで道に迷い、一人倒木の下で一夜を明かしたが、それでも衣服が冷たい雨に濡れてほとんど凍死しかけた《周32盧柔伝》
 勝は寧らを連れて長安に辿り着くと、文帝に対し、力及ばず西遷させてしまったことを謝罪した。すると文帝は勝の手を握り、しばらくむせび泣いたのちにこう言った。
「漢の初平の西徙(後漢の献帝が董卓によって長安に遷されたこと)や、晋の永嘉の南渡(西晋が劉聡によって長江の南に逐われたこと)から分かるように、天子が都を落ちるのは天によるものなのだ。公のせいではない。」《北49賀抜勝伝》
 史寧は武平県伯から侯に進封された《周28史寧伝》
 また、盧柔は泰に才能を評価されて容城県男・従事中郎とされ、蘇綽と共に機密の事を司ることとなった《周32盧柔伝》

 賀抜勝は関中に到った当初、年齢や官位が泰よりも上だったため(勝は太保・録尚書事)、泰と会っても拝礼をしなかった。しかし間もなく勝はこれを後悔し、やり直す機会を日々伺うようになった。泰もその機会を探っていた。
 ある日、泰は昆明池にて宴を催した。そのとき二羽の鴨が池の上に遊んだ。それを見て泰は勝に弓矢一式を与えてこう言った。
「公が弓を射るところを長らく見ていない。どうかここであの鴨を射て、場に興を添えていただきたい。」(勝は弓に巧みで、馬に乗りながら飛鳥を射ても、十発中五・六発を当てることができた
 勝はこれを受け取ると、たった一矢で二羽の鴨を串刺しにしてみせた。それから泰に拝礼をしてこう言った。
「丞相の敵も皆このようにしてみせます。」(原文『「使勝得奉神武、以討不庭、皆如此也。」』
 泰はこれにいたく喜び、以降、日ごとに勝を礼遇するようになった。また、勝も心を尽くしてこれに応えた。

○周14賀抜勝伝
 在江表三年,梁武帝遇之甚厚。勝常乞師北討齊神武,既不果,乃求還。梁武帝許之,親餞於南苑。勝自是之後,每行執弓矢,見鳥獸南向者皆不射之,以申懷德之志也。既至長安,詣闕謝罪。朝廷嘉其還,乃授太師。
○周28史寧伝
 屬魏孝武西遷,東魏遣侯景率眾寇荊州,寧隨勝奔梁。梁武帝引寧至香磴前,謂之曰:「觀卿風表,終至富貴,我當使卿衣錦還鄉。」寧答曰:「臣世荷魏恩,位為列將,天長喪亂,本朝傾覆,不能北面逆賊,幸得息肩有道。儻如明詔,欣幸實多。」因涕泣橫流,梁武為之動容。在梁二年,勝乃與寧密圖歸計。寧曰:「朱异既為梁主所信任,請往見之。」勝然其言。寧乃見异,申以投分之言,微託思歸之意,辭氣雅至。异亦嗟挹,謂寧曰:「桑梓之思,其可忘懷?當為奏聞,必望遂所請耳。」未幾,梁主果許勝等歸。大統二年,寧自梁歸闕,進爵為侯,增邑三百戶。
○周32盧柔伝
 及孝武西遷,東魏遣侯景襲穰,勝敗,遂南奔梁。柔亦從之。勝頻表梁求歸,武帝覽表,嘉其辭彩。既知柔所製,因遣舍人勞問,并遺縑錦。後與勝俱還,行至襄陽,齊神武懼勝西入,遣侯景以輕騎邀之。勝及柔懼,乃棄船山行,贏糧冒險,經數百里。時屬秋霖,徒侶凍餒,死者太半。至豐陽界,柔迷失道,獨宿僵木之下,寒雨衣濕,殆至於死。大統二年,至長安。封容城縣男,邑二百戶。太祖重其才,引為行臺郎中,加平東將軍,除從事中郎,與蘇綽對掌機密。

 ⑴賀抜勝…字は破胡。祖父の代に武川鎮に移住した。故・関西大行台の賀抜岳の兄。志操があり、騎射に優れた。六鎮の乱が起こると懐朔鎮の守備に就き、のち北魏の本隊のもとで奮戦を続けた。のち爾朱栄に仕え、栄の入洛の際には井陘を守り、葛栄との戦いの際には上党王天穆の軍の前鋒大都督を務めた。韓楼が薊城に割拠して抵抗すると、中山を守って南下を許さなかった。元顥が入洛すると前軍大都督とされて顥軍の大破に貢献した。栄が誅殺されると孝荘帝に付き、東征都督とされて爾朱仲遠の討伐に赴いたが、敗れて降伏した。のち韓陵の戦いの際に高歓に寝返り、爾朱氏大敗のきっかけを作った。のち南道大行台・荊州刺史とされ、梁に侵攻して武帝に「北間の驍将」と評された。534年、孝武帝が歓と戦うと助けに来るよう命ぜられたが行かず、間もなく侯景の攻撃を受けて敗れ、梁に亡命した。
 ⑵史寧…字は永和。祖先は建康の人だったが、のち北涼に仕え、北涼が北魏に滅ぼされると撫冥鎮に移住させられた。父の代に六鎮の乱が起こると恒州→洛陽に移った。若くして軍功を立てて別将→都督とされ、宿衛(宮中警固)の任に当たった。賀抜勝が荊州刺史とされるとその軍司とされ、戦功を立てて南郢州刺史とされた。勝が大行台とされると大都督とされた。のち勝と共に梁に亡命した。
 ⑶盧柔…字は子剛。名門の范陽盧氏の出。父は北魏の驃騎府法曹参軍。若年の頃に親を亡くし、叔母に引き取られて育てられた。叔母は柔を自分の子供のように育て、柔も叔母を自分の親のように思って接した。聡明で学問を好み、成人前に優れた文才を有したが、吃音だったため弁論は苦手とした。また、人に批判されるくらい酒好きだった。北魏の臨淮王彧に才能を認められ、その娘婿となった。賀抜勝が荊州刺史とされると大行台郎中・掌書記とされた。勝が太保とされると掾とされた。孝武帝が高歓と対決するために勝を呼ぶと、三策を進言し、応じることを上策としたが聞き入れられなかった。のち勝と共に梁に亡命した。

┃山西に大飢饉起こる

 8月、東魏の并・肆・汾・建四州(食貨志では『この年の秋に并・肆・汾・建・晋・泰〈天平元年(534)に蒲坂に置かれた〉・陜〈天平元年に恒農陜城に置かれた〉・東雍〈天平元年に邵郡に置かれた〉・南汾〈定陽に置かれた〉九州にて霜・旱の害があった』としている)で霜害があり、大飢饉が起こって流民が発生した

 9月、壬寅(4日)、東魏が定州刺史の侯景を兼尚書右僕射・南道行台とし、梁討伐の指揮をさせた。

○魏孝静紀
 八月,并、肆、汾、建四州隕霜,大飢。九月壬寅,以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,節度諸軍南討。
○魏天象志
 三年,并、肆、汾、建諸州霜儉。
○魏食貨志
 其年秋,并、肆、汾、建、晉、泰、陝、東雍、南汾九州霜旱,民飢流散。

 ⑴535~6年頃にインドネシアのクラカタウで大噴火が起きているので、その影響なのかもしれない。


┃路季礼の乱
 丙辰(18日)、陽平郡(司州にある郡)民の路季礼路氏は陽平の大族)が徒党を集めて叛した。
 辛酉(23日)、東魏の御史中尉の竇泰がこれを平定した。

 この月、西魏が扶風王孚を司徒に、斛斯椿を太傅とした《北史西魏文帝紀》

 この秋、東魏の揚州(治所 陳郡)刺史の蔡俊もと済州刺史。孝武帝の決起の際に抵抗した)が逝去した(享年42)。威武と諡された《北斉19蔡俊伝》

○魏孝静紀
 丙辰,陽平人路季禮聚眾反。辛酉,御史中尉竇泰討平之。

●東魏と梁、刃を交える

 冬、10月、乙亥(8日)、梁が大挙東魏討伐の軍を起こした。
 この月侯景が七万の兵(梁32陳慶之伝)を以て梁の楚州(治 楚王城、東魏の豫州と梁の北司州の間)を攻め、刺史の桓和兄弟を虜とした(孝静紀では11月《魏98蕭衍伝》。景は更に淮水のほとりにまで進軍し、南・北司二州刺史の陳慶之に投降を勧告する使者を送った。武帝は湘潭侯退武帝の弟の鄱陽王恢の子)と右衛将軍・豫州刺史の夏侯夔らに救援に赴かせたが、彼らが黎漿に到った頃には、既に慶之は景を撃破してしまっていた。このとき大雪が降り積もっていたため、景は輜重を棄てて退却し、慶之はそれを得て帰還した。慶之はこの功により将軍号を仁威将軍に進められた《梁32陳慶之伝》

○梁32陳慶之伝
 大同二年,魏遣將侯景率眾七萬寇楚州,刺史桓和陷沒,景仍進軍淮上,貽慶之書使降。敕遣湘潭侯退、右衞夏侯夔等赴援,軍至黎漿,慶之已擊破景。時大寒雪,景棄輜重走,慶之收之以歸。進號仁威將軍。

┃黄塵と埋葬
 11月、梁にて黄塵が雪のように降り、これをかき集めてみるとすぐ両手いっぱいになった(クラカタウの大噴火の影響?)。
 己亥(2日)、梁が東魏討伐軍を引き返させた。

 戊申(11日)、東魏の孝静帝が尚書に命じて河北の流民(并・肆・汾・建四州〈もしくは九州〉から発生した流民?)の実態を調査させ、邢陘・滏口を経由する道(山西から山東に行こうとした?)に倒れている死体があれば、そのままにせず埋葬させた。

 辛亥(14日)、建康にて地震が発生し(クラカタウ再び噴火?)、地面に長さ二尺の白毛(火山毛?)が生えた。

 この月、西魏が始祖の神元皇帝を太祖とし、太祖の道武皇帝を烈祖とした《北史西魏文帝紀》

 12月、東魏が并州刺史の尉景妻は歓の姉)を太保とした《魏孝静紀》
 壬申(6日)、梁に使者を送って和平を結んだ《梁武帝紀》
 この日、東魏の大司馬の清河文宣王亶孝静帝の父)が逝去した。

○魏孝静紀
 冬十有一月戊申,詔尚書可遣使巡檢河北流移飢人,邢陘、滏口所經之處,若有死屍,即為藏掩。勿使靈臺枯骨,有感於通夢;廣漢露骸,時聞於夜哭。
○梁・南史梁武帝紀
 十一月〔,雨黃塵如雪,攬之盈掬。〕己亥,詔北伐(侵)眾班師。辛亥,京師(都下)地震〔,生白毛,長二尺〕。

●高歓、西魏討伐の軍を起こす

 丁丑(11日)高歓が西魏討伐の軍を起こして晋陽を発ち、蒲坂津にまで軍を進めた。また、兼僕射行台の汝陽王暹と司徒・西南道大都督(北斉21高昂伝)の高敖曹を上洛に、車騎大将軍・侍中・兼御史中尉・京畿大都督の竇泰を潼関に赴かせた。
 癸未(17日)咸陽王坦を太師とした。

○魏孝静紀
 丁丑,齊獻武王自晉陽西討,次於蒲津,司徒公、大都督高敖曹趨上洛,車騎大將軍竇泰入自潼關。癸未,以太傅、咸陽王坦為太師。乙酉,勿吉國遣使朝貢。是歲,高麗國遣使朝貢。
○北斉神武紀
 十二月丁丑,神武自晉陽西討,遣兼僕射行臺汝陽王暹、司徒高昂等趣上洛,大都督竇泰入自潼關。

●関中に大飢饉起こる
 この年、西魏の関中にて大飢饉が起こり、人間同士が食らい合い、十人の内七・八人が飢え死にする惨状を呈した(クラカタウの大噴火の影響?)。
 朝廷は兵糧に不足を来したため、民間から食糧を徴発してこれに充てたが、隠匿する者がいたので密告を奨励した。その結果多くの者が鞭打たれたため、人々はこれを恐れてあちこちに逃散した。しかし、ただ華州だけは刺史の王羆535年〈1〉参照)が民に信頼されていたために隠匿するもの無く、結果諸州に比べて多くの食糧が徴発されることになったが、それでも州民に恨み言を言う者はいなかった。

 また、梁の豫州にも飢饉が起こったが、陳慶之が倉を開いて食糧を分け与えたため、大半の州民が生を全うすることができた梁32陳慶之伝

 この年、梁の侍中・大尉・領軍師将軍の元法僧525年、徐州と共に梁に降った。536年〈1〉参照)が亡くなった(享年83)。

○北史西魏文帝紀
 是歲,關中大飢,人相食,死者十七八。
○周18王羆伝
 時關中大饑,徵稅民間穀食,以供軍費。或隱匿者,令遞相告,多被篣棰,以是人有逃散。唯羆信著於人,莫有隱者,得粟不少諸州,而無怨讟。
○梁32陳慶之伝
 是歲,豫州饑,慶之開倉賑給,多所全濟。州民李昇等八百人表請樹碑頌德,詔許焉。